【完結】片腕の聖女

月森冬夜

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6.邪神召喚

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 不穏な空気が森を包んでいた。
 森はいつも不穏な場所であるが、それにはだいぶ慣れたつもりでいた。しかし、今回はふだんとはくらべものにならないほど、体感したことのないような恐怖をおぼえた。
 ココは冬でもないのに寒気を感じて肩を抱いた。全身が総毛立っている。
 なにかがいる。
 とてつもなく邪悪な気配を感じる。
 これほどの威圧感はウガイの森に来て一度も感じたことがなかった。
 なにがいるのか。
 真っ先に思い浮かぶのは、ここへ来るときに若い役人が言っていた魔物のことだった。
 おそろしいが、どんな危険があるのか確認しておかねばならない。
 森の中では視界が悪い。ココは川のほうへ向かった。



 ナタ・デ・ココがウガイの森で暮らすようになって、六年が経っていた。
 二十歳になるが、あいかわらず身長は伸びていない。髪や爪は伸びるが、身体は成長しない。白い髪や紅い瞳の色もそのままだった。
 そのあいだ世の中がどう動いていたのかまったくわからない。森の中は世間から隔離され、時間が止まっているかのようだった。
 霊力は徐々に回復していた。
 過去にはヴァンバルシア王国全土に聖霊防壁を張りめぐらせたこともあったが、この森にきたときには住居のまわりを囲うので精一杯だった。ただ、獣から身を守るためには寝ているあいだも防壁を張っておかなければならない。そういった霊力をつかう細やかな技術は日々巧みになっていった。
 魔法のように霊力で火を起こすこともできるようになった。小さな火だが、毎回火打石で起こすよりは楽だった。
 霊力で巨大な壁を具現化できるのだからほかのこともできないかといろいろ試した。いまでは軽い怪我くらいなら治すことができる。
 霊力だけに頼らず、工作道具で弓と矢を作って小動物を捕ったりもした。森では小動物は愛でるものではなく食べるものだと思い知った。
 ブッシュ・ド・ノエルのコンテナには針と糸も入っていたので釣竿も作った。釣りはわりと楽しいと感じた。しかし、釣れたときだけである。食料調達は死活問題なので、なにも釣れなかったときは「一日を無駄にした」とがっかりした。だだ、それも最初のうちだけで、もともと魚が豊富なこともあり、だんだんと釣果は増えていった。
 昼間は飲食の確保と小屋の修理をし、夜は霊力の回復とそれをつかった修行をする。ずっとそんな日々だった。
 ときどき朽ちかけた桟橋に荷物が置いてあった。木の箱の隅にうずまきのマークがある。ノエルがだれかに頼んで届けているのだ。手紙などは入っていない。送り主がばれるとまずいのかもしれない。ココが荷物を回収しているので、生きていることは伝わっているはずだと思った。
 六年間、話し相手すらいない。絶望や孤独にはなんとか慣れてきたが、逆に完全に退しりぞけることは不可能だということも確信した。



 川に出たとき、耳をつんざくようなけたたましい鳴き声が響いた。
 悲鳴とも怒号ともつかない怨詛えんそに満ちた叫び声が、大気と森中の木々と川の水をビリビリと震わせた。
 ココは思わず耳をふさいでしゃがみこんだ。
 そのあまりの大音量のせいだけではない。奇怪な鳴き声は聞いているだけで激しい怖気に襲われ、気が狂いそうになるのだ。
 遠くで大勢の人間の声がする。顔を上げると大きな船が一隻、それを取り巻くように小型の船が四艘、川に浮いていた。そのうちの二艘は転覆していた。
 こんなにたくさんの人間を見るのはひさしぶりだった。
 桟橋のある川は支流なので、貿易で行き交う船を見ることなどなかったのだ。
 だれの顔も上を向いていた。
 ココもかれらの視線を追って空を見上げた、
 いまにも雨が降ってきそうなどんよりと淀んだ空を背景に、長く巨大なものが浮かんでいた。

「龍……!」

 それは十メートルを超える長い胴体とコウモリのような羽、そして禍々しいかぎ爪を持っていた。若い役人が言ったようにマムシを潰したようないびつな頭部をしている。空中で不規則に気味悪く身体をくねらせながら奇怪な雄叫びをあげていた。それが二匹いた。
 龍と呼ぶにはあまりに醜悪な生き物だった。伝説にある龍というものはもっと威厳に満ちていた。いま空中にいるそれは物語の龍からは想像もつかないほど不気味で邪悪なものだった。
 それが一直線になって船に突っ込んでいく。
 体当たりを受けて船が跳ね上がり、波しぶきが舞い、叫び声が響いた。
 兵士の格好をしたものが船上から矢を射かけていたが、効果があるようには見えなかった。
 ココは桟橋に立った。
 すでに二艘が転覆している。急がねばならない。
 彼女は空中に右手を突き出し、効果の見込める呪文を唱えた。

「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ こるゔぁず んがあ・ぐあ なふるたぐん いあ! くとぅぐあ!」

 自分が知るかぎり最大級の危険な呪文だが、迷っている暇はなかった。



 グレッグことエキドナ王国領ウガイ城の城主の息子グレゴリー・ペダンは小型の船の上から矢を放っていた。今年二十二歳、髪は赤く、日に焼けたたくましい体躯をしている。ウガイ城一の力自慢である上にバランス感覚もすぐれていて、魔物の攻撃に大きく波打つ船上でもふらつくことなくしっかりと弓を構えていた。しかし、その人並外れた身体能力をもってしても、上空の長い魔物にダメージをあたえることはできなかった。

「くそっ、化け物め!」

 グレッグは上空の魔物を睨んだ。
 うねうねとくねらせていた長い胴体が、ぎゅん、と伸びた。
 意志はまったく読めないが、さっきとおなじなら突っ込んでくるはずだ。

「また来るぞ! 陛下と殿下をお守りしろ!」

 グレッグは後ろの大きな船のほうへふり向いて叫んだ。
 そのとき、目の端に少女の姿が映った。
 少女は森から突き出た小さな桟橋に立っていた。
 右手のひらを魔物のほうへかざしている。

「だれだ……なにをやっている?」

 グレッグがつぶやいたとき、魔物が巨大な槍となって襲ってきた。
 後方の大きな船に向かっている。
 すでに二艘がやられている、あの突撃を食らえば木造船などひとたまりもない。

「陛下!」

 グレッグは叫ぶことしかできなかった。
 ドン、とひときわ大きく大気が震える。
 船は無事だった。
 突っ込んできた魔物の長い身体は頭と尾を残して消し飛んでいた。
 上空に新たに巨大な火球があらわれていた。それが、魔物の胴体を一瞬で焼き尽くしたのだった。
 さらにもう一匹も焼滅させる。
 グレッグの足は震えていた。
 おぞましい龍のような化け物が放つ狂ったような恐怖にもなんとか耐えていたが、大火球は見ただけで絶望感を感じた。人間の理解力の範疇はんちゅうを超えた怪物だった。

「あの子どもが……やっているのか」

 グレッグは視線をめぐらせ少女を見た。



「生ける炎よ! 相克そうこくするものの眷属けんぞく、忌まわしき狩人をその業火で焼き尽くせ! ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ こるゔぁず んがあ・ぐあ なふるたぐん いあ! くとぅぐあ!」

 ココが詠唱をつづけると、空中にぽつぽつと火球があらわれた。
 長い魔物の攻撃が止まった。
 表情はまるで読めないが、あきらかに動揺していると思えた。
 つづいて、ココが突き出した右手のずっと先に、ドン、と大気を震わせて、これまでのものとはくらべものにならないほど大きな火球が出現した。
 大火球は高速で魔物にぶつかって通り過ぎた。
 魔物の声が森中に響いた。
 聞いたこともない不快な叫び声だが、まちがいなく断末魔の悲鳴だった。
 魔物は焼き尽くされるというより、一瞬で頭と尾の先端を残して消滅していた。
 もどってきた大火球がもう一匹もおなじように頭と尾だけを残して空間ごとえぐりとった。
 落下する魔物の残骸にほかの火球がつぎつぎとぶつかり、川面に落ちる前に跡かたもなくすべて消失していた。
 つぎに大火球が向かったのは呼び出したココだった。

「……クトゥグア」

 ココはまだ右手を突き出したまま、自分が召喚した邪神の名を呼んで、突っ込んでくる大火球を見つめた。
 正視すればそれだけで精神が崩壊すると言われている邪神であるが、彼女はそれを正面から見据えていた。
 大火球が大気を穿うがちながら彼女のかたわらを通り過ぎると、ココの身体は衝撃で後方に吹き飛ばされドボンと川に落ちた。
 邪神は天に昇りながら不快な鳴き声か叫び声のようなものを上げ、空を震えさせたあと、ふっと消えた。
 見渡せば、ほかの火球も見えなくなっていた。



 ココは桟橋によじ登ろうとして自分の右腕が肩口から無くなっていることに気づいた。
 邪神が大きな口を開き、呼び出された駄賃とばかりに通り過ぎざまにバクンとココの腕をむしり取っていったのだった。

「片腕ですめば安いものか……」

 なんとか桟橋に上がったココは、咳き込みながら傷口を押さえてつぶやいた。
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