僕らのプライオリティ

須藤慎弥

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10.君のプライオリティ

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 父の言い草は、まるで捨てられた男の未練がましい嘆きのようだった。

 威圧的な視線と高圧的な言動は、現在なりを潜めている。冬季の存在が緩和剤になっているのは間違いない。

 そんな冬季は、李一と共におとなしく父の話を聞いていた。実母の存在、義母による虐待の理由をどんな気持ちで受け止めたのか、李一は気が気ではなかった。


「……お父さんだって……」


 それまで父の横顔を凝視していた冬季が、じわりと俯いたその時。

 静かに何かを呟いたように聞こえたが、時折強く吹く十二月の山風がそれを邪魔した。


「冬季くん? 何か言いまし……」
「りっくんのお父さんだって、人のこと棚にあげてるじゃないですか!」
「ちょ、冬季くんっ?」


 勢いよく顔を上げたと同時に、冬季は李一の袖口を掴んだまま父に食ってかかった。

 なぜか父に対しまったく物怖じしない冬季の必死の形相に、李一はもちろん父も目を丸くしている。


「ずっと、ずっと、りっくんは我慢してたんですよっ? どうしてお母さんが居ないのって。なんでお父さんは冷たいのって……! りっくんは言わなかっただけで、ずっと我慢してたんです! お父さんは結局、……っ」


 冬季は瞳を潤ませ、感情のままに父の睨みに怯まず応戦していた。

 状況は違えど、同じ寂しさを抱えている冬季には、李一の心を攫うことなど容易いはずだと改めて腑に落ちた。

 一見恵まれた家系であるように見えて、実際は温かさのかけらも無かった。異母兄弟たちとは未だ連絡先さえ知らぬほど他人のような間柄で、唯一血の繋がった実父は冷たいだけでなく憎まれ口しか言わぬ冷徹人間だった。

 そのような境遇で、のびのびと健やかな心が育つはずがない。

 自虐的で卑屈な思いに囚われていた李一は、冬季にだからこそ心の奥底に沈めた弱音を打ち明けた。

 きっと彼なら分かってくれる。笑わないで聞いてくれる。「たったそれだけの事で」などと言い、李一の心にトドメを刺したりはしない──。

 そういう確信があったからこそ、李一は冬季を信じ、次第に惹かれてゆき、離したくないという思いに駆られるまでになったのである。

 まさかこの父に啖呵を切るとは思いもしなかったけれど、ふと冬季の肩を抱き寄せてしまうほどには、自らの事をさておく彼の優しさが李一は嬉しかった。


「なんだ。小生意気な説教は終わりか?」


 腕を組んだ父の視線が、よりキツいものになっている。

 だが冬季は、それでも怯む事なく「まだ終わってません!」と声を張った。


「りっくんのお父さんは、ママのことが好きだったんでしょ! だから〝裏切られた〟って言い方したんですよねっ?」
「……くだらんな」
「今さら強がらなくていいです! 僕もりっくんも、さっきからずーっと違和感を覚えてました! そうだよね、りっくん!」
「えっ」


 突然振り返られ、李一はたじろいだ。

 父が語る間、何度か冬季と目配せしたくらいなのでそこは否定しないが、言葉を用意していなかった李一は頷きすら返せない。

 何しろ冬季が高ぶってしまっていたのだ。


「僕のパパにママを取られて悔しかったんですよねっ? 捨てられたって思いたくないから、裏切られたってことにしてるんですよねっ? お父さんプライド高そうだもん! せっかくのダンディーでカッコいい顔が台無し! いっつもそんなにムスッとしてるんだとしたら、敵ばっか作って大変だったでしょ! 今はそんな時代じゃないのにっ」
「…………」
「…………」


 冬季の〝小生意気な説教〟に、父の瞳が揺らいだ。

 〝ダンディー〟だの〝かっこいい顔〟だの、李一としては聞き逃せない単語が当たり前のように冬季の口から飛び出すと、父も反論する気になれないらしい。

 視線の圧が弱まったことを冬季も感じたのか、はたまた〝小生意気〟な発言を言ったそばから悔やんだのか、彼は小さく「ごめんなさい」と詫び俯いた。


「僕のパパが、ママにふさわしくなかったから……怒ってるんですよね」
「そういうわけではない」
「りっくんに冷たくあたってたっていうのも、ママが僕を叩いたりしてたのと同じ理由だと……僕は思いました」
「口を慎め」
「嫌です」
「なっ……嫌、だと!?」
「冬季くん……っ」


 間髪入れずに首を振った冬季に、父がカッと目を見開いた。それを見た李一は、すかさず冬季を自身の腕の中に避難させる。

 冬季にばかり頼っていてはいけないと、よく分からない使命感が唐突に湧いた。

 こんな機会は二度と無いかもしれない。

 彼にとってもきっと、耳を塞ぎたくなるような話である。にも拘らず、ここまで李一を慮ってもらったのだ。

 二十九年分の思いを本人にぶつけるのは、今しかないと思った。


「すみません。この子が少々興奮気味に生意気を言ったのは、俺からも謝罪します。ですがあなたに対し放った言葉は何一つ間違っていないと、俺も思います」
「李一……お前まで何を……」
「俺は、あなたがどうして俺を憎しみの目で見ていたのか分からず、苦しかった。母を中傷するのみで恋しがらせてくれなかったのは、ツラかった。本当は、ひとりぼっちはとても……寂しかった。あなたが単に俺のことが嫌いだというなら仕方がない。ただ、母への想いがそうさせたというなら俺は……少しだけ、その気持ちを理解することが出来ます」
「詫びたそばから生意気を言うな」
「そういうとこだよ、お父さん!!」
「なっ、何を……っ!?」


 神妙に、というと父には都合のいい表現になるのだろうが、威圧しか感じなかった瞳に確かな狼狽を見た李一は、本人に胸の内を曝け出しただけで積年の思いが昇華されたような気になれた。

 だがここで、またしても冬季と父が一触即発の雰囲気になる。

 大事にしまい込み、おとなしくなったと思っていた冬季が、再び小さな牙で父に噛み付いてしまった。


「僕にはもうパパもママもいないけど、りっくんにはお父さんがいるんです! いきなり仲良しになってください、なんて言わないから、もう強がるのはやめてください! ママが死んでしまって一番泣きたいのはお父さんなんじゃないですか!? 僕とりっくんより長い時間を過ごして、好きになって……本当は奥さんにしたかったくらい大好きだった人なんでしょっ? その人の子どもなんだよ、りっくんは!」
「…………」
「……冬季くん……」
「りっくんのお父さんはもう……来世の分までいっぱい嫌味を言ったんだから、そろそろやめにしてください……。りっくんを傷付けることも、お父さん自身の心を傷付けることも……もう、やめてください……」


 気が付けば、冬季は李一の腕の中からするりと抜け出し、父の方へ歩み寄っていた。

 さすがに触れは出来ないようだが、かなり近い距離で父を見上げ、あの可哀想な涙目で一生懸命に思いを伝えようとしている。

 冬季は、李一ばかりか父の心まで掴みかけていた。

 李一を悲しませた者は許さないとばかりに、共に父を憎もうとしていた子が、だ。

 先ほどから目を見開いては閉じを繰り返していながら、父はほとんど反論も罵倒もせず、冬季の独壇場だったのがその証である。


「── 〝頭に血が上る事〟と〝興奮のメカニズム〟は、相互関係にある」
「……そうですね。ですから俺は、理解できると言いました」


 孫ほど歳の離れた未成年の男子に言われっぱなしだった父が、ふいに李一を捉えた。

 目が合うも、李一はほんの僅かも臆することなく、何のことを言っているのかすぐに悟り返答した。

 父のそばで「め、めかにずむ……」と遠い目をしていた冬季の腕を引き、ぎゅっと抱きしめてさらに父を見返す。

 特に意識はしていなかったが、それが牽制と取られたのか父は不満そうに鼻を鳴らし、二人に背を向けた。


「── フンッ。なぜお前が医師の道を捨てたのか、私には甚だ理解できん。だが……」


 それは、父が一歩を踏み出す直前だった。


「近頃あちこちの歯が痛くて困っている」


 そう言って助手席に乗り込んでいる父の意図を理解するまでに、賢いはずの李一がたっぷり五分は思案した。







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