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第一幕
第45話:紅き鏡の来襲と、不落の崩壊
しおりを挟む天空の風呂から上がり、心地よい夜風を浴びていたアドルとミーシャの耳に、突如として静寂を切り裂く警報が響き渡った。地下工房のメインコンソールに映し出された 【 監視者の眼 】 の反応が、不気味な規則性を持って次々と消失していく。
「……警報だと? どこだ、正門か?」
アドルがコンソールに駆け寄る。だが、そこにあるはずの光点が、一つ、また一つと、深い闇に吸い込まれるように消えていった。罠が発動した形跡も、侵入者が物理的に接触した反応もない。ただ、アドルが精緻に張り巡らせた魔力糸そのものが、最初から存在しなかったかのように世界から抹消されているのだ。
「おかしい。反応が消え続けている。……ミーシャ、すぐ下に降りるぞ。何かが、俺たちの理解を超えた存在が来ている」
静まり返った館に、アドルの低い声が響く。庭園を見下ろす窓の外は、もはや不自然なほどの静寂に支配されていた。風の音も、虫の声も、先ほどまで聞こえていた噴水のせせらぎさえも、何かに圧し殺されたように沈黙している。
数秒の重苦しい沈黙の後、その静寂を物理的な暴力が粉砕した。正面の頑強な鉄門が、まるで見えない巨人の手によって捻じ切られたかのような音を立てて弾け飛んだ。
「――アドルさん! ミーシャさん!!」
悲鳴に近い絶叫と共に、血まみれのモルガンを肩に担いだカミラが、闇の深淵から転がり込むように現れた。
「カミラさん!? 一体何が……」
「逃げて……! ドランさんの店が……あいつらに、領主直属の黒犬に……っ!」
カミラの言葉を追うように、庭園の芝生を這うようにして禍々しい赤い霧が立ち込めた。霧の中から音もなく現れたのは、漆黒の装束に身を包んだ黒犬の精鋭部隊十名。そして、その中央で優雅に宙を浮き、深紅の法衣を纏った魔族、紅鏡のバルダザールが冷徹な笑みを浮かべていた。
「二十年前と変わらぬ、湿気た結界の匂いだ。……さて、大賢者の弟子共。その首、領主への手土産にさせてもらうぞ」
「させるか! 迎撃システム、全門解放!」
アドルの咆哮に応じ、洋館の各所に配備された 【 魔導迎撃砲塔】 が一斉に起動した。夜の闇を無数の光弾が埋め尽くす。だが、精鋭たちは影のように揺らめき、弾道を完全に見切ったかのような無駄のない動きで回避していく。
「 【 重力泥濘 】 、発動!」
前庭の石畳が瞬時に粘着液へと変質し、局所的な重力が三倍に跳ね上がる。動きが鈍った黒犬の隙を突き、アドルは複製した長剣を抜き放ち、弾丸のように突っ込んだ。
「 【 ダブルアタック 】 ――からの、 【 スマッシュ 】 !」
二連撃の衝撃波が黒犬の一人を吹き飛ばすが、すぐさま別の二人が左右から死角を突き、鋭い刺突を繰り出す。今までの魔物とは次元が違う、殺しに特化した洗練された動き。アドルの防衛網は、その暴力的なまでの個の武力によって、じりじりと、しかし確実に突破されていく。
「アドルさん! 【 炎嵐連鎖 】 !!」
ミーシャが放つ火炎と風の複合魔法が、アドルを包囲せんとする黒犬たちを力強く押し戻した。だが、バルダザールが指先を軽く振るだけで、その高密度の魔力は赤い鏡の壁に飲み込まれ、呆気なく霧散した。
「時間の無駄だな。消えろ」
バルダザールが放った紅き鏡の破片が、超音速の弾丸となって二人を襲った。アドルの肩を、ミーシャの脇腹を鋭い衝撃が貫く。膝をつく二人の前に、死神の影が長く伸びた。
「……っ、まだだ……!」
アドルは絶望を意志の力で塗り潰し、折れかけた身体を無理やり突き動かした。もはや論理的な勝機などない。だが、隣で血を流すミーシャを守るため、彼は再び剣を 【 複製 】 し、咆哮と共に無謀な突撃を敢行した。
「失せろ」
バルダザールの冷淡な一言と共に、紅い魔力の奔流がアドルの正面から爆発した。アドルは枯れ葉のように宙を舞い、洋館の外壁を突き破って室内へと叩きつけられた。瓦礫に埋もれ、血を吐きながら意識を保つのが精一杯の無惨な姿。隣ではミーシャも深手を負い、もはや指一本動かせない。
死の静寂が庭園を支配し、バルダザールがとどめを刺そうとゆっくり歩を進める。その絶体絶命の瞬間に、館の奥から地を這うような重圧を伴った声が響いた。
「……相変わらず、子供相手に粋がってやがるな、バルダザール。その腐った根性、二十年経っても治らねえのか」
姿を現したのは、ボロボロになった店から戻ってきたドランだった。バルダザールは薄笑いを浮かべ、その声の主を凝視する。
「やっと師匠のお出ましか、店は大丈夫なのか? 大賢者様よ」
「けっ、あんなちんけな刺客を送り込んできたところで屁でもないわ。それより貴様……二十年前に相当の深手を負わせたはずだが、まだ生きていたとはな」
ドランが吐き捨てるように言うと、バルダザールは紅い魔力をさらに膨れ上がらせた。
「たしかにあの時は不意を打たれ相当の深手を負ったが、魔王様の寵愛を受け、むしろパワーアップした。お前はどうだ? 見るからに老いぼれたな大賢者よ」
「ただの老いぼれかどうか、試してみるといい。……アドル、ミーシャ、よく見ておけ。この戦闘はなかなか見れるもんじゃないぞ」
ドランが杖を構える。だが、最初の一撃として放たれた魔法は、かつての彼からは想像もできないほど弱々しく、術式は空中で歪み、霧散した。
バルダザールは退屈そうに首を振った。
「やはり二十年前の戦いで魔力回路が崩壊しているようだな、 大賢者よ。この程度ではパワーアップした俺の敵ではないぞ」
バルダザールの掌から、紅い衝撃波が放たれた。ドランは防御術式を展開しようとしたが、間に合わない。爆発的なエネルギーに直撃され、ドランの身体は枯葉のように宙を舞い、洋館の硬い外壁に叩きつけられた。
壁が大きく崩れ、瓦礫の中にドランが沈み込む。
「師匠!!!」
アドルの絶叫が夜空に響く。しかし、崩れた壁の中から、震える手が瓦礫を押し退けた。
「動くな、アドル。……まだまだこれからよ」
血を吐きながらも、ドランはゆっくりと立ち上がった。その瞬間、彼の肌に青白い術式がひび割れのように浮かび上がり、その眼光に鋭く、神々しいまでの魔力が宿る。それは禁術によって崩壊寸前の肉体を強引に再編した、まさに命を薪にした全盛期の輝きだった。
「下がって、よく見ておけ。これが『格』の違いだ」
ドランが地を蹴った。瞬間、彼は物理法則を無視した速度でバルダザールの懐に潜り込み、魔力を纏った拳を赤い鏡に叩き込んだ。
バキィィィィン!!
絶対の防御を誇った鏡が、ガラス細工のように粉々に砕け散る。バルダザールの顔が驚愕に歪んだ。
「その魔力……正気か!? 貴様、何を捧げた……!?」
バルダザールが放つ数多の紅き閃光を、ドランは無詠唱で受け流し、至近距離から衝撃波を叩き込む。格闘と魔法が完璧に融合した、凄絶な乱舞が夜の庭園を埋め尽くした。
「黒犬共、何をしている! 弟子を殺せ!」
バルダザールの非情な命令が飛ぶ。十名の黒犬が一斉に、標的をアドルとミーシャへと切り替えた。ドランは即座に手をかざし、二人の周囲に白銀の強固な防御魔法結界を展開する。
「ドランさん、俺も……! 結界を解いてください、まだ戦えます!」
アドルが結界の中から飛び出そうと、剣を握りしめ叫ぶ。しかし、ドランは一瞥もくれず、鋭い声で制した。
「動くな、アドル! 今のお前たちでは一瞬で細切れにされる。……ここは俺に任せておけ。いいから黙って、大人の戦い方をその目に焼き付けろ!」
ドランは二人を守る結界を維持しながら、バルダザールと対峙し続けた。だが、二人の守護に魔力を割き、すでに限界を超えた肉体で戦うドランは、刻一刻と死の淵へ近づいていた。
「……がはっ……!!」
激しい立ち回りの最中、ドランが大量の鮮血を吐いた。術式のひび割れから光の粒子が漏れ出し、バルダザールの紅い刃がドランの肉を深く裂く。
「アドル、ミーシャ。……絶望の中でこそ、笑って牙を剥け。……それが、俺の最後の授業だ」
ドランの魔力が、夜空を押し上げるように膨れ上がる。バルダザールが本能的な恐怖に顔を歪めた。
「何だ、この輝きは……!? 止めろ……止めろ! 貴様、まさか無理心中でも企んでいるのか!?」
「心中……? 買い被るなよ、バルダザール。……俺はただ、邪魔なゴミを片付けて、こいつらに静かな明日を遺してやりたいだけだ」
ドランが両手を広げる。ミーシャに授けた奥義の、さらに深淵にある禁じ手。自らの命を導火線に、詠唱時間無しで全魔力を一瞬で点火させる、命の等価交換。
【 絶域の断罪・零式】
ドランの身体が純白の太陽と化した。
館の庭を、そして街の半分を昼間のように照らし出す、圧倒的な浄化の光。
「来るな……来るなああぁぁっ!!」
バルダザールの叫びは光に飲み込まれ、その存在は粒子の一つも残さず消滅した。そのあまりの威圧感に、生き残った黒犬たちは戦意を完全に喪失し、闇の中へ逃げ去っていった。
光が収まった後。そこには、両脚を地面に踏みしめ、天を仰いだまま微動だにしないドランの姿があった。身体は魔力を使い果たした代償に、彫像のように冷たく固まっていた。
「ドラン……さん……?」
ミーシャが震える手でその身体に触れた瞬間、ドランはゆっくりとその場に崩れ落ちた。洋館の庭に、静寂だけが戻る。アドルは何も言えず、血の出るほど拳を握りしめ、冷たくなった師匠の身体を抱きしめた。
夜明けの光が、ボロボロになった彼らの城を照らし始めていた。
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