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その日はどんよりとした曇り空だった。この地方都市レガロは、冬になると雪が積もるらしい。王都では滅多に雪は降らないので、せっかくならば見てみたいと思う。
めっきり冷え込んだこの日、私はジルを新しく出来たと噂の金物屋へと連れて来ていた。鋏や金属製の櫛は消耗品だ。しかし品質の良いものは長く使える。
店の店主と鋏の切れ味を確認しているジルを見て、私は微笑ましいと同時に寂しい気持ちになっていた。
この街に来て、はや数ヶ月が経つ。父からは早く帰ってくるようにと毎日手紙が届く始末だ。これ以上延ばせなかった。半月後に出る船に乗って、私は王都に帰らねばならない。元々は仕事で来たのだから、仕方がない事だ。
それでも、私は終わらせたくなかった。この穏やかで温かなジルとの時間を。
ジル──かつての名前はシャルル、とこの街で再会を果たした。いつかは会えればと思ってこの地方整備の事業に携わっていたが、本当に突然会えてしまい、人間は動揺すると言いたかった言葉の一つもまともに言えないのだと学んだ。
元はと言えば、執事のジェロームが椿油の香りをさせていた事に由来する。その香りに懐かしくなった私は、つい路面の婦人向けの香油店の前に馬車を停めさせたのだ。そうしたらまさかその懐かしい本人と出会えるとは、夢にも思っていなかった。
彼は見違えていた。それは、見た目の話ではない。
見た目はむしろ、とても質素になったと言える。シャルルの頃の彼はとにかく華美で、恐ろしく値段の張る生地で作らせた服ばかり着ていた。今の彼は一転して、当時の彼なら馬鹿にしていただろう普通の庶民的な服を着ている。髪も染めたのか、あの美しい黄金の髪では無い。凡庸な茶色い色をしていた。
それでも、彼は輝いていた。
彼は自身の店を持ち、客が殺到する程の評判の良さを保っている。見知らぬ土地へ来て労働等知らぬ細腕で、どれだけ心細く辛い日々だっただろうか。それでもきちんと自分の足で立ち、立派に生きているジルは眩しい。
どこかで生きていて欲しい。そう思っていたからこそ、そんなジルの姿は単純に嬉しい。しかし同時に寂しくもある。
もし再びシャルルと会えたら、「戻ってきて欲しい。本当は君の事が好きだった」と言うつもりだった。
しかしそんな事今更言える訳も無かった。彼は一人で自活し、その上……私との事は過去の事として、すっかり乗り越えているのだ。
『はい?殿下は何も悪い事はしていませんよ』
私が彼に、あの時の事を後悔していると言った時の彼の言葉だ。あっけらかんとしたジルは、私への恨みも悲しみも何も無いかのように首を傾げて見せた。その時、私は彼の中で既に過去の人なのだと悟り、戻ってきて欲しい等と言えなくなってしまったのだ。
元はと言えば、全て自分がまいた種だ。今更都合のいい事を言ったって、ジルは困惑するだけだろう。
それ以来、彼の店へと通う日々が続いた。今更愛の言葉なんて言えなかったとしても、せめて彼との交流は断ちたくなかった。
しかしシャルルではなく今のジルである彼と接するうちに、その思いは膨らんでいく。ジルは明るく美しい男性で、仕事に対しての情熱も人一倍持っている。人への感謝を忘れず、客一人一人と毎日真摯に向き合う姿は、誰よりも輝いて見えた。無理やり一緒に食事を摂る時間を作れば、彼との会話はずっと続けていたい程に楽しかった。
ジルを愛している。
その結論に至るまで、時間はかからなかった。
シャルルの時も愛していたと思う。シャルルの天真爛漫さや愛らしさは好ましいと感じていたし、この人が婚約者で良かったと考えていた。しかし今となっては、それ以上に今のジルを愛していると思える。
しかしどの口が言うのだろう。彼を追いつめ、シャルルの名を捨てさせたのはどこの誰だ?そんな人間が、今の君を愛しているだなんて言うのは、それこそ傲慢だろう。
それでも私は、せめてこの短い間だけでも彼との思い出を残したいと考えていた。しかしそれも、傲慢な事なのかもしれない……。すっかり彼に対しては臆病になった。
だが一つ確実なのは、ジルには誰よりも幸せになって欲しいという事だ。彼が望む最善を尽くしてやりたい。これがせめてもの私の願いだった。
「おう、ジル」
「アルノー!この辺りにいるの珍しいね」
「ちょっと買い出しでな」
金物屋で鋏をいくつか新調したジルと連れ立って、私たちは歩いて街を移動していた。今日は冷え込むのもあり、温かい料理を出す店へと向かう途中だった。
その道すがら、ジルの友人であるアルノーが向かいから歩いて来た。彼らはにこやかに談笑を続ける。
「週末、予約多いんだろ?また手伝いにいくか」
「あーありがとう。本当に助かる」
「お前んところ人気なんだから、早く人雇えよ」
「最近面接はしているよ」
何やら二人で話し合った後、終わったのかアルノーは「じゃあな」と言った。去り際、こちらに視線を投げかけてきてぺこりと会釈されたので、私もならって会釈を返した。
ジルは気にした様子もなく、「行きましょうか」と言い、再び歩き出す。
私の胸の中には何やら濃い霧のようなものが掛かってしまい、それは晴れなかった。
アルノーという青年は、ジルがこの街に来てからずっと仲良くしている元同僚の男性だそうだ。精悍な男で、私よりも背が高い。ジルと同じく理髪店で働く青年で、時折ジルの店を手伝ったりして面倒を見ているらしかった。
アルノーとジルが親しげに話をしていると、いつも私は自分の中におどろおどろしい感情が渦巻くのを感じている。ジルが他の男と親しげにしているのが嫌なのだ。しかも屈託なく、彼らの間には壁がないかのような親しさを感じる。
二人は恋仲なのではないか?そう考える事は少なくない。その度に私の心の中はまるで嵐の様に搔き乱れ、平静では居られなくなってしまう。
現金なものだ。あれだけ平民を見下すシャルルの事は、後から矯正せねばならないなんて思っていたはずなのに。当時の彼は、とにかく周りに親しい友人等はいなかった。誰も寄せ付けない程に他人を見下していたから。
しかしいざそれが解消され、人々から愛されるようになれば、私はこうして嫉妬するのだ。私は最低な人間だ。
それでも、彼を愛する事を止められない。
場所を移動し、小料理屋へ私たちはやって来た。温かい汁物を出す店で、半個室のようになった店内は落ち着いている。席の傍には大きな窓があり、中庭が見渡せる様だ。
「はー寒かった。早く食べたいですね」
「雪、降るかな」
「今日は底冷えするから、降るかもですよ。王都は雪なんて滅多に降らないですもんね。殿下は見るの初めてじゃないですか?」
「そうだね。見たことが無い」
降るといいですね、とジルは笑った。
その笑顔を見ていたら、胸が締め付けられる。出来ることなら、このまま連れて帰りたい。今滞在している屋敷でずっと彼と暮らせたら、どれだけ幸せなのだろうか。
でもそんな事は叶うはずもない。私は自戒も込めてその考えを断ち切り、料理を選ぶことに集中した。
程なくして運ばれてきたのは、具材がたっぷりと入ったとろみのあるスープのような料理だった。一口口に運べば、その温かさが身に染みる。
「これシチューっていうんですよ。この辺りの名物料理なんですけど、パンにもめっちゃ合うし僕大好きで!」
「そうなのか。それは良かった」
美味しそうに口に運ぶジルを見ていたら、私まで嬉しくなってしまう。彼が喜ぶ顔が見たい。昔はそのために宝飾品を贈る事も多かったが、今の彼はそんなもの欲していないだろう。彼が欲しいというのなら、どんな珍しい染料や油でも手に入れよう。彼が好物だと言うのものなら、何度でも食べさせたい。
しかし時間には限りがある。私はもうあと二週間でこの街を去るのだから。
食事を終え、一息ついた。私は窓の外を眺めるジルの横顔を見つめながら、口を開いた。
「私はあと二週間程で、王都に帰らないといけない」
「ああ、そうなんですね。こんな地方にまでお疲れ様でした」
「……」
こちらを向いたジルは、優しく微笑む。微塵も寂しがったり残念に思ってはくれていないその様子に、私の心は粉々だった。彼の表情は穏やかで、余計に私の心を砕いた。
ジルは続ける。
「そろそろご結婚も近いだろうし、王都にはいつ帰られるんだろうと思ってましたよ。第一王子殿下にも二人目が生まれたって新聞で見たし」
「結婚?誰の」
「え?ファビアン殿下のですよ」
「私が……誰と」
「誰とって……殿下には意中のご子息がいましたよね。婚約されてるでしょう?」
衝撃に、心臓が止まるかと思った。そうか、当たり前だ。彼は私の友人との話を聞いていたのだ。しかしその後の顛末までを知っている訳では無い。私が別の人間と婚約していると思っていてもなんら不思議は無かった。
彼への遠慮から、言葉足らずだった自分を呪う。胸の中に広がる苦い気持ちを抑え、切り出した。
「私は誰とも婚約していないよ」
「え?どうしてですか」
「婚約者はただ君一人でいい」
「……は?」
「君は自分を死んだものと思って下さいと、最後の手紙に書いていた。でも、そんな風に思ったことは一度もない。いつかどこかで再び出会えたら、戻ってきて欲しいと伝えるつもりだった」
「え、どうして……だって貴方は、僕を疎んでいたじゃないですか」
「初めに出会う前は、そうだった時期もある。君がどこまで私と友人の密談を聞いていたのか分からないが……君の事は、少なからず愛していた。その天真爛漫さと素直さに癒され、可愛らしいと思っていた。あの時も君が婚約者で良かったと、私は友人に向かって言った。……今となっては、ただの言い訳に過ぎないが」
「……」
ジルは驚きに目を見開き、固まった。ここまで来れば、もう隠すことも無い。過去の後悔から押し潰されそうな気持ちになりながら、重い口を開いた。
「シャルルの事を愛していた。君から貰った愛の言葉は嬉しかったのも覚えている。しかしあの頃の浪費癖や尊大な態度は、私が後でいくらでも矯正しようと思っていた。そうやって支配的な思想だったからこそ、あの場で平気で君をこき下ろす様な話をしてしまったのだ。本当に私は愚かで、馬鹿だ。申し訳ない」
「……いや、え、……殿下は、第二王子ですから。相手選びは重要だし、僕なんかこそ最低な人間なので、そう殿下から思われるのは当たり前の事です」
「当たり前なんかじゃない。きちんと君と向き合っていたら、こんな事にはならなかった。君に対してどう思っていて、どういう所を直して欲しいと考えているのか、裏でこそこそと話さず向き合えばよかったのに。シャルルが居なくなって、ようやく自分の愚かさを知った」
過去の事を話すのは辛い。きっと聞いているジルも辛いだろう。しかしもうあと二週間で、会えなくなってしまうかもしれないのだ。これが最後とは思いたくないが、そうだとしたら最後くらい、君に真摯でありたい。
「ジルとこの街で再会して、自立し生きる君の眩しさにも惹かれた。シャルルの頃の天真爛漫さも好ましく感じていたが、それ以上に今のジルは美しくて、格好良くて、君のそばにいると安らぎと同時に、激情が溢れてしまう。想いに蓋をする事が出来ない」
ジルの大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれる。私は続けた。
「ジルを愛している。……都合のいい事を言っている自覚はある。しかし、もし君がもう一度私の手を取ってくれるのなら、私は最善を尽くしたい。二度と君を裏切らず、傍にいよう」
「……」
「返事は、二週間後に聞かせて欲しい。ちょうど二週間後の朝、店まで迎えに行く」
驚きに何も言えない様子のジルを横目に、私は窓の外に目をやった。初めて見る真っ白な雪が、ちらちらと中庭を舞っている。その美しさを目に焼き付けながら、私は様々な覚悟を決めて瞼を閉じた。
めっきり冷え込んだこの日、私はジルを新しく出来たと噂の金物屋へと連れて来ていた。鋏や金属製の櫛は消耗品だ。しかし品質の良いものは長く使える。
店の店主と鋏の切れ味を確認しているジルを見て、私は微笑ましいと同時に寂しい気持ちになっていた。
この街に来て、はや数ヶ月が経つ。父からは早く帰ってくるようにと毎日手紙が届く始末だ。これ以上延ばせなかった。半月後に出る船に乗って、私は王都に帰らねばならない。元々は仕事で来たのだから、仕方がない事だ。
それでも、私は終わらせたくなかった。この穏やかで温かなジルとの時間を。
ジル──かつての名前はシャルル、とこの街で再会を果たした。いつかは会えればと思ってこの地方整備の事業に携わっていたが、本当に突然会えてしまい、人間は動揺すると言いたかった言葉の一つもまともに言えないのだと学んだ。
元はと言えば、執事のジェロームが椿油の香りをさせていた事に由来する。その香りに懐かしくなった私は、つい路面の婦人向けの香油店の前に馬車を停めさせたのだ。そうしたらまさかその懐かしい本人と出会えるとは、夢にも思っていなかった。
彼は見違えていた。それは、見た目の話ではない。
見た目はむしろ、とても質素になったと言える。シャルルの頃の彼はとにかく華美で、恐ろしく値段の張る生地で作らせた服ばかり着ていた。今の彼は一転して、当時の彼なら馬鹿にしていただろう普通の庶民的な服を着ている。髪も染めたのか、あの美しい黄金の髪では無い。凡庸な茶色い色をしていた。
それでも、彼は輝いていた。
彼は自身の店を持ち、客が殺到する程の評判の良さを保っている。見知らぬ土地へ来て労働等知らぬ細腕で、どれだけ心細く辛い日々だっただろうか。それでもきちんと自分の足で立ち、立派に生きているジルは眩しい。
どこかで生きていて欲しい。そう思っていたからこそ、そんなジルの姿は単純に嬉しい。しかし同時に寂しくもある。
もし再びシャルルと会えたら、「戻ってきて欲しい。本当は君の事が好きだった」と言うつもりだった。
しかしそんな事今更言える訳も無かった。彼は一人で自活し、その上……私との事は過去の事として、すっかり乗り越えているのだ。
『はい?殿下は何も悪い事はしていませんよ』
私が彼に、あの時の事を後悔していると言った時の彼の言葉だ。あっけらかんとしたジルは、私への恨みも悲しみも何も無いかのように首を傾げて見せた。その時、私は彼の中で既に過去の人なのだと悟り、戻ってきて欲しい等と言えなくなってしまったのだ。
元はと言えば、全て自分がまいた種だ。今更都合のいい事を言ったって、ジルは困惑するだけだろう。
それ以来、彼の店へと通う日々が続いた。今更愛の言葉なんて言えなかったとしても、せめて彼との交流は断ちたくなかった。
しかしシャルルではなく今のジルである彼と接するうちに、その思いは膨らんでいく。ジルは明るく美しい男性で、仕事に対しての情熱も人一倍持っている。人への感謝を忘れず、客一人一人と毎日真摯に向き合う姿は、誰よりも輝いて見えた。無理やり一緒に食事を摂る時間を作れば、彼との会話はずっと続けていたい程に楽しかった。
ジルを愛している。
その結論に至るまで、時間はかからなかった。
シャルルの時も愛していたと思う。シャルルの天真爛漫さや愛らしさは好ましいと感じていたし、この人が婚約者で良かったと考えていた。しかし今となっては、それ以上に今のジルを愛していると思える。
しかしどの口が言うのだろう。彼を追いつめ、シャルルの名を捨てさせたのはどこの誰だ?そんな人間が、今の君を愛しているだなんて言うのは、それこそ傲慢だろう。
それでも私は、せめてこの短い間だけでも彼との思い出を残したいと考えていた。しかしそれも、傲慢な事なのかもしれない……。すっかり彼に対しては臆病になった。
だが一つ確実なのは、ジルには誰よりも幸せになって欲しいという事だ。彼が望む最善を尽くしてやりたい。これがせめてもの私の願いだった。
「おう、ジル」
「アルノー!この辺りにいるの珍しいね」
「ちょっと買い出しでな」
金物屋で鋏をいくつか新調したジルと連れ立って、私たちは歩いて街を移動していた。今日は冷え込むのもあり、温かい料理を出す店へと向かう途中だった。
その道すがら、ジルの友人であるアルノーが向かいから歩いて来た。彼らはにこやかに談笑を続ける。
「週末、予約多いんだろ?また手伝いにいくか」
「あーありがとう。本当に助かる」
「お前んところ人気なんだから、早く人雇えよ」
「最近面接はしているよ」
何やら二人で話し合った後、終わったのかアルノーは「じゃあな」と言った。去り際、こちらに視線を投げかけてきてぺこりと会釈されたので、私もならって会釈を返した。
ジルは気にした様子もなく、「行きましょうか」と言い、再び歩き出す。
私の胸の中には何やら濃い霧のようなものが掛かってしまい、それは晴れなかった。
アルノーという青年は、ジルがこの街に来てからずっと仲良くしている元同僚の男性だそうだ。精悍な男で、私よりも背が高い。ジルと同じく理髪店で働く青年で、時折ジルの店を手伝ったりして面倒を見ているらしかった。
アルノーとジルが親しげに話をしていると、いつも私は自分の中におどろおどろしい感情が渦巻くのを感じている。ジルが他の男と親しげにしているのが嫌なのだ。しかも屈託なく、彼らの間には壁がないかのような親しさを感じる。
二人は恋仲なのではないか?そう考える事は少なくない。その度に私の心の中はまるで嵐の様に搔き乱れ、平静では居られなくなってしまう。
現金なものだ。あれだけ平民を見下すシャルルの事は、後から矯正せねばならないなんて思っていたはずなのに。当時の彼は、とにかく周りに親しい友人等はいなかった。誰も寄せ付けない程に他人を見下していたから。
しかしいざそれが解消され、人々から愛されるようになれば、私はこうして嫉妬するのだ。私は最低な人間だ。
それでも、彼を愛する事を止められない。
場所を移動し、小料理屋へ私たちはやって来た。温かい汁物を出す店で、半個室のようになった店内は落ち着いている。席の傍には大きな窓があり、中庭が見渡せる様だ。
「はー寒かった。早く食べたいですね」
「雪、降るかな」
「今日は底冷えするから、降るかもですよ。王都は雪なんて滅多に降らないですもんね。殿下は見るの初めてじゃないですか?」
「そうだね。見たことが無い」
降るといいですね、とジルは笑った。
その笑顔を見ていたら、胸が締め付けられる。出来ることなら、このまま連れて帰りたい。今滞在している屋敷でずっと彼と暮らせたら、どれだけ幸せなのだろうか。
でもそんな事は叶うはずもない。私は自戒も込めてその考えを断ち切り、料理を選ぶことに集中した。
程なくして運ばれてきたのは、具材がたっぷりと入ったとろみのあるスープのような料理だった。一口口に運べば、その温かさが身に染みる。
「これシチューっていうんですよ。この辺りの名物料理なんですけど、パンにもめっちゃ合うし僕大好きで!」
「そうなのか。それは良かった」
美味しそうに口に運ぶジルを見ていたら、私まで嬉しくなってしまう。彼が喜ぶ顔が見たい。昔はそのために宝飾品を贈る事も多かったが、今の彼はそんなもの欲していないだろう。彼が欲しいというのなら、どんな珍しい染料や油でも手に入れよう。彼が好物だと言うのものなら、何度でも食べさせたい。
しかし時間には限りがある。私はもうあと二週間でこの街を去るのだから。
食事を終え、一息ついた。私は窓の外を眺めるジルの横顔を見つめながら、口を開いた。
「私はあと二週間程で、王都に帰らないといけない」
「ああ、そうなんですね。こんな地方にまでお疲れ様でした」
「……」
こちらを向いたジルは、優しく微笑む。微塵も寂しがったり残念に思ってはくれていないその様子に、私の心は粉々だった。彼の表情は穏やかで、余計に私の心を砕いた。
ジルは続ける。
「そろそろご結婚も近いだろうし、王都にはいつ帰られるんだろうと思ってましたよ。第一王子殿下にも二人目が生まれたって新聞で見たし」
「結婚?誰の」
「え?ファビアン殿下のですよ」
「私が……誰と」
「誰とって……殿下には意中のご子息がいましたよね。婚約されてるでしょう?」
衝撃に、心臓が止まるかと思った。そうか、当たり前だ。彼は私の友人との話を聞いていたのだ。しかしその後の顛末までを知っている訳では無い。私が別の人間と婚約していると思っていてもなんら不思議は無かった。
彼への遠慮から、言葉足らずだった自分を呪う。胸の中に広がる苦い気持ちを抑え、切り出した。
「私は誰とも婚約していないよ」
「え?どうしてですか」
「婚約者はただ君一人でいい」
「……は?」
「君は自分を死んだものと思って下さいと、最後の手紙に書いていた。でも、そんな風に思ったことは一度もない。いつかどこかで再び出会えたら、戻ってきて欲しいと伝えるつもりだった」
「え、どうして……だって貴方は、僕を疎んでいたじゃないですか」
「初めに出会う前は、そうだった時期もある。君がどこまで私と友人の密談を聞いていたのか分からないが……君の事は、少なからず愛していた。その天真爛漫さと素直さに癒され、可愛らしいと思っていた。あの時も君が婚約者で良かったと、私は友人に向かって言った。……今となっては、ただの言い訳に過ぎないが」
「……」
ジルは驚きに目を見開き、固まった。ここまで来れば、もう隠すことも無い。過去の後悔から押し潰されそうな気持ちになりながら、重い口を開いた。
「シャルルの事を愛していた。君から貰った愛の言葉は嬉しかったのも覚えている。しかしあの頃の浪費癖や尊大な態度は、私が後でいくらでも矯正しようと思っていた。そうやって支配的な思想だったからこそ、あの場で平気で君をこき下ろす様な話をしてしまったのだ。本当に私は愚かで、馬鹿だ。申し訳ない」
「……いや、え、……殿下は、第二王子ですから。相手選びは重要だし、僕なんかこそ最低な人間なので、そう殿下から思われるのは当たり前の事です」
「当たり前なんかじゃない。きちんと君と向き合っていたら、こんな事にはならなかった。君に対してどう思っていて、どういう所を直して欲しいと考えているのか、裏でこそこそと話さず向き合えばよかったのに。シャルルが居なくなって、ようやく自分の愚かさを知った」
過去の事を話すのは辛い。きっと聞いているジルも辛いだろう。しかしもうあと二週間で、会えなくなってしまうかもしれないのだ。これが最後とは思いたくないが、そうだとしたら最後くらい、君に真摯でありたい。
「ジルとこの街で再会して、自立し生きる君の眩しさにも惹かれた。シャルルの頃の天真爛漫さも好ましく感じていたが、それ以上に今のジルは美しくて、格好良くて、君のそばにいると安らぎと同時に、激情が溢れてしまう。想いに蓋をする事が出来ない」
ジルの大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれる。私は続けた。
「ジルを愛している。……都合のいい事を言っている自覚はある。しかし、もし君がもう一度私の手を取ってくれるのなら、私は最善を尽くしたい。二度と君を裏切らず、傍にいよう」
「……」
「返事は、二週間後に聞かせて欲しい。ちょうど二週間後の朝、店まで迎えに行く」
驚きに何も言えない様子のジルを横目に、私は窓の外に目をやった。初めて見る真っ白な雪が、ちらちらと中庭を舞っている。その美しさを目に焼き付けながら、私は様々な覚悟を決めて瞼を閉じた。
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