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黒い髪に黒い瞳のその男は、薄暗い明かりでも分かるほど肌が白い男だった。だからと言って女性的、オメガ的な雰囲気はどこにもなく、逞しい腕と胸板が着ていたシャツの下からでも分かる。
鋭い眼光と座っていても高い座高、王者のような雰囲気の男はアルファそのものだ。何故そのような男がこのラルゴ領地で剣闘士として働いていたのか、そして更にはここに売られてきたのか。検討が付かない程に、アルファ然とした美しい男性的な魅力のある男だった。
唖然とする私をよそに、男は苦笑いを浮かべた。私は慌てて、店主から授かった鍵で格子を開ける。驚くことに格子は三重にもなっていたため、私は別の鍵で三回も南京錠を開けることになった。……それだけこのアルファを恐れているのだろう。 部屋は薄暗い石造りの地下室で、月の光が微かに天井に開いた穴から差し込んでいる。窓がない窮屈な空間だが、一通りの生活品は揃っていた。
中に入り、所在無さげにしている私を座っている男は見上げた。先程から諦めにも似た苦笑いを浮かべる男に、私は首を傾げた。
「簡素な場所だが、清潔には保っている。嫌じゃなければ座ってくれ」
男の声色は、意外にも優しかった。私は促されるがままに、男の隣に腰掛ける。
私はアルファの中でも背も高い方だし、体躯も良い。そんな私よりも更に背が高そうな男は、座った自分より一回り、二回り程も大きかった。ここまで体格の良いアルファは中々居ないので、剣闘士としてはさぞ儲けていたことだろう。
何を言えばいいのか分からないでいる私に、彼は口を開いた。
「俺はミカ。あなたは?」
「……マウリ」
ステファノとしての愛称はステフ等だが、ステファノやステファンのような名前は貴族に多いため、どこから身分がばれるか分からない。マウリはミドルネームのため、あまり周囲にも知られていない事から、そのように名乗った。
ミカ、と名乗った男も、本名では無さそうだ。所謂源氏名というものかもしれない。
ミカは随分と優しげな声で続ける。
「俺はここに来てまだ日も浅いし、あまり作法も分からない。アルファの男を抱きたいなんて男も現れないから、準備すらしてないんだ。今から準備をしてもいいか?」
「準備?」
「抱かれる準備だ」
私ははっとした。そうだ、普通は娼婦を買うのも男娼を買うのも、抱くことが目的である。そんなつもりは無いので、私は首を横に振った。
「それは必要無い。アルファを抱きたいとは思わない」
「それならどうして、俺を買ったんだ?」
「……」
どちらかと言えば、抱かれたい。自分よりも大きな男に組み敷かれ、前後も分からなくなる程の快楽に……包まれてみたいとは思う。しかし今の私にはその覚悟も無かった。ただ衝動でここまで突き進んできただけで、私の方だって準備不足なのだ。
私は外套を着たままで、顔を明かしていないのをいい事に、今の願いを告げた。
「抱きしめて欲しい」
「…………なに?」
「このままの姿勢で構わないから、抱きしめてくれないか」
ミカは呆気にとられたような顔になった。まさかアルファを買ったアルファに、そんな願いを言われるとは思ってもいなかっただろう。それこそ先程の案内所やこの店の店主のように、非道な遊びを要求すると思われていたかもしれない。
私にそんな趣味は無い。そして性的な接触も覚悟が無い。だからこその願いだった。生まれてこの方、父や母に抱き締められた記憶は無い。乳母や教育係は厳しく、そして大人になっても常に王者のようなアルファとしての振る舞いを求められてきた。本当は誰かに抱きしめて欲しいとか、頭を撫でてもらいたいとか、そんな軟弱な願いは口にする事は許されない。
でも今だけ。今はレアンドロ家の当主、ラルゴ家の夫では無い。相手にとっては身分も顔も分からない、ただのアルファの男だ。おかしい奴だと思われたところで構わなかった。
しばらく逡巡していた男だが、おずおずと私の方に腕を伸ばした。私はその体温に何かが心から沸き起こり、気が付くと男の胸元にそっと身を寄せていた。
ミカは戸惑うような雰囲気を見せながらも、私の背中に腕を回した。
暖かい。
ミカはこの様な場所に居ながらも、清潔な洗濯洗剤の香りがした。胸元は剣闘士らしく、分厚い筋肉で覆われている。訓練でしか身体を使わない私が、貧弱に思える程だった。
背中に回る腕も優しい。私が思わず密着するように身体を寄せ、彼の腹回りに手を回しても、ミカは何も言わなかった。
あくまで客として、私の要望を叶えてくれているのは分かっている。それでも、私には込み上げてくるものがあった。
辛かった。ずっと。
物心が付いてから、安らぎを感じた試しが無い。一人の時間に読む小説と、ささやかなハーブ茶。それ以外は常に誰かに見張られ、教育を受けてきた。少しの過ちも許されず、周囲から期待され、笑う事なんて無くなっていく。それすらもアルファらしい、と言われる中で、信頼できると思った殿下からは婚約破棄、唯一の夫は家に発情期のオメガを呼んでいた。
心が軋んで、亀裂が入り、そしてバラバラだった。本当の私はどこにもいないし、誰からも求められていない。
見知らぬ男の体温ですら、わたしには救いに思える。
気が付くと、頬が濡れていた。
今までの二十数年のことが思い出されて、私の涙は止まらなかった。腕の中のアルファの男が突然泣き出した事で、ミカは本格的に戸惑う様子を見せた。しかしもう会うこともないだろう人に、取り繕う必要も無い。正体すらもばれていないのだから、今この一時くらい、思う存分泣きたかった。
「……っ……」
啜り泣く私に、男の腕が私の背中を摩るような仕草を見せた。それすらも暖かくて、益々涙腺が決壊した。
どれくらいの時間そうしていたかは分からないが、そんなに多くの時間でも無い筈だ。精々数分から十数分くらいの後、少し落ち着きを取り戻してきた私に、ミカは口を開いた。
「落ち着いてきたか?」
「…………申し訳ない。突然泣かれて、驚いただろう」
「いや、いい。そんな事もある」
アルファの男に限って、そんな事は無いと思う。しかしミカはどこまでも優しく、今度は私の頭をほんの少しだけ撫でた。
それだけで、また駄目になった。再び涙を流した私に、ミカの慌てたような声が聞こえる。
「ああ、また泣くのか!」
「すまない……」
止めたくても、止め方が分からない。ポロポロと泣き続ける私に、観念したかのようにミカは再び私の背中を摩った。
暖かな腕と身体に包まれて、私の心が解けていくようだった。たとえこれが、ただ金で買っただけのひと時であっても。それがほんの少しだけ寂しさを覚えるとしても、私にはこうする事でしか、安らぎを得る事は出来ないのだ。
その日は一晩、ミカの腕の中で泣いた。泣き止んだ後も、ミカは黙って私を抱きしめ続けた。それは私の人生の中で、一番の喜びの時間だった。
翌朝帰宅した私に、使用人達もフィデロも何も言わなかった。使用人達はまだしも、フィデロには何かを言われるのかと危惧していたが、杞憂だったようだ。きっとフィデロの夜遊びに関しても何も言わない私なので、向こうもその様にするらしい。
むしろ内心では、とうとう私が他の人間と遊ぶようになったか、と喜ばれているかもしれない。お互いに思う相手がいた方が、気が楽だと不倫を題材にした小説の一節で、読んだことがある。
暫くは、何も無かったかのように過ごした。日々仕事をこなし、朝は夫と領地経営に関する会議の様な朝食を摂り、夜は一人で月夜を眺めながら小説を読み、そしてまた一日が始まる。
今日も自室で一人、茶を飲みながら外を眺めていた。月が大きく出ているため、明るい夜だった。こんなに日ふと思い出してしまう。ミカという男と、その優しくも逞しい暖かな腕を。
ほんのりと、身体の中に熱が灯った。
それは羞恥心にも似ている。今となって思えば、私は本当に自暴自棄だったのだ。あの時は心が限界で、何かに縋りたくて堪らなかった。あれだけ人前で弱いところを晒したのは、初めてだった。そして多分だが……相手が彼だったからこそ、あそこまで甘えられたのではないか、と思っている。
アルファの男は、アルファらしさを競う生き物だ。アルファらしくない男など嫌悪の対象でしかなく、見下して然るべきでもある。特にこの国の貴族としてはその考えは当たり前に根付いているため、特別に厳しいうちの実家や父を差し置いたとしても、その認識は変わらない。
しかしミカは、そんな弱さをさらけ出した私に、優しく撫でて抱きしめてくれたのだ。もちろん金で買われているから、というのもありつつ、彼の仕草や言葉は非常に優しかった。たとえそれが演技だったとしても、あそこまで私が幸福を得られたのは、偏に彼のおかげである。
決して、再び温もりを求めて出向いた訳では無い。ただ単純に謝罪がしたいから、とまるで言い訳のように何度も頭の中で繰り返しながら、私は気付くとあの店に一人で向かっていた。
ニタニタと笑う店主に相場の五倍程度の金を渡し、私は勝手知ったるように地下への階段を降りていった。
相変わらずの牢屋のような鉄格子を前に、ランプをかざす。先日と変わらない苦笑いを浮かべる顔を見つけて、私は何故か安堵を覚えた。
「なんだか、また来てくれるような気がしていたんだ」
「……すごい自信だな」
「そういうのじゃなくて。何だろうな、何か溜め込んでそうだから」
先日と同じように横に腰かけた私に、ミカは笑いかける。相変わらずの眼光の鋭さではあるものの、どことなく親しげな雰囲気が彼にはあった。
今日は抱きしめて欲しいとか、それ程切羽詰まっている訳でもない。私は彼に対して何が出来るかも分からないため、とりあえず小切手を彼に渡した。
「小切手?」
「先日、迷惑を掛けたので謝罪をしたい。いつかここを出ることになれば、金も必要だろう。そのための小切手だ」
「……」
「他に欲しいものがあれば、用意する。何かあるだろうか」
「……特には、無いな」
ここを出られるかも分からないから、と彼は諦めたように笑った。やはり、ミカには何か事情があるのかもしれない。私よりも秀でた体格の良さと見目の良さ、思慮深い話し方からしても、どこかの奴隷剣士だったとかそういう雰囲気すら無い。闘技場に所属していた剣闘士は分からなくも無いが、どちらかと言えば……洗練された騎士のような雰囲気と言う方が、しっくりくるだろう。
もしかしたら、その事情も私の権力があればどうにか出来るかもしれない。しかしそうなると、私の身分を明かす必要がある。果たしてそれは大丈夫な事なのだろうか、と目の前の男を前にして思った。例え善良そうな男でも、アルファはアルファだ。己の目的のために手段を選ばない私の夫のような気質の者も多いし、厳格で曲がったことが許せない私の父のような者もいる。過去の嫌な記憶から、ミカに今全てを委ねる事は出来そうに無かった。
私は小切手以外に持ってきた食料や服を彼に渡した。
「少しだけだが、気持ちだ。店主にも多めの金は払ってある。君が快適に暮らす手助けとなれば良い」
「……ありがたいが、そこまでしてもらうような事もしてないと思う。ただマウリを一晩抱きしめた、それだけだろう?」
たったそれだけが、私にとってどれ程の価値があるのか。彼は知らない。
私は続けた。
「……もしまた、必要な時が来たら……ここに来てもいいだろうか」
「必要?俺の抱擁が?」
「ああ」
「いつでも構わない。ほら」
ミカは腕を大きく広げ、私に向かって緩やかに微笑んだ。今日はそんなつもりも無かった。ただ話をして、謝罪をして、礼の品を渡す。それだけのつもりだったのに……どうしても抗えなかった。
私はミカの腕の中に身を寄せた。直ぐに背中に回ってきた手に、今回は戸惑いも無さそうだ。その温かさに胸のつっかえが取れていく。脳がふわふわとして、同時に胸がぎゅっと苦しくもなる。
ミカは私の頬に手を添えた。突然の事に驚いた私だが、彼の節榑立つ指は頬を撫でるだけだった。
「今日は泣かないな」
「今日は大丈夫だ。前回散々泣いたから」
「いつでも泣けばいい。事情は知らないが、俺はマウリを良く知らないし、誰かに告げ口する相手もいないから。好きな時に泣いていい」
そう言われて、思わず涙ぐみそうになる。元々の私は多分、泣き虫なのだ。どうにか二十数年、表では泣かないように堪えてきただけで、本質はそうでは無い。まるで本当の自分をさらけだしても構わない、受け止めると言われているように感じて、心が陶然とした。決して身分も本名も明かしていないからこそ、彼になら甘えてもいいのではないか。金で買っているからこそ、嫌悪を見せて来ない。全てがわかっていても、私はこの甘美な誘惑に勝てそうもなかった。
胸元に顔を埋めて抱きついた私に、ミカは喉の奥で笑い頭を撫でてくれる。束の間の安息に、私は目を閉じた。
その日から私は度々ミカの元を訪ねた。どうやら彼はアルファ故に、私以外の客は居ない様子だった。最初のように朝帰りはしないものの、度々夜遅くに出掛ける私に、夫であるフィデロや使用人たちは私に愛人ができたものだと思っている様だ。
先日書類の郵送を実家に頼むために廊下に出た時、掃除の係の者たちの話し声が聞こえた。
「ステファノ様、最近よく出掛けてるよな」
「愛人でしょ?どこに囲ってるのかは知らないけど、漸くよね」
「ああ。フィデロ様も昔から懇意にしている愛人がいるし、家にまた呼びたいみたいよ。またステファノ様が不在の日を狙ってるって聞いたわ」
「あの愛人のオメガ、ワガママで俺たちにとっては面倒だけどな。でも主人たちの不在が長いほうが、俺らにとってはありがたい」
「確かに!」
きゃっきゃと騒ぐ使用人たちに、家令の叱責の声が聞こえる。私とフィデロの不在が多くなり気が抜けている様だ。多少の私語は構わないが、職務怠慢や主人の噂話を流布するのは良い使用人のする事では無い。私はこの屋敷で働く全ての人間たちを管理する立場でもあり、名前や顔も把握している。噂話をしていた掃除係の男女に数日間の無給と謹慎を通達すると、屋敷の中がぴりりとするのが身に染みた。
こういう時、私もアルファだなと思う。穏やかに暮らしたいし、無闇に人を貶めたいとも思わない。しかし規律を守り、時には厳しい姿勢を見せなければ、人の上に立つ者にはなれない。
そうしてまた心が摩耗すれば、私はミカに会いに行った。今では私が来る度に、ミカはベッドの上で大腕を広げて待ってくれるようになった。私も最初の羞恥心はどこへ行ったのか、真っ先に彼に抱きつくのが慣例となっている。
二人で密着し、腕を絡める。心が浮き立つような気持ちと安息と、両方が毎回同時に訪れるので、私はいつも口数が少なかった。ミカも良く喋る方では無いが、私を抱きしめながら少しづつ、お互いの話をするようになっていった。
簡単な雑談から、季節の移り変わり。そんなところから、少しづつ彼の事情を聞くことになった。
そうしてミカの事を知れば知る程、この私にとって最大の幸福の時間が、終わりを迎えなければならない予感を感じていた。
鋭い眼光と座っていても高い座高、王者のような雰囲気の男はアルファそのものだ。何故そのような男がこのラルゴ領地で剣闘士として働いていたのか、そして更にはここに売られてきたのか。検討が付かない程に、アルファ然とした美しい男性的な魅力のある男だった。
唖然とする私をよそに、男は苦笑いを浮かべた。私は慌てて、店主から授かった鍵で格子を開ける。驚くことに格子は三重にもなっていたため、私は別の鍵で三回も南京錠を開けることになった。……それだけこのアルファを恐れているのだろう。 部屋は薄暗い石造りの地下室で、月の光が微かに天井に開いた穴から差し込んでいる。窓がない窮屈な空間だが、一通りの生活品は揃っていた。
中に入り、所在無さげにしている私を座っている男は見上げた。先程から諦めにも似た苦笑いを浮かべる男に、私は首を傾げた。
「簡素な場所だが、清潔には保っている。嫌じゃなければ座ってくれ」
男の声色は、意外にも優しかった。私は促されるがままに、男の隣に腰掛ける。
私はアルファの中でも背も高い方だし、体躯も良い。そんな私よりも更に背が高そうな男は、座った自分より一回り、二回り程も大きかった。ここまで体格の良いアルファは中々居ないので、剣闘士としてはさぞ儲けていたことだろう。
何を言えばいいのか分からないでいる私に、彼は口を開いた。
「俺はミカ。あなたは?」
「……マウリ」
ステファノとしての愛称はステフ等だが、ステファノやステファンのような名前は貴族に多いため、どこから身分がばれるか分からない。マウリはミドルネームのため、あまり周囲にも知られていない事から、そのように名乗った。
ミカ、と名乗った男も、本名では無さそうだ。所謂源氏名というものかもしれない。
ミカは随分と優しげな声で続ける。
「俺はここに来てまだ日も浅いし、あまり作法も分からない。アルファの男を抱きたいなんて男も現れないから、準備すらしてないんだ。今から準備をしてもいいか?」
「準備?」
「抱かれる準備だ」
私ははっとした。そうだ、普通は娼婦を買うのも男娼を買うのも、抱くことが目的である。そんなつもりは無いので、私は首を横に振った。
「それは必要無い。アルファを抱きたいとは思わない」
「それならどうして、俺を買ったんだ?」
「……」
どちらかと言えば、抱かれたい。自分よりも大きな男に組み敷かれ、前後も分からなくなる程の快楽に……包まれてみたいとは思う。しかし今の私にはその覚悟も無かった。ただ衝動でここまで突き進んできただけで、私の方だって準備不足なのだ。
私は外套を着たままで、顔を明かしていないのをいい事に、今の願いを告げた。
「抱きしめて欲しい」
「…………なに?」
「このままの姿勢で構わないから、抱きしめてくれないか」
ミカは呆気にとられたような顔になった。まさかアルファを買ったアルファに、そんな願いを言われるとは思ってもいなかっただろう。それこそ先程の案内所やこの店の店主のように、非道な遊びを要求すると思われていたかもしれない。
私にそんな趣味は無い。そして性的な接触も覚悟が無い。だからこその願いだった。生まれてこの方、父や母に抱き締められた記憶は無い。乳母や教育係は厳しく、そして大人になっても常に王者のようなアルファとしての振る舞いを求められてきた。本当は誰かに抱きしめて欲しいとか、頭を撫でてもらいたいとか、そんな軟弱な願いは口にする事は許されない。
でも今だけ。今はレアンドロ家の当主、ラルゴ家の夫では無い。相手にとっては身分も顔も分からない、ただのアルファの男だ。おかしい奴だと思われたところで構わなかった。
しばらく逡巡していた男だが、おずおずと私の方に腕を伸ばした。私はその体温に何かが心から沸き起こり、気が付くと男の胸元にそっと身を寄せていた。
ミカは戸惑うような雰囲気を見せながらも、私の背中に腕を回した。
暖かい。
ミカはこの様な場所に居ながらも、清潔な洗濯洗剤の香りがした。胸元は剣闘士らしく、分厚い筋肉で覆われている。訓練でしか身体を使わない私が、貧弱に思える程だった。
背中に回る腕も優しい。私が思わず密着するように身体を寄せ、彼の腹回りに手を回しても、ミカは何も言わなかった。
あくまで客として、私の要望を叶えてくれているのは分かっている。それでも、私には込み上げてくるものがあった。
辛かった。ずっと。
物心が付いてから、安らぎを感じた試しが無い。一人の時間に読む小説と、ささやかなハーブ茶。それ以外は常に誰かに見張られ、教育を受けてきた。少しの過ちも許されず、周囲から期待され、笑う事なんて無くなっていく。それすらもアルファらしい、と言われる中で、信頼できると思った殿下からは婚約破棄、唯一の夫は家に発情期のオメガを呼んでいた。
心が軋んで、亀裂が入り、そしてバラバラだった。本当の私はどこにもいないし、誰からも求められていない。
見知らぬ男の体温ですら、わたしには救いに思える。
気が付くと、頬が濡れていた。
今までの二十数年のことが思い出されて、私の涙は止まらなかった。腕の中のアルファの男が突然泣き出した事で、ミカは本格的に戸惑う様子を見せた。しかしもう会うこともないだろう人に、取り繕う必要も無い。正体すらもばれていないのだから、今この一時くらい、思う存分泣きたかった。
「……っ……」
啜り泣く私に、男の腕が私の背中を摩るような仕草を見せた。それすらも暖かくて、益々涙腺が決壊した。
どれくらいの時間そうしていたかは分からないが、そんなに多くの時間でも無い筈だ。精々数分から十数分くらいの後、少し落ち着きを取り戻してきた私に、ミカは口を開いた。
「落ち着いてきたか?」
「…………申し訳ない。突然泣かれて、驚いただろう」
「いや、いい。そんな事もある」
アルファの男に限って、そんな事は無いと思う。しかしミカはどこまでも優しく、今度は私の頭をほんの少しだけ撫でた。
それだけで、また駄目になった。再び涙を流した私に、ミカの慌てたような声が聞こえる。
「ああ、また泣くのか!」
「すまない……」
止めたくても、止め方が分からない。ポロポロと泣き続ける私に、観念したかのようにミカは再び私の背中を摩った。
暖かな腕と身体に包まれて、私の心が解けていくようだった。たとえこれが、ただ金で買っただけのひと時であっても。それがほんの少しだけ寂しさを覚えるとしても、私にはこうする事でしか、安らぎを得る事は出来ないのだ。
その日は一晩、ミカの腕の中で泣いた。泣き止んだ後も、ミカは黙って私を抱きしめ続けた。それは私の人生の中で、一番の喜びの時間だった。
翌朝帰宅した私に、使用人達もフィデロも何も言わなかった。使用人達はまだしも、フィデロには何かを言われるのかと危惧していたが、杞憂だったようだ。きっとフィデロの夜遊びに関しても何も言わない私なので、向こうもその様にするらしい。
むしろ内心では、とうとう私が他の人間と遊ぶようになったか、と喜ばれているかもしれない。お互いに思う相手がいた方が、気が楽だと不倫を題材にした小説の一節で、読んだことがある。
暫くは、何も無かったかのように過ごした。日々仕事をこなし、朝は夫と領地経営に関する会議の様な朝食を摂り、夜は一人で月夜を眺めながら小説を読み、そしてまた一日が始まる。
今日も自室で一人、茶を飲みながら外を眺めていた。月が大きく出ているため、明るい夜だった。こんなに日ふと思い出してしまう。ミカという男と、その優しくも逞しい暖かな腕を。
ほんのりと、身体の中に熱が灯った。
それは羞恥心にも似ている。今となって思えば、私は本当に自暴自棄だったのだ。あの時は心が限界で、何かに縋りたくて堪らなかった。あれだけ人前で弱いところを晒したのは、初めてだった。そして多分だが……相手が彼だったからこそ、あそこまで甘えられたのではないか、と思っている。
アルファの男は、アルファらしさを競う生き物だ。アルファらしくない男など嫌悪の対象でしかなく、見下して然るべきでもある。特にこの国の貴族としてはその考えは当たり前に根付いているため、特別に厳しいうちの実家や父を差し置いたとしても、その認識は変わらない。
しかしミカは、そんな弱さをさらけ出した私に、優しく撫でて抱きしめてくれたのだ。もちろん金で買われているから、というのもありつつ、彼の仕草や言葉は非常に優しかった。たとえそれが演技だったとしても、あそこまで私が幸福を得られたのは、偏に彼のおかげである。
決して、再び温もりを求めて出向いた訳では無い。ただ単純に謝罪がしたいから、とまるで言い訳のように何度も頭の中で繰り返しながら、私は気付くとあの店に一人で向かっていた。
ニタニタと笑う店主に相場の五倍程度の金を渡し、私は勝手知ったるように地下への階段を降りていった。
相変わらずの牢屋のような鉄格子を前に、ランプをかざす。先日と変わらない苦笑いを浮かべる顔を見つけて、私は何故か安堵を覚えた。
「なんだか、また来てくれるような気がしていたんだ」
「……すごい自信だな」
「そういうのじゃなくて。何だろうな、何か溜め込んでそうだから」
先日と同じように横に腰かけた私に、ミカは笑いかける。相変わらずの眼光の鋭さではあるものの、どことなく親しげな雰囲気が彼にはあった。
今日は抱きしめて欲しいとか、それ程切羽詰まっている訳でもない。私は彼に対して何が出来るかも分からないため、とりあえず小切手を彼に渡した。
「小切手?」
「先日、迷惑を掛けたので謝罪をしたい。いつかここを出ることになれば、金も必要だろう。そのための小切手だ」
「……」
「他に欲しいものがあれば、用意する。何かあるだろうか」
「……特には、無いな」
ここを出られるかも分からないから、と彼は諦めたように笑った。やはり、ミカには何か事情があるのかもしれない。私よりも秀でた体格の良さと見目の良さ、思慮深い話し方からしても、どこかの奴隷剣士だったとかそういう雰囲気すら無い。闘技場に所属していた剣闘士は分からなくも無いが、どちらかと言えば……洗練された騎士のような雰囲気と言う方が、しっくりくるだろう。
もしかしたら、その事情も私の権力があればどうにか出来るかもしれない。しかしそうなると、私の身分を明かす必要がある。果たしてそれは大丈夫な事なのだろうか、と目の前の男を前にして思った。例え善良そうな男でも、アルファはアルファだ。己の目的のために手段を選ばない私の夫のような気質の者も多いし、厳格で曲がったことが許せない私の父のような者もいる。過去の嫌な記憶から、ミカに今全てを委ねる事は出来そうに無かった。
私は小切手以外に持ってきた食料や服を彼に渡した。
「少しだけだが、気持ちだ。店主にも多めの金は払ってある。君が快適に暮らす手助けとなれば良い」
「……ありがたいが、そこまでしてもらうような事もしてないと思う。ただマウリを一晩抱きしめた、それだけだろう?」
たったそれだけが、私にとってどれ程の価値があるのか。彼は知らない。
私は続けた。
「……もしまた、必要な時が来たら……ここに来てもいいだろうか」
「必要?俺の抱擁が?」
「ああ」
「いつでも構わない。ほら」
ミカは腕を大きく広げ、私に向かって緩やかに微笑んだ。今日はそんなつもりも無かった。ただ話をして、謝罪をして、礼の品を渡す。それだけのつもりだったのに……どうしても抗えなかった。
私はミカの腕の中に身を寄せた。直ぐに背中に回ってきた手に、今回は戸惑いも無さそうだ。その温かさに胸のつっかえが取れていく。脳がふわふわとして、同時に胸がぎゅっと苦しくもなる。
ミカは私の頬に手を添えた。突然の事に驚いた私だが、彼の節榑立つ指は頬を撫でるだけだった。
「今日は泣かないな」
「今日は大丈夫だ。前回散々泣いたから」
「いつでも泣けばいい。事情は知らないが、俺はマウリを良く知らないし、誰かに告げ口する相手もいないから。好きな時に泣いていい」
そう言われて、思わず涙ぐみそうになる。元々の私は多分、泣き虫なのだ。どうにか二十数年、表では泣かないように堪えてきただけで、本質はそうでは無い。まるで本当の自分をさらけだしても構わない、受け止めると言われているように感じて、心が陶然とした。決して身分も本名も明かしていないからこそ、彼になら甘えてもいいのではないか。金で買っているからこそ、嫌悪を見せて来ない。全てがわかっていても、私はこの甘美な誘惑に勝てそうもなかった。
胸元に顔を埋めて抱きついた私に、ミカは喉の奥で笑い頭を撫でてくれる。束の間の安息に、私は目を閉じた。
その日から私は度々ミカの元を訪ねた。どうやら彼はアルファ故に、私以外の客は居ない様子だった。最初のように朝帰りはしないものの、度々夜遅くに出掛ける私に、夫であるフィデロや使用人たちは私に愛人ができたものだと思っている様だ。
先日書類の郵送を実家に頼むために廊下に出た時、掃除の係の者たちの話し声が聞こえた。
「ステファノ様、最近よく出掛けてるよな」
「愛人でしょ?どこに囲ってるのかは知らないけど、漸くよね」
「ああ。フィデロ様も昔から懇意にしている愛人がいるし、家にまた呼びたいみたいよ。またステファノ様が不在の日を狙ってるって聞いたわ」
「あの愛人のオメガ、ワガママで俺たちにとっては面倒だけどな。でも主人たちの不在が長いほうが、俺らにとってはありがたい」
「確かに!」
きゃっきゃと騒ぐ使用人たちに、家令の叱責の声が聞こえる。私とフィデロの不在が多くなり気が抜けている様だ。多少の私語は構わないが、職務怠慢や主人の噂話を流布するのは良い使用人のする事では無い。私はこの屋敷で働く全ての人間たちを管理する立場でもあり、名前や顔も把握している。噂話をしていた掃除係の男女に数日間の無給と謹慎を通達すると、屋敷の中がぴりりとするのが身に染みた。
こういう時、私もアルファだなと思う。穏やかに暮らしたいし、無闇に人を貶めたいとも思わない。しかし規律を守り、時には厳しい姿勢を見せなければ、人の上に立つ者にはなれない。
そうしてまた心が摩耗すれば、私はミカに会いに行った。今では私が来る度に、ミカはベッドの上で大腕を広げて待ってくれるようになった。私も最初の羞恥心はどこへ行ったのか、真っ先に彼に抱きつくのが慣例となっている。
二人で密着し、腕を絡める。心が浮き立つような気持ちと安息と、両方が毎回同時に訪れるので、私はいつも口数が少なかった。ミカも良く喋る方では無いが、私を抱きしめながら少しづつ、お互いの話をするようになっていった。
簡単な雑談から、季節の移り変わり。そんなところから、少しづつ彼の事情を聞くことになった。
そうしてミカの事を知れば知る程、この私にとって最大の幸福の時間が、終わりを迎えなければならない予感を感じていた。
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※性描写が多めの作品になっていますのでご注意ください。
└性描写が含まれる話のサブタイトルには※をつけています。
※表紙は「かんたん表紙メーカー」さまで作成しました。
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