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「では、ステファノ。念の為聞くけれど、ここを出て……一緒にシルスターンには来てくれないのか?」
「……え?」
「俺は、ここを出てステファノと一生に毎日抱き締めあって暮らせたらいいのに、なんて思ってた。ここでの生活が嫌なら、俺が攫ってどこかで暮らしてもいいとも思っている」
「私と、暮らす?」
「そうだ、好きだから。ステファノが」
私は自分の耳を疑った。好き?誰が?ミカが、私を?
そんな筈は無い。何しろ彼はアルファの男性で、私の事なんて仕事で嫌々接しているだけの筈だ。
しかし呆然とする私に、ミカの顔が近付いて来た事で益々頭が混乱状態になった。待て、まさかキスでもするつもりでは……。
そう思ったが案の定、ミカの唇が私の唇に触れた。軽く触れるだけですぐ離れていったそれだが、間違いなくミカの唇だった。思ったよりも柔らかくて、暖かい。そう認識した途端、私は身体中から火でも吹き出そうな程恥ずかしくなった。
たまに読む小説では、もちろんキスをしたりそれ以上の行為もよく見かける。しかし実際に自分がした事なんてあるはずも無く、夢想するくらいしか出来なかったのだ。まさかこんな風に、惚れた相手からして貰えるとも思っていなかった。
あまりにも嬉しくて、恥ずかしくて、飛び上がりそうな程動揺した。そしてそんな私を見て、ミカは破顔した。
「本当に、可愛いな。ステファノは」
「可愛い……とは、程遠いと思うが」
「確かに格好良いな。見た目とか、身体も、俺を助けてくれるその心意気も。だけど心根が可愛いから、俺には全部可愛く思えるよ」
何を言われているのか到底理解出来なかったが、心臓がうるさくてそれどころでは無かった。生きてきてこんなに混乱して、どうしようもなく浮き足立った気持ちになった事は無い。
それでもそのふわふわとした気持ちを押し殺して、私は言った。
「ミカの様な人が私を好いてくれる、というのは夢物語に思えて信じ難いが、どちらにしろ私は……この国を離れる事は出来ない」
「そうか」
「私には守るべき家があり、領民がいる。……ミカと居られたら、どんなに楽しくて素晴らしいか、考えただけで恋しくて……戻れなくなりそうだ」
ミカは私を抱き締めた。きっと、この人は嘘を言う人では無いと思う。アルファなのに本当に私のような人間を連れて帰りたいと思ってくれているのだとしたら、それだけで幸せで、充分だった。
私も彼を抱き締めて、その鍛え上げられた肉体に身体を寄せた。この温もりと優しさと恋情を、死ぬまで忘れないためにも。
そっと私の髪にミカの唇が触れた。それだけで胸がぎゅっと苦しくなり、震えそうだった。しかし名残惜しんでもいられない。早く彼をここから出発させ、私はここに彼を売ったオーナーの元に警備隊と一緒に逮捕状を届けに行かねばならないのだから。
身体を離そうとした時、ミカはそれを許さないとばかりに私を抱き込んだ。
「ステファノ。一つお願いがある」
「何だろうか」
「いつもあなたから求めて貰っていたから、俺からも求めていいか」
「求める?何をだ」
「そうだな、深い口付けが欲しい」
思わず彼の方を見上げたら、有無を言わさず再び唇が降ってきた。戸惑う暇もなく、ミカの舌が私の中に入ってくる。知識としては知っているものの、経験の無い私の代わりにミカの舌が私の舌を引きずり出し、絡めた。
「っ……!ぁ、ミカ……」
「はあ……」
粘膜同士が擦れ合い、口の中で非常に淫靡な音を立てた。舌先が触れ合うと、背筋から言い様の無い感覚が走り、在らぬところが熱くなりそうだった。
先程の触れるだけなんてものはお遊びでしか無いと思える。そして小説で想像していたものとは全く違い、私は快楽を逃げさせたくて身体を捩った。しかしそれをミカは許してくれず、むしろ腰を密着するかのようにぐっと私を引き寄せる。自然と下で昂っている物が触れ合ってしまった。
「ああっ、ミカ!止めてくれ……っ」
「ああ、悪い。あまりにもステファノの反応が可愛くて……暴走しかけた」
ミカはようやく身体と唇を離してくれたが、安堵なのか寂しさなのか分からないものが私の中で燻り、下の熱も収まりそうに無かった。このまま身を委ねたいとすら思うが、そんな時間は無い。
彼も名残惜しいと思ってくれているのか、最後にもう一度私にキスをした。
「ステファノ。色々と俺のために動いてくれて、ありがとう」
「私が勝手にした事だ」
「それでも構わない。ここからどうやって出るのか検討も付かなかった中で、ステファノのおかげでどうにかなりそうだ。でも俺は、これがステファノとの最後だなんて思ってない」
「……」
「次に会う時は、抱かせてくれ。思う存分」
反射的に顔が熱くなった私の頬に、ミカの指が触れた。顔を見上げれば、そこには笑顔がある。そしてその瞳は真摯さに溢れていて、本当にそれが叶ってしまうのではないかという気さえしてくるから、不思議だった。
自分の立場を忘れ、私はただその瞳を見返していた。この日、この時の事を忘れないためにも。私は飽きる事無くただその優しい笑みと瞳を見詰めていた。
───────
代わり無い朝、いつもの様に食卓についたが、夫の姿は向かいには無かった。
最近夫であるフィデロが立ち上げた事業が頓挫し、荒れているのだ。フィデロは私と違って革新的な思い付きを得られる人間だが、その反面利益や真新しさを優先し過ぎるところがある。今回も国境近くに新しい造船会社の建設を予定したが、地元住民の反発が強く、軽い暴動にまで発展した。
事態を重く見た国王陛下からフィデロは議会に招集され、暫くの新規事業の全面計画停止と、暴動鎮圧による警備費や街の建て直しのための賠償金が要求された。議会から帰ってきた夫は荒れていた。
「何で暴動なんか起きる!船を作れば漁業ももっと広域化できるし、街にも恩恵しか無いだろう!雇用も増えるんだぞ!」
「国王陛下が言った通りだ。あの地域は昔から海の神への信仰心が強く、宗教も発展している。そんな中で魚を乱獲する船は悪に思えても仕方が無い。強行せずもう少し対話すべき所を、いきなり建設に着手すれば反発は強くなる」
「俺は指示を出しただけで、住民の説得なんかは俺の仕事じゃないだろう?そんなもの適当に派遣した役人にやらせるのが筋だ!」
「そうでも無い。領主が自ら説得が必要な時もある」
私の言葉に、フィデロは鼻で笑った。
「お前の様な広大な土地だけで田舎の領主には分からないだろうな。俺は何手先を見越して判断している!何が慎重に、だ。国王もお前もノロマで反吐が出る」
暴言を吐くと、夫は自室の方へと行ってしまった。
フィデロ・ラルゴと結婚してから、既に六年が経過し、私は二十八の歳を迎えた。普段はお互い干渉もせず、淡々と事業を共に行う程度でしかない。相変わらず朝食の時くらいしか顔を合わせないが、これといって変化の無い日々である。
しかし、ここ近年フィデロの事業の進め方は危ないものがあった。彼は急成長、急拡大を求めて慎重さに欠け、たまにこうして失敗する事が増えたのだ。しかしその分成功した事業もある事はあるので、利益はどんどんとうなぎ登りになっている。ラルゴ家の財産は私のレアンドロ家よりもかなり多くなっているからか、最近ではフィデロが私を下に見るような発言も多い。
どうして彼がそうなったのか。偏に、愛人のせいだ。一番長くフィデロと付き合っている愛人が、どうやら社交界で幅を利かせているらしい。まるでフィデロの公式的な伴侶の様に振る舞い、高価なものをフィデロに買わせ、事業についても口出しをしている様だ。昔は私に愛人の影を見せなかったフィデロだが、最近は資産が増えたせいか私より愛人を優先させ、朝食の場にも現れず朝帰りする事も増えた。どうやら街の外れに、別の家を買ったらしいので、そこに入り浸っているのだと推察される。
きっと昔の私なら、悲しくて部屋で一人で泣いていたと思う。事業の立て直しややるべき事は表できちんと行いながらも、理想の夫婦とは程遠くむしろ悪化していくこの現状に、嘆いて部屋で一人涙を流していただろう。
しかし、今の私は違う。
私の心の中には、愛する人がいる。
決して再び抱き締めあって一緒に暮らせるだとか、そこまでは思っていない。しかし今の私は少しだけ強くなった。
愛する人ともし再びどこかですれ違ったら。新聞記事等で私の事を知る事があったら。彼に恥じぬ人間になっておきたいと思える。だからこそ、堕落していく様に思える夫と如何に縁を切るか、考えながら強かに動いている。
ミカエル・サハンというアルファの男性と知り合い、そして恋に落ちてから二年が経過していた。
ミカエルは元剣士、更に辿れば東方の国シルスターンの元騎士団長だったが、様々な思惑で恨まれ男娼に落とされた。だからこそ私が彼と出会えたのだが、とは言えずっと男娼でいる様な人では無い。私の密偵が入手した証拠により、彼を国外追放に追いやったシルスターンの騎士たちを特定し、断罪する事に成功した。また彼を娼館に売った花街を牛耳る男も処罰し、私の管轄の人間を配置した。
結果として花街ロレンソはかなり浄化できたと思われる。もちろんそのような行為を推奨する街なのは変わらないが、違法な薬物や闇取引、人身売買に関しては一掃できた。全ての娼館で働く者にも人権を与え、支援福祉も充実させた。
また密偵の報告によればミカエルは無事祖国に入国し、騎士団に蔓延る悪を暴いた英雄として騎士団長に返り咲き、爵位を与えられたとの事だ。ここまでは私がシルスターンの国王と約束した通りで、安堵した。
そこから先の彼の事は知らない。
どうでもいいという訳ではない。ただ、知るのが怖かったのだ。再び騎士団長になり、爵位まで継いだ美しく勇ましいアルファの男性を、周りのオメガや女性は放って置かないだろう。私のようなただのアルファは、あの牢獄に居たからこそ、恋情を向けて貰えたのだと思っている。
あそこに居たのは私と彼だけで、閉鎖的な特殊空間だった。そんな中で頼れるのは私だけで、多分ミカエルも祖国に戻れば目が覚めて、オメガや女性のほうが良いと思えるだろう。
私はため息をついて、自室へと戻った。
自室に入る前に、侍従を呼び出した。金さえ払えば動いてくれる、頼もしい侍従だ。
「お呼びでしょうか」
「フィデロは今日もあちらの家か」
「その様です。また新規事業を愛人と計画しているとか」
「新規事業計画の停止命令が国王陛下から出ているのに?」
「ばれなければ問題無い、と愛人の方が仰っているみたいですね」
「……呆れるな。しかしそこまで来てしまえば、そろそろいけそうだ」
「そうですね。向こうにも仲間の使用人がおりますので、録音させておきましょうか」
「そうしてくれ。報酬はいつもの通り弾ませる」
侍従は頭を下げ、私の部屋を後にした。
夫は品行方正とは程遠く、そして夫婦関係も破綻している。更には国王陛下の命令さえ無視している様な家の当主であれば……私も離婚が成立できると思われる。
そうなれば、もしかしたらまた他の家との婚姻が待っている可能性も無くはない。しかし出来れば私は表舞台からは引っ込んで、レアンドロ領主の座も弟に譲りたいと思っていた。
領主としての仕事は非常に責任が重いが、やり甲斐もある。ただもう、再び誰かと結婚はしたくなかった。私の心には既に愛する人が居て、一人だけでもう充分なのだ。またしても政治的に私の婚姻が使われる事の無いよう、いっそ既に結婚している弟に家督を継いでもらいたい。もちろん私も事業や領主の補佐はするので、レアンドロ領としては変わらず安泰でいられるだろう。
そうして暮らす、ある日の事だった。
いつも通りラルゴ家の自室で黙々と執務を熟していると、俄に廊下の方が慌ただしい気配がした。
「何事だ」
「それが……第二王子のアンドレアス殿下が、国王陛下の書状を携えていらっしゃった様で」
驚いて窓の外を見遣ると、ラルゴ家の正門に馬に乗った人物数名と王家の紋章入りの馬車、何十名かの騎士の姿が見られた。
こんな風に突然王族が来訪するなんて事は普通有り得ない。余程の緊急事態とみて、私は上着を着ると慌てて玄関の方に向かった。
何か問題が起きたか?と私は思考を巡らせる。確かに、最近夫であるフィデロについて国王陛下に相談差し上げた直後ではあった。いくつかのフィデロが不貞を働く証拠と、魔石に録音させた音声を提出はした。
ただそれはあくまで離婚の許しを貰うためであり、精々離婚を許可する手紙が送られてくる程度だと思っていた。それが何故第二王子殿下が直接いらっしゃって、しかもこのように仰々しい兵士を連れてくるのか。
兎にも角にも、殿下をお迎えするために私は急いで玄関から正門へと向かうのだった。
「……え?」
「俺は、ここを出てステファノと一生に毎日抱き締めあって暮らせたらいいのに、なんて思ってた。ここでの生活が嫌なら、俺が攫ってどこかで暮らしてもいいとも思っている」
「私と、暮らす?」
「そうだ、好きだから。ステファノが」
私は自分の耳を疑った。好き?誰が?ミカが、私を?
そんな筈は無い。何しろ彼はアルファの男性で、私の事なんて仕事で嫌々接しているだけの筈だ。
しかし呆然とする私に、ミカの顔が近付いて来た事で益々頭が混乱状態になった。待て、まさかキスでもするつもりでは……。
そう思ったが案の定、ミカの唇が私の唇に触れた。軽く触れるだけですぐ離れていったそれだが、間違いなくミカの唇だった。思ったよりも柔らかくて、暖かい。そう認識した途端、私は身体中から火でも吹き出そうな程恥ずかしくなった。
たまに読む小説では、もちろんキスをしたりそれ以上の行為もよく見かける。しかし実際に自分がした事なんてあるはずも無く、夢想するくらいしか出来なかったのだ。まさかこんな風に、惚れた相手からして貰えるとも思っていなかった。
あまりにも嬉しくて、恥ずかしくて、飛び上がりそうな程動揺した。そしてそんな私を見て、ミカは破顔した。
「本当に、可愛いな。ステファノは」
「可愛い……とは、程遠いと思うが」
「確かに格好良いな。見た目とか、身体も、俺を助けてくれるその心意気も。だけど心根が可愛いから、俺には全部可愛く思えるよ」
何を言われているのか到底理解出来なかったが、心臓がうるさくてそれどころでは無かった。生きてきてこんなに混乱して、どうしようもなく浮き足立った気持ちになった事は無い。
それでもそのふわふわとした気持ちを押し殺して、私は言った。
「ミカの様な人が私を好いてくれる、というのは夢物語に思えて信じ難いが、どちらにしろ私は……この国を離れる事は出来ない」
「そうか」
「私には守るべき家があり、領民がいる。……ミカと居られたら、どんなに楽しくて素晴らしいか、考えただけで恋しくて……戻れなくなりそうだ」
ミカは私を抱き締めた。きっと、この人は嘘を言う人では無いと思う。アルファなのに本当に私のような人間を連れて帰りたいと思ってくれているのだとしたら、それだけで幸せで、充分だった。
私も彼を抱き締めて、その鍛え上げられた肉体に身体を寄せた。この温もりと優しさと恋情を、死ぬまで忘れないためにも。
そっと私の髪にミカの唇が触れた。それだけで胸がぎゅっと苦しくなり、震えそうだった。しかし名残惜しんでもいられない。早く彼をここから出発させ、私はここに彼を売ったオーナーの元に警備隊と一緒に逮捕状を届けに行かねばならないのだから。
身体を離そうとした時、ミカはそれを許さないとばかりに私を抱き込んだ。
「ステファノ。一つお願いがある」
「何だろうか」
「いつもあなたから求めて貰っていたから、俺からも求めていいか」
「求める?何をだ」
「そうだな、深い口付けが欲しい」
思わず彼の方を見上げたら、有無を言わさず再び唇が降ってきた。戸惑う暇もなく、ミカの舌が私の中に入ってくる。知識としては知っているものの、経験の無い私の代わりにミカの舌が私の舌を引きずり出し、絡めた。
「っ……!ぁ、ミカ……」
「はあ……」
粘膜同士が擦れ合い、口の中で非常に淫靡な音を立てた。舌先が触れ合うと、背筋から言い様の無い感覚が走り、在らぬところが熱くなりそうだった。
先程の触れるだけなんてものはお遊びでしか無いと思える。そして小説で想像していたものとは全く違い、私は快楽を逃げさせたくて身体を捩った。しかしそれをミカは許してくれず、むしろ腰を密着するかのようにぐっと私を引き寄せる。自然と下で昂っている物が触れ合ってしまった。
「ああっ、ミカ!止めてくれ……っ」
「ああ、悪い。あまりにもステファノの反応が可愛くて……暴走しかけた」
ミカはようやく身体と唇を離してくれたが、安堵なのか寂しさなのか分からないものが私の中で燻り、下の熱も収まりそうに無かった。このまま身を委ねたいとすら思うが、そんな時間は無い。
彼も名残惜しいと思ってくれているのか、最後にもう一度私にキスをした。
「ステファノ。色々と俺のために動いてくれて、ありがとう」
「私が勝手にした事だ」
「それでも構わない。ここからどうやって出るのか検討も付かなかった中で、ステファノのおかげでどうにかなりそうだ。でも俺は、これがステファノとの最後だなんて思ってない」
「……」
「次に会う時は、抱かせてくれ。思う存分」
反射的に顔が熱くなった私の頬に、ミカの指が触れた。顔を見上げれば、そこには笑顔がある。そしてその瞳は真摯さに溢れていて、本当にそれが叶ってしまうのではないかという気さえしてくるから、不思議だった。
自分の立場を忘れ、私はただその瞳を見返していた。この日、この時の事を忘れないためにも。私は飽きる事無くただその優しい笑みと瞳を見詰めていた。
───────
代わり無い朝、いつもの様に食卓についたが、夫の姿は向かいには無かった。
最近夫であるフィデロが立ち上げた事業が頓挫し、荒れているのだ。フィデロは私と違って革新的な思い付きを得られる人間だが、その反面利益や真新しさを優先し過ぎるところがある。今回も国境近くに新しい造船会社の建設を予定したが、地元住民の反発が強く、軽い暴動にまで発展した。
事態を重く見た国王陛下からフィデロは議会に招集され、暫くの新規事業の全面計画停止と、暴動鎮圧による警備費や街の建て直しのための賠償金が要求された。議会から帰ってきた夫は荒れていた。
「何で暴動なんか起きる!船を作れば漁業ももっと広域化できるし、街にも恩恵しか無いだろう!雇用も増えるんだぞ!」
「国王陛下が言った通りだ。あの地域は昔から海の神への信仰心が強く、宗教も発展している。そんな中で魚を乱獲する船は悪に思えても仕方が無い。強行せずもう少し対話すべき所を、いきなり建設に着手すれば反発は強くなる」
「俺は指示を出しただけで、住民の説得なんかは俺の仕事じゃないだろう?そんなもの適当に派遣した役人にやらせるのが筋だ!」
「そうでも無い。領主が自ら説得が必要な時もある」
私の言葉に、フィデロは鼻で笑った。
「お前の様な広大な土地だけで田舎の領主には分からないだろうな。俺は何手先を見越して判断している!何が慎重に、だ。国王もお前もノロマで反吐が出る」
暴言を吐くと、夫は自室の方へと行ってしまった。
フィデロ・ラルゴと結婚してから、既に六年が経過し、私は二十八の歳を迎えた。普段はお互い干渉もせず、淡々と事業を共に行う程度でしかない。相変わらず朝食の時くらいしか顔を合わせないが、これといって変化の無い日々である。
しかし、ここ近年フィデロの事業の進め方は危ないものがあった。彼は急成長、急拡大を求めて慎重さに欠け、たまにこうして失敗する事が増えたのだ。しかしその分成功した事業もある事はあるので、利益はどんどんとうなぎ登りになっている。ラルゴ家の財産は私のレアンドロ家よりもかなり多くなっているからか、最近ではフィデロが私を下に見るような発言も多い。
どうして彼がそうなったのか。偏に、愛人のせいだ。一番長くフィデロと付き合っている愛人が、どうやら社交界で幅を利かせているらしい。まるでフィデロの公式的な伴侶の様に振る舞い、高価なものをフィデロに買わせ、事業についても口出しをしている様だ。昔は私に愛人の影を見せなかったフィデロだが、最近は資産が増えたせいか私より愛人を優先させ、朝食の場にも現れず朝帰りする事も増えた。どうやら街の外れに、別の家を買ったらしいので、そこに入り浸っているのだと推察される。
きっと昔の私なら、悲しくて部屋で一人で泣いていたと思う。事業の立て直しややるべき事は表できちんと行いながらも、理想の夫婦とは程遠くむしろ悪化していくこの現状に、嘆いて部屋で一人涙を流していただろう。
しかし、今の私は違う。
私の心の中には、愛する人がいる。
決して再び抱き締めあって一緒に暮らせるだとか、そこまでは思っていない。しかし今の私は少しだけ強くなった。
愛する人ともし再びどこかですれ違ったら。新聞記事等で私の事を知る事があったら。彼に恥じぬ人間になっておきたいと思える。だからこそ、堕落していく様に思える夫と如何に縁を切るか、考えながら強かに動いている。
ミカエル・サハンというアルファの男性と知り合い、そして恋に落ちてから二年が経過していた。
ミカエルは元剣士、更に辿れば東方の国シルスターンの元騎士団長だったが、様々な思惑で恨まれ男娼に落とされた。だからこそ私が彼と出会えたのだが、とは言えずっと男娼でいる様な人では無い。私の密偵が入手した証拠により、彼を国外追放に追いやったシルスターンの騎士たちを特定し、断罪する事に成功した。また彼を娼館に売った花街を牛耳る男も処罰し、私の管轄の人間を配置した。
結果として花街ロレンソはかなり浄化できたと思われる。もちろんそのような行為を推奨する街なのは変わらないが、違法な薬物や闇取引、人身売買に関しては一掃できた。全ての娼館で働く者にも人権を与え、支援福祉も充実させた。
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そこから先の彼の事は知らない。
どうでもいいという訳ではない。ただ、知るのが怖かったのだ。再び騎士団長になり、爵位まで継いだ美しく勇ましいアルファの男性を、周りのオメガや女性は放って置かないだろう。私のようなただのアルファは、あの牢獄に居たからこそ、恋情を向けて貰えたのだと思っている。
あそこに居たのは私と彼だけで、閉鎖的な特殊空間だった。そんな中で頼れるのは私だけで、多分ミカエルも祖国に戻れば目が覚めて、オメガや女性のほうが良いと思えるだろう。
私はため息をついて、自室へと戻った。
自室に入る前に、侍従を呼び出した。金さえ払えば動いてくれる、頼もしい侍従だ。
「お呼びでしょうか」
「フィデロは今日もあちらの家か」
「その様です。また新規事業を愛人と計画しているとか」
「新規事業計画の停止命令が国王陛下から出ているのに?」
「ばれなければ問題無い、と愛人の方が仰っているみたいですね」
「……呆れるな。しかしそこまで来てしまえば、そろそろいけそうだ」
「そうですね。向こうにも仲間の使用人がおりますので、録音させておきましょうか」
「そうしてくれ。報酬はいつもの通り弾ませる」
侍従は頭を下げ、私の部屋を後にした。
夫は品行方正とは程遠く、そして夫婦関係も破綻している。更には国王陛下の命令さえ無視している様な家の当主であれば……私も離婚が成立できると思われる。
そうなれば、もしかしたらまた他の家との婚姻が待っている可能性も無くはない。しかし出来れば私は表舞台からは引っ込んで、レアンドロ領主の座も弟に譲りたいと思っていた。
領主としての仕事は非常に責任が重いが、やり甲斐もある。ただもう、再び誰かと結婚はしたくなかった。私の心には既に愛する人が居て、一人だけでもう充分なのだ。またしても政治的に私の婚姻が使われる事の無いよう、いっそ既に結婚している弟に家督を継いでもらいたい。もちろん私も事業や領主の補佐はするので、レアンドロ領としては変わらず安泰でいられるだろう。
そうして暮らす、ある日の事だった。
いつも通りラルゴ家の自室で黙々と執務を熟していると、俄に廊下の方が慌ただしい気配がした。
「何事だ」
「それが……第二王子のアンドレアス殿下が、国王陛下の書状を携えていらっしゃった様で」
驚いて窓の外を見遣ると、ラルゴ家の正門に馬に乗った人物数名と王家の紋章入りの馬車、何十名かの騎士の姿が見られた。
こんな風に突然王族が来訪するなんて事は普通有り得ない。余程の緊急事態とみて、私は上着を着ると慌てて玄関の方に向かった。
何か問題が起きたか?と私は思考を巡らせる。確かに、最近夫であるフィデロについて国王陛下に相談差し上げた直後ではあった。いくつかのフィデロが不貞を働く証拠と、魔石に録音させた音声を提出はした。
ただそれはあくまで離婚の許しを貰うためであり、精々離婚を許可する手紙が送られてくる程度だと思っていた。それが何故第二王子殿下が直接いらっしゃって、しかもこのように仰々しい兵士を連れてくるのか。
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