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19.追い求める理由
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王子様を一目見ようと、使用人の女たちは代わる代わる晩餐の席を覗きに行っていた。
ノラもエミリーに誘われたが、一目見れば余計に辛くなるだけだと判断し、その誘いは頑なに断った。
覗き見から戻って来る女たちが「美しい」「素敵」「あの微笑み……」とうっとり夢見心地で口にする度、それはエリック様ではないのでは、と疑問が沸き上がった。
三人の令嬢が泣いて帰ったほど眼力はあるし、屈強な体躯は確かに男らしくて素敵だが美しいと形容するには少し違う気がする。
はしゃいで出て行ったエミリーが胸を押さえて戻って来て、うっとりと空を見つめている。
「王子様ってやっぱり素敵なのね……。あの赤い髪、目に焼き付いて離れないわ……」
「赤い髪?」
それはおそらくウィンストン様だろう。
自分が犯した失敗を皆も辿っているのだと気付いたノラは、密かに笑った。
「それはウィンストン様という方よ、王子様じゃないわ」
「えぇ!? あの方が王子様じゃないなら、どの方が王子様だったの?」
エミリーにだけそっと耳打ちしたのだが、彼女の盛大な反応に周囲からも視線が集まる。
「ノラは王子様がどんな方か知ってるの?」
「教えて、どんな方?」
いつの間にか囲まれたノラは周囲の羨望の眼差しに耐えかねて視線を逸らす。
教えて、と口々に言う女たちを宥めるように見渡した。
「王子様は……」
彼との思い出が鮮やかに蘇る。
大きな手、優しい声、温かい腕の中に、自分を見つめる金色の瞳。
「……背の高い方よ、体の、がっしりした……」
「そんな方いらっしゃったかしら?」
さぁ、と肩を竦める女たちに、ノラの心を冷たい何かが支配する。
もしかして、来ているのは王子様ではなくてウィンストン様だけで、それは例えば花嫁候補のリリア様が追い返されたことに関する事後処理の一環かもしれない。
そうだ、きっとそうだ。
ここには彼は、来ていない。
来るはずがないし、来たところで、こんな自分を見せて、どうしようというのか。
記憶の中の金色の瞳が、使用人の自分を変わらず愛しげに見つめてくれるはずがない。
きっと、これから王子様は、リリア様やアリシア嬢のようなお綺麗なご令嬢を妃に迎えて、それから……。
「ノラ?」
ぽつり、と手の甲に雫が落ちてはじめて自分が泣いていることに気が付いた。
エミリーがノラの背中を擦る。
「ノラ、どうしたの? どこか痛む?」
「ううん、違う、そうじゃないの……」
痛い、本当は痛い。
想いも痛みも、何もかもに蓋をするように瞼を閉じる。
深く深呼吸するノラを、たくさんの手が撫でてくれる。
自分の居場所はここなんだ、と、言い聞かせるようにノラは「ありがとう」と呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇
グレイフィール伯グレイドは、ほとほと困り果てていた。
突然やって来たエリック王子は噂に違わぬ屈強な体躯の青年で、その精悍な顔つきや冷たさばかりが先に来る態度でこう切り出した。
“リリア・グレイフィールはマティアスで幸せに暮らしているようだな”と。
そうだ。我が最愛の一人娘、リリアはたかだか男爵家の次男なんぞと王都から遠く離れたマティアスという町で慎ましくも幸せに暮らしている。それは、グレイド自身が築き上げてきた情報網から仕入れた信頼できる情報であった。どれだけそれが公にならないように隠しているか。
それを、エリック王子が知っているということは──
全てが王家に露呈した、と卒倒しかけたグレイドはしかし、王子の発した次なる言葉で困り果てることになる。
「グレイフィール伯の令嬢の幸せを壊すつもりも、グレイフィール家をどうこうする気もない。城に来ていた娘が、まだここに居るのか、知りたいのはそれだけだ」
ノラのことか?
金髪と青に見えなくもない緑みの瞳、リリアに似たその容姿と、同じ年齢というだけで王都に向かわせた使用人の娘ノラ、その彼女を、どうしてエリック王子が探しているのか。
何かとんでもない失態をしでかして、彼女を捕まえに来たのだろうか。
ノラを差し出すことは、グレイドにとって難しいことではない。彼女は勤勉な働き者で、仲間内からの信頼も厚い。だが、彼女一人とグレイフィール家を天秤にかけたとき、その傾きは圧倒的である。グレイドは家を守らなければならない。それは当主として、当然の務めだ。
しかし。
ノラをどうする気なのか。
ノラについて知りたいというのは、自分の口から真実を引き出すための餌に過ぎないのではないのか。
娘のこととなると簡単に泡を吹き取り乱すグレイドであったが、彼は優秀な男でもあった。
「城に参上しておりました娘、と仰いますのは、我が娘リリアのことでしょうか?」
どう出るか、と伺っていたグレイドに、エリックは静かに答えた。
「いや、侍女としてもう一人来ていただろう」
「……あぁ、あの娘ですか。何か、粗相がありましたか?」
「彼女と話がしたい」
話、だと?
一国の王子と、使用人のノラが、話?
目の前の王子は鋭い視線で自分を見据えている。まるでそれは、獲物を見つめる野生の獣のようであり、切羽詰まった一人の青年のようでもある。
その姿に、グレイドは懐かしさを覚える。
自分が妻の両親に挨拶に行ったときにも、確か、こんなふうに。
グレイドは目の前の王子に気付かれないように、小さく微笑んだ。
決して許されないリリアのしでかした罪をいともたやすく流してしまうほど、ノラを追い求める理由。わざわざ王子自らこの地へ足を運んだ訳。
たった一人の娘を追って、王子はここまでやって来たのか。
マイアから戻って来たノラが傷心のようだとは聞いていたが、まさか相手が彼だとは。
「殿下、ひとつ、仮の話をご提案したい」
「……何だ」
「我が娘リリアは大変前向きな女でして、この度我が家に戻ったあと、王子様を泣く泣く諦め、今は無事相手に巡り合い結婚しております」
「それは良かった」
エリック王子は辛抱強くグレイドの話を聞いている。
わかりきった嘘を黒だと言うつもりもないらしい。
「相手は爵位を持たぬ若者で、ご存知のとおり、私には他に子がおりません。そこで、娘と婿を呼び戻し、ゆくゆくはその婿にこのグレイフィール家を渡しても良いかと考えております」
「……今から仕込むのは大変だろうな」
「殿下の未来の奥方についても、同じことかと」
じっと金色の瞳を見返す。
どの程度の覚悟があるのか、と僭越ながら父親のような心持で問うたつもりだったが、彼の決意は小動もしなかった。
そこには、一時の想いに身を任せてここまで来たのではないとグレイドに感じさせる強い意志が伺えた。
「爵位の相続については、直系の男子にのみと決められていたと記憶しております」
「特例とすればいい。グレイフィール伯は裏工作も得意のはず、と記憶している」
悪くない意趣返しに、グレイドは若者の未来が楽しみだとまた密かに笑った。
「そうそう、これも仮の話ですが、私にはもう一人娘がおりまして……」
この提案に、エリック王子は困ったような、面映ゆいような微妙な顔をして、「彼女と直接話す」と答えを濁してグレイドの部屋を後にした。
もしこの仮定を真実としてノラを送り出すことになったら、どれほど妻が激昂し泣き叫び取り乱し使用人の女たちからも冷たい目で見られしばらく口をきいてもらえなくなるか、と考えるとグレイドの背筋には冷たい汗が流れたが、まさか王家に使用人の子を行かせるわけにもいかない。それはゆくゆく生まれる彼らの子にも、一生の枷を負わせることにもなりかねない。
偽物令嬢、あの獣のような王子にはちょうど似合いかもしれない、とグレイドはまた密かに笑った。
ノラもエミリーに誘われたが、一目見れば余計に辛くなるだけだと判断し、その誘いは頑なに断った。
覗き見から戻って来る女たちが「美しい」「素敵」「あの微笑み……」とうっとり夢見心地で口にする度、それはエリック様ではないのでは、と疑問が沸き上がった。
三人の令嬢が泣いて帰ったほど眼力はあるし、屈強な体躯は確かに男らしくて素敵だが美しいと形容するには少し違う気がする。
はしゃいで出て行ったエミリーが胸を押さえて戻って来て、うっとりと空を見つめている。
「王子様ってやっぱり素敵なのね……。あの赤い髪、目に焼き付いて離れないわ……」
「赤い髪?」
それはおそらくウィンストン様だろう。
自分が犯した失敗を皆も辿っているのだと気付いたノラは、密かに笑った。
「それはウィンストン様という方よ、王子様じゃないわ」
「えぇ!? あの方が王子様じゃないなら、どの方が王子様だったの?」
エミリーにだけそっと耳打ちしたのだが、彼女の盛大な反応に周囲からも視線が集まる。
「ノラは王子様がどんな方か知ってるの?」
「教えて、どんな方?」
いつの間にか囲まれたノラは周囲の羨望の眼差しに耐えかねて視線を逸らす。
教えて、と口々に言う女たちを宥めるように見渡した。
「王子様は……」
彼との思い出が鮮やかに蘇る。
大きな手、優しい声、温かい腕の中に、自分を見つめる金色の瞳。
「……背の高い方よ、体の、がっしりした……」
「そんな方いらっしゃったかしら?」
さぁ、と肩を竦める女たちに、ノラの心を冷たい何かが支配する。
もしかして、来ているのは王子様ではなくてウィンストン様だけで、それは例えば花嫁候補のリリア様が追い返されたことに関する事後処理の一環かもしれない。
そうだ、きっとそうだ。
ここには彼は、来ていない。
来るはずがないし、来たところで、こんな自分を見せて、どうしようというのか。
記憶の中の金色の瞳が、使用人の自分を変わらず愛しげに見つめてくれるはずがない。
きっと、これから王子様は、リリア様やアリシア嬢のようなお綺麗なご令嬢を妃に迎えて、それから……。
「ノラ?」
ぽつり、と手の甲に雫が落ちてはじめて自分が泣いていることに気が付いた。
エミリーがノラの背中を擦る。
「ノラ、どうしたの? どこか痛む?」
「ううん、違う、そうじゃないの……」
痛い、本当は痛い。
想いも痛みも、何もかもに蓋をするように瞼を閉じる。
深く深呼吸するノラを、たくさんの手が撫でてくれる。
自分の居場所はここなんだ、と、言い聞かせるようにノラは「ありがとう」と呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇
グレイフィール伯グレイドは、ほとほと困り果てていた。
突然やって来たエリック王子は噂に違わぬ屈強な体躯の青年で、その精悍な顔つきや冷たさばかりが先に来る態度でこう切り出した。
“リリア・グレイフィールはマティアスで幸せに暮らしているようだな”と。
そうだ。我が最愛の一人娘、リリアはたかだか男爵家の次男なんぞと王都から遠く離れたマティアスという町で慎ましくも幸せに暮らしている。それは、グレイド自身が築き上げてきた情報網から仕入れた信頼できる情報であった。どれだけそれが公にならないように隠しているか。
それを、エリック王子が知っているということは──
全てが王家に露呈した、と卒倒しかけたグレイドはしかし、王子の発した次なる言葉で困り果てることになる。
「グレイフィール伯の令嬢の幸せを壊すつもりも、グレイフィール家をどうこうする気もない。城に来ていた娘が、まだここに居るのか、知りたいのはそれだけだ」
ノラのことか?
金髪と青に見えなくもない緑みの瞳、リリアに似たその容姿と、同じ年齢というだけで王都に向かわせた使用人の娘ノラ、その彼女を、どうしてエリック王子が探しているのか。
何かとんでもない失態をしでかして、彼女を捕まえに来たのだろうか。
ノラを差し出すことは、グレイドにとって難しいことではない。彼女は勤勉な働き者で、仲間内からの信頼も厚い。だが、彼女一人とグレイフィール家を天秤にかけたとき、その傾きは圧倒的である。グレイドは家を守らなければならない。それは当主として、当然の務めだ。
しかし。
ノラをどうする気なのか。
ノラについて知りたいというのは、自分の口から真実を引き出すための餌に過ぎないのではないのか。
娘のこととなると簡単に泡を吹き取り乱すグレイドであったが、彼は優秀な男でもあった。
「城に参上しておりました娘、と仰いますのは、我が娘リリアのことでしょうか?」
どう出るか、と伺っていたグレイドに、エリックは静かに答えた。
「いや、侍女としてもう一人来ていただろう」
「……あぁ、あの娘ですか。何か、粗相がありましたか?」
「彼女と話がしたい」
話、だと?
一国の王子と、使用人のノラが、話?
目の前の王子は鋭い視線で自分を見据えている。まるでそれは、獲物を見つめる野生の獣のようであり、切羽詰まった一人の青年のようでもある。
その姿に、グレイドは懐かしさを覚える。
自分が妻の両親に挨拶に行ったときにも、確か、こんなふうに。
グレイドは目の前の王子に気付かれないように、小さく微笑んだ。
決して許されないリリアのしでかした罪をいともたやすく流してしまうほど、ノラを追い求める理由。わざわざ王子自らこの地へ足を運んだ訳。
たった一人の娘を追って、王子はここまでやって来たのか。
マイアから戻って来たノラが傷心のようだとは聞いていたが、まさか相手が彼だとは。
「殿下、ひとつ、仮の話をご提案したい」
「……何だ」
「我が娘リリアは大変前向きな女でして、この度我が家に戻ったあと、王子様を泣く泣く諦め、今は無事相手に巡り合い結婚しております」
「それは良かった」
エリック王子は辛抱強くグレイドの話を聞いている。
わかりきった嘘を黒だと言うつもりもないらしい。
「相手は爵位を持たぬ若者で、ご存知のとおり、私には他に子がおりません。そこで、娘と婿を呼び戻し、ゆくゆくはその婿にこのグレイフィール家を渡しても良いかと考えております」
「……今から仕込むのは大変だろうな」
「殿下の未来の奥方についても、同じことかと」
じっと金色の瞳を見返す。
どの程度の覚悟があるのか、と僭越ながら父親のような心持で問うたつもりだったが、彼の決意は小動もしなかった。
そこには、一時の想いに身を任せてここまで来たのではないとグレイドに感じさせる強い意志が伺えた。
「爵位の相続については、直系の男子にのみと決められていたと記憶しております」
「特例とすればいい。グレイフィール伯は裏工作も得意のはず、と記憶している」
悪くない意趣返しに、グレイドは若者の未来が楽しみだとまた密かに笑った。
「そうそう、これも仮の話ですが、私にはもう一人娘がおりまして……」
この提案に、エリック王子は困ったような、面映ゆいような微妙な顔をして、「彼女と直接話す」と答えを濁してグレイドの部屋を後にした。
もしこの仮定を真実としてノラを送り出すことになったら、どれほど妻が激昂し泣き叫び取り乱し使用人の女たちからも冷たい目で見られしばらく口をきいてもらえなくなるか、と考えるとグレイドの背筋には冷たい汗が流れたが、まさか王家に使用人の子を行かせるわけにもいかない。それはゆくゆく生まれる彼らの子にも、一生の枷を負わせることにもなりかねない。
偽物令嬢、あの獣のような王子にはちょうど似合いかもしれない、とグレイドはまた密かに笑った。
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