千年の扉

桃青

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33.

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 そしていよいよファンタジーが動き始めようとしている、そんな日々の中。ある日稔は仕事を終えて、軽い足取りで独り暮らしをしている自宅まで帰ってくると、思わず家の前で足を止めた。
 何故ならそこには、遥が立っていたからである。
 彼女は遠い目をして、何処かを見つめていた。稔の心の中では、自分でもどうする事もできない募る思いが溢れ出したが、その気持ちを押し殺して、彼は彼女の側まで行って、声を掛けた。
「・・・久し振り。」
 すると遥は驚いた様子で振り返って、背後に立つ稔の姿を認めると、微かに笑みを浮かべてこくんと頷いてみせた。
「どうしたの?」
 そう稔がさりげなく問うと、彼女はちょっと考えに耽り、
「何だか、誰かに会いたくなって。それで稔さんの事を思い出したの。ここに来れば、ひょっとしたら会えるかもしれない・・・、そう思って。」
 と稔を真っ直ぐに見つめて言った。稔は微笑を浮かべて、遥に言った。
「よく、僕の家の場所を覚えていたね。じゃあ、とにかく中に入って。・・・あ、一応言っておくけれど、僕に変な下心はないから。
 これから部屋で、じっくり話をしよう。」
「うん、分かったわ。」
 遥はそう言って、稔がドアを開けて遥を促すと、まるで誘われるかのように部屋の中へと入っていった。

 遥は狭い1DKの部屋の中へ入ると、以前に来た時にそうしたように、丸テーブルの近くに腰を下ろした。稔はそんな彼女の様子を見てから台所に行って、ペットボトルに入っているお茶をゴボゴボと2つのコップに注ぎ込んでから、再び遥の元へと戻ってきた。
「どうぞ、飲んで。」
 稔がそう言って、遥の前にドンとお茶を置くと、
「ありがとう。」
 と遥はお礼を言って、稔に笑いかけた。そして稔は遥の隣に腰を下ろすと、彼女にぜひ伝えたいと思っていた、ファンタジーの今についての話をし始めた。
「ファンタジーの皆が、遥さんの事を心配しているぜ、どうしているかって。
 友なんかもあなたの話が出るとさ、どうやら全部自分が悪かったと思っているようで、すっかりしょげ返ってしまうんだ。・・・それは見ていて可哀想なくらいに。」
「そっか。」
 遥は静かな様子で、そっとそう呟いた。
「―もちろん僕も、遥さんの事を心配していた。」
 そう言って稔は、遥の事をひたと見つめた。遥はそんな稔の瞳を見つめ返したが、何も言おうとはしなかった。
「そう、僕たちファンタジーは、大方“千年の扉”の場所を突き止める事ができたんだ、秘密の書のお蔭でね。今、色々な下準備や情報の収集をしている最中だけれど、それが済んだら・・・。
 僕らは目的の地へ向かう事になると思う。そして・・・、」
 そこまで熱心に話を進めた稔は、ふと遥に目を止めた。すると遥はいつの間にか、その瞳からポロポロと涙を零していたのである。稔は驚き、戸惑いながら遥かの肩に手を置くと、言った。
「・・・遥さん。」
「私、・・・自分が、・・・どうしたらいいのか、分からないの。」
 遥は胸が一杯の様子で、まるで言葉を紡ぎ出すようにやっとこ喋ると、・・・稔の胸に顔を埋めて、何かを堪えきれないかのように、静かに泣きじゃくった。
 稔はそんな彼女の体をそっと、腕の中に抱き寄せた。今、彼に預けられている彼女の弱さ。そしてこうしていると、初めて感じる事のできる、温かい彼女の体温。そんなものに稔の心はずきんと来た。それからそんな遥を見守りながら、彼は改めて思った。
(僕は、・・・遥さんの事が好きなんだ。今まではっきりと自覚していなかったけれど、今日その事実にやっと気がついた。)

 2人は互いを慰め合うかのように、しばらくそのまま静かに抱き合っていた。そして夜の静寂が、まるで2人しかこの世界に存在していないかのように、彼らの姿を浮き彫りにして、辺りを支配していた。
 ―今まさに夜は、彼らのためにあるみたいだった。

 いつしか泣き止み、稔の腕の中で大人しくしていた遥は、囁くような声で言った。
「ごめんなさい。・・・突然家に押しかけて、訳も分からないまま、急に泣き出して、稔くんに頼って・・・。
 でも私、他に頼れる人を誰も思いつかなかったの。」
「僕でいいのなら別に、全然構わないよ。
 ・・・それに遥さんは1人じゃない。ファンタジーのメンバーは、皆あなたの味方だから。」
 稔がそう言うと、遥は稔の胸から体を起こして、素直な様子で彼を見つめた。それから2人は時が流れるのすら忘れて、互いに見つめ合っていたが、遥はフッと彼から視線を逸らすと言った。
「私、今日はもう帰るね。稔くん、話を聞いてくれてありがとう。・・・何だかとても胸が軽くなった。」
 そして何か慌てたように立ち上がると、玄関に向かって歩いていこうとした、まるで何かに急かされたみたいに。稔は遥に続いて慌てて立ち上がると、彼女の背中に声を掛けた。
「―待って。」
 遥はゆっくりと稔の方を振り返った。その時の彼女は、まるで驚いた小動物のような顔をしていた。稔は彼女の間近まで躊躇う事なく歩いていき、その腕を掴んだ。そして。

 稔は遥にそっと口づけをした。

 遥はその時ぎゅっと目を瞑って、まるで何かを恐れるかのような様子をしていたが、両手で稔の体を押し返すと、急いで靴を履いて、玄関のドアから外へ飛び出していった。

 遥は稔の家から駆け出して大通りに出ると、人混みに紛れて、そしてやっと安心したかのように、歩調を緩めた。それからそっと指先を、自分の唇に当てた。
(・・・キス。稔くんとの、初めてのキス・・・。)
 遥はそんな事を思いながら、そっと指先を唇から外した。
(何で私は稔くんに頼ろうと思ったのだろう。私は・・・、稔くんの事が好きなの?
 彼の優しさ。彼の温かさ。そんなものに溺れそうになっている自分がいる。
 ああ、私はどうしたらいいの?分からない。・・・分からない。)
 遥は自分を見つめていた稔の顔を思い浮かべた。自分に向けられた、あの真剣な眼差し。遥の心には鋭い何かが刺し込み、急に切なくなった。そして家路を急ぎながら空を見上げてみれば、そんな彼女を月がそっと見守っていたのだった。
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