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117 貴族学院の小さな出来事
貴族学院にドレイファスが入学して早や四ヶ月。初めてのバケーションが近づいている。
ドレイファスのクラスメイトはシエルドとルートリアが侯爵家であるのを除き、残りは伯爵から騎士爵までのこどもが占めている。
学院の本科全体で一番多いのは男爵家の子息子女だが、爵位は同じでも豊かさにはかなりの差があり、通学に使う馬車や持ち物、靴などを見ると家力がこども同士であっても如実にわかってしまう。
それが苛めや蔑みに繋がることもあるが、ドレイファスのクラスではちょっとした事情もあり、素養の良いこどもだけが集められている。
もちろん最上位のドレイファスが親の権力を振りかざすこどもならクラスが荒れる可能性もあったかもしれないが、ドレイファスこそがもっとものんびりしているのだからなりようがない。
担任のジョルト・ロントンは本当に運が良かったと胸を撫で下ろした。出来がよく、仲がよく、行儀もよい、三拍子揃うクラスなんてそうはないものだ。実際隣りのクラスは落ち着きがなく、15人編成にも関わらず授業が遅れがちと聞いている。ロントンの指導力でどうこうではないが、たまたま良いこどもたちが集まったことで自分の評価が上がるなんて運が良いとしか思えなかった。
そんなクラスでもちいさな事件が起こる。
「フォンブランデイル様がいらしたわ」
「サンザルブ様はいらっしゃらないの?」
「ロンドリン様ー」
C・Dクラスの令嬢たちが、いくら注意しても覗くのを止めないのだ。
最初はよかった。
ロントン先生が一言言えば蜘蛛の子を散らしたように消えたが、最近は口で注意されるだけでペナルティがあるわけではないと甘く見、全然言うことを聞かなくなったのだ。
ちなみに。
貴族学院には爵位の上下はないと表向き言われているが、ABクラスとCDクラスでは純然たる差がある。
ABは基本的に高位貴族とその後援を受けた貴族、または下位貴族でも特筆すべき成績上位者。
CDは高位貴族でも高額な授業料が負担な者と下位貴族。学院へ納める授業料はABは各クラス15人なのでお高いが、CDは各30~50人と生徒が多く通いやすい金額なのだ。
そのため多少試験の成績がよいくらいでは、ABには入れない。入学した際にCDなら卒業までほぼ、CDどちらかにしか振り分けられないのである。クラスの人数がこれほど違うことに気づけばわかりそうなものだが、学院に通ったと箔をつけるためにニ、三年だけ通う者がほとんどなので、しかたないのかもしれない。
しかし。
この喧しさに、Aクラスのこどもたちの我慢は限界に近づいていた。
ドレイファスやシエルド、アラミスが悪いとは誰もまったくこれっぽっちも思わない。特にドレイファスは最上位の公爵家嫡男でありながら、鼻にかけるようなことはなく誰でも平等にやさしく扱うので、寧ろドレイファスを守ろう!と結束しているほど。
「もう、うるさすぎる!」
「一日中覗かれて落ち着かない!」
窓に貼り付いた令嬢の視線はドレイファスたちを見ているだけだが、視線が自分たちを通り過ぎる度、見られている状態を疑似体験しているのだ。
「わたくし、行って注意してきますわ!」
令嬢にしてはすごく元気なモルトベーネが立ち上がると、ドレイファスが止めて。
「モルトベーネ嬢、ちょっと待って。ぼくが行くよ」
ドレイファスも自分のせいで皆がイライラしていることを気にしていたのだ。
すっと扉によると「キャーッ」と叫び声があがる・・・。
温厚でおっとりと誉れ高いドレイファスも、この騒ぎには本当にうんざりした。
トレモルとボルドアがドレイファスの両脇に立つのを見て、少しだけ扉を開けるとまた
「キャーッ!ドレイファスさまー」
誰かが失礼にも勝手に名を呼んだ。
ドレイファスは決して親の、また生まれた家の爵位が高い低いということで相手を差別などしないが、失礼なのは好きではない。
家ではルジーやタンジェントとフランクに馴れ合っているが、それはあくまでも家の中で信頼関係があるから許されると、学院で学ぶ中で理解するようになったのだ。
「静かにしてください。ここはAクラスのスペースで、他のクラスの皆さんは入れない場所ですよ。勝手に入るのはルール違反です。守れないような人はぼくはキ・ラ・イです。
あとぼくの名前を勝手に呼ばないでください、誰にも許していませんから!」
ドレイファスは、キ・ラ・イという言葉に力を込めて、廊下の令嬢たちに叩きつけた。
大きな碧い目でキッと睨みつけると、廊下で騒いでいた令嬢たちははしたない行動に気づいて恥ずかしくなったのか、顔を赤くして俯き、自分のクラスへと小走りで戻って行く。
「ドル!」
シエルドが腕を組んで
「意外とやるな!見直した」
そう褒めた。
振り返るとクラスメイトたちがニコニコしてドレイファスを拍手で迎えてくれた。
いまさらながら照れくさくなったドレイファスの顔は真っ赤に染まり、額にほんのりと汗が浮かんでいる。
ルートリアが氷魔法で美しい刺繍がされた白いハンカチを冷やして渡すと、その心地よい冷たさに素直に受け取って汗を拭った。
「これ、冷たくてすごく気持ちいいね!ありがとう。洗って返すのでもいいかな?」
「え、別にそのまま返してくだされば。それよりハッキリ言ってくれてありがとう。胸がすっとしましたわ」
笑いながらルートリアが返せと手のひらを出したが、ドレイファスはルートリアの小さな気遣いがうれしく、今度は「いや、洗って返すよ」とはっきり伝えた。
その姿はちょっぴり男の子らしさが増していて、ルートリアはアレ?と思ったのだがそれが何かわかるのはずいぶんと先のこと。
その日、帰宅したドレイファスはメイベルにハンカチを渡して事情を話し、明日までに洗っておいてほしいということと、何かお礼を渡したいがどうしたらいいかと相談した。
「まあ!坊ちゃま!ルートリア様はかわいらしいご令嬢ですの?」
メイベルはわくわくして訊く。
「んー、まあかわいいと思うけど、ノエミのほうがかわいいよ」
カクッとコケたメイベルだが諦めない。
「ご令嬢へのお礼でございましたら、お返しするハンカチはもちろんですが、新品のハンカチとシズルス様がお持ちくださったラバンのソープはいかがでしょう?とっても素敵な香りと泡立ちですわよね、あれ」
ラバンのフラワーオイルを使った良い香りのソープをローザリオが一両日中に売り出す予定で、包装が終わった物をいくつかもらったのだ。
「じゃあそれにする。用意してくれる?」
「はい、もーちろんですわ」
目を三日月のように細めて笑っている。
なんで?
ドレイファスはメイベルの笑い方が少し引っかかったが、自分ではハンカチをきれいに洗えないので、メイベルにお願いすることにした。
翌朝、侍女のタイリーがメイベルに頼まれた物だと、小さな布袋にルートリアのハンカチと新品のハンカチで包んだラバンのソープを入れて碧いリボンを結んだものを渡した。
気をまわしすぎのような、でも妙に勘がよいお節介なメイベルは、ドレイファスの瞳の色のリボンをわざわざ選んだ。誰かが気づくとたのしいなと想いを馳せながら。
通学鞄に入れるとトレモルの忘れ物チェックで見られてしまうので、ドレイファスは上着のポケットに入れた。何故かそれをトレモルに見られるのは気恥ずかしい気がしたのだ。
(ルートリア嬢、喜んでくれるといいな)
馬車を降りるとザワザワと視線を感じるが、気にせずトレモルと早足で教室に向かうと、最近トレモルが親しくしている騎士志望のユウラ・ジャンス伯爵令息が手を振った。
「おはよう」
声を掛け合う。が、今朝のドレイファスの視線はルートリアを探している。
教室の右から左に目をやると、いた!
もう自分の席に座っていたので、教室を歩き回る生徒の姿に隠され見えなかったようだ。
目ざといシエルドが来る前に渡してしまいたいと、平静を装ってルートリアのそばを通る。
「おはようございます、ドレイファス様」
「おはようございます、ルートリア嬢」
宿泊教室のあと、同じクラスの生徒たちとはお互いに名前呼びをしている。
ちらりとまわりを見て、サッと上着から袋を出しルートリアに渡した。
「これ、昨日のハンカチとお礼です。領地で作られているソープ。明後日新発売のものなので一つどうぞ」
ちょっと言い訳ぽかったかもしれないが。
「まあ!わざわざありがとうございます!早速家で使ってみますね」
反応は悪くなく、ほっとした。
いや、ルートリアが笑ってくれてうれしくなった。
もう少し何か話そうとしたとき、シエルドが、そしてルートリアと仲のよいモルトベーネが教室に入ってきたので話は途切れてしまったが。
不思議な満足感に胸が満たされたドレイファスは、機嫌よくシエルドと朝の挨拶を交わし、席についたのだった。
授業が終わると、一年生は迎えの馬車目指して散らばって行く。
ルートリアはハミンバール侯爵家の馬車に乗り込むとすぐ、ドレイファスが返してくれたハンカチとお礼の品をリボンを解いて袋から引っ張り出した。
アパタイトブルーのリボンは、とても美しい刺繍で細かく縁取りされている。丁寧に折りたたんで袋に入れた。
「ルートリアお嬢さま、それはどうされたのです?」
馬車に待機していた護衛侍女シラが気づく。
「これは昨日フォンブランデイル様にお貸ししたハンカチと、お礼のお品だそうよ」
ハミンバール侯爵家の象徴紋である尾長鳥の刺繍が施されたハンカチと、フォンブランデイル公爵家の家紋が刺繍された上等な絹のハンカチに包まれたソープ。
とても良い香りが漂い、顔を寄せたシラがうっとりと吸い込んでハッとする。
「これはローザリオ・シズルス様のラバン商品ではありませんか!」
ルートリアの手からソープを受け取ると、貼られたラベルを見てうれしそうな声を出した。
「明後日発売の新商品だとおっしゃられていたわ」
「えええっ!新商品が発売前にいただけるなんてルートリアお嬢さま!それすごいことですよ」
シラの興奮にルートリアは今ひとつついて行けず、ふーん、とだけ返しておく。
「もう、お嬢さまったら!ローザリオ・シズルスといったら天才錬金術師としてすごく有名で、特に彼オリジナルのフラワーラインは他では買えないんです!本当にすっごい人気でなかなか手に入らないんですよ!」
ハミンバール侯爵家に馬車が着くまで、ずっとシラからローザリオ・シズルスがいかにすごいか、そのラバン水の人気ぶりなどを延々と話されて、少しだけうんざりした。
屋敷についてすぐシラが侍女長に呼ばれ、やっと終わったと思ったが、まだ伏兵が忍んでいた。
ハミンバール侯爵夫人のリリアントだ。
シラが興奮して話しまわったせいで、母の耳にも届いたらしい。
「ルーティ?ねえ、シズルス様の新発売のソープをいただいたと聞いたのだけど本当?」
おかえりより先にソープもらったか?と母に聞かれて、ルートリアはびっくりした。
「それで手を洗ってみたいのだけど、お母様に貸してくださらない?」
母の言うことに二度驚いてしまった。
「あら?ルーティったら大丈夫?」
ぼんやりと反応しない娘の側に寄り、瞳を覗き込む。
「わたくしが使ったら、そのあと一回だけお母様に貸して差し上げますわ」
顔を上げた自慢の美しい娘はとびきりケチ臭いことを言った。
「一回だけ?一回だけって言いましたの?」
「はい。だってわたくしがいただいたのですもの。できれば使わずにとっておきたいですが、使ってみると約束致しましたからわたくしが使いますわ」
キリリと言い放つ。
どうやら二度目はだめそうだと母は理解した。
「小さな桶にお湯を」
侍女に小さな桶を持ってこさせると、ルートリアはその中で手を洗い始める。
ソープに湯が触れると湯気にのって甘く、でも胸がすっきりする香りが部屋に拡がっていく。
「なんてよい香りなのかしら」
リリアントが待ちきれずにソープに手を伸ばすが、ルートリアはさりげなく手の内に入れて交わしてしまう。さすがに舌打ちはしないが、じとっと娘の手の動きを見つめた母は、娘がソープを手放すまでしかたなく待ち続けた。
ソープの泡立ちを楽しみ、泡に包まれた肌の感触と香りを堪能し尽くして漸く、ルートリアから母の手へソープが渡されると。
大人げないと言われても、そう簡単に返すものかとゆっくりゆっくりと泡立てていく母。ただ汚れを落とすだけではない、洗うことによってしっとりと肌のキメを整える素晴らしいソープ!肌のキメなんてわからないこどもにはもったいないわ!と思いながら、なるべく長くソープを楽しもうとする小狡い母がそこにいた。
ドレイファスのクラスメイトはシエルドとルートリアが侯爵家であるのを除き、残りは伯爵から騎士爵までのこどもが占めている。
学院の本科全体で一番多いのは男爵家の子息子女だが、爵位は同じでも豊かさにはかなりの差があり、通学に使う馬車や持ち物、靴などを見ると家力がこども同士であっても如実にわかってしまう。
それが苛めや蔑みに繋がることもあるが、ドレイファスのクラスではちょっとした事情もあり、素養の良いこどもだけが集められている。
もちろん最上位のドレイファスが親の権力を振りかざすこどもならクラスが荒れる可能性もあったかもしれないが、ドレイファスこそがもっとものんびりしているのだからなりようがない。
担任のジョルト・ロントンは本当に運が良かったと胸を撫で下ろした。出来がよく、仲がよく、行儀もよい、三拍子揃うクラスなんてそうはないものだ。実際隣りのクラスは落ち着きがなく、15人編成にも関わらず授業が遅れがちと聞いている。ロントンの指導力でどうこうではないが、たまたま良いこどもたちが集まったことで自分の評価が上がるなんて運が良いとしか思えなかった。
そんなクラスでもちいさな事件が起こる。
「フォンブランデイル様がいらしたわ」
「サンザルブ様はいらっしゃらないの?」
「ロンドリン様ー」
C・Dクラスの令嬢たちが、いくら注意しても覗くのを止めないのだ。
最初はよかった。
ロントン先生が一言言えば蜘蛛の子を散らしたように消えたが、最近は口で注意されるだけでペナルティがあるわけではないと甘く見、全然言うことを聞かなくなったのだ。
ちなみに。
貴族学院には爵位の上下はないと表向き言われているが、ABクラスとCDクラスでは純然たる差がある。
ABは基本的に高位貴族とその後援を受けた貴族、または下位貴族でも特筆すべき成績上位者。
CDは高位貴族でも高額な授業料が負担な者と下位貴族。学院へ納める授業料はABは各クラス15人なのでお高いが、CDは各30~50人と生徒が多く通いやすい金額なのだ。
そのため多少試験の成績がよいくらいでは、ABには入れない。入学した際にCDなら卒業までほぼ、CDどちらかにしか振り分けられないのである。クラスの人数がこれほど違うことに気づけばわかりそうなものだが、学院に通ったと箔をつけるためにニ、三年だけ通う者がほとんどなので、しかたないのかもしれない。
しかし。
この喧しさに、Aクラスのこどもたちの我慢は限界に近づいていた。
ドレイファスやシエルド、アラミスが悪いとは誰もまったくこれっぽっちも思わない。特にドレイファスは最上位の公爵家嫡男でありながら、鼻にかけるようなことはなく誰でも平等にやさしく扱うので、寧ろドレイファスを守ろう!と結束しているほど。
「もう、うるさすぎる!」
「一日中覗かれて落ち着かない!」
窓に貼り付いた令嬢の視線はドレイファスたちを見ているだけだが、視線が自分たちを通り過ぎる度、見られている状態を疑似体験しているのだ。
「わたくし、行って注意してきますわ!」
令嬢にしてはすごく元気なモルトベーネが立ち上がると、ドレイファスが止めて。
「モルトベーネ嬢、ちょっと待って。ぼくが行くよ」
ドレイファスも自分のせいで皆がイライラしていることを気にしていたのだ。
すっと扉によると「キャーッ」と叫び声があがる・・・。
温厚でおっとりと誉れ高いドレイファスも、この騒ぎには本当にうんざりした。
トレモルとボルドアがドレイファスの両脇に立つのを見て、少しだけ扉を開けるとまた
「キャーッ!ドレイファスさまー」
誰かが失礼にも勝手に名を呼んだ。
ドレイファスは決して親の、また生まれた家の爵位が高い低いということで相手を差別などしないが、失礼なのは好きではない。
家ではルジーやタンジェントとフランクに馴れ合っているが、それはあくまでも家の中で信頼関係があるから許されると、学院で学ぶ中で理解するようになったのだ。
「静かにしてください。ここはAクラスのスペースで、他のクラスの皆さんは入れない場所ですよ。勝手に入るのはルール違反です。守れないような人はぼくはキ・ラ・イです。
あとぼくの名前を勝手に呼ばないでください、誰にも許していませんから!」
ドレイファスは、キ・ラ・イという言葉に力を込めて、廊下の令嬢たちに叩きつけた。
大きな碧い目でキッと睨みつけると、廊下で騒いでいた令嬢たちははしたない行動に気づいて恥ずかしくなったのか、顔を赤くして俯き、自分のクラスへと小走りで戻って行く。
「ドル!」
シエルドが腕を組んで
「意外とやるな!見直した」
そう褒めた。
振り返るとクラスメイトたちがニコニコしてドレイファスを拍手で迎えてくれた。
いまさらながら照れくさくなったドレイファスの顔は真っ赤に染まり、額にほんのりと汗が浮かんでいる。
ルートリアが氷魔法で美しい刺繍がされた白いハンカチを冷やして渡すと、その心地よい冷たさに素直に受け取って汗を拭った。
「これ、冷たくてすごく気持ちいいね!ありがとう。洗って返すのでもいいかな?」
「え、別にそのまま返してくだされば。それよりハッキリ言ってくれてありがとう。胸がすっとしましたわ」
笑いながらルートリアが返せと手のひらを出したが、ドレイファスはルートリアの小さな気遣いがうれしく、今度は「いや、洗って返すよ」とはっきり伝えた。
その姿はちょっぴり男の子らしさが増していて、ルートリアはアレ?と思ったのだがそれが何かわかるのはずいぶんと先のこと。
その日、帰宅したドレイファスはメイベルにハンカチを渡して事情を話し、明日までに洗っておいてほしいということと、何かお礼を渡したいがどうしたらいいかと相談した。
「まあ!坊ちゃま!ルートリア様はかわいらしいご令嬢ですの?」
メイベルはわくわくして訊く。
「んー、まあかわいいと思うけど、ノエミのほうがかわいいよ」
カクッとコケたメイベルだが諦めない。
「ご令嬢へのお礼でございましたら、お返しするハンカチはもちろんですが、新品のハンカチとシズルス様がお持ちくださったラバンのソープはいかがでしょう?とっても素敵な香りと泡立ちですわよね、あれ」
ラバンのフラワーオイルを使った良い香りのソープをローザリオが一両日中に売り出す予定で、包装が終わった物をいくつかもらったのだ。
「じゃあそれにする。用意してくれる?」
「はい、もーちろんですわ」
目を三日月のように細めて笑っている。
なんで?
ドレイファスはメイベルの笑い方が少し引っかかったが、自分ではハンカチをきれいに洗えないので、メイベルにお願いすることにした。
翌朝、侍女のタイリーがメイベルに頼まれた物だと、小さな布袋にルートリアのハンカチと新品のハンカチで包んだラバンのソープを入れて碧いリボンを結んだものを渡した。
気をまわしすぎのような、でも妙に勘がよいお節介なメイベルは、ドレイファスの瞳の色のリボンをわざわざ選んだ。誰かが気づくとたのしいなと想いを馳せながら。
通学鞄に入れるとトレモルの忘れ物チェックで見られてしまうので、ドレイファスは上着のポケットに入れた。何故かそれをトレモルに見られるのは気恥ずかしい気がしたのだ。
(ルートリア嬢、喜んでくれるといいな)
馬車を降りるとザワザワと視線を感じるが、気にせずトレモルと早足で教室に向かうと、最近トレモルが親しくしている騎士志望のユウラ・ジャンス伯爵令息が手を振った。
「おはよう」
声を掛け合う。が、今朝のドレイファスの視線はルートリアを探している。
教室の右から左に目をやると、いた!
もう自分の席に座っていたので、教室を歩き回る生徒の姿に隠され見えなかったようだ。
目ざといシエルドが来る前に渡してしまいたいと、平静を装ってルートリアのそばを通る。
「おはようございます、ドレイファス様」
「おはようございます、ルートリア嬢」
宿泊教室のあと、同じクラスの生徒たちとはお互いに名前呼びをしている。
ちらりとまわりを見て、サッと上着から袋を出しルートリアに渡した。
「これ、昨日のハンカチとお礼です。領地で作られているソープ。明後日新発売のものなので一つどうぞ」
ちょっと言い訳ぽかったかもしれないが。
「まあ!わざわざありがとうございます!早速家で使ってみますね」
反応は悪くなく、ほっとした。
いや、ルートリアが笑ってくれてうれしくなった。
もう少し何か話そうとしたとき、シエルドが、そしてルートリアと仲のよいモルトベーネが教室に入ってきたので話は途切れてしまったが。
不思議な満足感に胸が満たされたドレイファスは、機嫌よくシエルドと朝の挨拶を交わし、席についたのだった。
授業が終わると、一年生は迎えの馬車目指して散らばって行く。
ルートリアはハミンバール侯爵家の馬車に乗り込むとすぐ、ドレイファスが返してくれたハンカチとお礼の品をリボンを解いて袋から引っ張り出した。
アパタイトブルーのリボンは、とても美しい刺繍で細かく縁取りされている。丁寧に折りたたんで袋に入れた。
「ルートリアお嬢さま、それはどうされたのです?」
馬車に待機していた護衛侍女シラが気づく。
「これは昨日フォンブランデイル様にお貸ししたハンカチと、お礼のお品だそうよ」
ハミンバール侯爵家の象徴紋である尾長鳥の刺繍が施されたハンカチと、フォンブランデイル公爵家の家紋が刺繍された上等な絹のハンカチに包まれたソープ。
とても良い香りが漂い、顔を寄せたシラがうっとりと吸い込んでハッとする。
「これはローザリオ・シズルス様のラバン商品ではありませんか!」
ルートリアの手からソープを受け取ると、貼られたラベルを見てうれしそうな声を出した。
「明後日発売の新商品だとおっしゃられていたわ」
「えええっ!新商品が発売前にいただけるなんてルートリアお嬢さま!それすごいことですよ」
シラの興奮にルートリアは今ひとつついて行けず、ふーん、とだけ返しておく。
「もう、お嬢さまったら!ローザリオ・シズルスといったら天才錬金術師としてすごく有名で、特に彼オリジナルのフラワーラインは他では買えないんです!本当にすっごい人気でなかなか手に入らないんですよ!」
ハミンバール侯爵家に馬車が着くまで、ずっとシラからローザリオ・シズルスがいかにすごいか、そのラバン水の人気ぶりなどを延々と話されて、少しだけうんざりした。
屋敷についてすぐシラが侍女長に呼ばれ、やっと終わったと思ったが、まだ伏兵が忍んでいた。
ハミンバール侯爵夫人のリリアントだ。
シラが興奮して話しまわったせいで、母の耳にも届いたらしい。
「ルーティ?ねえ、シズルス様の新発売のソープをいただいたと聞いたのだけど本当?」
おかえりより先にソープもらったか?と母に聞かれて、ルートリアはびっくりした。
「それで手を洗ってみたいのだけど、お母様に貸してくださらない?」
母の言うことに二度驚いてしまった。
「あら?ルーティったら大丈夫?」
ぼんやりと反応しない娘の側に寄り、瞳を覗き込む。
「わたくしが使ったら、そのあと一回だけお母様に貸して差し上げますわ」
顔を上げた自慢の美しい娘はとびきりケチ臭いことを言った。
「一回だけ?一回だけって言いましたの?」
「はい。だってわたくしがいただいたのですもの。できれば使わずにとっておきたいですが、使ってみると約束致しましたからわたくしが使いますわ」
キリリと言い放つ。
どうやら二度目はだめそうだと母は理解した。
「小さな桶にお湯を」
侍女に小さな桶を持ってこさせると、ルートリアはその中で手を洗い始める。
ソープに湯が触れると湯気にのって甘く、でも胸がすっきりする香りが部屋に拡がっていく。
「なんてよい香りなのかしら」
リリアントが待ちきれずにソープに手を伸ばすが、ルートリアはさりげなく手の内に入れて交わしてしまう。さすがに舌打ちはしないが、じとっと娘の手の動きを見つめた母は、娘がソープを手放すまでしかたなく待ち続けた。
ソープの泡立ちを楽しみ、泡に包まれた肌の感触と香りを堪能し尽くして漸く、ルートリアから母の手へソープが渡されると。
大人げないと言われても、そう簡単に返すものかとゆっくりゆっくりと泡立てていく母。ただ汚れを落とすだけではない、洗うことによってしっとりと肌のキメを整える素晴らしいソープ!肌のキメなんてわからないこどもにはもったいないわ!と思いながら、なるべく長くソープを楽しもうとする小狡い母がそこにいた。
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