どっち

氷沼さんご

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 私が田舎で営んでいた小さな酒屋で、かつて一人の大学生を雇ったことがある。
 元々小規模な事業であったし、妻もいたので別に人手不足ということは無かったのだが、古くからの得意先に頼み込まれては断り切れなかった。やむなく、得意先の遠い親戚だという男を、アルバイトとして夏の間だけ預かることになったのだった。
 こんな田舎まで来なければ働き口がないとはどんな曲者なのだろうかと、二人して少々心配に思っていたのだが、それからやってきた汐見という青年は至って穏やかな人格をしていたのでほっとした。
 一通り仕事の説明をしてから、大した報酬は出せないが良いか、と聞いたところ「構いません」と、蚊の鳴くような声で答えた。無口で覇気や元気が無いというか、取り立てて主張する部分の無い人間だった。若者にありがちな、と一纏めにしてしまっては怒られるだろうが、兎も角、言い表すとしたら、まずそういった形容が思い浮ぶ。
 彼は仕事を覚えるのも早く、安い賃金が申し訳なく思う程に丁寧に業務をこなしてくれていた。妻の評では、非常にしっかりしている人間ということだった。情けない事に、私の方が三人体制となった仕事に戸惑う場面が多かったと記憶している。
 そして、ようやくそんな私もこの環境に慣れてきた頃、彼が珍しく感情を露にしたことは強く印象に残っていた。
 
 彼を連れて、配達の為にバンで近所を回った際だ。
 このときだけは、人手があるのが有難いと感じていた。まだ二件目というところで、私がぎっくり腰を再発してしまったのだ。幸い、彼は免許を持っていた。運転を変わって欲しいと頼んだところ、「運転は得意ではないんです」と初めは渋っていたが、通るのは車も少なく、見通しもよい広い道が殆どなので大丈夫だと説得して席を代わってもらった。
 車はのろのろと動き出す。
 「ああ、いや。止まって」
 一つ目の角を曲がったところで、私はすぐに車を止めさせた。右に曲がるように指示を出したのだが、何故か左の道へと入っていったからだ。彼の様子を伺うと、その横顔は血の気を失い、冷房が効いた車内だというのに汗を垂らしていた。
 「どうした?」
 心配になって声をかけると、彼は奇妙な動作をした。
 「いえ……」
 そう答えながら、何故か私が座っている方向とは逆を向いたのである。それからすぐにこちらを素早く向き直した彼は珍しく慌てていて、見られてはいけないものを見られたかのような、鬼気迫る表情を一瞬だけ見せた。私も予想外の反応で驚いた拍子に、口にしかけたことを忘れてしまった。
 我々の間に気まずい時間が流れた。
 「すみません」
 先に沈黙を破った彼はそう言って頭を下げたのだが、私は、別に彼を責めようなど考えてはいなかった。
 「謝られることはないよ」
 そう答えはしたものの、これ以上どう声をかけて良いのかが分からない。黙って荷台から休憩用に載せていた冷えた瓶ラムネを二本取り出すと、一本を青い顔をしたアルバイトに手渡す。栓を開け、爽かな味の液体を一口飲んだ。
 若い人には、もうラムネは親しみがないものらしい。矯めつ眇めつ瓶の構造を観察していたので、開け方を教えてやると感心していた。一気にラムネを半分ほど飲み干して、ぷはっと気持ちの良い音を出すと、わずかばかり気分が軽くなったのか、自身のことについて少しづつ語り出した。
 「……僕、左右が全く分からないんです」
 「左右盲というやつか?」
 咄嗟に右と左の区別がつかないという症状は、聞いたことがあった。
 「結論としては正しいのですが、その……なんと説明すべきか。……信じられないような話かもしれませんが、少し聞いてもらえますか」
 思えば、私は彼の話を殆ど聞いたことがなかった。車内時計で、配達にはまだ余裕があることを確かめてから頷いた。
 「この症状は、生まれつきというわけではありません。十歳の夏休みからこうなったのです。故郷は静岡の片田舎にありまして……僕はその日、近所の山へ遊びに出ていました」
 彼は、記憶の中にあるその山を探すかの様に視線を上げた。
 
 
 山の中には秘密基地があり、その辺りは子供たちの隠れた遊び場になっていました。
 段ボールで囲まれただけの、簡単な造りです。それは、分かれ道を幾つか通って、行き止まりをさらに奥に行った、大人たちが立ち入らないような、何もない場所に位置していました。普段なら、そこに顔を出せば友達の一人や二人と会えるのですが、その日は珍しく誰もおらず、僕は一人、秘密基地の中で誰かが来るのを待つことにしました。
 秘密基地の中には拾われてきた漫画雑誌などが置いてあります。僕は転がっていたボロボロのクッションを枕に横になると、雑誌を開いて暇を潰していました。それがお昼を食べた直後のことで、僕はうつらうつらと居眠りを始めてしまったのです。
 どれくらい寝ていたのか、外の話し声で目覚めました。誰かが基地の傍でじゃれあっているような雰囲気でした。ああ、友達が来たんだなと思い基地から出ると、そこには僕より幼い見知らぬ少女が二人、それも、姿形がそっくりな双子が遊んでいたのです。近所の子供ではありませんでした。
 「どこから来たの?」
 尋ねると、首をちょこんとかしげて山の奥を指さしました。勿論、そちら側には民家などありませんし、子供だけで越えられるような峠ではありません。
 「ねえ、遊ぼう?」
 訝しんでいる僕をよそに、彼女らはそんなことはどうでもいいという態度で遊びに誘ってきました。僕は何処かの家の親戚がこちらへ遊びにでも来ていて、誰かがここの事をこっそり教えたのだろうと考えました。であれば、直ぐにその子もここに来るはずです。それまでは相手をしてあげようと、誘いに乗ることに決めました。
 彼女らが提案したのは、こんな遊びでした。
 そっくりな双子のどちらか片方が彼岸花のかんざしを着けて、目を瞑った僕の周りを二人が童歌を唄いながら手を叩き、ぐるぐる回ったり、近づいたり離れたりして攪乱してきます。そして、唄い終わりに両側から腕をタッチされた僕が、左右どちらがかんざしを着けている方かを当てる、という遊びでした。
 始めは簡単な遊びだと侮っていましたが、二人は交差するタイミングで入れ替わる振りをしたり、手を伸ばして位置を誤魔化したりして、上手く僕を惑わせてきます。
 「「はずれ!」」
 間違えると二人があまりにも嬉しそうにはしゃぐので、悔しくなった僕は、いつの間にかこの遊びに本気で取り組んでいました。
 
 あれ、と思ったのは、何回目かに目を瞑っている最中、双子の唄声がやけに大きく聞こえたことです。しかしそうではなく、周囲で煩く鳴いていた蝉の声が、スッと線が細く途切れるように薄れていったのでした。静けさの中、双子の声だけが耳に入ってきます。
 そして、かんざしを付けた方を当てて見せた僕が目を開いたとき、更に異様な事実に気づきました。視界が暗い緋色に染まっています。たった二十秒程度しか掛からない遊びをしている間に、高く昇っていたはずの太陽が山に隠れようとしていたのです。
 「帰らないと……」
 胸騒ぎを覚えた僕はそう言いましたが、双子は僕の腕をつかんだまま、ジッとこちらを見上げるばかりでした。両側から物凄く強い力で押さえられていて、そこから離れることすらままなりません。ようやく僕は、この双子が得体の知れない存在であることに気づきましたが、既に手遅れでした。
 双子は、最後にもう一度だけ遊ぶことを僕に要求してきました。付き合うしかない僕は、もう泣きたくて堪りませんでした。促されて仕方なく目を閉じると、双子はこれまでが嘘のように無感情な声で告げました。
 「当てられたら、帰ってもいいよ」
 では、もしも外したら……。言外に含まれた意味を考えかけて、慌ててそれを打ち切りました。例の唄が始まりましたが、そんなことを言われては僕はもう遊びどころではありません。声の出所など、気にしていられませんでした。
 「「どっちだ?」」
 右か、左か……。恐怖は既に極限に達していました。
 「わからないよ!」
 双子によって腕が掴まれかけたそのとき、僕はそう叫ぶと手を払って振り返らずに駆けだしました。無我夢中で藪の中を突き進み、全身に切り傷を幾つも作りながらも、ほぼ一直線に山を下りました。明りの着いた人家や、電柱が見えてきたとき、そこでようやく後ろを確認しましたが、誰も追ってくる様子はありません。
 自分の家に無事辿り着いたときには、もう安心で腰が抜けそうでした。
 
 その晩、最初に僕の異変に気づいたのは母でした。母は放心したまま食事をしている僕を見て、怪訝な顔になりました。
 「あんた、いつから左利きになったの?」
 僕は最初、何を言われているのかが分かりませんでした。手元に目をやってしばらく考えてから、ようやく自分が右利きだったことを思い出しました。そのくらい全く違和感の無いままに、僕は箸を左手で操っていたのです。そして、これまでの利き手で箸を持とうとしても、どういうわけか上手く扱うことが出来くなっていました。そのときはふざけているものと思われて、こっぴどく叱られたものです。
 そして、異変はそれだけに留まりませんでした。加えて厄介だったのは、聴覚の異常です。周りの音や、人々の声が真反対から聞こえてきてしまうのです。こちらは普段の生活にも差し障りがあります。先ほどのように、上手く人との応対が出来ないということが頻繁に起こるようになり、大変困りました。今でも事情を知らない周囲の人々には、さぞかし不思議に思われていることでしょう。
 夏休みの間に、流石に僕の様子がおかしいことに気づいた両親によって病院へ連れて行かれましたが、医者には原因が不明だと言われました。勿論、僕には検討がついていましたが、当時は秘密基地のこともありましたから、大人には心当たりを白状することができなかったのです。
 利き手も耳も、ある程度すると元に戻ったり、またおかしくなったりするものですから、それから僕はあっという間に左右という概念を喪失してしまいました。そのまま右と左の判別が付かない状態が、大人になった今でも続いているというわけです。きっと、僕はあの場所にそれを置き忘れてきてしまったのです。
 まあしかし、それだけで済んだのが幸いでしょうか……。
 
 
 力無く笑いながら、彼はそう締めくくった。
 嘘を言っているようではなかったので、私はその話を信じることにした。確かに人が多いところでは、何かと煩わしいこともあるだろう。彼がここまでやってきた理由が分かったような気がした。
 それから私達は、また普段通りに働き始めた。奇妙な行為の原因を知ってしまえば、それなりの対応をすれば良いだけで、仕事に支障はない。私が言葉で伝える代わりに指で方向を指示するようにしたところ、彼はスムーズな運転を発揮し、その日の配達は無事に終えることができた。
 約束の期間まで働いた後、彼は後腐れなくアルバイトを辞めていった。もうしばらく働いていったらどうかと妻が引き止めたが、「少し国内を回ってみたいのです」と断った。店が無くなるまでの間、アルバイトを雇ったのは、彼が最初で最後だった。
 
 数年後に来る夏。例の得意先から、彼が亡くなったという知らせを受けた。佐賀県のとある山中で、滑落事故を起こしたらしい。詳しい状況は尋ねなかったが、発見時、遺体は首やら腕やら全身が真逆にねじ曲がる悲惨な状態であったことを聞いて、彼と配達に出たときの記憶が蘇った。
 きっと、発見者にはどちらが前だか分からなかっただろう。それはつまり、左右の決定も不能だったということだ。
 私は彼の死を悼みながらも、そんな罰当たりなことを考えていた。
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