即興短編集

田原更

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 ヨランダは野原に咲いたすみれの花を見つめていた。すみれの花はお前に似ている、と言ったあの人のことを思い出していた。
 ヨランダはすみれの花を摘んだ。柔らかな香りが広がった。実をいうと、ヨランダはすみれの花があまり好きではなかった。地味で、小さくて、目立たない……。
「本当、私にそっくりね」
 ヨランダは自嘲気味に言うと、すみれの花を花かごに入れた。辺り一面、すみれの花ばかり。ヨランダは一輪一輪、丁寧に摘んでは、かごにいれた。日が高くなるまで、ヨランダはすみれを摘み続けた。
「もう、充分ね。そろそろ帰りましょう」
 すみれの花はかごからあふれそうになった。紫色の野原は、すっかり緑色に変わった。

「ただいま帰りました」
 ヨランダは家の扉を丁寧に閉めた。
「お帰り、ヨランダ」
 ベッドに横たわる老人が、ヨランダの帰りを待っていた。ヨランダは花かごをテーブルに置くと、老人の頭に載ったタオルをそっと取った。ヨランダは外に出て、井戸の水を汲み、たらいに水を移し、タオルを冷たい水にひたした。それをぎゅっと絞り、再び老人の元に戻った。ヨランダは老人の額に手をあて、熱さを確かめると、冷たいタオルを老人の額に置いた。
「まだ、熱は下がりませんね……」
「大人しく寝ていれば、そのうち治るじゃろう」
 老人は元気よく……いや、元気よく見せようと、無理して張りのある声を出した。
「やはり、お医者さまを呼びましょうか?」
 ヨランダは心配そうに老人の顔をのぞき込んだ。
「いや、いい。ヨランダよ……人には、時期というものがあるのじゃよ」
「時期?」
 ヨランダは首をかしげた。
「そうじゃ。わしはそろそろ、天へ召される時期じゃ。このまま、神が定めた天命を全うしたいのじゃ。さっき、わしは嘘をついた。わしの熱が下がらんことは、わし自身が一番よくわかっている。お前を心配させたくなくて、嘘をついたのじゃが、わしは嘘をつくのが苦手じゃな。すぐに本当のことを言ってしまう」
「おじいさん。そっちの方が、嘘でしょう? 寝ていたら、治るのでしょう? さあ、もう寝てください。そして早く、元気になってください」
 ヨランダは目に涙を浮かべた。老人はヨランダの頭に手を置いた。
「ヨランダよ。お前にも時期が来たはずじゃ。いつまでもわしに縛られず、どこでも好きなところへ行くとよい」
「嫌です……」
 ヨランダの目から涙があふれた。
「おじいさん。私はここが好きなのです。大きな山に抱かれた、広い野原の広がる、この美しい景色が。おじいさんと暮らすこの家が。私は旅に出かけて、色々な場所を見てきました。だけど、この世のどこにも、ここに勝る場所はありませんでした。私の帰るところは、ここなのです。おじいさんの元なのです。だから、私を置いていかないで……」
 ヨランダは老人の胸元に顔を埋めて泣いた。老人はヨランダの頭を優しくなでた。
「ヨランダ……すみれの花のような、控えめで優しい子。お前はその通りに育ってくれた。わしの自慢の孫娘じゃ。お前は神さまがわしに授けてくれた、最高の贈り物じゃ。じゃから、お前には幸せになってほしいのじゃよ」
「私は幸せです。これ以上なく幸せです。ここにいることこそが、私の幸せです。そうです、おじいさん。今日はすみれの花を摘んだんですよ。すみれの花の砂糖漬けを作ろうと思って。おじいさん、好きでしょう?」
 そう言うとヨランダは、ぽん、と手を叩いた。
「そうだ、去年作った分が、まだ少し残っているはずだわ。おじいさん、一緒に食べましょう。甘いものを口にすれば、きっと元気になりますよ」
 ヨランダは戸棚に向かい、保存食の並んだ瓶の中から、ほとんど空っぽになった瓶を一つ取りだした。それを持って、ベッドに戻った。
「はい、おじいさん、どうぞ」
 ヨランダはすみれの花の砂糖漬けを一つ取り出して、老人の口にそっと近づけた。老人は静かに首を振った。
「ヨランダ……どうして、あの男と一緒に行かなかった?」
 老人はヨランダを真っ直ぐに見つめた。
 ヨランダには生まれつき魔法の力が備わっていて、その力を買った男二人と旅に出たことがあった。男二人は王国の姫に仕える兵士で、魔王に呪われた姫を救うために城を立ったのだ。ヨランダはそのうちの一人を愛してしまった。愛していたから、彼について旅に出たのだ。途中で女一人が加わり、道中はとてもにぎやかだった。老人と二人暮らしのヨランダにとっては、魔王を倒す冒険よりも、道中の何気ない会話のほうが、よほど刺激的だった。魔王を倒して、姫は救われた。兵士の一人は、旅を気に入り、もう一人の女とともにそのまま冒険の旅を続けている。
「どうしてって、おじいさん。あの人には他に好きな方がいるんですよ」
 ヨランダは微笑んだ。静かで、悲しい微笑みだった。
「あの人は、すみれの花が好きだとおっしゃってくれました。けれど、本当に好きなのは、ゆりの花です。華やかで、気高い、ゆりの花。私とは違うんですよ」
 ヨランダはため息をついた。ゆりの花、リリアン姫は、ヨランダなど足下にも及ばぬくらい、美しい人だった。幼少期から城で暮らしていたあの人と、リリアン姫の間には、幼いころから二人だけの秘密があったらしい。その間に、自分が割って入れるとは、とても思えなかった。だから逃げ出した。しかし……。
「そうじゃったのか。すまんのう。おかしなことを聞いて」
 老人は申し訳なさそうに口を開いた。ヨランダは首を横に振った。
「もう過ぎたことです。さあ、もう休んでください。私はこれから、すみれの花の砂糖漬けを作ります。こんな古いものではなくて、新しいものを食べましょうね」
 ヨランダは古い砂糖漬けを瓶の中に戻し、老人の布団をかけ直した。老人はふうっと息をついて、そっと目を閉じた。

 新しい砂糖漬けが出来上がる前に、老人はこの世を去った。二人暮らしだったから葬儀は行わなかった。ヨランダは自ら老人を埋葬し、墓標を立てた。
 生活が少し落ちついた頃、ヨランダはあの日のことを思い出して、古い砂糖漬けの瓶を開けた。そして、老人が食べてくれなかったすみれの花の砂糖漬けを口に入れた。
「すみれの花はお前に似ている」
「俺はすみれの花が好きだ。今、それに気がついた。都で共に暮らそう。ご老人のことは、ここに引き取ればいい」
「嫌です。私の帰るところはあの山の麓です。おじいさんも、今さら違う土地で暮らせるはずがありません」
「なら、俺がそこで暮らす。ともに生きよう。俺はお前が好きなんだ」
「違うわ! あなたが愛しているのは、リリアン姫ただ一人。姫様がご結婚されるからって、代わりに私を選ぶことなんかない! 私に姫様の代わりは務まりません!」
「違う! お前は姫様の代わりではない! 本当にお前のことが……」
「あなたは都で生きるべきです! 私とあなたでは、はじめから、住む世界が違うのです!」

 口の中に、砂糖の甘みと、すみれの花のほのかな香りが広がった。
「甘い……」
 そう言って、ヨランダは、静かに涙を流した。
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