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くたばれジェラシー
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くたばれジェラシー
こんな天気がいい日に金は必要なかった
俺はジーンズのポケットからブラックニッカの小瓶を取り出して一口飲んでみる。喉がかあっと熱くなると、俺の頭もまたかあっと冴えてくるのだった。日中の公園には若く派手な見栄えの母親達と、その子供達がきゃっきゃと走り回っている光景がある。少し寒い。俺はぶるっと一度身震いして、そのなんでも無い公園のシーンを眺めながらまたブラックニッカを一口飲んだ。寒空の中でも夏の頃と変わらずに太陽はここを照らしていた。機嫌は悪かったが気分は良かった。おそらくこういう状況に少しは憧れがあったのだろう。幼い頃から俺にとってのヒーローという存在は、なんとも無様でやるせない奴らばかりだった。まず、小学生の頃に俺の心を虜にしたのは、夕方のテレビで何日間かだけ放送されていた、〇〇マンだったか、〇〇人間とかいう男が主人公のアニメで、とてもヒーローとは言い難い落ちこぼれぶりであった。だが俺にはそれが格好良くてたまらず、学校ではいじめられるように努めてきた。中学生の頃にのめり込んだのはアメリカの作家ジョンファンテで、高校の頃は太宰に恋をして、大学でチャールズブコウスキーになりたがった。これらはあくまでその時代時代のいち代表に過ぎず、その他数多の落ちこぼれに恋心を抱いて生きてきた。中流階級生まれの俺に、それらの影響は凄まじく響き、穏和な家庭にいる事が恥と捉えるようになった。実際、芸術家や表現者としてどちらの方が刺激的な作品を生み出せるかと言えば、俗に言う青春時代の過程でどんなヒーローがそこにいたかで自分のいるべき地位や価値も決まるだろう。それから俺は自分の地位や価値に見合った場所で表現活動に精を出す事を決意し、様々な勘違いを抱えたまま穏和な家庭を抜け出したのだった。
そして今、俺の家と呼ばれるものはこの地球上に存在はしていなかった。この状況は今日で三日になる。住んでいた荻窪のアパートはとても居心地が良かった。そのアパートは築二十九年の割りに部屋の中はリノベーションされていて一面真っ白く、所々クロスにシミが付いていたぐらいで、とにかく白い印象だった。白い部屋というのは作家にとってとても好ましい状況と言えた。確かに二年前アパートに越してきた当時は無我夢中で作品を書くことができた。朝も夜も自分の頭を言葉で埋め尽くし、世の中のありとあらゆる物事に目をきらつかさせながら立ち向かっていた。それでも二年後、大家のばあさんは俺の部屋のインターホンを押してやってきた。白い部屋の効果は虚しく、書いた小説は誰にも相手にされず紙切れとなり、俺の頭からも離れたがっていた。俺は大家から退去を命ぜられ、部屋の片付けをしぶしぶ始めた。この白い部屋ともお別れか。そう思って部屋に貼ってあったボブディランのポスターを外すとそこには、縦に六十センチ、横に四十センチの白い四角形が壁に浮かび上がっていた。ずっと白いと思っていた壁もいつの間にかハイライトの煙に侵されていたらしい。俺はずっと黄色い部屋で、黄ばんだ言葉を連ねていたのだと思うとどうにもやるせなくなった。部屋の大半の物は処分し、必要な物、すなわちブラックニッカの小瓶、小銭、煙草、ライター、いくつかのお気に入りの小説、そして原稿用紙とペンを肩掛けバッグに押し込み、革ジャンパーを羽織って黄色い部屋を出ていった。そうしてあてなく近所を彷徨うこと三日、俺はここ第三公園に漂流したのだった。
ふと自分の指が震えている事に気づいた。これは噂に聞くアルコール依存症の兆しかと思ったが、その考えはすぐに辞める事にした。そんな事を今考えたところでどうしようもないのだ。どうしようと言って今手に持っているブラックニッカの小瓶を近くのゴミ箱に捨てるなんて、俺には至難の技であると同時にそれこそ現実逃避のまんまじゃないかと考えた。人の脳というのは情けないほどに都合よくできている。おそらく、この手の震えは今の俺が置かれた状況、全世界の俺のランク、地位、それらが分かり始めてきたからなんじゃないだろうか。俺はここにきてとことんびびっていた。もともと小心者の俺が芸術家や物書きを目指すなんて事自体が間違っていたのだ。二十四歳。俺はまだやり直せる。カタギな仕事が俺を待っている。純情な結婚、マイホーム、子供の初めての入学式、朝の優雅なコーヒータイム、家族で囲む夕食、そして今度こそ真っ白な壁紙。芸術や物書きはこの辺でいいじゃないか。お前はあの部屋でよくやったよ。さあ、まずは風呂に入って身なりをちゃんとして人生を最初から計画し直してやろう。そう心の中の声が俺の頭に血管を通して演説していた。俺の頭はそれを受け入れ、まずこの第三公園から抜け出す事にした。第一、さっきから若い母親たちの視線が痛かった。きっと、母性本能が働いたんだろう。自分の腹を痛めてこの世に生み出した子供をこんな無精髭の生えた酒飲みに近づけるものですかと、躍起になって俺を睨んでいる。俺は昔から被害妄想が酷く、こんなストーリーならばいくらでも書けた。全世界の母親が二十四歳の売れない作家志望者を全面拒否するストーリー。なんともお粗末な話である。しかしもう俺は第三公園を出ようと歩き出している。公園の出口付近でサッカーボールを中心にワイワイと賑わう少年たちがいた。俺はあれからどれだけの時代が過ぎて行ったのかが確かめたくなり、煙草をコンバースで踏みにじり少年たちに話しかけに行った。
「やあ。君たちに聞きたい事があるんだけど、いいかい?」小学校低学年ぐらいから高学年ぐらいの少年たちが、木の枝をコンクリートに叩きつけながら黙って俺を睨んでいる。
「君たち、君たちのヒーローは今どこで何をしているのかな。そうだな、きっと怪獣と戦っているところかな。それとも女の子を家に連れ込んでいるところかな」
「さあ」ひとりの少年が軽く笑いながら言って、その後に続き他の少年たちも一斉に大笑いし始めた。俺を除いてである。
「そっかそっか。そんなにこれが面白い質問か。そうなのか。俺のヒーローはね、今天国でみんなと酒を飲んでいるところだと思うよ。羨ましいったらありゃしないよ。俺も混ぜてほしものだけれどさ、俺はまだ君たちのヒーローになれてないんだな」
そう言った次の瞬間、木の枝を持っていた一番背の高い少年が、入口のコンクリートの柱めがけて木の枝を思いきり叩きつけへし折った。そのおかげで辺りの空気は一瞬にして凍りつき、俺の手の震えが一層増した事を感じた。俺はその震えを癒してやろうとブラックニッカの蓋を開けようとしたがなかなか開かなかった。
「俺ら、遊んでるんですけど。楽しく、遊んでるところなんですけど!何か!」
木の枝をコンクリートに叩きつけて粉々にしてみせた背の高い少年が俺ににじり寄るとそう言った。俺はここ数分間の言動を心の中で繰り返してはみたが、どこのシーンで彼がキレてしまったのかが理解出来ずにいた。手の震えは増すばかりである。周りの少年たちもそれで勇気付いたのか、俺にじりじりと歩幅を詰め、睨みをきかせている。俺は後退りながら言った。
「そっか。遊んでたんだね、君たち。そうだったね。楽しんでくれ。サッカーボール。いいじゃないか。君達なら日本代表にでもなれるさ。俺はそんなの見ないけどさ」
俺はそう言い残すと駆け足で第三公園を後にした。何かしらから追われて、逃げ惑うようにして走った。ひとつ目の白い家を右に曲がり、とんでもない異臭のする川を渡り、よく通ったバーを横目に、走った。何かから逃げているのは確かだったが、別に、恐れている事は何も無かった。ガキに疎まれたからといって傷心した訳でもなく、落ち込んでいる訳でもなかった。もちろん元気になっているはずもなかったが。昔から多少のマゾ気質は抱えていたものの、自分でも信じがたいほどに、今はとことん何の感情も無かった。
自身からも異臭を街に放ちながら走っているうちに、様々な事を思い出した。小さい頃に理不尽な理由で先生に殴られた事、親友と喧嘩して今もそれっきりの事、昔飼っていた亀の事、この前怪我した時に出来た指のかさぶたの事。まるで俺はフォレスト・ガンプさながら走っていた。そうしているうち、徐々に感情が戻ってきた。俺は自分が人間である事を思い出したようだった。宇宙から帰ってきた彼と、満州事変から帰還した彼のように、やっと自分を取り戻せたのだ。それに伴って俺の足はゆっくりと失速していき、周りの住宅の景色も時間もゆっくりと動くようになっていた。俺の肺はすでに臨界点を突破していたらしく、足を止めた瞬間、聞いたこともない咳とともに胃の中の物が全て汚物となって住宅街の路肩に投げ出された。胃の中の物すなわちブラックニッカと胃液。幸い見た目はそこまでひどいものにはならなかった。けれど、ちゃんとした人間になろうと決意した手前、この仕打ちはひどいと心の中で何度も神に訴えかけた。確かに。まだ全ては清算されていなかったのだ。俺がごく一般的な人間になるにはまだまだ清算が残っているらしかった。そこで俺はよろよろと住宅街を歩き始めた。人生の清算を済ませるために。
視線を感じたと同時に視界に入ってきたのは、家の中から覗いている老婆だった。心配そうにこちらを見つめている。老婆の背後には部屋の中が見え隠れしており、とても清潔にしてあった。きっと部屋の中には人間の優しい温もりがあり、暖かいご飯と何気なく交わされる、誰も傷つく事のない会話が毎日部屋を埋め尽くしているのだろう。ああ、その眼差しだけでもとてもありがたい。いつか俺はこんな老婆、いや、女性と円満に暮らして行けるのだろう。そう思わせてくれた老婆に何か恩返しがしたくなり、少し考えた結果、俺は人生でこれほどの顔はもう出来ないという力の入れ方で、最高の笑顔を作り老婆に微笑んだ。全部の黄ばんだ歯を見せつけ、目をできる限り見開き、口角を最大限にまで釣り上げて見せた。そのせいで老婆の顔は歪んではっきりみることはできなかったが、きっと喜んでいるに違いなかった。
俺は一般的善良な市民になる第一歩として、風呂に入る事を決めた。今の俺に頼る事ができる人がいるとすれば、それはひとりしか見当がつかなかった。俺はふらついた足で、五ヶ月前に自ら別れを告げた元恋人の家に歩いて向かう事にした。もう何かに追われている気配は感じなかった。
2
元恋人であるさくらの家へ歩いている最中、俺は必死に別れを告げた理由、きっかけを思い出していた。それは五ヶ月前の真昼間、さくらの部屋にあるアコースティックギターを何気なく触っていると、さくらがデビッドボウイのレコードを棚から引っぱり出し、冷蔵庫の隣にあるレコードプレイヤーにそれを乗せた。俺はその時さくらにこんな趣味があったのかと驚いていた。さくらはいわゆるギャルと呼ばれている人種で、月に何度も染めに行く自慢の金髪と、鬼のツノの如く天に伸びたまつ毛。唇はぶりんと紅で、服は何かと俺の目をチカチカとさせる風貌であった。普段は日本の得体の知れない音楽を聞いていた。得体の知れないというのは俺の意見であり、どうもその得体の知れない音楽は今日本で最もポピュラーに楽しまれている音楽らしかった。俺の元部屋にはテレビは無かったし、携帯もほとんど見なかったので、そういった現代のポピュラーなカルチャーは全て彼女から授かっていたのだ。そんな二千十年代若者代表のさくらがデビッドボウイのレコードを好んで聴くなんてどういう風の吹き回しだろう。レコードプレイヤー自体は俺のお古をさくらが欲しいというのであげたまでで、その際、一緒にレイチャールズのレコードを一枚渡したが、後日感想を聞いてみると、さくらは聴かずに売ったと答えた。そういう女だった。故に目の前でジギースターダストを口ずさみながらボウイのレコードに針を落とすさくらの感情や、心情が全く理解不能であった。俺は生まれ持ったお得意の被害妄想を炸裂させさくらに問いただした。
「ねえ、何してんの」俺はアコースティックギターを床に置いてビールの缶を開けた。
「え?」
「それそれ」
「あ、デビッドボウイ」さくらもビールを開けてソファーの隣に座ってきた。
「うん。そう。知ってる。ボウイね。俺知ってる」
「ん?なになに?」
「いやさ、何でボウイのレコードなんか持ってんの。急すぎないかな」
「なになに、急すぎるって、なになに」
「男か」
「は?」
「男だろ」
被害妄想というのは全くもって恐ろしいものである。一度微かな疑惑の念が浮上すると、そいつはどこまでも俺を追っかけ回す事になるのだ。そして、追っかけ回されて逃げ回っている間に疑惑の念というやつはどんどんと信ぴょう性を手に入れていくのである。いつの間にか疑惑から真実と化し、そいつは俺をどこまでも脅かした。俺はその瞬間からさくらに対してとてつもない嫌悪感を覚える様になった。それから俺はさくらの部屋に散らかった自分の諸々の私物を片付け始めた。さくらに貸していた本、CD、パンツ、ジャージ、コンドーム、なぜかあった自分の年金手帳、暇な時に書いていた幼稚な落書き帳。それと歯ブラシに髭剃りまでも。この薄汚い浮気女の部屋に俺の爪痕をひとつとして残したくなかったのだ。それらをがちゃがちゃと抱えてさくらの部屋を無言で飛び出した。その時レコードプレイヤーからボウイが俺に言った。「Ziggy played guitar オーイェイ ウーーーーー」と。ジギーのやつめ。と俺は心で呟いてドアを閉めた。携帯には何百件というさくらからの着信、SNS、SMSからのSOSが送られてきたが、疑惑の念が真実の念となってしまった俺には、もう他人からのメッセージでしかなかったのである。
荻窪駅に着き電車から降りる時、後ろから女性の声がした。
「これ、落としましたよ」
女性の手元を見やるとコンドームの箱をひとつ持っている。俺はそれをふんだくり、礼も言わずに改札に続く階段を駆け下りていった。女なんかどいつもこいつも淫乱で薄汚い大嘘つきだ。俺は荻窪駅からアパートに着くまで呪文さながらそれを唱え、女性とすれ違うたびに心の中で罵倒した。昨今、女性差別反対などの女性に対する世間からの手厚い救いがあるみたいだが、それに対しては断然賛成ではある。しかしその女性に裏切られた身の男としてはどうにもやりきれない心情、痛み、恨み、つらみ、妬みがあった。俺はアパートに帰ると引きっぱなしの布団にざぶんと寝っ転がり、三日三晩泣いた。そして三日三晩酔っ払った。気付けばさくらからのSOSも途絶えていた。
あれから過ぎる事五ヶ月、俺は今さくらのマンションを見上げている。日はとうに暮れ、おそらく時間は二十二時を回っていた。最上階の六〇二号室のベランダには、カーテン越しからオレンジの光が漏れていた。三日三晩酔っ払った後には、俺の心にあった疑惑の念からの真実の念、そいつは自責の念へと見事に様変わりしていて、いつか、いつかとさくらを想い続けてきた。被害妄想者特有の都合の良さが出てしまっている。だが俺は決心を固め、今は自分を虫けら以下としてただただ善良な一般市民になるために、まずは風呂と宿を貸して頂くべく彼女に謝りに来たのだ。贅沢は言わない様にしよう。それと被害妄想も押し殺そう。被害妄想のやつが顔を出しそうになったら自分の乳首をつねろう。よし。これで行こう。と、エントランスでいらぬ事やいる事をブツブツ呟きながらなかなか彼女の部屋番号を押せず、うろうろ、うろうろとまさしく虫けらの様にうごめいていた。するとエントランスの外から買い物袋を両手にぶら下げたさくらが入ってきた。とっさに俺は身を屈め、後ずさりしていた。心底俺は小心者である。さくらの方はどんと胸を張ってエントランスに仁王立ち、じっと俺を見ている。何も言ってこない。俺はさくらの表情をじっと伺った。怒っているのか。久しぶりに会えて喜んでいるのか、いや、それはありえない。やはり怒っているのか。彼女の顔は表情ひとつ変えずに俺の目を見据えている。エントランスには異次元の様な異様な空気が漂っている。分からない。濃いメイクのせいだ。この表情は何だ。喜怒哀楽のどれだ。何か喋ってくれ。と俺は祈り続けた。すると彼女は唐突にバッグから鍵を取り出し、インターホンの横にある鍵穴にそれを突っ込んだ。スライド型の大きな透明ガラスは両側に開き、彼女は何も言わずに中へ入って行った。俺も夏によくいる蛾の如く彼女の後にくっついて中に入った。俺は一応これから風呂に入れてもらえる身分なので(まだそうと決まった訳ではないが)小声で「失礼します」と呟いた。すると、彼女は持っていたビニール袋をどさっと手放したかと思うと、右手の拳を強く固め大振りに振った。その凶器は俺の左顎に見事命中し、俺はエレベーター前の廊下にどさっと尻餅をついた。彼女は鼻息を荒くしながら俺を睨んでいた。まるでヘミングウェイの小説に出てくるスペインの闘牛の様にも見える。これは俺にも分かる。喜怒哀楽の二番手「怒」である。なおも襲いかかってきそうなその硬く結ばれた彼女の右手を、俺はすかさずがっと両手で掴み、四つん這いのまま必死に謝った。左の頬が腫れてきているのが分かった。どくどくと左頬周りの血管だけが踊っている。俺は手を決して離さなかった。彼女もまた無理に振り払おうとはしなかった。だんだんと彼女の硬く結ばれた右の拳は緩く解かれていき、俺の手の中にある感覚も柔らかいものとなってきた。彼女の顔は未だに「怒」を表していたが、俺を殴る瞬間の顔よりかは格段に穏やかなものとなっていた。彼女がついに口を開いた。
「久しぶりだね。おじさんがこっち見てるからとりあえず部屋に行きましょ」彼女は小声でそう告げ、エレベーターのボタンを押し。
ふと後ろを見ると、おっさんがドアを開けて顔を出し、訝しげな顔でこちらを見ている。見せもんじゃねえんだよじじいと一喝してやろうと思ったが、彼女の怒りを増やさぬ様に、善良な一般市民としてそれはやめる事にした。エレベーターでさくらと俺は上がり、さくらの部屋の前まで来た時に、彼女は言った。
「友達が来てるの」そうだ。確か部屋に明かりが点いていたのを思い出した。
「その子の相談に乗ってあげててね、彼女、ちょっとヒステリックを起こしちゃって、それで落ち着いてきたからお酒とか色々買い出しに行ってたとこなの。絶対に失礼な態度とっちゃダメだからね。彼女今とても傷ついてるんだから。それだけ約束して」俺はうんと頷いた。
男じゃない事にかなりの安心感を感じていた。それにしても妙なタイミングで来てしまったらしい。ガチャっとドアを開け、さくらは「ただいま」と言いながら奥の部屋へと入って行く。俺も後に続いて奥の部屋に行くと、ソファーベッドにはなんと男が座っていた。一瞬にして俺の思考は崩れ落ち、訳が分からなくなってしまった。さくらはさっき確かに友達の事を「彼女」と、こう呼んでいたはずだ。にも関わらずさくらの部屋には男がいるのだ。しかも男の風貌ときたら、ぶくぶくに太った体で、整えられた髭が妙にいびつであり、頭は長い髪を後ろで結んでいるときている。ズボンはぱっつんぱっつんの黒いスキニー、上はこれまたぱっつんぱっつんのピンク色をしたタートルネックのニットで決め込んでいる。目はぱっちりと大きかったが、充血している。どうやら泣いていたらしい。俺はさくらの神経を疑った。それとそこに座っているデブ男の神経も。ついでに俺の神経も。どういう事だ。気づけば俺の右手は自分の左乳首をつねっていた。
「おかえりー。遅かったね」タートルネック野郎がやけに高い声で言った。俺はまだ部屋の入り口で立ち尽くしている。
「ちょっとそこで前の知り合いと会ってね。勘太郎って言うの。いい?彼も一緒にいても」さくらの知り合いという言葉に少し傷つきながら立っていると、
「うん。いいよ。さっちゃんの知り合いなら。こんばんは。勘太郎くん」タートルネック野郎は俺を見て微笑んで見せた。俺もぎこちなく微笑み返した。
「勘太郎はね、作家志望なの。小説とか詩を書いててね、全然売れてないの」さくらがいらぬ言葉を交えながら俺を紹介した。
「へー!すごいじゃあん!かっこいい!かんちゃん!売れてなくてもそういう志ってかっこいい!あたしは全然小説とか読まないなあ。ネットのポエムは好きだけど!」
「いやいや、今はもうあんまり書いてなくてね」
「そうなの?」さくらがビールを飲みながら俺に聞いた。
「ああ、もうそろそろ現実的にならんとね。将来を見据えるよ。あ、その、急に押しかけてあれなんだけど、風呂借りていいかな」
「えー!つまんなあい。かんちゃん諦めちゃったのー?」
「だよねえ。かんちゃんつまんなあい」俺はさくらのタンスからバスタオルを引っ張り出した。
「あ、こちら友達のキヨコね」さくらが言った。
「あ、よろしくね。キヨコ…さん」
「キヨちゃんって呼んで!」タートルネック野郎が言った。
俺はバスルームにさっと入り服を脱いで熱いシャワーを浴びた。心がもやもやしている。シャワーを浴びながら頭を整理した。さくらは結局男と一緒にいて、でもその男は女で、俺は男で、まださくらを愛していて、キヨちゃんは何かに悩んでいて、さくらが友達として相談に乗っていて…俺は体の隅々を石鹸で洗い流し、頭皮のアカを洗い流し、洗面台に出た。素っ裸で鏡の前に立つと、そこには痩せこけた男がひとり立っていた。俺はそいつに小声で話しかけた。
「とりあえずこれはよ、許してもらえたんだよな?誰にって、さくらにさ。そりゃあ一発食らったもんな。風呂も入れてくれたし、とりあえずは一件落着にしとこうぜ。な?そうしよう。キヨちゃんの件は…俺もまだ未知の入り口なんだ。とりあえず、さっきさくらが言ったように失礼の無いようにな。おそらく彼らのような…神から性の二分化を与えられた者たちは、デリケートだ。だからヒステリックなんかを起こしちまうんだ。そう思うとかわいそうだよな。男の繊細さと女のサガを持ち合わせてるんだもんな。そりゃヒステリックにもなるさ。ああ、かわいそうに」そう鏡のガリガリ男と話していると、奥の部屋からさくらとキヨちゃんの爆笑する声が聞こえてきた。そして俺はまた鏡に向き直った。
「なあなあ、やっぱりさ、一番愉快に人生を謳歌しているのは彼女らなんじゃないかな?知るかよ。まあ、無い話では無いよな。お前はどうだ?夢を諦めてよ、何してんだ?いいんだよ。これから善良な一般市民となって人生を謳歌するんだからよ。さくらとか?ああ。でもよお、さくらさっき、お前が作家志望じゃなくなった事、つまんないって言ってたぜ?そうだなあ。あれは酔っ払ってるんだよ。酔っ払いの言葉なんか信じるな。お前も酔っ払えばそれが分かるさ。そうだな。そうだな兄弟」
まだ奥の部屋からふたりの爆笑が聞こえてくる。ふと俺の左顎を見ると、赤く晴れていた。それから左乳首を見ると、同じぐらい真っ赤に腫れ上がっていた。
洗面台にあった適当なジャージを着て部屋に戻ると、俺は冷蔵庫を開けてビールを取り出した。久しぶりの冷えたビールが俺の内臓たちを刺激しながら下へ下へと下っていく。さくらとキヨちゃんをテーブル越しに見て座り、楽しそうに話しているソファーベッドに並んだふたりの顔を交互に見た。どっからどう見ても恋人そのものである。俺の心のモヤモヤは今だに解消されず、ただただビールをごくごくと飲み続けた。ふと部屋を見渡すと、ボウイのレコードが目に入った。一瞬あの時の感情が思い起こされたがすぐに治った。結局あの時はただただ人生の猶予に余裕がなかっただけだったのだ。今余裕があるのかと問われればはいと即答する事は難しい。だが、何もかも捨てて無くなった身分の男に余裕もクソも無いのである。あると言えばあるし、無いと言えば無いといった感じだ。ところで、やはりアルコールというのは偉大であった。訳の分からん人種が狭い部屋に集まろうと、アルコールさえあれば案外気楽に楽しくやれてしまうものだった。俺は先ほど洗面所に聞こえてきた爆笑の真相をふたりに聞いた。それは、なんともくだらないもので、キヨちゃんのへそから陰部までの毛が異常なほどに濃いという事だった。見せてもらうと、確かに濃かった。キヨちゃんのへその下にアフロのおっさんが埋め込まれており、頭髪だけがキヨちゃんの体内から突起しているのではないかと思うほどだった。それをふたりに言うと、またもや大笑いを初めてふたりとも顔を歪めながら両方向に倒れ込んでしまった。俺は苦笑いをしながらビールをすすった。これがそんなに笑える事なのだろうか。俺はなんだかむず痒く、照れる気持ちになってきて、女性の気持ちは到底分からないものだと思った。そしてさくらが笑っていることにも安心感を覚えた。それにしてもこの女達はよく笑う。ようやくふたりの笑いが治ったので、キヨちゃんに気になっていた質問をした。
「ところで、キヨちゃんの相談事とは?」
そう言った瞬間、分かってはいたがキヨちゃんの顔はどんよりとシリアスな顔になってしまった。俺が部屋に入ってきた時と同じ顔に。こうなるとは分かってはいたがどうにも気になってしまって質問せざるを得なかった。すると、ビールを一気に飲み干したさくらがキヨちゃんの代わりに答えた。
「キヨちゃん、勘太郎に話していいよね?」キヨちゃんが頷く。
「なんかね、キヨちゃんが片思いしてる男の人がいて、その人とは結構上手くいってたらしいの。映画とかご飯とか行ったりして。まだ当然友達としてだけどね。それで、ある日キヨちゃんが彼に直接打ち明けたの。あたしはゲイだって。あなたが好きですって。そしたら彼ね、その時は真剣に受け止めてくれたんだって。でも、ちゃんとした答えは返ってこないままその日は別れたの。そしたら次の日から急に連絡が取れなくなっちゃったみたいで、電話してもメールしても応答は無くてね、最初はちょっと動揺してるのかなって感じだったらしいんだけど、日が経つにつれて心配になっちゃって、それで彼の勤め先にまで電話したんだって。不動産会社なんだけど、ちょうどキヨちゃんが告白した次の日から無断欠勤してるんだって。彼、失踪しちゃったみたいなの。かわいそうなキヨちゃん…失踪してからもうすぐ一ヶ月…」さくらが話してる途中からキヨちゃんはえづき始め、話し終わる頃には声を出して泣いていた。さくらはキヨちゃんの背中をさすりながら自分まで潤目になっていた。
「その男の家には行ったの?」俺は冷蔵庫に自分とキヨちゃんの分のビールを取りに行きながらさくらに聞いた。
「うん。この前行ってきたんだって。麻布十番の高層マンション。すごいよね。で、ちょっと怪しいけどどうにか入っていく人にくっついて彼の部屋の前までは来れたの。さっきのあんたみたいに。それでインターホン押しても出てこないからドアノブひねってみたらドアが開いたらしいの。それで入ってみたんだって。キヨちゃんってほんと尊敬するわ。中には誰もいなかったんだけど、テーブルの上にね」さくらがそう言った瞬間、うずくまっていたキヨちゃんががばっと体を起こし、ぱっつんぱっつんのスキニーのポケットから一枚の紙切れを取り出して俺の前に広げて見せた。そこには丁寧な字でこう書かれてあった。
成田発 広島空港行き AM10時30分発 PM12時5分着
心のオアシスへと僕は旅立つ。そこで僕を待っている人がいる。もう少しだけ待っていておくれ。君の心を癒しに向かうから。愛してるよ。赤い亀。山崎圭一
俺はこれを見て率直にこの男の頭はおかしい、そう思った。それにこのなんのひねりも無いポエム。この男は一体どうかしている。きっと精神疾患を患っていて、キヨちゃんに告白された衝撃で頭の残り少ないネジが吹っ飛んでしまったのだろう。それに麻布十番に住んでいる事に内心ムカムカしており、全体的にこの男の言動が俺の癪に触った。すると、また崩れ落ちていくキヨちゃんの背中をさすりながらさくらが言った。
「あたしも同じ経験あるから分かるよう。なんで馬鹿な男って黙って消えていくんだろうねえ。失踪なんてするくそ男なんかほっとけばいいのよ。広島でもどこにでも行ってのたれ死んじゃえばいいのよ。そんなやつ。キヨちゃん、いい、よく聞いて、もしそいつがひょっこり帰ってきたら一発殴ってやんなさいね。いい?分かった?」
俺は居たたまれなくなりウィスキーグラスにブラックニッカを注いで飲み干した。相変わらず喉がかあっと熱くなり少し心が落ち着いた。すると泣き止んだキヨちゃんが自分のビールグラスになみなみのウィスキーを注いで一気に飲み干した。ほあああという初老の男性の様な声をあげ、ビールグラスをがつんとテーブルに置いた。それからキヨちゃんが俺とさくらを交互に見ながら言った。
「あたし、広島に行ってけいちゃん探してくる。見つけてぶっ飛ばす」
「いやいや、広島って言ったってそいつの心のオアシスなんて分かるのか?一体なんなんだよオアシスって。それに最後の赤い亀ってなんだよ。完全に気狂いだぜ。それに恋人でもない君がそいつを一方的にぶっ飛ばしたらただの傷害になっちまうぞ。それに君は、結構、その、体格いいし」俺は言った。
「ねえ、キヨちゃんの好きな人を気狂いなんて呼ばないで。いいのよぶっ飛ばして。あたしもこいつぶっ飛ばしたんだから。そんな男。きっと見つかるわ。キヨちゃん心配しないで」
「え、ふたり付き合ってたの?」体格に似合わぬ高い声でキヨちゃんが言った。
「いや、その話はいいよ。とにかく、そのうち帰ってくると思うよ。そいつ」
「こいつみたいにね」さくらが言った。
「え、やっぱりふたりは」
「いや、キヨちゃん。本当に、広島まで追っかける事ないって。行っても立ち往生するだけだぜ?金も勿体無いしさ、そんな奴に固執することないよキヨちゃん」
「大丈夫。キヨちゃんの家超お金持ちなの」
「作家志望にしては冒険心がないのね、かんちゃんって」キヨちゃんが言った。
「あたしも行く。広島。キヨちゃんがその人ぶっ飛ばすとこ見てみたいし」
「お前、服屋の仕事あるだろ」
「いいの。休むから。結構融通効くのよ」
「そっか。ならもう俺は止めないよ。好きにするといいさ。あ、そうか、ふたりが広島行ってる間俺がここで留守番してるよ。任せてくれ。俺アパート追い出されたんだ。どうかな?」
「あんたも探すの手伝ってよ」
「なんて?俺がそいつを探す手伝いをするのか?嘘だろ?酔っ払ってきたなさくら。酒が弱くなったのか。老化だな。はは」俺は笑ってつまみのジャーキーを食いちぎった。
「あんた。一緒に広島来なかったら一生許さないから。それに何、アパート追い出されたって。だっさい。言っとくけどお留守番なんて絶対にさせないから」
俺はだんまりを決め込んでいた。手元にある百円ライターをひたすらテーブルに、立てては倒し、起こしては倒していた。
「金が無いんだ」俺は百円ライターをテーブルに置いて言った。
「大丈夫よ。もし一緒にけいちゃんを探してくれるならふたりのお金は全部あたしが払うから。それでね、あたし、飛行機乗れないの。あの乗り物ってよく考えてみたらおかしいじゃない。あんなに大きい鉄の塊が何時間も宙に浮いていられるなんて。きっとあれね、飛行機なんて本当は存在しなくて、あそこに乗せられた客はみんな催眠術をかけられて、本当は地下で移動しているの。じゃなきゃおかしいもの」キヨちゃんが熱弁した。
飛行機に乗れない人の話を聞くのはとても疲れる。どんどん俺の広島に行かない理由がふたりによって削除されていった。広島に行きたくない理由はいくつかあるが、やはり強い理由としてその失踪男に対するなんとも言えない嫌悪感であった。それに、さくらの言う通りその失踪男は俺に似ているふしがあった事も強く感じている。俺は、と言うか、被害妄想者は基本的に自分の事が嫌いな場合が多いのではないかと思う。要するに自分の分身を探しに行くようなものであって、善良な一般市民を目指している俺が、前までの俺のような男を探しに行くなどどうにもやるせない話である。俺としては、さっさと前までの俺を切り捨て、新しい人生を切り開きたいのだ。俺はまた百円ライターをテーブルの上でいじくり始めた。
「そしたら何で行くの?」さくらが聞いた。
「うちの車はどう?」
「あたし免許持ってないよ。あ、勘太郎、あんた持ってるよね」
「ああ、持ってるよ。しばらく運転してないけどね」
「あたしも持ってるから交代で行きましょ。せっかく遠くに行けるんだから少しぐらいは楽しみたいわよね」涙をティッシュで丁寧に拭いながらキヨちゃんが言った。
「んん、広島かあ。んん、どうかなあ」俺がブツブツ言いながら項垂れていると、膝に人の手の感触がした。さくらがテーブルの下から俺の膝をさすっている。俺は久しぶりに自分以外の者から体を触られたので一瞬体が強張ったが、それがさくらの手によるものだと思うとやはり、昔馴染みの温もりを感じられた。何度も体を交わしたおかげで、脳ではなく皮膚が人を記憶しているのだった。実際には脳なんだろうけれど、言い表すとしたらこう言う言い方しか出来なかった。俺は自分の手をテーブルの下に潜り込ませ、さくらの手を掴んだ。久しぶりの感触。さっきエントランスで触ったさくらの手はまるで別物であるかのように、その手は喜怒哀楽のどこにも属せず、愛を感じ取る事ができたのだ。キヨちゃんには見えない位置で、俺はさくらの手を握っていた。さくらの目は見れなかった。だがさくらが俺を見ている事は分かった。するとキヨちゃんが俺に言った。
「いいの。これはあたしの人生の問題だから。さっき会ったばかりの人にいきなり訳のわからない事を言われるなんて最悪の気分よね。あたしたちふたりで探しに行くから大丈夫。それに、もしよかったらあたしんちの別荘に次の家が見つかるまで住んでていいわよ。さっちゃんのお友達だもんね」
俺は急に情けない気分に陥った。これは被害妄想癖やらなんやらとは全く別の次元の話で、自分の人生観の話だった。俺は寄生虫だ。人から施しを受けてきた人間は、ある一定のラインを越えると今度は人に尽くさなければならない。そうしないとやはり折り合いというものはつかないのである。俺は元作家志望だが、おそらくこれからの人生で作家の心を忘れる事はないだろう。そのためにはそろそろ折り合いをつけないといけない時なのかもしれない。いい機会だ。出直そう。そう心の中で思った。何かの小説ではよく、自分探しの旅に出まして、とかいう奴がいるが、身の回りで自分を見つけられない人間が遠くに行ったところではたして本当の自分を見つけることが出来るのだろうかと思っていた。そして仮に、本当の自分を見つけた時に、それをどうやって持って帰るつもりだろう。カバンに入るもでもない。かと言って脳に焼き付けるのもおかしな話であって。俺は広島に行く事を決めた。自分探しではなく、自分と似たやつ探しの旅である。これなら持って帰る心配もないだろう。もともと自分自体は探してなどいないのだから。俺はキヨちゃんとさくらに広島に行くと言った。
「とりあえず、そのけいちゃんとやらを探し出して白黒つけさせよう。今日俺がここに来たのも何かの縁。そういう事で」
三人は自分のグラスを持った。さくらはビール、キヨちゃんはなみなみのウィスキー、俺もウィスキー。何も言わずにお互いのグラスを中心に伸ばし、グラスがぶつかる音が鈍く響いた。深夜二時。さくらがまだ酔っ払っていない事は分かっていた。キヨちゃんも相当酒が強いらしく、肉の張った口角が少し上がるぐらいで、この部屋で酔っ払っているのは俺だけだった。
さくらの家に居候を始めて四日目の朝、広島に行く日がやって来た。俺はベランダに出て煙草に火を点け、マグカップのコーヒーを啜った。外は冬特有の澄んだ青が頭上に広がっていた。とても気持ちが良かった。俺はコーヒーを片手にさくらの部屋にあった折りたたみ式の日本地図を広げた。ここは東京都、武蔵境駅から歩いて十五分のところにあるサカイマンション六○二号室。これから向かう場所は約八一六キロ先、車での所要時間約十時間。渋滞や、道中のパーキングエリアでアメリカンドッグを食べる時間、諸々の道草を食う時間を考慮するとおそらく十二時間前後はかかるだろう。現在朝の七時一四分。向こうに着くのは夜の八時ぐらいであろうか。第一、今だに我々は広島に行くとしか決めておらず、広島の何市何何町に行くとは決めていなかった。福山なのか、広島市なのか、山口県境の方なのか、はたまた厳島神社の鹿でも見に行くのだろうか。まあ、おそらくこれからさくらの家まで自家用車で迎えに来るキヨちゃんが決めているのだろうと思っていた。
まず、広島といっても広い。その中で一人の男を探すことなど無謀であって、見つかることなどありえないだろうと考えていた。正直、その男が見つかろうと見つからなかろうと俺には全くもって関係のない話であって、俺と億万長者ぐらいに接点が見つからない。それに失踪男への嫌悪感も消えている訳ではなく、中途半端な手がかりを残してくれた事にも腹が立つ。何なのだ、赤い亀とは。
しかし、やはり今日はいい空だ。そんなしょうもない事は二の次で、キヨちゃんの言った通り俺はこの薄汚い東京から飛び出せる事に何とも言えない興奮を隠しきれないでいた。東京に住んでからというもの、俺は散々な目に遭って来た。その多くは、俺の被害妄想癖と東京のごちゃごちゃとした人の多さが交わって生まれたもので、駅前の歓楽街には酔っ払いの群れ、オフィス街に行けば富裕層の群れが俺を蔑んだ目で見ていた。張りぼてのタワーが立ち並び、アメリカや他の先進国に負けないよう躍起になった政治家ども。日本全国そうなのだろが、東京は目立ちすぎている。俺は昔から目立ちたがり屋とは上手くやっていけない星の元に生まれていたのだ。広島か。広島といえば何だろう。俺は煙草を吸い髭をもしゃもしゃと触りながら考えた。広島と言えばもみじ饅頭だったか。もみじ饅頭は他の名物だったろうか。海があるな。広島には。海は大好きだ。そうか、瀬戸内海だ。愛媛県との間にあるあの島々はどこかの国では天国と称賛されているらしい。俺も一度は天国に行ってみたいものだ。もしもこの旅が終わって、さくらがまた俺と付き合ってもいいというのなら、その界隈に移住するのもいいかもしれない。海辺の小さな家でふたり、寝っ転がりながらビールを飲んでやるのだ。夕方になると俺とさくらの子供達が遊び疲れ泥だらけになりながら外から帰ってくる。俺とさくらは笑いながらそれを見て、さくらが飯を作り俺が子供達を風呂に入れる。風呂でわちゃわちゃと戯れているとさくらが風呂に顔を覗かせて「ご飯出来たよ」と言う。今日は何だろうな。ハンバーグか。刺身か、そう子供と言い合いっこをしながら風呂を出る。鼻の下を伸ばしてそんな妄想をしていると、マンションの下に一台の高級車と思われる黒い車がすっと脇につけて止まった。すると部屋の奥からさくらが言った。
「キヨちゃん着いたって。早く仕度して」
さくらはそう言うと金髪の髪の毛を右側から、太いトングの様な電子機器で挟んで巻き始めた。俺は煙草の火を消して中に入った。いつ見てもさくらのすっぴんは別人にしか見えない。先程の妄想の中のさくらの顔が少し変化した。俺の準備はすでに終わっていた。はなから準備も何も、この格好で来て、この格好で出るだけだった。それにしてもと気になり、真剣に鏡を覗いているさくらに聞いた。
「もしかしてキヨちゃんって金持ちだったりすんの?」
「だからこの前言ったじゃない。キヨちゃんのお父さんは不動産会社の社長さんで、すっごいお金持ってるって。失踪しちゃった男の人もその仕事の繋がりで知り合ったんだって。あんた、準備済んだの?」
さくらが呆れた様に鏡を見たまま言った。
「さくらさん待ちなんですけど」俺がそう言うとさくらが振り返り、俺をきっと睨み、また鏡に向いて髪を巻き始めた。
二十分後、俺らは部屋の鍵を閉めてエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの中でさくらにぼそっと言った。
「もし広島が気に入ったら、俺と住むってのはどうかな」俺がもじもじとしていると、
「まだね、あたしの心は、完全に治ってないからね。自惚れないでね」さくらが一階のボタンを雑に押してから答えた。俺は黙って、ジーンズのポケットの中にある百円ライターをいじくるだけだった。
エントランスを出るとすぐ目の前には、太陽の光を借りてぴかぴかと黒光りをしたベンツが停まっていた。俺とさくらがそれをぼうっと眺めていると、本来助手席だと思っていた方のドアがガチャっと高級感のある音を立てて開いた。中からはこの前と変わらずぱっつんぱっつんの白いスキニーと、ピンクのタートルネックのニット、首に色鮮やかなスカーフ、長髪は後ろで結ばれ、茶色いサングラスをかけたキヨちゃんが出てきた。口髭は今日もビシッと整えられていた。「おはよう」相変わらず高い声でキヨちゃんは言った。おはよう。俺とさくらはそう返し、目の前に存在する人と車、その何でもない光景なのだが何だか見新しい感覚に次の言葉を失っていた。するとさくらが言った。
「すごおいキヨちゃん!これキヨちゃんの?」そう言うとさくらがじろじろとベンツを舐め回す様に見た。「かっこいい!」
キヨちゃんは照れ臭そうにサングラスを外しもじもじと立っていた。俺も男である。そしてキヨちゃんも男である。おかまであろうが何であろうが俺は男として嫉妬心をキヨちゃんに感じていた。この、いつもと違いストレートにぶつけられぬ嫉妬心。もやもやとする。やはりキヨちゃんは強い。キヨちゃんは女。キヨちゃんは女。と、俺は心で念仏の様に唱え続けた。「まあ、こんな感じだよなベンツは」と、訳の分からないことを呟いて俺は後ろの席に乗り込んだ。それからキヨちゃんが海外旅行にでも行くのかというほどのさくらの荷物を後ろのトランクに積んだ。そしてさくらが助手席に、キヨちゃんが運転席に乗り込み、いざ広島へと意気込んだベンツのタイヤは回り出した。失踪男の捜索、嫉妬への耐久、東京からの脱出、そして、さくらの心を取り戻す旅が始まった。
「おふたりさんはどういう知り合いなの?」多摩川を越える橋を渡っている最中、俺は前のふたりに言った。ふたりは何も言わずにただお互いの顔を見てにやにやと笑い合っている。「何だよ」と俺が言うと、キヨちゃんが返した。
「おふたりはどういう関係?」キヨちゃんはにやにやと分厚いほっぺを持ち上げながらルームミラーで俺を見ている。
「そういう関係」俺がぶっきらぼうに答えると、さくらがむっとした様子で付け足した。
「元ね」するとキヨちゃんが、
「やっぱり!この前は友達なんて言ってたけどやっぱりそうなのねえ、そうなのよねえ、さっちゃんも隠すんだからあ。え、え、もしかしてこの前話してたあれ?あれ?あれのあの人?」キヨちゃんがさくらに詰め寄る。
「そう。あれのあの人」さくらが答えた。
「ふううん。そおう。ふううん」キヨちゃんがなぜか嬉しそうにちらっちらちらっちらとルームミラーで俺を見ている。そのせいで時たま車体はぐらんと左右に揺れ、前を走っていた軽自動車が猛スピードで遠く先に走って行った。おそらくヤクザとでも思ったのだろう。情けない。運転手たる者、他ふたりの命を預かっている訳であって運転には細心の注意を払うべきである。どんなことがあろうと運転手は気を取られずに前をしっかりと見て集中するべきであった。まあ、俺があれのあの人張本人である事は認めるが、キヨちゃんは懲りずにナビモニターをいじくり始めている。俺は呆れて高級感のある背もたれに寄りかかり、外の景色を見ていた。もう神奈川県だ。ナビから、「ぽおん。東名高速道路に入ります」と、車内に機械的な女性のアナウンスが流れ、俺達は高速に乗った。その瞬間、無音だった車内に、アコースティックギターの音が響いてきた。荒い音では無く、ミドルテンポのゆったりとしたコード進行。ピックが弦に当たる音がよく分かる。これはこのベンツのステレオが良いからなのかは分からないが、いつも聞いているよりも鮮明に、ボウイの声が皮膚から肉に染み渡り、血管をウォータースライダーの様に流れ回る。ああ、ボウイ。やってくれたね、キヨちゃん。前のふたりはまたにやにやとふたりだけの世界で笑い合っている。あれのあの人というのは、ボウイのレコードを流したら怒って飛び出した阿保な勘太郎君という事だな。ふたりはまだ笑っている。ボウイが、おーのー、らあぶ、ゆあのっとあろん、と歌う。ふたりは声を出して笑う。俺はもう一度呆れてまた背もたれに倒れこんだ。俺もスーサイドでもしたい気分だった。
「それで、二人の関係は?」そう俺が聞くと今度は真面目に答えてくれた。
「あんたが出てってあたしが落ち込んでる時にね、職場の女の子がよく話を聞いてくれてたのよ。それで、立川に面白いバーがあるから行ってみない?ってその子に言われて、それでその子と一緒に行ってみたの。そこはオカマバーでね、たまたまそのカウンターにいたのがキヨちゃんよ。そのお店ボンジュールって言うんだけどね、それからボンジュールに通い出すうちにキヨちゃんと仲良くなってお店以外でも遊ぶようになったの」さくらが言って、キヨちゃんが頷いた。
「遊ぶようになったって言っても、キヨちゃんだって、その、男なわけじゃん。家にあげるとさ、なんか、やっぱりさ」
俺はそう言ってから一瞬で後悔した。おそらく今までの後悔最短記録だろう。やはりここまではっきりと言うのはどうかしている。言った手前後悔する事はよくあるが、特に酒を飲んでいる時に多い。だが素面の時にこれをやってしまうと片付け方が分からなくなってしまう。俺はどうしようもなくキヨちゃんに謝りたくなった。
「大丈夫よ。あたし金玉無いの。去年取っちゃったの。邪魔なのよね、あれって。ぶらんぶらんしてて。あたし使わないし。勘ちゃんも取っちゃいなよ。ね?ね?取ってくれるとこ紹介するからさ」キヨちゃんが言った。
「え、無いの?え。え。え。無いの?使わないって…え。え。え…」俺はひとり車内で「え」を連呼し、ふたりはそれを見て笑っていた。ベンツはトンネルに入り、ごおおおという籠もった騒音が響き、外にはオレンジの光が一定間隔でぽん、ぽん、ぽん、と流れていった。人は自信満々に事実を告げられると案外短い時間でそれを受け入れてしまうものだ。いつだったかどっかの待合室で見たテレビでは、電話をしている人に無言で物を渡すと何でも受け取ってしまう心理がある。というような説を実験で証明してみせていた。あの感覚に近く、俺はトンネルを出る頃にはキヨちゃんのタマがないという事を真実として受け取り、別に、さくらの家にキヨちゃんが上がって遊んでいたことに対してなんの不思議も感じなくなっていた。ただ、純粋に、彼女らは友達として遊んでいたというだけであった。俺は心のもやつきが勢いよく溶けていくのを感じながら、これからは人を見る目を少しづつ変えていかなければならないと強く意識した。善良な一般市民になるために。広島から帰ったらまずキヨちゃんの店、立川のボンジュールに行かねばと、窓の外を見ながら考えていた。トンネルを抜けてからというもの、両脇には田園が続いており、民家がポツポツと立っていて、そこには農夫らしき人たちががやがや忙しげに何かを作業していた。ついに東京脱出に成功したのだと内心で喜びの舞を踊った。
自動的にまぶたが開いた。車はどこかのサービスエリアに停車していて、運転席と助手席は空っぽだった。エンジンは切られており、煙草を吸っていないにも関わらず息を吐くと少量ながら白い煙がもわっと飛び出た。窓の外を見てみるとサービスエリアに並ぶ屋台の列のひとつにさくらとキヨちゃんを見つけた。何かをむしゃむしゃと食べている。薄情なふたりだ。と、白色のため息を吐いてケツを左右に持ち上げた。鈍い痛みが腰回りで轟いた。頭の脇の方で今まで見ていたシーンがちらついている。学生時代に交際していたひろみという女と、キースリチャーズが手を繋いで歩いている。俺はひろみの隣にいて、キースと俺がひろみを挟むようにして歩いていく。だらだら、だらだら。まるで、中学生が日曜日に暇を持て余し、近くの大型ショッピングセンターを、だらだら、だらだら、クレープを片手に徘徊している様だった。そんな怠惰なシーンを寝ている俺に見せつけて一体どうしたいというのだろう。もし、人々に夢を見させているのがギリシア神話に出てくる神々のひとりだとしたら、一体どういう風の吹き回しで今更ひろみを俺の夢に投入したのだろう。是非ともその意見を聞かせてほしかった。そしてその神を叱咤してやりたかった。ひろみは実に男たらしな女だった。俺の友達を取っ替え引っ替えしているうちにたまたま当然のごとく俺にも回ってきた訳で、本気になるには危険すぎる恋だった。そして夢ではあのキースリチャーズまでもを虜にしていた。本当に頭がさがる。二年ぐらい前に聞いた噂では、ひろみは高校を中退して新宿のソープ嬢になったらしい。ひろみは順調に男と女を拗らせたまま人生を歩んでいる。それもまた一本筋が通っているというものであった。俺はさくらとボウイの一件を引きずっていたのか、眠りについていく過程の中、その神に見破られ嫌がらせをされていたらしい。とにかく、気分は最悪だった。今すぐに酒が欲しかったし、さくらの顔が見たかった。
俺は酒を求めて外に出て、運転席のドアを開けた。ハンドルの下の刺さりっぱなしになったキーを抜いてドアを閉め、一先ずトイレへ向かった。歩いていると、一瞬で空気の違いを感じる事ができた。東京にある空気は土地に対して多すぎた人達の汗やイライラや負の感情がカクテルされている。そんな空気の気配は無く、ただただ山々が俺を見下ろしていて、聞いたことも無い鳥の声が、俺には歌に聞こえてきた。少しだけ、さっきまで感じていた気持ちの悪いひろみの顔が頭から薄れていくのが分かった。朝から飲んでいたコーヒーを一気に出し、トイレから出てサービスエリア内を散歩していると、新しい色合いの看板には駿河湾沼津SAと書かれてあった。外の床は、クリーム色のタイルが一面に敷き詰められており、普段聞かない足音が聞こえてくる。建物はヨーロッパを思わせるような外観で、赤、青、緑、茶色、オレンジの食い物屋の屋根が奥から順に飛び出している。横に伸びた建物の端っこには一段ほど高い、札幌の時計台を思い出させる洋風の塔が伸びていた。建物の至るとこにある角はレンガで積まれており、表面は漆喰の様な材料で塗られており、見事な左官仕事であった。ある種、ディズニーランドにやってきた様な異世界感を感じながら歩き回っていると、向こうの方から特大なイカの丸焼きを片手に歩いてくるさくらとキヨちゃんがいた。
「おはよう。勘太郎。」さくらが言った。
「何で起こしてくれないんだよ。ここ何県?」俺が聞くとサングラスをかけたキヨちゃんが答えた。
「静岡県!だって全然起きないだもんかんちゃん。もう爆睡!イカ食べる?」
「いや、結構。そうか、静岡か。広島まで全然あるな」
「うーん、まだ四分の一か五分の一ってとこね。あ、そうだ、はい。今回のギャラ前金で渡しとくね」キヨちゃんが茶封筒を俺に渡した。中身を出してみると一万円のピン札が三枚入っていた。
「え、キヨちゃんいいよ、こんなに。ギャラなんて、別にそんなつもりで一緒に来てる訳じゃないし。友達として一緒に失踪男をとっ捕まえに行くんだからさ、受け取れないよさすがに…」キヨちゃんはイカをしゃぶりながら無言で俺を見ている。
「受けとんなさいよ。せっかくキヨちゃんが気持ちでくれてるんだから。まあ、本当ならあんたみたいのにこんな大金勿体無いのよ。ちゃんと広島着いたら必死で働きなさいね。何ならここから広島まであんた運転しなよ」 さくらが言った。
「そっか。キヨちゃん悪いね。もらっとくよ。キーは俺が預かってるから俺が運転する。もし傷付けても笑って許してね。はは」俺は笑いながらそう言ってさくらのイカを奪い取りかぶりついた。キヨちゃんはイカ片手ににこにこと笑いながらそれを見ていた。
久しぶりの運転は気持ちが良かった。駿河湾沼津サービスエリアを出てから一時間ほど、不思議なぐらいに空いており、俺は元来調子乗りの才能を発揮して時速百四十キロをキープして走り続けた。横に乗っているさくらはスヤスヤと眠っており、ルームミラーで後部座席を除くとキヨちゃんが不安げな顔で外を見つめていた。愛する人を失うという事は、この不安げな表情が顔にこびり付いてしまうという事だな。と俺は思った。さくらも同じ様な顔でこの五ヶ月を過ごしてきたのだと思うと少しやるせなくなった。俺はアクセルを踏みつけている足を少し緩めて、カーナビからラジオをかけた。カチカチと適当に選択したそのラジオは名古屋のローカル番組らしく、あからさまに酒飲みのヘビースモーカーとわかるしゃがれた声の男が、局に送られてきた手紙を読み上げている。ラジオは好きでよくアパートで聞いていたが、ここまで聞き取りにくいパーソナリティーは初めてだった。バックでは、よく無印でかかっている様な民謡音楽が流れていて、時々、男性は手紙を読み上げている途中にげほげほとむせかえっていた。この珍妙なラジオがどうも面白く、暫く聞き入っていた。話の内容は酷いもので、昼の十二時を回った昼食どきの放送にも関わらず、そのDJマツイというパーソナリティーはセックスの体位がどうだの、ローターはこのメーカーがおすすめだの、この時期は逆にムラムラするだのと、世界で一番この時間に相応しくないラジオを繰り広げていた。冬空の気持ちのいい晴天の中、電波を通してこれだけ人々の心をどんよりさせる放送はこの先の人生であまり聞くことは出来ないだろう。俺が爆笑しながらそのラジオを聴いていると、後部座席からキヨちゃんが叫んだ。
「ねえかんちゃん、なんなのよこのラジオ。いやらしい!もっと他のラジオにしてよ!インターFMとかJWAVEとか!気分悪いわ!」俺は笑いながら答えた。
「いいじゃんよこれ。こんだけ赤裸々に語ってくれてるんだ。多分この人昨日の夜から酒飲んでそのまま局に来たんだな。ろれつ回ってないもんよ。はは」するとキヨちゃんが呆れた様に返した。
「最悪。不潔。あたしも店ではお客さんに下ネタとか話すけどね、こんな真っ昼間にこんな不潔な話よく話せるわね。かんちゃんもよく聞けるわね」
「キヨちゃんって案外繊細なんだね。はは」俺は笑いながらルームミラー越しにキヨちゃんを見て言った。キヨちゃんはムッとした様子でルームミラーを睨んでいる。おかげで暫くキヨちゃんは黙り込んでしまった。DJマツイがむせ返りながら言った。
「さああそれでは、次の曲にゲホゴホッ…つうぎの曲にいってみよおうかあ。これはあ、ゲホッ…ペンネーム、浪速のマンマンタオパイタンさんからねえ。ええと、ゴホッ…いつもラジオ聞いています。今日もゲスいですね!ありがとう!私がリクエストしたい曲は、なになにい。「愚鈍」のオマエノコトナドシランです!これはゲロを吐きそうな曲だねえ。ガホッ…それでは行ってみましょおう!「愚鈍」で、オマエノコトナドシラン!」DJマツイが曲のコールをした瞬間、黙り込んでいたキヨちゃんが叫んだ。
「かんちゃん!前!前!誰か立ってる!」その言葉でさくらが起きた。少し先を見てみると、何キロか先の路肩に背の低い人がこちらに手を降って立っていた。とりあえず、少しスピードを下げ一番右の車線から一番左の車線にベンツを移動すべくウィンカーを出してハンドルを左に回した。幸い他の車は追い越し車線を時たま何台か通るぐらいで、左の車線を七十キロぐらいで走りその人物に少しずつ近づき確認する事が出来た。その人物は男の子で、こちらに向かって親指を立てた左手を大きく降っている。
「何あの子?ヒッチハイク?」さくらが言った。
「親に降ろされちゃったんじゃないの?かわいそうに。危ないから一回停まってあげましょうよかんちゃん!」
「そうだね、明らかにおかしいもんな。あぶねえよ…」
俺はラジオから垂れ流されていたオマエノコトナドシランのボリュームを捻って小さくし、ゆっくりと速度を落として少年の横にベンツをつけた。窓を下ろして少年の顔を間近で見ると、やはり幼く、おそらく十二歳ぐらいに見えた。シュッとした顔立ちをしており、整った背の高い鼻と、大きな丸い目の上にある伸びたまつ毛が少年の顔に濃い印象を与え、顎まで伸びた髪の毛によって中性的な雰囲気を漂わせていた。その少年は今にも泣きそうな目で俺を見ている。背中には茶色い小さなリュックサックを背負っており、服装と言えば、泥で汚れきったコンバースに穴だらけのジーンズ、Tシャツだけやけに新しく、胸には大勢の人間が十字架に吊り下げられたキリストを前に頭を下げて必死に祈りを捧げている写真がプリントされていた。他には何か持っている様子は無かった。後ろではかすかにオマエノコトナドシランが流れていた。
「少年。どうしたよこんな所で。危ないよ」少年は黙って俺を見ている。
「少年。黙ってちゃ分からんぞ。俺たちを止めたのは君だろ?なんか用があったんだろうよ。言ってごらん。ほれ。せーのっ」するとさくらが俺を押しのけて運転席の窓まで身を乗り出した。
「なんであんたそう言う言い方するのかなあ。怖がってんじゃんこの子。黙ってて。それとこのラジオ切って」俺はラジオを切った。
「こんにちは。お母さんとお父さんは?まあ、近くにはいないよね。そうだよね。そこにいたら危ないし、とりあえず停まってるとあたし達も怒られちゃうから後ろの席に乗りな?ね?」さくらがそう言うと少年はコクリと頷いて後ろの席に乗った。俺は遠く後ろの方から車がやって来るのを確認して、すぐさまギアをドライブに入れベンツを走らせた。少年は後部席に乗りこむやいなや巨体のキヨちゃんを発見し一瞬ビクッと身を強張らせた。その隣にこれから座っていなければいけないという絶望感からか、車に乗り込んでからというものわなわなと小刻みに震えているのが安易に感じ取る事が出来た。キヨちゃんは自分に対して震えていると気付いていない様子で、少年にぐうっと顔を近付け、相手に不快感や警戒心を与えぬ様、満面の笑顔を作り出し大きな眼で少年の目を覗き込みながら話しかけていた。さくらも後ろに身を乗り出してにこにこと少年を見ている。俺が少年の立場であったならと考えているうちに笑いが込み上げて来た。が、何とか堪えた。
「こんにちはあ。今日はいい天気ねえ。ほんと。あ、お菓子食べる?あたしの職場の子がね、この前台湾行って来たのよ。それでね、はい、これ、じゃじゃあん。パイナップルケーキ!買って来てくれたのお。あたしこれずっと食べたかったんだけどね、なかなか時間が無くて食べられなかったのよお。あ、これ気を付けてね。すっごい歯にくっ付くらしいから!あ、それとじゃがりことお、ポテトチップスとお、あたしねえ、うすしおって食べないの。うすしおのうすって何なの。薄さなんてこっちは求めてないのよ。味が濃ければそれでいいの。がははは」キヨちゃんの盛大な男らしい笑い声がベンツ内に響いた。少年はキヨちゃんに無理やり渡された台湾のパイナップルケーキを片手にまだわなわなと震えていた。さくらはまだにこにこと微笑みながら少年を見ていた。キヨちゃんはまだがははと笑っていた。俺はまだ鼻を膨らませて笑いを堪えていた。「ぽおん。三重県に入りました」アナウンスが鳴り、我々は小さな友を新たに加え、車のエンジンを回し続けていた。高速道路の名前は新東名高速道路から伊勢湾岸自動車道にいつの間にか変化していた。伊勢湾の立派な赤い鉄塔の立つ橋を渡ると海を真上から見る事が出来た。少し進むと左側に大きな観覧車がゆっくりと回っていて、どうやら遊園地があるらしく、そこで遊ぶ家族連れの楽しそうな声が車内まで聞こえて来るようである。広島まではまだまだあるらしい。失踪男までは、まだまだあるらしい。
車は新名神高速道路に乗り、俺たちは土山サービスエリアという所でトイレ休憩をする事となった。これは俺の提案であり、ここ数年酒飲みの神の祟りか万年下痢なのである。俺はトイレの個室に入り込み至福を感じながら少年について考えた。名古屋で少年を拾ってから、キヨちゃんの人間的アロマの効果か少年はだいぶリラックスしてきたらしく、いくつかの事を俺たちに話してくれた。まず、年齢は十二歳である事、名前は矢崎ゆうたという事、それと、家がある名古屋から京都へ両親と家族旅行中だったのだが、行きしの車内でゆうたの行儀が悪いという理由だけでいきなり父親に降ろされ、置いていかれたという事だった。こんな酷い話は小説でも読んだ事が無い。それに、降ろされた時刻というのが朝の七時だという。俺たちが拾うまでおよそ六時間の間あのゆうたという少年は悲しみにくれながら訳も分からず止まってくれる車を待ち続けていたのだ。それもこんな十一月の空の下で。何よりも信じられないのが、少年を見つけても止まる車が一台もいなかったという事だ。にわかに信じがたい話である。とりあえず俺はこの先の行動を便器に腰掛けながら整理した。まず、ゆうたを京都にいると思われる両親の元へと届ける。(俺は警察に送り届けようと女性陣に提案したのだが、ゆうたが厭に嫌がるのでそれはやめる事にした。)それから、本来の目的である広島へと向かい、どこかで一泊して翌日から失踪男の捜索を開始し、キヨちゃんがそいつをぶっ飛ばす。そしてさくらと俺はハッピーエンド。というのが完璧な流れなのであったが、ふと思い出すとまだキヨちゃんに広島のどこに行くかを聞いていなかった。ナビには一応広島駅を目的地として入れておいてあるが、これもまたはっきりさせておかなければならない。キヨちゃんの中は四日前から比べて失踪男の手がかりも増えていることだろうと決めつけていた。赤い亀の謎も今のうちに解いておけば向こうに着いてからスムーズだろう。とは言えまずはあの少年だ。可哀想ではあるが正直かなりの時間ロスになる事は目に見えている。昔からガキは嫌いな性分である事や、面倒臭がりな性分があいまって、少年の件は早いとこ片付けたいと思っていた。もちろん心から同情しているが、先ほどまでの車内での会話、思い出してもイライラする。と言うのも、ゆうたという少年はリラックスするにつれ、さくらに馴れ馴れしくあれこれと楽しそうに話しかけているのである。さくらも少年に興味津々であり、キヨちゃんも何とかふたりの会話に混じりこみ大変賑やかな車内になっていた。俺も運転しながら少年に話しかけてはみるが、俺への対応それはまさしく虫けら同然のそっけない返事のみであり、俺はただただ傍観者を決め込み運転に集中するばかりであった。ゆうたもまた男なのである。男の本性と子供の本性を垣間見せるゆうたもまた俺にとって偉大なる敵になろうとしていた。そんな事を便器に座って黙想していると、ドンドンと俺の目の前の黄ばんだドアが叩かれた。俺は最大限気だるい声で、「はあい」と返事をすると、ドアの向こうの男がチッとかすかな舌打ちを鳴らしスタスタどこかへ消えて行ったので、俺はふっと笑い身を整えて外に出た。外に出るとスーツ姿の、俺と対して歳の違わないであろう男が俺をキッと睨みつけ、俺の入っていた個室に勢いよく入っていった。個室まちの人々を眺めながら俺はまたふっと笑った。
俺が戻ると三人は車内でアメリカンドッグを食べていた。俺が運転席のドアを開けるとキヨちゃんがアメリカンドッグ片手ににこにこ俺を見ている。俺がそのまま後部座席のドアを開けるとそこにはアメリカンドッグにかぶりついているさくらがおり、奥にはアメリカンドッグ少年が座ってこちらを見ている。俺は助手席の方へ回りドアを開けてアメリカンドッグ臭いベンツに乗り込み、まもなく車は動き出した。いつの間にか滋賀県に入っていたらしい。着々と我々は前に進んでいた。俺は運転を変わってくれたキヨちゃんに礼を言い、後部座席に振り返りさくらに言った。
「俺のアメリカンドッグは?」さくらは無いと言って食べ終えた棒の下に固まったカリカリの生地の部分を食べようとしていた。俺はそれだけでもいいからくれないかと言ったが、さくらはカリカリの生地をすっかり食べ終え棒を素っ裸にしてしまった後に、「ごめん」と言った。俺は前に向き直った。
「あの、僕のでよかったら、どうぞ」俺が振り返ると、少年が食べ終わったアメリカンドッグの棒を俺の前に出した。棒の下の方には生地が残っていた。俺は少年を見ながら無言でそれを受け取り、前を向いて座り直し、カリカリの生地を齧った。なんともやり切れなかったが、うまかった。キヨちゃんもわざわざビニール袋から自分の食べ終わった棒を取り出して俺にくれようとしたが、俺は大丈夫とジェスチャーして目を瞑った。
「んで、これはどこに向かってるのかな、キヨちゃん」俺は辺りに続く緑と、コンクリートの長い道の先端に目をぼんやり向けながらキヨちゃんに話しかけた。
「広島よ」キヨちゃんは前を向きながら答えた。
「うん。だろうよ。じゃなくて失踪男の所に行くんだろ?そいつどこにいるんだ?」
「あ、そうね。それがね、あの部屋にあったメモの一番最後に書いてあった赤い亀ってやつなんだけどね、ちょっと調べて見たのよ。そしたらね、尾道市の千光寺公園ってとこに、赤い亀っていう亀の銅像が立てられているらしいの」
「銅像?銅像ねえ。尾道って言ったらあれか、瀬戸内海だね。それってもう完全に失踪男はその銅像の近くにいるな。なら早く言ってくれよキヨちゃん。俺広島中を片っ端から探すのかと思ったよ」俺はナビの目的地を尾道駅に合わせてセットし直した。到着時間が四十分ほど短くなったので四十分分ほっとした。
「ごめんね。赤い亀の銅像なんて日本でそこしかなかったしね、広島行きのチケット買ってるしね、そこしか無いのよ。これ、あのメモ帳」そう言って俺に例のメモ帳を手渡した。
成田発 広島空港行き AM10時30分発 PM12時5分着
心のオアシスへと僕は旅立つ。そこで僕を待っている人がいる。もう少しだけ待っていておくれ。君の心を癒しに向かうから。愛してるよ。赤い亀。山崎圭一
「山崎圭一ねえ。でもさ、なんなんだよこの愛してるよ赤い亀って。銅像に恋してんのか?相当な趣味だなこいつは。よくキヨちゃんもこんな男好きになったなあ」
「普段はそんな変態みたいな言動なんて見せなかったのよ。無口で優しい人だったのに…ケイちゃん」後部座席で盛り上がるさくらと少年の声が気になる。
「まあそんな暗い顔しないでさ、きっとその近くにいるからさ、手当たり次第にその何とか公園ってとこにいる人に聞いてみようぜ」
「うん。ありがとうかんちゃん」キヨちゃんの方を見ると今にも泣きそうな顔をしてハンドルを握っていた。俺は哀れなキヨちゃんの頬に一粒だけ流れ落ちていく涙をはっきりと見た。俺は少しでもと思い前の収納ケースを開けてCDを何枚か取り出し、カチャカチャと探ってブルーハーツのヤングアンドプリティというアルバムを見つけたので、それをカーナビの下にあるベンツの口に食わせて流した。キヨちゃんが少し笑って、ふたりでキスして欲しいを口ずさんだ。外は心なしか夕方に近づいている様で、近くに大きなゴルフ場が見えてきていた。ゴルフ場の緑は人工芝のせいか眩しく見え、周りにある山々の優しい緑と少しだけ違うように見えてしまった。人工芝を見ながら、数時間前にいた東京の景色を思い出していた。やはり東京のへそも人工芝のようなもので、俺には眩しすぎるのだ。ああいった眩しいハリボテに囲まれて暮らすという事は決して悪いことではないが、いつの間にか自分までハリボテになってしまわぬよういつも警戒していなければならくなっていた。それが、何とも、疲れるのである。実際にハリボテになってしまった人をいくつか東京暮らしの中で見てきた。作家仲間だった伊藤一樹はある雑誌の編集者にハリボテにされ、くだらない同人誌のコラムを書くようになった。彼は日本の古き良き言葉を駆使するのが上手く、知識も俺より格段に持っていて、俺の知らない日本語をよく知っていた。ストーリーも繊細で、卵の黄身を持つように読まなければ本当の良さや深さが分からないといったような、くだらない同人誌とは縁のない男だった。彼もまたハリボテ。だが、おそらく、俺はハリボテでは無いと自分では思っているが、それ以外の妬みや嫉妬の虫なのかもしれなかった。俺が伊藤一樹をハリボテに仕立て上げているのかもしれなかったが、東京に住んでいる以上俺には分からない。教えてくれる者がいるとすればそれは死んでいった作家連中だろう。生きている連中に俺のハリボテ論が正しいかなんて聞いたところで彼らは自分の納得する答えしかあの小さな口からは出さないだろう。俺は、ただただこの機会に自分のこのインチキなハリボテ論の行方を見守る事にした。もし面白い見解がこの旅で見つかればまた物書きにでも戻ろうかと一瞬考えたが、それはどうだろうとも思った。その時後部座席からきゃあというさくらの声が聞こえ、俺ははっと後ろを振り返った。さっきまで楽しそうに話していた少年は神妙な顔でさくらをじっと見つめ、さくらは運転席の背もたれを一点に見つめている。キヨちゃんが「どうしたの!」と叫んだ。俺は訳がわからずふたりを交互に見て見ると、少年の手元には刃渡り五センチほどのナイフが握られており、しっかりとさくらの右腹に向けられていた。俺がナイフを見ていると少年が口を開いた。
「あんたら、こんな高級車乗ってさ、金あんだろ。出せよ!あほんだらあ!」少年は叫ぶと俺の目をじっと見た。犯罪者特有の薄汚い目で。「お前、動いたら女刺すぞ。あほんだら」
あほんだらという言葉をえらく気に入っているらしく、言葉の節々にその言葉が混じっている。
「おい坊や。あほんだらはお前だよ。やめときな。刺したら怒るぞ。あほんだら坊や」キヨちゃんが運転しながら訳もわからず叫んでいる。「何!何!何!どうしたの!ゆうたくん!何!さっちゃあん!かんちゃあん!何!」 さくらの方がまだ落ち着いている様子だった。
「うるさい!おかま!金出せって!言ってんだろうがあほんだらあ!」
「落ち着けよ。お前強盗してるつもりか?こんな高速走ってる最中に金渡したところでお前どうするんだよ。坊や、金なんて俺ら持ってないぜ。金なら京都にいる父ちゃん母ちゃんに貰え。行儀良くしてればくれんだろうが。今連れてってやるから大人しく待ってなさい。あほんだら」
「俺に親なんていねえんだよ!俺はこれで飯食ってんだ!あほん」少年お気に入りのあほんだらという言葉はキヨちゃんによって掻き消された。
「何なのよお!ゆうたくん嘘だったのお!もう!可愛い子だからもう少し大人になったらうちの店で面倒見てあげようと思ってたのにい!ゆうたくんのあほんだらあ!」流石に体格だけあってキヨちゃんの声は人一倍大きかった。
「わかったよ。金やるからそのナイフしまえよ。キヨちゃん、落ち着いて。次のサービスエリアに入ろう」
車内にいる人間の中でさくらが一番冷静を保っていた。さくらは堂々としてキヨちゃんの後頭部を見つめるのみであった。俺はこのガキをどうしてやろうかと考えていたが、自分の膝が小刻みに揺れているのに気付き、その瞬間から保っていた平常心がただのさくらに対する格好付けである事が判明した。俺はそれから妙に後ろの少年が怖くなり、叫び続けるキヨちゃんの声が俺の左耳を侵蝕していくに連れまた一段と恐怖心が募っていく。ステレオからはマーシーががなり声で我々に、「老いぼれてくのごめんだ!」と叫んでいる。それに続いてヒロトがブルースハープを歌うように吹いていた。一瞬ステレオの音が小さくなり、「ぽおん。京都府に入りました」と音楽を遮って申し訳なさそうにアナウンスが流れた。その後に、ラスト一分にわたるギターとブルースハープの激しいソロの掛け合いが続いた。
「うるせえおかま!あほんだらあ!俺はこうやって食っていくしかねえんだよ!」
「お、おい、分かったから早くナイフしまえよ」俺は完全に慄きというスイッチが押され、声が上ずっていた。
「俺はなあ、生まれてからずっと不幸なんだよ!親に捨てられたのは本当だよ!生まれてすぐになあ!そんでなあ!孤児院に入れられたんだけどなあ、職員のババアがムカつくからぶん殴ってやったんだよ!すげえだろ!あほんだらあ!」
「とにかくよ、ナイフをしまえって」もうあほんだらの一言も言い返せる勇気は俺に無かった。
「お前らこんな車乗りやがってよお!次のサービスエリアでおろせ!無かったらどこでもいいから金だけ出して俺を降ろせ!絶対警察に言うなよ。絶対警察に言うなよ。あほんだらあ!」するとずっと黙っていたさくらが口を開いた。
「かわいそうねえ。ゆうたくん。大丈夫よ、そんなに熱り立たなくたって。この世界はそんなにならなくても生きていけるのよ。そんな海賊みたいに生きていてもすぐに捕まっちゃうよ。ちゃんと孤児院に戻っておばさんにごめんなさいしなさい」さくらはそう言って少年の頭を撫で出した。少年の鼻息は少しだけ静かになったが、ナイフは未ださくらの右腹を向いており、ゆうたはじっとさくらを睨んでいる。サービスエリアは無く、仕方なく一度車は高速を降りることにした。高速を降りてすぐの所に、広い駐車場のあるスーパーマーケットを見つけた。駐車場には車がひしめきあって停まっていた。「ほら、着いたぞ」と後ろを振り向くと、さくらが少年の耳に顔を近づけ何かを囁いている。つい先程まで、今にも皆殺しにしそうな目をしていた少年の目は、とろんと目尻が下がり、瞼が重そうに下に圧を掛け口は半開きになっている。美しい美貌の少年のこの様な顔など想像がつかなかった。足元にはナイフが転がっており、少年の全身の力が抜けているのが分かった。まさかとさくらの右手をみると、その手はまっすぐ少年の股間に伸びており、ごそごそと辺りを弄っている。少年は時々笑い、童貞のその顔をしていた。車がすっと白線と白線の間に入る。俺はぷつんという何かが弾け飛ぶ音を体のどこかで聞き、さくらの気狂いじみた行動に目眩がした。何かがおかしい。この世界は狂っている。俺も狂っている。みんな気狂いだ。俺の身体中の血液はマグマとなり、車が停止する前にドアを開け飛び出し、そのまま反対側の後部座席のドアを開け、今にもオルガズムに達しそうな少年を引きずり出し、胸ぐらを掴み上げた。
「お前!調子に乗るのもここまでだぞ!なんてガキだお前は!ケツ出しやがれ!あほんだらあ!」少年の目は完全にこっちの世界に戻ってきており、怯えたウサギの様な目で俺を見ている。俺は気にも止めず少年のズボンをおろし、ケツを叩きを始めた。俺は叫んだ。
「体罰禁止なんか糞食らえだ!このガキャ、俺の女を!」周りを歩いていた人たちがジロジロと俺を見ているのが分かった。これは被害妄想ではなく、完全に俺は京都の頭のおかしい狂人として注目されていた。時々携帯カメラのシャッター音が聞こえてきた。おそらくSNSに投稿するのだろう。だがSNSに勘太郎という男は生きていなかったので俺とは到底関係の無い話であった。キヨちゃんとさくらに力尽くで止められ、俺はベンツのタイヤにもたれて座り込んだ。ゆうたは大声は出さず静かに泣いていた。さくらとキヨちゃんがゆうたを俺から遠ざけて遠くに連れて行き慰めている。俺は段々と平常心を取り戻し、それを眺めながらひとつ後悔のため息をついた。それから腰を上げ、ゆうたの元まで歩いて行きズボンを上げてやった。人目が気になり、ゆうたとさくらとキヨちゃんに車に乗るよう促した。後部座席に俺とゆうたが乗り、さくらは助手席、キヨちゃんの運転で車は動き出した。俺が警察署に向かってくれとキヨちゃんに言ってから、車内の誰もが無言だった。ゆうただけがまだめそめそと泣いている。ブルーハーツももう聞こえてこなかった。京都府宇治警察署の駐車場に着くと俺は少年を車から降ろした。さくらとキヨちゃんにここで待っててくれと言って、俺も車から降りた。俺と少年は警察署の入り口まで歩き、そこで少年に声をかけた。
「悪かったな。大人気なかったよ」少年は黙って花壇の方を見ている。「俺も父ちゃん母ちゃんいないんだよな。孤児院じゃないけど父ちゃんの方のばあちゃんとじいちゃんに育てられてね。よく悪い事するとケツ叩かれたんだ。まあお前の気持ちが分かるって言われんの嫌だろうから言わないけどさ、あれだ、善良な一般市民を目指して生きろよ。道に迷ったら本を読め。あれは昔のやつらが残して逝った人生の道しるべだ。んじゃあな」俺はそう言ってキヨちゃんから貰った茶封筒から1万円札を1枚取り出して少年のボロジーンズに突っ込んだ。少年がそのまま警察署に入ろうがまた強盗稼業をやろうがどっちでもよかった。それから俺は車に戻り、後部座席にどさっと乗り込んで、またひとつ後悔のため息を吐いた。誰も何も喋らずに、黒光りの高級車ベンツはまた動き出した。もうあたりは完全に暗く、車のディスプレイには18時40分という文字が光っていた。さくらが時たま心配そうに、何かを言いたげに後部座席の俺を振り返って見てきたが、俺は気付かないふりをして外を眺めた。宇治の情緒ある灯を見ているととても心地よかった。小さな歓楽街の脇で信号待ちをしていると、古臭く狭い居酒屋の中がちらっと見えた。中には京都のおっさん達がワイワイと騒いでおり、何やらコートを振り回して女将さんらしき女性に怒られている人もいる。みんなやけに笑顔で、何がそんなに楽しいのかと考えていたが、すぐに答えは見つかった。俺と彼らの決定的違い。俺はもう17時間も酒を飲んでいなかった。ああ、酒飲みは参るよ。ああ、酒飲みには参っちまう。なあ、こんな俺をどうか許してくれ。酒飲みのおいらをよ。
俺は串に刺さった明太子付きの白いささみを口に入れて串をすっぽ抜き、ビール瓶からコップに、コップから俺にとささみをビールで次々に胃へ流し込んでいった。木目調のカウンターには、俺から右へ三つ離れた席にキャップを被った爺さんがふたり座っていて、左にふたつ行った席には厚化粧の婆さんがタバコの煙を燻らしているのみであった。店主の親父は少し前にぷらっと店を出たきり帰ってこない。厚化粧の婆さんを見ると、右手はしっかりとウイスキーグラスを握りしめており、灰皿に置かれた長く細いタバコの白いフィルターには、紅色のキスマークが滲んでいた。店は昭和時代のあの薄暗さで、着物姿の女性がビール瓶を丁寧に両手で持ち、俺に一杯どうぞと言わんばかりに微笑んでいるポスターが、厚化粧の婆さんの真後ろに貼ってあった。右側の爺さんふたりが京都弁で何やらぶつぶつと小さな声で話している。互いの顔も見ずに、ふたりはただ目の前のしがないお通しのユッケに話しかけているように見えた。はっきりとは聞き取れないが、年金暮らしで生きる人間たちの妬みつらみを洗いざらい、小さく吐きだしている様で、その京都弁が俺の右耳に入ってくる度に俺は、ああ、東京とは随分離れてしまった。とノスタルジーに浸るのだった。格好良くノスタルジーと言えど、別に、対して、故郷を恋しく想う事は無く、ただただ、住んでいる街から遠く離れたこの街でこの昭和臭いレトロな店に入り浸りちびちびとビールを飲んでいると、どうしてもノスタルジーという言葉が頭にこびりついてしまう。おそらく作家志望の性なのだろう。こんな事は心底くだらなかった。俺をこんな場所に連れて来たのは一体誰だ?キヨちゃんか、さくらか、ベンツか、タイヤか、高速道路か、カーナビか、失踪男か、はたまた赤い亀の銅像か。俺自身、問いの答えがこの中にあるなどと思ってはいない。そこまで落ちぶれてはいなかった。ならばなぜこんな場所でひとりで酒を飲んでいるのだ。そう俺に問いかけると数時間前の新鮮な記憶が思い出される。
我々が警察署から車を出してカーナビに従い高速道路に乗ろうとした手前、俺は口を開いた。
「なあ、まだこれ続けるのか?」
「これって?」さくらが言った。
「この旅だよ」
「まだ広島にも着いてないじゃない」
「そうね、今から再出発しても向こうに着くのは真夜中になりそう。ここで一泊してまた明日から全てやり直しましょう。何だかあたしも疲れたわ」前を向きながらキヨちゃんは言った。
「俺もだよ。疲れちまった」
さくらは何も言えずにただふたりの言葉に従った。さくら自身、先ほどの少年との行動から強気な態度は見せられないのだろう。何とも哀れな女だ。と俺は思った。少年を警察署に置き去りにしてから、俺とさくらの間には薄いガラスが設けられ、刑務所の無言な面会の如く気持ちの悪い寒さを感じていた。さくらと俺のどちらがシャバから面会にやって来たのだろうか。俺が死刑囚か。さくらが無期懲役か。
五分ほど走った場所にあった三十階建高級ホテルに車は何の躊躇もせずに入り、速やかに我々は車を降りフロントでチェックインを済ませ、ひとりひとりのシングルルームを取った。「車は所定の番号に駐車して下さい」と関西訛りの受付嬢が微笑んだ。キヨちゃんがキョロキョロと辺りを見回していた俺らに振り向いて言った。
「あたし車止めてくるから、ちょっとロビーで待ってて。あ、先に部屋に荷物置いて来ちゃった方がいいかな。とりあえずすぐ帰ってくるから。戻って来たらどっかご飯でも食べに行きましょ。今夜はちょっと盛大にやった方がいいみたいだしね。気分的に。じゃあ待ってて」
するとさくらが明らかに動揺した様子で何か言いたげにしている。俺とふたりになりたくない事は容易に察することが出来る。キヨちゃんも同様、何やら慌てふためいた様子でなかなか行こうとしない。キヨちゃんも先程からのふたりの沈黙に困り果てていたのに違いなかった。キヨちゃんは被害者だ。俺とさくらのどちらかが被害者だと思っていたのだが、それはミステリードラマ特有のどんでん返し。最後はみんな被害者で、知らないところで互いに傷つけ合う加害者だった。キヨちゃんはおそらく俺らをふたりにして話し合いをさせるつもりでいたのだろう。何を話し合う事があるのだろうか。事はそう難しくないはずだった。はずなのだが、俺は一度冷めきった世界を見せられるといつまでもその世界に固執する性分であり、それを癒すのに大量の酒が必要であった。その事をさくらも知っていたのだ。さくらとは2年半付き合っていたが、俺がいつ鬱になるか、またその対処法が分からないでいるらしい。俺自身いつあの冷めきった部屋に閉じ込められるか分からない。誰も分からないし、誰もそんな事になど興味はあるまいと考えていた。
「あたしも着いてく」さくらがぼそっと言った。
「うん。うん。おいで。じゃあかんちゃんちょっと待っててね。先に荷物置いてきちゃって。はい、これ。キー」キヨちゃんが俺に硬く白いカードを一枚渡した。
俺はてっきり一般的な鍵に20センチ程の細長いクリアーな棒が付けてあるのもだと思っていた。金持ちはどうやらいろんな物を小さくする事が好きらしい。こんな小さなカードなどすぐに失くしてしまう自信がある。だから貧乏なのかもしれなかったが。俺は「待ってるよ」と言ってだだっ広く白く明るいロビーのベンチに腰掛けた。一瞬、またさくらが俺の方をちらりと見た気がしたが、俺はさくらの方を見なかった。ふたりがこそこそと何やら話しながら歩いていった。ふたりが正面のどでかい自動ドアに吸い込まれていったのを確認して、一度溜め息を吐いた。それからもう一度。数分間、俺はロビーにやってくる人間たちを眺めた。どいつもこいつもぶくぶくと肥えており、金のせいで歪んでしまった笑みを顔に貼り付けて歩いている。女もいる。男もいる。ゲージに押し込められたプードルもいる。白人。黒人。東洋人。聞こえてくるのは中国語の多いこと。俺はこの、貧乏人や殺し合いや都合の悪い事を省略した地球を小さく収容した様な場所にいる事が恥ずかしくなり、立ち上がってロビーを出た。目指すは貧乏人に見合った静かな酒場だった。
この店に入ってから何時間経ったのだろう。携帯は半年ほど前から解約せざるを得なくなり持っていない。店には時計ひとつも無いが、そこまで時間の経過を知ろうとも思わなかった。店主の親父がやっと帰って来たので、俺は「おじさん、芋のソーダ割りね」と言った。とほぼ同時に両脇のおっさんふたり、厚化粧のおばさんもそれぞれ一気にオーダーした。我々客同士は妙な一体感に包まれ、コップの中身が空になったにも関わらず店の親父がいないが故に注文出来なかった鬱憤を共有した。俺と爺さんふたり組と婆さんは互いの顔をちらちらと見て、また各々のノスタルジーに浸るのだった。60歳前後であろう親父はあいよと気の抜けた返事をしてからタバコに火を付け、気持ち良さそうに煙をもわっと吐いてから俺らの酒をゆっくりまったり作り始めた。俺も煙草に火を着けてさくらの事を考えた。あの時取ったさくらの行動を。今でも意味が分からない事だらけだが、少しは冷静に考察する事ができた。さくらはナイフで脅され、身を守るために相手の隙を突いたのだ。ただそれだけの事であった。ただそれだけのくだらない事であった。俺はやっと親父から手渡された芋のソーダを呷り、もう一度さくらを想った。哀れなさくらは今頃俺を探しているだろうか。またボウイの時の様にいなくなった俺を心配しているんだろうか。いや、そんな事な無い。あの淫売め。男を何だと思っていやがる。二度と顔を合わせるものか。そうじゃねえだろうよ。肝心なのは善良な一般市民に俺がなれるのかっちゅう話だろうが。その為には自分の命を恥もクソも投げ出して守ったさくらを讃えるべきじゃねえのか?え?だがよお兄弟。ありゃあねえぜ。元恋人の前であんな仕打ちはねえぜ。もっと他の方法があったんじゃねえか?いや、ねえよ兄弟。さくらも気が動転してたんだよ。見りゃ分かんだろあの時のさくらの顔。蒼白にして絶望の目でじいっと前を向いてたぜ。一番の被害者はさくらだろうがよ。そうかも知れねえな。とりあえずこの店を出るか。そうしよう。などと、アルコールで刺激された脳みそ達が喚き散らしている中、俺は手元にある酒を一気に飲み干して親父に「勘定で」と言い店を出た。
少し繁華街を歩いていると、数時間前車で通りかかった時に見た店を見つけた。さっきのコートを振り回してた男も酔っ払い達もいなくなり、店は静かに営業を続けていた。ふらっとその店に入っていくと、着物を着た女将さんが「ごめんねえ、もう閉めるんよ」と言い、俺はまた仕方なく小さな繁華街を歩いて行った。店で見た壁時計の針は12時を刺してあった。安っぽいネオンの中、「スナック赤い蜂2F」という看板を見つけ、「赤い亀ならなあ」と思呟きながら、どこだっていい、と雑居ビルの小便臭い階段をのそのそと登り、カランとベルを鳴らしながら「赤い蜂」に入った。I字の狭いカウンターの中には30歳前後のお姉さんがいた。お客はひとり、よぼよぼに年老いた、これまた厚化粧の婆さんが座って煙草を燻らすていた。お姉さんは愛想良くいらっしゃいと言い、婆さんもニコニコしながら俺を見ている。俺はばあさんからふたつ離れた席に座ると、お姉さんがおしぼりを持ってやって来た。
「お兄さん、ここ初めてやろう」
「うん。初めてだよ。なんかぷらっと歩いてて見つけたんでね」
「あら、お兄さん東京の方の方?」
「そう。東京から今日来たばっかりで。お酒何がある?」
「格好ええねえ。東京。あ、お酒焼酎とウィスキーどっちがええ?」
「あ、じゃあウィスキーの水割りで」俺は煙草に火を着けて左を見た。髪を真っ赤に染めた婆さんが俺をじろじろと見ていた。「こんばんわ」と俺が言うと、婆さんは深く頭を下げるのみだった。間も無くウィスキーの水割りが目の前に置かれ、俺はコクっとグラスを口に傾けた。俺はこういう夜を味わう度に酒が好きになっていくのだ。カウンター越しのお姉さんのシャツのボタンはいくつか外れていて、胸元には谷間が見え隠れしていた。酔っ払った頭でそれを見ると、どうにも鼓動が高ぶり干し草でも吸ったかの様にくらくらと心地よくなってくる。お姉さんは俺の目線の先を悟ったのかそうではないのか俺に微笑んでみせた。俺も微笑み返し、ウィスキーをまた煽った。ふと左を見ると婆さんから笑みが消えていた。そして婆さんは立ち上がりコートを羽織りだした。お姉さんが入り口まで付いて行き、一言二言中国語らしき言葉を交わして婆さんを見送った。お姉さんがカウンターの中に帰ってくると、狭いバーの中は俺とお姉さんのふたりだけになり、なんとも言えない安心感を感じた。くたくたになった体がとろけていく。俺は2杯目をお姉さんに頼んだ。
「お姉さん、もしかして中国人?」
「ううん。どうやろねえ。台湾人って言ってほしいわ」
「台湾の人か。じゃあ中国人じゃなくて台湾人だな。俺、好きだぜ台湾」
「ほんま?あたしも日本大好きよ。日本人も大好きよ」お姉さんは長い髪を耳に掛けながら言った。
「そいつは嬉しいな。お姉さんの名前は?」
「チャオって呼んで。お兄さんは?」
「チャオちゃんか。好きな名前だな。俺は勘太郎。呼び方はなんでもいいよ」
「オーケー。勘太郎くんね。あたしも好きな名前かも知れん。勘太郎くん」照れ臭そうに彼女は笑った。俺は胸元のせいだけではなく、彼女の笑った顔にも引き込まれていった。俺はだいぶ酔っ払っていた。
「チャオ、奢るよ。好きなの好きなだけ飲んで」俺は威勢良く言った。
「ええの?お金あるん?ほしたらありがたく飲ませてもらます。その前にトイレ行ってくるわ」チャオは店の外の廊下にあるというビルの共有トイレに向かった。
彼女が帰ってきてからふたりはウィスキーの水割りを飲みまくった。どうなっても構うものかと。明日の二日酔いに中指を立て、お互いの身の上話を交互に語り合った。一方が喋り始めたら一方は真剣に聞き、会話になんの嫌悪感も感じなかった。台湾で思春期を迎えた事。俺の故郷の事。日本に来てから10年の間いろんな仕事をした事。俺が作家志望だった事。日本人の恋人によく殴られた事。俺にもさくらという恋人がいたという事。さっきまでいた婆さんはこの店のママだったという事。云々。ウィスキーを何杯か飲んだあたりで、彼女はカウンターを抜け出し俺の隣の席に座った。おかげで彼女の顔を近くで見ることもできた。こも距離なら小さなほくろの数も数える事ができる。俺が日本と台湾の関係性について語っていると、黙って聞いていた彼女は俺の目を見ながら、自分の右手を優しく左手に舞下ろした。俺は「日本はもっと台湾に感謝の意思を」と話している途中で口を閉じ、目の前にあるウィスキーの入ったグラスを見つめた。自分の手と彼女の手が重なっているという何でもない事実に、凝り固まった岩の様な理性がさらさらと音を立ててサハラ砂漠の砂へと形を変えていった。さっきより少しだけ赤くなった彼女の丸い顔が俺の肩にもたれかかってきた。俺は意味もなくウィスキーグラスを何度も口に運んだ。くらくらとした頭で吸いたくもないタバコに火を着け、目を瞑ると悪魔が後頭部から魂を引き抜こうとする感覚に陥る。決して目を閉じてはいけなかった。今起こっている事に目を向ける事にして、俺はチャオの頭を撫でた。彼女の髪に触れると一瞬びくっと体を強張らせた気がした。しばらくそうしていると、彼女は顔をあげて俺にキスをした。俺も煙草を灰皿に押し付けてから彼女にキスをした。彼女はまた俺の肩にもたれかかった。「お客さん、来たらどうしようか」と俺が言うと彼女はさっきトイレに行った時から店は閉めてあると言った。俺はさっき消した煙草を拾い上げ、咥えてもう一度火を付けた。
「何でこの店赤い蜂って名前なの?」彼女は顔を上げた。
「ママが言うてたんやけど、中国の山奥にある村では赤い生き物を見ると縁起がええって言い伝えられてたんやて。幸せになれるって。それでママは日本に来てからこの店を開く時に赤い蜂にしたって言うとったよ」
「ふうん。何で蜂なのかね」
「ママのラッキーナンバーが8なんよ」彼女はそう言って笑った。
「なるほどね。はは」
「うちも赤い生き物といつも一緒におるよ」彼女は自分の短いスカートを少し下げた。
そこには彼女の腰から太ももにかけて赤い亀のタトゥーが彫られていた。俺は京都のスナックで赤い亀を発見するとは考えてもおらず、ただただそのタトゥーに見入っていた。
「赤い亀だ…」俺はタトゥーを見ながら言った。「チャオちゃん、山崎圭一って人知ってる?」
「知らない。誰?それ」彼女はウィスキーを啜った。
「知らないなら何でもない。いいタトゥーだね」
知らないとなるとただの偶然と言わざるを得ない。もし彼女が失踪男山崎圭一の言う赤い亀だとしたら合点がいくが、彼女も山崎圭一を知らないし、第一奴が広島に飛ぶのはお門違いである。飛ぶとしたら京都だが、広島には赤い亀の銅像がある。
「亀は万年やからね。でも長生きしたい訳やなくてね、台湾に住んでた時に飼っとったんよ。幸福が訪れるからって両親がね。ただそれだけよ」彼女は煙草に火を付けた。「でもね、宗教によっては亀は縁起が悪いって忌み嫌いする人もいるんよ。阿呆な話やわ」
「阿保だな。生き物を縁起の対象にするなんて。黒猫が横切られたらどうのとか。そう言う人間は神様を信じすぎるんだ。何にでも節度がある。信教の世界にもね」
「そうやね。愚かよね。勘太郎くん、うちらも愚かやろか?」
「愚かの種だな。愚かになろうと思えばいつでもなれるよ。なりたい奴がなるってものだよ」
「うちなりたない」
「じゃあ俺が愚かになるしかない」
「何で?」
「ふたりしかいないバーで、どっちも愚かじゃないなんてつまらないだろ。俺は善人を目指す愚か者であって」と、言いかけて俺はさくらの顔を思い出してしまった。「根っからの愚か者だ」
俺は酔っ払っていた。推理するにもそんな冷静さは無く、赤い亀や山崎圭一の事などどうでもよくなってきていた。彼女のタトゥーが失踪に何かしらの関わりを持つのなら少し酒は控えて話をしようというものであるが、関わりも無し、手がかりも無しではお手上げだった。いや、手掛かりというのあったのかもしれない。赤い生き物を見つければ幸せになれる。この情報はいつか使えるかもしれないと酔っ払った脳みその奥の方に押し込んでおいた。それから俺と彼女はずっと重ねていた汗ばんだ手を一度離し、彼女の鍵で店を閉めてから冬の宇治へ出て行った。小さな繁華街の店はほとんどが閉店しており、来た時に比べるとネオンの光もだいぶ少なくなっていた。彼女が俺の右腕にしがみつき、俺はジーンズのポケットに両手を突っ込んで誰もいない狭い道路の真ん中を歩いた。まるでディランが若い頃に出したフリーホイーリンのジャケットさながら歩いた。アルコールにより血管は収縮され、ふたりして異常なほどぶるぶると震えている。
「今から台湾に行ってうちの両親に会って」
「ああ。いいよ。なら行こうか。歩いたら朝には着くかな」
「うん。きっと朝には着くなあ」
「だよな。俺こんな格好だけどさ、いいのか?」
「大丈夫。素敵よ。きっと今頃うちらの為にご馳走を作ってくれとるよ」
「そうか。嬉しいな。全部たいらげてやる。俺は根っからの愚か者。誰がなんて言おうと、俺は根っからの愚か者だ」
「そうね、あなたは愚か者。そんなに泣かんといて。あなたは根っからの愚か者なんやろ」
ディランにも赤い亀にも近づけなかった俺は、キヨちゃんとさくらは今頃ふたりでおおいに盛り上がっていると自分に言い聞かせた。俺は彼女の腕を振りほどいてシャッターの前に吐いた。愚か者よ。恥を恐るな。
「勘太郎くんのホテルに行きたいわ」
「いや、俺のホテルは行けない」
「どうして?」
「連れと泊まってるんだ」
「女?」
「ああ」
「そう。なら、うちんとこおいで」
この先の未来なんてものは容易に想像出来た。チャオの家から朝日を見るのも悪くは無いだろう。しかしそんな事は酔っ払いの都合のいい妄想であり、実際はセックスに溺れる人間がふたり、朝日が登る頃にはベッドかあるいはベッドからはみ出した床で伸びてしまっているだけであった。夕方に起き上がるふたりの男女の顔は酒で膨れ、互いの顔の醜さに絶句する。そしてその醜い部分を忘れる為に、隠す為に、我々はまた大量の安い酒を胃に流し込むべく買い込んでデザートのセックスを心を弾ませるのだ。いつもならそれでもいいのかもしれなかった。俺があのハリボテ東京の一部になっていて、さくらの家に行かずにあのまま別れていれば、女と男をここまで深く考察するザマなど無かっただろう。俺は先が見えてしまった瞬間からチャオの誘いに魅力を感じなくなってしまった。あとはテンプレート通り事を済ませるだけなど誰がするものかと。俺は彼女に「もう帰るよ」と伝えると、彼女は急にやつれた顔になり、一瞬で歳がみっつよっつ増えたように見えた。それでも彼女は女の意地と愛嬌を捨てる事なく「はい」と一言で承諾してくれた。チャオは稀にいる心の芯の部分が強い女性だった。おそらく、この先スナックに訪れる男供に一瞬たりとも怖気付く事は無いだろう。俺らは駅前のタクシーに乗り込み、ホテルの名前を伝えて車を走らせた。何やら運転手がボソボソと話しかけていたが、俺らがキスをしている事に気付いたらしく、話すのを辞めて車内は静かになった。窓の外を見ていると所々で寺が見えた。急に車内にも線香の香りが漂ってきたが、窓はどこも開いておらず、脳が麻痺してるんだなと内心で笑った。反対側の車窓をを眺めているチャオに気づかれないよう、俺は彼女のピンク色の小さいポーチにキヨちゃんから貰った1万円を茶封筒から出して突っ込んだ。こんな事間違ってるという人もいるだろうが、俺には、お札というものがただの紙切れにしか見えなかった。これは酔っ払っていようが素面であろうが関係は無く、札をまじまじと見ていると、段々と札が憎らしく思ってくるのだった。こんな薄っぺらい紙切れで人は人を買えるのかと思うとどうにも腹立たしく思える。一度は日雇いで稼いだ一週間分の給料のうち、3分の1を丸子橋から多摩川に舞捨てた事もあった。まあ、あの時の俺も泥酔していたのは確かだった。俺の様な性分の男は宵越しの金は持ってはいけないと昔から相場が決まっているのだ。タクシーはホテルの前に着き、俺側のドアが開いた。電光掲示板には1050円の文字が浮かび上がっている。俺は運転手に2千円を手渡し、チャオの方を向いた。出会った時より少しだけ年老いた顔で俺を見ている。こうやって別れを体験する度に美しい女性達は年老いていくのかと思うと、さくらにしてきた事がどこまでも愚かな事だったという事が五臓六法に染み渡った。こういう別れ際、だらだらと別れについて話すのはあまり良く無いという事を俺は知っていた。チャオも覚悟を決めているのか、俺を見ずにじっと前を向いている。つくづく格好のいい女性だと心から思った。俺は車を降り、よろめいた足で真っ白いロビーに入っていった。後ろでタクシーが走り去る音が聞こえてくると、急に目頭が熱くなるの感じた。俺はもう一杯だけ、とホテルの最上階にあるバーに向かった。エレベーターに向かう途中、短い髪をジェルか何かで固めた若いボーイが心配そうにやってきたが、それを手で「大丈夫、大丈夫」と振り払いエレベーターに乗り込んで30の数字を押した。エレベーターの鏡に写った自分はチャオよりも年老いている様に写り、何週間も剃っていない髭がまた俺の歳を上げていった。エレベーター内の時計には1時59分を指して光っていた。
バーに入ると、長いカウンターの手前にスーツを着た初老の男とドレスを着た若い女が静かに飲んでいた。奥を見ると、ひとりで何かを飲んでいるキヨちゃんを見つけた。キヨちゃんは俺に気付くと、少し笑いかけて手招きをした。俺はキヨちゃんの隣の高級そうな高い丸椅子に座り、バーテンダーの男に水とウォッカのソーダ割りを頼んだ。間も無くウォッカのソーダ割りが目の前に出され、無言でキヨちゃんのグラスと俺のグラスを互いにぶつけた。キヨちゃんは激怒していると思っていたが、その様子は全くなく、常に笑みを浮かべていた。「どこほっつき歩いてたの」とキヨちゃんが俺の顔を見て言った。
「なんか、ひとりになりたくてね。わるかったよ。本当にわるかった」
「実際はひとりじゃ無かったくせに。京都の女はどうだった?したの?」キヨちゃんはそう言って笑った。
「え、なんで?いや、いやいや、してない」
「ほっぺに薄っすら口紅ついてるわよ。それに香水臭い。あたしも水商売人の端くれよ。相当やり手の女だったのね。さくらに見られる前に取っといた方がいいわ。してないならまだ良しとするか。かんちゃんも男の子だもんね」キヨちゃんはそう言ってハンカチを渡してくれた。
「そうか。そうか。そうだよな。うん。」俺はハンカチで顔全体を拭いた。
「かんちゃん意外とやるわねえ。でも、タイミングが悪かったわ。今日はおとなしくさっちゃんの側にいてあげるべきだった」キヨちゃんは真面目な顔でウィスキーグラスに口を付けた。「びっくりしたわよ。さっちゃんと帰ったらかんちゃんいないんだもん。さっちゃんもそれに気付いてロビーで号泣しちゃってね、大変だったわ。わかってる?かんちゃん。あんたのやってる事。さっちゃんはかんちゃんの事今の時点でどう思ってるか言おうとしないけどね、大切な人って思われてるって事は気付けなかった?ふらっと帰って来たかんちゃんを4日も泊めてくれる女なんている?かんちゃん、あんたゆうたくんにさっちゃんがあんな事したからやきもち妬いてるんでしょ」そう言ってキヨちゃんはにやっと笑った。俺は水を一気に飲み干してから、ウォッカのソーダ割りを飲み終えた。
「ああ。妬いてるよ。どうにもならないぐらい妬いてるよ。あんなガキに嫉妬なんてな。情けねえ。すんません、お代わりを」
「正直ね。でもね、かんちゃんも分かってると思うけど、さっちゃん程純粋な心の持ち主はいないわよ。断言してあげる。かんちゃんよりも付き合ってる日は浅いけど、さっちゃんと話す度に感じるの。よく泣いてよく笑ってよく食べてよく飲んでよく寝て、女遊びしてるかんちゃんよりも全然人間らしいわ。たまに天然のとこも可愛いじゃない。そんなさっちゃんが下心であんな事したと思う?あれね、実はあたしが前にさっちゃんに教えてあげた防衛術なのよ。男にもし襲われそうになったら、一瞬相手の股間を弄って油断をついてから鼻っ面を殴って逃げるのよって。男って馬鹿な生き物だからって。あの子はただそれを実践しただけなの。分かった?」
「そうなのか?なるほどな。ペンは剣よりも強しだな。キヨちゃん、防御術をさくらに教える割りには一番びびってたじゃねえか」俺はそう言って笑った。「なんだ、そうだったのか。そりゃあそうだよな。さくらが自分からあんな事するわけねえよな」出せれた新品のお代わりを啜った。少し頭が冴えて来たのを感じて煙草に火を着けた。キヨちゃんは少しムッとした様子で言った。
「今夜あたしがさっちゃん襲っちゃおうかな」俺は身震いしてキヨちゃんを見た。
「冗談ね。あたしの場合襲うとしたら…」そう言ってキヨちゃんは俺の腿に手を滑り込ませた。俺はもう一度身震いしてキヨちゃんを見た。
「冗談冗談」そう言ってキヨちゃんはがははと大笑いした。入り口付近に座っていた初老の紳士淑女が俺とキヨちゃんを見ながらこそこそと耳打ちし合っている。俺は呆れた調子で聞いた。
「そんで、さくらはどこにいる?」
「あ、さっちゃんなら部屋よ。さっきまでさっちゃんの部屋であたしと話してたからまだ起きてると思うわ。ほんと、ずっと泣きっぱなしだったんだから。落ち着かせるの大変だったわよ。一杯奢りなさいよ」俺はバーテンダーにキヨちゃんの酒を注文した。
「キヨちゃん、あんたいい人だな。出会えてよかったよ。本当に」
「そうやって京都の女も落としたの?」キヨちゃんは笑っていた。
「いやいや、そうじゃないけどさ」少しの間があり、細身のバーテンダーは腕時計をちらちらと気にしていた。今夜はやけに長い夜だと感じていると、今が冬である事を思い出した。おそらく、冬でも夏でもこんな夜は長く感じるだろうと、その心の中の問答は終わった。
「作家、もうやらないの?」キヨちゃんが言った。
「ああ、もうやらない。金が無い生活に疲れたんだ。作家として立ち直るには安定した生活が必要なのかもしれないな。俺にとっては。前までは金なんか無い方が深みのある作品を書けると思ってたんだけどな。今じゃ商業主義にもなれねえや」
「ふうん。実はね、かんちゃんの作品読んじゃったの」
「どうやって?」
「さっちゃんがさっき読ませてくれたの。ノートの表紙に『神木勘太郎 短編集』って汚く書かれたやつ」
「ああ、あれか。ずっと探してたんだ。さくらと喧嘩して、俺が飛び出して、さくらのためにクソみたいな短編書いて、それ持って謝りに行ってたんだよ。持って来てたのか」
「なんか、さくらはあのノートを見返してる時間が好きらしいのよ。無垢ね」
「俺の作品が好きだなんて本当に変わってるよ、さくらは」
「そしたらあたしも相当変わってるわ。かんちゃんの小説を読んでて思ったんだけどね、いい?かんちゃんは自分以外の人間を皆平等に見過ぎていると思うの。それはいい意味でも悪い意味でもあるの。一回自分以外のひとりの人間を嫌いになってしまうと、全世界の生き物や物事を一気に嫌いになってしまうのよ。だからかんちゃんは出版社に認められないからって、自分の作品は誰にも認められないんだってなるんじゃない?極端なのよ。もっと脳みそ柔らかくして人と接しないといけないの。たまには人の意見も聞いてね。かんちゃん酒飲みなんだから脳みそすでにどろどろで柔らかいでしょ?応援してるわ。もし作家の夢を諦めても、人間としてもっと魅力的になれる。偉そうにごめんね」
俺は煙草の先の火種を見つめながらしばらくその言葉たちに身を委ね、キヨちゃんに返す言葉を選んでいた。選りすぐりの最高の言葉を。しかし、見つからない事は明確だった。それは俺が酔っ払っているからではなく、単純に頭の中のイメージでしかなかったからだ。頭の中に言葉があった事は今まで一度も無く、俺の口から音として出たりノートに文字を書いて初めて言葉になるのだ。頭の中にあるのはただの映像であり、ぼんやりとした小さな宇宙がそこにあるだけだった。だが心は違う。理想論ではあるが、誰もが信憑性を感じているはずである。心は言葉で考える事が出来るし、言葉聞く事もできる。おそらく脳みそと心を使い分けられる人間は滅多にいないだろう。実際俺もそれらを使い分ける事が出来たなら、キヨちゃんに何か言い返す事が出来たのだろう。相手が安心できる一言を。
「ありがとうキヨちゃん。俺ちょっとさくらと話してくるよ」俺はそう言って煙草を消して立ち上がった。「あ、そうだ。たまたま街で赤い亀に関する事を聞いたんだけど、何だったかな、あ、赤い生き物ってのは中国では出会うと幸福を呼んでくれるらしい。あと亀は宗教によって縁起の善し悪しが別れる生き物なんだと。そんで、腰に赤い亀のタトゥーを入れてる女の人がいたよ」
「わ、すごい。やるじゃない名探偵勘太郎!ただ遊んでただけじゃないのね。でも何で京都に赤い亀のタトゥーを入れてる女がいるの?だってケイさんは広島に向かったんだし」
「うん。まあ俺もゆっくり考えてみるよ。尾道の銅像となんか関係してんのかもな。じゃあ俺さくらんとこ行くよ。部屋の番号なんだっけ?」
「2001号室よ」
俺は財布の中身から50円玉1枚、10円玉6枚、ポケットから100円玉1枚と1円玉9枚を取り出してカウンターに置いた。それをじっと見ていたキヨちゃんが俺の顔を見たので、俺はなるべく相手の気に触れないような笑顔を作って見せた。笑顔というよりか、微笑みに近かった。自分の脳みそのイメージでは。笑顔は時に人を苛つかせ、人を幸せにするものである。キヨちゃんは黙って微笑みの俺を見ていた。キヨちゃんの肉に張った頬に汗がひと粒落ちていった。俺は立ったままキヨちゃんの言葉を待っていた。微笑みを絶やす事なく。
「かんちゃん」キヨちゃんが言った。
「何だいキヨちゃん」俺の頬にも汗が伝っているのが分かった。
「何で女の人の腰に赤い亀のタトゥーが入ってるって分かったの。やっぱり、あのお金で風俗行ってたんでしょ!」
「いや、風俗なんか行ってないよ。ただスナックで飲みすぎただけだ」
「ふうん」
「じゃあ行くよ。おやすみ」
「おやすみ」
俺は紳士淑女を通り越して出口まで歩き、木製の立派なドアを開けたところで後ろからキヨちゃんの立派な叫び声が聞こえた。
「この浮気男!風俗の姉ちゃん掴めてやりまくりやがってえ!言いつけてやる!さくらに言いつけてやる!」キヨちゃんは笑っていたので冗談だという事はすぐに分かった。
すると若い淑女と静かに飲んでいた初老の男性が勢いよく立ち上がり、キヨちゃんに叫んだ。
「やめてくれえ!それだけはやめてくれえ…う…ちょっとたまたま会って飲んでるだけなんだよお…うう…あんた探偵か?え?うう…バレたら義父さんに殺されちまうよお…頼むよう…」
俺とキヨちゃんは唖然としていた。何だこのおっさんと。俺は泣き崩れるおっさんに話しかけた。
「おっさん、奥さんの名前、さくらさん?」
「なあんで知ってるんだよお!やっぱり探偵なんだなあお前らあ…金ならあるう!金ならあるからよお!頼むよお!さくらには言わんといてくれやあ!」
俺の胸ぐらを掴んで泣きながらすがりついてきた。女の方を見ると、ずっと携帯を見つめて時折笑っている。人生で稀に見るカオスであった。
「おっさん、この女とたまたま会ったって言ってたけど、デリヘル嬢じゃねえか!」俺は女を指差しておっさんに言った。
「なあんで分かったんだよお!やばいよお!怖いよお!助けてよお!」カウンターの上に置かれた名刺サイズの白い紙には、ピンクのペンで『今日はエロエロありがとう!楽しかったです!またお願いね!』と書かれてあった。俺は酒の飲み過ぎのせいもあり胃の中の汚物がこみ上げてきたが、酔っ払いのここ一番の気合いでそれを胃に押し込んだ。危うくおっさんとデリヘル嬢の綺麗に結ばれたその金髪に、今までの鬱憤や嫉妬や恨みや愛情の詰まった汚物をぶちまけるとこであった。キヨちゃんとバーテンダー揃ってこちらの行く末を見守っていた。
「おっさん、探偵としてはね、それは出来んのですよ。奥さんに言わないってのは、出来んのですよお」俺はそう言ってカウンターの名刺に手を伸ばした。するとおっさんは俺の手をガッと掴むと、俺を睨んだ。
「さくらから幾らで頼まれた。倍払うぞ、わしゃ」俺はおっさんの手を振りほどいた。
「5千円、頂こうか」おっさんはあっけに取られている様子だった。だがおずおずと黒い財布をジャケットの胸ポケットから取り出し、訝しげに1万円札を俺に手渡した。おっさんの焦る気持ちが怖いほど感じ取れた。デリヘル嬢はその光景を振り向いて見ている。俺は無言でそれを受け取り、キヨちゃんとバーテンダーの方へと歩いて行った。そして黙って立っているバーテンダーに1万円札を手渡し、キヨちゃんを見た。
「これで好きなだけ飲んでくれ。おやすみ」
そう言い残し、俺は項垂れている初老の男とそれを慰めようとするデリヘル嬢の後ろを通りバーを出た。初老の男はもはや紳士ではなくなっていた。俺はエレベーターの下矢印を光らせた。到着を待っている間、色々と考えた。正直、あんな格好良さはどうでも良い。ただの茶番だった。肝心なのは俺の愛する人、さくらの事だけであった。今手元にはノートも鉛筆も無い。さくらの心を癒す物語を書く事も出来ない。エレベーターの下から上に上がってくる光を見つめていると、膝から腿にかけて震えているのが分かった。覚悟を決めなければならない。謝らなければならない。作家でも名探偵でも酔っ払いでもない俺を見せなければならない。俺はエレベーターの前で跪き、鼻水と涙を垂れ流し、両手の平を合わせ初めて神に祈った。
俺に罰を下さい。俺に罰を。天変地異が起ころうと、俺は死ぬまでその罰を背負います。こんなクズ人間ですが、もう一度だけさくらに会わせて下さい。顔が、見たいんです。謝りたいんです。どうか、どうか、どうか、さくらに幸福を。俺に天罰を…
チン
エレベーターが開くと、そこには誰も乗っていなかった。
さくらの部屋の前に立ち、顔中の水滴をTシャツの袖で拭いてからドアを何度か叩いた。俺は無感情を装うのに疲れ果て、ありのままの自分という奴を装っていた。間も無くドアがガチャっと開き、さくらは何の感情も無い顔で俺を見ていた。それは無理の無い無感情であった。さくらの目は少しばかり腫れている様に見え、お互いに似たり寄ったりの顔をしていた。少し間を置いてからさくらが部屋に戻って行ったので、俺も後に続いて中に入った。部屋の中心にある真っ白いベッドには大量のシワが寄せられており、床のカーペットやベッド脇の三面鏡、至る所に缶ビールの残骸が転がっていた。さくらは窓のカーテンを開けてソファーにどさっと座り、「ねえ、ビール取って」と俺に言った。俺は言われた通りに冷蔵庫まで歩き、ラガーを2缶取り出してさくらの横に静かに腰を下ろした。同じタイミングで缶の頭頂部を弾いてから、乾杯もせずにふたりでラガーを啜った。さくらは疲れた様子でぐったりとソファーに背中を預けていた。俺は案の定何の言葉も思い出せないままラガーの赤い麒麟を見つめていた。
「ごめんなさい。怖かったの。とっても。今思い出しても怖いの。ごめんなさい」さくらが言った。
「俺も悪かったよ。あんな事は全部くだらない事だったのにな。くだらないんだよ」
「ねえ、失踪するってどんな気分?何かを一気に捨てるってどんな気分?私にはそんな事出来ない。別に勘太郎を今更責めてる訳じゃないの。ただ私に出来ない事だから。ねえ、どんな気分?孤独って」
「今考えると孤独はそんなに惨めったらしいもんじゃないよ。ただ失踪も孤独も馬鹿げてる。俺は馬鹿げてる事が好きなんだ。おそらくね。さくらの近くにいた友達のひとりがただの大馬鹿者だったってだけだよ」
「私も大馬鹿者になってみたい」
「やめとけよ」
見知らぬ土地の高級ホテルの一室で誰かと真夜中を共にする事はとても妙な気分だった。その相手は相変わらず何を考えているのか分からなかったし、おそらくさくらも俺が何を考えているのかわからなかったろう。お互いを傷つけ合い、酒で罪の意識を忘れるばかりか膨張させ、顔を合わせた時にはろくな会話も出来ない。これが世界中の男女の常なのかもしれなかったし、それだけは違うのかもしれなかった。男と女がセックス以外で共存する方法とは相手の優しさを上手く見つけ出してあげる事でしかないのかもしれない。それが出来ないのであれば世界中の男は性器を切り落とすしかなかった。性器の無駄使いはおそらく罪だろう。女と向かい合う時は愛を持っていなければ自分が潰されてしまう。この考えは昔から無意識に思い抱いており、それは今どこで何をしているのかも分からない俺の母親に対する恋しさから湧いているのだろう。異性への恐怖心は愛あっての感情なのかもしれなかった。
「さくら、俺と結婚してほしい」俺はさくらの手を掴んで言った。
するとさくらは肩を揺らして少し俯いた後に、手を叩いて大笑いし始めた。ソファーに倒れ込み、自分の腹を抑えている。さくらの膝が前のテーブルにぶつかり、ラガーが高級カーペットにぶちまけられた。俺はさくらにつられて少しだけ笑いながら近くにあった白い布でカーペットのラガーを拭いた。
「おいおい。こぼしてるよ。落ち着けって。そんな笑える事じゃないだろ。酔っ払い!」まださくらはソファーに顔を埋めて笑っていた。俺は新しいラガーを取りに行った。するとソファーからさくらが叫んだ。
「ちょっと!これで拭いたの?これ私のTシャツ!びしょ濡れじゃない!ああ!もう!最低!」
よく見るとさくらがラガーで黄ばんだ白いTシャツを持っている。そのTシャツには『Don’t Try』と胸にプリントされていた。俺はそれを見て笑いが止まらなくなり、エスニック柄のカーペットに倒れ込み、声を大にして笑い続けた。洗面所の方からはさくらが「この酔っ払い!」と叫んでる声が聞こえてくる。その声がまた酔っ払った笑いのツボを刺激し、連鎖的に全ての物事が笑えてくるのだった。さくらが洗面所から帰ってきた頃にはだいぶ笑いも収まり、また同じ位置にふたりで座った。
「ねえ、ちょっと外散歩したい」さくらが言った。
俺は、外は寒いから部屋で酔っ払っていようと言いかけたがすぐに押し殺し、ハンガーに掛けてあった紺色のさくらのコートを取り行き、さくらの後ろからコートを着させた。さくらは小さくありがとうと言い、俺も皮ジャンパーを羽織った。さくらがマフラーを巻き終わるのを待ち、ふたりで街へ出た。
街は数時間前と変わらず閑散としており、人気はほとんど無かった。なるべくチャオと歩いていた方向を避け、もっと静まり返った場所を求めて歩いて行った。それはチャオと鉢合わせてしまってはいけないという事ではなく、ただ単にさくらをもっとリラックスさせてやりたかっただけであった。もしチャオと鉢合わせてしまっても何も恐れるなどなかった。おそらくチャオは毎日バーに来た男と飲んでは街を歩いているのだろう。別れた後には皆他人なのだという強い意識が、チャオの目に表れていたように思える。そこがさくらとの決定的な違いであった。背の低いさくらは俺の腕に頬を寄せ、お互いの冷たい手を握り締めながら歩いた。ふたりとも震えていなかった。5分ぐらい歩いていると、かなり大きな川が目の前に見えてきた。その壮大で物静かな川の向こう岸には小さな山がぼんやりと見え、それに向かって真っ直ぐ続く橋の手すりは純粋な赤をしていた。昼間にその橋を見たらもっと違う赤に見えるのだろうが、個人的にはこの赤にとても魅了されていた。俺はこの橋をどうしても渡らなければいけないとでも言うように橋を渡り始めた。おそらくさくらも同じ使命感を感じていたのだろう。ふたりは無言で呼吸を合わせ小さな山に続くぶれのない宙に浮かぶ道を歩いた。さくらの手から小さな興奮を感じ取る事が出来た。橋を渡っている間、四方八方から聞こえてくる川の音に耳をすませた。水が岩に当たる音、魚が何かしらの理由で水面に顔を出した時の音。砂利が水中で転がる音。橋を支える柱によって分裂する水の別れの声。全てが一度に聞こえてくる。そのオーガズムは一瞬ではなく、ここに自分が存在し続ければ永遠に味わう事ができるのだ。東京の荒んだ生活や酔い、愛とは無縁な物事だけがこの川の流れに沿って下流へと流れて行くのであった。橋を渡り終える頃、俺の心にあった邪念供は消え、さくらを抱きしめていた。さくらもまた俺を抱きしめ、男女というふたつの国の小さな戦争にけりがついた事を感じた。すると、おそらく目の前にある森の中から懐かしい香りが風によって流されてきた。それは幼い頃に家の中で嗅いだ事のある香りで、しばらく思い出せないでいたがさくらによってその匂いの源が分かった。
「お線香の匂い。私、お線香の匂い好きなのよね。なんだか懐かしい。こんな自然の中で嗅いだ事なんて今まで無かったわ。癒されるわね」
「癒されるな。本来こういう場所で嗅ぐ事ができるんだろう」
「そうね。何だかとても東京に住んでる自分が小さく感じてくるわ」
「そういうもんだよ。都会に住むってことは。いろんな便利の中で盲目になる事は良くある話だよ。昔から。まあ田舎に住んだからって何が変わるかなんてたかがしれてるけどさ。要はノスタルジーをどこで感じるかだよ」
「そうかな。私は実家に帰るとやっぱり田舎がいいって思うわ。どこに住むかで大きく変わるものよ。結局ノスタルジーなんてどこでも感じるわ」
「そうだな」
「何か聞こえない?」
耳をすませてみると、山の中からうっすらとお経らしきものを唱える声が聞こえてきた。線香の香りで掻き立てられた安堵感と好奇心に揺れた俺とさくらはその声のする方へ歩きだした。橋から森の中に続いている乱雑な道らしき道を歩いていくに連れ、お経は鮮明に聞こえるようになってきた。橋のところではひとりで唱えられていると思っていたお経は、ふたり、3人、4人、それ以上の数の人間によって唱えられており、まるでひとりで唱えているかのよな見事なお経であった。しばらく歩くと、よく曲がる乱雑な道の終わりには両脇に苔の生えた石垣が連なる一本道が続いており、10メートルほど行ったところには寺の門が見えた。少し前の季節に葉を散らしてしまった何本もの木たちが石垣の真上に伸びており、ここを通らなければ決して寺の中には入る事が出来ないという使命感が俺を歓喜させていた。さくらの様子を見ると顔には不安の表情が浮かんでおり、確かに、見る人によっては不気味に映ってしまうのかもしれない。宗教とはそういうものなのかもしれなかった。「もう帰る?」と俺が聞くと「いや、もう少し行きたい」とさくらが言ったので門の下まで歩いて行った。その高く堂々と構える門は至る所に木の老いを感じさせる割れ目があり、両脇には漢字が書かれた薄い木の板が打ち付けられてあった。中からは何重にも重なるお経が力強く響いていて、線香の香りも先程より強く感じる事ができた。門のから覗く向こう側の世界には、白い砂利の敷かれた広場が広がっており、門から一直線に石畳が続いていた。その先の闇に目を凝らすと、薄っすらと灯りの灯った本堂らしき建物が見えた。
「中に入りたい。でも、少しだけ、怖い」さくらが少し握っている手に力を込めて言った。
「そうだな。分かるよ。でも、このお経。声達。人の人生を一瞬でひっくり返しちまいそうだ」
「いいのかな。入っても。きっとあそこで唱えているのね」
「お互い悲惨な夜だったんだ。ここでこのお経を聞いてるだけでも救われるよ」
「今晩わ」
俺とさくらは一斉に後ろを振り向き声の見知らぬ声のする方を見た。そこにはひとりの僧侶が立っており、俺とさくらをじっと見据えている。初老の僧侶は俺たちに笑いかけもせず、怒りの感情も無いようであった。俺達は「今晩わ」と軽く会釈をして、押し黙った。僧侶は何も言わずにただ俺とさくらを見続けた。俺は急に自分が酔っ払っている事を思い出し、その僧侶を見る続ける事が出来なくなった。俺が今まで犯してきた罪たちが体からすり抜け目の前の僧侶の目に次々と入っていく様に感じる。あの壮大な川に全ての罪を投げ捨てたつもりでいたが、そんな事などできるはずもなかったのだ。甘え。弱さ。無力。無価値。落ちこぼれ。俺は得意の被害妄想を発揮し、段々と気分が落ちていくのが手につかむ様に感じ取れた。スピード感がまるで違う。落ち込んでいくスピード感が。
「おふたり、中に入らないのですか?」僧侶が言った。
「いや、でも、私達、お酒飲んで酔っ払っているので」さくらが申し訳なさそうに言う。
「そうですか。酒に敵意などありません。いけないのは酒に飲まれる心です。あなた、相当飲んでおられる様で。中で水でも飲んでいきなさい。ここで追い返す訳にはいきませんので。何かの信仰心があってここに辿り着いたのでしょう。さあ、どうぞ」僧侶はそう言うと俺とさくらに初めて微笑みかけた。その笑顔は何とも言えない哀愁のある顔で、暗闇でもその顔に優しいシワが浮かび上がっているのが分かった。俺とさくらはその僧侶に連れられ、門を潜って中に入った。
石畳みを進んでいると、門から見えた横に広がる建物に近づいてきた。その中には、およそ50人前後の僧侶達が正座をして何列かに分けて並び、目を瞑り、両の掌を合わせ、僧侶達の前方にある金に輝いたお釈迦様に向かいお経を唱えていた。しかし、何年の唱え続けているのであろうその枯れた声達は一直線にお釈迦様へと向かっているのではなく、その建物内の空間全てに反響していた。枯れた声の振動は空間を揺らし、本堂を揺らし、隣の僧侶を揺らし、気を揺らし、砂利を揺らし、橋を揺らし、川を揺らし、橋を渡っていた俺とさくらをも揺らしていたのかと思うと、彼らの偉大な底力に心を打たれた。一糸乱れぬその声を間近で聞いた俺とさくらはただただ呆然と立ち尽くしていた。ひたすら忘れたい事を忘れられずに酒を飲んだ頭でも、この光景が夢でない事が分かった。普通は夢の様な異世界的光景と思うのだろうが、ここまで間近に感じる事ができるとそれもまた現実感が増していくのであった。立ち止まっている俺とさくらに気が付いたら僧侶が振り返って言った。
「これは般若心経です。若いおふたりに言うのであれば、存在の真実を見出だしなさいという事です」そう言うと、僧侶はまた歩き出した。
僧侶に連れらて古く小さな小屋の様な建物に入っていくと、そこにはストーブが点けられており部屋中が暖まっていた。中は7畳ほどの和室で、壁に感じの書かれた掛け軸と、湯飲み茶碗が数個に茶っ葉と湯沸かしポットがあるのみであった。部屋は薄暗くはあったが僧侶の顔ははっきりと見る事ができた。初老と思っていた僧侶であったが実際に明かりの下で見てみるとかなり顔にシワがあった。僧侶は沸かしたお湯を茶碗に入れて俺とさくらのそれぞれに畳を滑らせて置いた。茶っ葉は入れてもらえなかった。俺とさくらは礼を言い、お湯を静かに啜った。
「そのお湯、味がありますか」唐突に僧侶が言った。
「お湯の味がします」さくらが言う。
俺は一瞬、相手を試す様なその問いに嫌悪感を覚えたが、顔には出さず黙っていた。
「そちらは?」僧侶は俺に言った。
「茶碗の味がします」
「そうですか。茶碗の味ですか」僧侶は静かに笑った。「私が出家して間もない頃、ある僧に同じ事を聞かれました。当時18歳の私は無知で、その人を試す様な問いに内心怒りを覚えました。それで相手の望む答えよりももっといい答えを言おうと探したのですが、見つかりませんでした。考えれば考えるほど時間は過ぎていき、私はその僧に挙げ句の果て笑われてしまいました。考える時間よりも感じる時間の方が明らかに早く決断する事ができる。故に間違いを起こしてしまう事も多々ある。おふたりは酒を欲する時に考えないでしょう。そして感じる事も無いでしょう。それでは儚い命もさらに儚くなってしまう。大切にしなさい」僧侶はそう言うと自分の茶碗を口に付けた。
俺とさくらは黙ったままだった。これに反論する事は無意味だったし、それこそ、感じるままに僧侶の言葉を胸に留めた。少し離れた本堂で今だに唱えられている般若心経に耳を傾けた。いつまでも聞いていられる声と、傷ついてボロボロになった心を癒す線香の香りに身を委ねて俺は目を瞑った。そして隣に座っているさくらを強く意識した。「存在の真実を見出す」と心の中で一度呟き、俺はさくらへの愛をひらすらに感じていた。隣でさくらは確かに生きていた。生命の鼓動を感じ取る事が出来たのだ。
「お坊さん、私、知らないうちに好きな人を遠ざけてしまうんです。気付いたらいなくなってるんです。それって、なんて言うか、私に愛が足りないんですよね。きっと」さくらが泣きそうな顔で僧侶に言った。
「いいえ、愛に大きさはありません。愛が少しでもあるのなら、後は相手次第です。相手が気付けないのであれば、相手の方がもう少し成長する必要がありますね」僧侶はそう言って俺の方をわざとらしく見た。俺は目をそらして茶碗のお湯を啜った。
「愛こそ全てです」僧侶は優しい笑みを浮かべてさくらに微笑んだ。相手に何の不快感も与えない、優しい微笑みで。さくらを見ると大きな目で嬉しそうに微笑んでいる。さくらが俺を見ると、俺も静かに微笑み返した。
「帰るか、さくら」俺は茶碗を僧侶に返した。「お坊さん、ご馳走様でした」続いてさくらが礼を言った。僧侶は微笑んでいた。
俺は立ち上がろうとすると、長い間正座をしていたせいで痺れきったふくらはぎが硬直し、よろめいたと同時に後ろの壁に後頭部を打ち付けた。その瞬間壁に蹴られていた掛け軸の下からふさっと、正方形の薄い物が倒れた。さくらが掛け軸まで行きそれを手に取り持ってくると、それはレコードであった。カラフルで、豪勢な海外の有名人たちが並んでいるジャケット。下の方には福助人形がチューバの隣で項垂れていた。これは中学生の頃に友達から借りたいくつものCDの中にあったのを覚えている。それから何回も何回も繰り返し聴いた事も。さくらはきょとんとした顔でそのレコードを眺めている。愛こそ全てとはそう言う事か。宗教もロックンロールもただのジャンル分けのための言葉だな、と俺はふっと笑った。僧侶を見てみると、正座をしたまま目を瞑って黙想をしていた。俺はさくらからサージェントロンリーハーツクラブバンドのレコードを受け取り掛け軸の裏の元あった場所にそっと置いた。俺とさくら小屋を出た。外はほんの少しだけ暗闇が薄れ、寒さが一層増している気がした。気付けば般若心経を唱える声も聞こえなくなっており、辺りは余計に静寂だった。さくらはまだにこにこと微笑んでいる。俺達は寺の門を抜け、森を抜け、橋を渡り、ホテルにたどり着いた。さくらは部屋に入るまで終始嬉しそうに微笑んでいた。
「おやすみ」俺は言った。
「おやすみ」さくらが言った。
ドアが閉まり、長い夜がやっと終わった事に気がついた。俺は少し離れた自分の部屋まで鼻歌混じりににやにやしながら歩いていった。
「おーるにーでぃーずらーぶ、とぅっとぅとぅるとぅう」
「おはよう」「おはよう」「おはよう」
俺達はロビーでお互いの顔を確認してからチェックアウトの手続きをしにカウンターに向かった。ふたりの顔はぱんぱんに浮腫み、アルコールと寝不足に一晩中殴られていたと思わせる顔だった。それでもふたりは女性である。化粧をし、髪を巻き、香水をつけていた。キヨちゃんの髭も乱れる事はなく、大きく膨らんだ腹も健康そのものであった。言わずもがな、俺が一番健康とはかけ離れた顔をしていた事だろう。しかし、3人で行動を共にしているのだから匂いは連帯責任である。昨日、あんなに麗しい笑顔を俺達に振りまいてくれたカウンターのお姉さんの目も泳いでいた。部屋のキーを受け取る彼女の手は震えている。おそらく、彼女もまた酒飲みなのだろう。根拠は無いが、香りが同じである。そんな事を考えている間にチェックアウトの手続きは終わり、我々は無駄口を開かずアルコールの匂いとカウンターのお姉さんだけを取り残してホテルを後にした。キヨちゃんが運転席のドアを閉めキーを回すと、エンジンはうんざりそうに掛かりベンツ内に籠もった強烈な酒の匂いを冬の宇治の街に吐き出そうと躍起になっているように思えた。キヨちゃんに後どれくらいで尾道に着くのかと聞くと、「4時間前後ね」と答えた。キヨちゃんの声は快調に聞こえ、俺が屋上のバーから出た後何か楽しいことでもあったのかと聞きたかったが、さくらが話しかけてきたので聞けなかった。
「もうすぐね!勘太郎あんた臭いよ。お風呂入ってないでしょう」俺は今朝アルコールを飛ばすために冷水のシャワーを浴びていたが、答えなかった。「それより、赤い亀の銅像の公園にいるんだっけ?圭一さん」
「いや、まだそうと決まった訳じゃない。公園に着いたら聞き込みだ。散歩してる主婦から遊んでるガキンチョまで聞いて回ろう。それと、昨日街で赤い亀のタトゥーを入れた人を見つけたんだ。その人が言うには赤い生き物ってのは幸運を呼ぶらしい。まあ、そのタトゥー自体は失踪に何の関係もないだろうな。俺が思うに失踪男はただ単に赤い亀の銅像に恋してるロマンチックで少し頭のおかしな大金持ちだ。大金持ちはみんなきっと銅像に恋したがるんだろうぜ。ほら、よく何千万もする無価値な銅像を血走った目で我先にと落札したがるだろ?奴らは。俺もこれからは銅像を見つけたらロマンチックなプレゼントでも渡す事にするか。はは。さあ、さっさと失踪男を捕まえて尾道で一杯やろう」俺は言った。
「何、勘太郎、随分探偵気取りじゃん。次はミステリー小説でも書くつもり?」助手席から顔を覗かせてにやにやしながらさくらは言った。
「勘ちゃんは名探偵よ。さっちゃん」きよちゃんが言った。「聞き出し調査が上手いこと上手いこと」そう言ってキヨちゃんはルームミラー越しに俺を見てきたので、俺はキヨちゃんの目が映らない位置まで腰を下に滑らせ、いつでも眠れる体勢に入った。
高速に入ると、ベンツは機嫌を取り戻したらしく快調に進み、窓からは小さな山並みがゆっくりと流れていた。近くの山は滑る様に。遠くの山は流れる様に。高速道路の地面は静止している様に。横の車は浮いている様に。俺は進んでいない様に。俺は時速120キロで進んでいる様に。アルコールはまだ俺の体内をのさばり続けた。天気は悪くない。前には大きな雲が空に張り付いていたが、あんなものはこの手で取り払う事ができる。そう。いつでも天気は俺の思い通り。全て上手くいく。全て上手くいく。全て上手くいく…頭の中で擬人化した眠気が俺を遠くから眺めていた。
「勘太郎!勘太郎!はい。あんたが欲しがってたやつ」
さくらが俺の前に茶色い塊を突き出していた。俺は無意識にそれを受け取り礼を言った。アメリカンドッグの香ばしい香りがベンツの中を彷徨っている。車は動いている様子が無く、どこかのサービスエリアに停まっているらしかった。前に座っているふたりはソフトクリームのコーンを齧っている。
「もう広島よ。後30分ぐらいで着くから名探偵の準備しといてね」さくらが言った。
「そっかそっか。もう広島着いたのか。名探偵の準備しなくちゃな」俺は固まった腰を浮かして伸びをしながら言った。「何んだか悪いな、俺だけアメリカンドッグなんて」
「あたし達さっき尾道ラーメン食べたから気にしなくていいのよ」キヨちゃんがそう言ってから、俺はアメリカンドッグにかぶりついた。
キヨちゃんと運転を交代し、俺は尾道までの道のりを一気に走り抜けた。尾道市に入り間も無く高速道路に別れを告げ、目的地の赤い亀の銅像がある千光寺公園に向け尾道市内を走った。道はいちいち狭く、曲がりくねり勾配だらけであった。しかしその道の両脇にあるのは古い民家ばかりで、道の困難など気にも止めないほど心をきつく締め上げられる感覚を感じた。これはただ田舎に来たから感じるあの懐かしさでは無く、宇治とは違ったノスタルジーは腹から湧いて聞かないのだ。車の時計は14時35分を表示していて、尾道の空にある疎らな雲もこの町もまた夕方に入る準備をしている様だった。
それから数分走っていると、やがて千光寺公園の看板が現れた。車内の誰もが意外にも落ち着いていて、当たり前の様に車は山に入り、上へ上へと登って行った。車も疎らな駐車場にベンツを滑り込ませてからエンジンを切った。外に出ると、我々は潮風に揺られながらぼんやりと歩き始めた。目の前に道があれがそこを歩き、別れていればどちらかを選んでまた歩いた。
「ねえ、大きな川がある」さくらが言った。
「あれは海だよ。ほら、奥の瀬戸内海に続いてるだろ。向こうにある島々を囲んでる。島が独立してるというか、海がそうさせてる様な。なんかいまいち上手く言えないけど」
「こうやって眺めないと分からないわよね。自分たちが島国住んでいるなんて分からない」キヨちゃんが言う。
「ほんと。私きっと東京に閉じ込められてたのね」さくらが呟いた。
俺は瀬戸内海へと続く大きな川の様な海を眺めながさくらの言葉を考えた。東京に閉じ込められるとはどういう事か。俺達は自らの意思で東京に住み続け、街を歩くいくつもの冷ややかな目や満員電車の不快感を敢えて受け取り、不平不満を酔いに変えながら生きている。そう思っているのは俺だけなのかもしれなかったが、現に田舎へやってくる都会人は皆口を揃えて「やっぱり田舎はいい」と漏らす。それはたまに来るからいいという事なのだろうか。全く理解ができないが、ここに住む人達にとっては俺の事も理解できないのだろう。それでいいと自分自身思っていた。何せ東京に閉じ込められているのだから。この山のどこかか、下に見えるあの街のどこかからか、鳥の鳴き声が聞こえる。いくつもの島に海がぶつかる音も聞こえてきそうで、俺は目頭が熱くなるのを感じた。と東京に住んでいる人間が悪いのではないが、やはりハリボテをこれ以上東京に増やす事はどこまでも愚かで、何の芸術的な生産性も無い事がこの街と音を感じることによって良く分かった。東京に自ら閉じ込められている理由のひとつとして、いろんな人に出会い刺激し合える環境が欲しかったのかもしれない。きっとそうだった。そうする事によって自分の才能が目覚めると。しかし、そんなものはこういう自然の中で容易に見つける事が出来た。今でも俺の心の中にはふつふつと言葉が湧き踊っていた。嫌なら一度失えばいい良いといういつかの死んだ作家に倣って、俺は無理やり東京に閉じ込められるのは辞めようと決意した。さくらの考えているのか考えていないのか曖昧な言葉にはいつも救われている。そしてそのさくらを失ってまた戻る時にはいつも何か素晴らしい物を得ていた。さくらを失わずして素晴らしい物を得るにはさくらの言葉を純粋に、曲げずに受け取るしかないだろう。そう。あの川の様な海も海の様な川なのかもしれなかった。
道に沿ってしばらく狭い小道を歩いていると、木で作られた乱雑な階段が5段ぐらい上に続いているのに気がついた。その階段を登ると、少し開いた場所に出た。その開けた場所の真ん中には、俺達が望んでいた物が静かに置かれていた。俺達はそこまで歩いて行き、思ったよりも小さい赤い亀の銅像をしばらく眺めた。銅像は潮風に吹かれ錆びており、所々めっきが剥げていた。銅像は直径20センチほどしかなく、亀の置かれた腰程にもある長方形の石が無ければ気付けなかったろうと肝を冷やした。
「思ったより小さいわね」キヨちゃんが言って、さくらが頷いた。
「失踪男、いないな」俺は辺りを見渡して言った。
辺りには人の姿は見えず、ただ海の方から船の汽笛が響いてきた。
「まあ、いないって思ってたわ。かんちゃんの言う通り人に聞いてみましょ」キヨちゃんは言った。
銅像の脇には一言、「赤い亀の像 昭和二十年 七月 九日」とだけ掘られた木の板が地面に埋められており、説明のひとつもそこには無く、この時点での手掛かりはゼロであった。
しばらく銅像の前でだらだらと立ち尽くしていると、俺達3人以外の人間の声が聞こえてきた。その声の方に目をやると、さっき俺達が上ってきた階段の前でひとりの老人が訝しげにこちらを窺いながらながら奇妙な言葉を唱えていた。それは日本語である様な英語である様なロシア語である様な言葉で、我々は瞬時に身を構えた。その老人は左右に軸の足を変えながら、右に左にゆらゆらと揺れている。我々と老人までおよそ5メートルも離れていなかった。臭いはきつく鼻を突き、真冬だというのに紺色の半ズボンを履いている。その半ズボンに乱雑に入れられたシャツは黄ばみ、ロングコートもやはり穴だらけの代物であった。さくらとキヨちゃんは露骨に嫌な顔をしていたが、本人達はそれでも必死に彼の臭いに耐えていたのだろう。俺はその老人の元まで歩いて行った。近くで見る老人の目は虚ろで、黒目の大半が白濁としていた。俺を見つめている様な、さくら達の方を見ている様な、ぼんやりとした視点でどこかを見ている。俺は相手を刺激しない様務めて尋ねた。
「こんにちは」老人の返答は無い。「山崎圭一という人を探しているんですけど、知りませんよね」やはり返答は無く、ただ左右に揺れながら呪文を唱えるのみだった。
後ろを振り返るとさくらとキヨちゃんが心配そうにこちらを見ていた。宇治の寺で聞いたお経とは違い、彼の不可思議な言葉には人を不安にさせる音が散りばめられていて、俺はいてもたってもいられずふたりの元に歩き出した。同時に老人の不快な呪文は止まった。
「わしんとこに来んさい。わしんとこに来んさい」
俺が老人の方へ振り返ると、老人は呪文の代わりにその言葉をひたすら繰り返していた。
「わしんとこに来んさい!わしんとこに来んさい!」老人はそう言い続けながら階段を下り始めた。
俺は無心を装いながら老人のすぐ後について階段を下りて行った。後ろではふたりの足音が続いているのが分かった。
少し歩いていると、他の木よりも飛び抜けて立派な大木の前にたどり着いた。大木の下にはキャンプに使う道具が一式揃っており、そのどれもが無残に見えた。水を沸騰させる為に使うのであろう鉄の容器は所々へこんでいて、その下にあるバーナーには小虫が集っていた。ひっそりと設置されたテントには穴が空き、雨など到底防げないだろう。老人はまた何やら訳の分からない言葉を連ねながらそのテントの中に入って行った。
「ついて来ちゃったね」後ろからさくらが言った。
「なんでついて行ったのよかんちゃん」キヨちゃんが言う。
「ついて来なかったら俺達呪い殺されてたろうよ」
「でも、あのおじさんこんな暮らし何年してるんだろうね。なんだか私こういうの駄目なの。心が一気に沈んでしまうの。勘太郎、私がいてよかったね」さくらは泣きそうな顔で俺に言った。
「ああ。今とんでもなく感謝してるよ。とりあえず、おっさんにもう少し聞いてみよう」
「でもやばいって。かんちゃん。あたし達食べられるのよきっと。あれは呪いの呪文よ。黒魔術よ。」キヨちゃんも泣きそうになっていたが、それを聞いて俺とさくらは少し笑った。辺りはすでに薄暗くなり始め、木々の隙間から海沿いにある街の光がちらついていた。不安な俺達に今安心できる光があるとすればそれぐらいだろう。
老人はすぐにテントから出て来た。手には小さな木の桶を抱えている。俺達を呪い殺す呪文は唱えていなかった。老人は俺の目の前で止まった。その目は先程までとは違いしっかりと俺の目に視点を注いでいた。その白濁とした目の中に感情を見つけ出す事は誰にも出来なかっただろう。桶の中で小さな生き物ががしゃがしゃと動いている。そのか弱い生物は爪を桶に引っ掛け、首をこれでもかという程に伸ばし外へ出ようとしている。甲羅にはまだ艶があり、見惚れてしまうほど優しい緑をしていた。その小さな亀はおそらく産まれたばかりなのだろう。水が少し入っているだけの狭い桶の世界で必死に母親を探していた。さくらとキヨちゃんも俺の後ろから覗き込んでいた。
「あんたが探しとるもんよ。あんたが。あんたらが。見つかったのお。良かったのお」老人が足を左右に揺らしながら言った。
「ミドリガメだ」俺はそう言った後に、さくらが「小さい。可愛い」と声を漏らした。
「おっさん。この亀まだちっちゃいよ。かわいそうだよ。逃がしてやんな。ほら、母ちゃん探してんだよ」
「いんや、これがあんたらの探しとるもんよ」老人は小さな亀を見つめながら言った。老人は悲しみの底にたどり着いた時に見せる人間の顔をしていた。
俺はこの狂ったホームレスがどこかで捕まえて来た産まれたばかりの亀を、俺達に自慢する為だけにここへ呼んだのかと考えると怒りが心で湧き上がり、やり場の無い倦怠感を感じた。俺は桶に入った小さな亀を見つめた。桶の側に登ろうとした反動で後ろ向きに倒れ、甲羅を地面にしてもがいている。しばらくすると亀は頭と足を器用に使い自力で起き上がる事が出来た。老人もその光景を見ていて、先程よりも一層顔に悲しみの果てが滲んでいた。俺がまた桶に目を戻すと、桶の向こうに老人の足が見えた。半ズボンから出たこれでもかという程に細い太腿が。俺はその右の太腿に、薄暗闇の中で赤い模様を見つけた。俺が少し老人の右側に回り込みその半ズボンからはみ出た赤い模様を目を凝らして見ると、それは宇治で会ったチャオの腰に入っていた亀のタトゥーと全く同じ物であった。俺は一瞬の内に色々と今までの事を思い起こしたがやはり脳はついてくる事が出来なかった。
「おっさん、このタトゥー…よく見せて欲しいんだけど」老人の無言で桶の亀を見つめている。
俺は老人の右足を前にしゃがみ込み、恐る恐る半端を上にめくり上げた。キヨちゃんが「ちょっと!」と叫んでいる。タトゥーの全体を見て、俺は老人に問い詰めた。
「俺、昨日京都で全く同じタトゥーを入れてる人を見たんだ。一体なんなんだ?この赤い亀のタトゥーは。チャオって女知ってるだろ?おっさん。彼女は赤い生き物は幸福を呼ぶって言ってた。そんで亀は縁起がいいって。どういう繋がりなんだ?山崎圭一って誰だ?どこにいやがる!」俺は興奮していたが、酒はすでに抜けていた。
「落ち着いて。勘太郎。でもなんか関係あるわよね。絶対。おじさん。もし知ってたら教えてくれませんか?山崎圭一って人の事。知らなかったらいいです」さくらが俺の背中をさすりながら泣き出しそうに言った。
「何も隠さんよ。何も隠さん。この刺青は釈迦の遣いじゃけえ、我々を守って下さっとんよ」老人は言った。
「我々?」キヨちゃんが聞いた。
「もうようけはおらんなった仏教から派生した一派じゃ。中国、インド、日本、アメリカ、今でも赤亀様に守って貰っとる人は世界中におるじゃろう。ようけは、おらんなった」老人は俺の目を覗き込んだ。「あんたら、東京で息子と知りおうたんか?」
「もしかして、あんたの息子、山崎圭一?」俺は後退りながら老人に聞いた。老人はほんの少し顎を下に下げた。
「そうだったんだな、証拠出せなんて言わないよ。このキヨちゃんが東京で知り合ったてね。突然連絡取れなくなったから探しに来たんだよ。広島に行くってメモがあったからさ」
キヨちゃんは満身創痍といった顔で老人をただ見つめている。
「ほうか。ほうか。息子は1週間前にここに来よったわ。それから金を置いてすぐに東京に帰って行きよった。その時は、あの子の目にも信仰心が宿っとった。じゃけえ、今こうしてしっかりとこの世に生きとるんよ」そう言って老人は桶の中を意味も無く徘徊する小さな亀を見続けた。
その時俺は老人が老婆である事を悟った。おそらく、さくらとキヨちゃんもそうだろう。母親の愛情と父親の愛情というものは、生まれもった本能としてはっきり区別す事ができる仕組みになっているらしかった。それは俺や強盗少年の様な孤児にも分からせてくれる様なありがたい本能であった。キヨちゃんは老婆が話し終えてからひっきりなしに泣きじゃくっていた。さくらも同様、泣いていた。泣いていなかったのは俺と老婆と桶の中の亀だけであるが、もしかすると、俺と老婆と桶の中の亀以外の生き物達は皆泣いていたのかもしれなかった。山崎圭一は俺達がここに来る前に東京へ帰った。そして死んだ。なぜこの老婆にそんな事が分かるのだろうか。警察でも来たのだろうか。母親の愛というものはそこまで偉大なものなのだろうか。いや、偉大である事は分かっていた。ただ、こんな追求ほど東京的な考えは無いだろう。一体東京的とは。ハリボテの見解が東京的であるならここに住むこの老婆の考えは神の領域とでも言うのだろうか。俺はこんな終わりの無い迷走をある時点から辞めた。それは老婆が口を開いたからか、キヨちゃんの泣き声が大きかったからかは分からないが。
「お兄さんの言う通り、そろそろ赤亀様に返してやらんとね。探し物をずっと手元に留めておく事なんて、人間出来んのじゃけえ」老婆はそう言って目を瞑った。
目を瞑ったままの哀れな老婆は半ズボンに右手を突っ込み錆び付いた小さな鈴を取り出した。俺達は黙ってその鈴を見ている。老婆は素早くその鈴を一回前後に振り、ちりんと音を鳴らした。その音は見た目から想像できない程によく響き、それはどこまでも遠くに飛んで行った。森を抜け、瀬戸内海を渡り、おそらく九州の方まで届いたんではないだろうか。それから老婆は鈴を振り続けた。そして歌った。それは呪いの呪文ではなく、清く研ぎ澄まされた日本語であった。古い、古い、日本語であった。亀は桶の中で静かになった。おとなしく、首を少しだけ甲羅に引っ込め、老婆と俺の様子を交互にうかがっている。老婆は鈴を鳴らし、歌い、そして森の中に歩き始めた。俺達もそれに続いた。森の中に入り、急な勾配をゆっくり下って行くと、微かに川の流れる音が聞こえて来た。直ぐ近くにある事は分かるが、それでもその音は小さく繊細なものだった。祈りを歌う老婆を先頭にさらに下って行くと、細くひっそりと、申し訳なさそうに流れる川が見えて来た。その川の周りには年老いた男や女が5、6人集っっていて、下ってくる俺達を見上げている。川の周りにいる老人達は老婆の声に合わせて共に歌っていた。彼らの目の前まで降りてくると、彼らの風貌や異臭が老婆と似たものである事が分かった。彼らは老婆が鳴らす鈴の音に合わせ歌いながら、亀の入った桶をひとりひとり手渡しして回した。彼らの顔には悲壮が滲み出ており、誰もが勇ましく、凛々しく見えた。桶がひとりの老人から老婆に手渡されると、老婆はゆっくりとしゃがみ、右手で亀を掴み上げた。その時ひとりの別の老婆が泣き出したが、祈りの歌は止まなかった。亀は老婆の手の中でしばらく暴れまわっていたが、直ぐに諦めて静かになった。老婆は左手の鈴を地面に置き、両の手で亀を包み込むと、その手をゆっくり細い川に伸ばした。老婆の器状になった手の甲が川の水に付けられ、静かにその手は沈んでいった。両手の器に水が入り、亀は前足と後ろ足を甲羅から出してゆっくり水を掻き始めた。そして老婆の手の中が川の冷たいであろう水でいっぱいになると、亀はするりと老婆の両手から溢れ、冷たい川の水面に浮かんだ。亀は水を掻く力が足りず、浅い川の中に沈んでいってしまった。そしてそこにいた誰もが泣いた。俺も、さくらも、もちろんキヨちゃんも。祈りの歌はそれでもなお続けられた。この土地は夕方の終わりを迎え、寒さも暗さも増してきていた。俺はふたりに向かって言った。
「そろそろ行こう。暗くなってきた。もう、充分だよ」
「あたし、もう少しここにいるわ。もう少しここにいたい。大丈夫よ。あたし大丈夫。探してたんだもの。これを。見つかったんだもの」キヨちゃんが小川を見つめたまま言った。「先に車で降りてて。まだバスあるからあたしは大丈夫。今は知ってる友達が隣にいられると困るの。作家なら分かるでしょ?」
「分かるよ。分かる。友達だもんな。そういうもんだ。そしたら行くよ。また後でな」俺はキヨちゃんに言った。
「またね。大丈夫よキヨちゃん。またね」心配そうにさくらが言う。
「またね」
キヨちゃんは泣き虫だ。そしてずるい。過去を見てみると、愛される人間というのはいつも泣き虫だった。そして素面だった。俺のジェラシーに相手の価値で決まるものではなかったらしい。相手が最低な奴でも、最高な奴でも、俺のジェラシーは燃え盛るのだった。意味も無く、燃え盛っていた。
それから俺とさくらはベンツまで歩き、キヨちゃんを千光寺公園に残して街中に戻って行った。さくらの心は強かった。今さっきの出来事について何も口を開かず、黙って助手席に乗っていた。俺はといえば何かと先ほどの光景に思いを巡らせている。しかしそのどれもが空っぽで、あの小さな亀ほど大きい意味を持つ言葉は無かった。民家や店の明かりに安心感を感じながら、俺は尚も考えた。命と言葉のつなぎ目などあってたまるかと。
車を旅客船の駐車場に停め、俺とさくらは瀬戸内海に続く海沿いを歩いた。左側には道路を挟んで民宿街が続き、夜道を明るいほどに照らしていたが、右を見ると直ぐそこには海があり、それは黒くどこかの明かりを浮かび上がらせていた。民宿から出てきたふたりの酔っ払いが俺達に向かって何か叫んだ気がしたが、俺達は無視して歩き続けた。時々海からはぽちゃんと魚が跳ね、その度にさくらは体を震わせた。しかし俺にはその魚の跳ねる音が心地よく、次はいつ跳ねるだろうと待ち望んだ。人間以外の生き物の音なら何でも心地よく聞いていられる気がしたのだ。俺はジーンズのポケットからウィスキーの小瓶を取り出してひとくち飲んだ。それをさくらに渡すと、さくらもぐっとひとくち飲んだ。
「キヨちゃん、今バスで街に向かってるってメール入ったよ」さくらが言った。
「そっか。落ち着いたんだろうか」
「落ち着いたのね」
「早くキヨちゃんにも一杯飲ませてやりたいな」
「そうね。こんな夜なんだものね」
「そうだな」
「勘太郎の口癖。こんな夜だもんな」
「そんな口癖俺には無いだろう」
「あるのよ」
「そうか。我ながらいい口癖じゃないか」俺はまたウィスキーを呷った。
「私にも」俺は小瓶をさくらに渡した。
「こんな夜に言うのも何だけど、君が好きだよ」
「ふうん。そんな事より明日は橋を渡って四国に行きましょうよ」
「そうだな。明日は四国だ。明日は天国の上を横断しよう」
「もし、私が明日亀になったらどうする?」
「ポケットに入れて持ち歩くよ。餌をあげて、たまにウィスキーを飲ませて。俺が死ぬまで持ち歩くよ」
「亀は水がないと死んじゃうのよ」
「亀の種類によるだろ」
「私ほんとはウィスキー嫌い」
「ならビールをさくらの入ってるポケットに流し込むよ」
「私も勘太郎が好き」
ブラックニッカは底をついた。それから俺とさくらは酒屋に入った。爺さんがひとりでカウンターに座っていて、「もう閉めるよ」と言った。俺はウィスキーの棚の前で悩んでいた。ブラックニッカか、ジャックダニエルか。俺は悩んだ挙句ブラックニッカを掴んだ。さくらが「意気地なし」と言って笑った。俺はブラックニッカの会計を済ませ、ふたりで店を出た。店を出ると、冷たい北風が俺らに当たり砕け散った。俺はその瞬間、次に書く小説の題名が浮かんだ。俺はそれをさくらに伝えると、さくらはにっこり笑った。
俺はブラックニッカの蓋を開けてひとくち飲んだ。それからもうひとくち。海で一匹の魚が勢いよく跳ねた。俺は恥を海に捨て、大笑いした。
こんな天気がいい日に金は必要なかった
俺はジーンズのポケットからブラックニッカの小瓶を取り出して一口飲んでみる。喉がかあっと熱くなると、俺の頭もまたかあっと冴えてくるのだった。日中の公園には若く派手な見栄えの母親達と、その子供達がきゃっきゃと走り回っている光景がある。少し寒い。俺はぶるっと一度身震いして、そのなんでも無い公園のシーンを眺めながらまたブラックニッカを一口飲んだ。寒空の中でも夏の頃と変わらずに太陽はここを照らしていた。機嫌は悪かったが気分は良かった。おそらくこういう状況に少しは憧れがあったのだろう。幼い頃から俺にとってのヒーローという存在は、なんとも無様でやるせない奴らばかりだった。まず、小学生の頃に俺の心を虜にしたのは、夕方のテレビで何日間かだけ放送されていた、〇〇マンだったか、〇〇人間とかいう男が主人公のアニメで、とてもヒーローとは言い難い落ちこぼれぶりであった。だが俺にはそれが格好良くてたまらず、学校ではいじめられるように努めてきた。中学生の頃にのめり込んだのはアメリカの作家ジョンファンテで、高校の頃は太宰に恋をして、大学でチャールズブコウスキーになりたがった。これらはあくまでその時代時代のいち代表に過ぎず、その他数多の落ちこぼれに恋心を抱いて生きてきた。中流階級生まれの俺に、それらの影響は凄まじく響き、穏和な家庭にいる事が恥と捉えるようになった。実際、芸術家や表現者としてどちらの方が刺激的な作品を生み出せるかと言えば、俗に言う青春時代の過程でどんなヒーローがそこにいたかで自分のいるべき地位や価値も決まるだろう。それから俺は自分の地位や価値に見合った場所で表現活動に精を出す事を決意し、様々な勘違いを抱えたまま穏和な家庭を抜け出したのだった。
そして今、俺の家と呼ばれるものはこの地球上に存在はしていなかった。この状況は今日で三日になる。住んでいた荻窪のアパートはとても居心地が良かった。そのアパートは築二十九年の割りに部屋の中はリノベーションされていて一面真っ白く、所々クロスにシミが付いていたぐらいで、とにかく白い印象だった。白い部屋というのは作家にとってとても好ましい状況と言えた。確かに二年前アパートに越してきた当時は無我夢中で作品を書くことができた。朝も夜も自分の頭を言葉で埋め尽くし、世の中のありとあらゆる物事に目をきらつかさせながら立ち向かっていた。それでも二年後、大家のばあさんは俺の部屋のインターホンを押してやってきた。白い部屋の効果は虚しく、書いた小説は誰にも相手にされず紙切れとなり、俺の頭からも離れたがっていた。俺は大家から退去を命ぜられ、部屋の片付けをしぶしぶ始めた。この白い部屋ともお別れか。そう思って部屋に貼ってあったボブディランのポスターを外すとそこには、縦に六十センチ、横に四十センチの白い四角形が壁に浮かび上がっていた。ずっと白いと思っていた壁もいつの間にかハイライトの煙に侵されていたらしい。俺はずっと黄色い部屋で、黄ばんだ言葉を連ねていたのだと思うとどうにもやるせなくなった。部屋の大半の物は処分し、必要な物、すなわちブラックニッカの小瓶、小銭、煙草、ライター、いくつかのお気に入りの小説、そして原稿用紙とペンを肩掛けバッグに押し込み、革ジャンパーを羽織って黄色い部屋を出ていった。そうしてあてなく近所を彷徨うこと三日、俺はここ第三公園に漂流したのだった。
ふと自分の指が震えている事に気づいた。これは噂に聞くアルコール依存症の兆しかと思ったが、その考えはすぐに辞める事にした。そんな事を今考えたところでどうしようもないのだ。どうしようと言って今手に持っているブラックニッカの小瓶を近くのゴミ箱に捨てるなんて、俺には至難の技であると同時にそれこそ現実逃避のまんまじゃないかと考えた。人の脳というのは情けないほどに都合よくできている。おそらく、この手の震えは今の俺が置かれた状況、全世界の俺のランク、地位、それらが分かり始めてきたからなんじゃないだろうか。俺はここにきてとことんびびっていた。もともと小心者の俺が芸術家や物書きを目指すなんて事自体が間違っていたのだ。二十四歳。俺はまだやり直せる。カタギな仕事が俺を待っている。純情な結婚、マイホーム、子供の初めての入学式、朝の優雅なコーヒータイム、家族で囲む夕食、そして今度こそ真っ白な壁紙。芸術や物書きはこの辺でいいじゃないか。お前はあの部屋でよくやったよ。さあ、まずは風呂に入って身なりをちゃんとして人生を最初から計画し直してやろう。そう心の中の声が俺の頭に血管を通して演説していた。俺の頭はそれを受け入れ、まずこの第三公園から抜け出す事にした。第一、さっきから若い母親たちの視線が痛かった。きっと、母性本能が働いたんだろう。自分の腹を痛めてこの世に生み出した子供をこんな無精髭の生えた酒飲みに近づけるものですかと、躍起になって俺を睨んでいる。俺は昔から被害妄想が酷く、こんなストーリーならばいくらでも書けた。全世界の母親が二十四歳の売れない作家志望者を全面拒否するストーリー。なんともお粗末な話である。しかしもう俺は第三公園を出ようと歩き出している。公園の出口付近でサッカーボールを中心にワイワイと賑わう少年たちがいた。俺はあれからどれだけの時代が過ぎて行ったのかが確かめたくなり、煙草をコンバースで踏みにじり少年たちに話しかけに行った。
「やあ。君たちに聞きたい事があるんだけど、いいかい?」小学校低学年ぐらいから高学年ぐらいの少年たちが、木の枝をコンクリートに叩きつけながら黙って俺を睨んでいる。
「君たち、君たちのヒーローは今どこで何をしているのかな。そうだな、きっと怪獣と戦っているところかな。それとも女の子を家に連れ込んでいるところかな」
「さあ」ひとりの少年が軽く笑いながら言って、その後に続き他の少年たちも一斉に大笑いし始めた。俺を除いてである。
「そっかそっか。そんなにこれが面白い質問か。そうなのか。俺のヒーローはね、今天国でみんなと酒を飲んでいるところだと思うよ。羨ましいったらありゃしないよ。俺も混ぜてほしものだけれどさ、俺はまだ君たちのヒーローになれてないんだな」
そう言った次の瞬間、木の枝を持っていた一番背の高い少年が、入口のコンクリートの柱めがけて木の枝を思いきり叩きつけへし折った。そのおかげで辺りの空気は一瞬にして凍りつき、俺の手の震えが一層増した事を感じた。俺はその震えを癒してやろうとブラックニッカの蓋を開けようとしたがなかなか開かなかった。
「俺ら、遊んでるんですけど。楽しく、遊んでるところなんですけど!何か!」
木の枝をコンクリートに叩きつけて粉々にしてみせた背の高い少年が俺ににじり寄るとそう言った。俺はここ数分間の言動を心の中で繰り返してはみたが、どこのシーンで彼がキレてしまったのかが理解出来ずにいた。手の震えは増すばかりである。周りの少年たちもそれで勇気付いたのか、俺にじりじりと歩幅を詰め、睨みをきかせている。俺は後退りながら言った。
「そっか。遊んでたんだね、君たち。そうだったね。楽しんでくれ。サッカーボール。いいじゃないか。君達なら日本代表にでもなれるさ。俺はそんなの見ないけどさ」
俺はそう言い残すと駆け足で第三公園を後にした。何かしらから追われて、逃げ惑うようにして走った。ひとつ目の白い家を右に曲がり、とんでもない異臭のする川を渡り、よく通ったバーを横目に、走った。何かから逃げているのは確かだったが、別に、恐れている事は何も無かった。ガキに疎まれたからといって傷心した訳でもなく、落ち込んでいる訳でもなかった。もちろん元気になっているはずもなかったが。昔から多少のマゾ気質は抱えていたものの、自分でも信じがたいほどに、今はとことん何の感情も無かった。
自身からも異臭を街に放ちながら走っているうちに、様々な事を思い出した。小さい頃に理不尽な理由で先生に殴られた事、親友と喧嘩して今もそれっきりの事、昔飼っていた亀の事、この前怪我した時に出来た指のかさぶたの事。まるで俺はフォレスト・ガンプさながら走っていた。そうしているうち、徐々に感情が戻ってきた。俺は自分が人間である事を思い出したようだった。宇宙から帰ってきた彼と、満州事変から帰還した彼のように、やっと自分を取り戻せたのだ。それに伴って俺の足はゆっくりと失速していき、周りの住宅の景色も時間もゆっくりと動くようになっていた。俺の肺はすでに臨界点を突破していたらしく、足を止めた瞬間、聞いたこともない咳とともに胃の中の物が全て汚物となって住宅街の路肩に投げ出された。胃の中の物すなわちブラックニッカと胃液。幸い見た目はそこまでひどいものにはならなかった。けれど、ちゃんとした人間になろうと決意した手前、この仕打ちはひどいと心の中で何度も神に訴えかけた。確かに。まだ全ては清算されていなかったのだ。俺がごく一般的な人間になるにはまだまだ清算が残っているらしかった。そこで俺はよろよろと住宅街を歩き始めた。人生の清算を済ませるために。
視線を感じたと同時に視界に入ってきたのは、家の中から覗いている老婆だった。心配そうにこちらを見つめている。老婆の背後には部屋の中が見え隠れしており、とても清潔にしてあった。きっと部屋の中には人間の優しい温もりがあり、暖かいご飯と何気なく交わされる、誰も傷つく事のない会話が毎日部屋を埋め尽くしているのだろう。ああ、その眼差しだけでもとてもありがたい。いつか俺はこんな老婆、いや、女性と円満に暮らして行けるのだろう。そう思わせてくれた老婆に何か恩返しがしたくなり、少し考えた結果、俺は人生でこれほどの顔はもう出来ないという力の入れ方で、最高の笑顔を作り老婆に微笑んだ。全部の黄ばんだ歯を見せつけ、目をできる限り見開き、口角を最大限にまで釣り上げて見せた。そのせいで老婆の顔は歪んではっきりみることはできなかったが、きっと喜んでいるに違いなかった。
俺は一般的善良な市民になる第一歩として、風呂に入る事を決めた。今の俺に頼る事ができる人がいるとすれば、それはひとりしか見当がつかなかった。俺はふらついた足で、五ヶ月前に自ら別れを告げた元恋人の家に歩いて向かう事にした。もう何かに追われている気配は感じなかった。
2
元恋人であるさくらの家へ歩いている最中、俺は必死に別れを告げた理由、きっかけを思い出していた。それは五ヶ月前の真昼間、さくらの部屋にあるアコースティックギターを何気なく触っていると、さくらがデビッドボウイのレコードを棚から引っぱり出し、冷蔵庫の隣にあるレコードプレイヤーにそれを乗せた。俺はその時さくらにこんな趣味があったのかと驚いていた。さくらはいわゆるギャルと呼ばれている人種で、月に何度も染めに行く自慢の金髪と、鬼のツノの如く天に伸びたまつ毛。唇はぶりんと紅で、服は何かと俺の目をチカチカとさせる風貌であった。普段は日本の得体の知れない音楽を聞いていた。得体の知れないというのは俺の意見であり、どうもその得体の知れない音楽は今日本で最もポピュラーに楽しまれている音楽らしかった。俺の元部屋にはテレビは無かったし、携帯もほとんど見なかったので、そういった現代のポピュラーなカルチャーは全て彼女から授かっていたのだ。そんな二千十年代若者代表のさくらがデビッドボウイのレコードを好んで聴くなんてどういう風の吹き回しだろう。レコードプレイヤー自体は俺のお古をさくらが欲しいというのであげたまでで、その際、一緒にレイチャールズのレコードを一枚渡したが、後日感想を聞いてみると、さくらは聴かずに売ったと答えた。そういう女だった。故に目の前でジギースターダストを口ずさみながらボウイのレコードに針を落とすさくらの感情や、心情が全く理解不能であった。俺は生まれ持ったお得意の被害妄想を炸裂させさくらに問いただした。
「ねえ、何してんの」俺はアコースティックギターを床に置いてビールの缶を開けた。
「え?」
「それそれ」
「あ、デビッドボウイ」さくらもビールを開けてソファーの隣に座ってきた。
「うん。そう。知ってる。ボウイね。俺知ってる」
「ん?なになに?」
「いやさ、何でボウイのレコードなんか持ってんの。急すぎないかな」
「なになに、急すぎるって、なになに」
「男か」
「は?」
「男だろ」
被害妄想というのは全くもって恐ろしいものである。一度微かな疑惑の念が浮上すると、そいつはどこまでも俺を追っかけ回す事になるのだ。そして、追っかけ回されて逃げ回っている間に疑惑の念というやつはどんどんと信ぴょう性を手に入れていくのである。いつの間にか疑惑から真実と化し、そいつは俺をどこまでも脅かした。俺はその瞬間からさくらに対してとてつもない嫌悪感を覚える様になった。それから俺はさくらの部屋に散らかった自分の諸々の私物を片付け始めた。さくらに貸していた本、CD、パンツ、ジャージ、コンドーム、なぜかあった自分の年金手帳、暇な時に書いていた幼稚な落書き帳。それと歯ブラシに髭剃りまでも。この薄汚い浮気女の部屋に俺の爪痕をひとつとして残したくなかったのだ。それらをがちゃがちゃと抱えてさくらの部屋を無言で飛び出した。その時レコードプレイヤーからボウイが俺に言った。「Ziggy played guitar オーイェイ ウーーーーー」と。ジギーのやつめ。と俺は心で呟いてドアを閉めた。携帯には何百件というさくらからの着信、SNS、SMSからのSOSが送られてきたが、疑惑の念が真実の念となってしまった俺には、もう他人からのメッセージでしかなかったのである。
荻窪駅に着き電車から降りる時、後ろから女性の声がした。
「これ、落としましたよ」
女性の手元を見やるとコンドームの箱をひとつ持っている。俺はそれをふんだくり、礼も言わずに改札に続く階段を駆け下りていった。女なんかどいつもこいつも淫乱で薄汚い大嘘つきだ。俺は荻窪駅からアパートに着くまで呪文さながらそれを唱え、女性とすれ違うたびに心の中で罵倒した。昨今、女性差別反対などの女性に対する世間からの手厚い救いがあるみたいだが、それに対しては断然賛成ではある。しかしその女性に裏切られた身の男としてはどうにもやりきれない心情、痛み、恨み、つらみ、妬みがあった。俺はアパートに帰ると引きっぱなしの布団にざぶんと寝っ転がり、三日三晩泣いた。そして三日三晩酔っ払った。気付けばさくらからのSOSも途絶えていた。
あれから過ぎる事五ヶ月、俺は今さくらのマンションを見上げている。日はとうに暮れ、おそらく時間は二十二時を回っていた。最上階の六〇二号室のベランダには、カーテン越しからオレンジの光が漏れていた。三日三晩酔っ払った後には、俺の心にあった疑惑の念からの真実の念、そいつは自責の念へと見事に様変わりしていて、いつか、いつかとさくらを想い続けてきた。被害妄想者特有の都合の良さが出てしまっている。だが俺は決心を固め、今は自分を虫けら以下としてただただ善良な一般市民になるために、まずは風呂と宿を貸して頂くべく彼女に謝りに来たのだ。贅沢は言わない様にしよう。それと被害妄想も押し殺そう。被害妄想のやつが顔を出しそうになったら自分の乳首をつねろう。よし。これで行こう。と、エントランスでいらぬ事やいる事をブツブツ呟きながらなかなか彼女の部屋番号を押せず、うろうろ、うろうろとまさしく虫けらの様にうごめいていた。するとエントランスの外から買い物袋を両手にぶら下げたさくらが入ってきた。とっさに俺は身を屈め、後ずさりしていた。心底俺は小心者である。さくらの方はどんと胸を張ってエントランスに仁王立ち、じっと俺を見ている。何も言ってこない。俺はさくらの表情をじっと伺った。怒っているのか。久しぶりに会えて喜んでいるのか、いや、それはありえない。やはり怒っているのか。彼女の顔は表情ひとつ変えずに俺の目を見据えている。エントランスには異次元の様な異様な空気が漂っている。分からない。濃いメイクのせいだ。この表情は何だ。喜怒哀楽のどれだ。何か喋ってくれ。と俺は祈り続けた。すると彼女は唐突にバッグから鍵を取り出し、インターホンの横にある鍵穴にそれを突っ込んだ。スライド型の大きな透明ガラスは両側に開き、彼女は何も言わずに中へ入って行った。俺も夏によくいる蛾の如く彼女の後にくっついて中に入った。俺は一応これから風呂に入れてもらえる身分なので(まだそうと決まった訳ではないが)小声で「失礼します」と呟いた。すると、彼女は持っていたビニール袋をどさっと手放したかと思うと、右手の拳を強く固め大振りに振った。その凶器は俺の左顎に見事命中し、俺はエレベーター前の廊下にどさっと尻餅をついた。彼女は鼻息を荒くしながら俺を睨んでいた。まるでヘミングウェイの小説に出てくるスペインの闘牛の様にも見える。これは俺にも分かる。喜怒哀楽の二番手「怒」である。なおも襲いかかってきそうなその硬く結ばれた彼女の右手を、俺はすかさずがっと両手で掴み、四つん這いのまま必死に謝った。左の頬が腫れてきているのが分かった。どくどくと左頬周りの血管だけが踊っている。俺は手を決して離さなかった。彼女もまた無理に振り払おうとはしなかった。だんだんと彼女の硬く結ばれた右の拳は緩く解かれていき、俺の手の中にある感覚も柔らかいものとなってきた。彼女の顔は未だに「怒」を表していたが、俺を殴る瞬間の顔よりかは格段に穏やかなものとなっていた。彼女がついに口を開いた。
「久しぶりだね。おじさんがこっち見てるからとりあえず部屋に行きましょ」彼女は小声でそう告げ、エレベーターのボタンを押し。
ふと後ろを見ると、おっさんがドアを開けて顔を出し、訝しげな顔でこちらを見ている。見せもんじゃねえんだよじじいと一喝してやろうと思ったが、彼女の怒りを増やさぬ様に、善良な一般市民としてそれはやめる事にした。エレベーターでさくらと俺は上がり、さくらの部屋の前まで来た時に、彼女は言った。
「友達が来てるの」そうだ。確か部屋に明かりが点いていたのを思い出した。
「その子の相談に乗ってあげててね、彼女、ちょっとヒステリックを起こしちゃって、それで落ち着いてきたからお酒とか色々買い出しに行ってたとこなの。絶対に失礼な態度とっちゃダメだからね。彼女今とても傷ついてるんだから。それだけ約束して」俺はうんと頷いた。
男じゃない事にかなりの安心感を感じていた。それにしても妙なタイミングで来てしまったらしい。ガチャっとドアを開け、さくらは「ただいま」と言いながら奥の部屋へと入って行く。俺も後に続いて奥の部屋に行くと、ソファーベッドにはなんと男が座っていた。一瞬にして俺の思考は崩れ落ち、訳が分からなくなってしまった。さくらはさっき確かに友達の事を「彼女」と、こう呼んでいたはずだ。にも関わらずさくらの部屋には男がいるのだ。しかも男の風貌ときたら、ぶくぶくに太った体で、整えられた髭が妙にいびつであり、頭は長い髪を後ろで結んでいるときている。ズボンはぱっつんぱっつんの黒いスキニー、上はこれまたぱっつんぱっつんのピンク色をしたタートルネックのニットで決め込んでいる。目はぱっちりと大きかったが、充血している。どうやら泣いていたらしい。俺はさくらの神経を疑った。それとそこに座っているデブ男の神経も。ついでに俺の神経も。どういう事だ。気づけば俺の右手は自分の左乳首をつねっていた。
「おかえりー。遅かったね」タートルネック野郎がやけに高い声で言った。俺はまだ部屋の入り口で立ち尽くしている。
「ちょっとそこで前の知り合いと会ってね。勘太郎って言うの。いい?彼も一緒にいても」さくらの知り合いという言葉に少し傷つきながら立っていると、
「うん。いいよ。さっちゃんの知り合いなら。こんばんは。勘太郎くん」タートルネック野郎は俺を見て微笑んで見せた。俺もぎこちなく微笑み返した。
「勘太郎はね、作家志望なの。小説とか詩を書いててね、全然売れてないの」さくらがいらぬ言葉を交えながら俺を紹介した。
「へー!すごいじゃあん!かっこいい!かんちゃん!売れてなくてもそういう志ってかっこいい!あたしは全然小説とか読まないなあ。ネットのポエムは好きだけど!」
「いやいや、今はもうあんまり書いてなくてね」
「そうなの?」さくらがビールを飲みながら俺に聞いた。
「ああ、もうそろそろ現実的にならんとね。将来を見据えるよ。あ、その、急に押しかけてあれなんだけど、風呂借りていいかな」
「えー!つまんなあい。かんちゃん諦めちゃったのー?」
「だよねえ。かんちゃんつまんなあい」俺はさくらのタンスからバスタオルを引っ張り出した。
「あ、こちら友達のキヨコね」さくらが言った。
「あ、よろしくね。キヨコ…さん」
「キヨちゃんって呼んで!」タートルネック野郎が言った。
俺はバスルームにさっと入り服を脱いで熱いシャワーを浴びた。心がもやもやしている。シャワーを浴びながら頭を整理した。さくらは結局男と一緒にいて、でもその男は女で、俺は男で、まださくらを愛していて、キヨちゃんは何かに悩んでいて、さくらが友達として相談に乗っていて…俺は体の隅々を石鹸で洗い流し、頭皮のアカを洗い流し、洗面台に出た。素っ裸で鏡の前に立つと、そこには痩せこけた男がひとり立っていた。俺はそいつに小声で話しかけた。
「とりあえずこれはよ、許してもらえたんだよな?誰にって、さくらにさ。そりゃあ一発食らったもんな。風呂も入れてくれたし、とりあえずは一件落着にしとこうぜ。な?そうしよう。キヨちゃんの件は…俺もまだ未知の入り口なんだ。とりあえず、さっきさくらが言ったように失礼の無いようにな。おそらく彼らのような…神から性の二分化を与えられた者たちは、デリケートだ。だからヒステリックなんかを起こしちまうんだ。そう思うとかわいそうだよな。男の繊細さと女のサガを持ち合わせてるんだもんな。そりゃヒステリックにもなるさ。ああ、かわいそうに」そう鏡のガリガリ男と話していると、奥の部屋からさくらとキヨちゃんの爆笑する声が聞こえてきた。そして俺はまた鏡に向き直った。
「なあなあ、やっぱりさ、一番愉快に人生を謳歌しているのは彼女らなんじゃないかな?知るかよ。まあ、無い話では無いよな。お前はどうだ?夢を諦めてよ、何してんだ?いいんだよ。これから善良な一般市民となって人生を謳歌するんだからよ。さくらとか?ああ。でもよお、さくらさっき、お前が作家志望じゃなくなった事、つまんないって言ってたぜ?そうだなあ。あれは酔っ払ってるんだよ。酔っ払いの言葉なんか信じるな。お前も酔っ払えばそれが分かるさ。そうだな。そうだな兄弟」
まだ奥の部屋からふたりの爆笑が聞こえてくる。ふと俺の左顎を見ると、赤く晴れていた。それから左乳首を見ると、同じぐらい真っ赤に腫れ上がっていた。
洗面台にあった適当なジャージを着て部屋に戻ると、俺は冷蔵庫を開けてビールを取り出した。久しぶりの冷えたビールが俺の内臓たちを刺激しながら下へ下へと下っていく。さくらとキヨちゃんをテーブル越しに見て座り、楽しそうに話しているソファーベッドに並んだふたりの顔を交互に見た。どっからどう見ても恋人そのものである。俺の心のモヤモヤは今だに解消されず、ただただビールをごくごくと飲み続けた。ふと部屋を見渡すと、ボウイのレコードが目に入った。一瞬あの時の感情が思い起こされたがすぐに治った。結局あの時はただただ人生の猶予に余裕がなかっただけだったのだ。今余裕があるのかと問われればはいと即答する事は難しい。だが、何もかも捨てて無くなった身分の男に余裕もクソも無いのである。あると言えばあるし、無いと言えば無いといった感じだ。ところで、やはりアルコールというのは偉大であった。訳の分からん人種が狭い部屋に集まろうと、アルコールさえあれば案外気楽に楽しくやれてしまうものだった。俺は先ほど洗面所に聞こえてきた爆笑の真相をふたりに聞いた。それは、なんともくだらないもので、キヨちゃんのへそから陰部までの毛が異常なほどに濃いという事だった。見せてもらうと、確かに濃かった。キヨちゃんのへその下にアフロのおっさんが埋め込まれており、頭髪だけがキヨちゃんの体内から突起しているのではないかと思うほどだった。それをふたりに言うと、またもや大笑いを初めてふたりとも顔を歪めながら両方向に倒れ込んでしまった。俺は苦笑いをしながらビールをすすった。これがそんなに笑える事なのだろうか。俺はなんだかむず痒く、照れる気持ちになってきて、女性の気持ちは到底分からないものだと思った。そしてさくらが笑っていることにも安心感を覚えた。それにしてもこの女達はよく笑う。ようやくふたりの笑いが治ったので、キヨちゃんに気になっていた質問をした。
「ところで、キヨちゃんの相談事とは?」
そう言った瞬間、分かってはいたがキヨちゃんの顔はどんよりとシリアスな顔になってしまった。俺が部屋に入ってきた時と同じ顔に。こうなるとは分かってはいたがどうにも気になってしまって質問せざるを得なかった。すると、ビールを一気に飲み干したさくらがキヨちゃんの代わりに答えた。
「キヨちゃん、勘太郎に話していいよね?」キヨちゃんが頷く。
「なんかね、キヨちゃんが片思いしてる男の人がいて、その人とは結構上手くいってたらしいの。映画とかご飯とか行ったりして。まだ当然友達としてだけどね。それで、ある日キヨちゃんが彼に直接打ち明けたの。あたしはゲイだって。あなたが好きですって。そしたら彼ね、その時は真剣に受け止めてくれたんだって。でも、ちゃんとした答えは返ってこないままその日は別れたの。そしたら次の日から急に連絡が取れなくなっちゃったみたいで、電話してもメールしても応答は無くてね、最初はちょっと動揺してるのかなって感じだったらしいんだけど、日が経つにつれて心配になっちゃって、それで彼の勤め先にまで電話したんだって。不動産会社なんだけど、ちょうどキヨちゃんが告白した次の日から無断欠勤してるんだって。彼、失踪しちゃったみたいなの。かわいそうなキヨちゃん…失踪してからもうすぐ一ヶ月…」さくらが話してる途中からキヨちゃんはえづき始め、話し終わる頃には声を出して泣いていた。さくらはキヨちゃんの背中をさすりながら自分まで潤目になっていた。
「その男の家には行ったの?」俺は冷蔵庫に自分とキヨちゃんの分のビールを取りに行きながらさくらに聞いた。
「うん。この前行ってきたんだって。麻布十番の高層マンション。すごいよね。で、ちょっと怪しいけどどうにか入っていく人にくっついて彼の部屋の前までは来れたの。さっきのあんたみたいに。それでインターホン押しても出てこないからドアノブひねってみたらドアが開いたらしいの。それで入ってみたんだって。キヨちゃんってほんと尊敬するわ。中には誰もいなかったんだけど、テーブルの上にね」さくらがそう言った瞬間、うずくまっていたキヨちゃんががばっと体を起こし、ぱっつんぱっつんのスキニーのポケットから一枚の紙切れを取り出して俺の前に広げて見せた。そこには丁寧な字でこう書かれてあった。
成田発 広島空港行き AM10時30分発 PM12時5分着
心のオアシスへと僕は旅立つ。そこで僕を待っている人がいる。もう少しだけ待っていておくれ。君の心を癒しに向かうから。愛してるよ。赤い亀。山崎圭一
俺はこれを見て率直にこの男の頭はおかしい、そう思った。それにこのなんのひねりも無いポエム。この男は一体どうかしている。きっと精神疾患を患っていて、キヨちゃんに告白された衝撃で頭の残り少ないネジが吹っ飛んでしまったのだろう。それに麻布十番に住んでいる事に内心ムカムカしており、全体的にこの男の言動が俺の癪に触った。すると、また崩れ落ちていくキヨちゃんの背中をさすりながらさくらが言った。
「あたしも同じ経験あるから分かるよう。なんで馬鹿な男って黙って消えていくんだろうねえ。失踪なんてするくそ男なんかほっとけばいいのよ。広島でもどこにでも行ってのたれ死んじゃえばいいのよ。そんなやつ。キヨちゃん、いい、よく聞いて、もしそいつがひょっこり帰ってきたら一発殴ってやんなさいね。いい?分かった?」
俺は居たたまれなくなりウィスキーグラスにブラックニッカを注いで飲み干した。相変わらず喉がかあっと熱くなり少し心が落ち着いた。すると泣き止んだキヨちゃんが自分のビールグラスになみなみのウィスキーを注いで一気に飲み干した。ほあああという初老の男性の様な声をあげ、ビールグラスをがつんとテーブルに置いた。それからキヨちゃんが俺とさくらを交互に見ながら言った。
「あたし、広島に行ってけいちゃん探してくる。見つけてぶっ飛ばす」
「いやいや、広島って言ったってそいつの心のオアシスなんて分かるのか?一体なんなんだよオアシスって。それに最後の赤い亀ってなんだよ。完全に気狂いだぜ。それに恋人でもない君がそいつを一方的にぶっ飛ばしたらただの傷害になっちまうぞ。それに君は、結構、その、体格いいし」俺は言った。
「ねえ、キヨちゃんの好きな人を気狂いなんて呼ばないで。いいのよぶっ飛ばして。あたしもこいつぶっ飛ばしたんだから。そんな男。きっと見つかるわ。キヨちゃん心配しないで」
「え、ふたり付き合ってたの?」体格に似合わぬ高い声でキヨちゃんが言った。
「いや、その話はいいよ。とにかく、そのうち帰ってくると思うよ。そいつ」
「こいつみたいにね」さくらが言った。
「え、やっぱりふたりは」
「いや、キヨちゃん。本当に、広島まで追っかける事ないって。行っても立ち往生するだけだぜ?金も勿体無いしさ、そんな奴に固執することないよキヨちゃん」
「大丈夫。キヨちゃんの家超お金持ちなの」
「作家志望にしては冒険心がないのね、かんちゃんって」キヨちゃんが言った。
「あたしも行く。広島。キヨちゃんがその人ぶっ飛ばすとこ見てみたいし」
「お前、服屋の仕事あるだろ」
「いいの。休むから。結構融通効くのよ」
「そっか。ならもう俺は止めないよ。好きにするといいさ。あ、そうか、ふたりが広島行ってる間俺がここで留守番してるよ。任せてくれ。俺アパート追い出されたんだ。どうかな?」
「あんたも探すの手伝ってよ」
「なんて?俺がそいつを探す手伝いをするのか?嘘だろ?酔っ払ってきたなさくら。酒が弱くなったのか。老化だな。はは」俺は笑ってつまみのジャーキーを食いちぎった。
「あんた。一緒に広島来なかったら一生許さないから。それに何、アパート追い出されたって。だっさい。言っとくけどお留守番なんて絶対にさせないから」
俺はだんまりを決め込んでいた。手元にある百円ライターをひたすらテーブルに、立てては倒し、起こしては倒していた。
「金が無いんだ」俺は百円ライターをテーブルに置いて言った。
「大丈夫よ。もし一緒にけいちゃんを探してくれるならふたりのお金は全部あたしが払うから。それでね、あたし、飛行機乗れないの。あの乗り物ってよく考えてみたらおかしいじゃない。あんなに大きい鉄の塊が何時間も宙に浮いていられるなんて。きっとあれね、飛行機なんて本当は存在しなくて、あそこに乗せられた客はみんな催眠術をかけられて、本当は地下で移動しているの。じゃなきゃおかしいもの」キヨちゃんが熱弁した。
飛行機に乗れない人の話を聞くのはとても疲れる。どんどん俺の広島に行かない理由がふたりによって削除されていった。広島に行きたくない理由はいくつかあるが、やはり強い理由としてその失踪男に対するなんとも言えない嫌悪感であった。それに、さくらの言う通りその失踪男は俺に似ているふしがあった事も強く感じている。俺は、と言うか、被害妄想者は基本的に自分の事が嫌いな場合が多いのではないかと思う。要するに自分の分身を探しに行くようなものであって、善良な一般市民を目指している俺が、前までの俺のような男を探しに行くなどどうにもやるせない話である。俺としては、さっさと前までの俺を切り捨て、新しい人生を切り開きたいのだ。俺はまた百円ライターをテーブルの上でいじくり始めた。
「そしたら何で行くの?」さくらが聞いた。
「うちの車はどう?」
「あたし免許持ってないよ。あ、勘太郎、あんた持ってるよね」
「ああ、持ってるよ。しばらく運転してないけどね」
「あたしも持ってるから交代で行きましょ。せっかく遠くに行けるんだから少しぐらいは楽しみたいわよね」涙をティッシュで丁寧に拭いながらキヨちゃんが言った。
「んん、広島かあ。んん、どうかなあ」俺がブツブツ言いながら項垂れていると、膝に人の手の感触がした。さくらがテーブルの下から俺の膝をさすっている。俺は久しぶりに自分以外の者から体を触られたので一瞬体が強張ったが、それがさくらの手によるものだと思うとやはり、昔馴染みの温もりを感じられた。何度も体を交わしたおかげで、脳ではなく皮膚が人を記憶しているのだった。実際には脳なんだろうけれど、言い表すとしたらこう言う言い方しか出来なかった。俺は自分の手をテーブルの下に潜り込ませ、さくらの手を掴んだ。久しぶりの感触。さっきエントランスで触ったさくらの手はまるで別物であるかのように、その手は喜怒哀楽のどこにも属せず、愛を感じ取る事ができたのだ。キヨちゃんには見えない位置で、俺はさくらの手を握っていた。さくらの目は見れなかった。だがさくらが俺を見ている事は分かった。するとキヨちゃんが俺に言った。
「いいの。これはあたしの人生の問題だから。さっき会ったばかりの人にいきなり訳のわからない事を言われるなんて最悪の気分よね。あたしたちふたりで探しに行くから大丈夫。それに、もしよかったらあたしんちの別荘に次の家が見つかるまで住んでていいわよ。さっちゃんのお友達だもんね」
俺は急に情けない気分に陥った。これは被害妄想癖やらなんやらとは全く別の次元の話で、自分の人生観の話だった。俺は寄生虫だ。人から施しを受けてきた人間は、ある一定のラインを越えると今度は人に尽くさなければならない。そうしないとやはり折り合いというものはつかないのである。俺は元作家志望だが、おそらくこれからの人生で作家の心を忘れる事はないだろう。そのためにはそろそろ折り合いをつけないといけない時なのかもしれない。いい機会だ。出直そう。そう心の中で思った。何かの小説ではよく、自分探しの旅に出まして、とかいう奴がいるが、身の回りで自分を見つけられない人間が遠くに行ったところではたして本当の自分を見つけることが出来るのだろうかと思っていた。そして仮に、本当の自分を見つけた時に、それをどうやって持って帰るつもりだろう。カバンに入るもでもない。かと言って脳に焼き付けるのもおかしな話であって。俺は広島に行く事を決めた。自分探しではなく、自分と似たやつ探しの旅である。これなら持って帰る心配もないだろう。もともと自分自体は探してなどいないのだから。俺はキヨちゃんとさくらに広島に行くと言った。
「とりあえず、そのけいちゃんとやらを探し出して白黒つけさせよう。今日俺がここに来たのも何かの縁。そういう事で」
三人は自分のグラスを持った。さくらはビール、キヨちゃんはなみなみのウィスキー、俺もウィスキー。何も言わずにお互いのグラスを中心に伸ばし、グラスがぶつかる音が鈍く響いた。深夜二時。さくらがまだ酔っ払っていない事は分かっていた。キヨちゃんも相当酒が強いらしく、肉の張った口角が少し上がるぐらいで、この部屋で酔っ払っているのは俺だけだった。
さくらの家に居候を始めて四日目の朝、広島に行く日がやって来た。俺はベランダに出て煙草に火を点け、マグカップのコーヒーを啜った。外は冬特有の澄んだ青が頭上に広がっていた。とても気持ちが良かった。俺はコーヒーを片手にさくらの部屋にあった折りたたみ式の日本地図を広げた。ここは東京都、武蔵境駅から歩いて十五分のところにあるサカイマンション六○二号室。これから向かう場所は約八一六キロ先、車での所要時間約十時間。渋滞や、道中のパーキングエリアでアメリカンドッグを食べる時間、諸々の道草を食う時間を考慮するとおそらく十二時間前後はかかるだろう。現在朝の七時一四分。向こうに着くのは夜の八時ぐらいであろうか。第一、今だに我々は広島に行くとしか決めておらず、広島の何市何何町に行くとは決めていなかった。福山なのか、広島市なのか、山口県境の方なのか、はたまた厳島神社の鹿でも見に行くのだろうか。まあ、おそらくこれからさくらの家まで自家用車で迎えに来るキヨちゃんが決めているのだろうと思っていた。
まず、広島といっても広い。その中で一人の男を探すことなど無謀であって、見つかることなどありえないだろうと考えていた。正直、その男が見つかろうと見つからなかろうと俺には全くもって関係のない話であって、俺と億万長者ぐらいに接点が見つからない。それに失踪男への嫌悪感も消えている訳ではなく、中途半端な手がかりを残してくれた事にも腹が立つ。何なのだ、赤い亀とは。
しかし、やはり今日はいい空だ。そんなしょうもない事は二の次で、キヨちゃんの言った通り俺はこの薄汚い東京から飛び出せる事に何とも言えない興奮を隠しきれないでいた。東京に住んでからというもの、俺は散々な目に遭って来た。その多くは、俺の被害妄想癖と東京のごちゃごちゃとした人の多さが交わって生まれたもので、駅前の歓楽街には酔っ払いの群れ、オフィス街に行けば富裕層の群れが俺を蔑んだ目で見ていた。張りぼてのタワーが立ち並び、アメリカや他の先進国に負けないよう躍起になった政治家ども。日本全国そうなのだろが、東京は目立ちすぎている。俺は昔から目立ちたがり屋とは上手くやっていけない星の元に生まれていたのだ。広島か。広島といえば何だろう。俺は煙草を吸い髭をもしゃもしゃと触りながら考えた。広島と言えばもみじ饅頭だったか。もみじ饅頭は他の名物だったろうか。海があるな。広島には。海は大好きだ。そうか、瀬戸内海だ。愛媛県との間にあるあの島々はどこかの国では天国と称賛されているらしい。俺も一度は天国に行ってみたいものだ。もしもこの旅が終わって、さくらがまた俺と付き合ってもいいというのなら、その界隈に移住するのもいいかもしれない。海辺の小さな家でふたり、寝っ転がりながらビールを飲んでやるのだ。夕方になると俺とさくらの子供達が遊び疲れ泥だらけになりながら外から帰ってくる。俺とさくらは笑いながらそれを見て、さくらが飯を作り俺が子供達を風呂に入れる。風呂でわちゃわちゃと戯れているとさくらが風呂に顔を覗かせて「ご飯出来たよ」と言う。今日は何だろうな。ハンバーグか。刺身か、そう子供と言い合いっこをしながら風呂を出る。鼻の下を伸ばしてそんな妄想をしていると、マンションの下に一台の高級車と思われる黒い車がすっと脇につけて止まった。すると部屋の奥からさくらが言った。
「キヨちゃん着いたって。早く仕度して」
さくらはそう言うと金髪の髪の毛を右側から、太いトングの様な電子機器で挟んで巻き始めた。俺は煙草の火を消して中に入った。いつ見てもさくらのすっぴんは別人にしか見えない。先程の妄想の中のさくらの顔が少し変化した。俺の準備はすでに終わっていた。はなから準備も何も、この格好で来て、この格好で出るだけだった。それにしてもと気になり、真剣に鏡を覗いているさくらに聞いた。
「もしかしてキヨちゃんって金持ちだったりすんの?」
「だからこの前言ったじゃない。キヨちゃんのお父さんは不動産会社の社長さんで、すっごいお金持ってるって。失踪しちゃった男の人もその仕事の繋がりで知り合ったんだって。あんた、準備済んだの?」
さくらが呆れた様に鏡を見たまま言った。
「さくらさん待ちなんですけど」俺がそう言うとさくらが振り返り、俺をきっと睨み、また鏡に向いて髪を巻き始めた。
二十分後、俺らは部屋の鍵を閉めてエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの中でさくらにぼそっと言った。
「もし広島が気に入ったら、俺と住むってのはどうかな」俺がもじもじとしていると、
「まだね、あたしの心は、完全に治ってないからね。自惚れないでね」さくらが一階のボタンを雑に押してから答えた。俺は黙って、ジーンズのポケットの中にある百円ライターをいじくるだけだった。
エントランスを出るとすぐ目の前には、太陽の光を借りてぴかぴかと黒光りをしたベンツが停まっていた。俺とさくらがそれをぼうっと眺めていると、本来助手席だと思っていた方のドアがガチャっと高級感のある音を立てて開いた。中からはこの前と変わらずぱっつんぱっつんの白いスキニーと、ピンクのタートルネックのニット、首に色鮮やかなスカーフ、長髪は後ろで結ばれ、茶色いサングラスをかけたキヨちゃんが出てきた。口髭は今日もビシッと整えられていた。「おはよう」相変わらず高い声でキヨちゃんは言った。おはよう。俺とさくらはそう返し、目の前に存在する人と車、その何でもない光景なのだが何だか見新しい感覚に次の言葉を失っていた。するとさくらが言った。
「すごおいキヨちゃん!これキヨちゃんの?」そう言うとさくらがじろじろとベンツを舐め回す様に見た。「かっこいい!」
キヨちゃんは照れ臭そうにサングラスを外しもじもじと立っていた。俺も男である。そしてキヨちゃんも男である。おかまであろうが何であろうが俺は男として嫉妬心をキヨちゃんに感じていた。この、いつもと違いストレートにぶつけられぬ嫉妬心。もやもやとする。やはりキヨちゃんは強い。キヨちゃんは女。キヨちゃんは女。と、俺は心で念仏の様に唱え続けた。「まあ、こんな感じだよなベンツは」と、訳の分からないことを呟いて俺は後ろの席に乗り込んだ。それからキヨちゃんが海外旅行にでも行くのかというほどのさくらの荷物を後ろのトランクに積んだ。そしてさくらが助手席に、キヨちゃんが運転席に乗り込み、いざ広島へと意気込んだベンツのタイヤは回り出した。失踪男の捜索、嫉妬への耐久、東京からの脱出、そして、さくらの心を取り戻す旅が始まった。
「おふたりさんはどういう知り合いなの?」多摩川を越える橋を渡っている最中、俺は前のふたりに言った。ふたりは何も言わずにただお互いの顔を見てにやにやと笑い合っている。「何だよ」と俺が言うと、キヨちゃんが返した。
「おふたりはどういう関係?」キヨちゃんはにやにやと分厚いほっぺを持ち上げながらルームミラーで俺を見ている。
「そういう関係」俺がぶっきらぼうに答えると、さくらがむっとした様子で付け足した。
「元ね」するとキヨちゃんが、
「やっぱり!この前は友達なんて言ってたけどやっぱりそうなのねえ、そうなのよねえ、さっちゃんも隠すんだからあ。え、え、もしかしてこの前話してたあれ?あれ?あれのあの人?」キヨちゃんがさくらに詰め寄る。
「そう。あれのあの人」さくらが答えた。
「ふううん。そおう。ふううん」キヨちゃんがなぜか嬉しそうにちらっちらちらっちらとルームミラーで俺を見ている。そのせいで時たま車体はぐらんと左右に揺れ、前を走っていた軽自動車が猛スピードで遠く先に走って行った。おそらくヤクザとでも思ったのだろう。情けない。運転手たる者、他ふたりの命を預かっている訳であって運転には細心の注意を払うべきである。どんなことがあろうと運転手は気を取られずに前をしっかりと見て集中するべきであった。まあ、俺があれのあの人張本人である事は認めるが、キヨちゃんは懲りずにナビモニターをいじくり始めている。俺は呆れて高級感のある背もたれに寄りかかり、外の景色を見ていた。もう神奈川県だ。ナビから、「ぽおん。東名高速道路に入ります」と、車内に機械的な女性のアナウンスが流れ、俺達は高速に乗った。その瞬間、無音だった車内に、アコースティックギターの音が響いてきた。荒い音では無く、ミドルテンポのゆったりとしたコード進行。ピックが弦に当たる音がよく分かる。これはこのベンツのステレオが良いからなのかは分からないが、いつも聞いているよりも鮮明に、ボウイの声が皮膚から肉に染み渡り、血管をウォータースライダーの様に流れ回る。ああ、ボウイ。やってくれたね、キヨちゃん。前のふたりはまたにやにやとふたりだけの世界で笑い合っている。あれのあの人というのは、ボウイのレコードを流したら怒って飛び出した阿保な勘太郎君という事だな。ふたりはまだ笑っている。ボウイが、おーのー、らあぶ、ゆあのっとあろん、と歌う。ふたりは声を出して笑う。俺はもう一度呆れてまた背もたれに倒れこんだ。俺もスーサイドでもしたい気分だった。
「それで、二人の関係は?」そう俺が聞くと今度は真面目に答えてくれた。
「あんたが出てってあたしが落ち込んでる時にね、職場の女の子がよく話を聞いてくれてたのよ。それで、立川に面白いバーがあるから行ってみない?ってその子に言われて、それでその子と一緒に行ってみたの。そこはオカマバーでね、たまたまそのカウンターにいたのがキヨちゃんよ。そのお店ボンジュールって言うんだけどね、それからボンジュールに通い出すうちにキヨちゃんと仲良くなってお店以外でも遊ぶようになったの」さくらが言って、キヨちゃんが頷いた。
「遊ぶようになったって言っても、キヨちゃんだって、その、男なわけじゃん。家にあげるとさ、なんか、やっぱりさ」
俺はそう言ってから一瞬で後悔した。おそらく今までの後悔最短記録だろう。やはりここまではっきりと言うのはどうかしている。言った手前後悔する事はよくあるが、特に酒を飲んでいる時に多い。だが素面の時にこれをやってしまうと片付け方が分からなくなってしまう。俺はどうしようもなくキヨちゃんに謝りたくなった。
「大丈夫よ。あたし金玉無いの。去年取っちゃったの。邪魔なのよね、あれって。ぶらんぶらんしてて。あたし使わないし。勘ちゃんも取っちゃいなよ。ね?ね?取ってくれるとこ紹介するからさ」キヨちゃんが言った。
「え、無いの?え。え。え。無いの?使わないって…え。え。え…」俺はひとり車内で「え」を連呼し、ふたりはそれを見て笑っていた。ベンツはトンネルに入り、ごおおおという籠もった騒音が響き、外にはオレンジの光が一定間隔でぽん、ぽん、ぽん、と流れていった。人は自信満々に事実を告げられると案外短い時間でそれを受け入れてしまうものだ。いつだったかどっかの待合室で見たテレビでは、電話をしている人に無言で物を渡すと何でも受け取ってしまう心理がある。というような説を実験で証明してみせていた。あの感覚に近く、俺はトンネルを出る頃にはキヨちゃんのタマがないという事を真実として受け取り、別に、さくらの家にキヨちゃんが上がって遊んでいたことに対してなんの不思議も感じなくなっていた。ただ、純粋に、彼女らは友達として遊んでいたというだけであった。俺は心のもやつきが勢いよく溶けていくのを感じながら、これからは人を見る目を少しづつ変えていかなければならないと強く意識した。善良な一般市民になるために。広島から帰ったらまずキヨちゃんの店、立川のボンジュールに行かねばと、窓の外を見ながら考えていた。トンネルを抜けてからというもの、両脇には田園が続いており、民家がポツポツと立っていて、そこには農夫らしき人たちががやがや忙しげに何かを作業していた。ついに東京脱出に成功したのだと内心で喜びの舞を踊った。
自動的にまぶたが開いた。車はどこかのサービスエリアに停車していて、運転席と助手席は空っぽだった。エンジンは切られており、煙草を吸っていないにも関わらず息を吐くと少量ながら白い煙がもわっと飛び出た。窓の外を見てみるとサービスエリアに並ぶ屋台の列のひとつにさくらとキヨちゃんを見つけた。何かをむしゃむしゃと食べている。薄情なふたりだ。と、白色のため息を吐いてケツを左右に持ち上げた。鈍い痛みが腰回りで轟いた。頭の脇の方で今まで見ていたシーンがちらついている。学生時代に交際していたひろみという女と、キースリチャーズが手を繋いで歩いている。俺はひろみの隣にいて、キースと俺がひろみを挟むようにして歩いていく。だらだら、だらだら。まるで、中学生が日曜日に暇を持て余し、近くの大型ショッピングセンターを、だらだら、だらだら、クレープを片手に徘徊している様だった。そんな怠惰なシーンを寝ている俺に見せつけて一体どうしたいというのだろう。もし、人々に夢を見させているのがギリシア神話に出てくる神々のひとりだとしたら、一体どういう風の吹き回しで今更ひろみを俺の夢に投入したのだろう。是非ともその意見を聞かせてほしかった。そしてその神を叱咤してやりたかった。ひろみは実に男たらしな女だった。俺の友達を取っ替え引っ替えしているうちにたまたま当然のごとく俺にも回ってきた訳で、本気になるには危険すぎる恋だった。そして夢ではあのキースリチャーズまでもを虜にしていた。本当に頭がさがる。二年ぐらい前に聞いた噂では、ひろみは高校を中退して新宿のソープ嬢になったらしい。ひろみは順調に男と女を拗らせたまま人生を歩んでいる。それもまた一本筋が通っているというものであった。俺はさくらとボウイの一件を引きずっていたのか、眠りについていく過程の中、その神に見破られ嫌がらせをされていたらしい。とにかく、気分は最悪だった。今すぐに酒が欲しかったし、さくらの顔が見たかった。
俺は酒を求めて外に出て、運転席のドアを開けた。ハンドルの下の刺さりっぱなしになったキーを抜いてドアを閉め、一先ずトイレへ向かった。歩いていると、一瞬で空気の違いを感じる事ができた。東京にある空気は土地に対して多すぎた人達の汗やイライラや負の感情がカクテルされている。そんな空気の気配は無く、ただただ山々が俺を見下ろしていて、聞いたことも無い鳥の声が、俺には歌に聞こえてきた。少しだけ、さっきまで感じていた気持ちの悪いひろみの顔が頭から薄れていくのが分かった。朝から飲んでいたコーヒーを一気に出し、トイレから出てサービスエリア内を散歩していると、新しい色合いの看板には駿河湾沼津SAと書かれてあった。外の床は、クリーム色のタイルが一面に敷き詰められており、普段聞かない足音が聞こえてくる。建物はヨーロッパを思わせるような外観で、赤、青、緑、茶色、オレンジの食い物屋の屋根が奥から順に飛び出している。横に伸びた建物の端っこには一段ほど高い、札幌の時計台を思い出させる洋風の塔が伸びていた。建物の至るとこにある角はレンガで積まれており、表面は漆喰の様な材料で塗られており、見事な左官仕事であった。ある種、ディズニーランドにやってきた様な異世界感を感じながら歩き回っていると、向こうの方から特大なイカの丸焼きを片手に歩いてくるさくらとキヨちゃんがいた。
「おはよう。勘太郎。」さくらが言った。
「何で起こしてくれないんだよ。ここ何県?」俺が聞くとサングラスをかけたキヨちゃんが答えた。
「静岡県!だって全然起きないだもんかんちゃん。もう爆睡!イカ食べる?」
「いや、結構。そうか、静岡か。広島まで全然あるな」
「うーん、まだ四分の一か五分の一ってとこね。あ、そうだ、はい。今回のギャラ前金で渡しとくね」キヨちゃんが茶封筒を俺に渡した。中身を出してみると一万円のピン札が三枚入っていた。
「え、キヨちゃんいいよ、こんなに。ギャラなんて、別にそんなつもりで一緒に来てる訳じゃないし。友達として一緒に失踪男をとっ捕まえに行くんだからさ、受け取れないよさすがに…」キヨちゃんはイカをしゃぶりながら無言で俺を見ている。
「受けとんなさいよ。せっかくキヨちゃんが気持ちでくれてるんだから。まあ、本当ならあんたみたいのにこんな大金勿体無いのよ。ちゃんと広島着いたら必死で働きなさいね。何ならここから広島まであんた運転しなよ」 さくらが言った。
「そっか。キヨちゃん悪いね。もらっとくよ。キーは俺が預かってるから俺が運転する。もし傷付けても笑って許してね。はは」俺は笑いながらそう言ってさくらのイカを奪い取りかぶりついた。キヨちゃんはイカ片手ににこにこと笑いながらそれを見ていた。
久しぶりの運転は気持ちが良かった。駿河湾沼津サービスエリアを出てから一時間ほど、不思議なぐらいに空いており、俺は元来調子乗りの才能を発揮して時速百四十キロをキープして走り続けた。横に乗っているさくらはスヤスヤと眠っており、ルームミラーで後部座席を除くとキヨちゃんが不安げな顔で外を見つめていた。愛する人を失うという事は、この不安げな表情が顔にこびり付いてしまうという事だな。と俺は思った。さくらも同じ様な顔でこの五ヶ月を過ごしてきたのだと思うと少しやるせなくなった。俺はアクセルを踏みつけている足を少し緩めて、カーナビからラジオをかけた。カチカチと適当に選択したそのラジオは名古屋のローカル番組らしく、あからさまに酒飲みのヘビースモーカーとわかるしゃがれた声の男が、局に送られてきた手紙を読み上げている。ラジオは好きでよくアパートで聞いていたが、ここまで聞き取りにくいパーソナリティーは初めてだった。バックでは、よく無印でかかっている様な民謡音楽が流れていて、時々、男性は手紙を読み上げている途中にげほげほとむせかえっていた。この珍妙なラジオがどうも面白く、暫く聞き入っていた。話の内容は酷いもので、昼の十二時を回った昼食どきの放送にも関わらず、そのDJマツイというパーソナリティーはセックスの体位がどうだの、ローターはこのメーカーがおすすめだの、この時期は逆にムラムラするだのと、世界で一番この時間に相応しくないラジオを繰り広げていた。冬空の気持ちのいい晴天の中、電波を通してこれだけ人々の心をどんよりさせる放送はこの先の人生であまり聞くことは出来ないだろう。俺が爆笑しながらそのラジオを聴いていると、後部座席からキヨちゃんが叫んだ。
「ねえかんちゃん、なんなのよこのラジオ。いやらしい!もっと他のラジオにしてよ!インターFMとかJWAVEとか!気分悪いわ!」俺は笑いながら答えた。
「いいじゃんよこれ。こんだけ赤裸々に語ってくれてるんだ。多分この人昨日の夜から酒飲んでそのまま局に来たんだな。ろれつ回ってないもんよ。はは」するとキヨちゃんが呆れた様に返した。
「最悪。不潔。あたしも店ではお客さんに下ネタとか話すけどね、こんな真っ昼間にこんな不潔な話よく話せるわね。かんちゃんもよく聞けるわね」
「キヨちゃんって案外繊細なんだね。はは」俺は笑いながらルームミラー越しにキヨちゃんを見て言った。キヨちゃんはムッとした様子でルームミラーを睨んでいる。おかげで暫くキヨちゃんは黙り込んでしまった。DJマツイがむせ返りながら言った。
「さああそれでは、次の曲にゲホゴホッ…つうぎの曲にいってみよおうかあ。これはあ、ゲホッ…ペンネーム、浪速のマンマンタオパイタンさんからねえ。ええと、ゴホッ…いつもラジオ聞いています。今日もゲスいですね!ありがとう!私がリクエストしたい曲は、なになにい。「愚鈍」のオマエノコトナドシランです!これはゲロを吐きそうな曲だねえ。ガホッ…それでは行ってみましょおう!「愚鈍」で、オマエノコトナドシラン!」DJマツイが曲のコールをした瞬間、黙り込んでいたキヨちゃんが叫んだ。
「かんちゃん!前!前!誰か立ってる!」その言葉でさくらが起きた。少し先を見てみると、何キロか先の路肩に背の低い人がこちらに手を降って立っていた。とりあえず、少しスピードを下げ一番右の車線から一番左の車線にベンツを移動すべくウィンカーを出してハンドルを左に回した。幸い他の車は追い越し車線を時たま何台か通るぐらいで、左の車線を七十キロぐらいで走りその人物に少しずつ近づき確認する事が出来た。その人物は男の子で、こちらに向かって親指を立てた左手を大きく降っている。
「何あの子?ヒッチハイク?」さくらが言った。
「親に降ろされちゃったんじゃないの?かわいそうに。危ないから一回停まってあげましょうよかんちゃん!」
「そうだね、明らかにおかしいもんな。あぶねえよ…」
俺はラジオから垂れ流されていたオマエノコトナドシランのボリュームを捻って小さくし、ゆっくりと速度を落として少年の横にベンツをつけた。窓を下ろして少年の顔を間近で見ると、やはり幼く、おそらく十二歳ぐらいに見えた。シュッとした顔立ちをしており、整った背の高い鼻と、大きな丸い目の上にある伸びたまつ毛が少年の顔に濃い印象を与え、顎まで伸びた髪の毛によって中性的な雰囲気を漂わせていた。その少年は今にも泣きそうな目で俺を見ている。背中には茶色い小さなリュックサックを背負っており、服装と言えば、泥で汚れきったコンバースに穴だらけのジーンズ、Tシャツだけやけに新しく、胸には大勢の人間が十字架に吊り下げられたキリストを前に頭を下げて必死に祈りを捧げている写真がプリントされていた。他には何か持っている様子は無かった。後ろではかすかにオマエノコトナドシランが流れていた。
「少年。どうしたよこんな所で。危ないよ」少年は黙って俺を見ている。
「少年。黙ってちゃ分からんぞ。俺たちを止めたのは君だろ?なんか用があったんだろうよ。言ってごらん。ほれ。せーのっ」するとさくらが俺を押しのけて運転席の窓まで身を乗り出した。
「なんであんたそう言う言い方するのかなあ。怖がってんじゃんこの子。黙ってて。それとこのラジオ切って」俺はラジオを切った。
「こんにちは。お母さんとお父さんは?まあ、近くにはいないよね。そうだよね。そこにいたら危ないし、とりあえず停まってるとあたし達も怒られちゃうから後ろの席に乗りな?ね?」さくらがそう言うと少年はコクリと頷いて後ろの席に乗った。俺は遠く後ろの方から車がやって来るのを確認して、すぐさまギアをドライブに入れベンツを走らせた。少年は後部席に乗りこむやいなや巨体のキヨちゃんを発見し一瞬ビクッと身を強張らせた。その隣にこれから座っていなければいけないという絶望感からか、車に乗り込んでからというものわなわなと小刻みに震えているのが安易に感じ取る事が出来た。キヨちゃんは自分に対して震えていると気付いていない様子で、少年にぐうっと顔を近付け、相手に不快感や警戒心を与えぬ様、満面の笑顔を作り出し大きな眼で少年の目を覗き込みながら話しかけていた。さくらも後ろに身を乗り出してにこにこと少年を見ている。俺が少年の立場であったならと考えているうちに笑いが込み上げて来た。が、何とか堪えた。
「こんにちはあ。今日はいい天気ねえ。ほんと。あ、お菓子食べる?あたしの職場の子がね、この前台湾行って来たのよ。それでね、はい、これ、じゃじゃあん。パイナップルケーキ!買って来てくれたのお。あたしこれずっと食べたかったんだけどね、なかなか時間が無くて食べられなかったのよお。あ、これ気を付けてね。すっごい歯にくっ付くらしいから!あ、それとじゃがりことお、ポテトチップスとお、あたしねえ、うすしおって食べないの。うすしおのうすって何なの。薄さなんてこっちは求めてないのよ。味が濃ければそれでいいの。がははは」キヨちゃんの盛大な男らしい笑い声がベンツ内に響いた。少年はキヨちゃんに無理やり渡された台湾のパイナップルケーキを片手にまだわなわなと震えていた。さくらはまだにこにこと微笑みながら少年を見ていた。キヨちゃんはまだがははと笑っていた。俺はまだ鼻を膨らませて笑いを堪えていた。「ぽおん。三重県に入りました」アナウンスが鳴り、我々は小さな友を新たに加え、車のエンジンを回し続けていた。高速道路の名前は新東名高速道路から伊勢湾岸自動車道にいつの間にか変化していた。伊勢湾の立派な赤い鉄塔の立つ橋を渡ると海を真上から見る事が出来た。少し進むと左側に大きな観覧車がゆっくりと回っていて、どうやら遊園地があるらしく、そこで遊ぶ家族連れの楽しそうな声が車内まで聞こえて来るようである。広島まではまだまだあるらしい。失踪男までは、まだまだあるらしい。
車は新名神高速道路に乗り、俺たちは土山サービスエリアという所でトイレ休憩をする事となった。これは俺の提案であり、ここ数年酒飲みの神の祟りか万年下痢なのである。俺はトイレの個室に入り込み至福を感じながら少年について考えた。名古屋で少年を拾ってから、キヨちゃんの人間的アロマの効果か少年はだいぶリラックスしてきたらしく、いくつかの事を俺たちに話してくれた。まず、年齢は十二歳である事、名前は矢崎ゆうたという事、それと、家がある名古屋から京都へ両親と家族旅行中だったのだが、行きしの車内でゆうたの行儀が悪いという理由だけでいきなり父親に降ろされ、置いていかれたという事だった。こんな酷い話は小説でも読んだ事が無い。それに、降ろされた時刻というのが朝の七時だという。俺たちが拾うまでおよそ六時間の間あのゆうたという少年は悲しみにくれながら訳も分からず止まってくれる車を待ち続けていたのだ。それもこんな十一月の空の下で。何よりも信じられないのが、少年を見つけても止まる車が一台もいなかったという事だ。にわかに信じがたい話である。とりあえず俺はこの先の行動を便器に腰掛けながら整理した。まず、ゆうたを京都にいると思われる両親の元へと届ける。(俺は警察に送り届けようと女性陣に提案したのだが、ゆうたが厭に嫌がるのでそれはやめる事にした。)それから、本来の目的である広島へと向かい、どこかで一泊して翌日から失踪男の捜索を開始し、キヨちゃんがそいつをぶっ飛ばす。そしてさくらと俺はハッピーエンド。というのが完璧な流れなのであったが、ふと思い出すとまだキヨちゃんに広島のどこに行くかを聞いていなかった。ナビには一応広島駅を目的地として入れておいてあるが、これもまたはっきりさせておかなければならない。キヨちゃんの中は四日前から比べて失踪男の手がかりも増えていることだろうと決めつけていた。赤い亀の謎も今のうちに解いておけば向こうに着いてからスムーズだろう。とは言えまずはあの少年だ。可哀想ではあるが正直かなりの時間ロスになる事は目に見えている。昔からガキは嫌いな性分である事や、面倒臭がりな性分があいまって、少年の件は早いとこ片付けたいと思っていた。もちろん心から同情しているが、先ほどまでの車内での会話、思い出してもイライラする。と言うのも、ゆうたという少年はリラックスするにつれ、さくらに馴れ馴れしくあれこれと楽しそうに話しかけているのである。さくらも少年に興味津々であり、キヨちゃんも何とかふたりの会話に混じりこみ大変賑やかな車内になっていた。俺も運転しながら少年に話しかけてはみるが、俺への対応それはまさしく虫けら同然のそっけない返事のみであり、俺はただただ傍観者を決め込み運転に集中するばかりであった。ゆうたもまた男なのである。男の本性と子供の本性を垣間見せるゆうたもまた俺にとって偉大なる敵になろうとしていた。そんな事を便器に座って黙想していると、ドンドンと俺の目の前の黄ばんだドアが叩かれた。俺は最大限気だるい声で、「はあい」と返事をすると、ドアの向こうの男がチッとかすかな舌打ちを鳴らしスタスタどこかへ消えて行ったので、俺はふっと笑い身を整えて外に出た。外に出るとスーツ姿の、俺と対して歳の違わないであろう男が俺をキッと睨みつけ、俺の入っていた個室に勢いよく入っていった。個室まちの人々を眺めながら俺はまたふっと笑った。
俺が戻ると三人は車内でアメリカンドッグを食べていた。俺が運転席のドアを開けるとキヨちゃんがアメリカンドッグ片手ににこにこ俺を見ている。俺がそのまま後部座席のドアを開けるとそこにはアメリカンドッグにかぶりついているさくらがおり、奥にはアメリカンドッグ少年が座ってこちらを見ている。俺は助手席の方へ回りドアを開けてアメリカンドッグ臭いベンツに乗り込み、まもなく車は動き出した。いつの間にか滋賀県に入っていたらしい。着々と我々は前に進んでいた。俺は運転を変わってくれたキヨちゃんに礼を言い、後部座席に振り返りさくらに言った。
「俺のアメリカンドッグは?」さくらは無いと言って食べ終えた棒の下に固まったカリカリの生地の部分を食べようとしていた。俺はそれだけでもいいからくれないかと言ったが、さくらはカリカリの生地をすっかり食べ終え棒を素っ裸にしてしまった後に、「ごめん」と言った。俺は前に向き直った。
「あの、僕のでよかったら、どうぞ」俺が振り返ると、少年が食べ終わったアメリカンドッグの棒を俺の前に出した。棒の下の方には生地が残っていた。俺は少年を見ながら無言でそれを受け取り、前を向いて座り直し、カリカリの生地を齧った。なんともやり切れなかったが、うまかった。キヨちゃんもわざわざビニール袋から自分の食べ終わった棒を取り出して俺にくれようとしたが、俺は大丈夫とジェスチャーして目を瞑った。
「んで、これはどこに向かってるのかな、キヨちゃん」俺は辺りに続く緑と、コンクリートの長い道の先端に目をぼんやり向けながらキヨちゃんに話しかけた。
「広島よ」キヨちゃんは前を向きながら答えた。
「うん。だろうよ。じゃなくて失踪男の所に行くんだろ?そいつどこにいるんだ?」
「あ、そうね。それがね、あの部屋にあったメモの一番最後に書いてあった赤い亀ってやつなんだけどね、ちょっと調べて見たのよ。そしたらね、尾道市の千光寺公園ってとこに、赤い亀っていう亀の銅像が立てられているらしいの」
「銅像?銅像ねえ。尾道って言ったらあれか、瀬戸内海だね。それってもう完全に失踪男はその銅像の近くにいるな。なら早く言ってくれよキヨちゃん。俺広島中を片っ端から探すのかと思ったよ」俺はナビの目的地を尾道駅に合わせてセットし直した。到着時間が四十分ほど短くなったので四十分分ほっとした。
「ごめんね。赤い亀の銅像なんて日本でそこしかなかったしね、広島行きのチケット買ってるしね、そこしか無いのよ。これ、あのメモ帳」そう言って俺に例のメモ帳を手渡した。
成田発 広島空港行き AM10時30分発 PM12時5分着
心のオアシスへと僕は旅立つ。そこで僕を待っている人がいる。もう少しだけ待っていておくれ。君の心を癒しに向かうから。愛してるよ。赤い亀。山崎圭一
「山崎圭一ねえ。でもさ、なんなんだよこの愛してるよ赤い亀って。銅像に恋してんのか?相当な趣味だなこいつは。よくキヨちゃんもこんな男好きになったなあ」
「普段はそんな変態みたいな言動なんて見せなかったのよ。無口で優しい人だったのに…ケイちゃん」後部座席で盛り上がるさくらと少年の声が気になる。
「まあそんな暗い顔しないでさ、きっとその近くにいるからさ、手当たり次第にその何とか公園ってとこにいる人に聞いてみようぜ」
「うん。ありがとうかんちゃん」キヨちゃんの方を見ると今にも泣きそうな顔をしてハンドルを握っていた。俺は哀れなキヨちゃんの頬に一粒だけ流れ落ちていく涙をはっきりと見た。俺は少しでもと思い前の収納ケースを開けてCDを何枚か取り出し、カチャカチャと探ってブルーハーツのヤングアンドプリティというアルバムを見つけたので、それをカーナビの下にあるベンツの口に食わせて流した。キヨちゃんが少し笑って、ふたりでキスして欲しいを口ずさんだ。外は心なしか夕方に近づいている様で、近くに大きなゴルフ場が見えてきていた。ゴルフ場の緑は人工芝のせいか眩しく見え、周りにある山々の優しい緑と少しだけ違うように見えてしまった。人工芝を見ながら、数時間前にいた東京の景色を思い出していた。やはり東京のへそも人工芝のようなもので、俺には眩しすぎるのだ。ああいった眩しいハリボテに囲まれて暮らすという事は決して悪いことではないが、いつの間にか自分までハリボテになってしまわぬよういつも警戒していなければならくなっていた。それが、何とも、疲れるのである。実際にハリボテになってしまった人をいくつか東京暮らしの中で見てきた。作家仲間だった伊藤一樹はある雑誌の編集者にハリボテにされ、くだらない同人誌のコラムを書くようになった。彼は日本の古き良き言葉を駆使するのが上手く、知識も俺より格段に持っていて、俺の知らない日本語をよく知っていた。ストーリーも繊細で、卵の黄身を持つように読まなければ本当の良さや深さが分からないといったような、くだらない同人誌とは縁のない男だった。彼もまたハリボテ。だが、おそらく、俺はハリボテでは無いと自分では思っているが、それ以外の妬みや嫉妬の虫なのかもしれなかった。俺が伊藤一樹をハリボテに仕立て上げているのかもしれなかったが、東京に住んでいる以上俺には分からない。教えてくれる者がいるとすればそれは死んでいった作家連中だろう。生きている連中に俺のハリボテ論が正しいかなんて聞いたところで彼らは自分の納得する答えしかあの小さな口からは出さないだろう。俺は、ただただこの機会に自分のこのインチキなハリボテ論の行方を見守る事にした。もし面白い見解がこの旅で見つかればまた物書きにでも戻ろうかと一瞬考えたが、それはどうだろうとも思った。その時後部座席からきゃあというさくらの声が聞こえ、俺ははっと後ろを振り返った。さっきまで楽しそうに話していた少年は神妙な顔でさくらをじっと見つめ、さくらは運転席の背もたれを一点に見つめている。キヨちゃんが「どうしたの!」と叫んだ。俺は訳がわからずふたりを交互に見て見ると、少年の手元には刃渡り五センチほどのナイフが握られており、しっかりとさくらの右腹に向けられていた。俺がナイフを見ていると少年が口を開いた。
「あんたら、こんな高級車乗ってさ、金あんだろ。出せよ!あほんだらあ!」少年は叫ぶと俺の目をじっと見た。犯罪者特有の薄汚い目で。「お前、動いたら女刺すぞ。あほんだら」
あほんだらという言葉をえらく気に入っているらしく、言葉の節々にその言葉が混じっている。
「おい坊や。あほんだらはお前だよ。やめときな。刺したら怒るぞ。あほんだら坊や」キヨちゃんが運転しながら訳もわからず叫んでいる。「何!何!何!どうしたの!ゆうたくん!何!さっちゃあん!かんちゃあん!何!」 さくらの方がまだ落ち着いている様子だった。
「うるさい!おかま!金出せって!言ってんだろうがあほんだらあ!」
「落ち着けよ。お前強盗してるつもりか?こんな高速走ってる最中に金渡したところでお前どうするんだよ。坊や、金なんて俺ら持ってないぜ。金なら京都にいる父ちゃん母ちゃんに貰え。行儀良くしてればくれんだろうが。今連れてってやるから大人しく待ってなさい。あほんだら」
「俺に親なんていねえんだよ!俺はこれで飯食ってんだ!あほん」少年お気に入りのあほんだらという言葉はキヨちゃんによって掻き消された。
「何なのよお!ゆうたくん嘘だったのお!もう!可愛い子だからもう少し大人になったらうちの店で面倒見てあげようと思ってたのにい!ゆうたくんのあほんだらあ!」流石に体格だけあってキヨちゃんの声は人一倍大きかった。
「わかったよ。金やるからそのナイフしまえよ。キヨちゃん、落ち着いて。次のサービスエリアに入ろう」
車内にいる人間の中でさくらが一番冷静を保っていた。さくらは堂々としてキヨちゃんの後頭部を見つめるのみであった。俺はこのガキをどうしてやろうかと考えていたが、自分の膝が小刻みに揺れているのに気付き、その瞬間から保っていた平常心がただのさくらに対する格好付けである事が判明した。俺はそれから妙に後ろの少年が怖くなり、叫び続けるキヨちゃんの声が俺の左耳を侵蝕していくに連れまた一段と恐怖心が募っていく。ステレオからはマーシーががなり声で我々に、「老いぼれてくのごめんだ!」と叫んでいる。それに続いてヒロトがブルースハープを歌うように吹いていた。一瞬ステレオの音が小さくなり、「ぽおん。京都府に入りました」と音楽を遮って申し訳なさそうにアナウンスが流れた。その後に、ラスト一分にわたるギターとブルースハープの激しいソロの掛け合いが続いた。
「うるせえおかま!あほんだらあ!俺はこうやって食っていくしかねえんだよ!」
「お、おい、分かったから早くナイフしまえよ」俺は完全に慄きというスイッチが押され、声が上ずっていた。
「俺はなあ、生まれてからずっと不幸なんだよ!親に捨てられたのは本当だよ!生まれてすぐになあ!そんでなあ!孤児院に入れられたんだけどなあ、職員のババアがムカつくからぶん殴ってやったんだよ!すげえだろ!あほんだらあ!」
「とにかくよ、ナイフをしまえって」もうあほんだらの一言も言い返せる勇気は俺に無かった。
「お前らこんな車乗りやがってよお!次のサービスエリアでおろせ!無かったらどこでもいいから金だけ出して俺を降ろせ!絶対警察に言うなよ。絶対警察に言うなよ。あほんだらあ!」するとずっと黙っていたさくらが口を開いた。
「かわいそうねえ。ゆうたくん。大丈夫よ、そんなに熱り立たなくたって。この世界はそんなにならなくても生きていけるのよ。そんな海賊みたいに生きていてもすぐに捕まっちゃうよ。ちゃんと孤児院に戻っておばさんにごめんなさいしなさい」さくらはそう言って少年の頭を撫で出した。少年の鼻息は少しだけ静かになったが、ナイフは未ださくらの右腹を向いており、ゆうたはじっとさくらを睨んでいる。サービスエリアは無く、仕方なく一度車は高速を降りることにした。高速を降りてすぐの所に、広い駐車場のあるスーパーマーケットを見つけた。駐車場には車がひしめきあって停まっていた。「ほら、着いたぞ」と後ろを振り向くと、さくらが少年の耳に顔を近づけ何かを囁いている。つい先程まで、今にも皆殺しにしそうな目をしていた少年の目は、とろんと目尻が下がり、瞼が重そうに下に圧を掛け口は半開きになっている。美しい美貌の少年のこの様な顔など想像がつかなかった。足元にはナイフが転がっており、少年の全身の力が抜けているのが分かった。まさかとさくらの右手をみると、その手はまっすぐ少年の股間に伸びており、ごそごそと辺りを弄っている。少年は時々笑い、童貞のその顔をしていた。車がすっと白線と白線の間に入る。俺はぷつんという何かが弾け飛ぶ音を体のどこかで聞き、さくらの気狂いじみた行動に目眩がした。何かがおかしい。この世界は狂っている。俺も狂っている。みんな気狂いだ。俺の身体中の血液はマグマとなり、車が停止する前にドアを開け飛び出し、そのまま反対側の後部座席のドアを開け、今にもオルガズムに達しそうな少年を引きずり出し、胸ぐらを掴み上げた。
「お前!調子に乗るのもここまでだぞ!なんてガキだお前は!ケツ出しやがれ!あほんだらあ!」少年の目は完全にこっちの世界に戻ってきており、怯えたウサギの様な目で俺を見ている。俺は気にも止めず少年のズボンをおろし、ケツを叩きを始めた。俺は叫んだ。
「体罰禁止なんか糞食らえだ!このガキャ、俺の女を!」周りを歩いていた人たちがジロジロと俺を見ているのが分かった。これは被害妄想ではなく、完全に俺は京都の頭のおかしい狂人として注目されていた。時々携帯カメラのシャッター音が聞こえてきた。おそらくSNSに投稿するのだろう。だがSNSに勘太郎という男は生きていなかったので俺とは到底関係の無い話であった。キヨちゃんとさくらに力尽くで止められ、俺はベンツのタイヤにもたれて座り込んだ。ゆうたは大声は出さず静かに泣いていた。さくらとキヨちゃんがゆうたを俺から遠ざけて遠くに連れて行き慰めている。俺は段々と平常心を取り戻し、それを眺めながらひとつ後悔のため息をついた。それから腰を上げ、ゆうたの元まで歩いて行きズボンを上げてやった。人目が気になり、ゆうたとさくらとキヨちゃんに車に乗るよう促した。後部座席に俺とゆうたが乗り、さくらは助手席、キヨちゃんの運転で車は動き出した。俺が警察署に向かってくれとキヨちゃんに言ってから、車内の誰もが無言だった。ゆうただけがまだめそめそと泣いている。ブルーハーツももう聞こえてこなかった。京都府宇治警察署の駐車場に着くと俺は少年を車から降ろした。さくらとキヨちゃんにここで待っててくれと言って、俺も車から降りた。俺と少年は警察署の入り口まで歩き、そこで少年に声をかけた。
「悪かったな。大人気なかったよ」少年は黙って花壇の方を見ている。「俺も父ちゃん母ちゃんいないんだよな。孤児院じゃないけど父ちゃんの方のばあちゃんとじいちゃんに育てられてね。よく悪い事するとケツ叩かれたんだ。まあお前の気持ちが分かるって言われんの嫌だろうから言わないけどさ、あれだ、善良な一般市民を目指して生きろよ。道に迷ったら本を読め。あれは昔のやつらが残して逝った人生の道しるべだ。んじゃあな」俺はそう言ってキヨちゃんから貰った茶封筒から1万円札を1枚取り出して少年のボロジーンズに突っ込んだ。少年がそのまま警察署に入ろうがまた強盗稼業をやろうがどっちでもよかった。それから俺は車に戻り、後部座席にどさっと乗り込んで、またひとつ後悔のため息を吐いた。誰も何も喋らずに、黒光りの高級車ベンツはまた動き出した。もうあたりは完全に暗く、車のディスプレイには18時40分という文字が光っていた。さくらが時たま心配そうに、何かを言いたげに後部座席の俺を振り返って見てきたが、俺は気付かないふりをして外を眺めた。宇治の情緒ある灯を見ているととても心地よかった。小さな歓楽街の脇で信号待ちをしていると、古臭く狭い居酒屋の中がちらっと見えた。中には京都のおっさん達がワイワイと騒いでおり、何やらコートを振り回して女将さんらしき女性に怒られている人もいる。みんなやけに笑顔で、何がそんなに楽しいのかと考えていたが、すぐに答えは見つかった。俺と彼らの決定的違い。俺はもう17時間も酒を飲んでいなかった。ああ、酒飲みは参るよ。ああ、酒飲みには参っちまう。なあ、こんな俺をどうか許してくれ。酒飲みのおいらをよ。
俺は串に刺さった明太子付きの白いささみを口に入れて串をすっぽ抜き、ビール瓶からコップに、コップから俺にとささみをビールで次々に胃へ流し込んでいった。木目調のカウンターには、俺から右へ三つ離れた席にキャップを被った爺さんがふたり座っていて、左にふたつ行った席には厚化粧の婆さんがタバコの煙を燻らしているのみであった。店主の親父は少し前にぷらっと店を出たきり帰ってこない。厚化粧の婆さんを見ると、右手はしっかりとウイスキーグラスを握りしめており、灰皿に置かれた長く細いタバコの白いフィルターには、紅色のキスマークが滲んでいた。店は昭和時代のあの薄暗さで、着物姿の女性がビール瓶を丁寧に両手で持ち、俺に一杯どうぞと言わんばかりに微笑んでいるポスターが、厚化粧の婆さんの真後ろに貼ってあった。右側の爺さんふたりが京都弁で何やらぶつぶつと小さな声で話している。互いの顔も見ずに、ふたりはただ目の前のしがないお通しのユッケに話しかけているように見えた。はっきりとは聞き取れないが、年金暮らしで生きる人間たちの妬みつらみを洗いざらい、小さく吐きだしている様で、その京都弁が俺の右耳に入ってくる度に俺は、ああ、東京とは随分離れてしまった。とノスタルジーに浸るのだった。格好良くノスタルジーと言えど、別に、対して、故郷を恋しく想う事は無く、ただただ、住んでいる街から遠く離れたこの街でこの昭和臭いレトロな店に入り浸りちびちびとビールを飲んでいると、どうしてもノスタルジーという言葉が頭にこびりついてしまう。おそらく作家志望の性なのだろう。こんな事は心底くだらなかった。俺をこんな場所に連れて来たのは一体誰だ?キヨちゃんか、さくらか、ベンツか、タイヤか、高速道路か、カーナビか、失踪男か、はたまた赤い亀の銅像か。俺自身、問いの答えがこの中にあるなどと思ってはいない。そこまで落ちぶれてはいなかった。ならばなぜこんな場所でひとりで酒を飲んでいるのだ。そう俺に問いかけると数時間前の新鮮な記憶が思い出される。
我々が警察署から車を出してカーナビに従い高速道路に乗ろうとした手前、俺は口を開いた。
「なあ、まだこれ続けるのか?」
「これって?」さくらが言った。
「この旅だよ」
「まだ広島にも着いてないじゃない」
「そうね、今から再出発しても向こうに着くのは真夜中になりそう。ここで一泊してまた明日から全てやり直しましょう。何だかあたしも疲れたわ」前を向きながらキヨちゃんは言った。
「俺もだよ。疲れちまった」
さくらは何も言えずにただふたりの言葉に従った。さくら自身、先ほどの少年との行動から強気な態度は見せられないのだろう。何とも哀れな女だ。と俺は思った。少年を警察署に置き去りにしてから、俺とさくらの間には薄いガラスが設けられ、刑務所の無言な面会の如く気持ちの悪い寒さを感じていた。さくらと俺のどちらがシャバから面会にやって来たのだろうか。俺が死刑囚か。さくらが無期懲役か。
五分ほど走った場所にあった三十階建高級ホテルに車は何の躊躇もせずに入り、速やかに我々は車を降りフロントでチェックインを済ませ、ひとりひとりのシングルルームを取った。「車は所定の番号に駐車して下さい」と関西訛りの受付嬢が微笑んだ。キヨちゃんがキョロキョロと辺りを見回していた俺らに振り向いて言った。
「あたし車止めてくるから、ちょっとロビーで待ってて。あ、先に部屋に荷物置いて来ちゃった方がいいかな。とりあえずすぐ帰ってくるから。戻って来たらどっかご飯でも食べに行きましょ。今夜はちょっと盛大にやった方がいいみたいだしね。気分的に。じゃあ待ってて」
するとさくらが明らかに動揺した様子で何か言いたげにしている。俺とふたりになりたくない事は容易に察することが出来る。キヨちゃんも同様、何やら慌てふためいた様子でなかなか行こうとしない。キヨちゃんも先程からのふたりの沈黙に困り果てていたのに違いなかった。キヨちゃんは被害者だ。俺とさくらのどちらかが被害者だと思っていたのだが、それはミステリードラマ特有のどんでん返し。最後はみんな被害者で、知らないところで互いに傷つけ合う加害者だった。キヨちゃんはおそらく俺らをふたりにして話し合いをさせるつもりでいたのだろう。何を話し合う事があるのだろうか。事はそう難しくないはずだった。はずなのだが、俺は一度冷めきった世界を見せられるといつまでもその世界に固執する性分であり、それを癒すのに大量の酒が必要であった。その事をさくらも知っていたのだ。さくらとは2年半付き合っていたが、俺がいつ鬱になるか、またその対処法が分からないでいるらしい。俺自身いつあの冷めきった部屋に閉じ込められるか分からない。誰も分からないし、誰もそんな事になど興味はあるまいと考えていた。
「あたしも着いてく」さくらがぼそっと言った。
「うん。うん。おいで。じゃあかんちゃんちょっと待っててね。先に荷物置いてきちゃって。はい、これ。キー」キヨちゃんが俺に硬く白いカードを一枚渡した。
俺はてっきり一般的な鍵に20センチ程の細長いクリアーな棒が付けてあるのもだと思っていた。金持ちはどうやらいろんな物を小さくする事が好きらしい。こんな小さなカードなどすぐに失くしてしまう自信がある。だから貧乏なのかもしれなかったが。俺は「待ってるよ」と言ってだだっ広く白く明るいロビーのベンチに腰掛けた。一瞬、またさくらが俺の方をちらりと見た気がしたが、俺はさくらの方を見なかった。ふたりがこそこそと何やら話しながら歩いていった。ふたりが正面のどでかい自動ドアに吸い込まれていったのを確認して、一度溜め息を吐いた。それからもう一度。数分間、俺はロビーにやってくる人間たちを眺めた。どいつもこいつもぶくぶくと肥えており、金のせいで歪んでしまった笑みを顔に貼り付けて歩いている。女もいる。男もいる。ゲージに押し込められたプードルもいる。白人。黒人。東洋人。聞こえてくるのは中国語の多いこと。俺はこの、貧乏人や殺し合いや都合の悪い事を省略した地球を小さく収容した様な場所にいる事が恥ずかしくなり、立ち上がってロビーを出た。目指すは貧乏人に見合った静かな酒場だった。
この店に入ってから何時間経ったのだろう。携帯は半年ほど前から解約せざるを得なくなり持っていない。店には時計ひとつも無いが、そこまで時間の経過を知ろうとも思わなかった。店主の親父がやっと帰って来たので、俺は「おじさん、芋のソーダ割りね」と言った。とほぼ同時に両脇のおっさんふたり、厚化粧のおばさんもそれぞれ一気にオーダーした。我々客同士は妙な一体感に包まれ、コップの中身が空になったにも関わらず店の親父がいないが故に注文出来なかった鬱憤を共有した。俺と爺さんふたり組と婆さんは互いの顔をちらちらと見て、また各々のノスタルジーに浸るのだった。60歳前後であろう親父はあいよと気の抜けた返事をしてからタバコに火を付け、気持ち良さそうに煙をもわっと吐いてから俺らの酒をゆっくりまったり作り始めた。俺も煙草に火を着けてさくらの事を考えた。あの時取ったさくらの行動を。今でも意味が分からない事だらけだが、少しは冷静に考察する事ができた。さくらはナイフで脅され、身を守るために相手の隙を突いたのだ。ただそれだけの事であった。ただそれだけのくだらない事であった。俺はやっと親父から手渡された芋のソーダを呷り、もう一度さくらを想った。哀れなさくらは今頃俺を探しているだろうか。またボウイの時の様にいなくなった俺を心配しているんだろうか。いや、そんな事な無い。あの淫売め。男を何だと思っていやがる。二度と顔を合わせるものか。そうじゃねえだろうよ。肝心なのは善良な一般市民に俺がなれるのかっちゅう話だろうが。その為には自分の命を恥もクソも投げ出して守ったさくらを讃えるべきじゃねえのか?え?だがよお兄弟。ありゃあねえぜ。元恋人の前であんな仕打ちはねえぜ。もっと他の方法があったんじゃねえか?いや、ねえよ兄弟。さくらも気が動転してたんだよ。見りゃ分かんだろあの時のさくらの顔。蒼白にして絶望の目でじいっと前を向いてたぜ。一番の被害者はさくらだろうがよ。そうかも知れねえな。とりあえずこの店を出るか。そうしよう。などと、アルコールで刺激された脳みそ達が喚き散らしている中、俺は手元にある酒を一気に飲み干して親父に「勘定で」と言い店を出た。
少し繁華街を歩いていると、数時間前車で通りかかった時に見た店を見つけた。さっきのコートを振り回してた男も酔っ払い達もいなくなり、店は静かに営業を続けていた。ふらっとその店に入っていくと、着物を着た女将さんが「ごめんねえ、もう閉めるんよ」と言い、俺はまた仕方なく小さな繁華街を歩いて行った。店で見た壁時計の針は12時を刺してあった。安っぽいネオンの中、「スナック赤い蜂2F」という看板を見つけ、「赤い亀ならなあ」と思呟きながら、どこだっていい、と雑居ビルの小便臭い階段をのそのそと登り、カランとベルを鳴らしながら「赤い蜂」に入った。I字の狭いカウンターの中には30歳前後のお姉さんがいた。お客はひとり、よぼよぼに年老いた、これまた厚化粧の婆さんが座って煙草を燻らすていた。お姉さんは愛想良くいらっしゃいと言い、婆さんもニコニコしながら俺を見ている。俺はばあさんからふたつ離れた席に座ると、お姉さんがおしぼりを持ってやって来た。
「お兄さん、ここ初めてやろう」
「うん。初めてだよ。なんかぷらっと歩いてて見つけたんでね」
「あら、お兄さん東京の方の方?」
「そう。東京から今日来たばっかりで。お酒何がある?」
「格好ええねえ。東京。あ、お酒焼酎とウィスキーどっちがええ?」
「あ、じゃあウィスキーの水割りで」俺は煙草に火を着けて左を見た。髪を真っ赤に染めた婆さんが俺をじろじろと見ていた。「こんばんわ」と俺が言うと、婆さんは深く頭を下げるのみだった。間も無くウィスキーの水割りが目の前に置かれ、俺はコクっとグラスを口に傾けた。俺はこういう夜を味わう度に酒が好きになっていくのだ。カウンター越しのお姉さんのシャツのボタンはいくつか外れていて、胸元には谷間が見え隠れしていた。酔っ払った頭でそれを見ると、どうにも鼓動が高ぶり干し草でも吸ったかの様にくらくらと心地よくなってくる。お姉さんは俺の目線の先を悟ったのかそうではないのか俺に微笑んでみせた。俺も微笑み返し、ウィスキーをまた煽った。ふと左を見ると婆さんから笑みが消えていた。そして婆さんは立ち上がりコートを羽織りだした。お姉さんが入り口まで付いて行き、一言二言中国語らしき言葉を交わして婆さんを見送った。お姉さんがカウンターの中に帰ってくると、狭いバーの中は俺とお姉さんのふたりだけになり、なんとも言えない安心感を感じた。くたくたになった体がとろけていく。俺は2杯目をお姉さんに頼んだ。
「お姉さん、もしかして中国人?」
「ううん。どうやろねえ。台湾人って言ってほしいわ」
「台湾の人か。じゃあ中国人じゃなくて台湾人だな。俺、好きだぜ台湾」
「ほんま?あたしも日本大好きよ。日本人も大好きよ」お姉さんは長い髪を耳に掛けながら言った。
「そいつは嬉しいな。お姉さんの名前は?」
「チャオって呼んで。お兄さんは?」
「チャオちゃんか。好きな名前だな。俺は勘太郎。呼び方はなんでもいいよ」
「オーケー。勘太郎くんね。あたしも好きな名前かも知れん。勘太郎くん」照れ臭そうに彼女は笑った。俺は胸元のせいだけではなく、彼女の笑った顔にも引き込まれていった。俺はだいぶ酔っ払っていた。
「チャオ、奢るよ。好きなの好きなだけ飲んで」俺は威勢良く言った。
「ええの?お金あるん?ほしたらありがたく飲ませてもらます。その前にトイレ行ってくるわ」チャオは店の外の廊下にあるというビルの共有トイレに向かった。
彼女が帰ってきてからふたりはウィスキーの水割りを飲みまくった。どうなっても構うものかと。明日の二日酔いに中指を立て、お互いの身の上話を交互に語り合った。一方が喋り始めたら一方は真剣に聞き、会話になんの嫌悪感も感じなかった。台湾で思春期を迎えた事。俺の故郷の事。日本に来てから10年の間いろんな仕事をした事。俺が作家志望だった事。日本人の恋人によく殴られた事。俺にもさくらという恋人がいたという事。さっきまでいた婆さんはこの店のママだったという事。云々。ウィスキーを何杯か飲んだあたりで、彼女はカウンターを抜け出し俺の隣の席に座った。おかげで彼女の顔を近くで見ることもできた。こも距離なら小さなほくろの数も数える事ができる。俺が日本と台湾の関係性について語っていると、黙って聞いていた彼女は俺の目を見ながら、自分の右手を優しく左手に舞下ろした。俺は「日本はもっと台湾に感謝の意思を」と話している途中で口を閉じ、目の前にあるウィスキーの入ったグラスを見つめた。自分の手と彼女の手が重なっているという何でもない事実に、凝り固まった岩の様な理性がさらさらと音を立ててサハラ砂漠の砂へと形を変えていった。さっきより少しだけ赤くなった彼女の丸い顔が俺の肩にもたれかかってきた。俺は意味もなくウィスキーグラスを何度も口に運んだ。くらくらとした頭で吸いたくもないタバコに火を着け、目を瞑ると悪魔が後頭部から魂を引き抜こうとする感覚に陥る。決して目を閉じてはいけなかった。今起こっている事に目を向ける事にして、俺はチャオの頭を撫でた。彼女の髪に触れると一瞬びくっと体を強張らせた気がした。しばらくそうしていると、彼女は顔をあげて俺にキスをした。俺も煙草を灰皿に押し付けてから彼女にキスをした。彼女はまた俺の肩にもたれかかった。「お客さん、来たらどうしようか」と俺が言うと彼女はさっきトイレに行った時から店は閉めてあると言った。俺はさっき消した煙草を拾い上げ、咥えてもう一度火を付けた。
「何でこの店赤い蜂って名前なの?」彼女は顔を上げた。
「ママが言うてたんやけど、中国の山奥にある村では赤い生き物を見ると縁起がええって言い伝えられてたんやて。幸せになれるって。それでママは日本に来てからこの店を開く時に赤い蜂にしたって言うとったよ」
「ふうん。何で蜂なのかね」
「ママのラッキーナンバーが8なんよ」彼女はそう言って笑った。
「なるほどね。はは」
「うちも赤い生き物といつも一緒におるよ」彼女は自分の短いスカートを少し下げた。
そこには彼女の腰から太ももにかけて赤い亀のタトゥーが彫られていた。俺は京都のスナックで赤い亀を発見するとは考えてもおらず、ただただそのタトゥーに見入っていた。
「赤い亀だ…」俺はタトゥーを見ながら言った。「チャオちゃん、山崎圭一って人知ってる?」
「知らない。誰?それ」彼女はウィスキーを啜った。
「知らないなら何でもない。いいタトゥーだね」
知らないとなるとただの偶然と言わざるを得ない。もし彼女が失踪男山崎圭一の言う赤い亀だとしたら合点がいくが、彼女も山崎圭一を知らないし、第一奴が広島に飛ぶのはお門違いである。飛ぶとしたら京都だが、広島には赤い亀の銅像がある。
「亀は万年やからね。でも長生きしたい訳やなくてね、台湾に住んでた時に飼っとったんよ。幸福が訪れるからって両親がね。ただそれだけよ」彼女は煙草に火を付けた。「でもね、宗教によっては亀は縁起が悪いって忌み嫌いする人もいるんよ。阿呆な話やわ」
「阿保だな。生き物を縁起の対象にするなんて。黒猫が横切られたらどうのとか。そう言う人間は神様を信じすぎるんだ。何にでも節度がある。信教の世界にもね」
「そうやね。愚かよね。勘太郎くん、うちらも愚かやろか?」
「愚かの種だな。愚かになろうと思えばいつでもなれるよ。なりたい奴がなるってものだよ」
「うちなりたない」
「じゃあ俺が愚かになるしかない」
「何で?」
「ふたりしかいないバーで、どっちも愚かじゃないなんてつまらないだろ。俺は善人を目指す愚か者であって」と、言いかけて俺はさくらの顔を思い出してしまった。「根っからの愚か者だ」
俺は酔っ払っていた。推理するにもそんな冷静さは無く、赤い亀や山崎圭一の事などどうでもよくなってきていた。彼女のタトゥーが失踪に何かしらの関わりを持つのなら少し酒は控えて話をしようというものであるが、関わりも無し、手がかりも無しではお手上げだった。いや、手掛かりというのあったのかもしれない。赤い生き物を見つければ幸せになれる。この情報はいつか使えるかもしれないと酔っ払った脳みその奥の方に押し込んでおいた。それから俺と彼女はずっと重ねていた汗ばんだ手を一度離し、彼女の鍵で店を閉めてから冬の宇治へ出て行った。小さな繁華街の店はほとんどが閉店しており、来た時に比べるとネオンの光もだいぶ少なくなっていた。彼女が俺の右腕にしがみつき、俺はジーンズのポケットに両手を突っ込んで誰もいない狭い道路の真ん中を歩いた。まるでディランが若い頃に出したフリーホイーリンのジャケットさながら歩いた。アルコールにより血管は収縮され、ふたりして異常なほどぶるぶると震えている。
「今から台湾に行ってうちの両親に会って」
「ああ。いいよ。なら行こうか。歩いたら朝には着くかな」
「うん。きっと朝には着くなあ」
「だよな。俺こんな格好だけどさ、いいのか?」
「大丈夫。素敵よ。きっと今頃うちらの為にご馳走を作ってくれとるよ」
「そうか。嬉しいな。全部たいらげてやる。俺は根っからの愚か者。誰がなんて言おうと、俺は根っからの愚か者だ」
「そうね、あなたは愚か者。そんなに泣かんといて。あなたは根っからの愚か者なんやろ」
ディランにも赤い亀にも近づけなかった俺は、キヨちゃんとさくらは今頃ふたりでおおいに盛り上がっていると自分に言い聞かせた。俺は彼女の腕を振りほどいてシャッターの前に吐いた。愚か者よ。恥を恐るな。
「勘太郎くんのホテルに行きたいわ」
「いや、俺のホテルは行けない」
「どうして?」
「連れと泊まってるんだ」
「女?」
「ああ」
「そう。なら、うちんとこおいで」
この先の未来なんてものは容易に想像出来た。チャオの家から朝日を見るのも悪くは無いだろう。しかしそんな事は酔っ払いの都合のいい妄想であり、実際はセックスに溺れる人間がふたり、朝日が登る頃にはベッドかあるいはベッドからはみ出した床で伸びてしまっているだけであった。夕方に起き上がるふたりの男女の顔は酒で膨れ、互いの顔の醜さに絶句する。そしてその醜い部分を忘れる為に、隠す為に、我々はまた大量の安い酒を胃に流し込むべく買い込んでデザートのセックスを心を弾ませるのだ。いつもならそれでもいいのかもしれなかった。俺があのハリボテ東京の一部になっていて、さくらの家に行かずにあのまま別れていれば、女と男をここまで深く考察するザマなど無かっただろう。俺は先が見えてしまった瞬間からチャオの誘いに魅力を感じなくなってしまった。あとはテンプレート通り事を済ませるだけなど誰がするものかと。俺は彼女に「もう帰るよ」と伝えると、彼女は急にやつれた顔になり、一瞬で歳がみっつよっつ増えたように見えた。それでも彼女は女の意地と愛嬌を捨てる事なく「はい」と一言で承諾してくれた。チャオは稀にいる心の芯の部分が強い女性だった。おそらく、この先スナックに訪れる男供に一瞬たりとも怖気付く事は無いだろう。俺らは駅前のタクシーに乗り込み、ホテルの名前を伝えて車を走らせた。何やら運転手がボソボソと話しかけていたが、俺らがキスをしている事に気付いたらしく、話すのを辞めて車内は静かになった。窓の外を見ていると所々で寺が見えた。急に車内にも線香の香りが漂ってきたが、窓はどこも開いておらず、脳が麻痺してるんだなと内心で笑った。反対側の車窓をを眺めているチャオに気づかれないよう、俺は彼女のピンク色の小さいポーチにキヨちゃんから貰った1万円を茶封筒から出して突っ込んだ。こんな事間違ってるという人もいるだろうが、俺には、お札というものがただの紙切れにしか見えなかった。これは酔っ払っていようが素面であろうが関係は無く、札をまじまじと見ていると、段々と札が憎らしく思ってくるのだった。こんな薄っぺらい紙切れで人は人を買えるのかと思うとどうにも腹立たしく思える。一度は日雇いで稼いだ一週間分の給料のうち、3分の1を丸子橋から多摩川に舞捨てた事もあった。まあ、あの時の俺も泥酔していたのは確かだった。俺の様な性分の男は宵越しの金は持ってはいけないと昔から相場が決まっているのだ。タクシーはホテルの前に着き、俺側のドアが開いた。電光掲示板には1050円の文字が浮かび上がっている。俺は運転手に2千円を手渡し、チャオの方を向いた。出会った時より少しだけ年老いた顔で俺を見ている。こうやって別れを体験する度に美しい女性達は年老いていくのかと思うと、さくらにしてきた事がどこまでも愚かな事だったという事が五臓六法に染み渡った。こういう別れ際、だらだらと別れについて話すのはあまり良く無いという事を俺は知っていた。チャオも覚悟を決めているのか、俺を見ずにじっと前を向いている。つくづく格好のいい女性だと心から思った。俺は車を降り、よろめいた足で真っ白いロビーに入っていった。後ろでタクシーが走り去る音が聞こえてくると、急に目頭が熱くなるの感じた。俺はもう一杯だけ、とホテルの最上階にあるバーに向かった。エレベーターに向かう途中、短い髪をジェルか何かで固めた若いボーイが心配そうにやってきたが、それを手で「大丈夫、大丈夫」と振り払いエレベーターに乗り込んで30の数字を押した。エレベーターの鏡に写った自分はチャオよりも年老いている様に写り、何週間も剃っていない髭がまた俺の歳を上げていった。エレベーター内の時計には1時59分を指して光っていた。
バーに入ると、長いカウンターの手前にスーツを着た初老の男とドレスを着た若い女が静かに飲んでいた。奥を見ると、ひとりで何かを飲んでいるキヨちゃんを見つけた。キヨちゃんは俺に気付くと、少し笑いかけて手招きをした。俺はキヨちゃんの隣の高級そうな高い丸椅子に座り、バーテンダーの男に水とウォッカのソーダ割りを頼んだ。間も無くウォッカのソーダ割りが目の前に出され、無言でキヨちゃんのグラスと俺のグラスを互いにぶつけた。キヨちゃんは激怒していると思っていたが、その様子は全くなく、常に笑みを浮かべていた。「どこほっつき歩いてたの」とキヨちゃんが俺の顔を見て言った。
「なんか、ひとりになりたくてね。わるかったよ。本当にわるかった」
「実際はひとりじゃ無かったくせに。京都の女はどうだった?したの?」キヨちゃんはそう言って笑った。
「え、なんで?いや、いやいや、してない」
「ほっぺに薄っすら口紅ついてるわよ。それに香水臭い。あたしも水商売人の端くれよ。相当やり手の女だったのね。さくらに見られる前に取っといた方がいいわ。してないならまだ良しとするか。かんちゃんも男の子だもんね」キヨちゃんはそう言ってハンカチを渡してくれた。
「そうか。そうか。そうだよな。うん。」俺はハンカチで顔全体を拭いた。
「かんちゃん意外とやるわねえ。でも、タイミングが悪かったわ。今日はおとなしくさっちゃんの側にいてあげるべきだった」キヨちゃんは真面目な顔でウィスキーグラスに口を付けた。「びっくりしたわよ。さっちゃんと帰ったらかんちゃんいないんだもん。さっちゃんもそれに気付いてロビーで号泣しちゃってね、大変だったわ。わかってる?かんちゃん。あんたのやってる事。さっちゃんはかんちゃんの事今の時点でどう思ってるか言おうとしないけどね、大切な人って思われてるって事は気付けなかった?ふらっと帰って来たかんちゃんを4日も泊めてくれる女なんている?かんちゃん、あんたゆうたくんにさっちゃんがあんな事したからやきもち妬いてるんでしょ」そう言ってキヨちゃんはにやっと笑った。俺は水を一気に飲み干してから、ウォッカのソーダ割りを飲み終えた。
「ああ。妬いてるよ。どうにもならないぐらい妬いてるよ。あんなガキに嫉妬なんてな。情けねえ。すんません、お代わりを」
「正直ね。でもね、かんちゃんも分かってると思うけど、さっちゃん程純粋な心の持ち主はいないわよ。断言してあげる。かんちゃんよりも付き合ってる日は浅いけど、さっちゃんと話す度に感じるの。よく泣いてよく笑ってよく食べてよく飲んでよく寝て、女遊びしてるかんちゃんよりも全然人間らしいわ。たまに天然のとこも可愛いじゃない。そんなさっちゃんが下心であんな事したと思う?あれね、実はあたしが前にさっちゃんに教えてあげた防衛術なのよ。男にもし襲われそうになったら、一瞬相手の股間を弄って油断をついてから鼻っ面を殴って逃げるのよって。男って馬鹿な生き物だからって。あの子はただそれを実践しただけなの。分かった?」
「そうなのか?なるほどな。ペンは剣よりも強しだな。キヨちゃん、防御術をさくらに教える割りには一番びびってたじゃねえか」俺はそう言って笑った。「なんだ、そうだったのか。そりゃあそうだよな。さくらが自分からあんな事するわけねえよな」出せれた新品のお代わりを啜った。少し頭が冴えて来たのを感じて煙草に火を着けた。キヨちゃんは少しムッとした様子で言った。
「今夜あたしがさっちゃん襲っちゃおうかな」俺は身震いしてキヨちゃんを見た。
「冗談ね。あたしの場合襲うとしたら…」そう言ってキヨちゃんは俺の腿に手を滑り込ませた。俺はもう一度身震いしてキヨちゃんを見た。
「冗談冗談」そう言ってキヨちゃんはがははと大笑いした。入り口付近に座っていた初老の紳士淑女が俺とキヨちゃんを見ながらこそこそと耳打ちし合っている。俺は呆れた調子で聞いた。
「そんで、さくらはどこにいる?」
「あ、さっちゃんなら部屋よ。さっきまでさっちゃんの部屋であたしと話してたからまだ起きてると思うわ。ほんと、ずっと泣きっぱなしだったんだから。落ち着かせるの大変だったわよ。一杯奢りなさいよ」俺はバーテンダーにキヨちゃんの酒を注文した。
「キヨちゃん、あんたいい人だな。出会えてよかったよ。本当に」
「そうやって京都の女も落としたの?」キヨちゃんは笑っていた。
「いやいや、そうじゃないけどさ」少しの間があり、細身のバーテンダーは腕時計をちらちらと気にしていた。今夜はやけに長い夜だと感じていると、今が冬である事を思い出した。おそらく、冬でも夏でもこんな夜は長く感じるだろうと、その心の中の問答は終わった。
「作家、もうやらないの?」キヨちゃんが言った。
「ああ、もうやらない。金が無い生活に疲れたんだ。作家として立ち直るには安定した生活が必要なのかもしれないな。俺にとっては。前までは金なんか無い方が深みのある作品を書けると思ってたんだけどな。今じゃ商業主義にもなれねえや」
「ふうん。実はね、かんちゃんの作品読んじゃったの」
「どうやって?」
「さっちゃんがさっき読ませてくれたの。ノートの表紙に『神木勘太郎 短編集』って汚く書かれたやつ」
「ああ、あれか。ずっと探してたんだ。さくらと喧嘩して、俺が飛び出して、さくらのためにクソみたいな短編書いて、それ持って謝りに行ってたんだよ。持って来てたのか」
「なんか、さくらはあのノートを見返してる時間が好きらしいのよ。無垢ね」
「俺の作品が好きだなんて本当に変わってるよ、さくらは」
「そしたらあたしも相当変わってるわ。かんちゃんの小説を読んでて思ったんだけどね、いい?かんちゃんは自分以外の人間を皆平等に見過ぎていると思うの。それはいい意味でも悪い意味でもあるの。一回自分以外のひとりの人間を嫌いになってしまうと、全世界の生き物や物事を一気に嫌いになってしまうのよ。だからかんちゃんは出版社に認められないからって、自分の作品は誰にも認められないんだってなるんじゃない?極端なのよ。もっと脳みそ柔らかくして人と接しないといけないの。たまには人の意見も聞いてね。かんちゃん酒飲みなんだから脳みそすでにどろどろで柔らかいでしょ?応援してるわ。もし作家の夢を諦めても、人間としてもっと魅力的になれる。偉そうにごめんね」
俺は煙草の先の火種を見つめながらしばらくその言葉たちに身を委ね、キヨちゃんに返す言葉を選んでいた。選りすぐりの最高の言葉を。しかし、見つからない事は明確だった。それは俺が酔っ払っているからではなく、単純に頭の中のイメージでしかなかったからだ。頭の中に言葉があった事は今まで一度も無く、俺の口から音として出たりノートに文字を書いて初めて言葉になるのだ。頭の中にあるのはただの映像であり、ぼんやりとした小さな宇宙がそこにあるだけだった。だが心は違う。理想論ではあるが、誰もが信憑性を感じているはずである。心は言葉で考える事が出来るし、言葉聞く事もできる。おそらく脳みそと心を使い分けられる人間は滅多にいないだろう。実際俺もそれらを使い分ける事が出来たなら、キヨちゃんに何か言い返す事が出来たのだろう。相手が安心できる一言を。
「ありがとうキヨちゃん。俺ちょっとさくらと話してくるよ」俺はそう言って煙草を消して立ち上がった。「あ、そうだ。たまたま街で赤い亀に関する事を聞いたんだけど、何だったかな、あ、赤い生き物ってのは中国では出会うと幸福を呼んでくれるらしい。あと亀は宗教によって縁起の善し悪しが別れる生き物なんだと。そんで、腰に赤い亀のタトゥーを入れてる女の人がいたよ」
「わ、すごい。やるじゃない名探偵勘太郎!ただ遊んでただけじゃないのね。でも何で京都に赤い亀のタトゥーを入れてる女がいるの?だってケイさんは広島に向かったんだし」
「うん。まあ俺もゆっくり考えてみるよ。尾道の銅像となんか関係してんのかもな。じゃあ俺さくらんとこ行くよ。部屋の番号なんだっけ?」
「2001号室よ」
俺は財布の中身から50円玉1枚、10円玉6枚、ポケットから100円玉1枚と1円玉9枚を取り出してカウンターに置いた。それをじっと見ていたキヨちゃんが俺の顔を見たので、俺はなるべく相手の気に触れないような笑顔を作って見せた。笑顔というよりか、微笑みに近かった。自分の脳みそのイメージでは。笑顔は時に人を苛つかせ、人を幸せにするものである。キヨちゃんは黙って微笑みの俺を見ていた。キヨちゃんの肉に張った頬に汗がひと粒落ちていった。俺は立ったままキヨちゃんの言葉を待っていた。微笑みを絶やす事なく。
「かんちゃん」キヨちゃんが言った。
「何だいキヨちゃん」俺の頬にも汗が伝っているのが分かった。
「何で女の人の腰に赤い亀のタトゥーが入ってるって分かったの。やっぱり、あのお金で風俗行ってたんでしょ!」
「いや、風俗なんか行ってないよ。ただスナックで飲みすぎただけだ」
「ふうん」
「じゃあ行くよ。おやすみ」
「おやすみ」
俺は紳士淑女を通り越して出口まで歩き、木製の立派なドアを開けたところで後ろからキヨちゃんの立派な叫び声が聞こえた。
「この浮気男!風俗の姉ちゃん掴めてやりまくりやがってえ!言いつけてやる!さくらに言いつけてやる!」キヨちゃんは笑っていたので冗談だという事はすぐに分かった。
すると若い淑女と静かに飲んでいた初老の男性が勢いよく立ち上がり、キヨちゃんに叫んだ。
「やめてくれえ!それだけはやめてくれえ…う…ちょっとたまたま会って飲んでるだけなんだよお…うう…あんた探偵か?え?うう…バレたら義父さんに殺されちまうよお…頼むよう…」
俺とキヨちゃんは唖然としていた。何だこのおっさんと。俺は泣き崩れるおっさんに話しかけた。
「おっさん、奥さんの名前、さくらさん?」
「なあんで知ってるんだよお!やっぱり探偵なんだなあお前らあ…金ならあるう!金ならあるからよお!頼むよお!さくらには言わんといてくれやあ!」
俺の胸ぐらを掴んで泣きながらすがりついてきた。女の方を見ると、ずっと携帯を見つめて時折笑っている。人生で稀に見るカオスであった。
「おっさん、この女とたまたま会ったって言ってたけど、デリヘル嬢じゃねえか!」俺は女を指差しておっさんに言った。
「なあんで分かったんだよお!やばいよお!怖いよお!助けてよお!」カウンターの上に置かれた名刺サイズの白い紙には、ピンクのペンで『今日はエロエロありがとう!楽しかったです!またお願いね!』と書かれてあった。俺は酒の飲み過ぎのせいもあり胃の中の汚物がこみ上げてきたが、酔っ払いのここ一番の気合いでそれを胃に押し込んだ。危うくおっさんとデリヘル嬢の綺麗に結ばれたその金髪に、今までの鬱憤や嫉妬や恨みや愛情の詰まった汚物をぶちまけるとこであった。キヨちゃんとバーテンダー揃ってこちらの行く末を見守っていた。
「おっさん、探偵としてはね、それは出来んのですよ。奥さんに言わないってのは、出来んのですよお」俺はそう言ってカウンターの名刺に手を伸ばした。するとおっさんは俺の手をガッと掴むと、俺を睨んだ。
「さくらから幾らで頼まれた。倍払うぞ、わしゃ」俺はおっさんの手を振りほどいた。
「5千円、頂こうか」おっさんはあっけに取られている様子だった。だがおずおずと黒い財布をジャケットの胸ポケットから取り出し、訝しげに1万円札を俺に手渡した。おっさんの焦る気持ちが怖いほど感じ取れた。デリヘル嬢はその光景を振り向いて見ている。俺は無言でそれを受け取り、キヨちゃんとバーテンダーの方へと歩いて行った。そして黙って立っているバーテンダーに1万円札を手渡し、キヨちゃんを見た。
「これで好きなだけ飲んでくれ。おやすみ」
そう言い残し、俺は項垂れている初老の男とそれを慰めようとするデリヘル嬢の後ろを通りバーを出た。初老の男はもはや紳士ではなくなっていた。俺はエレベーターの下矢印を光らせた。到着を待っている間、色々と考えた。正直、あんな格好良さはどうでも良い。ただの茶番だった。肝心なのは俺の愛する人、さくらの事だけであった。今手元にはノートも鉛筆も無い。さくらの心を癒す物語を書く事も出来ない。エレベーターの下から上に上がってくる光を見つめていると、膝から腿にかけて震えているのが分かった。覚悟を決めなければならない。謝らなければならない。作家でも名探偵でも酔っ払いでもない俺を見せなければならない。俺はエレベーターの前で跪き、鼻水と涙を垂れ流し、両手の平を合わせ初めて神に祈った。
俺に罰を下さい。俺に罰を。天変地異が起ころうと、俺は死ぬまでその罰を背負います。こんなクズ人間ですが、もう一度だけさくらに会わせて下さい。顔が、見たいんです。謝りたいんです。どうか、どうか、どうか、さくらに幸福を。俺に天罰を…
チン
エレベーターが開くと、そこには誰も乗っていなかった。
さくらの部屋の前に立ち、顔中の水滴をTシャツの袖で拭いてからドアを何度か叩いた。俺は無感情を装うのに疲れ果て、ありのままの自分という奴を装っていた。間も無くドアがガチャっと開き、さくらは何の感情も無い顔で俺を見ていた。それは無理の無い無感情であった。さくらの目は少しばかり腫れている様に見え、お互いに似たり寄ったりの顔をしていた。少し間を置いてからさくらが部屋に戻って行ったので、俺も後に続いて中に入った。部屋の中心にある真っ白いベッドには大量のシワが寄せられており、床のカーペットやベッド脇の三面鏡、至る所に缶ビールの残骸が転がっていた。さくらは窓のカーテンを開けてソファーにどさっと座り、「ねえ、ビール取って」と俺に言った。俺は言われた通りに冷蔵庫まで歩き、ラガーを2缶取り出してさくらの横に静かに腰を下ろした。同じタイミングで缶の頭頂部を弾いてから、乾杯もせずにふたりでラガーを啜った。さくらは疲れた様子でぐったりとソファーに背中を預けていた。俺は案の定何の言葉も思い出せないままラガーの赤い麒麟を見つめていた。
「ごめんなさい。怖かったの。とっても。今思い出しても怖いの。ごめんなさい」さくらが言った。
「俺も悪かったよ。あんな事は全部くだらない事だったのにな。くだらないんだよ」
「ねえ、失踪するってどんな気分?何かを一気に捨てるってどんな気分?私にはそんな事出来ない。別に勘太郎を今更責めてる訳じゃないの。ただ私に出来ない事だから。ねえ、どんな気分?孤独って」
「今考えると孤独はそんなに惨めったらしいもんじゃないよ。ただ失踪も孤独も馬鹿げてる。俺は馬鹿げてる事が好きなんだ。おそらくね。さくらの近くにいた友達のひとりがただの大馬鹿者だったってだけだよ」
「私も大馬鹿者になってみたい」
「やめとけよ」
見知らぬ土地の高級ホテルの一室で誰かと真夜中を共にする事はとても妙な気分だった。その相手は相変わらず何を考えているのか分からなかったし、おそらくさくらも俺が何を考えているのかわからなかったろう。お互いを傷つけ合い、酒で罪の意識を忘れるばかりか膨張させ、顔を合わせた時にはろくな会話も出来ない。これが世界中の男女の常なのかもしれなかったし、それだけは違うのかもしれなかった。男と女がセックス以外で共存する方法とは相手の優しさを上手く見つけ出してあげる事でしかないのかもしれない。それが出来ないのであれば世界中の男は性器を切り落とすしかなかった。性器の無駄使いはおそらく罪だろう。女と向かい合う時は愛を持っていなければ自分が潰されてしまう。この考えは昔から無意識に思い抱いており、それは今どこで何をしているのかも分からない俺の母親に対する恋しさから湧いているのだろう。異性への恐怖心は愛あっての感情なのかもしれなかった。
「さくら、俺と結婚してほしい」俺はさくらの手を掴んで言った。
するとさくらは肩を揺らして少し俯いた後に、手を叩いて大笑いし始めた。ソファーに倒れ込み、自分の腹を抑えている。さくらの膝が前のテーブルにぶつかり、ラガーが高級カーペットにぶちまけられた。俺はさくらにつられて少しだけ笑いながら近くにあった白い布でカーペットのラガーを拭いた。
「おいおい。こぼしてるよ。落ち着けって。そんな笑える事じゃないだろ。酔っ払い!」まださくらはソファーに顔を埋めて笑っていた。俺は新しいラガーを取りに行った。するとソファーからさくらが叫んだ。
「ちょっと!これで拭いたの?これ私のTシャツ!びしょ濡れじゃない!ああ!もう!最低!」
よく見るとさくらがラガーで黄ばんだ白いTシャツを持っている。そのTシャツには『Don’t Try』と胸にプリントされていた。俺はそれを見て笑いが止まらなくなり、エスニック柄のカーペットに倒れ込み、声を大にして笑い続けた。洗面所の方からはさくらが「この酔っ払い!」と叫んでる声が聞こえてくる。その声がまた酔っ払った笑いのツボを刺激し、連鎖的に全ての物事が笑えてくるのだった。さくらが洗面所から帰ってきた頃にはだいぶ笑いも収まり、また同じ位置にふたりで座った。
「ねえ、ちょっと外散歩したい」さくらが言った。
俺は、外は寒いから部屋で酔っ払っていようと言いかけたがすぐに押し殺し、ハンガーに掛けてあった紺色のさくらのコートを取り行き、さくらの後ろからコートを着させた。さくらは小さくありがとうと言い、俺も皮ジャンパーを羽織った。さくらがマフラーを巻き終わるのを待ち、ふたりで街へ出た。
街は数時間前と変わらず閑散としており、人気はほとんど無かった。なるべくチャオと歩いていた方向を避け、もっと静まり返った場所を求めて歩いて行った。それはチャオと鉢合わせてしまってはいけないという事ではなく、ただ単にさくらをもっとリラックスさせてやりたかっただけであった。もしチャオと鉢合わせてしまっても何も恐れるなどなかった。おそらくチャオは毎日バーに来た男と飲んでは街を歩いているのだろう。別れた後には皆他人なのだという強い意識が、チャオの目に表れていたように思える。そこがさくらとの決定的な違いであった。背の低いさくらは俺の腕に頬を寄せ、お互いの冷たい手を握り締めながら歩いた。ふたりとも震えていなかった。5分ぐらい歩いていると、かなり大きな川が目の前に見えてきた。その壮大で物静かな川の向こう岸には小さな山がぼんやりと見え、それに向かって真っ直ぐ続く橋の手すりは純粋な赤をしていた。昼間にその橋を見たらもっと違う赤に見えるのだろうが、個人的にはこの赤にとても魅了されていた。俺はこの橋をどうしても渡らなければいけないとでも言うように橋を渡り始めた。おそらくさくらも同じ使命感を感じていたのだろう。ふたりは無言で呼吸を合わせ小さな山に続くぶれのない宙に浮かぶ道を歩いた。さくらの手から小さな興奮を感じ取る事が出来た。橋を渡っている間、四方八方から聞こえてくる川の音に耳をすませた。水が岩に当たる音、魚が何かしらの理由で水面に顔を出した時の音。砂利が水中で転がる音。橋を支える柱によって分裂する水の別れの声。全てが一度に聞こえてくる。そのオーガズムは一瞬ではなく、ここに自分が存在し続ければ永遠に味わう事ができるのだ。東京の荒んだ生活や酔い、愛とは無縁な物事だけがこの川の流れに沿って下流へと流れて行くのであった。橋を渡り終える頃、俺の心にあった邪念供は消え、さくらを抱きしめていた。さくらもまた俺を抱きしめ、男女というふたつの国の小さな戦争にけりがついた事を感じた。すると、おそらく目の前にある森の中から懐かしい香りが風によって流されてきた。それは幼い頃に家の中で嗅いだ事のある香りで、しばらく思い出せないでいたがさくらによってその匂いの源が分かった。
「お線香の匂い。私、お線香の匂い好きなのよね。なんだか懐かしい。こんな自然の中で嗅いだ事なんて今まで無かったわ。癒されるわね」
「癒されるな。本来こういう場所で嗅ぐ事ができるんだろう」
「そうね。何だかとても東京に住んでる自分が小さく感じてくるわ」
「そういうもんだよ。都会に住むってことは。いろんな便利の中で盲目になる事は良くある話だよ。昔から。まあ田舎に住んだからって何が変わるかなんてたかがしれてるけどさ。要はノスタルジーをどこで感じるかだよ」
「そうかな。私は実家に帰るとやっぱり田舎がいいって思うわ。どこに住むかで大きく変わるものよ。結局ノスタルジーなんてどこでも感じるわ」
「そうだな」
「何か聞こえない?」
耳をすませてみると、山の中からうっすらとお経らしきものを唱える声が聞こえてきた。線香の香りで掻き立てられた安堵感と好奇心に揺れた俺とさくらはその声のする方へ歩きだした。橋から森の中に続いている乱雑な道らしき道を歩いていくに連れ、お経は鮮明に聞こえるようになってきた。橋のところではひとりで唱えられていると思っていたお経は、ふたり、3人、4人、それ以上の数の人間によって唱えられており、まるでひとりで唱えているかのよな見事なお経であった。しばらく歩くと、よく曲がる乱雑な道の終わりには両脇に苔の生えた石垣が連なる一本道が続いており、10メートルほど行ったところには寺の門が見えた。少し前の季節に葉を散らしてしまった何本もの木たちが石垣の真上に伸びており、ここを通らなければ決して寺の中には入る事が出来ないという使命感が俺を歓喜させていた。さくらの様子を見ると顔には不安の表情が浮かんでおり、確かに、見る人によっては不気味に映ってしまうのかもしれない。宗教とはそういうものなのかもしれなかった。「もう帰る?」と俺が聞くと「いや、もう少し行きたい」とさくらが言ったので門の下まで歩いて行った。その高く堂々と構える門は至る所に木の老いを感じさせる割れ目があり、両脇には漢字が書かれた薄い木の板が打ち付けられてあった。中からは何重にも重なるお経が力強く響いていて、線香の香りも先程より強く感じる事ができた。門のから覗く向こう側の世界には、白い砂利の敷かれた広場が広がっており、門から一直線に石畳が続いていた。その先の闇に目を凝らすと、薄っすらと灯りの灯った本堂らしき建物が見えた。
「中に入りたい。でも、少しだけ、怖い」さくらが少し握っている手に力を込めて言った。
「そうだな。分かるよ。でも、このお経。声達。人の人生を一瞬でひっくり返しちまいそうだ」
「いいのかな。入っても。きっとあそこで唱えているのね」
「お互い悲惨な夜だったんだ。ここでこのお経を聞いてるだけでも救われるよ」
「今晩わ」
俺とさくらは一斉に後ろを振り向き声の見知らぬ声のする方を見た。そこにはひとりの僧侶が立っており、俺とさくらをじっと見据えている。初老の僧侶は俺たちに笑いかけもせず、怒りの感情も無いようであった。俺達は「今晩わ」と軽く会釈をして、押し黙った。僧侶は何も言わずにただ俺とさくらを見続けた。俺は急に自分が酔っ払っている事を思い出し、その僧侶を見る続ける事が出来なくなった。俺が今まで犯してきた罪たちが体からすり抜け目の前の僧侶の目に次々と入っていく様に感じる。あの壮大な川に全ての罪を投げ捨てたつもりでいたが、そんな事などできるはずもなかったのだ。甘え。弱さ。無力。無価値。落ちこぼれ。俺は得意の被害妄想を発揮し、段々と気分が落ちていくのが手につかむ様に感じ取れた。スピード感がまるで違う。落ち込んでいくスピード感が。
「おふたり、中に入らないのですか?」僧侶が言った。
「いや、でも、私達、お酒飲んで酔っ払っているので」さくらが申し訳なさそうに言う。
「そうですか。酒に敵意などありません。いけないのは酒に飲まれる心です。あなた、相当飲んでおられる様で。中で水でも飲んでいきなさい。ここで追い返す訳にはいきませんので。何かの信仰心があってここに辿り着いたのでしょう。さあ、どうぞ」僧侶はそう言うと俺とさくらに初めて微笑みかけた。その笑顔は何とも言えない哀愁のある顔で、暗闇でもその顔に優しいシワが浮かび上がっているのが分かった。俺とさくらはその僧侶に連れられ、門を潜って中に入った。
石畳みを進んでいると、門から見えた横に広がる建物に近づいてきた。その中には、およそ50人前後の僧侶達が正座をして何列かに分けて並び、目を瞑り、両の掌を合わせ、僧侶達の前方にある金に輝いたお釈迦様に向かいお経を唱えていた。しかし、何年の唱え続けているのであろうその枯れた声達は一直線にお釈迦様へと向かっているのではなく、その建物内の空間全てに反響していた。枯れた声の振動は空間を揺らし、本堂を揺らし、隣の僧侶を揺らし、気を揺らし、砂利を揺らし、橋を揺らし、川を揺らし、橋を渡っていた俺とさくらをも揺らしていたのかと思うと、彼らの偉大な底力に心を打たれた。一糸乱れぬその声を間近で聞いた俺とさくらはただただ呆然と立ち尽くしていた。ひたすら忘れたい事を忘れられずに酒を飲んだ頭でも、この光景が夢でない事が分かった。普通は夢の様な異世界的光景と思うのだろうが、ここまで間近に感じる事ができるとそれもまた現実感が増していくのであった。立ち止まっている俺とさくらに気が付いたら僧侶が振り返って言った。
「これは般若心経です。若いおふたりに言うのであれば、存在の真実を見出だしなさいという事です」そう言うと、僧侶はまた歩き出した。
僧侶に連れらて古く小さな小屋の様な建物に入っていくと、そこにはストーブが点けられており部屋中が暖まっていた。中は7畳ほどの和室で、壁に感じの書かれた掛け軸と、湯飲み茶碗が数個に茶っ葉と湯沸かしポットがあるのみであった。部屋は薄暗くはあったが僧侶の顔ははっきりと見る事ができた。初老と思っていた僧侶であったが実際に明かりの下で見てみるとかなり顔にシワがあった。僧侶は沸かしたお湯を茶碗に入れて俺とさくらのそれぞれに畳を滑らせて置いた。茶っ葉は入れてもらえなかった。俺とさくらは礼を言い、お湯を静かに啜った。
「そのお湯、味がありますか」唐突に僧侶が言った。
「お湯の味がします」さくらが言う。
俺は一瞬、相手を試す様なその問いに嫌悪感を覚えたが、顔には出さず黙っていた。
「そちらは?」僧侶は俺に言った。
「茶碗の味がします」
「そうですか。茶碗の味ですか」僧侶は静かに笑った。「私が出家して間もない頃、ある僧に同じ事を聞かれました。当時18歳の私は無知で、その人を試す様な問いに内心怒りを覚えました。それで相手の望む答えよりももっといい答えを言おうと探したのですが、見つかりませんでした。考えれば考えるほど時間は過ぎていき、私はその僧に挙げ句の果て笑われてしまいました。考える時間よりも感じる時間の方が明らかに早く決断する事ができる。故に間違いを起こしてしまう事も多々ある。おふたりは酒を欲する時に考えないでしょう。そして感じる事も無いでしょう。それでは儚い命もさらに儚くなってしまう。大切にしなさい」僧侶はそう言うと自分の茶碗を口に付けた。
俺とさくらは黙ったままだった。これに反論する事は無意味だったし、それこそ、感じるままに僧侶の言葉を胸に留めた。少し離れた本堂で今だに唱えられている般若心経に耳を傾けた。いつまでも聞いていられる声と、傷ついてボロボロになった心を癒す線香の香りに身を委ねて俺は目を瞑った。そして隣に座っているさくらを強く意識した。「存在の真実を見出す」と心の中で一度呟き、俺はさくらへの愛をひらすらに感じていた。隣でさくらは確かに生きていた。生命の鼓動を感じ取る事が出来たのだ。
「お坊さん、私、知らないうちに好きな人を遠ざけてしまうんです。気付いたらいなくなってるんです。それって、なんて言うか、私に愛が足りないんですよね。きっと」さくらが泣きそうな顔で僧侶に言った。
「いいえ、愛に大きさはありません。愛が少しでもあるのなら、後は相手次第です。相手が気付けないのであれば、相手の方がもう少し成長する必要がありますね」僧侶はそう言って俺の方をわざとらしく見た。俺は目をそらして茶碗のお湯を啜った。
「愛こそ全てです」僧侶は優しい笑みを浮かべてさくらに微笑んだ。相手に何の不快感も与えない、優しい微笑みで。さくらを見ると大きな目で嬉しそうに微笑んでいる。さくらが俺を見ると、俺も静かに微笑み返した。
「帰るか、さくら」俺は茶碗を僧侶に返した。「お坊さん、ご馳走様でした」続いてさくらが礼を言った。僧侶は微笑んでいた。
俺は立ち上がろうとすると、長い間正座をしていたせいで痺れきったふくらはぎが硬直し、よろめいたと同時に後ろの壁に後頭部を打ち付けた。その瞬間壁に蹴られていた掛け軸の下からふさっと、正方形の薄い物が倒れた。さくらが掛け軸まで行きそれを手に取り持ってくると、それはレコードであった。カラフルで、豪勢な海外の有名人たちが並んでいるジャケット。下の方には福助人形がチューバの隣で項垂れていた。これは中学生の頃に友達から借りたいくつものCDの中にあったのを覚えている。それから何回も何回も繰り返し聴いた事も。さくらはきょとんとした顔でそのレコードを眺めている。愛こそ全てとはそう言う事か。宗教もロックンロールもただのジャンル分けのための言葉だな、と俺はふっと笑った。僧侶を見てみると、正座をしたまま目を瞑って黙想をしていた。俺はさくらからサージェントロンリーハーツクラブバンドのレコードを受け取り掛け軸の裏の元あった場所にそっと置いた。俺とさくら小屋を出た。外はほんの少しだけ暗闇が薄れ、寒さが一層増している気がした。気付けば般若心経を唱える声も聞こえなくなっており、辺りは余計に静寂だった。さくらはまだにこにこと微笑んでいる。俺達は寺の門を抜け、森を抜け、橋を渡り、ホテルにたどり着いた。さくらは部屋に入るまで終始嬉しそうに微笑んでいた。
「おやすみ」俺は言った。
「おやすみ」さくらが言った。
ドアが閉まり、長い夜がやっと終わった事に気がついた。俺は少し離れた自分の部屋まで鼻歌混じりににやにやしながら歩いていった。
「おーるにーでぃーずらーぶ、とぅっとぅとぅるとぅう」
「おはよう」「おはよう」「おはよう」
俺達はロビーでお互いの顔を確認してからチェックアウトの手続きをしにカウンターに向かった。ふたりの顔はぱんぱんに浮腫み、アルコールと寝不足に一晩中殴られていたと思わせる顔だった。それでもふたりは女性である。化粧をし、髪を巻き、香水をつけていた。キヨちゃんの髭も乱れる事はなく、大きく膨らんだ腹も健康そのものであった。言わずもがな、俺が一番健康とはかけ離れた顔をしていた事だろう。しかし、3人で行動を共にしているのだから匂いは連帯責任である。昨日、あんなに麗しい笑顔を俺達に振りまいてくれたカウンターのお姉さんの目も泳いでいた。部屋のキーを受け取る彼女の手は震えている。おそらく、彼女もまた酒飲みなのだろう。根拠は無いが、香りが同じである。そんな事を考えている間にチェックアウトの手続きは終わり、我々は無駄口を開かずアルコールの匂いとカウンターのお姉さんだけを取り残してホテルを後にした。キヨちゃんが運転席のドアを閉めキーを回すと、エンジンはうんざりそうに掛かりベンツ内に籠もった強烈な酒の匂いを冬の宇治の街に吐き出そうと躍起になっているように思えた。キヨちゃんに後どれくらいで尾道に着くのかと聞くと、「4時間前後ね」と答えた。キヨちゃんの声は快調に聞こえ、俺が屋上のバーから出た後何か楽しいことでもあったのかと聞きたかったが、さくらが話しかけてきたので聞けなかった。
「もうすぐね!勘太郎あんた臭いよ。お風呂入ってないでしょう」俺は今朝アルコールを飛ばすために冷水のシャワーを浴びていたが、答えなかった。「それより、赤い亀の銅像の公園にいるんだっけ?圭一さん」
「いや、まだそうと決まった訳じゃない。公園に着いたら聞き込みだ。散歩してる主婦から遊んでるガキンチョまで聞いて回ろう。それと、昨日街で赤い亀のタトゥーを入れた人を見つけたんだ。その人が言うには赤い生き物ってのは幸運を呼ぶらしい。まあ、そのタトゥー自体は失踪に何の関係もないだろうな。俺が思うに失踪男はただ単に赤い亀の銅像に恋してるロマンチックで少し頭のおかしな大金持ちだ。大金持ちはみんなきっと銅像に恋したがるんだろうぜ。ほら、よく何千万もする無価値な銅像を血走った目で我先にと落札したがるだろ?奴らは。俺もこれからは銅像を見つけたらロマンチックなプレゼントでも渡す事にするか。はは。さあ、さっさと失踪男を捕まえて尾道で一杯やろう」俺は言った。
「何、勘太郎、随分探偵気取りじゃん。次はミステリー小説でも書くつもり?」助手席から顔を覗かせてにやにやしながらさくらは言った。
「勘ちゃんは名探偵よ。さっちゃん」きよちゃんが言った。「聞き出し調査が上手いこと上手いこと」そう言ってキヨちゃんはルームミラー越しに俺を見てきたので、俺はキヨちゃんの目が映らない位置まで腰を下に滑らせ、いつでも眠れる体勢に入った。
高速に入ると、ベンツは機嫌を取り戻したらしく快調に進み、窓からは小さな山並みがゆっくりと流れていた。近くの山は滑る様に。遠くの山は流れる様に。高速道路の地面は静止している様に。横の車は浮いている様に。俺は進んでいない様に。俺は時速120キロで進んでいる様に。アルコールはまだ俺の体内をのさばり続けた。天気は悪くない。前には大きな雲が空に張り付いていたが、あんなものはこの手で取り払う事ができる。そう。いつでも天気は俺の思い通り。全て上手くいく。全て上手くいく。全て上手くいく…頭の中で擬人化した眠気が俺を遠くから眺めていた。
「勘太郎!勘太郎!はい。あんたが欲しがってたやつ」
さくらが俺の前に茶色い塊を突き出していた。俺は無意識にそれを受け取り礼を言った。アメリカンドッグの香ばしい香りがベンツの中を彷徨っている。車は動いている様子が無く、どこかのサービスエリアに停まっているらしかった。前に座っているふたりはソフトクリームのコーンを齧っている。
「もう広島よ。後30分ぐらいで着くから名探偵の準備しといてね」さくらが言った。
「そっかそっか。もう広島着いたのか。名探偵の準備しなくちゃな」俺は固まった腰を浮かして伸びをしながら言った。「何んだか悪いな、俺だけアメリカンドッグなんて」
「あたし達さっき尾道ラーメン食べたから気にしなくていいのよ」キヨちゃんがそう言ってから、俺はアメリカンドッグにかぶりついた。
キヨちゃんと運転を交代し、俺は尾道までの道のりを一気に走り抜けた。尾道市に入り間も無く高速道路に別れを告げ、目的地の赤い亀の銅像がある千光寺公園に向け尾道市内を走った。道はいちいち狭く、曲がりくねり勾配だらけであった。しかしその道の両脇にあるのは古い民家ばかりで、道の困難など気にも止めないほど心をきつく締め上げられる感覚を感じた。これはただ田舎に来たから感じるあの懐かしさでは無く、宇治とは違ったノスタルジーは腹から湧いて聞かないのだ。車の時計は14時35分を表示していて、尾道の空にある疎らな雲もこの町もまた夕方に入る準備をしている様だった。
それから数分走っていると、やがて千光寺公園の看板が現れた。車内の誰もが意外にも落ち着いていて、当たり前の様に車は山に入り、上へ上へと登って行った。車も疎らな駐車場にベンツを滑り込ませてからエンジンを切った。外に出ると、我々は潮風に揺られながらぼんやりと歩き始めた。目の前に道があれがそこを歩き、別れていればどちらかを選んでまた歩いた。
「ねえ、大きな川がある」さくらが言った。
「あれは海だよ。ほら、奥の瀬戸内海に続いてるだろ。向こうにある島々を囲んでる。島が独立してるというか、海がそうさせてる様な。なんかいまいち上手く言えないけど」
「こうやって眺めないと分からないわよね。自分たちが島国住んでいるなんて分からない」キヨちゃんが言う。
「ほんと。私きっと東京に閉じ込められてたのね」さくらが呟いた。
俺は瀬戸内海へと続く大きな川の様な海を眺めながさくらの言葉を考えた。東京に閉じ込められるとはどういう事か。俺達は自らの意思で東京に住み続け、街を歩くいくつもの冷ややかな目や満員電車の不快感を敢えて受け取り、不平不満を酔いに変えながら生きている。そう思っているのは俺だけなのかもしれなかったが、現に田舎へやってくる都会人は皆口を揃えて「やっぱり田舎はいい」と漏らす。それはたまに来るからいいという事なのだろうか。全く理解ができないが、ここに住む人達にとっては俺の事も理解できないのだろう。それでいいと自分自身思っていた。何せ東京に閉じ込められているのだから。この山のどこかか、下に見えるあの街のどこかからか、鳥の鳴き声が聞こえる。いくつもの島に海がぶつかる音も聞こえてきそうで、俺は目頭が熱くなるのを感じた。と東京に住んでいる人間が悪いのではないが、やはりハリボテをこれ以上東京に増やす事はどこまでも愚かで、何の芸術的な生産性も無い事がこの街と音を感じることによって良く分かった。東京に自ら閉じ込められている理由のひとつとして、いろんな人に出会い刺激し合える環境が欲しかったのかもしれない。きっとそうだった。そうする事によって自分の才能が目覚めると。しかし、そんなものはこういう自然の中で容易に見つける事が出来た。今でも俺の心の中にはふつふつと言葉が湧き踊っていた。嫌なら一度失えばいい良いといういつかの死んだ作家に倣って、俺は無理やり東京に閉じ込められるのは辞めようと決意した。さくらの考えているのか考えていないのか曖昧な言葉にはいつも救われている。そしてそのさくらを失ってまた戻る時にはいつも何か素晴らしい物を得ていた。さくらを失わずして素晴らしい物を得るにはさくらの言葉を純粋に、曲げずに受け取るしかないだろう。そう。あの川の様な海も海の様な川なのかもしれなかった。
道に沿ってしばらく狭い小道を歩いていると、木で作られた乱雑な階段が5段ぐらい上に続いているのに気がついた。その階段を登ると、少し開いた場所に出た。その開けた場所の真ん中には、俺達が望んでいた物が静かに置かれていた。俺達はそこまで歩いて行き、思ったよりも小さい赤い亀の銅像をしばらく眺めた。銅像は潮風に吹かれ錆びており、所々めっきが剥げていた。銅像は直径20センチほどしかなく、亀の置かれた腰程にもある長方形の石が無ければ気付けなかったろうと肝を冷やした。
「思ったより小さいわね」キヨちゃんが言って、さくらが頷いた。
「失踪男、いないな」俺は辺りを見渡して言った。
辺りには人の姿は見えず、ただ海の方から船の汽笛が響いてきた。
「まあ、いないって思ってたわ。かんちゃんの言う通り人に聞いてみましょ」キヨちゃんは言った。
銅像の脇には一言、「赤い亀の像 昭和二十年 七月 九日」とだけ掘られた木の板が地面に埋められており、説明のひとつもそこには無く、この時点での手掛かりはゼロであった。
しばらく銅像の前でだらだらと立ち尽くしていると、俺達3人以外の人間の声が聞こえてきた。その声の方に目をやると、さっき俺達が上ってきた階段の前でひとりの老人が訝しげにこちらを窺いながらながら奇妙な言葉を唱えていた。それは日本語である様な英語である様なロシア語である様な言葉で、我々は瞬時に身を構えた。その老人は左右に軸の足を変えながら、右に左にゆらゆらと揺れている。我々と老人までおよそ5メートルも離れていなかった。臭いはきつく鼻を突き、真冬だというのに紺色の半ズボンを履いている。その半ズボンに乱雑に入れられたシャツは黄ばみ、ロングコートもやはり穴だらけの代物であった。さくらとキヨちゃんは露骨に嫌な顔をしていたが、本人達はそれでも必死に彼の臭いに耐えていたのだろう。俺はその老人の元まで歩いて行った。近くで見る老人の目は虚ろで、黒目の大半が白濁としていた。俺を見つめている様な、さくら達の方を見ている様な、ぼんやりとした視点でどこかを見ている。俺は相手を刺激しない様務めて尋ねた。
「こんにちは」老人の返答は無い。「山崎圭一という人を探しているんですけど、知りませんよね」やはり返答は無く、ただ左右に揺れながら呪文を唱えるのみだった。
後ろを振り返るとさくらとキヨちゃんが心配そうにこちらを見ていた。宇治の寺で聞いたお経とは違い、彼の不可思議な言葉には人を不安にさせる音が散りばめられていて、俺はいてもたってもいられずふたりの元に歩き出した。同時に老人の不快な呪文は止まった。
「わしんとこに来んさい。わしんとこに来んさい」
俺が老人の方へ振り返ると、老人は呪文の代わりにその言葉をひたすら繰り返していた。
「わしんとこに来んさい!わしんとこに来んさい!」老人はそう言い続けながら階段を下り始めた。
俺は無心を装いながら老人のすぐ後について階段を下りて行った。後ろではふたりの足音が続いているのが分かった。
少し歩いていると、他の木よりも飛び抜けて立派な大木の前にたどり着いた。大木の下にはキャンプに使う道具が一式揃っており、そのどれもが無残に見えた。水を沸騰させる為に使うのであろう鉄の容器は所々へこんでいて、その下にあるバーナーには小虫が集っていた。ひっそりと設置されたテントには穴が空き、雨など到底防げないだろう。老人はまた何やら訳の分からない言葉を連ねながらそのテントの中に入って行った。
「ついて来ちゃったね」後ろからさくらが言った。
「なんでついて行ったのよかんちゃん」キヨちゃんが言う。
「ついて来なかったら俺達呪い殺されてたろうよ」
「でも、あのおじさんこんな暮らし何年してるんだろうね。なんだか私こういうの駄目なの。心が一気に沈んでしまうの。勘太郎、私がいてよかったね」さくらは泣きそうな顔で俺に言った。
「ああ。今とんでもなく感謝してるよ。とりあえず、おっさんにもう少し聞いてみよう」
「でもやばいって。かんちゃん。あたし達食べられるのよきっと。あれは呪いの呪文よ。黒魔術よ。」キヨちゃんも泣きそうになっていたが、それを聞いて俺とさくらは少し笑った。辺りはすでに薄暗くなり始め、木々の隙間から海沿いにある街の光がちらついていた。不安な俺達に今安心できる光があるとすればそれぐらいだろう。
老人はすぐにテントから出て来た。手には小さな木の桶を抱えている。俺達を呪い殺す呪文は唱えていなかった。老人は俺の目の前で止まった。その目は先程までとは違いしっかりと俺の目に視点を注いでいた。その白濁とした目の中に感情を見つけ出す事は誰にも出来なかっただろう。桶の中で小さな生き物ががしゃがしゃと動いている。そのか弱い生物は爪を桶に引っ掛け、首をこれでもかという程に伸ばし外へ出ようとしている。甲羅にはまだ艶があり、見惚れてしまうほど優しい緑をしていた。その小さな亀はおそらく産まれたばかりなのだろう。水が少し入っているだけの狭い桶の世界で必死に母親を探していた。さくらとキヨちゃんも俺の後ろから覗き込んでいた。
「あんたが探しとるもんよ。あんたが。あんたらが。見つかったのお。良かったのお」老人が足を左右に揺らしながら言った。
「ミドリガメだ」俺はそう言った後に、さくらが「小さい。可愛い」と声を漏らした。
「おっさん。この亀まだちっちゃいよ。かわいそうだよ。逃がしてやんな。ほら、母ちゃん探してんだよ」
「いんや、これがあんたらの探しとるもんよ」老人は小さな亀を見つめながら言った。老人は悲しみの底にたどり着いた時に見せる人間の顔をしていた。
俺はこの狂ったホームレスがどこかで捕まえて来た産まれたばかりの亀を、俺達に自慢する為だけにここへ呼んだのかと考えると怒りが心で湧き上がり、やり場の無い倦怠感を感じた。俺は桶に入った小さな亀を見つめた。桶の側に登ろうとした反動で後ろ向きに倒れ、甲羅を地面にしてもがいている。しばらくすると亀は頭と足を器用に使い自力で起き上がる事が出来た。老人もその光景を見ていて、先程よりも一層顔に悲しみの果てが滲んでいた。俺がまた桶に目を戻すと、桶の向こうに老人の足が見えた。半ズボンから出たこれでもかという程に細い太腿が。俺はその右の太腿に、薄暗闇の中で赤い模様を見つけた。俺が少し老人の右側に回り込みその半ズボンからはみ出た赤い模様を目を凝らして見ると、それは宇治で会ったチャオの腰に入っていた亀のタトゥーと全く同じ物であった。俺は一瞬の内に色々と今までの事を思い起こしたがやはり脳はついてくる事が出来なかった。
「おっさん、このタトゥー…よく見せて欲しいんだけど」老人の無言で桶の亀を見つめている。
俺は老人の右足を前にしゃがみ込み、恐る恐る半端を上にめくり上げた。キヨちゃんが「ちょっと!」と叫んでいる。タトゥーの全体を見て、俺は老人に問い詰めた。
「俺、昨日京都で全く同じタトゥーを入れてる人を見たんだ。一体なんなんだ?この赤い亀のタトゥーは。チャオって女知ってるだろ?おっさん。彼女は赤い生き物は幸福を呼ぶって言ってた。そんで亀は縁起がいいって。どういう繋がりなんだ?山崎圭一って誰だ?どこにいやがる!」俺は興奮していたが、酒はすでに抜けていた。
「落ち着いて。勘太郎。でもなんか関係あるわよね。絶対。おじさん。もし知ってたら教えてくれませんか?山崎圭一って人の事。知らなかったらいいです」さくらが俺の背中をさすりながら泣き出しそうに言った。
「何も隠さんよ。何も隠さん。この刺青は釈迦の遣いじゃけえ、我々を守って下さっとんよ」老人は言った。
「我々?」キヨちゃんが聞いた。
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「お兄さんの言う通り、そろそろ赤亀様に返してやらんとね。探し物をずっと手元に留めておく事なんて、人間出来んのじゃけえ」老婆はそう言って目を瞑った。
目を瞑ったままの哀れな老婆は半ズボンに右手を突っ込み錆び付いた小さな鈴を取り出した。俺達は黙ってその鈴を見ている。老婆は素早くその鈴を一回前後に振り、ちりんと音を鳴らした。その音は見た目から想像できない程によく響き、それはどこまでも遠くに飛んで行った。森を抜け、瀬戸内海を渡り、おそらく九州の方まで届いたんではないだろうか。それから老婆は鈴を振り続けた。そして歌った。それは呪いの呪文ではなく、清く研ぎ澄まされた日本語であった。古い、古い、日本語であった。亀は桶の中で静かになった。おとなしく、首を少しだけ甲羅に引っ込め、老婆と俺の様子を交互にうかがっている。老婆は鈴を鳴らし、歌い、そして森の中に歩き始めた。俺達もそれに続いた。森の中に入り、急な勾配をゆっくり下って行くと、微かに川の流れる音が聞こえて来た。直ぐ近くにある事は分かるが、それでもその音は小さく繊細なものだった。祈りを歌う老婆を先頭にさらに下って行くと、細くひっそりと、申し訳なさそうに流れる川が見えて来た。その川の周りには年老いた男や女が5、6人集っっていて、下ってくる俺達を見上げている。川の周りにいる老人達は老婆の声に合わせて共に歌っていた。彼らの目の前まで降りてくると、彼らの風貌や異臭が老婆と似たものである事が分かった。彼らは老婆が鳴らす鈴の音に合わせ歌いながら、亀の入った桶をひとりひとり手渡しして回した。彼らの顔には悲壮が滲み出ており、誰もが勇ましく、凛々しく見えた。桶がひとりの老人から老婆に手渡されると、老婆はゆっくりとしゃがみ、右手で亀を掴み上げた。その時ひとりの別の老婆が泣き出したが、祈りの歌は止まなかった。亀は老婆の手の中でしばらく暴れまわっていたが、直ぐに諦めて静かになった。老婆は左手の鈴を地面に置き、両の手で亀を包み込むと、その手をゆっくり細い川に伸ばした。老婆の器状になった手の甲が川の水に付けられ、静かにその手は沈んでいった。両手の器に水が入り、亀は前足と後ろ足を甲羅から出してゆっくり水を掻き始めた。そして老婆の手の中が川の冷たいであろう水でいっぱいになると、亀はするりと老婆の両手から溢れ、冷たい川の水面に浮かんだ。亀は水を掻く力が足りず、浅い川の中に沈んでいってしまった。そしてそこにいた誰もが泣いた。俺も、さくらも、もちろんキヨちゃんも。祈りの歌はそれでもなお続けられた。この土地は夕方の終わりを迎え、寒さも暗さも増してきていた。俺はふたりに向かって言った。
「そろそろ行こう。暗くなってきた。もう、充分だよ」
「あたし、もう少しここにいるわ。もう少しここにいたい。大丈夫よ。あたし大丈夫。探してたんだもの。これを。見つかったんだもの」キヨちゃんが小川を見つめたまま言った。「先に車で降りてて。まだバスあるからあたしは大丈夫。今は知ってる友達が隣にいられると困るの。作家なら分かるでしょ?」
「分かるよ。分かる。友達だもんな。そういうもんだ。そしたら行くよ。また後でな」俺はキヨちゃんに言った。
「またね。大丈夫よキヨちゃん。またね」心配そうにさくらが言う。
「またね」
キヨちゃんは泣き虫だ。そしてずるい。過去を見てみると、愛される人間というのはいつも泣き虫だった。そして素面だった。俺のジェラシーに相手の価値で決まるものではなかったらしい。相手が最低な奴でも、最高な奴でも、俺のジェラシーは燃え盛るのだった。意味も無く、燃え盛っていた。
それから俺とさくらはベンツまで歩き、キヨちゃんを千光寺公園に残して街中に戻って行った。さくらの心は強かった。今さっきの出来事について何も口を開かず、黙って助手席に乗っていた。俺はといえば何かと先ほどの光景に思いを巡らせている。しかしそのどれもが空っぽで、あの小さな亀ほど大きい意味を持つ言葉は無かった。民家や店の明かりに安心感を感じながら、俺は尚も考えた。命と言葉のつなぎ目などあってたまるかと。
車を旅客船の駐車場に停め、俺とさくらは瀬戸内海に続く海沿いを歩いた。左側には道路を挟んで民宿街が続き、夜道を明るいほどに照らしていたが、右を見ると直ぐそこには海があり、それは黒くどこかの明かりを浮かび上がらせていた。民宿から出てきたふたりの酔っ払いが俺達に向かって何か叫んだ気がしたが、俺達は無視して歩き続けた。時々海からはぽちゃんと魚が跳ね、その度にさくらは体を震わせた。しかし俺にはその魚の跳ねる音が心地よく、次はいつ跳ねるだろうと待ち望んだ。人間以外の生き物の音なら何でも心地よく聞いていられる気がしたのだ。俺はジーンズのポケットからウィスキーの小瓶を取り出してひとくち飲んだ。それをさくらに渡すと、さくらもぐっとひとくち飲んだ。
「キヨちゃん、今バスで街に向かってるってメール入ったよ」さくらが言った。
「そっか。落ち着いたんだろうか」
「落ち着いたのね」
「早くキヨちゃんにも一杯飲ませてやりたいな」
「そうね。こんな夜なんだものね」
「そうだな」
「勘太郎の口癖。こんな夜だもんな」
「そんな口癖俺には無いだろう」
「あるのよ」
「そうか。我ながらいい口癖じゃないか」俺はまたウィスキーを呷った。
「私にも」俺は小瓶をさくらに渡した。
「こんな夜に言うのも何だけど、君が好きだよ」
「ふうん。そんな事より明日は橋を渡って四国に行きましょうよ」
「そうだな。明日は四国だ。明日は天国の上を横断しよう」
「もし、私が明日亀になったらどうする?」
「ポケットに入れて持ち歩くよ。餌をあげて、たまにウィスキーを飲ませて。俺が死ぬまで持ち歩くよ」
「亀は水がないと死んじゃうのよ」
「亀の種類によるだろ」
「私ほんとはウィスキー嫌い」
「ならビールをさくらの入ってるポケットに流し込むよ」
「私も勘太郎が好き」
ブラックニッカは底をついた。それから俺とさくらは酒屋に入った。爺さんがひとりでカウンターに座っていて、「もう閉めるよ」と言った。俺はウィスキーの棚の前で悩んでいた。ブラックニッカか、ジャックダニエルか。俺は悩んだ挙句ブラックニッカを掴んだ。さくらが「意気地なし」と言って笑った。俺はブラックニッカの会計を済ませ、ふたりで店を出た。店を出ると、冷たい北風が俺らに当たり砕け散った。俺はその瞬間、次に書く小説の題名が浮かんだ。俺はそれをさくらに伝えると、さくらはにっこり笑った。
俺はブラックニッカの蓋を開けてひとくち飲んだ。それからもうひとくち。海で一匹の魚が勢いよく跳ねた。俺は恥を海に捨て、大笑いした。
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