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葉月①
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シフォンのシャツが風に揺れ、祐奈の肩のラインがくっきりと浮かび上がる。葉月はどきりとして咄嗟に視線を家々の並ぶ通りへと泳がせた。まだ四月だというのに気温は二十八度にまで上昇し、葉月の肌には汗がじっとりと滲んでいる。
「わあ、今のいい風。それにしても今日は暑いわね」
太陽の日差しを遮るように祐奈は左手をかざした。けれど、その肌からは汗の気配など微塵も感じられない。
「本当に」
こたえて葉月はバッグからペットボトル入りのお茶を取り出し、キャップを回す。
「瑠衣ちゃん、新しいお友達できた?」
立ち止まってのどを潤している葉月を振り返って、祐奈は訊ねた。口に含んだ液体を飲み下したあとで
「どうだろう。何人かの名前は話に出てくるけど。雫ちゃんは?」
僅かに首を傾げながらこたえた。
「まだ特別仲のいい子はいないみたい。相変わらず男の子たちと一緒にやんちゃしているらしいわ」
「元気でいいじゃない」
「そうねえ」
祐奈は困ったとでも言いたげに、眉尻を下げて愁いを帯びた表情をして見せた。
青い塗装が所々剥げている小学校の門をくぐり、一年生の昇降口へ向かった。持参したスリッパに履き替えて、葉月と祐奈は揃って一年二組のクラスに入る。既に何人かの保護者が教室の後ろに立っていた。子どもたちは誰かが教室に入る度にこちらをちらちらと振り返り、どうにも落ち着かない様子だ。
「一年生って感じね」
祐奈が小さく笑いながら葉月に耳打ちをすると、春の甘い花のような香りがした。葉月は声を出さずに二度頷く。こんなに小さな子どもたちが席について授業を聞いている。それだけでも十分にすごいことだ、と葉月は感心してしまう。
「瑠衣ちゃんと近くの席でよかったわ」
再び祐奈の顔が近づき、今度は
「本当に。心強い」
と、ごく小さなボリュームでこたえた。『うたにあわせてあいうえお』の音読が始まると、祐奈の視線は雫を捉えて離さなかった。だから葉月も瑠衣だけを見ようと努めた。
葉月の娘の瑠衣と祐奈の娘の雫は同じ幼稚園出身だ。年長のときに初めて同じクラスになり、小学校が同じ学区であることがわかって急速に親しくなった。実は葉月は祐奈のことを入園式の日から認識していた。なぜなら長身で目鼻立ちのくっきりした祐奈は美しく、着飾った保護者たちの中でも一際目立っていたからだ。目尻の泣きぼくろがそうさせるのか、圧倒的な色気を放っていて、葉月はつい見とれてしまった。だから祐奈から声をかけられ、連絡先を聞かれたときは飛び上がりたくなるくらいうれしかったし、実際初めてのメッセージが届いたときには小さくジャンプした。
普段座ってばかりの生活をしているせいか、立って同じ姿勢を維持することに疲れてきた。少しだけ体を捻ると、祐奈が肘にかけていたヴァレクストラに葉月の腕が触れた。
「ごめん」
慌てて、けれどもできる限り小さな声音で言い、祐奈の方に顔を向ける。
「大丈夫よ」
そう言った祐奈の掌が薄手のジャケット越しに葉月の前腕にそっと触れ、細い指の先でマグネットネイルが蛍光灯に反射してぎらぎらと光を放った。時々だけれど祐奈はこんな風に話しながらスキンシップを取ることがある。それは祐奈にとって葉月が親しい存在になりつつあるということなのか、それとも単なる癖で、誰にでも同じようにするのだろうか。そんなことを考えると、胸の辺りが不思議とざわついた。
授業参観は無事に終わり、このあとは体育館でPTA総会が開かれることになっている。その間、子どもたちは普段と同じように授業を受けて、親子共に下校時刻が十二時になるように設定されていた。一年生に関しては、保護者が教室に戻り子どもを引き取って、一緒に帰宅することを推奨しているらしい。
「ねえママ、帰ったら瑠衣ちゃんと遊びたい」
体育館に移動しようと廊下に出ると、瑠衣が走ってやってきて、勢いよく祐奈に抱きついて訴えた。その衝撃で祐奈がよろけそうになる。
「今日?」
少し困ったように祐奈は雫に微笑みかける。
「いいでしょ」
今度は祐奈のシフォンのシャツの裾を強くひっぱり始めた。安物の生地なら破れてしまいそうなほどの強い力だが、祐奈のシャツは見るからに質がよさそうだ。
「そうねえ」
祐奈は言い、それから
「葉月さん、もし都合がよかったら午後に遊びに来て」
葉月の目をじっと見つめた。
「いいの?」
「もちろん」
祐奈の家の場所は知っているが、会うのはいつも公園やショッピングセンターばかりで家に招かれるのは初めてだ。
帰宅するとあと数分で十三時を回りそうなところだった。一年生の子どもたちがすんなり帰るなどという考えは甘かった。急いで焼きそばを作り、瑠衣に食べさせる。瑠衣は大人しく、幼いころからあまり手がかからない。食べ終えると、ごちそうさまでした、と言って葉月が何も言わなくても食器を流しまで運んだ。空になった瑠衣の席に視線を移す。テーブルはきれいなままだ。姉には瑠衣よりも年上の男の子がふたりいるが、集まって食事をすると彼らが使った席には未だに大量の食べ物のかけらが散乱している。男女でこんなに違うものか、とある種の感心に似た気持ちになってつい言葉にしてしまったことがあったが、姉から女の子マウントだと非難されたのでそういうことは心の内にしまっておくことにした。
「そろそろ行こうか」
遅れて食べ終えた葉月が言うと、瑠衣は遊んでいたドールハウスをテキパキと棚に仕舞い
「おトイレ行ってくる」
と言ってリビングを出ていった。しっかりしているな、と我が子ながら思い葉月は誇らしい気持ちになった。
コンビニに寄ってお菓子を買ってから祐奈の家に向かう。本当はきちんとした手土産を持っていくべきなのだろうが、ついさっき決まった話だ。祐奈だって仕方がないと思ってくれるだろう。
「いらっしゃい」
インターフォンを鳴らすと、祐奈の声よりも先に犬の鳴き声が響き渡った。
「瑠衣ちゃん」
雫が裸足のまま玄関に飛び降り、瑠衣の手を引く。
「雫ちゃん落ち着いて。先に靴を脱がなくちゃ」
瑠衣が雫を窘める。どこかお姉さんめいた口調に葉月はおかしくなった。けれどここで笑っては瑠衣のメンツを潰すことになってしまう。
「どうぞ入って」
祐奈に促され
「お邪魔します」
瑠衣が殊勝に頭を下げる。
「瑠衣ちゃんはしっかりしているわね」
瑠衣に向かって祐奈が微笑むと、瑠衣ははにかんで葉月の方を見た。
「ねえ、早く」
私のお客さんなのだとでも言いたげな様子で雫が少し不機嫌そうに言い、雫と、靴を脱いだ瑠衣は小走りでリビングに向かっていった。
「葉月さんもどうぞ」
「いいの?」
誘いを受けたとき、瑠衣だけが招かれたのか、それとも葉月も一緒に招かれたのか判然とせず、しかしきちんと確認しないまま来てしまった。小学生になったら親は同伴しないのが当たり前、そんな話も聞いていた。
「もちろん。おしゃべりしたいし」
「それじゃあ遠慮なく。お邪魔します」
祐奈のあとについて廊下を歩く。きゅっと結んだエプロンのリボンが祐奈のくびれを強調させる。祐奈が後ろ姿であることをいいことに、葉月は無遠慮に祐奈の全身を眺めた。
小学校のすぐ裏に建っている祐奈たちの住まいは白い壁と木のぬくもりがバランスよく混ざり合う、雑誌に出てきそうな空間だった。
「素敵なおうちね」
葉月が感心しきってそう言うと、祐奈は笑みを浮かべただけだった。葉月たちが賃貸マンション暮らしであることを考慮して、余計なことは言わなかったのかもしれない。雫と瑠衣は小上がりのキッズスペースに座り、ふたりで楽しそうにぬいぐるみで遊んでいる。
「ちゃんとしたものじゃなくて申し訳ないけど、よかったらおやつに食べよう」
いくつかのお菓子が入ったビニール袋を祐奈に手渡すと、透けて見えたのだろう
「ありがとう。雫、ポテチ大好きなの」
秘密を打ち明けるように、葉月にこそっと耳打ちをした。
「ソファ、適当に座ってね」
「ありがとうございます」
こういうときはつい敬語になってしまう。まだ祐奈に対し心を開いていないということなのだろうか。こうしている間もアプリコットカラーのトイプードルはひっきりなしに吠え続け、ソファにのぼったり降りたりを繰り返している。
「ルル。落ち着いて」
キッチンから祐奈が声をかけるが、ひどく興奮しているらしく全く届いていない。
「ごめんね」
「ううん、全然。わんちゃん大好きだから。実家でも飼ってるし」
葉月がソファに腰を下ろすと、ルルは膝の辺りの匂いを入念に嗅いだあと、葉月の上にぴょんと飛び乗った。
「よかった。ご実家の子、犬種は?」
「ポメラニアン」
「ポメラニアンも可愛いよね。毛はよく抜ける?」
「抜けるなんてものじゃないよ。黒い服で実家に行くと大変なことになっちゃう。トイプードルはほとんど抜けないんだよね?」
「抜けないけど、毛玉は結構できるのよ。トリミングで取ってもらうと毛玉一個につき五百円追加料金がかかるの」
トレイに、花の模様のついた二組のティーカップを乗せた祐奈がこちらに向かって歩いてくる。そのころにはルルはもうすっかり葉月の膝の上に伏せてリラックスした表情を見せていた。
「まあ、ルルったら」
と呆れたように微笑したあとで
「葉月さん、紅茶でいい?」
と、祐奈は訊ねた。おかまいなく、と言葉が出かかったが既に用意してくれているのにそれは失礼かもしれないと思い直し
「紅茶大好き。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた。
子どもたちが庭に出て遊び始めたころ、ふと祐奈がティーカップを持つ手を止めた。
「他の女の子ともこうして遊べばいいのにね」
僅かに目を伏せて、ふーっと息を吐く祐奈の横顔があまりにも美しく、葉月はすっかり見とれてしまった。しかし、その葉月の視線を祐奈は「心配」だとか「哀れみ」だと捉え違えたのだろう。
「なんてちょっと思っただけ」
小首を傾げながら軽やかに笑い、小さくつぶやいた。
室内に戻ってきた雫と瑠衣は手を洗って、ダイニングテーブルに用意されたポテトチップスとクッキーを食べる。
「雫、一枚ずつ食べて」
ポテトチップスを何枚も一気に頬張ろうとする雫を祐奈が窘めたが、雫は言うことをきかない。その雫の隣で瑠衣は塩の一粒だって落とさないくらいの慎重さで、前歯だけでちびちびとポテトチップスを齧っている。
「ピアノ弾いていい?」
ポテトチップスの食べカスをテーブルの上にばらまきながら雫が言った。
「いいけど、ちゃんと手を洗ってね」
「わかってる」
祐奈と雫がそんなやり取りをしている間も、瑠衣は相変わらず自分のペースを守り続けて食べている。
キッチンのシンクで手を洗った雫がアップライトピアノの蓋を開く。力強い音が鳴ったかと思うと、一転して繊細な音でショパンが奏でられ始めた。
「え!すごい」
葉月は思わず声に出した。本気で驚いた。雫がこんなに弾けるなんて知らなかったし、どこかで雫は瑠衣よりも劣っていると見下していた自分を恥じた。
「瑠衣ちゃん、またいつでも遊びにきてね」
帰り際、瑠衣に向かって祐奈がにこりと微笑む。
「やったあ」
瑠衣は無邪気な笑顔で小さくジャンプをした。
「わあ、今のいい風。それにしても今日は暑いわね」
太陽の日差しを遮るように祐奈は左手をかざした。けれど、その肌からは汗の気配など微塵も感じられない。
「本当に」
こたえて葉月はバッグからペットボトル入りのお茶を取り出し、キャップを回す。
「瑠衣ちゃん、新しいお友達できた?」
立ち止まってのどを潤している葉月を振り返って、祐奈は訊ねた。口に含んだ液体を飲み下したあとで
「どうだろう。何人かの名前は話に出てくるけど。雫ちゃんは?」
僅かに首を傾げながらこたえた。
「まだ特別仲のいい子はいないみたい。相変わらず男の子たちと一緒にやんちゃしているらしいわ」
「元気でいいじゃない」
「そうねえ」
祐奈は困ったとでも言いたげに、眉尻を下げて愁いを帯びた表情をして見せた。
青い塗装が所々剥げている小学校の門をくぐり、一年生の昇降口へ向かった。持参したスリッパに履き替えて、葉月と祐奈は揃って一年二組のクラスに入る。既に何人かの保護者が教室の後ろに立っていた。子どもたちは誰かが教室に入る度にこちらをちらちらと振り返り、どうにも落ち着かない様子だ。
「一年生って感じね」
祐奈が小さく笑いながら葉月に耳打ちをすると、春の甘い花のような香りがした。葉月は声を出さずに二度頷く。こんなに小さな子どもたちが席について授業を聞いている。それだけでも十分にすごいことだ、と葉月は感心してしまう。
「瑠衣ちゃんと近くの席でよかったわ」
再び祐奈の顔が近づき、今度は
「本当に。心強い」
と、ごく小さなボリュームでこたえた。『うたにあわせてあいうえお』の音読が始まると、祐奈の視線は雫を捉えて離さなかった。だから葉月も瑠衣だけを見ようと努めた。
葉月の娘の瑠衣と祐奈の娘の雫は同じ幼稚園出身だ。年長のときに初めて同じクラスになり、小学校が同じ学区であることがわかって急速に親しくなった。実は葉月は祐奈のことを入園式の日から認識していた。なぜなら長身で目鼻立ちのくっきりした祐奈は美しく、着飾った保護者たちの中でも一際目立っていたからだ。目尻の泣きぼくろがそうさせるのか、圧倒的な色気を放っていて、葉月はつい見とれてしまった。だから祐奈から声をかけられ、連絡先を聞かれたときは飛び上がりたくなるくらいうれしかったし、実際初めてのメッセージが届いたときには小さくジャンプした。
普段座ってばかりの生活をしているせいか、立って同じ姿勢を維持することに疲れてきた。少しだけ体を捻ると、祐奈が肘にかけていたヴァレクストラに葉月の腕が触れた。
「ごめん」
慌てて、けれどもできる限り小さな声音で言い、祐奈の方に顔を向ける。
「大丈夫よ」
そう言った祐奈の掌が薄手のジャケット越しに葉月の前腕にそっと触れ、細い指の先でマグネットネイルが蛍光灯に反射してぎらぎらと光を放った。時々だけれど祐奈はこんな風に話しながらスキンシップを取ることがある。それは祐奈にとって葉月が親しい存在になりつつあるということなのか、それとも単なる癖で、誰にでも同じようにするのだろうか。そんなことを考えると、胸の辺りが不思議とざわついた。
授業参観は無事に終わり、このあとは体育館でPTA総会が開かれることになっている。その間、子どもたちは普段と同じように授業を受けて、親子共に下校時刻が十二時になるように設定されていた。一年生に関しては、保護者が教室に戻り子どもを引き取って、一緒に帰宅することを推奨しているらしい。
「ねえママ、帰ったら瑠衣ちゃんと遊びたい」
体育館に移動しようと廊下に出ると、瑠衣が走ってやってきて、勢いよく祐奈に抱きついて訴えた。その衝撃で祐奈がよろけそうになる。
「今日?」
少し困ったように祐奈は雫に微笑みかける。
「いいでしょ」
今度は祐奈のシフォンのシャツの裾を強くひっぱり始めた。安物の生地なら破れてしまいそうなほどの強い力だが、祐奈のシャツは見るからに質がよさそうだ。
「そうねえ」
祐奈は言い、それから
「葉月さん、もし都合がよかったら午後に遊びに来て」
葉月の目をじっと見つめた。
「いいの?」
「もちろん」
祐奈の家の場所は知っているが、会うのはいつも公園やショッピングセンターばかりで家に招かれるのは初めてだ。
帰宅するとあと数分で十三時を回りそうなところだった。一年生の子どもたちがすんなり帰るなどという考えは甘かった。急いで焼きそばを作り、瑠衣に食べさせる。瑠衣は大人しく、幼いころからあまり手がかからない。食べ終えると、ごちそうさまでした、と言って葉月が何も言わなくても食器を流しまで運んだ。空になった瑠衣の席に視線を移す。テーブルはきれいなままだ。姉には瑠衣よりも年上の男の子がふたりいるが、集まって食事をすると彼らが使った席には未だに大量の食べ物のかけらが散乱している。男女でこんなに違うものか、とある種の感心に似た気持ちになってつい言葉にしてしまったことがあったが、姉から女の子マウントだと非難されたのでそういうことは心の内にしまっておくことにした。
「そろそろ行こうか」
遅れて食べ終えた葉月が言うと、瑠衣は遊んでいたドールハウスをテキパキと棚に仕舞い
「おトイレ行ってくる」
と言ってリビングを出ていった。しっかりしているな、と我が子ながら思い葉月は誇らしい気持ちになった。
コンビニに寄ってお菓子を買ってから祐奈の家に向かう。本当はきちんとした手土産を持っていくべきなのだろうが、ついさっき決まった話だ。祐奈だって仕方がないと思ってくれるだろう。
「いらっしゃい」
インターフォンを鳴らすと、祐奈の声よりも先に犬の鳴き声が響き渡った。
「瑠衣ちゃん」
雫が裸足のまま玄関に飛び降り、瑠衣の手を引く。
「雫ちゃん落ち着いて。先に靴を脱がなくちゃ」
瑠衣が雫を窘める。どこかお姉さんめいた口調に葉月はおかしくなった。けれどここで笑っては瑠衣のメンツを潰すことになってしまう。
「どうぞ入って」
祐奈に促され
「お邪魔します」
瑠衣が殊勝に頭を下げる。
「瑠衣ちゃんはしっかりしているわね」
瑠衣に向かって祐奈が微笑むと、瑠衣ははにかんで葉月の方を見た。
「ねえ、早く」
私のお客さんなのだとでも言いたげな様子で雫が少し不機嫌そうに言い、雫と、靴を脱いだ瑠衣は小走りでリビングに向かっていった。
「葉月さんもどうぞ」
「いいの?」
誘いを受けたとき、瑠衣だけが招かれたのか、それとも葉月も一緒に招かれたのか判然とせず、しかしきちんと確認しないまま来てしまった。小学生になったら親は同伴しないのが当たり前、そんな話も聞いていた。
「もちろん。おしゃべりしたいし」
「それじゃあ遠慮なく。お邪魔します」
祐奈のあとについて廊下を歩く。きゅっと結んだエプロンのリボンが祐奈のくびれを強調させる。祐奈が後ろ姿であることをいいことに、葉月は無遠慮に祐奈の全身を眺めた。
小学校のすぐ裏に建っている祐奈たちの住まいは白い壁と木のぬくもりがバランスよく混ざり合う、雑誌に出てきそうな空間だった。
「素敵なおうちね」
葉月が感心しきってそう言うと、祐奈は笑みを浮かべただけだった。葉月たちが賃貸マンション暮らしであることを考慮して、余計なことは言わなかったのかもしれない。雫と瑠衣は小上がりのキッズスペースに座り、ふたりで楽しそうにぬいぐるみで遊んでいる。
「ちゃんとしたものじゃなくて申し訳ないけど、よかったらおやつに食べよう」
いくつかのお菓子が入ったビニール袋を祐奈に手渡すと、透けて見えたのだろう
「ありがとう。雫、ポテチ大好きなの」
秘密を打ち明けるように、葉月にこそっと耳打ちをした。
「ソファ、適当に座ってね」
「ありがとうございます」
こういうときはつい敬語になってしまう。まだ祐奈に対し心を開いていないということなのだろうか。こうしている間もアプリコットカラーのトイプードルはひっきりなしに吠え続け、ソファにのぼったり降りたりを繰り返している。
「ルル。落ち着いて」
キッチンから祐奈が声をかけるが、ひどく興奮しているらしく全く届いていない。
「ごめんね」
「ううん、全然。わんちゃん大好きだから。実家でも飼ってるし」
葉月がソファに腰を下ろすと、ルルは膝の辺りの匂いを入念に嗅いだあと、葉月の上にぴょんと飛び乗った。
「よかった。ご実家の子、犬種は?」
「ポメラニアン」
「ポメラニアンも可愛いよね。毛はよく抜ける?」
「抜けるなんてものじゃないよ。黒い服で実家に行くと大変なことになっちゃう。トイプードルはほとんど抜けないんだよね?」
「抜けないけど、毛玉は結構できるのよ。トリミングで取ってもらうと毛玉一個につき五百円追加料金がかかるの」
トレイに、花の模様のついた二組のティーカップを乗せた祐奈がこちらに向かって歩いてくる。そのころにはルルはもうすっかり葉月の膝の上に伏せてリラックスした表情を見せていた。
「まあ、ルルったら」
と呆れたように微笑したあとで
「葉月さん、紅茶でいい?」
と、祐奈は訊ねた。おかまいなく、と言葉が出かかったが既に用意してくれているのにそれは失礼かもしれないと思い直し
「紅茶大好き。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた。
子どもたちが庭に出て遊び始めたころ、ふと祐奈がティーカップを持つ手を止めた。
「他の女の子ともこうして遊べばいいのにね」
僅かに目を伏せて、ふーっと息を吐く祐奈の横顔があまりにも美しく、葉月はすっかり見とれてしまった。しかし、その葉月の視線を祐奈は「心配」だとか「哀れみ」だと捉え違えたのだろう。
「なんてちょっと思っただけ」
小首を傾げながら軽やかに笑い、小さくつぶやいた。
室内に戻ってきた雫と瑠衣は手を洗って、ダイニングテーブルに用意されたポテトチップスとクッキーを食べる。
「雫、一枚ずつ食べて」
ポテトチップスを何枚も一気に頬張ろうとする雫を祐奈が窘めたが、雫は言うことをきかない。その雫の隣で瑠衣は塩の一粒だって落とさないくらいの慎重さで、前歯だけでちびちびとポテトチップスを齧っている。
「ピアノ弾いていい?」
ポテトチップスの食べカスをテーブルの上にばらまきながら雫が言った。
「いいけど、ちゃんと手を洗ってね」
「わかってる」
祐奈と雫がそんなやり取りをしている間も、瑠衣は相変わらず自分のペースを守り続けて食べている。
キッチンのシンクで手を洗った雫がアップライトピアノの蓋を開く。力強い音が鳴ったかと思うと、一転して繊細な音でショパンが奏でられ始めた。
「え!すごい」
葉月は思わず声に出した。本気で驚いた。雫がこんなに弾けるなんて知らなかったし、どこかで雫は瑠衣よりも劣っていると見下していた自分を恥じた。
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