乃愛の場合

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第2話 くやしいっ。

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……ああ──っ!腹が立つ!!

本来、私は温厚な方に、自他ともにカテゴライズされる人間だ。
“他”の方は、ボンヤリしてる人の枠かもしれないけど……。

アイツだ!アイツ!
地元のバーで、ズケズケと人に意見して、しれっとしてたアイツだ。

滅多に、飲んだ翌日にまで怒りを持ち越さないのが私の少ない長所の1つの筈なのに、どーにもこーにも腹が立つ!思い出しただけでも、腹が立つ!!

「先輩……滅多に怒らない方だと思ってましたが……テーブルに突っ伏したままプリプリ怒るなんて、随分と器用な怒り方するんですね?」
「……うるさい」

あのあと、怒りに任せてコンビニで缶チューハイを買い込んで、自宅でヤケ飲みしたのがマズかった。

完全に、二日酔いだ。

午後に課題のレポートを教授に出さねばならないので、ふらふらと大学にやってきて学食でノビているとこ。

「何が合ったのか知りませんが、ヤケ酒はよくないです」

後輩の真希ちゃんが、心配そうな顔で冷たいペットボトルの栓を開けると、お茶を私の顔の前に置いてくれる。

そろそろと、少しだけ身体を起こして、お茶を飲む。

「ふいー、冷たいお茶が身にしみる。ありがと、真希ちゃん」
「先輩は深酒すると、フラフラと誰にでも着いて行っちゃいそおで、いつも心配なんですよぅ」

……うぐ。その見立ては間違ってない。何度、それで失敗したことか。

「そんな、ホイホイ着いて行かないわよ……」

はいはい。ウソです。ウソ。

もっとも、真希ちゃん絡みで飲み会とか行った時には、そんな醜態を晒したことはない。ハイソな娘さんの多いので、誰かしら運転手付きの送り迎えがあるコがいて、家まで送ってもらえているからだ。

真希ちゃん達と飲むと楽しいので、そんなに寂しいとかヘンな気分にならないしね。

「真希ちゃん、午後ヒマ?」
「午後の講義終わったら、ヒマです」

ほんと、このコはいつ誘っても断らないわね。
殆ど断られたことがない。

「んにゃー、ちょっと泳ごうかなと思って。どう?」
「あは、いいですね!酒抜きですね!」

まあ、この場合「泳ぐ」といっても、ぷかぷか浮いてるか、のんびりと軽く泳ぐ程度なんだけど。体調的に、今日はそのぐらいしかできないし。

わが神田女子大学は、国立の割には施設が整っていて、生徒なら誰でも自由に使えるジムがあったりする。そこのプールは午後から夕方まで自由開放されているのだ。
(授業やスポーツ推薦のコが使う競技用のプールは別にある。贅沢だ)

そんな訳で、ジムの受付前で時間を決めて、真希ちゃんと待ち合わせすることになった。

      ★ ★ ★

教授にレポートを提出すると、酒臭いとお小言を頂戴した。
世に料理研究家としても知られている先生だけあって、嗅覚が鋭敏なのかもしれない。

「飲むな、とは言いません。大人の女性としての嗜み、ですから。二日酔いでフラフラと学校に来るなどというのは論外です。古来より、お酒は飲んでも飲まれるな、と言いますでしょ。日頃の………………が…………いいですか?…………淑女たるもの………………」

先生ごめんなさい……冒頭しか記憶に残ってません。

思った以上に、時間をくったのでジムに近くにあるカフェテラスに行く。
アイスコーヒーを買って、読みさしの小説を眺める。

なんか、続きが気になっていた筈なんだけど、頭はじんじん痛いし
空は薄ピンク色が混ざって見えるし、太陽はイヤに黄色く見える。

文字が目から入って、そのままダダ漏れ状態だ。

これじゃ、東野御大に失礼だ。
文庫本にしおりを挟んでテーブルに置く。

コーヒーを一口飲んでから、チカチカする目元をマッサージしてると、声をかけられた。

「お。篠原くんじゃないか?こんなところで何をしてるんだい?」
「あ……加藤先輩こそ、どうしたんですか?」

加藤先輩は、ウチのサークルと良く一緒に遊ぶ近所の大学のサークルの会長してた人物だ。ぶっちゃけ言えば、ウチのサークルの前会長のカレシさんだ。

近所の大学というと……あれだ。赤門が有名で最高学府な某国立大ってやつ。
そこを今年の3月に卒業した、デキる人だ。

前会長──門脇時子先輩は、ウチの大学を卒業後、そのまま大学院の研究室に入った。その関係で、加藤先輩は時たまウチの大学でウロウロしているのを見かけるのだ。

「親父の秘書の息子さんの誕生日に何か買ってこいって言われてね。いくら仲が良いって言ってもね、向こうは小学1年生だからさ。それで、ちょっと時子に相談に来た」

加藤宗紀むねのり先輩のお父さんは、某与党の大物政治家だ。
社会勉強とかなんとかで、某一流広告代理店の第一線で働いている。

……加藤先輩はスマートでかっこいい。
デキるエグゼクティブな雰囲気の二枚目だ。
私の趣味じゃないけど。

くそう、リア充め!

そういえば、真希ちゃんにも小1の甥っ子がいるって言ってたなあ。
あれ??竜堂の家で担当する予定の娘さんも小1だった気がする。

「急いでるんで、失礼。それじゃ、今度また皆で飲みに行こう」

去り際に、ぴっとこちらを指差して飲み約束。
この辺が嫌味なく無駄にカッコイイ。

曖昧に頷いて手を振る。加藤先輩は嵐のようにやってきて、嵐のように去っていった。

と、バッグの中のスマホが、ぶるるる!ぶるる!と振動してる。

スマホを取り出してみると、真希ちゃんからメールだ。
二名ほど、一緒にプールに行きたいとのこと。メンツは、奈緒子ちゃんと博美ちゃんの二人。どっちも、ウチのサークルのメンバーで真希ちゃんと仲良し三人組だ。

了解の旨、簡単に返事を送っておく。

ウチのサークルは、特に何かに目的を絞ったサークルじゃない。
テニスとか、スキーとか、映画とか、何か決まった事する同好会とは少し違う。その気になれば、そのどれもやるし、気分が乗らなければ、どれもやらない。

正式名称は………………えっと???
あー……うーんと……確か……
全方位戦略的娯楽研究同好会フルレンジ・ストラテジカル・アミューズメント・リサーチ・ソロリティ
略して「F.S.A.R.S.エフ・サース」……だったかな??
たぶん……違ってるかも??

長いし、ややこしいし!憶えてられるか──っ!
誰がこんな厨二な名称使うか!!恥ずかしい!

誰だよ、こんな命名したのは!?

4年在籍してるけど、毎年新歓コンパで1~2回聞くだけで、他で誰かが使っているのを聞いたことはない。真希ちゃんとか知らないかもしれない。

結局、“神女大の「何でもサークル」”という方が通称としては、よく知られている。

気が向いたメンツが集まって、気が向いた事をして遊ぶというのが唯一の原則。

お誘いを断るのも自由。断られても気にしない。
誘われなくて寂しいなら自分で企画しろ。
集まりが悪くてお流れになったら、
もっと集まるように次の企画を工夫しろ。

……そんな暗黙の掟の何ともユルいサークルだ。

まあ、そういう訳で「突発企画!プールで水遊びしよう!」に参加者4名ということになった。

よし、もう少しココで時間を潰したら、行こう。

秋の到来を告げるような涼しい風が、晩夏の灼けつくカフェの間を吹き抜けていった。

      ★ ★ ★

ささっと、ワンピースの下で下着と水着をスリ替える。
まぁ、女の子必須の秘密スキルだ。

バッグからバスタオルを出して、荷物は全部ロッカーに。
プールに入る前から、3人は更衣室でキャッキャと賑やかに燥いでいる。

「ふあー……先輩……スタイルいいすねぇ……」

真希ちゃん、ソレ毎度毎度言ってるよ?

まぁ、下心満載の男が寄ってくるんだから、それなりではあると思うケド……。
ちょっと、自分の身体を見下ろして、ありがたいような、ありがたくないような気分になる。

「ロクな男が寄ってこないんだから、あんまご利益ない」

今日は白のビキニの水着だ。
ツヤのあるハーフカップの露出の少ないトップス。
ちょっとTバック気味の際どいボトムの上にショートパンツを履いてる。
まあ、地味っちゃ地味。

真希ちゃんは黒に近い紫の競泳用だ。ショートヘアに良く似合っている。
白い水泳キャップを被って、首に黒いゴーグルを掛けてる。本気で泳ぐ気まんまんだ。

「えー、ないよりは、ある方がイイですよお!」

ブルーのタンクトップのセパレートに着替えた博美ちゃんが、切実な様相で訴える。ねー!と真希ちゃんと意気投合している。B型ペアと命名しよう。

……ゴマキ同様、決して口にすることはないが。

「でも、あるより、ないほうがイイものもありますよ……」

と、奈緒子ちゃんが、花柄のAラインのワンピースに着替えながら、ボソっと呟く。指で自分のウエスト周りを、ちょんちょんと突っつく。

この話題では、B型同盟は決裂してしまいそうだ。明らかに博美ちゃんの方が、くっきりとくびれている。

ちなみに、奈緒子ちゃんの方が私よりご立派だ。主にカップサイズで。

とは言え、私以外はそれなりに彼氏もいたりしてラブラブなのだから、幾ら私が抜群のプロポーションしてたとしても、どこまで行こうが不毛な話題だ。

「はいはい、それじゃ、皆様、ベンチに座ってくださいな」

一番、まっすぐにスンナリ成長した真希ちゃんが不毛な話題を真っ先に打ち切る。
真希ちゃんは、髪の毛をいじるのが好きなのだ。そして、かなり上手い。
ささっと3人の髪型をまとめてくれる。

ジムのプールは、そんなに本格的ではないので、キャップを着用が義務付けられてない。なるべくなら、キャップしてね?程度だ。

「そんじゃ、行きますかー!」

私たちは、プールサイドに抜ける更衣室のドアに向かった。

ジムのプールは、どちらかというとリゾートホテルの屋内温水プールといった趣きだ。プールサイドは褐色のそれっぽいコンクリートで、ところどころにタイルがモザイク状にはまっている。壁は真っ白なタイル張りで、だいたい3mくらいから上は白いコンクリートの壁になっている。

後のロッカールーム側と左のトレーニングルーム側は普通に幅が2mくらいのプールサイドになっているが、正面と右側はガラス張りになっていて、背の高い木々に囲われた庭がついているのが見える。外からはフェンスがあって立ち入り禁止だ。

そちら側のプールサイドは少し広くとられていて、白いプラスチックのガーデンテーブルセットやゆったり寝っ転がれるデッキチェアが、いくつか置かれている。

まあ、割と素敵な感じのプールだったりする訳だ。さすがにジャグジーはないけれど。

そんなこんなで、私たちは準備体操らしき事をして、思い思いにジャブジャブとプールに浸かる。
プールの半分はフリーエリアになっていて、残りにはコースロープが張られて、ゆったり泳いだり、水中ウォーキングをしたりできる。

午後も回ってだいぶ楽になったとは言え、二日酔いの余波でクラクラしている私は、無理せずフリーエリアの方で仰向けになってプカプカ浮いている。

真希ちゃんは、コースロープの向こう側でスパスパ泳いでるみたいで、奈緒子ちゃんと博美ちゃんは、貸し浮き輪に乗って遊んでる。各自テキトーに遊ぶというのが、ウチのサークルの流儀だ。何も無理して一緒、ということはしない。

……ごぽぽ……ごぽっ……

遠くで奈緒子ちゃんと博美ちゃんのはしゃぐ声が響いてくる。

頭半分が水の中なので、時折聞こえる水中独特な気泡の弾ける音以外は、とても静かだ。

取り留めもなく雑多な思考が頭の中から流れ出て、プールの中へ泡になって弾けて消えていくみたい。

でも、昨日からずっと心に刺さった棘が、私を苛立たせる。

──相手のことを見ていない。相手に興味を持たないから、下心だけの輩しか寄り付かない。

そうなんだろうか……?
私って、そんなに思いやりのない自己中?
人に無関心な冷たい人間??

違う!違う!!そんな酷薄な人間じゃないっ!!……って、盛大に弁護を叫ぶ自分もいる。

だけど……何かが引っ掛かる。胸がイタくてクルしい。
棘どころじゃない。ソレは、私のココロの奥の一番深いところまで突き刺さっている。

いままで、男にヒドい言葉を浴びせられた事は何度もある。

──平気で他の男に身体を開くゲスな女だとは思わなかったよ。

──抱いている最中に冷たい目で見下しやがって、何様だよ!?

──誰でもいいなら、俺に薄ら笑いで愛想ふりまくなよ。

──サービスして欲しけりゃ金でも払えってか?ふざけんな!

捨て台詞を吐いて去っていく人もいれば、何も言わずに去っていく人もいた。

みんな去っていった。

思えば……昨日のアイツのセリフは、私を非難するものじゃなかった。
受け入れがたい内容ではあるけれど、あくまで「私は、どうしてイイ男に巡り合わないのか?」という問題に関して、彼が冷静な所見を述べただけ……とも言える。

あれは……アドバイス?

いやいやいや、あれはないでしょ!?
アドバイスにしたって、もっと言い方があるでしょ!!

いたわり的な優しさで包む言い回しとか!
もうすこし分かりやすく補足するとか!!
色々と足りなすぎなのっ!!

もぉっ、わけわかんないよ……。

あの時、私は……
彼の言っている言葉の意味が理解できずに、悔しかったのか。
彼の言葉に筋の通った反論ができずに、悔しかったのか。

そうか……私、悔しかったんだ……。

私は、今更のように自分の気持ちがわかった。

「…………くやしいっ!」

私は何気なく小さく呟くと、その言葉はストンと胸に落ちた。
それがわかるのに、半日以上かかるとは、本当に呆れてしまう。

彼の気持ちなんて、到底わかる筈もない。

そこに何故か寂しさが混じって……いやいや、何考えてるんだ、私!?
アレは「彼」なんて呼ぶ必要ないっ。「アイツ」で十分!

苛立ち紛れに、頭の中の思考を全部ちゃぶ台返しした途端。

──ごつん。

「痛ったぁ…………」

プールの縁に、私の頭頂部がぶつかったのだ。


「……大丈夫ですか?」

すぐ脇に腰掛けて足だけ水につけてた真希ちゃんが半笑いで声をかけてきた。
くう……なんだか無様だ。

「ちょっとぶつかっただけだから、大丈夫」

頭のてっぺんを擦りながら、私は真希ちゃんの方へ歩いて行った。
真希ちゃんの横に並んで、プールの縁に寄りかかる。ちょうど、私の肩の横に彼女の太腿が並んでいる感じだ。

「あれ?奈緒子ちゃんと博美ちゃんは?」
「あははっ、あそこで、何秒水中で息止めてられるか世界記録に挑戦してます」

ぶっ……何やってんだ。
二人で呆れ笑いを浮かべていると、真希ちゃんが思い出したかのように尋ねてきた。

「ところで、先輩……少しヘンですよ?」
「えっ?……そんなこと、ないよ」

彼女の方を見上げる。
彼女は天井の方を見上げながら、顎に人差し指をあて小首をかしげる。

「うーん、そうかなぁ……先輩、ぷかぷか浮きながら何かブツブツ言っているし……迷走するようにこっちに流れてきたと思ったら、突然『くやしいっ!』とか言って、頭ぶつけるし……」

うわー!うわー!ダダ漏れしてるじゃない!!

「……ほら。先輩、今、物凄い図星な顔で固まってますよ?」


……うん。そうだね。図星だ。

私は、ため息をついて観念する。

「ある人によると、私は薄情で無関心な人っぽいんだよ」
「…………ええっ!?先輩のドコをどう取ると、そうなるんですか??」

「あ……正確にはね……こう言われたんだ。『相手のことを見ていない。相手に興味を持たないから、下心だけの輩しか寄り付かない』ってね」

真希ちゃんは腕を組むと、う────ん、と唸りだして考えこむ。

「私もさ、多少はマシな人間だと思ってるけど……無自覚に何かやらかしてるかもしれないし……そもそも、その言葉の意味もちゃんと掴めてないんだよね」

「う──ん。どういう状況でどんな言葉の前後で言われたのかわかんないので」
「ソレ……あんま細かく話したくない」

そりゃそうだ。ロクでもない男性遍歴をグチった挙句、『どこかに私を気持ち良くちゃんとイカせる男はいないのか!?』と天に文句を言った直後だなんて、真希ちゃんには言えない。口が裂けても言えない。

「まあ……『下心だけの輩』とかってキーワードで、ある程度想像はつくんですけど……あのう、先輩って……もしかして、今まで好きな男の子に告白こくった事ないんじゃないですか……??」
「…………ない、かな」

確かに、ない。学校の裏庭とか、放課後の音楽室とか、伝説の大樹とか、イイ感じの場所に男子を呼び出して、勇気を振り絞って何事かを告白したことはない。

「……容姿に恵まれてるというのは時として不幸なのかなぁ……先輩ほど可愛くてプロポーションも抜群だと……そうなる前に男の方から、群がってきちゃうのか」

何だか……褒められてるのか、貶されてるのかハッキリしない事を、真希ちゃんはウンウンと頷きながら、一人で納得している。

「先輩!……私の結論をいいましょう!」

そう宣言すると、じゃぼん!っと真希ちゃんが水の中に降りてきて、私の真正面に立った。

「えっ……?は、はいっ、う、承りますっ」

思わず、真希ちゃんの方に体を向けて姿勢を正してしまった。
……結論って……なんなんだろ??
真希ちゃんには簡単にわかる事なのか……。

「先輩が……恋したことないのに、適当に男と付き合ったりしたからですよ」

…………へ?

え──っ!?いやいや、それは幾らなんでも、私だって──

「先輩、中学校とかの運動会で活躍したクラスの足の早い子とか、そういうのナシですよ?」
「うっ──!?」

真希ちゃんが呆れたように肩を竦めて苦笑いを浮かべる。

「……先輩、ちょっとカッコイイなーって子に憧れるのは、恋とは言わないんですっ」

ビシっと私の鼻先を指差して断定する。

「あぅあぅ……でも……だってぇ……」
「まさか……いやいや、一応聞きますけどね?……先輩、初恋したことないじゃないでしょうね?」

…………。え?……。えーと……。

「幼稚園の時の──」
「却下です」

「小学校の担任の──」
「却下です」

「中学で、バスケ部の──」
「個人的な会話しました?」
「……う、してません」

「高校で隣の席になった──」
「まさか、挨拶以外、特に話したことないとか言いませんよね?」
「…………あぅう」

ずいずいっと真希ちゃんに詰め寄られて、背中がプールの縁に当たるのを感じた。
物理的にも心理的にも、追い詰められていた。

「いいですか?初恋なんてものは人それぞれですけど、少なくとも、気が付くと彼のことばかり考えているとか!彼のことを考えると頭がのぼせちゃうとか!彼の事を考えると胸が苦しいとか!彼の言葉に一喜一憂してしまうとか!彼の傍にいるだけで幸せとか!」

さらに目と鼻の先にまで真希ちゃんの顔が迫ってきて、逃げ場をなくしてズルズルと体が下へずり落ちる。

「……そんな、青臭くて甘ったるい衝動的な情念を専ら初恋と世間は言うんです。先輩には、そんな気持ちになったこと、あります?」

もう、顎の先が水面に触れている。だめだ。幾ら思い返しても、まるで覚えがない。

「………ふえぇぇええん…………ないよっ……ないですぅ!」

私が今まで「恋」だと思っていたのは、テレビのアイドルを時折思い出して「カッコイイよねえ」と思うのと、同じくらいのレベルでしかなかった。

それは……いや、もぉね……呆気にとられるしか…………。

…………えーと。

私、どうすればいいんでしょう……?

俯いた私のすぐ目の前に水面が広がっていて、ぽとぽとと水滴が落ちて波紋が幾つも重なって広がっていく。

……あれれ?これって、私の涙??
なんで?泣いてるの、私??

ふわっと背中を抱かれて、真希ちゃんの胸元に額が押し当てられる。

頭の上の方から、囁くように優しい声がしてくる。

「先輩……今まで辛かったんでしょ?」

もうだめだ。幾らフラれても捨てられても裏切られても、涙一つ出なかったのに。

なんで泣いているのかもわからず、私はボロボロ零れる涙を止めることもできず。
真希ちゃんの腕の中で、嗚咽を漏らしていた。


真希ちゃんの胸は、不思議と優しい塩素のニオイがした。

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