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18話 嫌な言葉は、聞かない方が良いです

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 お腹の虫が小さめの田原小鳩は、当然、私よりも先に食べ終えた。
 そして早速、読みかけの『海のまち』を取り出した。
 きちんとラーメンの器を脇に避けてくれている。手もおしぼりで拭いている。
 差し上げたつもりの本だけれど、扱いを気にしてしまうのは私のセコいところ。そして厄介オタクなところだ。
 自覚はしている、うん。

 本はあまり読まない方みたいだけれど、元が児童向けだからだろうか、ページをめくる速度は一定だし、遅くない。
 逆に言うと、手をとめてしまう場面が無いってことなんだろうか。
 おすすめした本を目の前で読んでもらうとき、私はいつでも考えすぎて緊張してしまう。

「……それ、つまらなくないですか?」

 思わずそう訪ねてしまった。
 麺を食べ終えた担々麺の器に両手を添えて、自然とスープを飲み干す体勢を取りながら。

「面白いですよ」

「ホントですか? 子供っぽいとか、夢見がちとか、いい歳してとか、ご都合主義とか、思いませんか?」

 持ち上げかけていた丼をドン! と下ろして、矢継ぎ早に訪ねてしまった。

「いや別に。ていうか、そんなことを考えながら読まないですよ。だって僕の書いている小説ってご都合だし。徹底肛虐だって夢でしょう」

「夢、まあ、夢ですね」

 餃子の小皿が二つあったので、田原小鳩の目の前に差し出してあげながら、そう答えた。
 肛虐を夢ということについては、さておきだけれど。いや、夢でいいのか。ファンタジーだし。ファンタジーだよね? お尻に入れるのはファンタジー! うん。
 
「これはなんですか?」

 唐突に、田原小鳩がたずねた。

「餃子の醤油皿です。って見たら分かること聞かないで下さいよ。英会話じゃないんですから」

「いや、餃子は奔馬ほんばさんが頼んだものですよね?」

「こういう餃子って、シェアするものじゃないですか。あ、お嫌いでした?」
 
 キョトンとした顔の小鳩の皿に、私は有無を言わせず餃子のタレを注いだ。

「嫌い、ではないですけど。そうか、シェアするものなんですね。ごちそうになります」

 そう言って、田原小鳩は本をカバンにしまうと、箸を持って両手を合わせた。
 餃子をつまみながら、何事か考えこんだ顔をしていた彼は、一つ目を口に運ぼうとして、やめた。
 それからじっと私を見て、苦いものを飲み込んだあとみたいな顔をして言った。
 
「ぼく、『そうするもの』が分からないんですよ。誰かと食事に行くことも無かったし……、変な奴だと思われるから。自分の世界が狭いっていうのが、奔馬さんを見ていると、分かります。でもその世界は楽なんです。楽なはずだった……」
 
 うつむく彼の癖のある前髪が、雨に湿ってますますうねっている。
 餃子がタレにつかりっぱなしになっていて、田原小鳩と同様、しんなりしていた。
 
「やっぱり小説なんて、書くんじゃなかった。結局、他人に迷惑をかけただけだった」

「そんな事ないです! 迷惑だなんて、私は思ったことない。リリンだって、ちょっと誤解しているだけなんですから。田原さんの名誉はいつだって回復できます!」

 思わず餃子をつまんで、「ほら、食べて下さい」と彼の口もとに持っていった。
 恋人同士の「あーん」みたいではあるけれど、気分としては、落ち込んだ子供を慰めるような感じだ。
 彼の口の中に餃子が収まるのを見届けると、私はチャーハンの残りに取り掛かる。
 担々麺と並行して食べていたので、残りはもう半分以下だ。
 
 一つ食べたら、餃子欲がわいたらしい田原小鳩は、さっそく二つ目に箸をつける。
 私は五つの餃子のうち、三つを彼の分にすることに決めた。
 小盛りのラーメン一杯で、成人男性が満足するわけがない。……となると、彼は、また遠慮しているのかもしれなかった。

「田原さん、もしかして、私が奢るって言ったから遠慮してます?」

 早くも三つ目の餃子に箸を伸ばしていた田原小鳩は、そこで思い切りむせた。
 目を白黒させながらおしぼりで口を拭う姿を見て、図星だと確信する。

「そ、そんなことは、無いですよ?」

「遠慮は無しにしてください。なんていうか……私の都合で連れ回したようなものですから、たくさん食べて下さった方が私の気分が軽くなります。だから気にしないで、ごま団子もいっときましょう。ね」

 蒸籠を彼の側に寄せて言うと、彼は肩を縮こませて、小さくうなずいた。
 蓋を開けて、中華あんの甘い香りを乗せた湯気に眼鏡を曇らせる彼の、テーブルの上に置き去りにされたほうの手が楽しげにわきわきと動く。
 機嫌が上向きになったのを見計らって、私は彼に『海のまち』の途中までの感想を聞いてみることにした。
 田原小鳩は嘘がつけない人間らしい。だからこそ、さっきの発言から、私の傷つく答えは返ってこないだろうと安心して聞けると思ったのだ。

「『海のまち』どこまで読まれました? もうムージカとネイロは出会いましたよね? 素敵な場面でしたよね? ね?」

「あ、はい。一緒に怪我をしたくじらの子供の手当をするところまでは。歌で癒やすっていうのは、僕の書いた肛虐で調伏するみたいな特殊技能なんですかね」

「あー、うん。そうですね。そうですかね。そういうこともあるかもしれません。うん。これから傷ついた子くじらの親の大きなくじらに導かれて、冒険が始まるんですよ! いいと思いません?」
 
「へえ、くじらの口の中って気持ちよさそうですね」

「くじらに飲まれはしませんけどね!?」

 いまいち噛み合わないけれど、話が弾みかけていたときだった。
 
 ――海女さん
 ――真珠?
 ――ちょ、ヤバいって
 ――でもあれさあ、あわびって、ふふ

 席の横を通ったカップルの声が遠くから聞こえてきた。
 バッと自分の席に置かれたカバンを見ると、開きっぱなしのカバンから『邪淫真珠泥棒~海女さんのあわび貝~』がバッチリ覗いている。

 途端に、中学校の教室の『あの』雰囲気がよみがえった。
 ぶわ、と両腕に鳥肌が立つ。焦ってカバンの口を閉じて、膝に抱え込む。
 嫌な汗が出て、肩の震えが止まらない。
 耳を塞ぎたくても、カバンを抱える腕は動かせない。声が、聞こえてくる声が、怖い。

 次の瞬間、あたたかい大きな手が私の両耳を覆った。

「嫌な言葉は、聞かない方が良いです」

 田原小鳩の手からは、ごま団子の甘い匂いがした。
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