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42話 応募原稿が集まった!
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翌朝、出社してまずは編集部宛に仕分けされた郵便物のケースを確認しに行く。小走りして行った先のケースはまだ空だった。朝早すぎるために、まだ総務から届いていないらしい。
総務部のある一つ下のフロアにいくのに、エレベーターはもどかしい。フロアの廊下をまたも小走り、したいところを抑えて競歩の速度で歩いて、鉄扉を開く。
オフィスビル全体での避難訓練に参加させられたときに通ったきりの階段を使って下りていく。一つ下のフロアに到着して鉄扉を開けると、目の前に幽霊が居た。
「ヒェッ!」
長い髪を顔の脇に垂らした、猫背気味の痩せた女の霊がゆっくりと顔を回す。生気のないその顔はどこかで見たような覚えが……心霊映画? じゃなくて、結構最近に会ったような。あ!
「情報システム部の!」
名前は知らないけど、パソコンの設定に来てくれた人!
「……? ああ、リリン編集部の。どうも」
「あの節はありがとうございました」
お辞儀をしようとしたところで、顔の前に手を差し出されて、制された。
「それよりこれ、おたくのですよね」
床に手のひらを向けて水平に差し出された手が、肩を支点にして九十度横に滑らされる。肩の高さで真横に伸ばされた幽霊さんの手の先には、スチール製の棚の上に置かれた山と積まれた定形外封筒がある。A4が入るサイズ感も厚みも、応募原稿だろうと予想できた。
「多分そう、ですね」
「仕分けは終わっているんです。これをおたくに持って行こうと思っていたところなんですが、一人ではなかなか……紙は重いですから」
淡々とした口調に動かない表情。この人は郵便物の多さに辟易しているのだろうか。システム部なのに手伝いに駆り出されている不満もあるのかもしれない。
「すみません! 私が運びますね!」
そう手を出しかけたところで、幽霊さんがまたも手で私を制した。
「一人では無理です。私も行きます。慣例ですので」
「はあ……」
要領が飲み込めないまま、二人で封筒の山を抱えて、今度はエレベーターを使ってワンフロア分を上がる。階段を使った方が早いが、両手がふさがった状態では階段に通じる鉄扉が開けないのだ。
一階から上がってくるエレベーターを待つ間、沈黙と好奇心に耐えきれず、私は彼女にたずねることにした。
「慣例っていうのはどういうことですか? 郵便物が多いときは、システム部さんが総務の手伝いをするんですか?」
「『リリン』編集部の長編新人賞のときには、私がいつも応募原稿をお持ちするのを手伝っているんです。大体、奔馬さんみたいに待ち切れないリリンの方が降りてきて、その人と一緒に運んでいます」
原稿を待ちきれない気持ちを見透かされていることに気恥ずかしさを覚えながら、さらにたずね返す。
「でも、どうしてシステム部さんが?」
ちょうどエレベーターがフロアに到着した音がして、ドアが開いた。中に人は乗っていない。
封筒が滑り落ちないよう、抱え直しながら、彼女が先にエレベーターに乗り込む。急いで私も、後に続く。
リリン編集部のある階数のボタンを肘で押しながら、彼女が答えた。
「私が、元リリン投稿者で、少しでも関わりたいからです」
「え! じゃあ編集部志望だったんですか?」
「いえ、中途でシステム部に入りましたので、それはありません。挫折した身として、あまり距離が近いのも辛いですし。でもたまに関わりたい。そのくらいです」
私と同じように、彼女も投稿者だったということだ。
何か言うべきだという気持ちもあったけれど、何も言えることはなかった。
ワンフロア分の上昇は一瞬で、チーンという音とともに、機体はわずかに揺れて止まった。
開いた扉を肩で抑えた彼女は、先に降りるようにと私を顎でうながす。
「奔馬さんは、リリンが大好きで編集部に入ったんですか」
先を行く私の背中に、消え入りそうな声が被さる。間近に彼女の気配があり、当然だけれどわずかに熱を放っていて、うっすらと汗の匂いもした。
幽霊みたいだと思っていたけれど、彼女にも人生があって、好きなものがあって、好き故に近づけないものがある。そういう当たり前のことを知ったら、急に彼女の人間らしさに意識が行った。
「私も投稿組ですよ。すぐ諦めちゃいましたけど、編集部に入って、最高の小説を作るんだっていう方に舵を切りました。だからここでコケたくない。必死です、毎日。空回りの方が多いですけど」
へへ、と笑って振り返ると、彼女の顔が存外近い位置にあった。
「諦めたって言っても、次の道として、小説に直接関わる仕事を選べるのってすごいことだと……思います」
生真面目な顔で言うと、彼女はうつむいて封筒を抱え直した。
顔を縁取るように黒い髪が垂れ下がっているけれど、もう幽霊みたいだなんて思えなかった。
名前を聞きたい、と思ったけれど、その時にはもう編集部のオフィスの入り口に到着してしまっていて、結局聞けずじまいのまま彼女を見送ったのだった。
聞こうと思えば、引き止めてでも聞けた。そしてお礼を言えた。
それをしなかったのは、私がまだ、彼女の言葉を素直に受けとめきれなかったからだ。
私は私を認められない。
私が私を認めるのに必要なのは、結果だ。ことりさんと一緒に作り上げた作品が、評価されるという結果。
取り急ぎで応募原稿の山を置いてもらった、打ち合わせ用のテーブルを見下ろして考える。
このなかにあるであろう、ことりさんの作品が鍵を握っている。
ふと、彼が送ってきたはちまき姿の真顔の画像を思い出して、笑いがこみ上げてきた。
「おはよー! なにニヤけてんの?」
背後からかけられた声だけで分かる、高野先輩だ。腕時計を確認して、いつもよりも随分早い出社であることを確認してから、振り向いた。
「おはようございます。早いですね!」
「鹿ノ子ちゃんと理由は一緒だと思うよ。それの整理しないとね」
と、先輩はデスクの上の封筒の山を指して言った。
「今日これから書店さん行かないといけなくてさ。ごめんけど、仕分けくらいしか出来ないわ」
「仕分け?」
「普通の郵便物と、応募原稿を分ける。それから……」
と言いかけて、つかつかとデスクに近寄ると、高野先輩は封筒の山を漁った。
一通の封筒を見つけると、それを胸元に掲げて振り向いた。
「これ、どうするか、葉山編集長に確認しないとでしょ。昼前には戻るからそれまで待ってて」
その手には田原小鳩(筆名:夜野ことり)と裏書きされた封筒があった。
「封筒に筆名は書かなくてもいいのに、また書いてる」
そう苦笑いする私に、先輩が眉を寄せて言う。
「笑ってる場合じゃないよ、葉山編集長は手強いからね」
総務部のある一つ下のフロアにいくのに、エレベーターはもどかしい。フロアの廊下をまたも小走り、したいところを抑えて競歩の速度で歩いて、鉄扉を開く。
オフィスビル全体での避難訓練に参加させられたときに通ったきりの階段を使って下りていく。一つ下のフロアに到着して鉄扉を開けると、目の前に幽霊が居た。
「ヒェッ!」
長い髪を顔の脇に垂らした、猫背気味の痩せた女の霊がゆっくりと顔を回す。生気のないその顔はどこかで見たような覚えが……心霊映画? じゃなくて、結構最近に会ったような。あ!
「情報システム部の!」
名前は知らないけど、パソコンの設定に来てくれた人!
「……? ああ、リリン編集部の。どうも」
「あの節はありがとうございました」
お辞儀をしようとしたところで、顔の前に手を差し出されて、制された。
「それよりこれ、おたくのですよね」
床に手のひらを向けて水平に差し出された手が、肩を支点にして九十度横に滑らされる。肩の高さで真横に伸ばされた幽霊さんの手の先には、スチール製の棚の上に置かれた山と積まれた定形外封筒がある。A4が入るサイズ感も厚みも、応募原稿だろうと予想できた。
「多分そう、ですね」
「仕分けは終わっているんです。これをおたくに持って行こうと思っていたところなんですが、一人ではなかなか……紙は重いですから」
淡々とした口調に動かない表情。この人は郵便物の多さに辟易しているのだろうか。システム部なのに手伝いに駆り出されている不満もあるのかもしれない。
「すみません! 私が運びますね!」
そう手を出しかけたところで、幽霊さんがまたも手で私を制した。
「一人では無理です。私も行きます。慣例ですので」
「はあ……」
要領が飲み込めないまま、二人で封筒の山を抱えて、今度はエレベーターを使ってワンフロア分を上がる。階段を使った方が早いが、両手がふさがった状態では階段に通じる鉄扉が開けないのだ。
一階から上がってくるエレベーターを待つ間、沈黙と好奇心に耐えきれず、私は彼女にたずねることにした。
「慣例っていうのはどういうことですか? 郵便物が多いときは、システム部さんが総務の手伝いをするんですか?」
「『リリン』編集部の長編新人賞のときには、私がいつも応募原稿をお持ちするのを手伝っているんです。大体、奔馬さんみたいに待ち切れないリリンの方が降りてきて、その人と一緒に運んでいます」
原稿を待ちきれない気持ちを見透かされていることに気恥ずかしさを覚えながら、さらにたずね返す。
「でも、どうしてシステム部さんが?」
ちょうどエレベーターがフロアに到着した音がして、ドアが開いた。中に人は乗っていない。
封筒が滑り落ちないよう、抱え直しながら、彼女が先にエレベーターに乗り込む。急いで私も、後に続く。
リリン編集部のある階数のボタンを肘で押しながら、彼女が答えた。
「私が、元リリン投稿者で、少しでも関わりたいからです」
「え! じゃあ編集部志望だったんですか?」
「いえ、中途でシステム部に入りましたので、それはありません。挫折した身として、あまり距離が近いのも辛いですし。でもたまに関わりたい。そのくらいです」
私と同じように、彼女も投稿者だったということだ。
何か言うべきだという気持ちもあったけれど、何も言えることはなかった。
ワンフロア分の上昇は一瞬で、チーンという音とともに、機体はわずかに揺れて止まった。
開いた扉を肩で抑えた彼女は、先に降りるようにと私を顎でうながす。
「奔馬さんは、リリンが大好きで編集部に入ったんですか」
先を行く私の背中に、消え入りそうな声が被さる。間近に彼女の気配があり、当然だけれどわずかに熱を放っていて、うっすらと汗の匂いもした。
幽霊みたいだと思っていたけれど、彼女にも人生があって、好きなものがあって、好き故に近づけないものがある。そういう当たり前のことを知ったら、急に彼女の人間らしさに意識が行った。
「私も投稿組ですよ。すぐ諦めちゃいましたけど、編集部に入って、最高の小説を作るんだっていう方に舵を切りました。だからここでコケたくない。必死です、毎日。空回りの方が多いですけど」
へへ、と笑って振り返ると、彼女の顔が存外近い位置にあった。
「諦めたって言っても、次の道として、小説に直接関わる仕事を選べるのってすごいことだと……思います」
生真面目な顔で言うと、彼女はうつむいて封筒を抱え直した。
顔を縁取るように黒い髪が垂れ下がっているけれど、もう幽霊みたいだなんて思えなかった。
名前を聞きたい、と思ったけれど、その時にはもう編集部のオフィスの入り口に到着してしまっていて、結局聞けずじまいのまま彼女を見送ったのだった。
聞こうと思えば、引き止めてでも聞けた。そしてお礼を言えた。
それをしなかったのは、私がまだ、彼女の言葉を素直に受けとめきれなかったからだ。
私は私を認められない。
私が私を認めるのに必要なのは、結果だ。ことりさんと一緒に作り上げた作品が、評価されるという結果。
取り急ぎで応募原稿の山を置いてもらった、打ち合わせ用のテーブルを見下ろして考える。
このなかにあるであろう、ことりさんの作品が鍵を握っている。
ふと、彼が送ってきたはちまき姿の真顔の画像を思い出して、笑いがこみ上げてきた。
「おはよー! なにニヤけてんの?」
背後からかけられた声だけで分かる、高野先輩だ。腕時計を確認して、いつもよりも随分早い出社であることを確認してから、振り向いた。
「おはようございます。早いですね!」
「鹿ノ子ちゃんと理由は一緒だと思うよ。それの整理しないとね」
と、先輩はデスクの上の封筒の山を指して言った。
「今日これから書店さん行かないといけなくてさ。ごめんけど、仕分けくらいしか出来ないわ」
「仕分け?」
「普通の郵便物と、応募原稿を分ける。それから……」
と言いかけて、つかつかとデスクに近寄ると、高野先輩は封筒の山を漁った。
一通の封筒を見つけると、それを胸元に掲げて振り向いた。
「これ、どうするか、葉山編集長に確認しないとでしょ。昼前には戻るからそれまで待ってて」
その手には田原小鳩(筆名:夜野ことり)と裏書きされた封筒があった。
「封筒に筆名は書かなくてもいいのに、また書いてる」
そう苦笑いする私に、先輩が眉を寄せて言う。
「笑ってる場合じゃないよ、葉山編集長は手強いからね」
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