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ep2.メンヘラとの出会い

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 今夜は雪が降るかもしれないね、と誰かが言った。
それが父親だったか母親だったか、はたまた箱の中の女子アナだったかは覚えていない。
 だが、暖房をつけていない室内は肌寒く、本当にそんなことが起こってもおかしくないかもしれないという気にはさせられた。ほぼ毎日家にいる自分には関係のないことだけれど外の世界が真冬なのは知っている。暖房のスイッチを入れると暖かい風が部屋に吹いた。外との温度差はどのくらいだろうか。
 高等遊民は選ばれし者の特権だ。親の財力と、ほどほどの無関心さ、それとメンタルの強さが無ければやっていけない。その全ての条件を持っていた俺はそれが当然とでもいうようにこの席に座っている。ネットと筋トレとたまにお使い。その繰り返しで高校卒業以降生きてきた。罪悪感などはない、あったらこんな生活送っていない。
「あらた」
 木製の古い扉がノックされた。家族と顔を合わせるのはお互いの何方かに用がある時くらいしかない。自分も家族も自分から干渉しようとしないのは2年前からだ。今では慣れてしまったが。さて、そんな母親が俺に声をかけたのは勿論用事があるからだろう。
「もう起きてるでしょう、買い物に行ってきて頂戴」
 時刻は零時を回っていた。そんなの明日の朝でもいいだろう、そう不機嫌な声色で伝えると母は同じくらいイラついた声で答えた。
「お父さんのお弁当の材料が足りなかったのよ。少しは働きなさい、いつまでタダ飯食いでいるつもり」
 永遠に。とは言えなかった。そんな事を言ったらどうなるか、そんなのは考えなくてもわかる。鍵をかけた扉をぶち破られた上で平手打ちだ。現に先月の被害者である扉はガムテープで穴が塞がれている。
 俺は寝巻きのままの姿でベッドから出ると、厚手のコートとマフラーを手に取った。それから部屋の外にいる母から買い物メモを奪い取り、黒のスニーカーに履き替えた。牛乳、冷凍惣菜がいくつか、あと俺の朝飯(そんな時間ではないが)の弁当。俺は外に出た。


 カゴにはそこそこ大きい袋が入っている。牛乳と惣菜と焼肉弁当。こんな寒い中買い物に行ったのだ、当然の報酬として弁当は一番高いのを買ってやった。最寄りのコンビニは家からそう遠くない場所にある。徒歩十分圏内、チャリで五分。ニートに取ってこれほど嬉しいことはない。だって課金をしようと思えばすぐにカードが買える。クレカを持たない人間的にこれは大変ポイントが高い。携帯払いにすると何に課金はバレるし。コンビニに近い方の住宅街を通って、公園が目の前に見えてくる。公園には中が空洞になっている大きい遊具があってよくそこで遊んでいたのを不意に思い出した。もう体が大きいから入らないかもな、なんて考えていた時、視界の端に何かがよぎった、気がした。すでに公園からは離れていたがUターンして開けた入り口にもどる。遊具、ベンチ、あと整えられた茂み。普通だ。深夜だから誰もいない、何もない。だが、だったらさっき見えたのはなんだったのだろう。眼球には人間が映されていた。しかもありえない姿で。気のせいか、そう踵を返そうとした時、微かな音と共に茂みの奥に何かが見えた。
 ロープだった。普段の生活で見ることの少ない丈夫そうなロープがそこそこ太い木の枝に括られている。視線を下に移すと身体があった。男の身体だった。浮いていた。もがきながら浮いていた。ロープの先は首だった。
「は?!」
 慌てて自転車を乗り捨てて男に駆け寄る。男は未だもがいていた。遠目から見てもロープは命綱で使われるような難しい結び方をされている。おそらくすぐに解くのは難しいだろう。手元に刃物の類いはない。だったら枝の方は?案の定、成人男性一人の重さがキツいのかしなっていた。これはロープを結ぶ枝と位置が悪いというのもあるだろう、枝の先と付け根の中間に結ばれたせいで今にも折れそうになっている。これは多分折った方が早い。俺は弱っている場所に思い切り体重をかけた。男性二人分の重みには耐え切れなかったのか枝は男と一緒に地面に大きな音を立てて落ちた。
「いってぇ……アンタ大丈夫か?」
 地面に仰向けになった男は目を開けたまま空を見つめていた。あまりに反応がないから本当に生きているのか胸に耳を当てて確かめてみると心臓は動いている。息もしている。これは放心状態になっているだけらしい。見た所大きい怪我はなく少しだけ安心した。枝と首の縄を解いてやろうと手にかけると男は諦めたようにポツリと呟いた。
「やっぱり私には死ぬ才能もないらしいな」
 今日のメニューを伝える様に淡々と。男は感情のない声でそう言ったのだ。男の長袖から覗く手首には切り傷が見えた。おそらく、この男は「そういう」人間なのだろう。
「死にたいんだ」
 そう聞くと男は笑った。
「人間が首を吊る理由にそれ以外あるのかい?」
 それもそうか、と俺は思った。
「おにーさんしんどい人か」
「しんどいかしんどくないかと言われれば前者だろうね。メンタル弱いし生きてく才能無いし加えて無職で家に帰れないホームレスだ」
「奇遇じゃん。俺も無職だよ」
「はは、運命というものかもしれないね。まさか同じ無職に救われるなんて」
 男の姿を改めて観察する。彼はホームレスだと言うがーー……一見してそうには見えなかった。服や髪が汚れていないと言うのも要因の一つだとは思うが、男の雰囲気や話し方がそういう類いの人種とは違ったからだ。そういえば。こんなに寒いのに彼はセーター一枚と真冬にしては薄着だ。って言うか服ダサいな。オールブラックやオールホワイトは流行っているが総カーキってのはどうなんだ。しかもセーターの中央には謎の犬の刺繍がデカデカと鎮座している。ダサ。
「寒くないのかよ。その格好」
「……あぁ、そういえば寒いな。着の身着のまま飛び出してきたから忘れてしまったんだろうか」
 ひと事のように言った男の唇は青かった。ホームレスだと言っていた、とすると今夜は外で過ごすのだろう。……こんな格好じゃ凍死してしまいそうだ。当人には都合がいいだろうがせっかく救えた命なのにそんな事で失われてしまうのは見ていられない。
 俺は着ていたダッフルコートとマフラーを脱いで男の胴に乗せた。驚いたのか男が飛び起きる。そのまま身体の上のコートと俺の顔を何度も視線で往復させた。
「今日雪降るらしいからやるよ。折角助けたのに凍死されたら悲しいし。それと」
 自転車のカゴから弁当を取り出して差し出す。
「……どうしてそんなに優しいんだい? きみに何か徳があるのか?」
「ないけど。でもさ、死にそうな人前にして何もしないってのは無理だから。出来る限りの事はしたいってだけだよ」
「若いのに変な子だね」
 男も自分と変わらないような年代に見えるが違うのだろうか。よくわからないがさっきよりは彼も落ち着いてきているしよかったと思う。元々少し不安定な人みたいだけどこれで持ち直してくれればいいな。生きてればどうとでもなるんだから。
「まーお腹いっぱいになったら考えも変わるかもしれないからさ、食べてから次考えろよ」
 その後くしゃみをひとつ。今気づいたがジャージ一枚は流石に寒い。これは早く帰らないとまずいかもしれない。俺は膝を払って立ち上がると自転車に跨り走り出した。男が去り際に何か言っていたような気がしたが、聞き返す為に戻るとかはしなかった。早く暖房の入った部屋に帰りたい、先ほどの出来事をすでに終わったことのうちに入れていた脳内ではそれしか考えられなかった。
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