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しおりを挟む俺の同僚に、隈本という男がいる。こいつは女をとっかえひっかえしているクソ野郎だったが、二か月前に性病にかかってからは、それまでの自信過剰で傲岸不遜な態度が嘘だったかのようにおとなしくなり、今は身をひそめるようにして働いていた。
性病の菌が脳ミソにまで入っちまったんじゃないか、と誰かが冗談めかして言ったが、あながちなくはないぞ、と俺には思えた。というのも隈本は、だんだん痩せてきて、目は落ちくぼみ、頬はやせこけ、見るも無残な姿に変わり果てていたからだ。
どうしたんだよと俺は何度となく隈本に声をかけたが、彼は「放っておいてくれ」と言うだけだった。性病にかかったということがよほどショックだったんだろうと俺は解釈したのだが、その話を真美にすると、彼女の見解は違った。
「その隈本って人は、性格が変わっちゃったんじゃないよ。今はウイルスが体を乗っ取ろうとしてるところなんだよ。見ててごらん、そのうち人が変わったようになるかもしれないよ」
「ウイルスが体を乗っ取ったところで、人が変わったようにはならないだろ」
「あんたは知らないからそんなことが言えるんだよ。あたしは見たことあるから知ってんの。正式になんて呼ばれてるのかは知らないけど、そういうウイルスがあるの。特別な、やばいやつが」
「もしほんとにそんなのがあるんだったら、とっくに注意喚起されてるはずだろ」
「そんなものじゃないんだってば。検査じゃわからないの。でも、粘膜と粘膜の接触で感染するの。性病だからね。でも検査ではわからない」
「そのウイルスにかかったら、死ぬのか?」
「エイズとか淋病とか、そういうのじゃなくて。パッと見た感じではわからないの。その隈本って人は、性病にかかったんだよね?」
「ああ、できものが大量にできたらしい。イチモツが、大人のおもちゃみたいにイボだらけになったって」
「ってことは、同時にかかっちゃったのね。かわいそうに」
「どうしてお前にそんなことがわかるんだ」
「その隈本って人、めちゃくちゃヤリチンなんでしょ?」
「まあそうだな」
「そんな人は、ちょっと性病にかかったくらいじゃ改心しないよ。誰かにうつすかもしれないってわかってたとしても、ヤりたがるんだから。性病っていうのは、大量の人にウイルスを広めようとするものなんだから」
「でも隈本は放っておいてくれって言うだけで、誰とも関わろうとしない」
「でしょ。あたしが見てきた人たちも、そうだったの」
「で、結局どうなるんだ」
「頭を乗っ取られるの。精神が、という感じかな。で、変なビルの変な部屋に集まるようになるの」
「変なビルの変な部屋?」
「同じようにウイルスに操られてる人たちが集まってる部屋があるの。そこに集まるの」
「ウイルスがそうさせるっていうのか?」
俺は半信半疑どころかもはや微塵も信じてなかったが、真美は真剣な顔だった。それが余計に嘘臭く見えてしまうということは、こいつの日頃のおこないがよほど悪いんだろう。
だが真美の言ったとおり、隈本は日に日に調子がおかしくなってきた。テンションがおかしいのだ。何もないところに向かってしゃべっているかと思えば、急に笑い出したり、空に向かって両手を広げたりするようになった。何をしているんだとたずねれば、「やかましい!」と怒鳴り返してくる。
仕事だけはきっちりとやっているみたいだが、いっしょに現場へ向かわされる奴からすればたまったものではないらしく、とうとう社長の香田が「ようクマちゃん、最近お前ちょっとおかしいから、もう一度病院へ行ったほうがいいんじゃないか?」と恐る恐る忠告したが、隈本はこれに対してニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべながら「それにはおよばないですよ」と言った。
「調子はすこぶるいいですから」
「そういうふうには見えないんだけどな」
「いやいや、ほんとにだいじょうぶですから」
隈本はきちんと仕事をやっているように見えたが、あきらかに目がイカれていた。そのことを真美に話すと、「もう脳ミソがやられちゃってるのかもね」とどうでも良さそうに言った。
「治す方法はないのか?」
「治してあげたいわけ?」
「別にそういうわけでもないけど」
「じゃあ放っておけばいいじゃない」
「ただ、ああいうウイルスを広めてる奴らがいるってことだろ。それは放っておくわけにはいかないんじゃないか」
「あんた、あんなのに関わったら殺されるかもよ」
そう言われて、じゃあやめておこうかと思った俺は、隈本をそこまで心配していない、案じていないということなんだろう。
隈本はその一か月後に会社を辞めた。理由は「一身上の都合」というふうにしか言わなかったらしい。社長の香田は残念がっていたが、それは表向きで、ほんとうは内心安堵しているみたいだった。
何か知っていることがあるのかとたずねると、「妙な性病があるって噂は聞いたことがあるよ」と香田は言った。「ハニートラップじゃないけど、言葉の怪しい変な女が近づいてきて、それと寝たら頭がイカれちまうってな。ただの都市伝説だろうけどな」
香田は続けて言った。「でも俺だって、だてに三十年、会社をやってきたわけじゃねえんだ。嗅覚が備わってるわけよ。あれは危ない。世の中には、都市伝説に見せかけた、ほんとうの話がゴロゴロ転がってるんだ」
それは俺も同感だった。俺だって危ないものには関わりたくない。いったいどういう奴らが性病のウイルスを改良したのか改悪したのかわからないものをばらまいてるのか知らないが、俺なんかにどうにかできるわけがないのだ。そういうことは警察の仕事だ。公務員がなんとかすればいいのだ。
そう考えて、酒を飲んで、時々気が向いたら真美と寝た。そんな日々がしばらく続いたころ、俺の部屋に誰かが訪ねてきた。嫌な予感がした。朝の五時だった。そんな時間に人の家を訪ねてくる奴が、まともなわけがないのだ。
俺は出るかどうか迷った。訪問者がしつこくドアを叩く。ドアチャイムはぶっ壊れていた。そろそろ真美が目を覚ましてしまいそうなので、しかたなく出ることにした。放っておいたらいつまででもドアを叩き続けそうな感じがしたのだ。ドア越しに狂気が伝わってくる、みたいな感じだった。
のぞき穴をのぞくと、外灯にぼんやりと照らされた男の顔が浮かび上がっていた。隈本だった。俺はますますドアを開けたくなくなったが、隈本がとうとう「おーい松田、おーい」とけっこう大きな声を出し始め、ドアを叩く力とスピードを上げてきたので、「わかったからちょっと待てよ」とドア越しに言った。
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