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しおりを挟む俺の様子が変なのを察して、香田社長がある日俺を呼び出した。
「松田くんよ、あんまり仕事に身が入ってないみたいだけど。どうかしたのか?」
俺は事情を説明した。といっても、〈マザーズ〉のことまでは話さなかった。こんな俺でも、多少は分別がつくのだ。
香田は目を丸くした。「なんだ、別れちゃったのか? うまくやってたんじゃねえのかい」
「さあ、とにかく出ていっちまったんですよ。理由はよくわかりませんけど」
「じゃあ、しょうがねえなあ。前へ進め。前を向くんだよ。だいじょうぶだ、女なんて腐るほどそこらじゅうに転がってるさ」
俺はすでに男としては腐っていて、人間としても腐っているが。
三十になるまで、俺はほんとうにどん底だった。いや、今もそうかもしれない。でもどん底というのは案外居心地がいい場所なのだ。ほとんど誰もそのことを知らない。一度どん底に落ちてみても、たぶんわからないだろう。
俺は生まれてからずっとどん底暮らしみたいなものだったから、これが当たり前になっているし、だから心地良く感じられているだけなのかもしれない。だがとにかく、憂鬱な気分ってのは癖になるものなのだ。
俺は自分の中の鬱々としたものとうまく付き合っていくために、ペンを握るしかなかった。酒もある程度は力強い味方になってくれたが、一番の味方はやっぱりペンだった。学校でも、家に帰ってからでも、俺はペンを握って、ノートに適当なことを書き殴るだけでストレス発散ができた。
最初のうちは、同じクラスの腹が立つ奴ら、イケ好かない奴らをぶっ殺す妄想を物語仕立てにして書いていた。俺の想像力は、そのときに養われたんだろう。読書も好きなほうだったが、それよりやっぱり自分で物語を書くほうが好きだった。自分の好きなように現実を捻じ曲げることができるからだ。
俺にとっては、小説の中こそが自分の世界であり、現実だった。そこでは俺は最強だったし、最弱でもあった。なぜなら俺は、文章を書くと本来の自分を見つめ直すことになったし、本来の自分というのはまぎれもなく弱い自分自身だったからだ。ノートの外の世界では、何もできず、ただ指をくわえているしかない自分だ。醜く、汚らしく、どうしようもない、救いようもない自分。
だが俺は自分を変えるためにペンを握っているわけではなかった。現実を生きるためだった。今でもそうだ。もうペンを握ることはしなくなって、ノートパソコンのキーボードを打つだけになったが、やることは変わらない。
俺の頭の中はグチャグチャで、もはや片付けや整理ができる段階ではなかった。部屋にでっかい風穴をあけて、中のものをすべて吐き出すくらいのことをしなきゃいけなかった。
それでもあとからあとから、いらないものばかり頭の部屋の中に増えていく。だからそのたびにノートパソコンを開いて、キーボードを叩きまくって捨てまくる。結局のところ、人生というのはそういうものなのかもしれないと三十二歳にして悟った。
さよならだけが人生だと、昔誰かが言ったそうだ。俺はこう言おう。捨てるだけが人生だ、と。なんのひねりもないし、うまくもない。だがそれが俺の人生訓だった。
香田社長は俺を励まそうとして、飲み屋街に俺を連れ回した。たいてい、その店にはケバケバしい女がいて、若い女もいれば、もう若くない女もいた。とにかく共通しているのは、どの店にも女がいたということだ。香田はどうしようもない女好きなのだ。
俺は女たちとしゃべっても気が晴れるわけでもなく、面白くもなんともないからずっと不機嫌だったが、それでも多少は何か暗いものが体の外へ出ていくような気はした。
スナックのママが俺の事情を香田から聞いて、「あら、そうなの」と同情のまなざしを向けてきた。「あたしが慰めてあげようかしら?」
「それなら俺のことを慰めてくれよママ」と香田が抱きつこうとして、まわりの客からぶん殴られた。
まあ何はともあれ、俺は別に吹っ切れることもなく、真美のことをずっと考えてはいたが、いないもんはどうしようもない、という方向に考えられるようになってきた。
どうせあいつとは、ほんとうに偶然出会ったのだ。交際しているわけでもなかった。自然に関係ができて、気づいたらいっしょに暮らしていた。だったら自然に、あるいは唐突に別れが訪れたとしてもおかしくはないだろう。
俺は落ち込んでいるのだろうか? わからない。ただ、もう半年も真美といっしょに過ごしていたから、落ち着かないだけだろう。だがそもそも、俺は人生のほとんどを、あいつなしで生きてきたのだ。真美といっしょにいたのは、人生のほんの一瞬だった。
でもそのほんの一瞬が、どうしてこんなに強く、重く感じられるのか? これが愛の正体だとは思わなかった。間違いなく断言できるのは、俺は別に真美のことを愛していたわけではないということだ。好きだったかどうかとなると、それも微妙である。
じゃあどうしてそんなどっちつかずの女を家に置いていたんだと言われれば、返答に困るが。俺は少ない給料で、自分が食うのもやっとなのに、真美を養っていたのだ。それ自体がすさまじいことである。世の中の所帯持ちで、どれだけの男が妻を養えるのか?
とはいえ、真美は大して金のかからない女だったということもたしかだが。それに小遣い稼ぎみたいなことも多少はしていた。街に出て、適当な飲み屋でアルバイトをしていたこともあったのだ。口は悪いし、態度も悪いが、どういうわけか人間関係を構築するのはうまかった。少なくとも俺よりはうまくやった。だから、履歴書とか本人確認の証明書とかそういう面倒臭いやりとりなしで、一日とか一週間だけ働き、小遣いを稼いでいた。あんな女だから、きっとどこの街へ行ってもうまくやっていくだろう。
昔〈マザーズ〉にいた、と真美は言った。でも抜けた。奴らのやりかたが気に入らなかったからだ。でも奴らの恐ろしさも同時に知っていたから、その気配が近づいてくるのを察知して逃げ出した。彼女がとりあえず安全なら、俺はそれでいいと思う。少なくとも、今のところは。
それにしても、〈マザーズ〉の拠点はそんなに近くにあるものなんだろうか? もしこの街に拠点があるとしたら、どうして真美は最初からもっと遠くへ逃げなかったのか、ということになる。〈マザーズ〉の本拠地は、この街ではないのかもしれない。
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