満月荘殺人事件

東山圭文

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 食欲とニコチン欲、つまり胃袋と肺の欲求を満たした自分は、今度は睡眠欲に襲われて部屋でウトウト。無理もない。何しろ新幹線と列車とバスとジープを乗り継ぎ、およそ四時間半もかけて、東北地方の西側で北陸地方の北側、つまり豪雪地帯日本代表ともいえる極地まではるばるやってきたのだ。疲れていないなんて言ったらウソになる。
 起きたのは午後四時。そうだ、一番風呂に入ろうと思い立ち、すぐに入浴の用意をした。いま入れば一番風呂間違いなし。スーツケースを開けて、急いで入浴の準備をして、部屋を出る。ヘビースモーカーたる身、煙草とライターも忘れない。いつなんどき雨が降ってきても傘がさせるように、いつなんどきニコチンが切れても煙草が吸えるようにするためである。すぐ左が浴室に通じるドアだ。
 ドアには「入浴可」と書いてある黒字の札が掛けられている。これが掛けられているときは、浴室には誰もいないから、誰でも入っていいということになっている。ドアの右手に札入れがあって、その中に二枚の札。「男性入浴中」と書いてある青字の札と、「女性入浴中」と書いてある赤字の札だ。もちろんドアに掛かった札を取り換えて、脱衣所に入った。
 脱衣所があって、ガラスの引き戸の向こうが内湯だ。大人三人ほどゆったり入れる湯船があって、洗い場も三つある。内湯の奥にもドアがあり、そちらは大人三人も入ると窮屈(きゅうくつ)になる露天風呂がある。
「本日の一番風呂はこの宮崎圭!」
 と声に出して、内湯の湯船に浸(つか)かった。家では一人暮らしだから毎日が一番風呂だけれども、こういうところでの一番風呂は本当に気持ちがいい。
 身体が温まると、洗い場で身体と髪を洗って、露天風呂のほうに出た。内湯と違って外は刺すように寒い。堪らず露天風呂に飛び込むように入る。小さい岩風呂だけれども、一人で入れば余裕で脚も伸ばせる。
露天風呂と言っても、上は屋根があり、側面も壁に覆われているから、視界が開けているのは前方だけだ。その前方も白い雪の壁に覆われてしまっている。つまりすべてが覆われているので、夏のように景色は眺められないが、これなら吹雪いていても露天風呂に入れそうだと推測した。そして次に浮かんできた推測に胸騒ぎを覚えた。
 哲郎先輩もやはり郷社長を嫌っているのではないだろうか。社長に対して嫌がる態度を見せないでほしいと頼んだとき、俺もそうするから、と哲郎先輩が言ったからだ。彼は決して他人の悪口を言うような人ではない。むしろすぐそういうことを言ってしまう自分に、厳しく注意していたくらいだ。そんな先輩が、口を滑らせて言ってしまった言葉だ。うかつにも、ついつい、本音を口にしてしまったのだ!
 やっぱり――悪い予感は本当によく当たる――哲郎先輩の有給取得が認められなかったことが、お母さまの死の原因となってしまったのだ!
 そして自分みたいな単純人間とは違い、哲郎先輩は繊細なのだ。繊細にできているからこそ、心の内に嫌なものを溜(た)めこんでしまう。溜めこんでキャパオーバーになってしまうと――
 そうなると一大事だ。哲郎先輩の暴走を止めなくてはならない。哲郎先輩が社長を殺してしまうのを、必死に阻止しなければならない。あんな男を殺したところで、こっちは何の得にもならない。得になるどころか、大損だ。特に哲郎先輩みたいな、キリストと釈迦(しゃか)とマホメットを合わせたような人格者は、郷龍次みたいな、ヒトラーとスターリンと金正恩を合わせたような大悪人を殺して、その手を汚してはならないのだ。
 こうなると、脚と羽根を伸ばして、ゆったりと露天風呂なんかに浸かっている場合ではない。とにかく一刻も早く、哲郎先輩に言っておかなければならない。絶対に誰かが社長を殺してくれるから、先輩は手を汚さなくてもいいのです、と。そう、大悪人を殺してくれるのは智則老爺だ。
 内湯の洗い場でシャワーを浴び、タオルで水分を拭い、脱衣所に行ってバスタオルで身体をよく拭く。下着を身に着け、持ってきたスエットの上下を着る。バスタオルでもう一度、髪の毛を拭って首に巻く。ドライヤーは後でいい。とにかく社長が来る前に、哲郎先輩に伝えなければならない。
 ツッコミで頭をはたくのにちょうどいいスリッパを履き、脱衣所を出た。1号室と2号室の前の廊下を早歩き。直角にS字コーナーを折れると、3号室、4がなくて5号室、6号室と客室が続く。何事もなく第四コーナーを曲がって食堂スペースにゴール! と思いきや、ここで急に6号室のドアが開いた。思わぬアクシデントに、秒速のナントカという異名を持つ自分も思わず急ブレーキ。
「おお、宮崎じゃないか」
 聞き覚えのある高い声。そして獣のような匂い。この獣(けもの)臭(しゅう)こそ、彼の加齢(かれい)臭(しゅう)だ。
「お久しぶりです」
 自分は口元に無理やり笑みを作って、強張らせた顔を上げた。やはり自分の行く手を阻(はば)んだのは、間抜けなロバを二十回くらい思い切り殴ったような顔を持つ郷龍次だ。
「ちょうど良かった。ちょっと話がある」
 トップを独走していた秒速のナントカという異名を持つ自分は、エンジントラブルでゴール目前にしてピットイン。ではなくて郷社長によって6号室に引き摺(ず)り込まれる。もし自分が気弱な性格の持ち主だったら、悲鳴をあげて助けを求めるのだろうけれども、あいにく自分はそうではない。「いったい、何なんですか?」と食って掛かる。彼の顔は何度も叩かれた間抜けなロバのくせして真剣だ。
「実は宮崎に折り入って話しておきたいことがある。悪いと思うが、少し時間を貰っていいか?」
 もう社長でも社員でもないのだから、自分のことを宮崎と呼ぶのではなく、宮崎さんって呼ぶだろ。と心の中で毒づく。
「社長も人様にちゃんとお願いできるじゃないですか。別にいいですよ」
 今にも嚙みつきそうな態度で言って、部屋に上がった。座卓テーブルの座布団の敷いてあるほうに、胡坐(あぐら)をかいて座る。別にもう社長と従業員の関係じゃないから、上下など関係ない。
「何か飲むかね?」
「だったら、ビールをいただきます。見てのとおり風呂上りなので」
 機嫌が直ったかのように、ニコリと笑って見せる。嫌がるような態度は見せるなと、先輩にも言われているから。それに冷蔵庫の飲み物まで飲ませてくれるではないか。部屋に戻って飲むとビール一缶五百円のところ、ここではお代はなんと無料! 社長持ちだ。
 社長は元社員に言われるがまま、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、元社員に渡した。社長はまだノンアルコールのようだ。元社員と座卓テーブルをはさんで対峙するように、座布団も敷いていないところに座って、ウーロン茶を座卓の上に置いた。元社員は構わずビールで渇(かわ)いた喉を潤(うるお)す。やはり風呂上がりのビールは最高だ。ましてや温泉に入ったあと、しかも社長に持ってこさせた無料のビールだから格別の味がする。「くぅ~、うめぇ~」と思わず喉を鳴らした。
 この部屋――6号室――は1号室とともに喫煙可の部屋のはずだ。座卓テーブルの上には1号室と同じで、ガラス製の大きな灰皿が置かれている。
「実はもう六十五歳になったからな。俺も社長を退いたんだ」
「そうだったのですか」
元社員は興味なさそうに言って、煙草に火を点けた。社員時代はさすがに社長の前で煙草を吸うのは気が引けたが、今はもう社員ではない。そして社長も今はもう社長ではない。「ドラゴン」とか「危険人物」というあだ名で呼ぶのもいいのだが、いちおう自分の中では五年間「社長」であったので、「社長」と呼ぶのが癖(くせ)になってしまっている。正確には「元社長」であるのだけれど、この先も「社長」と呼ばせていただく。
「宮崎、煙草を吸うのか?」社長は少しびっくりされている模様。
「はい。今になって反抗期が来ちゃったみたいです」満面の笑みで言ったけれど、もちろん親ではなくて社長に対しての反抗期ですよという嫌味も含まれている。「で、誰が新社長になったのですか?」
「息子だ。息子の清一だ」
「ああ、清一さんですか」とだけ応える元社員。決して、阿保(あほ)で腑抜(ふぬ)けでうつけでぼんくらなど、言えるわけがない。誰からの情報か忘れたけれども、ぼんくらの背中には入れ墨が彫ってあるということも聞いたことがある。
「どうせ宮崎は、清一のこと二代目のぼんぼん社長だと思っているのだろ?」
「そんな、滅相(めっそう)もないです」
 唇に笑みを浮かべながら、大仰に首も手の平も振って見せた。本当はぼんぼんなんかよりもずっと評価が低いぼんくらだ。あのぼんくらが跡を継ぐのなら、辞めて本当に正解だった。自分には先見の明があるのか。ググッと一缶飲み干すと、社長はもう一缶、元社員の前に置いてくれた。そして社長も煙草を吸い始める。
「それで、定年の祝いということで、妻とやってきたのだ」
「そうだったのですか」
 社長の奥さんである君枝夫人は、社長のことが好きではないはずだ。だって、煙草といびきが我慢できないからと言って、寝室を別々にして予約を取ったのだから。そんなに嫌っているのに、夫人は何でこんな旅行に付き合ったのだろうか? もしかして夫人も?――と、何だか急に興味が湧いてくる。
「奥さんとは部屋が別々ですよね?」
「ああ。俺のことが嫌いみたいだ」
と、あっさり認める社長。まあ、夫人だけじゃなく、誰でも社長のことは好きではないと思いますけれど。
「そうなんですか? てっきりオシドリ夫婦だと思っていました」
「四十年も連れ添っていると、互いに嫌なことばかり見えてくる」
 四十年か。四十年もこの危険なドラゴンに我慢した夫人の忍耐力は尊敬に値する。ガンジーとキング牧師と共に、郷君枝という女性を世界三偉人に加えてほしい。と言っても自分は、君枝夫人を写真でしか見たことがない。それも、小学生だったぼんくら二代目と一緒に写った写真だから、もう二十年以上も前のお姿だ。そんな写真も口を半開きにして写っている二代目のぼんくらさが目立ち過ぎて、夫人の印象が薄いのだけれども、丸顔でふくよかな感じだった。痩せると美人になるという印象が残っている。
「でも、この旅行は奥さんからのプレゼントじゃないですか?」
 社長の顔に驚きの色が走る。「宮崎の言うとおりだ。妻がすべて手配してくれた」
「そうですよね」
 そうですよね、というのは仲がいいのです、という意味ではない。あなたは奥さんに命を狙(ねら)われているのです、という意味だ。
 自分は短くなった煙草を灰皿に押し潰して、髪の毛を触る。けっこう乾いていた。暖房がきいた部屋の中で寒くもないからドライヤーを使わなくてもいいか、と首に巻いていたバスタオルで再び髪の毛を拭った。
「妻が俺のことを殺そうとしているのかもしれぬ」
 自分は銜えた煙草を思わず座卓テーブルに落とした。顔を上げると、彼の目は悲しみに窪(くぼ)んでいる。自分は落とした煙草を慌てて拾って、笑顔を作った。
「それ、きっと社長の思い違いですよ。あの奥さんがそんなことするわけがありません」
 きっぱりと言い切ってあげると、社長は自分に顔を近づけてきた。仕方ない。獣臭いや加齢臭を嗅(か)いでしまうけれど前のめりの姿勢になる。
「あいつは心が薄汚い女だ。俺の財産をすべて狙っている」声を低くして、社長は続ける。誰にも聞かれる心配はないけれども。「二年前に新しく生命保険にも加入させられた。そろそろ引退してゆっくりしたらとしきりに言うようになった。最近、自宅の階段で足を滑らせて落ちた。そのときは後ろにあいつがいた。あいつに押されたのだ。ちょっとこけそうになって、俺の身体を押してしまったと言い訳した。あの時は幸い軽い怪我で済んだけれどな。まだある。最近のあいつが作った料理。きっとヒ素か何か入れられているに決まっている。ヒ素って宮崎も知っているよな? 和歌山のカレー毒物混入殺人事件に使用されたものだ。ヒ素が混入されているから、あいつの料理を食うと、どうも体調が悪い」
 妻があいつになった。それも喋りながら分厚く赤い唇をぶるぶる震えさせている。恐怖から顔が歪(ゆが)む。その顔ときたら間抜けなロバを二十回くらい思い切り殴ったうえに、さらにスクラップしたかのようだ。思わず吹き出してしまいそうになるのを、グッと耐えた。でも元社員の顔はニヤついていたに違いない。
「社長、考え過ぎです。奥さんがそんなこと、するわけがないです」
 まあ、2号室の智則老爺があんたを殺しますけどね。何といっても、あんたのせいで息子を亡くしているのだから。と、心の中で悪態をつき、社長の顔から上体を離して、ビールで喉を鳴らして、新しい煙草に火を点けた。
 待てよ。社長が言うことが本当なら、社長夫人と智則老爺はグルではないのか? きっと示し合わせて、今日から宿泊することになったのだ。偶然を装って――
「あいつが俺を殺したがっている証拠はまだあるぞ。来てみたらどうだ? ここは小田君が経営している民宿ではないか。小田君の民宿に泊まるなんて、あいつから聞いていない。良い民宿を見つけたと言われて来たのだ。小田君の民宿だと知っていたら最初からこんなところに来ない。絶対に俺は謀(はか)られたのだ」
「絶対にそんなこと、ありません」煙を吐き出しながら、首を振る。「社長、本当に考え過ぎです。きっと奥さんは、小田先輩の民宿に泊まるということで、社長を驚かそうとしただけですよ」
「おぬし、小田君が会社を辞めた理由を知っているかね?」
 久しぶりにドキリとした。社長が相手のことを名前でなく「おぬし」と呼ぶときは、相手に対し激しい怒りを感じているときだ。これは男女関係なく使用される代名詞として社員の中では有名だ。自分が退職願を書かされた時も、「おぬし」と呼んだ。
「知っていますよ。小田先輩のお母さまが体調悪くて、介護が必要な状態だったので、先輩が有給を申請したところ、親は死なないと休ませないと社長が言って申請を却下したということですよね? それは社内でも有名な話です。有給休暇が認められなかったせいで、お母さまの死期が早まってしまったのかまでは分かりませんが」
「きっとそれで死期が早まってしまったのだ。そのことをあいつは根に持っている」
「社長、直接小田先輩に確認したんですか?」
「いいや。していない」皺だらけの指で、吸っていた煙草を灰皿に押し潰しながら言う。「でも俺には分かる。あやつは絶対に俺を恨(うら)んでいる。俺のせいで自分の親が死んだと思っているに違いない」
 聞いて思わず自分は吹き出してしまった。口の中にビールが入っていなくて良かった。もし入っていたら、悪役レスラーよろしく、自分の口から麦(ばく)汁(じゅう)の霧が、叩かれてスクラップされた社長の顔に、凶器として噴射されたところだった。
「おかしいですよ、社長。小田先輩はそんなこと、これっぽっちも恨んだり、憎んだりしていませんから」
 恨んでいる人物は哲郎先輩ではない。他にいる。まあ、社長は気づかないだろう。自分は続けた。
「社長、いいですか。自分にとって小田先輩は、尊敬に値する人物です。親切、丁寧、優しいの三拍子が揃っていて、こんな自分を一人前に育ててくださいました。そして曲がったことが大嫌いで、自分のミスを胡麻化(ごまか)して先輩に報告したのがバレたときは、ひどく叱られました。そして、言いにくいことですが正直に申し上げます。実は自分、社長のことをとても嫌っています。いま、こうして話すのも虫唾(むしず)が走るくらいです。あなたは社長という権限を使って、自分が気に食わない宮崎圭という社員の首を切ったのですから、当然ですよね? 嫌ってはいますけれども、憎んだり恨んだりはしていませんからご安心ください。で、そんな自分を先輩は窘(たしな)めてくれたのですよ。郷社長が来るけれども、絶対に嫌な顔を見せるなって。そんな先輩が社長を殺害すると思いますか?」
 選挙の応援演説みたいに熱が入った。その甲斐があったのだろうか、社長の強張(こわば)った顔の表情が崩れた。スクラップされた醜いロバの顔は、もう崩壊寸前だ。笑える。
「そうか。小田君は俺を憎んだり、恨んだりはしていないか」
「ええ。そうですとも」
 その代わりに2号室の山下夫妻が、あなたを憎み恨んでいますよ。と教えてやりたいが、絶対に教えてあげない。警戒されては困るのだ。
「小田君のことは分かった。でもまだある――」
 再び社長は声を落とした。少し嫌な予感がする。やっぱり山下夫妻のこと、気付いちゃったのだろうか? 自分も顔を近づける。別に風車の弥七が屋根裏から覗いているわけでもないから、こんなに顔を近づけなくてもいいのだけれど。獣臭いや加齢臭が再び鼻を襲う。
「実は、宿泊客の中にもいるのだ。俺を恨んで殺そうとしている人間が――」
「そうなんですか!」
 驚いて見せる。演技がわざとらしくないかと不安に思ったけれども、社長は分厚い唇に「シーッ」と太い人差し指を当てた。社長の節穴(ふしあな)のような目には、自然に映ったようだ。
「ここに到着して部屋に案内されたとき、廊下で擦れ違った男なのだが、どこかで見たことがあると思ったんだ。こう見えて、俺は記憶力だけはいいからな。で、考えたら思い出した。もう二十年、いやそれ以上も前のことかもしれぬが、俺が参列した葬儀にいた男だ、と。それは絶対に間違いない」
「そうなんですか?」今度は声を落として聞いた。社長は大きく頷いた。
 確かに山下夫妻の息子さんが亡くなったのは、二十五年前だと言っていた。社長の言う葬儀と言うのは、きっと息子さんの葬儀だろう。だから社長の言う男というのは、智則老爺に間違いない――
「あの子が死んだのは、すべて俺のせいだと思っている。俺の言動と、俺の取った行動のせいだと、あの男は絶対にそう思っている。俺が死に追いやったのだと恨んでいるに違いないのだ」
 あんなことを言われたりされたりしたら、誰だって死にたくなりますわ。駅の待合室で言った直子老婆の言葉を思い出す。きっと社長はうっかり宿題を忘れてしまった中3のナオノリ少年に罵声(ばせい)を浴びせ、唾スリッパを食らわせたのだ。絶対に許せない、老婆は社長を許していない。社長は続ける。
「恨まれても、だいたいが遺書もないのだ。遺書も残さずに、相手は自殺したのだぞ。推測だけで恨まれては堪(たま)ったものではない」
 ナオノリ少年は遺書を残さなかったのか――そんなことはどうでもいい。社長に山下夫妻を警戒されては困る。警戒されたら、満月荘殺人事件が起こらないではないか。社長はなおも続ける。
「あの子にやりがいを提供してあげたのは誰だと思っているのだ? 俺だぞ、この俺だ。なのに、血も繋がっていないというのに、あの男は。生前のあの子の満たされた気持ち、俺のほうがずっと分かっている」
 やりがい? 血が繋がっていない?――そうか、ナオノリ少年は山下夫妻の養子だったのか――そんなことよりも社長の警戒心を払拭させなくてはならない。自分は居住まいを正して反論した。
「でも二十年以上も前のことですよね? そうなると恨みや憎しみの気持ちも薄らいでくると思います。それにその男も社長の顔を忘れているでしょう。二十年前と今の社長のお顔も違っていることだと思います。名前まで忘れていたら、社長のことなんかまったく思い出せないと思いますよ。だから安心してください。せっかくの温泉なんだから、楽しまないといけません」
 そんな間抜けなロバがスクラップされたような顔、誰が忘れるかと思いながらも、自分の唾(つば)が飛んで、つぶれたロバの顔に引っ掛かったしれない。それくらい、魂と気持ちを込めて話した。だからこの思いは通じてほしい……
「そうだろうけれど、でもこっちは命が狙われているかもしれないのだ……」
 情けないことに両手で頭を抱え込む。自分としてはそうしてくれた方が、その醜い顔を見なくて済むのだけれど、警戒されては智則老爺も手が出せまい。これは困ったものだ。ぜひとも息子の敵討ち、成功させてあげたい。
 自分は再び笑った。
「社長、考え過ぎです。向こうも絶対に社長のことを忘れています。社長と擦れ違ったとき、その男、社長を睨んだりとか何か恨みごとを言ってきたりとか、してきましたか?」
「いいや」と小さい声で言って、首を振った。
「そうですよね。きっと社長のことなんか忘れていますよ。だから社長は殺されません。安心してください」
 諭(さと)すように言うと、「そうだな」と社長は小さい声で呟いた。
「だから社長は普通にしているんですよ。普通にしていなかったら、社長が自殺の原因だったのでは、と逆に怪しまれます」
「そうだな。宮崎の言うとおりだ」
 ようやくスクラップされたロバの顔にも、醜い笑顔が戻った。まずは、これで一安心。あとは今夜遅くか明日の未明あたりに、心置きなく成仏(じょうぶつ)してくれればいい。
 上体を起こして、ビールを飲んで煙草をくゆらす――待てよ。社長と擦れ違っても智則老爺は睨んだり何か言ったりしなかったということは、もしかしたら彼こそ、息子を死に追いやった張本人の顔を忘れてしまっているのではないのか? もしそうだとしたら、これはまずい。今夜どころか、明日も明後日も、そして帰るまで、何も起こらずに終わってしまう。あなたの息子の敵が来ていますよ、と教えてあげなければいけない――
 だったら、こんなところで油など売ってはおられぬ。ビールを飲み干し、煙草をせわしなくスパスパ吸って、それを灰皿に押し潰して、「ビール、ごちそうさまでした」と頭を下げて、6号室を出ようとドアを半開きにすると、自分は出るに出られなくなって、ドアを閉めた。もう少し6号室に留まっていなくてはならない。なぜなら、
「お風呂、誰も入っていませんでした。入っても大丈夫ですよ」
 という真理先輩の声がしたからだ。自分は出るときに、風呂のドアの札を変えるのを忘れてしまったのだった。

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