【完結】獣たちの哀歌~ふたりの愛の巣であなたは別の女を抱いた~

鬼ヶ咲あちたん

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28話 遠くから君を想う

「死にたくないでしょ? だったら動かないほうがいいよ。ラーシュが邪魔しないって約束するなら、救急車を呼んであげる」



 アンネの口は笑っているが、目は狂気に彩られたままだ。

 そしてその右手にはまだ、もう一本の包丁が握られている。

 ラーシュは、じわじわと自分の体から、血が失われていくのを感じた。

 刺さった包丁を抜かずとも、傷口から出た血が脇腹を伝い、着ていた服を赤く染めている。

 しかし、このままアンネをエーヴァのもとへ行かせるわけにはいかない。



「アンネ……こっちへおいで」



 ラーシュは床に座ったまま左手を差し伸べ、初めてアンネの名前を呼んだ。

 さすがに、これにはアンネもうろたえ、反応した。



「ラーシュ? 今、私の名前……」

「うなじを噛んであげる。……さあ、アンネ」



 手招きをするラーシュへ、アンネは吸い寄せられるようにフラフラと近づく。

 そしてラーシュの前にしゃがみこむと、おずおずとうなじを差し出した。

 ラーシュは伸ばしていた左手で、アンネの体をぎゅっと抱き締める。

 手のひらの下で、アンネの心臓がドキドキと早鐘を打っているのが分かった。

 

(――狙うのは、ここだ)



 ラーシュはひとつ大きな溜め息をつくと、右手で自分に刺さっていた包丁を抜き、アンネの背中にそれを突き立てた。



 ぎゃあああああ!!!



 ラーシュの耳元で、アンネの叫び声が響く。

 ドンと突き飛ばされ、ラーシュは身を護ることも出来ず、仰向けに倒れた。

 

「嘘つき! 嘘つき! 嘘つき!」



 心臓には刺さらなかったのか、アンネは声高にラーシュへ悪態をつく。

 ラーシュの脇腹からは、栓の代わりをしていた包丁が抜かれたことで、どっくどっくと脈に合わせて血が噴き出し始めた。



「初めて名前を呼んでくれたのに! 噛んでくれると言ったのに!」



 アンネはラーシュに馬乗りになり、襟首をつかんでラーシュを揺さぶる。

 ゴンゴンと、ラーシュの後頭部が床に打ち付けられる音がするが、もうラーシュの意識は半ば無く、アンネの言葉も届いていない。

 そのことに気がつかないアンネだったが、伸びた襟から覗くラーシュの首筋を見て、動きを止めた。



「私が噛めばいいんだ……そうよ、そうしたらラーシュは私のものよ」



 襟を引っ張り、ラーシュのうなじを露わにすると、アンネは屈みこんで歯を立てた。

 思い切り噛むが、硬いラーシュの皮膚には刺さらない。

 埒が明かず、アンネは起き上がって体勢を整えると、先ほどよりも勢いをつけてラーシュの首へ喰らいついた。

 その拍子に、アンネの背中に刺さっていた包丁が、カランと音を立てて床に落ちる。

 ぶしゅっと血しぶきが飛んだ。

 

「っ……う゛、ぐぅ……」



 途端に呼吸が出来なくなり、アンネは苦しくてもがきだす。

 それでも霞む目を頼りに、アンネは必死にラーシュの首を探し、血が逆流する口でそこを噛もうとする。

 ぬるぬると唇が血で滑り、うまく歯を突き立てられないまま、アンネは体を震わせ無念の死を遂げた。

 

 自分の体の上で、アンネが息絶えたことが、ラーシュには分かった。

 アンネがラーシュに馬乗りになったことで、アンネの膝がラーシュの傷口を押さえ、わずかだが止血の役目を果たした。

 おかげで、ラーシュの命は少しだけ持ちこたえたが、アンネがもがいた後はそれも意味をなさなくなる。

 ラーシュの目は何も映さず、ラーシュの口は何も発さない。

 しかし、ラーシュの意識はまだ生きていた。

 

(エーヴァ、君の幸せを誰にも邪魔させない)



 ラーシュが初めてエーヴァに会ったのは、5歳のときだった。

 田舎町では珍しい眼鏡をかけた1つ年上の女の子に、ラーシュの胸はソワソワした。

 エーヴァはいつも本を読んでいて、そのことを同年代の子ども達に揶揄われることがあったけれど、物知りなエーヴァをラーシュはすごいと思っていた。

 見かけるたびにエーヴァの後を追っていたら、エーヴァから弟のように扱われるようになった。

 ずっとエーヴァと一緒にいたいという気持ちが恋だと気づいたのは、ラーシュが10歳になってからだった。

 それ以来、ラーシュはエーヴァへ、どうしたらこの想いを伝えられるかと、悶々として過ごす。

 あっという間に二人に思春期がやってきたが、容姿が地味で頭でっかちと言われるエーヴァに、田舎町では誰も声をかけようとしない。

 それに安心しきっていたラーシュに、凶報が飛び込んできたのは19歳のときだった。

 

「――田舎町を出て、エーヴァが街へ行ってしまう?」

 

 すぐさま自分も街へ行きたいと親に懇願したが、成人になるまでは駄目の一点張り。

 いまだかつてないほど、20歳になるまでの一年は長く感じられた。

 

(一年越しでようやくエーヴァに会えて、それから必死に口説いて、恋人にしてもらったことは幸運だった)



 甘くて愛しい日々だった。

 エーヴァの優しさと柔らかさに包まれて、ラーシュは幸せだった。

 田舎町で子どもらしくない、女らしくないと否定され続けたエーヴァは、自己評価が低く、なかなかラーシュの求婚に頷いてくれなかった。

 エーヴァがラーシュより1つ年上なことも、気にしていたのかもしれない。

 それを数年かけて、本気だと分かってもらって、結婚も視野に入り始めた頃、あの雨の夜がきた。

 

(エーヴァの忠告を聞いて、俺が折りたたみ傘を持っていれば、あの軒下で雨宿りをすることはなかった)



 何度悔やんでも、ラーシュの時は戻らない。

 しかし、同じ街中でアンネが暮らしていたことを考えると、結婚したあとに運命の番に出会って狂ってしまって、エーヴァを傷つけた可能性もあった。

 そうならなくて良かったのかもしれない。

 エーヴァは今、運命の番と結婚し、幸せでいる。

 

(ディミトリス、エーヴァをよろしく頼む。俺は、もう――)



 ラーシュの意識が遠のく。

 このまま死ぬのだと、ラーシュにも分かった。

 急に、体に載っているアンネの重みを感じた。



(運命の番とは、獣人の本能とは、何なのだろうな。俺のエーヴァへの愛は、そのどれでもなかった)



 ラーシュの脳裏には、才女と言われた幼いエーヴァや、まだ恋人未満だった頃のエーヴァや、腕の中で蕩けた顔するエーヴァが、代わる代わるに現れた。

 どのエーヴァも、ラーシュにとって等しく愛しかった。

 ラーシュが生きた26年間のうち、その人生のほとんどを、愛するエーヴァの側で過ごすことが出来た。

 その奇跡に、ラーシュは心から感謝した。

 そして祈った。



(末永く、どうか幸せに。エーヴァ……いつまでも愛している)



 それを最後に、ラーシュの意識は途切れた。

 独り立ちしたエーヴァが暮らし、それを追いかけてきたラーシュと過ごした愛の巣は、今や血にまみれ、重なる遺体が残されるだけの、虚しい箱と成り果てた。



 ◇◆◇



「エーヴァさん、どうしたの? 急に立ち止まって?」



 エーヴァはマリトと一緒に、久しぶりの買い物をしに百貨店へ来ていた。

 そろそろ臨月に入り、産婆からは無理のない範囲で、体を動かすように言われていたのもある。

 出産後に必要となるものを購入できればと、いくつかの店を見て回っていたところだ。



「マリトさん、お腹が……もしかしたら陣痛かもしれません」

「じ、陣痛!? 大変じゃない!」



 エーヴァの妊娠が発覚したときに分かったことだが、マリトは女性特有の身体現象に対して、自分が分からないせいか過剰に反応してしまう。

 今も飛び上がらんばかりに驚いて、エーヴァよりもパニックを起こそうとしていた。



「マリトさん、落ち着いて。ディミーさんに連絡をお願いします。今なら執務室にいるはずです」

「分かったわ! エーヴァさんは、ベンチにでも座って、体を楽にしていてちょうだい!」



 マリトはすぐに近くの店に駆け込み、電話を借りると家令を呼びだした。

『エーヴァさんに陣痛! エーヴァさんに陣痛!』と、まるで伝令のようなマリトの報告に、家令は冷静に対処した。

 家令からの連絡を受けて、ディミトリスは即座に指示を飛ばす。

 産婆を呼び、念のためにかかりつけ医のベンジャミンも呼ぶ。

 使用人たちは、あらかじめニコラから教わったとおりに、たくさんの湯を沸かし、清潔なシーツやガーゼをエーヴァの部屋へ運び込む。

 そしてディミトリスは自ら、エーヴァを迎えに車を出した。

 

 これから、一昼夜をかけてエーヴァの出産が始まる。

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