外骨格と踊る

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外骨格と踊る

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その田圃はまさに漢字の「田」のような形をしていて、畦道の交点、その北西の角に一軒の民家が建っている。漆喰の壁に濡羽色の瓦屋根。南に向いて庇と縁側が延びる。片田舎の団地にはありがちな家屋だが、周囲に同じような建物は見当たらなかった。少なくとも「田」という字のエリアには、何も。

南から歩いてきた私は退屈な道を進み、一階の縁側から二階の窓へと次第に視線を上げた。シャボン玉が風に流れている。二階の窓が大きく開けられ、その枠からこぼれ落ちそうになりながら身を乗り出す人影があった。黒髪が重力に従って真下に垂れ、彼女の胸元までを隠している。だから服装などこちらからは窺えないが、おそらくいつもと同じ木綿のワンピースだろう。髪の隙間から生えた片腕が窓枠と口元を往復していた。そこにシャボン液のボトルがあるはずだ。私が下から上へと眺めていったように、彼女は正面から地上へと目を落とした。そこでようやく視線が交わる。買い出しから戻ってきた私の荷物を一瞥すると、手を振るでもなく再びシャボン玉をぷかりとふかした。

この美しい女の名は、宇佐美ハルカという。

春香とも遥とも綴りようのある名前だが、「春花」であることを当人は何度も強調していた。夏の海、秋の月、冬の雪、そして春の花、ハルカよ。自己紹介の度に述べる一連の言葉の由来は知らないが、他の者が追及するところを見ないので、誰かの詩の一節なのかもしれない。だとすれば私は流行りに乗り遅れているのだろうか。ただ座って本を開いているだけでも絵になる彼女が、何を読んでいるのか興味を持たないのは私くらい、ということなのだろうか。

どこからかギターの音色が聞こえる。誰かがそれに合わせて歌っている。ハルカではない。この場所にいるのは、ハルカと私だけではないのだから。私を含む十名の仲間がここを拠点としており、入れ替わり立ち替わり気ままに過ごしている。楽器を弾く者がいれば歌う者もおり、踊る者も、書く者も、作る者もいた。世間に向けて公表している名を使うなら、この集まりは劇団と呼ばれるものだろう。ただ私は今ひとつそのような自覚を持っておらず、何だか妖精の群れのようだなと感じていた。

使命や目的など大それたものは持ち合わせていない。

役に立つことも立たないことも見境なくやった。春の女王であるハルカを中心に、ただ幼稚に遊んで過ごしていただけだ。とはいえ所詮私たちは生身の人間であるので、方針もなく始まった遊びはいつか終わりが来る。

南から歩いてきた私は顔を上げる。古い民家はやや東側へ傾き、明らかな老朽を示していた。確かにこれでは買い手がつかない。私のような物好きでもいない限り。瞬きをしてから再び二階の窓を見れば、そこには暗い天井が覗いているだけだった。シャボン玉は飛んでいない。ギターの音も、歌も聞こえない。ただありありと、あの日の光景を思い返していただけのこと。私は昼食の入ったビニール袋を片手に、誰も待っていない家へ向かってさらに歩く。周囲に田圃しか見えないので、どれだけ歩いても近付いている実感がわかなくて困る。

劇団が解散したのにはいくつかの理由があるが、ハルカが姿を消した理由はひとつしかない。今となっては語る者もいないだろうから、私が覚えている限りのことをここに綴ろうと思う。
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