シグナルグリーンの天使たち

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七月・そうは桑名のかき氷

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   *

トン、と小気味良い音が鳴る。
二色小龍がダーツの矢を投げたのだ。壁には模様替えの際に見つけたボードが掛けられている。少々本格的なハードボードだが、ダーツの方は家庭用のソフトチップだ。これでも十分に刺さるし騒音も少なくて良い。とはいえ、投げた当人は性能の差など把握してはいないだろう。ダーツは見事命中、ブルへと刺さっていたものの、点をつけたり次を投げたりする様子は見られなかった。
「すごい。真ん中だ」
素直な表現で如月サツキが友人を称える。どうやらこの場にいるふたりの大学生は、両方ともがルールを知らないまま遊びに興じているようだった。こちらとしても数年ぶりに棚の裏から発見した道具だ。腕も鈍っているし知識も遅れているだろう。割り込んで指導できる立場でもない――などと考えながら、カフェの店主である浅間は昼下がりのひと時を過ごしていた。
小龍とサツキは隣のアパートの住人であり、カフェの常連客であり、浅間の大切な友人でもあった。毎日のように会って話す環境になってから、さほど長いわけではない。それでも様々なことがあったのだ。この場所で、あるいは二階の温室で繰り広げられるいくつかの事件を経験するうちに、まるで十年来の関係のように感じる自分に気付いた。もちろんこの歳の差だ。相手からすればどんな印象であるか知れない、と、自戒を込めて言い聞かせているものの。
園芸店のアルバイトである雨屋りりすは、今ここにはいない。元よりふらりと立ち寄る客も少ない店である。ほとんど貸切の状態で、青年たちの和やかな会話だけが聞こえた。
「本当に狙ったところに投げるのが得意なんだね」
「そうだな。ジャグリングの練習もしているし」
「昔から手先が器用だったよね。小学生の頃から……って、小学生の頃のことしか知らないけれど」
彼らは小学生時代のクラスメイトであり、卒業以降は特に会っていなかったという話は聞いている。現在二十二歳であるとすれば十年ぶりか。小龍は大学四年生、サツキは浪人を挟んでいるので三年生とのことだ。確か三月あたりにそのような話題になったはずで、当時のことを思い返しながら浅間はパソコンに触れた。店のホームページの更新とメールのチェック。いつもと変わらぬルーティンワーク。その作業にひとつだけ付け加えられたのはいつだったか。全く店のものとは関係のない、どこからもリンクされていないブログサイトにブックマークから飛んでいく。
「小学生の頃、な」
刺さったダーツを引き抜き、丁寧に片付けながら小龍は言った。
「俺はまだピアノをやっていたな。お前は……文章が上手かった」
浅間はレジ台の奥のデスクに移動したので、ふたりの動きだけがかろうじて見える。思い出話を振られたサツキが、どのような顔をしているのかは分からなかった。
「作文とか日記とか、いつも先生に褒められてたろ。俺にも読ませてくれたことあったよな。凄かったよ。プロの書くエッセイみたいな文体で」
「自分じゃよく分からないんだ。あれが普通だと思っていたから……」
「まあ、お互いにな。色んなことを普通だと思ったまま生きていたよな」
例えば絶対音感のことだとか。ピアノを自在に弾けるだとか。先月明らかになったばかりの、他人とは違う能力のことも。つい小龍の方が目立ってしまうが、サツキも少なからず近い立場にあったようだ。彼らの会話を背景に、浅間はブログの閲覧を始めた。相変わらず更新の頻度が高く、少し見ないうちに数日分の日記が増えている。
(日記、か)
子供の頃は苦手だった。大人になってからも、ろくに毎日つけられた試しがない。規律正しい生活を送っているように思われがちだが、これでも見えない場所では手を抜いているのだ。そんな日々をあえて形にするのは気恥ずかしく、どうしても筆が進まない。
(……おや?)
考え事をしているうちに手が滑り、アドレスバーに表示された字列を消してしまった。英数字のいくつかを消し、咄嗟に触れたキーで書き足してしまった気もする。当然ながらアドレスは別の形へと変わり、アクセスできない状態になると思った。
だが。
同じような形態のブログ。おそらく同じ人物が立ち上げたと思われる――否、元は同じサイトであったのを分離させたかのような、そっくりな画面。アドレスの末尾部分を弄っただけなのだから、その可能性はあるのかもしれない。リンクが貼られていないので今まで知らなかったが、ずっと近い場所にあった秘密のページ。
(いや。ならば見てはいけない)
慌てて引き返す。それでも目に入ってしまった。あれの内容は紛れもなく日記で、おそらく執筆者は子供だ。特徴といえば、その日の記述を始める前に必ず名乗りを上げていることか。ひとりで書いているのなら名乗る必要はない。
交換日記。
そんな可能性が浮かぶと同時に、ノート型のパソコンを閉じた。昔から文章を読むのは速い方だった。活字が視界に入るとすぐに読み進めてしまう。罪悪感にかられながら周囲を見渡すと、サツキが怪訝な顔をしてこちらを見ていた。パソコンを閉じる音が大きかったのかもしれない。
言い訳を考えなければ、と思ったとき。
「あらあ! いつにも増して静かじゃないの」
快活な声と共に、ドアベルの音が響き渡った。そう――鳴る、なんてものではなく。明らかに普段よりも大きな音と動きで、カフェのガラス扉が開かれる。
「どうもどうも! お久しぶり、寛太郎ちゃん」
入ってきたのはトロピカルカラーのシャツに身を包んだ女性だった。サングラスを掛け、髪を染めているので若々しいが、相応の貫録があるので若作りではない。彼女が浅間より年上であることは誰の目からも明らかだろう。ひと足ごとに白いサンダルの踵が軽やかに弾んだ。
「また模様替えした? 統一感ないわねえ、って私のせいか。あらこのダーツボード、私が押しつ……じゃなかった、あげたやつじゃない。使ってくれてるのね。懐かしいわあ。そうそう、これお土産。直接渡すの初めてだったりして」
流れるような動きで紙袋を寄越す。落としそうになりながらも受け止めた。今回は軽いものでまとめてくれたようだ。ひとまず隣に置き、声を掛ける。
「良かった。もう来ないんじゃないかと心配だったよ、依織姉さん」
「お姉さん!?」
先に言葉を返したのは青年たちの方だった。無理もない。ボブカットの金髪にノースリーブのシャツ、白いパンツにサンダルという姉らしさの欠片もない彼女は、振り返ってにっこり笑った。
「こんにちは。初めまして。あなた方のことは知っているわよお、アパートの入居者さんでしょう。どうもありがとうね」
「初めましてであること自体がおかしいんだけどね……」
浅間は苦言を呈しながら前に出る。片手で彼女を示して紹介した。
「一番上の姉です。それで、君たちの暮らすアパートの大家さんでもあって」
「え、お会いしたことありませんよ!」
サツキが驚くのも当然だ。彼は一月に入居したばかりなので記憶が新しい。その際にすら大家に会っていないとなれば、まるで寝耳に水だろう。
「だって私の本業はこっちだもの」
悪びれもなく依織はキャリーケースを指差した。
「古美術商。寛太郎ちゃんから聞いてる?」
「はい、それは一応」
「ずっとアパート空けちゃってごめんなさいね。いつも世界中を飛び回っているから。今日はどうしても私がいなきゃいけないみたいだから戻ってきたんだけど」
「そんな他人事みたいに、姉さん」
本日はアパートの点検日であり、夜間に電気が止められるのだ。夕刻六時から二十二時までという最も不便な時間帯になってしまったが、諸般の事情があるのでやむを得ない。肩書きだけとはいえ大家が不在のわけにもいかず、ついぞ彼女は帰ってきた。住民たちへの通達は既に済ませており、外で過ごすことにした者もいるようだ。
「特別に夜間もカフェを開けてくださるそうなので、ここでお世話になるつもりです」
サツキの言葉に浅間も続く。
「さすがにこの暑さだと、停電した室内で過ごすのは危険があるからね」
七月に入り、気温は真夏日と熱帯夜を繰り返していた。最低限の非常用電源を除き、今夜はアパート全体で電気が使えなくなる。冷房機器が役に立たない中で過ごせというのは、かなり酷な話だった。
「それじゃあ私も夜はここにお邪魔しようっと」
適当な椅子を引き、依織は腰を下ろした。夜どころか今から入り浸るつもりだろう。何より嫌いなものは狭い場所、寂しい環境、新しい刺激のないこと。申し訳程度に備えられた管理人室に定住するはずもなく、きっと明日にはまた旅立ってしまう。つくづく忙しい人だなと思った。先ほど彼女自身が言った通り、土産を直接渡されるのも初めてかもしれない。いつもは海外からの郵送で、当人と会うことなどありやしないのだ。
積もる話も、あるに決まっている。
紙袋の中身はフランスの上品な菓子だった。ならばあのトロピカルな服装は何だったのかと言いたくなるが、暑いので快適な恰好をしていただけだろう。お茶を淹れてしばらく語らった後、青年たちは自室へと戻っていった。
「俺たち、また夕方に来ます」
片手を振って小龍が告げる。戻るといってもすぐ隣のアパートだ。ベランダが向こう側、通路がこちらを向いて建っているので、ふたりの歩く様子も遠目に窺えた。二階の端に並ぶ部屋が彼らの住居だ。通路には人が通るとセンサーで点く電灯があり、昼間でもぼんやりとした光を放っていた。
「良い子たちね」
自分のグラスに紅茶を注ぎながら、依織は言った。
「あなたも大変でしょう。こんな立派な店をひとりで、上から下まで」
返答に詰まる。大変と言えばそうかもしれないが、大変でない生活は、きっと寂しい。身の周りで常に何かが起きているからこそ、生きている実感が得られるのだ。その気持ちは彼女の方こそよく知っている、はずだ。
「姉さんも言っていたじゃないか。忙しく動けているうちが一番幸せだって」
「言った言った。とはいえ、私ほど忙しいわけじゃないでしょ。静かで落ち着いた、ちょうど良い感じのお店だもの」
「そう。ちょうど良いから助かっている」
騒がしいわけでもなく、堅苦しいほどでもなく。金髪にサングラスの女性がいても、不思議と馴染んでしまう店の雰囲気。棚に飾られた置物のほとんどは彼女の土産物だ。買った本人がとうに忘れているようなものばかりで、店が構成されていく。
「それより姉さん、ちゃんと設備の場所とか把握しているんだろうね? もうすぐ業者の方がいらっしゃるのだけど」
彼女がいないせいで、普段は浅間が管理人の真似事をさせられているのだ。睨むような素振りで問い掛けると、依織は小さく舌を出した。

   *

六時過ぎ、予告通りにサツキがやって来た。しかし小龍の姿は無い。後から来るらしい、と彼は話した。
「自室の物置で何か見つけたみたいで、ごそごそしていましたよ」
既に停電は始まっているはずだ。夏なのでまだ明るいが。依織は業者への説明と対応を何とか終え、後は任せるだけの状態になっていた。つまり再びカフェに居座っている。浅間姉弟、そしてサツキ、他には誰もいない。
「入居者さんもすっかり減っちゃったわね」
依織は指折り数える仕草をする。駅から近いので学生を中心に人気があるが、それでも空いた部屋はすぐには埋まらなかった。三階に住んでいた親子も進学をきっかけに退去している。小龍も就職すればどこで住むことになるか分からない。
「まあ、焦らずに続けていけば良いさ」
きっとこれからも何も変わらない。急に賑やかになることもないだろうし、誰もいなくなる未来も浮かばなかった。オーナーの依織がほとんど関与せずとも今までやってこられたのだ。これからもゆるりと続けるだけだ。
「寛太郎ちゃんがそう言うのならそうなのかしらねえ」
「あのね、丸投げしないでくれるかい」
そんな話をしている間にも小龍は姿を見せなかった。気になったものの、もう少し待っても良いかと考える。まだ物置で探し物をしているのかもしれない。アパートの方向を窺ってみたが、停電中なので在宅かどうかは分からなかった。そういえば彼らは夕食を済ませているだろうか。店を夜に開けるのはイレギュラなことなので、簡単なものしか用意できないが――などと考えていたとき。
その滅多にない夜間営業の思い出を、呼び起こす存在が現れた。
「こんばんは。入ってもよろしいかしら?」
ガラス扉を開けて覗き込む女性がいる。馴染みの相手だ。隣で営業する焼鳥屋の女将、小面の姿がそこにあった。
「今日は夜も開いているって聞いたから、遊びに来ちゃった。ほら」
そう言いながら小面は振り返る。後ろについて来ていたのは長身の男性だ。
「あっ」
サツキが椅子から腰を浮かせて声を発する。何かを思い出したが、具体的な言葉にならないような仕草だった。
「ええと、その……もしかして、不動さんですか」
男性は軽く頭を下げる。肯定の意だろう。彼の腕の下をくぐるようにして、小面が店内に入った。不動は劇団に所属する役者であり、この店で五月に催したミステリイベントにて世話になっている。咄嗟に名前が出なかったのは、彼の外見の印象が大きく変化していたからだ。
「髪、黒に戻したんですね。いや、もしかして逆に黒染めですか? 長さも二ヶ月で随分と伸びて……あれ?」
首を傾げる。まるで推理する探偵のように、疑り深い顔になって。
「それ、ウィッグだったりしますか」
「私も不思議なのよ! すぐ見た目を変えちゃうんだから」
不動の代わりに小面が答え、からからと笑った。五月に会った際は茶髪の今風な男だったが、今日の不動は憂いを帯びた芸術家然とした印象だ。同一人物である以上、顔は変わらないはずなのに、それすら記憶のものと重ならない。
「僕のことなんて会う度に忘れてくださって良いですよ」
店の奥へと歩みを進めながら彼は言った。
「役者は化ける生き物ですからね」
「かっこ良いこと言うじゃない」
小面は上機嫌の様子で席のひとつに座る。その近くに不動も腰かけた。彼は仕事の都合でこの辺りに来ており、小面の店へ挨拶に訪れたところ、こちらへ誘われたそうだ。ならば焼鳥屋の方は大丈夫なのかという疑問が湧いたが、アルバイトを雇い始めたので平気だという返答をされた。他人事ながら不安は拭えないが、片道三十秒も掛からない距離にいるので何とかなるだろう。
「あの時はごめんなさいね。無理言ってイベントに参加してもらって」
客でありながらイベントにも携わったのはサツキだけだ。あの場に小龍もいれば参加したがったかもしれないが、その機会は無かった。行く先々でスタッフを巻き込むことはよくあるらしい。店の片隅で繰り広げられる、ほんの短い劇だ。給仕や客のひとりを演じるのなら、むしろ役者ではない方がリアルなのかもしれない。
「あの程度でお役に立てたのなら、俺も嬉しいですよ。楽しかったですし」
「良かった。またやりたいわねえ」
さりげなく向けられる視線に、どうでしょうかね、とだけ返す。浅間の方も、あんな日が再びあっても良いとは考えていた。こちらから提案すると彼女が張り切りすぎてしまいそうなので、何も言わないが。
「そうだ」
ふと思い立って冷蔵庫を開けてみれば、数個の桃が入っている。姉の依織が手土産に提げてきたものだ。さすがにフランスから持ち帰ったわけではなく、近くの青果店で入手したようだが。今が旬の、瑞々しい立派な桃だった。
「皆さん、夕食はお済みですか」
その問いかけには全員が頷く。もっとも依織とは、この場で食事を共にしたので知っているのだが。ならばデザートを提供しても良いだろう。桃を手にして振り返ると、依織が立ち上がって口を開いた。
「せっかくだから、かき氷にしません? カフェのメニューにあることも、奥に道具があることも知っていましてよ。大丈夫、私が削ってあげるから」
彼女は昼の間に店内を物色し、どこに何があるのかを把握しているのだった。かき氷を作れるだけの用意があることは事実である。それも悪くないな、と考えた。桃はこの人数で分けるには心もとない数であったが、かき氷のトッピングなら適している。
「依織さん、ナイスアイデアですね!」
小面が両手を組んで喜びを表した。ちなみに彼女は、依織とは一度だけ顔を合わせたことがある。ふたりとも社交的な性格なので、一度会えば知人として十分だろう。
「不動さんも、それでよろしいでしょうか」
先ほどから静かにしている彼に向かい、浅間は問いかけた。甘いものが苦手かもしれないと考えたのだ。サツキが何でも食べる青年であることは知っているが、彼の方はどこか食の細い印象がある。
だが、その心配は杞憂であった。
「お言葉に甘えて。こんな見た目ですが好き嫌いはないです、私は」
彼の返答に安堵する。しかし違和感があった。そういえば先ほどは自らのことを、僕と示していなかったろうか。状況に応じて一人称を変える男性は少なくない、が。
そんな思案もすぐ、依織の声で掻き消された。
「ほら、早く早く」
古い鉄製のかき氷機を持ち出してくる。年代物なので流行りの柔らかな削り方はできないが、この店では粗いかき氷も人気があった。依織にとって、このような日本らしい夏を過ごすのは何年ぶりのことだろう。更けゆく夜と反比例する明るい声が、氷にも似たガラス張りのカフェに響いていた。

   *

「それでね、次は怪談をテーマにしたイベントにしようかと」
最後のひと匙を掬いながら、小面は話す。桃とクリームを乗せたかき氷は好評で、他愛もない話をしているうちに食べ終えつつあった。
「良いじゃないですか、怪談。ミステリとも相性が良さそうです」
サツキが応える。無口な不動とは対照的によく話すので、小面のネタ出しの相手になっていた。イベントのメインターゲットは彼のような若者だそうなので、大いに参考になる意見だろう。
「サツキくんは怖いの平気なのかしら?」
「それほど本格的なものでなければ。小面さんのイベントは子供も楽しめるようなものですから、そこまで怖くなさるつもりはないでしょう?」
「そうね。ちょっとぞくっとして、面白いくらいが良いわね。ミステリだから謎を解かなくちゃならないし。怪異だと思っていたものにはトリックがありました、ってね」
「なるほど。それならすっきりとした気持ちで帰れますね」
彼女たちの会話を背景に、依織は食器をまとめて厨房に運んできた。昔から破天荒だったが、自分の言い出したことの後始末はきちんとする人だ。不動は何をしているのかと目を遣れば、少し離れた席で窓の外を眺めていた。煙草でもふかしていれば絵になる姿だ。そのような嗜好がないか、控えているのか、ただ肘をついているだけだったが。
「怖い話といえば、小面さんは何か経験があるのですか?」
サツキの問い掛けに彼女は目を細めた。常に周囲に朗らかな空気をまとう人であり、怪異の方から成仏していきそうだ。やはりすぐには思いつかないようで、視線を揺らしながら思い出そうとしていた。
「ちょっと不思議なことなら、ひとつだけあるかな」
「あら、それは聞きたいわね」
洗い物を終えた依織が、磁力で引かれるかのように話へ入る。彼女は子供の頃からその手の話が好きだった。友人と探偵団じみたものを組んで、学校の七不思議なぞを調べていた記憶がある。もう中学生だというのに、と周囲から呆れられていた。
「これはアタシが小学校を卒業する前、だから十二歳くらいのことなんだけど」
ペンダントライトの元で、静かな声が漂った。
「実はアタシ、相当な田舎の出身でね。隣の家まで数百メートルあって、地元みんなが親戚同士みたいな、そんな感じのところで。夏休みに遊びに行くおばあちゃんち、とかを想像してもらえると分かりやすいかも」
確かに分かりやすい。容易に想像ができる。だがそれは、物語の中で構成された景色が深く焼き付いているからかもしれない。入道雲。だだ広い田園とあぜ道、蝉の声。縁側ではサイダーが冷えていて、歳の近い親戚と日暮れまで遊ぶ。浅間姉弟ですら、ここまで典型的な夏の思い出は持ち合わせていなかった。空想の共通言語としてあるだけだ。
そんな景色を、小面は実際に見ている。
「今日みたいな夏の暑い日だったわ。庭に知らない子がいたの。門も鍵もほとんど使わないような家だから、近所の子が入ってくることなんて茶飯事だったけどね。でもこの辺りはみんな知り合いだし、全く唐突に表れたものだから、何とも不思議で」
小面が十二の頃なら、今から二十年も前のことだ。記憶が正しいとも限らない。それでも司会者として喋り慣れた者が紡ぐ話は、何とも引き込まれるものがあった。
「四、五歳くらいの女の子だったわ。すごく暑いのに、赤い着物をきっちり着込んで、うちの庭で毬つきしていたの。名前を訊いたけど忘れちゃった。アケミとか、アカネとか、そんな感じだったとは思うけど……。何日か続けて現れて、一緒にジュース飲んだり扇風機にあたったりもしたけれど、いつの間にか来なくなったわ。親がいるときに姿を見せなかったのよねえ。だから知っているのは、アタシだけ」
「座敷童みたいね」
依織が言った。浅間も同感だった。小面の語る描写は座敷童のそれと一致する。しかしここまでなら、風変わりな子供を見かけたというだけのことだ。まだ十二だった彼女の知らない近隣住民もいるだろう。
「座敷童。そうねえ……そうなのかも」
小面は小さく息を吐いて笑う。
「座敷童は大人の目には映らないんでしょう? だからきっとそうなのよ。アタシ、周りの大人に訊いてみたの。あの年頃の、小さな女の子が近所にいないか、って。この一帯はみんな親戚みたいなものだから、すぐ分かると思った。でも」
「見つからなかったの?」
「ええ。子供は男の子ばっかりで、そんな女の子なんて知らない、って」
溜め息をつくような風音が聞こえる。確かに少し不思議な話だった。親戚に女児そのものが滅多にいないとなれば、着飾ったせいで見間違えたという線も考えづらい。赤い着物に毬を持つ少女。どこまでも青空が広がる夏の田舎には、あまりに釣り合わない。
「アタシの話はそんな感じ。本当にこれだけなのよ。幽霊やお化けが見えたことなんてひとつも無いんだから。せいぜい座敷童、ね」
「俺は面白いと思いますよ、座敷童」
サツキが会話に入る。陽の沈み始めた窓枠の中で、横顔が影絵になっていた。
「少し怖くて、可愛らしくもあり。程よいテーマだと思います。後は小面さんの手にかかれば、楽しい脚本になりますよ」
「あらあら、嬉しいわね。任せてちょうだい」
期待を受けた小面は、右手首を軽く叩く仕草をした。隣に店を構える同業者としてそれなりの付き合いがあるが、任せてという意思を示す際に彼女はこの仕草をする。本人にとっては無自覚のようで、それほど頻繁にするわけでもないが。次に話を振られたのはサツキだった。ちらりとアパートの方を振り返った後、大した話ではないのですが、と前置いてから話し始める。
「通路に面した窓のある小部屋を寝室にしているんですけど」
このアパートの間取りは大半が同じだ。浅間も空き部屋を覗いたことがあるので、彼の言う寝室がどのようなものであるかは想像がついた。本来は物置として使うのであろう、格子つきの窓がひとつある狭いスペースだ。サツキはそこにベッドを押し込み、寝起きしているらしい。
「あの場所じゃベッド置くだけでギリギリでしょ」
大家である依織も部屋の構造を覚えていたようだ。彼女の言葉にサツキは頷く。
「狭い方が落ち着くんです。変な使い方だってことは分かっているんですけど……。それで、ここ最近――夏に入ってから、かな。何だか変な夢を見るようになって」
夢。夢といえば、彼はかなり特殊な性質を持っている。毎日のように見る夢を、きちんと覚えているのだ。常人ならば目覚めと同時に忘れゆくものを、日中の出来事のように記憶している。そしてその内容を書き記していると聞いた。
「毎日じゃないんです。週に一回くらいのことです。寝ている俺の足元に誰かが立っていて、何をするでもなくそこにいる。白い、輝くような恰好なので、天使なんじゃないかという気がするのですが」
「天使……」
思わず声が漏れた。その単語には縁がある。しかし誰も気にする素振りを見せなかったので、浅間も取り繕いはしなかった。周りに聞こえるほどの声ではなかったのだろう。
「夢の中の話ですから、起きてもそこには誰もいません。ただ燦々と夏の日光が差し込むだけです。だから怖い話ってほどじゃないんですよ。夢の中なんて、何だって起きるのだから不思議でもない」
サツキは夢の内容を記録している。インターネット上のブログサイトに、きちんと日付ごとに保管されていた。読ませてもらったことがあるが、実に見事だ。彼自身の回想によるものではなく、夢の主人公が経験した物語として、まるで小説のような文体で書き連ねられていた。
この天使の話も、その日のうちに綴ったに違いない。
「そもそもあの部屋って、そんなに陽が差し込むかしら?」
依織が首を傾げる。その疑問は浅間も持っていた。通常、アパートはベランダが南、通路側が北を向いて建てられている。物置は通路に面した窓がひとつあるだけの、北向きの部屋なのだ。陽が昇るのが早くなったとはいえ、燦々と明るく感じるものだろうか。
「それは……確かにそうですね」
ううむと彼は唸る。寝ぼけていたのかな、と小さく呟いた。起きた際の部屋の明るさまで含め、全て夢だったと思い込めば解決するかもしれない。だがそこで、浅間の頭に浮かぶ可能性があった。
「その〈天使〉が現れるのは何曜日だったか、分かるかい?」
問い掛けてみると、サツキは目を丸くした。
「もしかすると定休日が関係しているのかもしれない」
「えっ、天使にも出勤日とお休みがあるのですか」
「違う違う、そうじゃなくて」
愉快な子だな、と考えた。その独特な感性を持っているからこそ、日頃の夢を当たり前のように覚えていられるのだろう。自身が空想の世界に浸ることで物語を生み出す、絵本作家のように。
浅間は人差し指を立て、頭上を差し示した。螺旋階段を覆う半円柱のガラスの壁と、そこに取り付けられた特注のブラインドがある。
「お店の定休日、火曜日だから。その日だけはブラインドを開けてなくて。もしかしたらそこに、太陽が反射しているんじゃないかと」
事情に合わせて休みを取ることも多い店だが、一応は火曜日を定休日として扱っている。店を開けなくとも浅間はここへ来ているが、ブラインドまでは触らないのだ。アパートは通路側――北側をこちらに向けて建っている。太陽の光はガラス張りの店内を素通りしていくはずであるが、ブラインドが閉まっていれば話は別だ。
「この白いブラインド、よく反射する材質だと思うから」
北向きの部屋が明るかった理由は、これだ。薄いアルミ製のスラットは、風に当たる度にきらきらと光を放った。これがひとかたまりとなって窓から差し込んでいたのなら、まるで輝く人物が立っているように思えても不思議はない。
「ああ、なるほど」
納得した顔でサツキが頷く。この話は仮説に過ぎないが、気がかりの種が解消されたのなら良かった。毎日穏やかな夢を見て眠ってほしいものである。怪談話に区切りがついて静寂が訪れたとき、お喋りな依織が口を開くより先に電子音が鳴り響いた。
「何?」
大家が把握していないのなら世話もない。浅間は姉をせっついた。
「内線電話。ほら、あそこにあるから早く取って」
このカフェがカフェとして使われる前は、管理棟としての役目を担っていた。その名残でアパートと繋がる内線電話が設置されている。もっとも、普段は浅間が管理人の代わりを務めているので現役ではあるのだが。立ち上がった依織は片隅の白い受話器に駆け寄り、相手と通話した。
「管理会社さんからだったわ」
席に戻った彼女は告げる。
「点検、順調に進んでいるって。早く終わるかもね」
停電しているのに電話は使えるのか、という疑問は誰も口にしなかった。目の前で当たり前のように使っていれば、案外と浮かばないことなのかもしれない。別口の電源を使っているので、内線電話と火災報知器、人感センサー付きの電灯だけは機能するのだ。
さて、小面とサツキの話を聞くうちに、陽はすっかり沈んでしまった。
真っ暗になった窓の外が鏡のようである。その鏡に半身を映し続ける男がいた。ずっと会話に加わらないものの、つまらないという素振りでもなく。ただ静かに、凪いだ空気をまといながらこちらを眺めている。
「不動さんも、何かお話しにならない?」
小面が穏やかな声で問いかけた。不動は長い前髪を顔の端に掻き寄せ、目を細める。
「俺なんかの話も聞いてくださるのでしたら、是非」
その声はあまりにも深く真剣で、笑える類の怪談話でないことは明らかだった。

   *

不動アキラという青年は今でこそ舞台役者だが、かつては子役出身の俳優だった。
芸能に疎い浅間ですら彼の名は知っている。顔を見て咄嗟に浮かばなかったとしても、その名前と略歴を聞けば記憶の中の存在と一致させることができた。たしか梨園を舞台としたドラマにおいて、主人公の幼少期を演じたことから有名になったのだ。当時の彼はほんの四歳ほどであったので、芸歴は長い。現在所属している劇団においても、年若いながらにベテランとしての立場にいる。
彼が突然、舞台役者へ転向した理由は、いまだ明らかにされていない。小面はイベントごとに適した役者を選んでいるため、いつも不動と組んでいるわけではなかった。ここにいる誰よりも有名な人物であるにもかかわらず、ここにいる誰も彼のことをよく知らない。会う度に忘れてくれても良いと、そんなことも言っていたが。
「私が若かった頃の話です」
不動は語り始めた。導入からして妙である。劇団にて公開されているプロフィールが正しければ、彼は二十四の若者だ。今だって十分に若い。だが彼の口ぶりにはそれを納得させるだけの演出力があった。彼ならば百を超えた老人ですら名乗りひとつで演じきることができるだろう。そんな、役者としての才能を感じさせる語り口だった。
「十七、くらいでしたかね。まだ舞台ではなく映像の仕事をしていました。親元を離れて暮らしていたので、住んでいたのは事務所の借りたアパートです。普通に生活していましたよ。テレビで見かけたことを他人に指摘されることも無かったと思います」
そりゃあそれほど容姿が定まっていなければ、という言葉を飲み込む。近隣住民ですら、彼の部屋は住人がころころ変わると感じていそうだ。もっとも、当時の彼に今と同じく変装癖があったとは限らないが。
「ちょうど上の部屋に住んでいたのが、同じ事務所の役者仲間でした」
人差し指を立てる。このカフェの上にあるのは温室だが、彼が語るのはかつての友人の話であった。同い年で、子役出身の同じような経歴の役者が上の部屋にいた。性格はあまり似ておらず、堅苦しい場が苦手で大雑把な少年だったそうだ。
「ちょっとしたパーティに呼ばれたことがあったんです。事務所同士の交流のような、所属タレントであれば誰が行ってもいいものなんですけどね。どうせなら若い奴が顔を出しておけ、と私たちに声が掛かった。だから私は行きました。もうひとりの彼は――その誘いを、断りました」
「あら勿体ない」
小面が口を挟む。確かにその通りで、顔を売ることが仕事に繋がる彼らにとって、好都合な機会だったろう。それを断るということに、不動とは対照的な性格が表れていると感じた。不動は仕事に対して熱心だ。必要だと思ったことには手を抜かない。
「俺もそう言ったんですけどね」
軽く息をつきながら、話を続ける。
「ああいう場は苦手だ、適した服すら持っていない、なんてとぼけたことを返されて。まあ彼は普段着も緩い和服のような感じで、正装に使えるものは芝居で与えられたものくらいしか無かったんじゃないでしょうか。もちろん事務所でいくらでも用意できますし、単なる言い訳なんですけどね」
語りながら、彼は鼻筋に手を添える仕草をした。眼鏡を掛けている日もあるのかもしれない。いよいよもって、彼の「普段」の容姿というものが想像つかなくなった。今日は小面がいたので思い出すことができたが、次に会ったとしてもまず気づかないだろう。そんな不動がどのような少年であったか浮かびもしないが、あの日の彼は真っ黒のスーツに身を包み、パーティへと向かったそうだ。
「アパートを出る直前、階段のところで彼と会いました。本当に全く出掛ける気もないらしく、綿の甚平姿にサンダルという有様で……彼が役者だなんて、他の住人は思いもしないでしょうね。そこが彼らしいと言いますか。適当に見送ってくれて、俺は迎えの車に乗り込んで別れました」
彼は怪談話としてこれを話し始めたはずなのだ。小面とサツキの話が終わり、その流れで振られた話題なのだから。しかしまだ何も起きていない。十七歳だった不動少年が向かった先で何か起きるのか、それとも友人の残ったアパートの方で――
嫌な予感がした。
今までどこを見るでもなく言葉を紡いでいた不動と目が合った。生唾を呑む音が届いたのかもしれない。長い前髪の幾筋かで遮られている瞳。初めて会う相手のような、覚えのない顔だ。
「パーティは滞りなく終わりました。派手ではありましたけれど、僕にとって大して面白いわけでもなく。まあ無駄ではなかったかな、と思いつつ、アパートに戻って。自分の部屋へ向かうため階段を上っているとき、また彼に会いました」
夜も更けた頃だった。周囲に目立った建物もない立地だったらしく、アパートはどこまでも深い闇に包まれていた。鼻をつままれても分からない、と言って自嘲気味に笑う。華やかなパーティから帰ってきた彼にとって、まるで反対の光景だったろう。そんな暗い階段の途中で、友人の姿を見た。
「出掛けるときと変わらない、黒い甚平姿。俺の目的の階より上へ向かう様子でしたが、自室に行くのだろうな、程度にしか思わなかった。だってそうでしょう。彼の部屋は私の部屋の真上です。階段で顔を合わせて、彼が更に上へ向かうのは当然のことだ」
不動は自室に入った。友人の階段を上る足音だけが遠ざかっていった。そうして彼は着替えを済ませた後、芝居の資料として用意した映像を見るため、プロジェクタを起動したらしい。ベランダを望むガラス戸にはロールカーテンが設置されており、それを引き下げることによってスクリーンとして使おうとした。
「カーテンを引くより先に、プロジェクタの電源を入れていました。だからライトの煌々とした光が窓を素通りしていた。もし対面に部屋でもあれば眩しくて苦情が来るでしょうが、とにかく何もない場所ですからね。僕はライトを灯らせたまま少し作業をしていて、すぐにはカーテンを下ろさなかった。そのときです」
人差し指で真上を指す。友人の部屋の位置を示したときと、同じ動きだった。
「窓の外を人が落ちてきました」
咄嗟に顔が見えるはずもない。けれども本能的に理解した。これは先ほど別れたばかりの友人で、彼は上の階の自室へ行くと見せかけて、そのまま屋上へ向かったのだ、と。壁面には窓枠やベランダの手すりといった障害物があり、自由落下のスピードで落ちているわけではなかった。手を伸ばせば届きそうだった。しかし、間に合わなかったのだ。
「ガラス戸が閉まっていましたから……」
ふいと視線を逸らし、不動は呟く。
「屋上から飛び降りたところで、真っすぐ落ちるわけじゃないんです。ベランダやら何やらに引っ掛かって、かなり速度は落ちていた。ガラス戸さえ開いていれば捕まえられたのにな、って今でも思います。俺が駆け寄って、手を伸ばして、引き上げていれば」
ここにいる誰もが、何も言えなかった。それは、役者の口から語られる人の死の描写に引き込まれていたのもあるが、話がこれだけで終わらないと感じ取っていたからだ。死を選ぶしかなかった友人のことを、ただ彼が死ぬ有様だけを綴った話を、暇つぶしのような流れで語るはずもなかった。
これを話すことにより、不動は何かを得ようとしている。
例えば共感だったり、または叱責だったり――あるいは、真相だとか。
「不思議なことがあったんですよ」
ついに彼は本題に入った。目つきが鋭くなったのでそうと分かる。今までずっと聞き役に徹し、乞われるまで話すことすらなかった彼が、ようやく自らの意思で伝えようとする言葉のように思えた。
「落ちてくるときの彼の姿が、真っ白に見えたんです。服から靴の先まで、白いものを身にまとっているように見えた。最後に会った彼は黒の甚平姿で、落ちた後の彼も、間違いなくその恰好だったのに。でもはっきり見たんですよ。プロジェクタの光が外の方を向いていましたから、その光の真ん中に彼が……入ってきたものですから……」
浅間は想像した。プロジェクタの光であれば、並の室内灯とは比べ物にならないほどの強い光だ。落下する身体がその中に飛び込んできたのなら、確かに見間違えるはずもない。その姿が白かったということは――そう、まるで死に装束のように白い恰好をしていたと言うのならば、いったい不動は何を見たのか。
「幻覚だったとしても。はたまた、何か科学的に証明できることだったとしても。落ちていたあいつに何かが起きたんじゃなくて、きっと私の方に原因があると思うんです。だからこそ、どういうわけだったのかを知りたいと思っているのですが」
言葉が途切れた。はた、と気づいた顔をして、彼が振り返る。その動きの理由であれば浅間たちにも分かった。電話が鳴っているのだ。アパートと繋がる内線電話が電子音を発している。
「管理会社さんかしら」
依織が立ち上がる。タイミングからして点検の終了を知らせる連絡かと思われたが、それにしては妙だ。アパートにはいまだ電気が通っておらず、真っ暗なままである。先ほどから一度も明かりが灯った気配はない。
電話に出た依織はしばらく呼び掛けを続けるだけだった。まるで相手が無言であるかのような反応で、それは実際のことでもあった。彼女は受話器から耳を外し、こちらを振り向いて首を傾げる。
「二階廊下の子機からね。でも無言なのよ」
浅間も立ってそちらへ向かう。受話器を借りて耳に当てた。仮に悪戯だったとしても、電気も通らない点検中のアパートで誰が。
そう、考えたとき。
笛のような音が聞こえた。電話の向こう、直接ではなく背景のような音量で、何かがピーと鳴る音がする。確かに無言電話だ。受話器を持っているであろう人物は、何も発していない。しかしその後ろで音が鳴っているのだ。
否、そもそも。
二階の廊下に人はいない。人感センサーの電灯が点いていないのだから。
(……ああ)
受話器を取り落としそうになる。離れた場所にいるサツキたちも、こちらの異変に気付いたようだった。考えろ、と自分に命じた。考えろ。廊下を誰も通らなくとも、内線電話がここへ繋がる可能性は? 別の場所から掛けた電話を、何らかの方法で二階の廊下からという表示に変更することはできるか? いや、誰がやったのかを先に考えた方が早いかもしれない。なぜってあそこには管理会社の人間くらいしか。
「二色くん」
ふと、ここに来るはずだった客人について思い至った。
「彼がまだ、あそこにいるんじゃないのか?」
後から来ると言っていた彼が、いまだ姿を見せない。サツキが最後に会ってから数時間は経っている。浅間はアパートの方を仰ぎ見た。彼の部屋は二階の端だ。すぐ隣に上下へ続く階段があり、屋上へ向かうことも容易い。夜とはいえこの暑さでは、部屋の中に居続けることも困難なはずだ。もしアパートのどこかにいるのだとすれば、行き先は屋上くらいしか存在しない、が。
「そういえば二色、まだ来てない……」
サツキが席を立ちながら言った。そこに続く言葉で断りを入れ、店を出るつもりだと思われた。しかしそれより先に浅間が、カフェの番をするべき店長自身が、青年を突き飛ばしかねないほどの勢いで飛び出したのだった。

   *

複数の足音が階段を駆け上る。
普段は住人がセキュリティを解除しないと入れないアパートだが、今は点検中なので自由に出入りできた。作業員とも夕刻に顔を合わせているので、咎められることはない。だが息せき切って走る彼らのことを、不審には思っただろう。説明している間もないため、構わず目的の場所へ向かう。
二階の端。二色の部屋。依織には管理人室から合鍵を取ってくるよう指示してある。だがドアノブを捻ってみると、あっけなくそれは開いた。雪崩れ込むように入る。よくあるひとり暮らしの部屋の様相で、玄関から奥まで見通すことができた。
「二色くん!」
叫ぶ。整頓された綺麗な部屋だが、誰もいない。思わず視線が天井付近を向きそうになった。首を振る。どこを見たって、この場にはいないのだ。ただし、ひと目では見渡せない場所にも部屋はある。
「店長さん、こっち!」
同時に部屋へ入ったサツキが呼んでいた。水回りの他にもリビングから繋がる扉があり、そこが物置であると思われた。サツキが寝室として使っている場所だ。同じ間取りの部屋なのだから、小龍の部屋にもそれがある。
外開きの扉の可動域に、折りたたまれた椅子がぴったりと挟まっていた。
「もしかしてこれのせいで閉じ込められて――」
サツキの声がどこか遠くに聞こえる心地がした。そこから先のことはよく覚えていない。挟まった椅子を取り出そうする彼を、友人のことを案じて助けようとする青年を、突き飛ばしてまで我先に駆け寄っていた。店を出るときはすんでのところで危害を加えずに済んだものの、今回は本当に転ばせてしまったのだ。尻もちをつく音がする。近くにいた小面が何か言ったはずだ。それでも浅間は振り返ることすらせず、椅子を引いてもびくともしないことを確認すると、力任せに扉を蹴った。
「二色くん!」
火事場の馬鹿力と言うべきか、一撃で開けることができた。
この部屋の住人は物置を名称通りの用途に使っていた。左右に並べられたラックに段ボール箱。奥に鉄格子の嵌まった窓があるが、あまりに小さい。冷房もない状態で長く閉め切られていた部屋は、サウナのような熱気に満たされていた。そんな部屋の奥で、ひとりの男が倒れている。
うつ伏せになっている身体を転がす。胸部と腹部を見て呼吸の確認。息はしている。顎の下に手を添えて気道の確保。近くの床を叩いて呼び掛けてみたが反応はない。非常に体温の高い状態だ。浅間は振り返ってこの場にいる人間を確認した。
「完全に熱中症の症状だ、姉さんはすぐ救急車を呼んでくれ!」
続けて氷の手配や、安全な場所へ運ぶ手伝いを小面とサツキに頼む。言わずとも動いてくれるメンバであると分かっていたが、こういったときは名指しの方が効率が良いと知っていた。部屋を出る者や担架を用意する者の足音が行き交う中、呆けた表情をしていた不動がハッと我を取り戻した。
「私は――何をすれば良いですか」
目の前で突如このようなことが起きれば、これが当然の反応とも言える。浅間はなるだけ穏やかな口調を心掛け、彼に告げた。
「エントランスに救急セットがありますから、取ってきてくださいますか」
「分かりました」
片方の手首を軽く叩く仕草をして、不動は踵を返した。入れ替わりに依織が部屋に戻ってくる。救急車はすぐに来るらしい。作業員への説明も済ませたようで、やがて電気が通って冷房を点けられるようになった。それならば無闇に動かすよりもここで安静にしていた方が良い。担架は使わず、小面の持ってきた氷嚢だけを受け取った。
(冷やす場所は首筋や脇の下……衣服の締め付けは緩める……)
頭の中で反芻しながらボタンやベルトを外していく。少し迷ったが、腕時計も緩めておくことにした。効果があるか分からないが、分からないのならやった方が良い。彼が熱中症になったのは停電中の室内に閉じ込められたからで、物置が密室状態になったのは、偶然にも折りたたみ式の椅子が扉に挟まってしまったからだった。ひとり暮らしの生活において、トイレに閉じ込められるといった事故はままあることだ。今回もそれに近いケースだと思われた。
(きっと事件性はない。でも……)
肩書だけでも大家である依織は、責任を感じているはずだ。救急車が到着し小龍が運び込まれたとき、事情を説明すると言って共に乗車した。隊員の去った廊下に黒い革ベルトの腕時計が落ちている。金具を緩めていたので腕から外れたらしい。それを拾ったサツキが部屋の中へ戻そうとしていたが、救急車の扉が閉まりそうになるのを見て、慌てて自身のポケットに入れてから付き添いを申し出ていた。

命に別状はないという連絡を聞いた後、ようやく彼らは落ち着くことができた。ただ、しばらくの入院は必要なようで、サツキが小龍の実家へ知らせてくれている。さほど遠くない土地に家族が住んでいることが幸いした。必要なものはこちらで用意して駆けつけるとのことだったので、アパートの小龍の部屋は一旦施錠しておいた。
依織とサツキはまだ戻ってこない。薄暗いカフェには浅間と小面、不動がいた。
「いったいあれは、どういうことだったの?」
小面の質問に、浅間は怪訝な顔をする。
「熱中症だよ。今日はずっと暑かったし、ああなってもおかしくない」
「そうじゃなくて」
彼女は視線を店の奥へと遣った。
「内線電話よ。無言だったんじゃないの? それなのにどうして、二色くんがあんなことになっているって気付いたのかしら」
ああ、と納得する。疑問に思うのも無理はない。あまりにも慌ただしく時が過ぎたので説明しそびれていたが、あの電話を受けて浅間が考えたことは、彼自身にしか分からないはずだ。
「まず、物置に閉じ込められていた彼が内線電話を使えた理由だけど――」
壁の方を見る。そこには模様替えの折に発見し、サツキたちの遊んでいたダーツボードが掛けられていた。
「二色くんは奇術サークルに所属していて、手先は器用だ。狙った場所にものを投げるのが得意だと言っていた。だから物置にあった何かを投げて、通路にある受話器を落とすことくらいはできただろう」
「でもそれだけじゃ連絡はできないわよ」
小面はボタンを押す仕草をする。彼女の言う通り、この内線電話は受話器を外しただけではどうにもならない。プッシュボタンを押さなければ連絡がとれないのだ。カフェ、もとい元管理棟の電話に繋ぐには、10という単純な番号で済むにしても。
「手を触れずとも任意の番号に連絡する方法があるんだ」
プッシュホン式の電話は、数字や記号にそれぞれ音が割り振られている。二種類の周波数からなる合成音を鳴らすことによって、そのボタンを押すのと同じ状態になるのだ。いわゆるピ、ポ、パ、と表現されるプッシュ音のことであり、1や0と同じ高さの音を出すことができたなら、ここの電話に繋げることができる。
「そっか! それならアタシも何かの本で読んだことがあるかも。でも彼がそんな音を出せるかしら。声、というわけにもいかないだろうし」
「そんな体力は無かったはずだし、合成音だからひとりじゃ不可能だね。でも彼の閉じ込められていた場所は物置だ。何か使えるものがあったんじゃないかな。例えば電子ピアノのような……シンセサイザって言うんだっけ?」
詳しくは回復した彼に訊けば良いことだ。あの窮地から脱することができたのは、紛れもなく彼自身の機転のおかげである。今はもうピアノをやっていない彼が、それでも手放せなかった楽器に救われたとするならば、何か物語的なものを感じてしまう。それにしても本当によかった、と感じた。彼が助かって良かった。生きていて良かった。そして、姿を見せなかった理由があくまで事故によるもので――彼自身が消えていなくなってしまおうとしていたわけではなくて、安堵した。
やがて小面の携帯電話が鳴り、彼女は焼鳥屋へ戻っていった。いい加減に帰ってきてくれという苦情がアルバイトから寄せられたのだ。こうしてカフェには浅間ひとりきりになった――と思いかけたが、まだ片隅に不動が座っていた。彼はまるで夜に溶け込むように静かな姿で、忘れてしまいそうなほどに透き通った印象であり続けていた。
「あの」
誰もいなくなったのだから、自分も去るべきだとは思っているだろう。それでも彼は真剣な顔で、こちらを向いて呟いた。
「二階の温室を、見せていただけますか」
彼はこの土地の人間ではなく、舞台がある度に呼ばれた場所へと赴いていく。機会を逃せば二度とないと感じたのだろうか。イベントのためにここへ来たときも、彼はほとんど温室へ入らなかった。待機場所を必要とする役回りではなかったからだ。夜間の温室は全く灯りが点いておらず、観葉植物の影絵が並ぶだけだ。
「懐中電灯の明かりでもよろしければ……」
「はい、それで良いんです。その方が、良い」
浅間は懐中電灯を手に階段を上っていった。すぐ後ろを不動がついてくる。やはり役者だけあって端正な男であり、背もすらりと高い。そんな彼がどこか茫とした表情で、雛鳥のごとく後につく状況には違和感があった。
二階に着く。周りには何もない、片田舎に建つ店だ。手元の光も外の闇夜へと吸い込まれていった。ガラスの壁は黒く塗り潰されたも同然で、民家の灯りひとつ届かない。ふと、十七歳の彼がいたアパートもこのような立地だったな、と思い返した。
「ああ、本当に真っ暗だ。何もない」
聞きようによっては無礼に思える台詞を無邪気に告げ、不動は窓に駆け寄る。焼鳥屋の灯りは視線より低い位置にあり、彼の言葉に偽りはなかった。正面はただただ暗く、その向こうに何があるのかさっぱり分からない。
不動少年は、こんな暗がりの中で友人の落下を見たのだ。
浅間はそっと懐中電灯を下げた。元より振りかざすつもりはなかったが、それを窓の外に向けることが恐ろしくなってしまった。温室の天井はガラス張りの斜めの屋根で、とうてい人が立てるような所ではない。立って、飛び降りることができるような場所では。それでも嫌な気配がしてしまう。
「どうですか、不動さん」
彼が植物には目もくれず、窓の外ばかり見ているので気になった。真っ暗な外の何がそんなに面白いのか。懐中電灯を手に近寄ってみると、その光の描く円が、彼の服に白く映った。レザーの上着を羽織っているので、なおさらよく輝く。
光の反射か、と考えた。
サツキの話した不思議な現象もそうだった。部屋の隅に立っていた天使は、店のブラインドによる日光の反射が正体だ。懐中電灯の光がレザーに当たり、白く反射する。何かにぶつかった強い光は、そこには存在しないものを作り出すのだ。
「あなたのご友人の話をしても良いですか」
気付いたときにはそう話しかけていた。
「思い出させることを言って申し訳ありません。でも、彼の死にまるわる疑問を、今なら解決できるような気がして――」
振り返った彼は、子供のような顔をしていた。
十七歳よりずっと前の、どこかに置き去りにした幼き日の感情のような。倒れている小龍の姿を見てから様子がおかしい。しかし「普段」というものが存在しない彼にとって、こちらこそが奥底にある本性なのかもしれないな、と感じた。

   *

不動には、幼き頃を過ごした故郷の記憶がほとんどない。
稽古や撮影で日本中を転々としていた。本籍を置く土地はあったが、そこへ足を着ける機会は片手で数えるほどだったろう。インタビュー等で出身地を訊かれても、意味すら分からずに言葉を濁すだけだった。見かねたマネージャの助言によって表向きのプロフィールが用意されたのは、もう少し後のことだ。
「田舎の大きな家で生まれたそうなんですけどね」
でもプロフィールでは都会の出身でした、と彼は苦笑する。生まれて間もなく両親と共に流浪していたので、そういうことにしておいた方が正確ではある。実際、不動は都会的な習慣と教養を身につけ、誰が見ても疑わないような状態になっていた。そんな彼と顔を合わせ、開口一番に
「田舎くさいな」
と言ったのが、その友人だったそうだ。
「最初に会ったのは十四くらいの頃でしたかね。お互い家族と一緒に暮らし続けるのも難しくなっていて、ならば同じアパートに住んだら、ということになりました。隣の部屋を選ばなかったのも、あいつらしいというか。だって上ですよ。俺の真上の部屋」
「でも、仲が悪かったわけではないのですよね」
「そうですね、まあ。変な奴ではありましたけど」
浅間の言葉を受け、まんざらでもない様子で不動は語り始めた。片手の指を折りつつ、友の思い出話を紡いでいく。
「あれは役者というよりも世捨て人ですよ。いつも黒い着流しか甚平姿でね。老成しているというか、単に爺くさいというか。いつのものか分からないような古い本を読んで、休みの日は部屋にこもって練習もせず……それでいて、カメラが回ると何でもそつなくこなすものですから」
「話を聞く限り、舞台向きの役者さんに思えます」
「私もそう思いますよ。実際、そちらの仕事も多かったですし。いずれ完全に舞台の方へ行って……なんて、考えていました、ね」
やや言葉につかえながらも彼は言い終えた。困ったような顔をして笑う。過去を掘り返すのはこのくらいにしてくれ、という意思を感じられた。彼が知りたいのは友人が屋上から飛び降りたときのことだ。落下する彼の服装が、真っ白に見えたこと。
その謎の真相は、ひどく単純だろう。
「強い光は、対象の色を飛ばす効果がありますから」
懐中電灯の光を不動の方へ向ける。もちろん顔へは当たらないよう、胸から腹のあたりにぶつける形で。
黒いレザージャケットは真っ白に輝いていた。
「プロジェクタの光が窓の外を向いていた。その光の中央に彼が落ちてきたんです。服の一部だけでも反射で光っていれば、残像で全体が白く見えてもおかしくない」
周囲に建物もなく、背景はどこまでも深い黒だ。光は人体だけに照り返し、それをくっきりと浮かび上がらせる。たとえ元が黒い衣服でも、光が当たれば明度が上がる。背景との対比で白く見えることはあるだろう。
「なるほど……」
不動は素直に納得した顔をした。反射程度の話ではなく本当に白かったのだ、などと言われては反論できないと考えていただけに、拍子抜けでもある。だがこれで確信できたことがあった。元より違和感はあったのだ。彼の話には綻びがあった。その綻びを元に、浅間はひとつの真相に辿りついていたのだが――

不動は実際に、落下する友人を見たわけではない。

落ちる人間の服が白く見えたというのは伝聞だった。だからこそ「どの程度の白さだったのか」という肝心な部分が分からない。光の反射だろうという単純な推理にも納得して見せるしかなかったわけで。
「ご友人は黒の甚平姿だったのですよね?」
浅間の問い掛けに不動はハッと目を見張る。声色が変わったのを感じ取ったのだろう。過去の話を聞くという立場ではなく、自分を追及する流れに変わったのだと、すぐに察したようだった。
「はい。彼はいつもそのような恰好で……」
「さすがに、綿の甚平ではそこまで光は跳ね返さないと思います」
「えっ」
彼は慌てて自身の身体を見下ろす。腹部に当てられた懐中電灯の光は、ジャケットの位置だけ白く反射していた。中に着ている黒のシャツは少し明るくなった程度だ。とうてい白には見えない。
「白く見えるかどうかは、光の当たる先の材質にもよりますから。ご友人の甚平はおそらく普段使いのものでしょうし、柔らかく光を吸収してそれきりです。また、靴の先まで全て白く見えたとおっしゃっていましたよね」
甚平姿にサンダル履き。それが最後に見た彼の姿だったはずだ。この服装では白く見えるほどに光は跳ね返さないし、そもそも靴は履いていない。ならば彼の見た白い衣装は誰のものだったのか。プロジェクタの強い光の中で、白く輝きながら落ちてきた人物の本当の服装とは。
「パーティに出席するための、黒いスーツ」
縋るような声と、観念したかのような声が重なった。浅間は深く息をつく。彼が認めてくれて良かった。自分と友人の立場を入れ替えたまま、自分が死のうとした十七の夏の夜を直視しないままでいては、きっと前へ進めないと思ったのだ。
「ああ――そう言われると、確かにそうだ。あれは会場のライトですら随分と光っていましたからね。管理が悪かったわけじゃないですよ。ただ、おろしたてだったもので」
窓の外を見る。浅間の手元にある光源に照らされて、温室内の景色が映っていた。不動はしばらく無言でどこかを眺めているだけだったが、やがて小さな声で
「いつから気付いていましたか」
と呟いた。
その答えこそが、まさに今ここに映っている景色だろう。浅間は懐中電灯をガラスの壁へ向くように持ち直した。
「ガラス戸は開いていたんですよ」
外が暗く、中が明るい状態では、とうていまともにガラスは機能しない。完全に鏡の状態になってしまうのだ。ゆっくり落ちる友人を助けられなかったのは、ガラス戸が閉まっていたからだと彼は言った。そこさえ開いていれば掴めたかもしれない、と。
「実際には、開いていた」
和装の少年がプロジェクタの電源を入れる。休みの日は練習すらしないと思われていた彼が、資料の映像を見る準備をしている。カーテンはまだ下ろしていない。ベランダへ続くガラス戸は開いていた。当時も夏は変わらず暑いだろうが、吹き込む風があったのかもしれない。彼はそちらへと近寄ろうとした。
「ええ、落ちていたのは僕でした」
眼前に現れた友の姿。華やかなパーティに赴き、そして帰ってきて、さっき会って別れたばかりなはずの。何ひとつ変わらない格好。おろしたてのピンと張ったスーツに、きちんと磨かれた革靴。強い光に照らされて白く輝いている。手を伸ばした。どうして。あの彼がどうして、なんて考えるより先に。掴む。食らいつく。捕まえることさえできれば、彼は生きながらえるから。
ベランダの内側へと引きずり込んだとき、少年たちの口から笑いが漏れた。それは緊張から解き放たれたことによる本能的なものだったが、彼らはわけも分からず顔を見合わせていた。心臓がはち切れそうだ。それでもふたりとも、ここにいる。手を取り合い、けらけらと笑い声をあげて、まるでじゃれつく普通の学友同士のように、夏の夜空の元で何よりも長く感じる時間を過ごした。
そうして彼は、生きている。生きて今もここにいる。
「それで、どうなさるのですか」
くつくつと笑う音がした。不動が下を向き、肩を震わせている。サッと腕で目元を拭ってから顔を上げた。
「せっかく助けてもらったんだから生きろって、そうおっしゃいますか? もちろんこの歳になっても生きていることが答えですけどね。これで満足ですか?」
「いえ……」
おそらく彼は、他の者にもこの話をしたことがあるのだろう。素直に、誰の立場を入れ替えることもなく、自身の心情を打ち明けることを目的に。何度か話して、その度に返される言葉があって、そしてついには語らなくなった。語る理由があるとすれば、友人には自分の服装が白く見えたことが気にかかる、という疑問だけ。
「僕たちは、怪談話として聞かせていただいたのですから。勝手に踏み入って問い詰めたのは僕の落ち度です。お詫びすることはあっても、こちらからお願いすることは何もありませんよ」
「そう……ですか」
「ただこれだけは、教えてほしいんです」
浅間の言葉に青年の目つきが鋭くなる。警戒する素振りだ。その疑いを解くべく、彼はすぐさま要件を話した。
「ご友人のお名前を知りたいなと思って。今は舞台で活躍なさっているのでしょう?」
舞台向きの役者だと告げた際の返答が詰まった理由は――まさに彼が、実際に舞台役者として生きているからだと考えたのだ。

   *

翌朝、小龍の入院は一週間ほどになりそうだと聞いた。
「退院しても、こちらへはしばらく戻ってこないそうです」
カフェに現れたサツキがコーヒーを飲みながら話す。この機会にふた月ほど実家に帰るそうだ。家族も心配しているだろうし、それが良いと浅間も思った。
「少し早めに夏休みをとるって感じかしらね」
相変わらず当然のように来ている小面が呟いた。もっとも今は焼鳥屋も開店前であるが。そういえば昨夜のアルバイト店員は災難だったな、と思いを馳せる。入ったばかりの店で女将が長時間にわたり退出し、隣で救急車騒ぎまで起きたのだから。
「大学生は夏休みが長いですからね。二色は四年生で単位もばっちりだろうから、問題ないと思います」
今後の件に関しては、後で姉と相談しようと考えた。彼女は非常にタイトなスケジュールだったらしく、今朝はやくに空港へ向かってしまった。小龍も意識を取り戻し、後は医者に任せれば回復すると分かったので、安心したのだろう。彼女のいなくなったカフェは、色彩がひとつ欠けてしまったように感じる。
「あ、そうそう」
ひとまず解決した昨夜のことから話題を移そうとするとき、小面が一枚のビラを取り出した。彼女の主催するミステリイベントの、昨年に開催されたひとつのようだ。
「このイベントが好評だったから、今年もシリーズでやりたいの。前回とは別の役者さんが良いと思って。不動さんどうかしら、手伝ってくださる?」
不意に呼び掛けられた不動が驚いた顔をする。彼も今日の飛行機で次の仕事場へ向かうらしく、それまでの時間をここで過ごしていた。店の片隅で、一枚の絵画のように静かな朝食を摂っていたところだ。
「僕、ですか?」
ビラを受け取りながら困惑の表情を浮かべる。仕事を引き受けたくないというより、昨年のイベントが好評だったという言葉に躊躇したのだろう。シリーズ作品ということは、前作を担当した役者が集めた期待を、壊さないような仕事をしなくてはならない。
「俺のイメージに合いますかね」
「あら、驚いた」
小面は目を丸くする。
「イメージに合うかって、あなたも気にするものなのね。何にだってなれるのに」
「何にでもなれる……?」
「そんなに印象をころころ変えていて、まさか無自覚だったの? 会う度に忘れてくれていいって言ってたのに。ま、アタシはいつも覚えているけどね」
それはあげる、といってビラを押し付けると、彼女は窓から自分の店の方を覗いた。昨夜は真っ暗で何も見えなかったが、朝になれば植木の緑や空の青、道を行く人々の姿で溢れている。毎日何も変わらない。変わらないからこそ、美しいと感じた。
「やあね。全然しゃべり足りないけれど、もう行かなきゃ」
小面が焼鳥屋へ戻っていった後、浅間はそっと不動の元へ向かった。グラスに水を注ぎつつ話し掛ける。
「お受けなさったらいかがです?」
浅間自身も、彼女の企画するイベントは楽しみにしているのだ。機会があればまた店を貸しても良いと考えている。
「そんな、社交辞令ですよ」
不動は苦笑した。
「何度か一緒に仕事したことがあるからって、前作から役者を変えなくても」
「彼女はそういった妥協をする方じゃないですけどねえ。それに――」
顔を上げた彼と視線が交わったのを確認してから、浅間はその仕草をした。
片手の指で右手首を軽く叩く。小面が「任せて」という意思を示す際に行う動きだ。
「あっ……」
昨夜という短い時間の中で、この動きをした人物はふたりいる。おぼろげだった幼少期の記憶が蘇ってくるのを感じたのだろう、何か告げようと口を開く彼に、会釈をひとつ返してカウンタへ戻った。幼い頃に身についた癖は、いくつになっても無意識に出るものだ。倒れている小龍を発見し、応急セットを取ってくるように頼んだ際、不動はこの動きをしていた。あの咄嗟の状況で小面の真似をしたとも考えづらい。
つまり彼らは、同じ癖を習得するような環境で育った。
例えば住民のほとんどが血縁者の田舎の村だとか。
「どうしたんですか?」
不動の反応が気に留まったのか、その原因を作った浅間にサツキが問いかけた。そっと横目で確認すれば、納得した顔の男が人差し指を唇に立てている。ならばこちらも何も言えない。何でもないよ、という言葉と共に、かつての不動の姿を想像した。
おそらく小面は気付いていない。それでも心のどこかで、彼に特別な感情を抱いていた。会う度に印象の異なる彼のことを、いつも覚えていると言い切れるほどに。
(それも才能、かな)
演じることが才能なら、演者の正体を見極めることもまた、才能だろう。
四歳。赤い着物姿で毬をついていた男の子は。
十七歳。無二の友人に手を引かれ、かろうじて人生に縋りつき。
二十四歳。自分のことを決して見失わない女性と再会した。
彼らがこの先どうなるのかは分からない。またいくつか仕事を共にして、それで終わる関係なのかもしれない。だとしても、知っておくことは大切だ。ひとりじゃない、なんて月並みな言葉では収まらないが。
「さあ、焼き立てのパンのおかわりもどうぞ」
どこか晴れやかな心地で、浅間はそう告げた。

〈七月・そうは桑名のかき氷 終〉
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