Arachne ~君のために垂らす蜘蛛の糸~

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プロローグ

友人

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 部屋を出たときは三百六十六円だった全財産は、帰路に就く頃には二千三百六十六円になっていた。蜂須が交通費として支給してくれたのだ。自転車で来たのでお金は使っていないと話しても、彼女は引き下がらなかった。あなたの移動は電車を使うのが妥当な距離です、自身の自転車を漕いで来たからといって、便乗して我々が得をするわけにはいきません――そんな話を聞きながら、なんて立派な人なのだと感動したものだ。
 おそらく蜂須個人の信条ではなく、アラクネ全体にそういった意識が浸透している。学生を食い物にしようとする企業も多い中、ここと縁を結べたことが心から嬉しかった。

 そう。俺はアラクネのアルバイトスタッフになったのだ。

 蝶野にノリで採用されたかと思いきや、彼はその一線だけは超えないのだということを教えられた。仲間としてオフィスに迎え入れる以上、信用に値しない者は絶対に採用しない。どれほど話が盛り上がったように思えても、一緒にお菓子を食べて舌が真っ青になっても、笑顔で「ばいばい」と帰すのだ。

 どんな基準で信用度を計っているのか分からないが、今までその眼鏡に敵った者はいなかった。あのとき風見が「君なら大丈夫」と言ったのも、ほとんど嘘――とまではいかないが、お世辞みたいなものだったのだろう。風見の視点では大丈夫でも、決めるのは蝶野なのだから。

 女性の志望者はマリアが担当しているので、女性アルバイトは何名かいる。男の方は確かに冷やかしが多く、蝶野が追い返すのも無理はない、とのこと。しかし中には問題のなさそうな者もいて、こっそり面接を聞いていたマリアですら、不採用を疑問に思うことがあった。それでも蝶野にとっては「駄目」らしい。仲間が増えないことを彼自身も憂えており、片端から不合格にしているわけでもない様子だった。

「だから、あなたには光るものがあるのよ」

 オフィスを後にするとき、階段の手前まで見送ってくれたマリアはそう言った。

「自信を持って。私も、初めての瞬間に立ち会えて嬉しいの」

 契約書にサインをして正式なスタッフになったので、マリアの口調は砕けていた。肩の力を抜いているというよりも、公私の区別をつけるためにあえてそうしているのだろう。同じ幹部メンバーでも、蝶野や風見は年上なので敬語を使う。年下のスタッフには普段の言葉で。言葉遣いひとつにも気を抜かない、どこまでも真面目な人だった。

「それじゃあ、明日からよろしくね」
「はい、よろしくお願いします。さようなら」

 挨拶をしてから階段を下りる。初仕事は明日だった。まだ見習いのため、指導してくれるスタッフと同じ時間帯に出社することになっている。絶対に遅刻しないよう頭の中で予定を立てながら、俺は駐輪場へ向かった。

 斜陽の中、駐輪場で自分の自転車を引き出そうとしていると、入れ替わりに入ってくる人影があった。アラクネはフレックス制を採用していると聞いたので、今から出社する社員がいてもおかしくない。何気なくそちらの方を向いたとき、俺は思わず息をのんだ。

 英語担当の講師、花房藤乃だ。

 花房のことは、サイトでプロフィールを見たときからずっと気になっていた。アメリカのニューヨーク育ちでケイト大学卒、という経歴もインパクトが強いが、何より容姿が目を引くからだ。

ギラギラの金髪はツーブロックに刈り上げられており、うなじのあたりに地毛らしき黒色が見えた。瞳は透き通ったシルバー。縦長の瞳孔が蛇みたいだ。そういうコンタクトレンズを着けているのだろう。ピアスもバチバチに開けていそうな雰囲気だが、これは意外にもひとつだけだった。キャッチ式ピアスではなくフープピアスなので、ひとつでもそれなりに目立っているのだが。

顔の造形自体は純日本人的……なのだと思う。彫りが深いわけでもなく、よく見ればあどけなさすら感じる顔つきだ。そんな全体の印象を、ことごとく攪拌するファッションだった。正直、アラクネの幹部メンバーとしては浮いている。勉強を教えるプロというよりも、ミュージシャンとして紹介された方が納得できた。

「こ……こんにちは」

 おっかなびっくり声を掛けてみた。アラクネに所属している時点で人格は保証されているのだが、それでも派手なビジュアルに怖気ついてしまう。花房は自分の自転車を立てると、こちらを振り向いてわずかに表情を変えた。

 驚きなのか会釈なのか、それすら伝わらないような顔面の動き。表情筋が固いのかもしれない。YouTubeで観た動画でも、暗くもないが明るくもない、平坦な講義を繰り広げていた。彼はゆっくりと自転車の脇を通り、俺の前に立つ。俺よりこぶしひとつ分ほど背が低かった。

「こんにちは。新しいバイト、の人?」

 紡がれた言葉からは、少しだけ拙さを感じる。母国語は英語なのか。挨拶を返してもらえて嬉しいが、俺はちょっとした問題を抱えていた。花房の性別が分からないのだ。どちらのつもりで接すればいいのか判断がつかない。まあ、このご時世、相手の性別によって態度を変えるのも良くないかもしれないが。

「はい。今日採用されたばかりなので、仕事はこれからですが」

 適当に話を引き延ばしつつ、声色や口調でヒントを得ようと考えた。しかし彼の声は少しかすれたハスキーボイスで、低めの女性のようにも、高めの青年のようにも聞こえる。落ち着いた心地よい声だ。身長も女性にしては大きく、男性にしては小柄。藤乃という名前が本名なのかは知らないが、こちらも確証には結びつかなかった。
 俺の困惑も知らず、花房はふんわりと応える。

「そうなんだ。これからよろしく」
「はい、よろしくお願いします。ええと……花房さんですよね?」
「うん」
「花房さんは、今からお仕事ですか?」
「そう。自分、夜型だから。今からの方がはかどる」

 一人称まで「自分」と来た。これではいよいよ性別が分からない。俺は改めてその服装を確かめた。スポーティな黒のナイロンジャケットから、細身のジーンズを穿いた脚が飛び出している。ダメージ加工の穴越しに色白の肌が見えた。バンドマンにいそうな感じ。もちろん楽器は背負っていないが。髪は短いが、このくらいまで刈り上げている女性は割と見かける。

 まあいいか。どうしても気になるなら、ネットで調べれば済むことだ。
 相手はこれから仕事なのだから、あまり引き留めてはいけない。それでは、と片手を上げて自転車にまたがろうとした。

「待って」

 くい、と服の裾を引かれる。蝶野のように距離感がおかしいわけではなく、咄嗟に掴んでしまったのだろう。俺の動きが止まると、花房は慌てて手を引っ込めた。

「年齢、いくつ?」

 上目遣いで問われる。身長差があるというだけの理由だが、少しドキッとした。

「二十一です。大学四年生の」
「そう、近いね。自分は二十二。卒業したばかり」

 プロフィールを見て知ってはいたが、この若さで幹部に入っているのは驚きだ。学生のうちから運営に関わっていたのだろうか。相変わらず表情の変化は乏しいが、長い付き合いの相手には可愛がられるタイプに違いない。実際、俺も心を動かされつつある。外見から感じた得体の知れなさは、この短いやり取りの間にかき消された。

「君がいちばん近い。みんな年上だから。よかったら、仲良くして」
「えっ……もちろん、仲良くしましょう」

 数ミリだけ口角が上がった気がする。その変化を読み取れたことが嬉しくて、俺の方も笑顔を浮かべた。これは「友達ができた」と言っていいことなのだろうか。相手は会社の幹部メンバーなのだが。出社するタイミングも、あまり合わないとは思うが……。

 悶々と考え込んでしまった俺の隣で、花房自身が答えを提示した。

「やったぁ。同性の友達ができたの、久しぶりだ」

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