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Q1・ふさわしいものを選べ
喧嘩別れ
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蜂須との食事から三日後くらいだろうか。動画の撮影のため、花房が昼間から出社していた。英語の講義ではなく、風見の科学実験の補助役として参加するそうだ。手を貸すだけならマリアや蝶野でも構わないのだが、彼らも配信者である以上、ゲストの偏りは避けなければならない。そういうものらしい。
前日にしっかりと休みをとったのか、むしろ普段より調子が良さそうに見えた。彼自身も撮影を楽しみにしていたのかもしれない。スタッフと共に紫色の扉の向こうへ消えていき、誰かが出入りする度に賑やかな声が漏れ聞こえていた。若者が興味を持つような派手で楽しい実験を分かりやすく。それが風見の信条だ。
「ちょっと覗いてこようっと」
蝶野の乱入も、視聴者にとっては嬉しいサプライズになる。相変わらずマリアは呆れた表情をしていたが。数分後に戻ってきた彼は、アイスクリームの入った紙コップを両手に持っていた。いったい何の実験をしていたのだろう。
いくつかの動画編集を経て、俺も視聴者の求めているものが分かるようになってきた。テロップの色で話し手を明らかにするのは必須。演者同士が絡むシーンはカットしない。専門用語が登場する場面では、過剰なほどに説明を加える。こうやってあれらの動画が出来上がっていたのか、と考えると何とも感慨深かった。
この機会にまとめて撮影をしているのか、風見と花房はなかなか部屋から出てこない。結局、俺が定時を迎えるまで撮影は続いたようだった。退勤のタイミングが重なり、俺たちは駐輪場で顔を見合わせた。
「……帰り、どっか寄る?」
俺の方から声を掛けると、花房はこくりと頷く。しかし誘ったはいいものの、この辺りにどんな店があるのか知らなかった。こちらの方面に足を延ばすようになったのは、アラクネに就職してからだ。
「自分の好きな店で良ければ」
花房がそう言ってくれたので、ありがたくついて行くことにする。近くにあるらしく、自転車を置いて連れ立って歩いた。真っ赤な夕陽がビルの向こうへ沈んでいく。指をL字に伸ばしてフレームを作り、しっくり来る構図を探してみた。
「ソラは、綺麗なものを見たらそうする?」
花房がちらりとこちらを見て、そう言った。俺はフレームを構えたまま、その中に友人の横顔を収める。
「そうかも。俺にとっては、写真とか絵で表現する方が直感に近い。相手に伝わるかどうかは分からないけれど」
「言葉よりも?」
「言葉は万能じゃないからね。俺なんて馬鹿だから、綺麗なものには『綺麗だなぁ』としか言えないし」
花房の返事はなかった。馬鹿だから、という自虐は否定してくれないか。まあ、彼がいつも接している相手と比べればなぁ――そんなことを考えながら歩みを進めていると、目的の場所が見えてきた。ここだよ、と指さす先を見れば、あっと声をあげそうになる。
先日、蜂須と来た場所だ。
仕方がない。花房は、俺と彼女がどこで食事をしたのか聞いていないのだ。彼がここを勧めてくれたということは、彼自身も蜂須と食事をして気に入ったのだろう。良い思い出のある場所を、俺にも紹介したいと考えてくれた。それは素直に嬉しいことだ。
まあ、別のメニューを頼めばいいのだから。三日ぶりに顔を合わせるマスターが何か言いかけたが、視線で黙らせた。今回は金髪と長髪の若者ふたりなので、店員の対応も砕けているように感じる。二度目であることを悟られぬよう、適当にメニュー表を眺めてからミートパスタを注文した。
「今日はどんな実験をしていたんだ?」
料理を待つ間、俺は口火を切って尋ねた。花房は先に届いたサラダをつつきながら答える。
「液体窒素でアイスクリームを作る実験とか……」
蝶野がご相伴に預かっていたのはそれか。紙コップに入れられたアイスクリームを思い出す。随分と楽しそうな実験をしていたようだ。丸一日撮影していたのだからそれだけではないはずで、花房は指折り数えながら説明を続けた。
「火柱を金網で覆えば漏れ出さないことを確かめたりだとか。燃えているマグネシウムリボンにCO2を加えるとどうなるのか試してみたりだとか。ブタンと水素を石鹸の泡に混ぜ込んだものを乗せて、手のひらで火を点けたり……」
待て待て待て。後半は派手すぎやしないか。あの部屋でそんな実験の数々が繰り広げられていたのか。乱入するタイミングをミスっていれば、蝶野も手のひらを燃やされていたかもしれない。もちろん風見のことだ、絶対に安全は確保しているはずだが。
言いたいことは色々あったが、こうコメントするに留めた。
「楽しそうだね」
「うん」
花房の注文したオムライスが届き、今度は食事の話題になった。彼は簡単なものなら自分で作って食べるが、蜂須と家で食卓を囲むことは滅多にないらしい。同じ場所に住んでいるなら、炊事を分担する機会もあるかと思っていたのだが。
「瑠璃子さんはね、全然だめ」
スプーンを置き、彼は両手の指でバツ印を作る。
「食べるときはたくさん食べるけど、食べないときは食べない。本当に駄目だと思う。でも、作ってもらうのも苦手みたいだから」
それは確かに心配だ。若手社長だし、ありがちな話ではあるが。レストランの料理は普通に食べていたので、いわゆる家庭料理が苦手なのだろう。もし本人さえ許せばサポートをしたかったのだろうな、と考えた。すぐそばに信頼できる相手が住んでいるのはありがたいことだ。
そんな話をしながら食事を進め、俺たちはようやく本題に入る。既にひと通りは蜂須から伝わっていることもあり、花房も少しは切り出しやすそうだった。
「自分の家の事情、聞いたよね」
その問いに頷き、どんな説明を受けたのか話した。両親を亡くしているということ。当初は叔父に引き取られる予定で日本に来たが、色々あって蜂須の保護下に置かれたということ。病弱な従兄弟が亡くなり、梨園の花房家からスカウトを受けているということ。相手もかなり協力的で、アラクネとの二足の草鞋も可能だということ……。
全てを聞き終えた花房は、例の微笑を浮かべると呟いた。
「さすが瑠璃子さん。説明が上手。自分で話していたら、ここまで正確に伝わっていなかったかも」
その自虐に対し、俺は「まさか」と笑う。いくら日本語が少し苦手とはいえ、彼は日常生活を送れているのだ。ケイト大に通い、講義を受け、高学歴だらけの職場で幹部を務めている。自分の置かれた状況を説明できないなんて、あり得ない。
「むしろ俺の方こそ、蜂須さんがちゃんと説明してくれたということを伝えられて良かった。日本語、下手だからさ」
彼の表情が少し強張った気がする。しかし相変わらず口角数ミリだけの違いなので、店内の薄暗さも相まってよく分からなかった。花房はグラスを持ち上げて水を飲み、再びこちらへ視線を向ける。
「ソラは、日本語が母国語?」
おおう、そう来たか。大学にて適当にとった講義で、帰国子女や留学経験者ばかりのクラスに入ってしまったときのことを思い出した。教授が采配を間違えたわけではなく、最初からそういったレベルの学生向けの講義だったのだ。
つまり俺がシラバスを読み込めていなかっただけ。初めての講義の際、真っ先に母国語や留学先を尋ねられた記憶がよみがえる。あのときは恐怖しかなかった。こちとら両親ともに日本人の、日本生まれ日本育ちだぞ。それでいて日本語すらまともに読めないからこの有様だ。
「俺は生粋の日本人で、日本語しか話せないよ。花房は英語が母国語だろうけど、日本語はいつから勉強したんだ?」
日本に来たのは十五、六の頃なので、高校からは日本で通っていたはずだ。都内にはインターナショナルスクールもいくつかあるし、そこで英語話者たちと机を並べていたのかもしれない。それとも、その時点である程度日本語を習得していたのなら、通常学級に入っていた可能性もある。数年後にはケイト大に進学するくらいなのだから、そんじょそこらの学校ではなさそうだが。
そういえば、そもそも彼の父親は日本人だ。少なくとも片方の親は日本語話者なのだ。つまり生まれた瞬間からバイリンガルが確約されていたことになる。羨ましい話だ。何の取柄もない人間として、つい羨望の眼差しを向けてしまう。
しかし当の花房の表情は次第にかげっていくようだ。たぶん。分からん。前からそんな顔だったような気もしてくる。数秒間の沈黙の後、彼は俺の質問に答えてくれた。
「自分の親は両方とも日本人。学校では英語で勉強を習っていたけれど、家の中では日本語を使っていた」
「すご! 完全にバイリンガルじゃん!」
思わずテーブルへ身を乗り出した。俺が近付いたのと同じ分だけ、花房が顔を引っ込める。まずい。驚かせてしまったか。蝶野の距離感の狂い方を悪くは言えないな、と反省した。すぐに姿勢を戻し、彼の話に耳を傾ける。
「日本語と英語が話せる。でも、母国語はどっちなんだろう。分からない……」
「分からないほど両方使いこなせるってことか。凄いなあ」
「使いこなせてないよ。自分の日本語が上手じゃないこと、ソラにも分かるよね」
「でも、こうやって会話できているじゃないか」
俺の言葉に、花房は何も返さなかった。何やら複雑な顔をしている。彼の中では、ただ話せれば良いというものではないのかもしれない。もっと難しい会話をしたりだとか、論文を読めるようになったりだとかを目指しているのだろうか。やっぱり、俺なんかとは釣り合わない友人だ。
「歌舞伎の世界に行くこと、まだ迷ってる?」
俺の方から核心に迫ってみた。彼があちらを選べば寂しくなるが、エゴで引き留めるつもりはない。どうか自分の心に素直になってほしかった。花房はオムライスの最後のひと口を食べ、ゆっくりと嚥下してから答える。
「迷ってる。じっくり考えてから決めないと、と思って……。だからああやって、会わないようにして時間を稼いでいるのだけど」
時間を稼ぐ。それは蜂須も使っていた言葉だ。彼が考えをまとめるのには、まだまだ時間がかかるのだ。俺よりずっと賢い人の頭の中では、いったいどんな言葉が渦巻いているのだろう。彼の思考は英語なのだろうか、それとも日本語なのだろうか。
花房は間をもたせるかのように水を飲み続けている。その合間に少しずつ、自らの心情を説明してくれた。
「考える、って難しいことなんだね。色々な条件や可能性を頭の中で並べて、どちらを選ぶべきなのか必死に考えているけれど、分かりかけたと思ったらスッと遠のいていくような……大事な部分はいつもぼんやりとしていて。それを表す言葉が見つからない、という感じがする」
言葉が見つからない? それは不思議だ。花房はバイリンガルなのだから、使える言葉はむしろ二倍なのでは。難しく考えすぎているのではないか。自分自身や周囲の人間のレベルが高すぎて、簡単な語彙では足りないと思い込んでいるのでは。
もっと気楽にしなよとアドバイスしたいが、彼の問題に口出しできる立場ではない。返す言葉が見つからないまま、ふたりでしばらく空っぽの皿を眺めていた。
「帰ろうか」
そう声を掛け合い、立ち上がる。最後はしんみりしてしまったが、食事は確かに美味かった。別に盛り下がったわけでもない。ただ話の結論が出なかっただけで、十分に有意義な会話ができた――少なくとも、俺はそう感じていた。店を出る頃にはすっかり夜になっており、雲ひとつない空にたくさんの星が輝いている。
「Awesome……」
花房の口から英語が漏れたのを聞き逃さなかった。ああ、初めて聞いた。動画の中で読み上げている受験英語とは異なる、本心を表す自然な言葉。咄嗟に出たってことは、英語の方が母国語なのかな。そもそも母国語って、どういう基準で決まるんだろう。どっちの言語で夢を見るのか、とか? 驚いたときにどっちで叫ぶのか、みたいな? いかにも凡人なことを考えながら、俺も隣で「すごいよね」と返す。
「よく晴れているからかな。こんなに綺麗に星が見えるの、久しぶりだ」
そう言いながら、夕陽を見たときと同じように指で囲ってみる。写真に撮るならここ。動画だったらここから始めてここまで映すかな。そんな様子を見て、花房も同じように真似をしていた。子供みたいでちょっとかわいい。だけどもすぐにやめてしまった。どこを切り取ってもしっくり来ないようで、腕を下ろして首を傾げる。
「ソラみたいに上手くはいかないね。自分の表現方法はこれじゃないんだと思う」
彼はそう言うが、俺だって別に上手くいっているわけではない。写真や映像で対話はできない。ただの自己満足、自分だけが分かる言語を使っているようなものだ。
確かに、星空の写真を見せれば「綺麗」という言葉を引き出すこともできるだろう。だがそれは俺の表現が伝わったのではなく、あくまでその人自身が生み出した表現だ。
人類はまだ、言葉を越える表現方法に出会えていないのではないだろうか。
「俺は、絵とかデザインってけっこうな遠回りだと思うな」
ずっとスケッチブックを手放さない人も、ずっとパソコンに向き合っている人も、知り合いにたくさんいるけれど。あれが効率的な表現方法だとはとても思えない。
「何百時間をかけて描いたって、ちゃんと伝わる保証もないし。言葉の方が確実だよ。まあ、その遠回りも楽しいからたくさんの人が挑んでいるんだけどね」
まったく言葉の通じない者同士なら、絵を描いたり写真を使ったりして思いを伝えることもあるだろう。でも言葉が使えるならその方が早い。結局人間は、言葉を経由せずには何もできないのだ。星空を見て「綺麗」くらいしか言えない俺だって、「綺麗」という言葉を使っている。
「俺は花房が羨ましいよ」
もっと他の語彙を知っていたら、この景色も変わるだろうか。本当はもっと綺麗に表現できるはずの星空のもとで、友人の横顔に語りかける。
「バイリンガルだし、頭が良いし、使える言葉は俺の何倍もあるはず。もっと自信を持てばいいのに。普段は口数が少なめだけど、俺みたいに何でも『ヤバい』しか言えないわけじゃないでしょ」
今日編集したばかりの花房の講義動画。英文の読解問題をすらすらと読み上げていく姿を思い出す。日本語から英語に訳すこともお手の物だ。ケイト大の入試問題だって、英語は物足りなく感じたことだろう。模試の度に評価がぐんぐん落ちて、国語も英語も振るわなかった俺とは大違いだ。世界は言葉でできている。言葉に対する解像度が異なると、見えている世界もきっと変わってくる。
「星が綺麗だ。俺はそれしか言えない。ヤバい、すごい、マジエモい。その繰り返し。色々考えても言葉が浮かばなくて、年上の大人に嫌な顔されて。恥ずかしいよね、日本語すら上手く扱えないんだから――」
はた、と話を止める。先ほどから俺しか話していない。花房が何も返してくれなくなった。まずい、一方的に喋りすぎたか。説教みたいになってしまったか。反省を込めて横顔を注視していたが、彼がこちらを向くことはなかった。
星空を見上げている。銀色に彩られた瞳が蛇のように輝いている。それが唐突に光の粒を捉えたかと思うと、はらはらとこぼれ始めた。反射しているのは星の光ではなく、もっと近くにある街灯だ。等間隔に並んでいるものだから、頬を伝う動きを追ってどこまでも主張が続いた。
花房が泣いている。何も言わず、表情も変えずに涙だけが溢れている。これは感動ではなく、悲哀の涙だ。すぐ隣に立っていれば空気で分かる。転んだ子供が泣き始める際に鋭く息を吸うような、あの緊張感がずっと漂っていた。
悲しくて。悔しくて。でも、それを言葉で伝えることはできなくて。
まさに子供と同じ。でも幼稚だと責める気がわくはずもない。彼をこうしてしまったのは、俺の言葉のせいに違いないから。以前、動画についていたアンチっぽい人のコメントを思い出す。
――こいつの英語、子供みたいじゃないか?
嫌な符合を感じた。花房が子供みたいだなんて、そんなはずがないのに。ケイト大出身だぞ、彼は。たいていの人間よりはずっと頭が良いんだぞ。理由もなく子供みたいになるなんてあり得ない。でも、今の彼はまさに。自分の泣いている理由を説明できずにいて。自分自身ですら、考えをまとめられない様子で。
「ごめん。帰りは、ひとりで大丈夫だよね」
俺を置いて遠ざかっていく足音。確かに二回目だからオフィスまでは戻れるが。伸ばした手が背中に触れる直前ですり抜けられ、走って追いかけるのも違う気がして、その目立つ金髪が夜闇に消えていくのを眺めることしかできなかった。
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