イシュラヴァール戦記

道化の桃

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第一章 乱世到来

届かない想い

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 ファーリアが泣いている。どこまでも続く、砂漠の彼方で。
 あの夢は、この報せの前兆だったのか。



 屋敷を出たマルスはそのまま港へと向かった。
「陛――旦那様!待ってください……っ!」
 追いかけてきたスカイがマルスを押し留める。
「スカイ、お前が乗ってきた軍艦はどれだ」
「それを聞いてどうするんですか!?」
「アズハルからシハーブ領を抜けて砂漠へ行く」
「落ち着いてください。今あなたが行ってもどうにもならない!」
 スカイが大声を出したので、通行人が数人、ちらちらと訝しげな視線を投げてよこした。スカイは押し殺した声で続けた。
「……陛下、どうか。今ここで陛下の居場所を知られるわけにはいかないのです。イシュラヴァール国内にはバハル様の間諜が網を張り巡らせています。そんなところに――みすみす蜘蛛の巣にかかりに行くようなものだ」
「あの男に託した私が愚かだった。どんなに憎まれようと詰られようと、手放すべきではなかった!」
「それは――あの娘のことですか?それとも――」
 マルスは返事の代わりに、氷のような眼差しをスカイに向けた。
「……あなたは――まさか、本気で……?しかしそれではバセル様のお立場は――」
「出過ぎだ、スカイ」
「……とにかく、お戻りください。なるべく早く作戦を実行に移せるよう調整しますから。南部の砂漠だけでも奪還できれば手がかりが掴めるかも」
「そんな悠長なことを言っていられるか……!」
 マルスはすぐ先に広がる海を見た。世界中の船が行き来する、美しい海。豊かに栄えた商業国家。明るく開かれたこの海の向こうに、いまだ戦乱に膿む祖国がある。どこまでも続く不毛の砂漠で、たくさんの血が流されている。今、この瞬間にも、失われる命がある。――それがファーリアやレグルスではない保障など、どこにもないのだ。
「シハーブ様が動いているなら、おそらくそれ以上の策はありませんよ。それよりニケ王妃への密使を、シハーブ様の代わりに誰が行くか決めないと」
「そなたのその冷静さが時々小憎らしいぞ。スカイ、そなたは私のそばにいろ。アルナハブへはバセルを出す――王妃と交渉するのだ、こちらも相応の立場でなければな」
「御意」
「陸軍の治安部隊出身者を中心に護衛隊を組め。……海兵は陸戦に弱いからな」
「そこなんですよねぇ……近海防衛が主体の軍でしたから、上陸作戦になると、陸軍の大半をバハル軍に取られているのは痛いよなぁ」
 海軍兵は海戦には強いが、陸戦の訓練は申し訳程度にしか受けていない。上陸作戦――つまり船で敵地に上陸して戦うためには、陸戦に長けた部隊が必須なのだ。
 スカイはため息をひとつついて、港を見渡した。
「――リアラベルデ軍が一個師団でも味方してくれたら――あるいは」
 マルスもまた、はたと顔を上げた。
「結婚、しません?そろそろ」
「……何を言い出す。この非常時に」
「非常時だからですよ。サキルラート翁にはご挨拶済みでしょう?この際、明日――いや、今夜にでも式を挙げてしまえば、砂漠地帯の奪還戦はかなり楽になるでしょうね」
 スカイがその白皙に涼やかな笑みを浮かべて言った。


 マルスを追ってきたルビーは、建物の影に隠れたまま声を掛けそびれていた。
「……結婚……?」
 確かにそう聞こえた。だがそれは、決して楽しい話ではないようだった。会話の全容は聞き取れなかったが、いくつか漏れ聞こえてきた言葉。
 ――密使……陸戦……リアラベルデ軍……。
「……わたしとマルスの結婚で、共和国元首ちちうえから軍隊を出させようとしている……?」
 ルビーは喉を塞がれたような感覚に襲われた。
「……くっ……はは……っ……」
 可笑しいことなどどこにもないのに、乾いた笑いがこみ上げてくる。
(愛されているなんて、幻想だった……)
 知っていた。気付いていた。見ないようにしていただけ。
 生まれてはじめて惚れた男に、抱かれ、求められる甘美に酔って、湧き上がる疑惑に蓋をしていた。絶望など知らずに、恋の美酒にいつまでも浸っていたかった。マルスに愛されていると、信じていたかったのに。
「ふ……ふふっ……くはははは!」
 口は勝手に空々しい笑いに引きつり、目尻に涙が浮かぶ。
 港のすぐ手前でマルスとスカイに追いついて、声を掛けようとして、一番最初に聞こえてきた言葉。
 ――手放すべきではなかった……
 それがどんな娘だろうが、ルビーにとって喜ばしい相手ではないことは明白だった。
 ルビーは石壁に拳を叩きつけた。
「……一体、どこのどいつだ……っ!」
 涙がぱたぱたっと石畳に落ちて、丸い小さな染みをいくつか作った。
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