鬻がれた春【完結】

天川 哲

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泥濘に消ゆ

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 マグカップから、やさしく立ち上る湯気が、ゆっくりと部屋を暖めてくれる気がした。
 ホットミルクを啜る瑠々は、ふっ、と吐息を一つ吐き出すと、秀の顔をじっと見つめた。
 「俺の顔に何かついてる?」
 何も言わずただ見つめ続ける瑠々に、思わず秀は尋ねる。しかし、その言葉に返すことなく、瑠々はしばらく秀を見つめた後、俯き、そのまま黙り込んでしまった。
 冷蔵庫のモーター音が部屋に響き、静寂が二人を包み込んだ。
 不意に、瑠々が立ち上がり、深々とお辞儀をする。
 面食らう秀を他所に、瑠々はその姿勢のまま言葉を続けた。
 「その、お礼を、まだ言えていなかったので……」
 ありがとう、という一言を最後に、瑠々は小さく、しかしはっきりと肩を揺らし始めた。
 テーブルに、彼女の涙が広がっていった。
 秀は立ち上がり、瑠々をそっと抱き寄せた。
 「……どうしたら……どうしたらいいの……」
 秀の胸の中で、糸が切れたように嗚咽を漏らす瑠々を、秀はしっかりと抱きしめ続けた。
 こんなことしか、出来ない。
 秀は、瑠々を抱きしめるうちに、自身に無力感が広がっていくことを感じていた。
 瑠々はまだ、若い。若すぎる程、若い。だが、その若さ故に今を生き抜くことができている。
 この生活がいつまでも続けられる訳ではない事を、秀自身も含め、痛いほど理解している。
 それでも、きっとなにがしかの事情で、瑠々は自分自身の若さと性を切り売りするより他に、生きていく方法が見つからなかったのだろう。それが秀には分かった。
 どうにかしたかった。どうにかできると思った。自分になら、きっと何か変えられるであろうと。
 それなのに、目の前で静かに涙し、肩を揺らし続ける彼女に対して、秀は抱きしめることしかできなかった。言葉の一つもかけてやれなかった。
 俺は何故、中途半端に手を差し伸べてしまったのだろう。
 馬鹿だな、俺。
 先程まで溢れていた彼女への情熱が、少しづつ冷めていった。
 ぐっ、と瑠々の肩を掴み引きはがすと、秀は有無を言わさず瑠々の唇に自身の唇を重ねた。
 「ちょっ、ちょっと」
 突然の出来事に驚き、身を捩る瑠々の言葉を無視し、秀は瑠々を抱きかかえ、ベッドに放った。
 肩を抑えこみ、再び唇を重ねようとする秀を避ける様に、瑠々は首を振った。
 「何してんだよ、大人しくしてろよ」
 ドスの利いた声で呟く秀に、最早抵抗する気力もなくなったのか、先程までとうって変わり、瑠々はただ成すが儘になっていった。
 流した涙の跡が乾き、二筋の絶望が瑠々の頬に映る。
 「あなたなら、何か変えてくれると思ったのに」
 誰にとなく呟いた言葉が、秀の耳元に漂う。
 瑠々の瞳は、底の見えない漆黒の球体へと変わった。
 そこに映りこむ秀の瞳も、同じように光などなかった。
 瑠々の瞳の中で秀を見つめる自分自身から目を背ける様に、秀は静かに瑠々に唇を重ね、秀自身を瑠々の中へ入れた。
 ―――辞めないよね―――
 瑛美の言葉がリフレインする。
 瞬間、頭の中で何かが弾ける音がした。
 秀は、現実から目を背ける様に、ただひたすら腰を振り続けた。

 
「おう、いいところにいた。秀、ちょっとこっち来い」
 田口から声を掛けられた秀は、フロントの掃除の手を止め、事務所に向かった。
 「お待たせしました、どうかなさいましたか?」
 「まあいいから座れ」
 パイプ椅子を指し、着席を促す田口に従い、秀は腰を掛けた。
 「最近、お前調子いいだろう?」
 「何がですか?」
 含みのある話し方に、秀は内心の動揺を隠し、そっけなく返す。
 「まあ、かなり貢献してくれてるから俺からは何も言わないが、ってとこだ」
 何を指して言っているのか把握できない以上、不用意に返答はできない。そう思い、何も言わずに田口の言葉を待っていると、気にすることなく田口は言葉を続けた。
 「新しい箱、できるから。秀、お前そこ回せ。全部任せる」
 あぁ、もう離れることはできないな、と秀は悟った。
 壁を隔てた向こう側では、今日も欲望が金に変わっていき、その甘い汁で自身が生かされていることを痛感させられる。
 もう、どうでも良かった。
 生きていけるのであれば、何であっても良かった。
 所詮、人は金で自分を売ることでしか、生きていくことができないのだから。
 足元が、少しづつ沈んでいく。
 一歩、一歩と足を踏み出す度に、自分自身が沈んでいった。
 もう動けない、気付いたときには、何処にも行けなくなっているのだ。

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