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01、序 ~ 一、邪神老蛇

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   序



 俺は必ず、この国で一番になってやる……。

 こぶしを固く握りしめ、その男はうつむいていた。

 冷たい青色の瞳には強い野望の光が宿っている。口は堅く閉ざしたまま、彼は心につぶやく。

 そして行くすえは、この世界で最も強い者となって、全ての生き物におそれうやまわれるようになるのだ……。

  ふいにおもてをあげる。まだ若い、というよりあどけなさの残る青年だ。

 乾いた青色の髪が一房、頬にかかった。強く首を振り、無造作に払いのける。

 虚空をキッとにらみすえ歯ぎしりする。

  あいつになど、負けてなるものか……!





   一、邪神老蛇じゃしんろうじゃ



 月がかげった。雲ではない。

 龍の如き巨大な蛇の影が、夜更けの空に黒々と浮かび上がっている。都一みやこいち高いという杉の木よりも八重やえの塔よりもなお高く、巨大な蛇は月まで届かんばかりに鎌首をもたげ、咆哮ほうこうをあげた。

 地上ではさまざまな姿をした者たちが、都の中心を目指して必死にかけている。

「お父ちゃん、お母ちゃんは?」

「大丈夫、みんなと一緒に逃げてるよ。ドーラ沼まで行けばお母ちゃんとも合流出来るんだから、ヒスイも急いで!」

 涼しげな水色の浴衣を着たヒスイは、眠い目をこすると不安げにうなずいた。流れる黒髪を長く垂らした色白の少女だ。ただ人と違うのは彼女が猫の耳とひげ、そして尾を持っていること。それは彼女の父も同じだ。

 通りは逃げまどう異形の人々でごった返していた。

 遠くの物見やぐらで、避難をうながす警鐘がかんかんと鳴り続けている。

 ヒスイはお父ちゃんの手をぎゅっと握りしめ、浴衣の裾がまくれあがるのも構わず必死で足を動かした。

 ──きしゃぁぁぁぁぁっ!

 頭上で巨大な蛇に姿を変えた邪神ロージャが咆哮をあげる。

 ヒスイは思わず、顔をあげてしまった。

 目が合う。邪神と。

 ロージャはそれを見逃しはしなかった。

 大きく息を吸い込む。

「来るぞぉっ!」

 誰かが叫んだ。

 私を狙ってる。

 ヒスイはその場に凍り付いた。

 異形の人々は叫び声をあげその場から逃げ去ってゆく。

 ヒスイは動けなかった。

 邪神ロージャの大きく見開かれた金色の目は、じっとヒスイを見つめている。

 そして今、その白い牙をむき出しにした口から稲妻が放たれ──

「ヒスイ!」

 お父ちゃんが横から腕を引いた。

 どがぁぁぁぁぁぁぁん!

 鼓膜が張り裂けんばかりの大音響。

 ヒスイがその場から離れたのと雷が落ちたのはほぼ同時だった。

 間一髪。

 思わず目をつぶったヒスイのすぐ前に雷は落ちたのだ。

「お父ちゃん……」

 かすれた声でそれだけ言うのが精一杯だった。

「逃げるぞ」

 お父ちゃんの声にいつもの余裕はない。

 だがそのとき――

 邪神ロージャは再び大きく息を吸い込んだ。

 慌てて逃げようとしたヒスイは石につまずく。

 そして――

「おやめなさい!」

 若い女の凛とした声が響いた。

「おお!」

 人々が歓喜の声を上げる。

 ヒスイは恐る恐るおもてをあげた。

 夜空に浮かぶのは、白い衣をまとった若い女性。ロージャの鋭い眼光を正面から受けとめている。

「光の|姉神あねがみ様だ!」

「光の神マーガレット様だ!」

 皆が口々にその名を叫んだ。

「とうとう来て下さった」

 夜風にゆったりとした衣をはためかせて、光の神は静かに言った。

「ロージャ、もうおやめなさい、皆が苦しんでいるのが分からないの?」

 蛇の姿のままでロージャは答える。

「俺はあいつらを困らせるためにやっているのさ。でも今日は姉上に免じて帰ってやってもいいぜ。夜も明けることだしな。俺は太陽の光は苦手だからな」

 ふてぶてしい声が、地上から見上げる異形の人々――妖怪たちに降り注ぐ。

 邪神ロージャの巨大な蛇の体に夜霧のようなものがまとわりつく。一瞬その姿が闇に溶けたと思うと、次の瞬間には野性的な顔立ちの若い男がそこには浮かんでいた。

 優しい瞳を厳しく据えてにらみをきかす光の神の前で、彼はふんとわらうと夜空を駆け、山の向こうへ消えていった。
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