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三章、夢 ――Stardust――
07.だれの心にも夜響は住んでいる
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携帯電話が鳴った。車の脇に立ち尽くしたまま、広松は胸のポケットに目を落とす。五回目の着信音でようやく確認すると自宅からだった。まぶたに妻の冷笑を浮かべながら、はい、と低い声で応じる。
<お父さん?>
電話の向こうからせきこんでたずねたのは、かわいらしい守の声。広松の頬に複雑な笑みが浮かんだ。
<どこにいるの?>
問われて辺りを見回す。ただ遠くを夢見て、夜の町を走っていた。
<ぼくもお母さんもおうちだよ。早く帰ってきて>
不安げな声に、広松はつむっていた瞳を開いた。「すぐに帰るよ。一度お母さんに代わってくれるかい」
<うん、お母さんもお話ししたいって言ってる>
急に元気な声が返ってきて、電話の向こうで守が、お父さんいつも通りだよ、と言ったのが聞こえた。待っていたように、織江が代わる。もしもし、と言う声が、かすかに強ばっている。
<帰ったらすぐに謝ろうと思って戻ってきたの。だけどいくら待ってもあなたが帰って来ないから、守に電話させたんだけど。わたし、この前おかしなことで怒ったでしょ>
広松はすぐにぴんときた。
「夜響だろう? 夜響がきみを怒らせたんだ」
織江が沈黙し、広松はしまったと思った。織江は決して、怪奇を信じない。またあきれられるかと苦い思いで沈黙に耐えていると、
<知ってたの?>
意外な言葉が返ってきた。今度は広松が沈黙する番だ。夜響に心酔している広松の気分を害さぬよう、その名を出さずにおいてくれたのだ。
<夜響がお母さんの家に現れたのよ。わたしがひとりでお酒を飲んでたら。夜響ちゃんに、謝られちゃった>
電話の向こうで、笑った気配がある。
「夜響はもう、いないんだ」咄嗟に言葉が、口をついて出た。「俺の手の届かないところへ、行ってしまったんだ」
夜響の名を耳にした途端、泣き出したくなったのだ。だがなぜ、そんな弱音を織江に吐いたのか。彼女ほど、筋違いな相手もいないだろうに。
<消えてなんかいないわ>明るい声が返ってきた。<誰だって、押さえきれない欲望に揺さぶられて、自由を夢見てる。全ての人の心に、夜響は住んでいるのよ>
そうか、と広松は呻いた。織江は家族なのだ。もっとも、弱音を吐ける相手だったのだ。
「夜響は俺に言った気がする。俺の中に、いつまでもいてくれると」
<そうでしょう、わたしの中にも夜響がいるもの。どうしても塾の講師を続けるんだと叫んで、あなたとケンカさせるの>
と笑ってから、明瞭な声で彼女は訊いた。<あなたは、どうしたいの>
俺は、と言いかけて、広松は言葉を失う。夜響と生きたかった。織江との不仲の原因が夜響にあると知っても、全てを捨て去るよいきっかけと思ったほどに。だが夜響は、変わった広松をオニだと嘆き、きみの心の中以外のどこにいるのだと、謎を掛けるようにして、消えてしまった。それは夜響の最後のメッセージだ。
夜響に手を伸ばす必要はない、消そうとさえしなければ、夜響はずっと俺の中にいてくれるのだ。失うことはない。
「自由は己の中にある。外に追うものじゃないんだ」
そうね、と静かな声が返ってきた。
だがひとつだけ、気付いたことがある。夢は、決して捨てられないということだ。胸の中の夜響を、守り続けるためにも。
「俺は、呪術好きをやめられないんだ。それから俺のしたいことは、一秒でも長く、守のそばにいてやることだ」
<そうね、あなたには本当に、成仏出来なかった人や動物の声が聞こえるのかも。そして、小さな子供の心が見えるのね。あなたはやさしい人なんだわ。だけど、上司の嫌みに一念発起するような、強い人じゃないのね>
ねえ、と織江は、無邪気な声で提案した。<仕事、辞めていいのよ。仕事に夢を見られるほうが外で働いて、家庭に夢を求めるほうが家を守る、ごく自然なことだわ>
「そうか」
ふっと体が軽くなった。今までずっと世間の価値観に合わせて、己を縛り付けてきたのだ。
「毎日、守に手料理を食わせてやれるんだな」
笑みが込み上げる。洗濯機を回しながら、朝の光の中で本を読んだり――、そう、ベランダを花で飾りたいと、ずっと望んでいたのだ。犬を飼うのもいい。様々に、夢は膨らむ。
<守が喜ぶわ>
「楽しくなりそうだな」
その前に、こんな中途半端な歳で、傍から見れば理由もないのに、退職願を出さねばならない。近所からは、体が悪いわけでもないのに、と怪訝な目をされるかも知れない。
(臨兵闘者皆陣烈在)
侮蔑の目、排除の目、嫉妬の目を祓うように、広松は唱えた。夜響、俺に恐れぬ力を――
<お父さん、ぼくになんか買ってきてくれるの?>
突然、守が電話口に出てきた。
「なんだ、それは」
と意地悪な声を出すと、
<えー、じゃあぼくが喜ぶって何?>
と、期待を寄せている。広松は笑い出して、ついまた甘い声を出してしまった。
「分かった分かった、守の好きなプリンを買って帰るよ」
随分夜も遅いが、プリンならコンビニでも売っている。夏休みをいいことに夜更かしをして、と広松は顔をしかめてからもう一度、すぐ帰ると守に約束をした。
<お父さん?>
電話の向こうからせきこんでたずねたのは、かわいらしい守の声。広松の頬に複雑な笑みが浮かんだ。
<どこにいるの?>
問われて辺りを見回す。ただ遠くを夢見て、夜の町を走っていた。
<ぼくもお母さんもおうちだよ。早く帰ってきて>
不安げな声に、広松はつむっていた瞳を開いた。「すぐに帰るよ。一度お母さんに代わってくれるかい」
<うん、お母さんもお話ししたいって言ってる>
急に元気な声が返ってきて、電話の向こうで守が、お父さんいつも通りだよ、と言ったのが聞こえた。待っていたように、織江が代わる。もしもし、と言う声が、かすかに強ばっている。
<帰ったらすぐに謝ろうと思って戻ってきたの。だけどいくら待ってもあなたが帰って来ないから、守に電話させたんだけど。わたし、この前おかしなことで怒ったでしょ>
広松はすぐにぴんときた。
「夜響だろう? 夜響がきみを怒らせたんだ」
織江が沈黙し、広松はしまったと思った。織江は決して、怪奇を信じない。またあきれられるかと苦い思いで沈黙に耐えていると、
<知ってたの?>
意外な言葉が返ってきた。今度は広松が沈黙する番だ。夜響に心酔している広松の気分を害さぬよう、その名を出さずにおいてくれたのだ。
<夜響がお母さんの家に現れたのよ。わたしがひとりでお酒を飲んでたら。夜響ちゃんに、謝られちゃった>
電話の向こうで、笑った気配がある。
「夜響はもう、いないんだ」咄嗟に言葉が、口をついて出た。「俺の手の届かないところへ、行ってしまったんだ」
夜響の名を耳にした途端、泣き出したくなったのだ。だがなぜ、そんな弱音を織江に吐いたのか。彼女ほど、筋違いな相手もいないだろうに。
<消えてなんかいないわ>明るい声が返ってきた。<誰だって、押さえきれない欲望に揺さぶられて、自由を夢見てる。全ての人の心に、夜響は住んでいるのよ>
そうか、と広松は呻いた。織江は家族なのだ。もっとも、弱音を吐ける相手だったのだ。
「夜響は俺に言った気がする。俺の中に、いつまでもいてくれると」
<そうでしょう、わたしの中にも夜響がいるもの。どうしても塾の講師を続けるんだと叫んで、あなたとケンカさせるの>
と笑ってから、明瞭な声で彼女は訊いた。<あなたは、どうしたいの>
俺は、と言いかけて、広松は言葉を失う。夜響と生きたかった。織江との不仲の原因が夜響にあると知っても、全てを捨て去るよいきっかけと思ったほどに。だが夜響は、変わった広松をオニだと嘆き、きみの心の中以外のどこにいるのだと、謎を掛けるようにして、消えてしまった。それは夜響の最後のメッセージだ。
夜響に手を伸ばす必要はない、消そうとさえしなければ、夜響はずっと俺の中にいてくれるのだ。失うことはない。
「自由は己の中にある。外に追うものじゃないんだ」
そうね、と静かな声が返ってきた。
だがひとつだけ、気付いたことがある。夢は、決して捨てられないということだ。胸の中の夜響を、守り続けるためにも。
「俺は、呪術好きをやめられないんだ。それから俺のしたいことは、一秒でも長く、守のそばにいてやることだ」
<そうね、あなたには本当に、成仏出来なかった人や動物の声が聞こえるのかも。そして、小さな子供の心が見えるのね。あなたはやさしい人なんだわ。だけど、上司の嫌みに一念発起するような、強い人じゃないのね>
ねえ、と織江は、無邪気な声で提案した。<仕事、辞めていいのよ。仕事に夢を見られるほうが外で働いて、家庭に夢を求めるほうが家を守る、ごく自然なことだわ>
「そうか」
ふっと体が軽くなった。今までずっと世間の価値観に合わせて、己を縛り付けてきたのだ。
「毎日、守に手料理を食わせてやれるんだな」
笑みが込み上げる。洗濯機を回しながら、朝の光の中で本を読んだり――、そう、ベランダを花で飾りたいと、ずっと望んでいたのだ。犬を飼うのもいい。様々に、夢は膨らむ。
<守が喜ぶわ>
「楽しくなりそうだな」
その前に、こんな中途半端な歳で、傍から見れば理由もないのに、退職願を出さねばならない。近所からは、体が悪いわけでもないのに、と怪訝な目をされるかも知れない。
(臨兵闘者皆陣烈在)
侮蔑の目、排除の目、嫉妬の目を祓うように、広松は唱えた。夜響、俺に恐れぬ力を――
<お父さん、ぼくになんか買ってきてくれるの?>
突然、守が電話口に出てきた。
「なんだ、それは」
と意地悪な声を出すと、
<えー、じゃあぼくが喜ぶって何?>
と、期待を寄せている。広松は笑い出して、ついまた甘い声を出してしまった。
「分かった分かった、守の好きなプリンを買って帰るよ」
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