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十之巻、夜陰に紛れ、奉行所侵入大作戦!(前篇)

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 濃紺の空には黄色い月、辺りには虫の声がこだましている。月の下、大きな影を作っているのは奉行所ぶぎょうしょの長屋門だ。

 そこへ一人、錫杖しゃくじょうの音も涼しく、深編み笠をかぶった旅装の僧が現れる。ひらたい石段を登り、門前にて右手の方へ、

「もし」

 と、声をかけた。

「何もんだぁ、こんな夜中に」

 と番人の返事。

「旅の者ですが、雪隠せっちんをお貸しして頂けないでしょうか」

 雪隠とは御存知ごぞんじ手洗いトイレのこと。

「坊さんかい? 悪いけどほかへ当たってくんな。ここはそんなことのために開けるわけにはいかねぇんでな」

「おお無慈悲な。限界まで来ているというのに」

「そこらへんにすりゃあいいだろ、おなごでもねぇんだから」

「なんと無慈悲な。腸が悲鳴を上げているというのに」

「そっちかよ……」

「ああ仏よ、この愚か者をお許し下さい、隣人に愛を!」

 結局押し問答の末、僧はあきらめて石段を下りていった。

 腹を押さえ呻きながら、暗い通りを行く。ところが一本横道に入った途端、背筋を伸ばして大股で歩き出した。その先には三つの人影、こちらに背を向けたひとつが、井戸に背をもたせた二の影に向かって、偉そうな講釈をしている。

「『僧はす、月下の門』と『僧はたたく、月下の門』、どっちがいいか? 悩むだろう、昔馬上でこれに悩んでた詩人がな、偉いお人の行列に突っ込んじまったらしいぜ。それから、推敲って言葉が出来たんだと。でもさっきの粛さんのはなあ、見たか、もしだぜ、もし。趣も何もあったもんじゃねえや」

 旅の僧姿の平粛たいらのしゅくは、錫杖の先でその後ろ頭をどついた。

「あいて。なんだよ粛さん戻ってきて。失敗か?」

「道のはいり口で待っていて下さいと言っておいたでしょう? こんな奥では、鏡で合図を送ろうとも分からないじゃないですか」

「ん? ちゃんとあそこにもう一枚鏡があるだろ? あれに反射してここまで届くって寸法よ」

 円明まるあきの指差す横道の入り口、暗がりに鏡が立てかけてある。

「だがどうする? 番人をどうにかしなけりゃ、土地戸籍部屋へ入る手立てはないぜ」

 井戸に寄っかかった金兵衛が、苦い声を出す。

 実はマルニンの四人組、またもや台帳を失敬しようと、たくらんでいるのだ。けや木屋与太郎の居場所を知るために。

 来夜の姉・雪花せっかが六年前、寿隆寺じゅりゅうじ瑞宇ずいう和尚に託した「夜来」の紙、書いたのが与太郎ならば、与太郎と雪花せっかにどんなつながりがあるのだろう。彼は雪花せっかのことを知ってはいないだろうか。

 戸籍台帳を調べれば、運が良ければ与太郎の現住所が分かるかもしれないし、借金苦に夜逃げしていたとしても、店を継いだ弟の方は、居所も確かなはずだ。兄のことを知っているかもしれない。

「あっしの考え出した方法がありまさあ。任しなせえ」

 円明まるあきは立ち上がると、井戸にたてかけた三本の竿を手に出陣していった。

 この竿、それぞれの先に、油をたっぷりと染み込ませた布が巻き付けてある。暗闇の中、火打ち石をかち、かち、とやり――

 円明まるあきは長屋門の表を走り回った。

 番人は、塀の外で飛び交う火の玉に、気付きさえしなかった。円明まるあき、お疲れさま。

「か、かたじけない」

 戻ってきた円明まるあきは、無念の涙に肩をふるわせた。「切腹つかまつる!」

 冗句はあっさり無視して来夜が、

「ねえ、かわいくない僧なんて到底駄目だったけど、美少女って手なら使えるんじゃない?」

 女装自慢で自信過剰の来夜の案、見事成功してしまったのだから、円明は勿論のこと、粛さんも形無しだった。

 番人は人の良さそうな爺さんだった。頬の傷跡を見れば、昔はこわもての兄ちゃんだったのかもしれないが。

「何訳の分からねぇことを言ってるんだ。とにかく嬢ちゃん、中に入りねえ」

 と重い扉を開いた。少女を怪しむ気持ちもあったろうが、それより犯罪に巻き込まれぬよう、守ってやろうという気が大きかったのだろう。

 だが門扉が開き、門番が番所の外へ出てくれば、もうこっちのもの。来夜の中指がぴんと伸びて、門番の眉間を突いた。

 はっとした表情のまま、爺さんは固まった。そしてゆっくりと、後ろに倒れてゆく。

 来夜はにんまり笑って、ふところから手鏡を抜き出すと、月の光を路地の入り口へ送った。



 気絶した爺さんは、元通り番所の畳にあぐらをかかせ、彼の後ろの壁に並んだ鍵を借り、三人は土地戸籍部屋に侵入した。かわいそうに、来夜くんは主人公なのに見張り番だ。戸籍に詳しいのは、昔、役人を目指していた円明まるあき女将おかみの話を聞いてきたのは金兵衛、盗み以外の仕事では、粛さん抜きでは心配だから、というのである。

(俺のねえちゃんのことなのに)

  来夜は頬をふくらませた。

 気絶した爺さんと番所に二人きり。時折行灯が、じじ、というのがなんとも薄気味悪い。

 一文の特にもならない仕事なのに、気のよい手下たちだが、来夜にとっては当たり前、この盗み屋らしからぬ人情が、前頭目・金巴宇こがねぱうとは折り合わなかったのだ。
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