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十二之巻、警部の恋は報われない
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修理屋ふぁしるが吉藁で、盗み屋来夜を助けてお堀におぼれた翌々日――、つまり来夜と平粛が、金瑞宇和尚を訪ねた翌朝だ。勿論、戸籍台帳を盗みに行った日の翌日でもあるのだが、これは世間様では「なかったこと」になっている。歳を取って疲れた番人が、「おさなごの幽霊」にそそのかされたと。
ふぁしるを助け出した紳士、都の人気を来夜と二分する腕利き警部・原亮は、奉行所に出社する前に、離れに寝かせたふぁしるの様態を確かめにやってきた。
そっと木戸を押し開くと、ふぁしるは長椅子に身を起こし、掻巻きをたたんでいるところだった。
「お早いですね。具合はどうですか」
「もう良い。世話になった」
ふぁしるの視線は、掻巻きに落とされたまま。
「仕事に、戻られるのですか?」
ふぁしるが無言で頷くのを見て、なんて愚な質問だろうと、原亮は気恥ずかしくなる。そのようなこと、訊かねでも知れているではないか。
沈黙のうちに過ぎゆく朝を、気にとめることもなく、そつない動作で身支度を進めるふぁしるを、原亮はなんとかして引き止めたいと思う。いっそこのまま時が止まってしまえばいい、などと全く彼らしくないことまで考えながら。
「鳥が鳴いていますね。つぐみでしょうか」
声をかけると、ふぁしるはふと仰向いた。「ああ、気がつかなかった。私には鳥の声など聞こえぬから」
「あなたは鳥の声ではなく、朝の澄んだ空気の音を聞いていたのですね」
「何を言っているのだ」
ふぁしるはわずかに笑った。「鳥の声も朝の空気の音も聞こえぬよ。私に聞こえるのは、他人の批判と賛美だけだ」
「そんなことおっしゃらずに。おととい、あなたは庭を眺め、辺りの音に耳を澄ましていたではないか」
ふぁしるはさあ、と言うように首をかしげ、立ち上がると、亮の方へゆっくりと歩き出した。だが違う。彼女の目的は自分ではない、ただ、後ろの木戸へ向かっているだけなのだ。
(行ってしまう)
亮は木戸の前から動けない。
「色々と世話になった」
この二日間で、ふぁしるの物腰は随分柔らかくなった。三日四日と過ごすうちには、この都の中で私にだけ、心を開いてくれるのではないかと、淡い期待を捨てられない。
「いいえ、私は当然のことをしたまでです。それより、外で朝食などいかがですか」
「いい。ここから出たら、あなたと私は敵同士だから」
静かな声が、胸を刺す。一般人はつながりを持ちにくい謎の修理屋ふぁしるとも、警部である自分なら、事情聴取という名目のもと、逢瀬を重ねられると喜んでいたのに――
「それならば敵同士でなくなればいい。ふぁしる殿の治療費ふんだくり容疑は、全て水に流そう。これは私が保証する。上の人間がなんと言おうと、私があなたを守り通そう。だからあなたには、今日から清く公正に仕事をしていただきたい」
「断る」
短い言葉に険がある。
「なぜ。悪いようには決してしないのに――」
「警部には分からない」
再び静かに呟いてから、ふぁしるはさあ、と顔を上げた。「そこをどいてくれ」
「私には、何が分からないと言うのです」
亮は、終わりに出来なかった。いつもの彼ならば、とっくに引き下がっている。だが今木戸の前を離れたら、彼女は永遠に手の届かない人になってしまう。ふぁしるは怪訝の色をにじませて、わずかに眉をひそめた。
「申し訳ありません、あなたを責めるような言い方をして。ですが、話して欲しいのです。もう今日限りで敵同士になってしまうのなら、なおさらのこと。折角あなたに逢えた、この幸運を、私はまだ終わらせたくない」
ふぁしるは、何も言わずみつめている。亮は、その瞳に吸い込まれそうになる。
「私は喋ることが苦手だから、うまく伝えられないのだが――」
ふぁしるはぽつんぽつんと話し始めた。「さっき私が言ったのは、警部は幸せすぎて分からない、ということだ。これは何も私が不幸だというのではなく、警部が上の人間で私は世の中の底辺にいる人間ということだ」
言葉を選んで、一生懸命伝えようとする姿に、いとおしさが込み上げる。
「それは、私が公務員採用試験に合格した選良だからですか? それならばあなたも優秀な修理屋だ。修理屋になるには大いに学問を積まねばならないと聞く。あなたは女性で、しかもその若さで天下一とたたえられる修理屋になった。そのあなたが世の中の底辺に属するとは到底思えない」
「学問の出来る、とか知識の多い少ない、などという意味ではない。もっと心の問題だ。あなたたちのような上の方の種族の人間は、私のような種類の人間とは相容れないんだ」
「ふぁしる殿、そんなふうに人を排除するものではない」
冷静を装いながら、心は止められぬ速さで惹かれてゆく。その細い肩を、強く抱きたい衝動が、全身を揺さぶる。
「排除しているのはあなたたちのほうだ」
「あなたたちとは私以外に誰です」
「そんなふうに訊かれても―― 私は言葉が足りないからうまく説明できない…… でも子供の頃に、そういう感覚が根付いてしまった。私は貧しくて、読み書きも出来なかった。だけど働いて学んで天下一の修理屋になっても、底辺の感覚は抜けないんだ。仕事をするに底辺の人たちを治したいと思う。上の者には仕事など頼まれても、金をふんだくるだけだ。それどころか上の者たちへの逆恨みなのか躍起になっているのか、私はずっと底辺に属していたいとさえ思う」
ふぁしるはぐっとおもてをあげた。
「だから私は,清く正しく仕事なんかしたくない。警部に守られるなどまっぴらだ。私は汚い人間のままでいい。胡散臭い客たちを相手にしていればいい。だからあなたの誘いは、お断り申し上げる」
強い瞳に惹きつけられているうちに、ふぁしるは木戸を引き開け、庵から出て行ってしまった。
「ふぁしる殿!」
はじかれたように原亮は追いかける。
「待たれよ! まだ私の話は終わっていませんぞ!」
吊り橋を渡って竹林に入ったところで、原亮は彼女に追いついた。後ろから無理矢理抱きすくめる。
だがふぁしるは、ひっとうめいて飛びすさった。「前にも言ったろう、私に触れないでくれと。警部にはなんの非もないのだが―― 私は男にさわられると具合が悪くなる」
「それは知らずに申し訳ないことをした」
亮は意地の悪い笑みを浮かべた。「ふぁしる殿は私に、自分の正体を人にばらすなとはおっしゃらないんですね」
「警部が、そんなつまらないことをするとは思えないから」
「それはどうでしょう。こんなことは言いたくないが、あなたがあんまり私につれないと……」
「それは私を脅しているのか?」
(最悪だ……)
と、亮はつくづく自分が嫌になった。だがなんとしても、彼女を手放したくない。こんなことをすれば、余計に彼女の心が離れてゆくばかりだと、頭の片隅で分かっていながら、止められなかった。
風が渡る。辺りの竹はしなり、重なる葉がざわめいた。
「警部は、私がなぜ正体を隠しているかも知らずに、そんなことを言っているんだろう」
亮は苦笑混じりにああ、と呟く。
「『修理屋ふぁしるは若い女だった』と広められても、何も怖いことはないのだ。それよりつまらない脅しにおびえて、あなたの言葉に従う自分の方がよっぽど怖い。――それでは」
ふぁしるはくるりと背を向けた。
「頼む、行かないでくれ。あなたのことを町の者に広めたりはしない。私はただ、あなたともう少し話がしたいだけなのだ。あなたのことを教えて欲しいのだ。そして、私のことを知って欲しいのだ」
振り返ったふぁしるは、困ったように足を止めた。黒い瞳に、かすかにいたわるような色が見えた。「女の子たちに人気者のあなたが、そんな情けないことを言っては、皆がっかりするぞ」
なだめられて亮は願った。都中の女が自分に見向きもしなくなっても、ふぁしる一人の瞳に映れるならば、と。
「あなたには助けられた義理がある。あと、何をすれば私を放してくれるのか?」
原亮は戸惑った。本当にして欲しいことを言ってしまおうか、それとも風流なことを言って彼女を喜ばせようか。だが混乱した頭では、洒落た言葉など思いつかない。
「ふぁしる殿、私を警部と呼ばないで下さい」
「また、会うみたいな口振りだな」
「ええ、逢いますとも、逢ってみせますとも」
「で、なんと呼べば?」
「亮、と」
「分かったよ」
ふぁしるは頷いて、黒い布を鼻の上まで引き上げた。「それじゃあ、亮」
「ええ、また逢いましょう。あなたが私を警部と呼ばなければ、私は警部ではない。一人の男だ。あなたをつかまえることもないし、あなたを敵と見なすこともない」
――成程、な。ふぁしるは口の中で呟いた。
「呉々も水にはお気をつけて」
亮は手を振る。小さくなってゆくふぁしるの背中に。
やがて黒い影は、竹林の向こうへ消えてしまった。
ふぁしるを助け出した紳士、都の人気を来夜と二分する腕利き警部・原亮は、奉行所に出社する前に、離れに寝かせたふぁしるの様態を確かめにやってきた。
そっと木戸を押し開くと、ふぁしるは長椅子に身を起こし、掻巻きをたたんでいるところだった。
「お早いですね。具合はどうですか」
「もう良い。世話になった」
ふぁしるの視線は、掻巻きに落とされたまま。
「仕事に、戻られるのですか?」
ふぁしるが無言で頷くのを見て、なんて愚な質問だろうと、原亮は気恥ずかしくなる。そのようなこと、訊かねでも知れているではないか。
沈黙のうちに過ぎゆく朝を、気にとめることもなく、そつない動作で身支度を進めるふぁしるを、原亮はなんとかして引き止めたいと思う。いっそこのまま時が止まってしまえばいい、などと全く彼らしくないことまで考えながら。
「鳥が鳴いていますね。つぐみでしょうか」
声をかけると、ふぁしるはふと仰向いた。「ああ、気がつかなかった。私には鳥の声など聞こえぬから」
「あなたは鳥の声ではなく、朝の澄んだ空気の音を聞いていたのですね」
「何を言っているのだ」
ふぁしるはわずかに笑った。「鳥の声も朝の空気の音も聞こえぬよ。私に聞こえるのは、他人の批判と賛美だけだ」
「そんなことおっしゃらずに。おととい、あなたは庭を眺め、辺りの音に耳を澄ましていたではないか」
ふぁしるはさあ、と言うように首をかしげ、立ち上がると、亮の方へゆっくりと歩き出した。だが違う。彼女の目的は自分ではない、ただ、後ろの木戸へ向かっているだけなのだ。
(行ってしまう)
亮は木戸の前から動けない。
「色々と世話になった」
この二日間で、ふぁしるの物腰は随分柔らかくなった。三日四日と過ごすうちには、この都の中で私にだけ、心を開いてくれるのではないかと、淡い期待を捨てられない。
「いいえ、私は当然のことをしたまでです。それより、外で朝食などいかがですか」
「いい。ここから出たら、あなたと私は敵同士だから」
静かな声が、胸を刺す。一般人はつながりを持ちにくい謎の修理屋ふぁしるとも、警部である自分なら、事情聴取という名目のもと、逢瀬を重ねられると喜んでいたのに――
「それならば敵同士でなくなればいい。ふぁしる殿の治療費ふんだくり容疑は、全て水に流そう。これは私が保証する。上の人間がなんと言おうと、私があなたを守り通そう。だからあなたには、今日から清く公正に仕事をしていただきたい」
「断る」
短い言葉に険がある。
「なぜ。悪いようには決してしないのに――」
「警部には分からない」
再び静かに呟いてから、ふぁしるはさあ、と顔を上げた。「そこをどいてくれ」
「私には、何が分からないと言うのです」
亮は、終わりに出来なかった。いつもの彼ならば、とっくに引き下がっている。だが今木戸の前を離れたら、彼女は永遠に手の届かない人になってしまう。ふぁしるは怪訝の色をにじませて、わずかに眉をひそめた。
「申し訳ありません、あなたを責めるような言い方をして。ですが、話して欲しいのです。もう今日限りで敵同士になってしまうのなら、なおさらのこと。折角あなたに逢えた、この幸運を、私はまだ終わらせたくない」
ふぁしるは、何も言わずみつめている。亮は、その瞳に吸い込まれそうになる。
「私は喋ることが苦手だから、うまく伝えられないのだが――」
ふぁしるはぽつんぽつんと話し始めた。「さっき私が言ったのは、警部は幸せすぎて分からない、ということだ。これは何も私が不幸だというのではなく、警部が上の人間で私は世の中の底辺にいる人間ということだ」
言葉を選んで、一生懸命伝えようとする姿に、いとおしさが込み上げる。
「それは、私が公務員採用試験に合格した選良だからですか? それならばあなたも優秀な修理屋だ。修理屋になるには大いに学問を積まねばならないと聞く。あなたは女性で、しかもその若さで天下一とたたえられる修理屋になった。そのあなたが世の中の底辺に属するとは到底思えない」
「学問の出来る、とか知識の多い少ない、などという意味ではない。もっと心の問題だ。あなたたちのような上の方の種族の人間は、私のような種類の人間とは相容れないんだ」
「ふぁしる殿、そんなふうに人を排除するものではない」
冷静を装いながら、心は止められぬ速さで惹かれてゆく。その細い肩を、強く抱きたい衝動が、全身を揺さぶる。
「排除しているのはあなたたちのほうだ」
「あなたたちとは私以外に誰です」
「そんなふうに訊かれても―― 私は言葉が足りないからうまく説明できない…… でも子供の頃に、そういう感覚が根付いてしまった。私は貧しくて、読み書きも出来なかった。だけど働いて学んで天下一の修理屋になっても、底辺の感覚は抜けないんだ。仕事をするに底辺の人たちを治したいと思う。上の者には仕事など頼まれても、金をふんだくるだけだ。それどころか上の者たちへの逆恨みなのか躍起になっているのか、私はずっと底辺に属していたいとさえ思う」
ふぁしるはぐっとおもてをあげた。
「だから私は,清く正しく仕事なんかしたくない。警部に守られるなどまっぴらだ。私は汚い人間のままでいい。胡散臭い客たちを相手にしていればいい。だからあなたの誘いは、お断り申し上げる」
強い瞳に惹きつけられているうちに、ふぁしるは木戸を引き開け、庵から出て行ってしまった。
「ふぁしる殿!」
はじかれたように原亮は追いかける。
「待たれよ! まだ私の話は終わっていませんぞ!」
吊り橋を渡って竹林に入ったところで、原亮は彼女に追いついた。後ろから無理矢理抱きすくめる。
だがふぁしるは、ひっとうめいて飛びすさった。「前にも言ったろう、私に触れないでくれと。警部にはなんの非もないのだが―― 私は男にさわられると具合が悪くなる」
「それは知らずに申し訳ないことをした」
亮は意地の悪い笑みを浮かべた。「ふぁしる殿は私に、自分の正体を人にばらすなとはおっしゃらないんですね」
「警部が、そんなつまらないことをするとは思えないから」
「それはどうでしょう。こんなことは言いたくないが、あなたがあんまり私につれないと……」
「それは私を脅しているのか?」
(最悪だ……)
と、亮はつくづく自分が嫌になった。だがなんとしても、彼女を手放したくない。こんなことをすれば、余計に彼女の心が離れてゆくばかりだと、頭の片隅で分かっていながら、止められなかった。
風が渡る。辺りの竹はしなり、重なる葉がざわめいた。
「警部は、私がなぜ正体を隠しているかも知らずに、そんなことを言っているんだろう」
亮は苦笑混じりにああ、と呟く。
「『修理屋ふぁしるは若い女だった』と広められても、何も怖いことはないのだ。それよりつまらない脅しにおびえて、あなたの言葉に従う自分の方がよっぽど怖い。――それでは」
ふぁしるはくるりと背を向けた。
「頼む、行かないでくれ。あなたのことを町の者に広めたりはしない。私はただ、あなたともう少し話がしたいだけなのだ。あなたのことを教えて欲しいのだ。そして、私のことを知って欲しいのだ」
振り返ったふぁしるは、困ったように足を止めた。黒い瞳に、かすかにいたわるような色が見えた。「女の子たちに人気者のあなたが、そんな情けないことを言っては、皆がっかりするぞ」
なだめられて亮は願った。都中の女が自分に見向きもしなくなっても、ふぁしる一人の瞳に映れるならば、と。
「あなたには助けられた義理がある。あと、何をすれば私を放してくれるのか?」
原亮は戸惑った。本当にして欲しいことを言ってしまおうか、それとも風流なことを言って彼女を喜ばせようか。だが混乱した頭では、洒落た言葉など思いつかない。
「ふぁしる殿、私を警部と呼ばないで下さい」
「また、会うみたいな口振りだな」
「ええ、逢いますとも、逢ってみせますとも」
「で、なんと呼べば?」
「亮、と」
「分かったよ」
ふぁしるは頷いて、黒い布を鼻の上まで引き上げた。「それじゃあ、亮」
「ええ、また逢いましょう。あなたが私を警部と呼ばなければ、私は警部ではない。一人の男だ。あなたをつかまえることもないし、あなたを敵と見なすこともない」
――成程、な。ふぁしるは口の中で呟いた。
「呉々も水にはお気をつけて」
亮は手を振る。小さくなってゆくふぁしるの背中に。
やがて黒い影は、竹林の向こうへ消えてしまった。
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