1 / 24
プロローグ──黎明学園の吟遊詩人
しおりを挟むさて、画用紙を一枚用意して貰おう。
出来ればワトソン紙。キャンソンでもいい。それからWinser&Newtonの透明水彩絵の具。大きな平筆に水の入った硝子瓶にパレット。それから大きな釘と黒いラッカースプレーにプライヤを二本。
そう、それでいい。
用意が出来たらパレットにプルシャンブルーを絞り出して、水を含ませた平筆で四角く塗りつぶして貰いたい。ストロークは大きくね。終わったら庭にでも出て釘にスプレーを吹き付けて真っ黒に塗りつぶす。それから二本のプライヤで釘の上三分の一ぐらいの所を角度15度ぐらいに鋭角に折り曲げる。
では、プルシャンブルーに塗られた画用紙の上に釘を置いてくれたまえ。
そう、それでいい。後はそれを見つめてくれ。もっと深く心を開いて、耳を塞いでいればいい。そう──深くのめり込むように君の部屋は滲んで消えて行く。
わずかに生ぬるい風が吹いている。足下には膝までの草むらを感じるはずだ。プルシャンブルーの色はもっと深く、限りなく透明な夜空となってそこには無数の星が瞬く。黒い釘がもっと深い闇となって、折れ曲がった下の部分に交互に出っ張りが見えてくる。左右にごく細い垂れた線が見えるはずだ。そう、それは傾いた電柱だ。
釘の頭の部分は鍔の広い帽子になる。その下の線が僅かに膨らみはためく。あれはマントだろう。やがてゆったりとしたハーフパンツと揃えた二本の足になる。
その影が、跳躍した。極めて緩やかに下降して行く。その両足は華奢だけどしなやかで、動きは風に揺れる葉のように優雅だ。
踏みしめた場所は踝が隠れるぐらいの草むらだ。今は世界は開けて天上の細い金色の三日月に照らされている。その照り返しでその影の姿形が浮かび上がる。
それは一人の少年だ。灰褐色の帽子に深緑の旧米軍のシャツ、帽子と同じ灰褐色のハーフパンツと皮のハーフブーツ。暗灰色の髪の後がひとつに編まれ、白磁にも似た肌は眩しいほど。右目は髪と大きな絆創膏で隠れているが、左の瞳には風景が映り込んで輝いている。桜色の小さな口唇は言われなくては少女と見間違えてしまうほど可憐だ。全体的に乏しい色彩の中で、帽子に刺したピーコックブルーの孔雀の羽根が奇妙に目立つ。首から瑠璃色のオカリナを提げている。
わずかに幼さを残す端正な顔立ち。三日月型の眉や薄い桜色の唇は中性的で、装いさえ変えてしまえば女性と見紛うばかりの美少年と呼んで差し支えないだろう。
彼の名は天羽詩音。クラスメイトからは「シオ」と呼ばれている。
「影」を自在に歩く「影歩き」。「碧のカード」では「吟遊詩人」の名が刻まれている。
詩音は靴底に濡れた草を感じながら、ゆっくりと歩み出し、やがて採石で草から守られた道を歩く。左側には真っ黒な森の繁みが迫り、右側は雑草の生い茂ったなだらかな丘がどこまでも下り、遠く灰色の海が見える。波は穏やかなようで、潮騒の音は聞こえない。
詩音の桜色の口唇が僅かに開き、微かに息を吸い込む音が漏れる。
金の鎌よ群青の空を裂き祝福された天空と大地を示せ
その名のない街へと続く道を我が足下に
かつてないほど穏やかな風の元に
太陽の黄金の林檎を携えた螺旋へと糸を紡げ
影の無き硝子として我を包み隠せ
即興詩をつぶやいた詩音の足下がにわかに光りを帯び、斑な土の色に彩られる。両側には石造りの高い壁が影を落とし、空は深海から浮かび上がったように鮮やかなコバルトブルーに晴れ渡り、光に満ちあふれる。足音が左右の壁に反響した。
長方形に切り取られた空を、詩音は眩しそうに見上げる。眼を穿つような強烈な陽光が詩音の瞳を焼く。白色のソラリス。
上り坂がしばらく続き、気温は中南米並みに暑く、頬を一筋の汗がつたい落ちる。やがて両側の壁は階段状に低くなって、遠くから人々のざわめきが聞こえ始めた。くたびれた驢馬が引く馬車が奇妙に鼻の長い男に操られて詩音とすれ違う。赤銅色の髪の毛の男は詩音にまったく気が付かない。けたたましい車輪と小さな足音の交差。
青みがかった灰色の石造りの建物が左右に建ち並び始め、やはり奇妙に長い鼻を持った老婆が水を道に撒いている。詩音は濡れた道を踏みしめて街中へと足を進める。
ざわめきはやがて喧噪となって詩音に降り注ぐ。奇妙な形の色とりどりの果実が並べられた店には金銭を入れる笊が吊され、道際には赤毛の猫が寝そべっていた。武器らしき刃物や巨大な木槌を壁に展示した店、道路にはみ出したテーブルで何か果実酒のような物を酌み交わす男たち。角笛のような貝で作られたとおぼしき楽器を吹き鳴らす者、かしましく立ち話をする女たち。四角形に区切られた樫木の水槽に糸を垂らし、一喜一憂する人々が時折大声で叫ぶ。鯨の形に切り出された看板にはアラビア語によく似た文字が刻まれていた。
色とりどりの風船を大量に吊した店の角を詩音は左に曲がる。洗濯物が二階の窓で風に踊り、子供たちが路地を走り抜けた。犬と豚を掛け合わせたような奇妙な動物が詩音に気付かずに微睡んでいる。
その先の道には横断するように煙のような大量の黒い蠅が蠢いていて、詩音は僅かに眉をひそめる。悪意と慟哭と苦痛、匂い立つ血の香り。病魔と絶望と死の影が蹲っていた。詩音は漆黒の瞳を半眼にして即興詩を口ずさむ。
暗黒に君臨する疫病の王ベールゼブブの名に於いて正しく
飛散する葬列の花束にそれを捧げよう
彼岸に眠る邪神の車輪の炎に於いて正しく
幼い声と山羊の血に染まる菓子として捧げよう
雨と霧と身を隠した月の下に
目の前の蠅が薄い霧となり、温度が十度は下がった。カーテンを下ろしたようにあたりは光を失い、詩音の足下は濡れた石畳に変化する。そして、陰鬱な雨音。
詩音の唇が三日月型に持ち上がる。
邪なものを詩音は毛嫌いする。だからといって世界の浄化を目指してなんかいない。ただ、邪魔なものを取り除くだけ。目の前の雑草を刈り取るように。
瓦斯灯に照らし出された色彩のない夜に数階建てのモルタルやコンクリート、石造りと雑多なビルに囲まれた広場に詩音は立ち止まる。半分ぐらいの建物には蜜柑色の灯火が揺れている。多分蝋燭か、ある種の脂を使ったランタンかも知れない。詩音は左右を見渡して、くん、と臭いを探る。
静かに右側の暗黒に塗りつぶされた道を選んで歩き始める。ブーツの裏が石畳に触れてコツコツとした音を街に響かせ、暗黒の道に踏み込んで行くと、また一つ遠くに瓦斯灯が見えた。そこまでの道は足下も見えないほど光が失われている。瓦斯灯の手前に、仄かな光に照らされた古色蒼然とした吊るし看板が見える。文字はほぼ英語に近いが、スペルも文法も見覚えがない。その店の重々しいオーク材のドアを詩音は押し開いた。
暗い店内は酔客に溢れている。客も店員とおぼしき黒いエプロンを着けた男たちも、ほとんど例外なく顔を深く黒い髭で覆っていた。詩音は構わず店の奥に進み、狭い裏口のドアの前で立ち止まり、再びその口唇を震わせる。
砂漠の天使よ限りなく朦朧な光に満ちよ
邪悪な風鈴の風に忌まわしき悪夢を語らせ
音も声も叫びも苦痛もない永遠の午後三時に集え
理性は枯渇し怠惰は飽満する
意志と夢を持たない獣のように
詩音はゆっくりとひとつ頷き、ドアを開いたとたんに乾いた風に頬を撫でられる。
一面の褐色に覆われた、霞と砂埃にまみれて太陽の見えない街の風景。詩音は階段を二段下りて硬く踏み固められた道をハーフブーツで踏みしめる。道も空も全く同じやや黄色みを帯びた褐色で、目の前には土管とミシンを複雑に組み合わせたような用途が不明の商品や何に使うのか頭を捻るような首の極端に長い壺が展示されている店が見える。何故か詩音はほっとため息をついて、道を蹴るように歩く。
交差点には信号なのか、細長い電柱のようなパイプの上にボルト止めされた黒い金属の風見鶏が進行方向に向けて規則的に動いている。詩音は横を向いた風見鶏の前で立ち止まる。そして風向きが変わったかのように向きが九十度に変わった風見鶏に従って詩音は道を渡った。その道の角には麻布で作られた奇妙な袋の中に紙に包まれた菓子と思われる商品がいくつも並んでいた。そして道側にせり出した小さなベンチとテーブルとカウンター。詩音はカウンターに首を突っ込むと、様子のわからない闇の中で何かを指さした。
詩音は右手を開いて見つめる。左目だけで。そして握りしめる。そうしている間にカウンターから裸の腕が突き出され、褐色の小さなカップが出てきた。詩音はそれを左手で受け取り、右手を開く。その手の中には銅で出来た六角形の貨幣が三枚乗っている。
その貨幣を、差し出されたひび割れて形も定かではない手のひらの上にそっと乗せ、カップを持ったままテーブルに向かい、カップの中を覗き込んで口元に近づける。
紛れもない濃いエスプレッソコーヒーの芳香に詩音はうっとりする。ベンチに腰を下ろすと、静かにそれを口に含んだ。真っ黒な水面に静かに泡立つ茶色い泡が喉を潤す。古い朽ちかけたテーブルにカップを下ろすと、詩音は頬杖を突いて町並みを見渡した。その仕草ひとつひとつが美しく舞う枯れ葉のように優雅だ。
街はまるで人気がない。出鱈目に板を打ち付けてドアや窓を塞いだもの、枯れた植栽を過剰に植えて見えなくなりかけた三角屋根、建物の隙間に見える果てしのない褐色の荒野。まるで漢字の「井」の字のような十字架もどきを飾った教会、ピラミッド型に積み上げられた古く朽ちた樽の山。どれもこれもが愛おしい、と詩音は思う。望郷にも似たその感情を詩音は言葉にすることが出来ない。
コーヒーを飲み終えた詩音はゆっくり立ち上がり、街を歩く。やがて店や家がどんどんまばらになり、詩音はまた小さく息を吸った。
溶け出した未来を持つ乾いた川岸へ
羽根を持たない蝶が飛ぶように
倦怠と秩序と悪意とささやかな愛に満たされたその学舎へ
あり得ない現実と失望を繋いだ知識の森へ
満たされた肉として魂と共に誘え
景色は歩くたびに急速に流転する。玄武岩の森を抜け、時計の針の橋を渡る。噎せ返るような夏草の樹液に満ちた空には無数の蝙蝠が舞う。詩音の口唇はせわしなく羽ばたき、両手の指が複雑なシラブルを刻む。
ビルの谷間の路地をくぐり抜けて詩音は帽子を押さえて小走りになり、うらぶれた小さな劇場の扉を押し開け、奥の楽屋の幕に身体を滑り込ませる。
影は無限。そして全てに溶け込んでいる。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
神楽坂gimmick
涼寺みすゞ
恋愛
明治26年、欧州視察を終え帰国した司法官僚 近衛惟前の耳に飛び込んできたのは、学友でもあり親戚にあたる久我侯爵家の跡取り 久我光雅負傷の連絡。
侯爵家のスキャンダルを収めるべく、奔走する羽目になり……
若者が広げた夢の大風呂敷と、初恋の行方は?
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
