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七月のムスターファ──ビルの上の遠眼鏡
しおりを挟む曇り空は強い陽光を孕み、巨大な発光体のような輝きに満ちている。古ぼけた鉛筆ビルの上に二つのシルエット。その一人は片膝を立てて双眼鏡を構えていた。
ただ無精に伸び放題の乱れた髪に無精髭。チェ・ゲバラの顔がプリントされたTシャツに逞しい肉体を浮かび上がらせている。ぎしぎしと音を立てそうなほどの筋肉を覆う皮膚は、陽に焼けた深い褐色だ。
「ターゲットは活発に動いているな。何を言わせているのだ、眼赤視」
「眼赤視」と呼ばれた少女は隠密活動には不似合いな真っ赤に染められた髪に、お揃いの血のような瞳を向かいの巨大で真新しいビルに向けている。洗いざらしの無地の白いTシャツは形の良い胸を主張し、擦り切れたダメージド・ジーンズはその細くしなやかな脚を演出する小道具のひとつになっている。
「そうね、「傀儡」の調子はいいわ。まるで議長をマリオネットみたいに良く動かしている。議長が熱弁を振るうというのに委員達は戸惑っているみたいだけど」と眼赤視。
「何を喋らせている」無精髭の男は尋ねた。
「遺伝子保護法の中核となる薬剤の開発が絶対の急務であること、計画のスケジュールを前倒しにする必要性。テンションを「傀儡」がブースト。同士杉野」
眼赤視は悪戯をした子供のように舌を出す。透明なほど白い顔に浮かぶチャームなそばかすを手のひらで陽光から守りながら微笑む様は北欧の美形そのものだ。
永田町のその重厚な佇まいのビルの向かいにある、二人の潜む貧相なペンシルビルの屋上には冷房の大きな室外機が唸りをあげ、二人の会話をノイズの海に沈めている。
「もっと押せ。多少無理があってもかまわん」と杉野。
「そうしたい所だけど、委員会がかなり不信に陥っているわ。これ以上は解任動議が提出されてしまうわよ。これだけ「人形」向きの人間は他に見あたらないんだけど。「無能な働き者」って貴重なのよ、同士杉野」
杉野と呼ばれた男は双眼鏡を目元から外し、眩しさに眼を細めて思索にふける。その瞳は大きく情熱的な生気に溢れている。
「それに、今までうんうん頷いて「もう一度練り直す必要があるな」とか「前向きに考えて行きたいがあくまで慎重に一歩一歩」なんて言っていた人間を積極的に肯定させるには無理があるわ。特に委員の一人の製薬会社の天下りがえらいこと渋い表情をしているしね。爆発しないように押さえるのが大変」
「ふむ。前回の諜報では確かに一番発言数が多かったな。省庁の官僚の動向はどうなんだ」そう言う杉野の疑問に眼赤視は答える。「どっちにでも転がっていいって感じだけど。官僚オブ官僚。勝つ馬にだけ賭ける」
ふと、眼赤視が表情を曇らせた。
「ドアの向こう側、それからエレベーター前のエントランス。ネズミね。何か手にしている………ビルの中だけの無線LANかしら?どこかからクラックできるかしら?」
杉野はジーンズのポケットからiPhoneを取り出す。
「………ああ、「七月のムスターファ」だ。そうだ。永田町座標6033-2015周辺のサーバを当たって会話を拾ってくれ………いや、3分だ」杉野がiPhoneをポケットに戻す。
「知り合いのクラッカーかなにか?」と眼赤視。「ああ、昔つるんだ事のある信用のおける固いクラッカーだ。仕事は早い」
「それにさらに急がせているってわけね」眼赤視は肩をすくめた。「ビューチフォー」
杉野のiPhoneの着信音。なんでもAK-74の打撃音らしい。
「どうだ。………うん。そんなにクロスしている? 何人ぐらいだ…まあ、その倍か三倍は覚悟した方がいいな。そうか、切羽詰まっちまったな」少し首をひねってから杉野は判断する。「よし、傀儡にフェイドアウトさせろ。慎重にな」
「あいよ」眼赤視の答えは明瞭にして簡潔。
眼赤視は眼を閉じて幻視する美しい手を離す。その美しい手は躊躇し、戸惑い、やがて消えていった。
永田町に一陣の風が吹き、眼赤視の赤毛を踊らせた。屋上にうち捨てられたコーラの缶が転がって乾いた音を立てる。
「………傀儡の撤退完了。リンク解除したよ」
「よし、我々も離脱しよう。連中の子守が動き出している。顔が割れたな。貴様の髪の毛がことのほかお気に入りらしい」杉野の言葉に眼赤視は不快を露わにする。「こりゃ私なりのポリシーなんだけどね」
「ポリシーなんて物で飯が食えるか?とにかくずらがるぞ、早くしろ。下から昇って来やがった」
階下から階段を駆け上る音が響くのが聞こえ始める。銃器の触れ合う音までも。
眼赤視はその手を杉野に差し出しす。杉野はその万力のような掌で眼赤視の腕を掴むと、ボイラー室のコンクリートに拳で強力無比な一撃を放つ。
何故かコンクリートは砕けず、腕だけがめり込んでいる。杉野は何かを探るようにして、手応えを感じ、力を込めた。
次の瞬間、杉野と眼赤視はコンクリートにめり込むようにして消える。永田町の澱んだ大気が騒がしく揺れ、複数のスーツ姿が屋上に上がってくると四方に鈍色の獲物を構えて見回したが、そこにはただ生ぬるい風が吹いているだけだった。
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