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希望という名の絶望

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その昔は鄙びた商店街だったのだろう。酒屋などは造りが古く、緩やかに歪んだ極太の梁が漆喰の中に食い込んだりしている。近代的なマンションがあったかと思うと、地蔵様が辻に立ってたりする。東京というのは、けっこう部分的に極端に田舎なのだ。「都市計画」とかと関係なく、虫食いのように近代化が進むけど、その隙間に江戸時代から続く古い物が残される。

そんな東京が僕は結構好きだ。

目指したのは、そこそこの規模の書店。
「本屋さん」というものは、いつでも僕のワンダーランドだ。僕はここで、興味と知識を吸い込み、副産物として大量の時間を消費する。つまり、サイテーな今の状況には最適の空間なのだ。
自動ドアを通り抜けるときに風が舞い上がり、僕のワンピースがちょっと危ないぐらいまでめくれ上がり、髪の毛が逆立ち渦を巻いた。たちまち店内中の視線が僕に突き刺さる。慣れで、ちょっと身繕いをし、華麗な仕草で髪を纏める。それから、ほんのちょっとだけの照れ笑い。僕もやるようになったもんだ。

どこの書店でもそうだけど、コミックス三分の一、文芸四分の一、雑誌四分の一、育児や趣味・資格関係五分の一。全部合計しても決して「1」にならないのが書店の真実であり宿命である。
とりあえず、雑誌コーナーへ。適当に回ると銃器の専門誌があったので、流し読みする。ほう。V10。小型オートマチックのスライド上部の左右に解放部があり、バレル自体に左右に合計10個の穴が空いていて、小型ハンドガン特有のヘッドアップを防ぐと。でも、試射中に弾頭の破片がサングラスに当たったというのは洒落にならない。次は釣りの雑誌を読み流す。どのルアーも美しい。頭部に切れ込みがあって引くほどに沈み込むクランクベイトは読んでいるだけで指に水の抵抗を感じる。そろそろ夏場だからさすがにワームの広告は少ないなあ。でも、やっぱり基本というか元祖というかスプーンにロマンを感じる。それにしても同じ釣りでもルアー派をフライ派は軽蔑したりするのは納得いかないなあ、などと考えたりしていたら、背中に人の気配を感じた。

「君がピストルや釣りに興味があるなんて、まったくもって不思議だなあ。美しさに加えてミステリアス。ますます魅力的だよ」
「…昨日の今日じゃありませんか。あなたには恥じらいという物が欠けているようです」

郁夫は自分のトレードマークのように照れくさそうな微笑みを浮かべる。少し垂れ気味の目が奇妙にセクシーだ。

「いや、謝りたくてね。僕は一度そう考えると、居ても立ってもいられなくなる質で。無茶だなあとは思うよ、自分でも。黎明学園の寮の改装だって聞きかじった情報だし、そうしたら君はどうするだろうか?と考えた答えがこれ。僕、冴えてない?」

「そりゃ冴えているでしょうよ。陰謀に荷担するぐらいだから」
「…………いや多分、陰謀を拒むフォースだと思うけど?」
「正義の味方って、悪役が苦労して作った企画をしらみつぶしに否定する存在でしょ」
「僕は水戸黄門じゃないよ…………ところでさ、読書といえばコーヒーじゃない?いいお店があるんだ」
「それ、草冠のじいさんに経費で計上するの?」
「いやいや、そんなさもしい事はしないよお。これはね、遠回しなデートのお誘いさ」
「昨日の今日で飽きません?」
「馬鹿だなあ。恋というものは繰り返しが基本じゃないか」

ええ、ええ。よく手入れされた髭を持つイケメンの微笑みには勝てませんとも。



その喫茶店は「邪宗門」という煉瓦で出来た看板も目立たない地味なお店だった。
店内も暗く、いかにも「芸術家御用達」みたいな独特の雰囲気と挽きたてのコーヒー豆が漂っている。



「君は何を頼むかい?君の奇妙な博識の結論が知りたいな」
「ん。エル・サルバドルの深煎りでエスプレッソ」

地味だけど一見して美術大学の生徒だとわかる風変わりなエプロン女性が慌ててそれを書き留める。
郁夫は呆れ果ててため息をついた。

「君はお寿司屋さんに行ってもネタにキャビアを指定しそうだ」
「もちろんね。「アルマス・ペルシカス」にしてもらう」
「…………それって、握り一個で10万円はするね」
「安いんじゃない?」

詩音はその美麗な髪をかきあげながら事もなげに言い放つ。
ふわりと、「夜間飛行」の香りが舞った。

「君はどうも教育に問題があるみたいだね」
「まあ、母親を亡くしておりますので」
「なのに料理は得意らしいね」
「自分勝手な料理限定でね」

郁夫がまた口を開こうとした時に詩音は遮るように言った。

「僕の家族のことに触れるんなら覚悟した方がいいよ」
「なんで?」
「さて、なんででしょう?」
「…………言えないような事があるんだね。深追いはしないよ」
「言えない事なんてないよ。言えば悪いことが起きるから」
「悪いことって?」
「昨日みたいな事件が度々やってくる。「パンドラの匣」って知ってる?」
「最後に残るのは「希望」じゃなかったっけ」
「実際に最後に残るのは「絶望」なんだけどね」

凛々しい瞳を半眼にした詩音の吐息はあまりにもセクシーだった。


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