〈円環〉を歩む者達

笠原久

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第12話

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「僕も好きですよ。風情が有って」

 斯う言うと髭面の男は大声を上げて豪放に笑った。

「兄ちゃんみたいに言う奴も居るんだよなぁ。勿論単なる御世辞で言うって奴も多いみたいなんだが其の反面、本気で気に入っちまう奴も結構居るみたいでよ、数日の滞在の筈が数箇月も居坐る奴も居るんだよ。まぁ幸いにも住む場所は文字通り余る程有るからな。其れに食べ物にしても大抵は食い切れずに余剰分が必ず出ちまうんだ。ちょいと沖に出て網を張りゃ幾らでも獲れちまうからな……大物を狙おうとすると之で中々難しいもんだが、食うのが目的なら小物で構わない訣だから、大した労も無く確保出来る。行商人から齎される肉や野菜や果物に就いても同様。彼奴等、何う云う訣だか毎回余る程の食料を持って来るんだ。尤も、こっちの魚介類だって余る程用意して居るんだから御互い様なんだけどな」

 髭面の男が言うには、行商人との商いは物々交換で行って居るらしい――と云うより、此の町には『金』と云う概念が存在して居なかった。

 入手した食料は基本的には山分けであり好きな丈持って帰る。普通なら揉め事の一つも起きそうな物だが、何しろ食料が余って居る様な状態であるが故に之と云った問題も起きずに今日に至って居ると云う。

 更に言えば、此の町には基本的に娯楽と呼べる物が無かった。音楽も無く、本も無く、演劇とか踊りとか云った物でさえ無い。

 茲での一般的な娯楽は、言うなれば仕事だった。労働が娯楽を兼ねて居る。然う云う状態である様だった。

 魚や貝や海草を如何にして大量に得るか、或いは如何に巧く舟を操って見せるか、其れ等が此の町の娯楽と為って居た。

 故に働かない者が云々と云う様な問題も発生しない。食料は本当に腐る程に有るから、働かない者が居た所で然して困らない。

 第一、此の町で働かないと云う事は全く何もしないと云う事を意味する。そんな状態に人間は耐えられない。

 実際、殆どの人間は二、三箇月で飽きて了い、長持ちする者でも精々が三、四年で限界を迎えると云うのだ。其れ故、此の町は何の問題も起きず、平穏に茲迄来て了ったとの事だった。

 三階に遣って来ると髭面の男は二部屋しか無い部屋の片方に案内した。這入ると既に食事が卓上に並べられて居た。

 洋燈に灯が点いて居る。髭面の男の妻と思しき女が年若い男を見て不思議そうな顔をして居た。髭面の男は其の女に年若い男の事を紹介し、旅人を暫く家で預る事にした、と言った。

 男の妻は莞爾たる笑みを浮べて頭を下げる。無口な女らしかった。先程から、髭面の男の言葉を聞く時も相槌の一つもせずに頷き、或いは身振り手振りを使って対話をこなして居た。

 余りに然うして居るので、年若い男は若しや喋らないのでは無く喋れないのでは無いか、と見当を附けたが、其の見当は見事に外れる。

 男の妻は、もう一人分の食事を作る為に(当然の事乍ら食事は二人分しか作られて居ない)台所で調理を開始した。未だ炎が揺らめいて居る。其れとも此の竈の火も又、消える事無く永遠に輝き続けるのだろうか。

 火の勢いは常に一定であり作って居る間ずっと変る事が無かった。附言すれば燃料を足す事も無かった。火は相変らず燃え盛って居る。食事の用意は五分許りで終った。

 別に手抜き料理と云う訣では無く此の町では一般的な料理であるらしい。野菜と魚介類とを炒めた料理だった。

 何はともあれ先ずは腹拵えと云う髭面の男の言葉に促されて三人は席に着いた。年若い男の椅子は、男の妻が食事を作って居る間に髭面の男が持って来た物だった。食事に手を附ける。

 旨かった。素直に然う言うと、男の妻は恥ずかしそうに「有難う」と小声で囁く様に言った。食べ終えると、今夜は何処で寝るかと云う話に為った。

 基本的にはどの階のどの部屋にも寝具や卓子と云った家具が置かれた部屋が一部屋は有り、故に三階以外の部屋なら何処を使っても構わないとの事だった。

 取敢えず今晩の寝床を決める為に髭面の男に案内して貰った。直ぐ上の四階は三階と同じく二部屋有る。但し一部屋の面積は三階よりも小さい。

 一部屋が寝室に為って居り、もう一部屋が台所兼居間と為って居る。二階は三階よりも面積が広い。部屋数は三部屋で、一部屋の広さが四階と同じだった。

 一部屋が台所兼居間、残りが家具を有する寝室と為って居る。一階は最も広く用途も複数有った。二階より上には無かった浴室と手洗いが有る。寝室二つに調理場を兼ねた居間が一部屋だった。

 此の構成は何処の建物でも一緒だと髭面の男は言った。どの階だろうと必ず寝室と台所の有る居間が存在して居るのだと云う。然うして一階に必ず浴室や手洗いと云った物が有る。

 但し、階数が余りに多い所は此の限りでは無い。七階を超える様な建物である場合には一階の他に四階にも浴室と手洗いが設置されて居る。

 十階建てに為ると七階にも有る。十三階建てなら十階にも、十六階建てなら十三階にも、そして此の町で最も高い十七階の建物の場合には、一階・四階・七階・十階・十三階・十六階と合計で六つの階に置かれて居る。

 尤も町の中心部の建物は流石に広過ぎて実用性に欠けるから住もうなんて云う奇特な事をする人間は先ず居ない。然う髭面の男は笑って言った。

 年若い男は余り広い部屋は好かないからと言って、四階か二階の部屋を使わせて欲しいと申し出た。髭面の男は諒承し、其れならば眺めの好い四階を使うと好いと勧めた。

 年若い男は髭面の男の意を汲んで有難く四階の一室を使用する事にした。今夜はもう疲れて居るだろうから、との髭面の男の言葉通り部屋に這入ると年若い男は寝具に寝転がって朝迄ぐっすりと眠って了った。

 翌朝に為ると男の妻が年若い男を起しに遣って来た。手で年若い男の体を揺すって目覚めさせる。目を明けた年若い男に「朝です」と男の妻は小声で囁く様に言った。

 三階に行くと三人分の朝食が既に出来上って居た。食事を済ませる傍ら今後の予定に就いて尋ねられた。髭面の男は何か手伝える事が有ったら言って呉れと申し出た。

「仕事の心配とかはしなくて好いぜ。何うせ何箇月か仕事をしなくても何の問題にも為りゃしないからな。暢気な町なんだよ、茲は。まぁ手伝うと云っても、俺達に出来る事と云ったら精々が寝床の提供とか飯の調達とか町の案内とかくらいしか無いんだけどな」

「有難い申し出ですが」と言って、やんわりと年若い男は断りを入れた。

「斯うして宿や食事を提供して貰える丈で充分です。一先ず自分一人で色々と調べて見ますから。何うしても助力が必要な時は此方から協力の申し入れをします。其の時は宜しく御願いします」

「然うかい?」と髭面の男は少し残念そうに言った。男の妻は微笑し乍ら自分の旦那の背中を二度軽く叩いた。髭面の男は苦笑で以て返辞をした。

 食事が終り早速出掛けようとして居た年若い男は、不図次に行商人が来るのは何時かと云う事を訊こうと思い立った。行商人は茲と外界とを結ぶ唯一の存在と云える。である以上、必ず此の世界脱出の鍵と為る筈だ。

 附加えて云えば、熊の様な大男や婀娜やかな女の手掛りも手に這入るかも知れない。否、絶対に何らかの情報を攫んで仲間を捜さなければならない。

 単独で行動するのは矢張り不安が有る。其れに彼の少年の事も気に為る。此の儘黙って見て居るとも思えない。間違い無く何らかの形で介入して来る。

 否、其れとも何もせずに居るだろうか? あの時も慥か駅を降りると少年が居た。ならば今回も先に行って待って居ると云う事か。いやいや……。

 思考は堂々巡りを繰返す。思索を打切って年若い男は行商人が何時来るかを確認した。髭面の男に依ると、前に来たのが三日前だから三日後か四日後に来る筈だとの事だった。年若い男は礼を言って部屋を出た。屋上に向う。

 階段を登って扉を開けた先には町の様子が広がって居る。海側は建物が低くなって居る為、好く見える。町の中心部は徐々に建物が高くなって居る為、見上げれば屋上から其々四方に向けて縄が伸びて居るのが見える。

 舟を使わずとも隣の建物へ行く事が出来るが、其の為には縄を伝って行かなければならない。年若い男は其の内の一本、海側の建物に通ずる一段下がった縄に近附いた。

 眼下では丁度髭面の男が舟を漕いで出掛ける所だった。年若い男には気附いて居ない。髭面の男はゆっくりと舟を漕いで行った。

 年若い男は其の様子を見詰めて居る。髭面の男の舟は直ぐに建物に隠れて見えなくなった。視界から消えても年若い男は暫く黙って其処に佇んで居た。だがやがて徐に動き出した。

 先ず慎重に縄に足を掛ける。綱渡りの要領で歩けるかを試して見る。一歩二歩と歩いて見て之は無理だと判断する。縄を両手で攫んで進むか、いや其れも出来まい。

 年若い男は素直に階下に降りた。玄関から外へ出ると舟が一艘有る。使われて居ない物の様だ。年若い男は櫂を手にして舟を漕ぎ出した。町の中心に有る十七階建ての建物に向おうとしたが、思い直して舟で町を一周して見る気に為った。

 中心に通ずる分れ道で彼は曲らず真っ直ぐに舟を進めて行く。流れは穏やかだった。然程苦労せずに舟を思う通りに動かす事が出来た。

 波は無く、海面は鏡の様に綺麗で空と建物を映し出して居る。水は澄んで居た。薄い黄色の背びれを持つ掌程の魚を見附けた。見た事の無い魚だった。櫂を持つ手を止めて魚に見入る。

 魚は悠然と海面近くを泳いで居た。探して見たが近くに似た魚は居ない。逸れて了ったのか。年若い男が然う考えて少し目を離した隙に魚は消えて居た。

 探そうとして、止めた。今すべき事では無い。年若い男は粛々と町を一周した。之と云って変った物は見当らず、町の様子は何処迄行っても変化が無かった。只、時折猫が縄の上を移動して居るのが見えた。

 彼は舟を方向転換させ町の中央に向う。水路を何度も何度も曲り、徐々に周りの建物が高くなって行く。やがて此の町で一番高い建物に辿り着いた。

 十七階建ての建物には入口が八つ有る。其々東西南北で二つずつ。其れに対応する様に船着き場も二つずつ附いて居る。不思議な物で、建物の周囲をぐるりと廻って見ると既に凡ての船着き場に舟が碇泊して居た。

 此の内の一艘は昨日、年若い男が乗船した物である筈だが、何故か茲に有った。一瞬、思索の波に呑まれそうに為ったが考えない事にした。

 誰かが返しに来たのであれ、舟が自動的に戻って来たのであれ、兎も角茲では然う云う風に為って居るのだろう。年若い男は空いて居る場所に舟を停めると、建物の中に這入った。

 ピラミッド状に為って居るから、一階は途轍も無く広い。階段を登って上に向う。最上階迄行くのは聊か骨が折れた。屋上に出る。

 太陽は中天に有った。真上から陽光を突附けて来る。嗚呼、然う云えば傘を貰って呉れば好かった、と彼は思った。

 階段登りで温まった体を太陽は容赦無く熱する。汗が一気に噴き出した。日陰を探して見たが太陽との位置関係でそんな物は無かった。もう少し傾かないと何うしようも無い。

 彼は建物の中に戻り、台所に行って蛇口を捻って水を出して飲み下し、一息吐いて小憩した。

 日は傾き始めて居た。彼は立上がると、再び屋上へと趣いた。未だ体の節々に疲労感が残って居たが気にして居る場合では無い。

 年若い男は町全体を見渡した。其れから目を閉じて町全体の情報を捉えようとする。意識の感覚を少しずつ押し広げて行こうとした所で不意に足首に妙な感触を覚えた。

 見ると猫が足に纏わり附いて居る。猫は年若い男が気附いた事を見て取ると鳴き声を上げた。年若い男の靴に前脚を載せて、年若い男の目を見詰めて又鳴く。

 何かを訴えて居る様にも見えるが年若い男は猫の言葉を解さない。取敢えず頭から背中に掛けて撫でると、先刻迄とは打って変って心地好さそうな声を上げる。

 一頻り撫でると猫は満足したのか日陰に這入って坐り込んだ。

 妙に人懐っこい猫だ。此の町には慥か猫が沢山居たが皆ああなのだろうか。年若い男はもう一度意識を集中させようとした――が、今回も又出来なかった。

 突然猫が走り出して来て、年若い男の足にしがみ附いて慌てた様子で鳴き始めたからだった。其れで仕方無く又撫でて欲しいのかと思って手を遣ると、猫は素早く身を躱して年若い男から距離を取った。

 然うして今度は空に向って何やら鳴き声を上げ始める。何事かと思って見ると海猫が飛んで来た。海猫は年若い男の目の前に降りて来た。猫と一緒に為って鳴き始める。

 何事か伝えたい事が有るらしいのだが、生憎と年若い男は鳥の言葉を解さない。正直言って蒼蠅い丈だった。

「何だ、餌でも欲しいのか? 僕は持って居ないぞ。見ての通りだ。だから、そんなに鳴かれても何うしようも無いんだよ。向うの港の方に行って見たら何うだ?」

 猫と海猫は年若い男が話し始めると、一往は黙って聞くのだが、喋り終えると同時に又鳴き始めるのだ。

「分った分った。向うは餌を要求する猫や海猫で一杯だから僕に要求して居るのだろう?」

 然う言うと、一匹と一羽は声丈でなく体全体を動かして烈しく否定する様な動作をした。餌が欲しいのでは無いのだろうか。

 然し其れ以外に思い当る節が無い……。

 結局、其の日は猫と海猫の相手で殆ど何も出来なかった。朱色の時間が始る頃、年若い男は仕方無く帰途に就いた。

 一階迄降りて、船着き場に遣って来ると、既に先客が舟に乗って居た。猫と海猫。恐らく――否、間違い無く先程のと同じ奴だろう。何なのだろうか、一体。

「一緒に来る積もりか?」と訊くと、猫と海猫は同意する様に一声鳴いた。一匹と一羽は彫刻の様に不動の姿勢を保って居た。年若い男が舟に乗り込んでも動かない。漕ぎ出しても動かなかった。

 日が沈み始め、四六時中灯り続ける松明の炎が際立って来る。明りが水面に盆槍と映って見えた。

 年若い男は真っ直ぐ舟を進めて行く。松明の明かりに導かれる様にして舟を漕いで行った。炎に照らされて、猫と海猫の影が濃く伸びている。一羽と一匹は年若い男が向う先を凝と見据えていた。

 髭面の男の家に戻って来ると、夫婦二人で出迎えられた。帰りが遅いんで少し許り心配したぜ、と髭面の男が言った。妻のほうは無言で頷いた。

 と、髭面の男が舟に鎮座した猫と海猫を見て目を丸くした。聞く所に依ると、此の町の動物は決して人に懐こうとしないらしい。

 海猫は自分で餌を確保して居り人からの施しは受けない。猫は餌を貰いに来る事こそ有る物の懐く事は無い。

 然も絶対に餌を貰おうとしない猫も居り、然う云った猫は頻繁に食料庫を漁るので憤慨する者も居るそうだ。

「と云う事は、人懐っこいのは可笑しいと?」

 年若い男が然う訊くと、髭面の男は首肯した。然うして自分の妻の事を話し出した。

「大分昔の事に為るんだが……此奴がな、猫を何とかして手懐けようとした事が有ったんだよ。勿論失敗したんだが、其の時でさえ可成り人懐っこそうなのを選んで居たんだ。餌も普通の猫に遣る様な何時でも何処でも獲れる様な魚じゃなくて、態々行商人から仕入れる肉を遣ったりしてな。んで其の猫、餌を貰いに来る事は来るんだが、呼んでも絶対に近寄って来ないんだ。其れに餌も他の猫と同じ様に人間の手からは絶対に食べようとしない。飽くまでも餌を人間の手から放して初めて食べ始める……まぁ何と云うか、其れでも最初の内は頑張って居たんだが、結局は何を何うやっても絶対に懐きはしなかった。近附いて来た所を撫でようとしたら威嚇されて即座に逃げ出したんだよ。何箇月続けようが全く成果無し。丸きり変らなかった。此奴以前にも猫を手懐けようとした奴は居たらしいんだが、一匹も懐かなかったらしい。結局の所、猫と人間は相容れない存在だって事だ。海猫に至っては近附く事すら無い。こんな事は今迄に一度も無かった」
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