クルイアイ

くらうでぃーれん

文字の大きさ
3 / 38
1・愛と憎悪

1-2


 放り投げるように置かれたさつを拾って、決して男に触れないように指先だけで釣りを返す。会計が終わると、男は無言で店を出て行った。マナは同じく無言でそれを見送り、その背中にようやく怒りを込めた視線をぶつけた。

 あの男はいつも、誰に対してもこうだ。無駄に偉そうで、常に不機嫌で、自分が〝お客様〟だと勘違いしている。そんなに嫌なら来なければいいと思うが、しかし男は頻繁にこの店にやって来るのだった。

 だが実を言うと、マナは対応している客があの男だということに気付いたのは男が去る直前になってのことだった。
 マナは男の顔も容姿もまともに覚えてはいない。もし同じような態度の全然違う客が来たとしても、マナにはその見分けはつかないだろう。
 客の顔も体格も、たとえ性別すら違ったとしてマナにとっては嫌悪の対象であり、全て覚える価値もないひとくくりの存在だ。

 それが――ユイではないという点において。

 マナが正しく覚えているのはユイのことだけ。ユイのことだったらどんな些細なことでも全て記憶している。誕生日は当然、今の身長や体重、食べ物や飲み物の好み、好きなコーヒーの種類や濃さ、服装の好み、服を着る時の癖、脱ぐときの癖、脱がせてくれる時の癖、お風呂の時はどこから洗うかも知っているし、どんなキスが好きなのかとかどこが一番感じてくれるかもよく知っている。マナの耳や指を甘噛みするのが好きなことも知っているし、首筋を甘噛みされるのが好きなことも知っている。

 ユイのことだったら、聞かれた全てのことに答えられる自身がある。もちろん、ユイ以外には答えてやるつもりはないけれど。

 だけどユイ以外のことは全然知らない。マナが覚えるのはユイのことだけ。マナが奉仕してあげるのも、マナに話しかけていいのも、見ていいのも、全てがユイ一人だけの権利なのだ。それ以外の人間がその権利を主張しようとするなど、言語道断だ。

 マナはいい加減表情を取り繕う余裕も失って、足早に客の目に付かない店の裏に引っ込んだ。

 ギリと奥歯を噛みしめながら、大きな冷凍庫のフタを殴りつける。ゴン、と鈍い音が響き、バックルームで商品の発注をしていた店長が驚いた顔を向けてくるが、それを気にかける余裕もない。

 ユイのことを思い浮かべながら一度大きく深呼吸。そうしてようやく、一応の平静を取り戻すことに成功する。

 そこまでして怒りを抑えつけているのは、できるだけ荒事は控えるようにとユイに言われているから。理解も納得も出来なくても、ユイに言われれば実行するのは当たり前のことだ。

 だからマナは必死に耐える。どれだけ不愉快な思いをしようと、それはユイとの約束だから。自分の激情なんかよりも、ユイとの約束のほうがよほど大切だから。

 楽しくもないのに笑顔を浮かべているのも、ユイがそう言ったから。睨みつけたりするのは当然、あまりに無表情でいると無駄ないさかいを引き起こしかねないから、できるだけ明るい表情でいたほうがいいと、ユイが言ってくれた。

 だから本当は笑顔もユイの為だけのものにしたかったけれど、仕方なく笑顔を浮かべる。だけどこれもいわばユイの為なのかもしれない。そう思うと少しだけ楽になる。ただし頻繁にそれを忘れて無表情になってしまっていることには、マナはあまり気づいていない。

 荒げた態度だけはどうにか収めると、マナは再びレジへと戻る。氷雨がそんなマナの横にふわりと立って、楽しげな困り顔という器用な表情を向けてきた。

「もう、マナちゃんったら、あまりお客さんに冷たくしちゃダメよ?」

 氷雨に諭されるが、こればかりは向こうが悪いのだから仕方がない。もっとも何があろうと、ユイ以外のことで自分が悪いと認めるつもりなどないけれど。

「私悪くないです」

 あらあらと、氷雨が反応に困った顔をしている。実際、あの客は態度の悪さのせいで店員からの評価は圧倒的に低く、マナに限らずアレに対して淡々と接している店員は多い。
 もちろん、マナほどあからさまな態度を取っている店員はさすがにいないけれど。

 氷雨はすぐに気を取り直し、柔らかい笑顔で店内を見回した。

「じゃあお客さんも少なくなってきたから、店内のお掃除お願いしていいかしら」
「分かりました」

 淡々と答えて、マナはレジを出て掃除用具を取りだす。

 マナは掃除が嫌いではなかった。行為自体がどうこうではなく、これをしていれば比較的集中してユイのことだけを考えていられるからだ。掃除をしている間は客との関わりを最小限に抑えられる。声をかけられれば仕方なく応じるが、それ以外では一貫して客の姿など無いものとして扱っていた。

 帰ったらユイと何をしようかなと考えながら、時折横を通り抜けてゆく客を意識の外に置きながら掃除を続行。掃除が終わると次は商品棚の整理を始める。

 掃除や整理に関して、マナの手際は決して悪くはない。むしろ、かなりいい。

 普段ユイの為に身の回りのことを積極的に行っているおかげで、それらの行動に体が慣れているのだ。当然身の入れ方がユイの為にしている時とは天と地ほどの差があるので、やる気になればさらに効率よく仕事をこなすこともできるが、言うまでもなくユイ以外の為に尽くす気など毛頭ない。

 手を動かしながらユイのことを考えていると、自然頬が緩みそうになり図らずも作業が早くなってしまう。

 黙々と仕事をこなしていると、不意に後ろに誰かが立ったのを気配で感じた。商品を見ようとしているのかと思い、緩みかけた頬を不愉快に歪め、主に鬱陶しいという理由でその場を去ろうと思ったマナに、声がかかった。
感想 0

あなたにおすすめの小説

私は貴方を許さない

白湯子
恋愛
甘やかされて育ってきたエリザベータは皇太子殿下を見た瞬間、前世の記憶を思い出す。無実の罪を着させられ、最期には断頭台で処刑されたことを。 前世の記憶に酷く混乱するも、優しい義弟に支えられ今世では自分のために生きようとするが…。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~

二階堂吉乃
恋愛
 同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。  1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。  一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。