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1・愛と憎悪
1-3
黙々と仕事をこなしていると、不意に後ろに誰かが立ったのを気配で感じた。商品を見ようとしているのかと思い、緩みかけた頬を不愉快に歪め、主に鬱陶しいという理由でその場を去ろうと思ったマナに、声がかかった。
「こんばんは、香澄ちゃん」
ビキ、と音を立ててマナの動きが固まった。
顔も声も、覚えてはいない。だけどこのねっとりと絡み付くような不快感だけは、忘れたくても忘れられない。
「‥‥‥‥いらっしゃいませ」
言葉を返すことすら不快だった。ユイに何も言われていなければ今すぐにでも目の前の商品をぶん投げてやるところだが、拳を握りしめてどうにかその衝動だけは抑え込む。
微笑を張りつけることも忘れ、無表情でその場を離れようとするマナに、さらに声は続いた。
「今日も精が出るねえ。あ、オススメのお弁当とか、あるかなあ」
しつこく声をかけてくる男は、年齢は40代から50代くらいだろうか。清潔感とは無縁の風貌でいつ見ても同じ服を着ており、適当な時間にふらりとやってきてはマナに声をかけてくる。他の女性店員にも声をかけてはいるが、特にマナに対して執着が強いようだった。
「‥‥‥‥知りません」
店員としては落第点の言葉で、表情を凍りつかせたまま棚を見つめて答える。逃げたくともこの狭い店内だ。逃げ場所などあるはずもない。少々移動したところでこの男はついてくるのだから。
しかしそんなマナの態度にも、男はなぜか愉快そうに笑った。その笑い声も、不快でしかたなかった。
「ははは、そっかそっか。じゃあ今日はこれにしようかなあ」
男は適当な弁当を取って、しかしすぐにその場を離れようとはしない。マナはそんな男を無視して仕事を続行する。
「良かったら香澄ちゃんがレジ打ってよ。氷雨さんお話し中みたいだし」
「良くないです」
見ると確かに氷雨は客と会話している最中だったが、マナにはそんなこと関係がない。マナは冷たい怒りに彩られた瞳で、弁当を見つめながら男をあしらう。
一言ごとに苛立ちが募っていた。一刻も早くこの場から立ち去ってほしい。
必死にユイの顔を思い浮かべて感情を抑えようとする。
――ユイくん、ユイくん。ユイくんの顔。ユイくんの声。ユイくんの体温。ユイくんに抱き締めてほしい。ユイくんに抱いてほしい。私の中をユイくんで満たしてほしい。
頭の中をユイでいっぱいにして、見えるもの、聞こえるものを全てシャットアウトしてしまう。そうしていれば、少しは落ち着くことができるから。
「あ、やっぱりそっちが美味しそうだからそれにしようかな」
言って男がマナの側にある弁当を取ろうと身を乗り出す。その拍子に、わずかに男の手が肩に触れた。
「‥‥‥‥っ!」
思考の全てが、霧散して、崩壊して、弾け飛んだ。
手にしていた弁当を握り潰し、放り捨てるように棚に投げ戻す。
顔が青ざめるのが自分でも分かった、よろめくように3歩ほど離れて男を睨む。
さすがにこれはもう、限界だ。ユイとの約束ももちろん大事だが、それ以上にユイに捧げる身の穢れのほうが問題だ。
ユイ以外の誰にも、この体には触れさせたくない。マナの全ては、ユイの為だけにあるものなのだ。心も体も、マナを構成する全てはユイだけのもの。
それをこんな男が、気安く触れていいものではない。この男でなくとも、気安くなくとも、触れていいものではない。
そのままマナは男もレジも無視してバックルームへ駆け込んだ。すぐさま消毒用のアルコールスプレーを肩に過剰散布して制服をぐっしょりと湿らせる。ペーパータオルで乱暴に肩を拭い、身の毛もよだつような不快感を払拭しようと試みる。男に触れられた感触より、濡れた布が張り付く感触のほうがよほどマシだった。
不安定に呼吸が乱れ、体の震えが収まらない。憤りが抑えられない。手近にあった揚げ物用の紙容器をぐしゃりと握り潰し、手が白くなるまで拳を握り込んでからゴミ箱に放り捨てる。
バックルームに入ると店長の驚く眼も意に介さず、ロッカーに仕舞っていたスマホを引っ張りだした。
電話帳に登録されているのは1件のみ。マナは迷わず通話ボタンを押した。2コールほどでマナの発信は受け止められる。
「もしもし、どうかした?」
スピーカー越しに大好きな人の声が届けられ、マナの精神は途端に安定を取り戻す。
怒りは安堵に変わり、思わず涙目になりながら電話をぐっと握りしめた。
ユイの声。大好きなユイ。
世界で唯一、愛しているユイ。
「ユイくん、大好き」
「うん、俺も好きだよ」
「帰ったらいっぱい抱き締めてね」
「何か食べたいものある?」
「ユイくん」
「うん、分かった」
「ふふ、終わったらすぐ帰るから」
「待ってる。頑張って」
「うん、後でね」
2人の会話は伝える情報があまりに少なく、脈絡もない。ように聞こえるらしい。
だけど2人の間で伝わっているなら、それで十分だった。
ほんの十数秒の会話を終え、電話を仕舞う。本当はもっと話したいけれど、スピーカー越しではあまりに味気ない。ユイの顔が見えないから。ユイの肌に触れられないから。
だから今話したいことは全部、帰って直接話そうと思った。とりあえず今はこれだけで、どうにか持ちこたえられそうだ。
澄ました表情を取り戻し、再びレジに立つ。先程の男の姿はすでになく、少し気遣わしげな様子の氷雨がマナに声をかけた。
「あら、落ち着いた?」
「はい」
「もう大丈夫?」
「はい」
そこでマナは張り付けたものではなく、うっとりとした笑顔を浮かべた。
「帰ったら、ユイくんが待っててくれますから」
そんなマナの様子を見て、氷雨はくすりと楽しそうな笑みを漏らした。
「マナちゃんがそんなに幸せそうに笑うなんて、よっぽど素敵な彼氏くんなのね」
ユイ褒められると、マナも嬉しくなってしまう――わけがない。
ユイが素敵なことなんて、当たり前のことだ。誰が何と言おうとユイはユイであり、マナだけのものだ。むしろ、マナ以外の人間のユイに対する言葉はそれが何であろうと不愉快だ。
だからマナは特に表情を崩さないまま「当然です」とだけ答えた。
そしてそれ以降は特に大きな問題もなく、マナは再び淡々と仕事を終わらせていった。
今日は正直、かなり運が悪いと言っていい。嫌いな客は来店数と同じだけいるが、その中でも特にタチの悪い2人に当たってしまうのはよくあることではない。特に後から来た男に触れられたことは、最大の不運だ。これまでユイ以外の人間に触れられたことなどほとんどなかったというのに。
今日は帰ったらすぐにシャワーを浴びて、その後は全て忘れてしまうくらい激しくユイに抱いてもらおうと思った。そうでないと、耐えられそうになかった。
「おはょざまーっす」
と、マナの終わりの時間が近づいてくると交代の人がいつもの調子でやってくる。
彼が制服に着替えて現れると、ちょうどマナは終わりの時間だった。
「おはようございます。お疲れ様です」
一応挨拶だけはして、時間きっかり、マナはくるりと踵を返してその場を後にする。バックルームに入ってものの数秒で私服に戻ったマナは2人に一瞥もくれないまま、店を出て行ってしまった。
「‥‥‥‥」
取り残された彼は、何とも言えない表情でぽりぽりと頬を掻いて氷雨に視線を向ける。
「‥‥ずっと思ってたんですけど、オレってやっぱ嫌われてますか?」
しかし氷雨はにこやかに首を振る。
「いいえ、大丈夫。マナちゃん、誰に対してもあんな感じだから」
それを受けた彼はより一層複雑な表情を浮かべて、遠ざかっていくマナの背中を見た。
「‥‥いや、それはそれで大丈夫じゃないと思うんですけど」
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