祓い屋女中記

桾木 柚子

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第三章

第三話 熔ける

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「お方様!お方様!!」
 
侍女達の切羽詰まった声が聞こえてくる。

その声に皆が急ぎ駆け付けた。

「どうした!?」
 
支依が声を掛けた先にはぐったりとした様子で横になっている通子の姿があった。

「お館様!お方様が急に……!」
 
侍女達が取り乱した様子で説明をしようとしていると更に容態が変わる。

「何だ!?」
「ああああぁぁぁっぁぁっっ!!」
 
通子の額から大きな赤黒い角が伸びる。
肉を裂き、皮膚を突き破っている。その痛みからなのか眼を見開き顎が外れんばかりに口を開き叫ぶ。
その見開かれた瞳の両端、目頭と目尻が裂けていき、耳を劈くような叫声を発する唇の両端も、血を流しながら大きく裂けていく。そこには人の物とは思えない牙が見えた。

「……鬼だ。」
 
その姿形に喫驚した翔悟が思わず口に出していた。
まさに鬼に変化していっているようだ。

「皆離れろ!!」
「通子!!」
「支依殿!」 
 
危険な状況に今野が思わず怒号を飛ばし、それと同時にその場から一目散に逃げていく侍女達、対して、異形のモノへと変化していく自分の妻を何とかしようと側へ寄ろうとする支依、そしてそれを必死に止めようとする侍従達。
その場は騒然とし混乱に陥った。

「クククク……あははははははっ!」
 
鬼の姿をした通子がゆらりと立ち上がり、腕を大きく広げ、顔は天井を見上げながらこの世のものとは思えない笑声をあげている。

「……。」
 
そしてピタリとその声が止むと辺りが静寂に包まれた。何とも不気味である。
聞こえてくるのは震えるような息遣いと唾を飲み込む音だけだ。

「……と、通子?」
 
支依が震えながら恐る恐る声を掛けると、
キッとこちら側へ顔を向けた。
 
髪の毛は逆立ち、左右に分けられた前髪と額の間には鋭利な角が生えている。
その下の眉根はギュッと寄せられ眼は黄色く濁り涙を流しているのが何とも悲痛だ。
更にその下の口はカッと大きく開かれ上下に二対の牙が剥き出し、激しい怒りが伝わってくる。

「完全に鬼になってやがる。誰も近付くな。」
 
樋口が支依達を背に護るよう半歩前に出る。
「おい鬼、てめぇ何しやがった。」
「翔悟。」
 
鬼になったとは言え貴族の奥方だ、無作法な言い方に、嗜めるように名前を呼んだ樋口。

「通子殿、これはどういう事でしょう。」

続けて彼女に向き直り問いかける。
鬼の変化を見たのは初めてだが、いつもと同じように対応して時間を稼がなければ。
陰陽師達が到着するまでそんなに時間はかからないはずだ。

「通子ど……」
「我の苦しみ、怒り、そなたらにわかるか。」
「……。」
「この恨みはらさでおくべきか。」
「通子!二人をどこへやったんだ!?」
「なぜじゃ! 我がおるであろう!我が妻じゃ!!我が其方の妻じゃ!!」
 
話すたびに口からドロドロと小さな炎が吐き出され、それと同時に屋敷の上空からゴロゴロと雷鳴が響き渡る。

「支依殿、あまり刺激しないでください。」
 
あまり良い状況ではない、むしろ最悪だ。
支依も通子も興奮状態で抑えがきかない。
そして一瞬、通子が静まったと思ったら、今度は、もう我慢ならないとでもいうかの様に、内側から何かが溢れ出して止まらないとでもいう様に、不気味な声で笑い始めた。
 
皆、固唾を飲んで見守っている。

「カッ!!」
 
突如口を縦に大きく開き、何かを吐き出したと思ったら、通子の体が足元から徐々に赤黒い炎に包まれ始めた。

「悔やむが良い!その愚かな行いのせいでお前は全てを失うのだ!!」
 
赤黒い炎を吐き出しながらカッカッカッと腹を抱え大笑いしている。
と、パッと顔を向けてきたたと思ったら、その瞬間こちら側へシャーッと炎を吹きかけてきたのだ。
同時に、屋敷に大きな雷が一つ落ち、目も開けられない程の眩しさに全体が包まれ、屋敷全体がズシンと揺れるほどの衝撃が生じた。

「……っ、皆大丈夫か!?」
 
皆、先程の雷光に目が眩んでいる様だった。
腕で目を覆っていた樋口は今野の声に周りを確認する。
翔悟は同じように目を覆っていたが、支依や侍従達は腰を抜かしたのか、床に座り込んでいた。

「樋口さん!鬼がいねぇ!」
 
翔悟の言葉に全員の視線が先程まで通子の居た所に集まる。

「と、通子!どこへ行ったのだ!?」
 
支依は酷く狼狽えている。

だが、正直言うと、樋口らも動揺していた。
恐ろしく信じ難い事を目の当たりにした上に、未だ行方不明者の所在も、それに繋がる情報も得ていないのだ。

「ちっ、どうする!」
 
もどかしさから舌打ちをした所に居室の外からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。

「副部隊長!!」
 
スパーン!と、勢いよく障子が開くと同時に、情報を探らせていた中西が駆け込んできた。

「何だ中西!何か情報は得られたか!?」
「実は、支依殿の逢引きに協力していた使用人から聞いたんですが、二人がよく使用していた古屋敷に、ここ一月の間に支依殿と消えた妻以外の人たちが夜中に出入りするのを目撃していたようです!」
?複数か?」
「はい、加えてその集団は顔が見えないよう頭から黒い頭巾のようなものを被っていたり、僧侶のような服装の者や真っ黒な狩衣を身に付けている者もいたようです。」
 
狩衣とは貴族が身につける装束だが、陰陽師も同じように身につけている。

(奥方が呪詛をかけたと言っていたな……。そこで何かしらの儀式が行われていた可能性があるな……。)

「支依殿、不躾な質問をお許しください。お二人がよく逢っていた場所を教えてくださいませんか。」
 
まるで魂が抜けたかのように呆けている支依は、寅と卯の間の方位へスッと顔を向けた。

その方角、おそらく逢瀬を重ねていたであろう場所の上空に、不穏な黒い影が覆い被さり、稲光が走っている。

「隊員の半分と今野さんをここに残す、後は俺と翔悟に着いて来い!」
 
樋口が胸元から小さな無線機を取り出し指示を出す。

「あの、副部隊長。」
 
中西が何か言いたげだ。

「何だ。」
「陰陽師達が到着しているのですが……。」
 
先程の使用人の話もあり、正直彼らを信用出来ない。

「数名だけこちらに借りる。後はここに残して通子殿の事を対処させろ。」
「了解です。」
 
急がなければ。

(嫌な予感がする。)
 
樋口達は向かう先から伝わる禍々しさを一身に感じながら急ぎ向かった。


 
本邸からそれ程遠くもなく近くもない距離。
黒雲が立ち込めるその邸宅は、草木の手入れがされていない、酷く寂れた場所だった。
 
数人の陰陽師と共に到着した樋口らは鬱屈としている。

「……突入する。」
 
翔悟も何か感じているのか、樋口の号令に声も発さずただ静かに頷いている。
樋口、翔悟、隊員達は刀を抜き、周りを注意深く観察しながら進んで行く。
その後ろを怯えながら着いて行く陰陽師達は何とも情けない。
 
寂れてるとはいえ、造りは立派で、河内家の屋敷より一回り小さい寝殿作りのように見える。
東門を通り、東中門廊を渡ろうとした時だった。

「樋口さん、これは……。」
 
翔悟が自分の足元を見ている。
そこにはヌラヌラと光る赤黒い血が付着していた。
二人はそこから伸びる廊下に視線を動かしていく。
薄暗く、奥まではよく見えないが、何かが引き摺られたかのようにその血の跡は続いていた。

(嫌な予感がする。)
 
ギシリギシリと、歯の奥がザワザワするような音を立て、廊下を進んで行く。
進むたびに血の量が増えている。
誰も口には出さないが、これだけの量ではもう助からないと、皆が思っていた。
そして、角を左に曲がり短い透渡殿を通れば、もうすぐそこに寝殿がある。
だが、もう後少しというところで、陰陽師がウッと小さく唸った。
寝殿の母屋までへの簀子縁と階段に、これまでとは比べようのない血飛沫があちこちに付着しているのが見える。

「……先ずは俺と翔悟で確認する。」
 
ミシリと、床が音を立てる。
足元はネチャリと濡れ、少し撓んでいるように感じられる。
 
二人は、中途半端に上げられたボロボロの御簾をくぐり、更に奥、御帳台のある母屋へと足を踏み入れた。
左手は塗籠となっており、この家では寝所として使われていたようだ。
 
どうやら、この濃い血の臭いはそこから発せられているようだ。

「……入るぞ。」
 
樋口の声に翔悟は小さく頷く。
彼の顔色もあまり芳しくない。
二人が踏み入ろうとしているその部屋は、光もなくただ黒々として見える。
中からは何の生命反応も感じられない。
代わりに感じられるのは、濃い鉄の臭いだけ。
 
今までに経験したことのないこの雰囲気に、少々のまれたのか、あの樋口が珍しく二の足を踏んでいる。
すると、その横を躊躇せずスッと通って行く人物がいた。

「翔悟!待て!!」
 
何の気配も無いとはいえ危険すぎる。
焦った樋口が彼に続いて足を踏み込むと、予想をはるかに超える凄惨を極めた有様に絶句した。

「っ……、これは……」
 
部屋に充満する生臭さと、床だけでなく壁一面に飛び散る血飛沫、元は真っ白であっただろう褥も赤黒く染まっている。
そして、その褥のすぐ側に翔悟がしゃがみ込んでいた。

「翔悟、どうし……」
 
横から彼を覗き込もうとした時、それは目に入ってきた。
褥の上部には几帳が置かれ、そのすぐ側には脇息がありそこにはか細い真っ白な女の腕がある。
そこから続いて視線を辿らせていくと、青白い女の顔があった。
髪は酷く乱れており口を開け上を向き、瞳は虚に開かれていた。
そのぐったりした様子からはもう既にことが切れてしまっているのがわかる。

(やはりダメだったか……。)
 
そして、翔悟はこちらにずっと背を向け下方に顔を向けている。

「どうした。」
「……ダメでした。」
 
翔悟が居るところは、ちょうど女の腹辺りだ。
覚悟を決めて同じ場所を覗き込んだ。


 
この屋敷に踏み込んだ時から自分の鼓動だけが静かに聞こえていた。
意識があるのに無いようで、今ここにどうやって来たのかすら定かではない。
鼻腔を突き抜ける濃い死の臭いに、更に鼓動の音が増したように思える。
後ろから制止する樋口の声を無視して、一直線にその“死”の元へ向かった。
 
それはすぐに目に入ってくる。
同時にドクッドクッと鼓動が更に早くなり、まるで全身が心臓にでもなったかのようだった。

(……違う。)
 
女が横たわっていた。鮮やかさと黒く変色した赤の入り混じるその腹は妙にへこんでいる。いや、違う。へこんでいるのではなく、中身がすっかり見えるほど開かれているのだ。

「まさか、そんな……。」
 
絞り出すように掠れた声が出た。
そして、急ぎ開かれたそのすぐ側に座り、探した。

(いない、どこだ!)
 
ふと見ると、その開かれた一部からぬるりと一本の紐のようなものが、身体の向こう側へ伸びているのを見つけた。
 
恐る恐るそこを覗き込んだ。
小さな後ろ頭があった。小さく握られた手もあった。その下の赤く濡れた小さな身体には、母体から繋がる細い命の手綱が光っていた。
 
だが、産声は聞こえない。動きもしない。呼吸で上下するはずのその小さな胸は止まったままだ。

(っ……、間に合わなかった……!!)
 
何とも言い難いその感情に下を向き、強く唇を噛み締めた。

「どうした。」
 
後ろから聞き慣れた男の声にハッと引き戻された。
何か、何か言わなくては。

「……ダメでした。」
 
隣でぴくりと身体が揺れたように見えた。

「……そうか。」
 
こちらを覗き込み、しばらくそのまま何も言わなかった。無言の時間が流れる。

「……。」
「……。とりあえず、本邸に連絡を取る。」
 
樋口はそう言うと、外で待機している隊員と陰陽師に、現場の状況説明と本邸への連絡指示をしに行ったようだった。
 
翔悟はしばらく呆然としていたが、ふと我に返り、目に映るその赤子をおもむろに腕に抱いた。

「翔悟、何してっ」
 
樋口や隊員、陰陽師は彼の行動に目を見張った。
翔悟は自分自身の隊服が血に濡れるのも気にならなかった。
腕に抱いたその赤子は本当に小さかった。
とてもとても小さくて柔らかい。
まだほんの少し残る温かさが一層苦しかった。

「っ……、ごめんな……。」
 
涙をグッと堪え、何も知らないその安らかな顔に声を掛けた。
陰陽師達はただその場で突っ立っていることしかできない様子だった。
隊員達は先程の翔悟と同じように唇を強く噛み締め、目を逸らしていた。

「翔悟。」
 
樋口が側近く寄ってきて、小さく声を掛けてきた。

「助けて、やりたかった。」
 
何も言わず翔悟の肩にソッと手を置いた。
そして、普段は絶対にそんなことしないくせに、慰めるかの如く軽く撫ぜる。
その優しさが余計に腹立たしく思ったが、この怒りは自分自身に向けてだと知っていたから、ただ黙って撫ぜられた。

それが余計悔しい。

「お前ら、お二人を整えて差し上げろ。本邸にお連れする。」
 
そしてやる事はやらねばと、テキパキと指示をしていく。

「翔悟。」
 
名前を呼ばれ、彼を見る。

「赤子を。お前は先に隊舎に戻れ。その格好ではこの後の業務に支障をきたす。」
 
冷めていると思ったが、奴の手には自分の脱いだ隊服の上着が広げられていた。
赤子が寒くないようにとの配慮か。
そっとそこへ赤子を降ろすと、樋口は優しく包み込み腕に抱いた。
ぶっきらぼうではあるが、樋口なりの優しさと気遣いだろう。
その優しさや甘さが今は酷くもどかしく、腹立たしく思えたが、正直、すぐにでもこの場から去りたいのも嘘ではなかった。
もうこの親子を見てはいられなかった。

「……後は、お願いします。」
「あぁ、任せろ。」
 
運ばれる母と共に、赤子を連れていく樋口の背中をしばらく見送った後、自分もその場から離れようとした。

——カタッ

足先に何か固い物が当たった。
見るとそれは、鶴と亀の螺鈿細工が施された唐櫃だった。
蓋が中途半端に開いたそこからは、小さな蟹鳥が飛び出していた。
しゃがみ込みよく見ると、端の方に血が付着して、クシャリと丸まっていた。
思い出すと、その唐櫃の場所は横たわった女の右手に位置していなかっただろうか。
息も絶え絶えで、絶命していく我が子を見、苦し紛れにその蟹鳥に手を伸ばしたのだろうか。

「っ、く……っ!」
 
堪えていたものが一気に溢れた。
誰もいない、一人残ったその場で声を押し殺し泣いた。


 
時刻はもう既に日を跨いでからしばらく経っている。昼間は暑いが、この時間はまだ少し肌寒さを感じる。
辰巳の方位に光る真っ白な下弦の月が、空気を一層冷たく感じさせた。
 
先程、任務を終え皆が帰って来た。
その表情から、良い結果ではなかったのだと知った。
 
諸々の後片付けを終え、ほとんどの隊員達が寝静まった隊舎の縁側に、一人ポツンと月を眺める影があった。

「……。」
「……風邪ひくよ?」
 
その、少々もの哀しげな背中にいつも通りに声を掛ける。

「……。」
「はい、お茶。」
 
雪華は彼に温かいお茶を差し出すとそのまま隣に腰掛けた。
だが、何の反応もない。顔を覗き込んで更に声を掛けようとした。

「しょう……」
「いつもだ。」
 
こちらには目もくれず、月を見上げたまま語る。

「いつも、いつも、ただ異形のものや人をあの世に送るだけ、何も救えねぇ……。」
 
視線を自分の両の手に下げ弱々しく語る様が、酷く項垂れているように見える。
加えて、あの亡くなっていた姿に、自身を投影して自責の念に苛まれているようにも感じられる。
 
翔悟はぼんやりと手のひらを見つめたまま力無く握ったり開いたりを繰り返していた。
すると突然、彼の右手に少し小さな手が重ねられた。

「そうかな。」
 
雪華はそのまま優しく両手で包み込んだ。
翔悟の瞳が驚いたように僅かに見開かれる。

「この手は本当に誰も救えない?」
 
柔らかに微笑み彼を見つめ、包み込んでいる手元に視線を落とした。

「私はそうは思わない。だって、翔悟が妖や悪い人たちを倒すたびに、今生きている人たちは“普通の生活”がおくれるんだよ。」
 
翔悟は優しい声で話す彼女を見つめている。

「確かに、翔悟の言う通り、救えないこともあるかもしれない。でも、それ以上にこの手ひとつで沢山の人を守って助けてくれてる。」
 
雪華は、自分を見つめ、静かに耳を貸す彼の瞳を真っ直ぐに捉えた。

「いつも守ってくれてありがとう。」
 
そして、軽く握っていた彼の手を自分の頬に当て、やっぱりと言いにこりと笑った。

「暖かい。」
 
今しがた、黒く燻っていた重いものはどこへ行ったのやら。
いつの間にか、心が落ち着いている。
 
加えて、翔悟は自分の胸の中に、小波のような何かが際限なく押し寄せて来ていることに気付き、少し困ったような笑みを浮かべた。

「かなわねぇな……。」
「ん?」
 
手のひらから伝わる彼女の温かさが心地良い。
 
和やかな笑い声と柔らかな月の光が優しく包み込んでいる。
足元では、とても気の早い桔梗の蕾が揺れていた。



(無事仲直りできたみたいだな!)
(しーっ、今野さん聞こえますよ!)
(ったく、めんどくせぇガキ共だな。)



やっと、いつも通りの日常に戻る。
そう安堵していた私たちは、背後から忍び寄る嵐の気配に気付かなかった。
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