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第1章 黒い職場 ~入社五年後~

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二月七日木曜日、午後十時。外はしんしんと雪が降り積もり、温度計は氷点下を指していた。部屋の中は暖房が効いており、ある程度暖かい。
 牛山(うしやま)大斗(だいと)は、その暖かい部屋の中にいた。目の前にはパソコンがあり、三十センチほど間をあけて、両側には人がいる。客先の作業部屋は、過密状態だった。会議室として使っていたところに、簡易的な長机とパイプ椅子を運び込み、臨時的な作業部屋として使われている場所だった。三十人程度のシステムエンジニアが全員、残業して仕事をしていた。先日、インフルエンザに罹った人が発生した影響で、全員マスクをしている。小学校の学級閉鎖のように、臨時休業になればよいと思うが、全くその様な雰囲気はない。そして、やる気のある者は一人もいない。全員、過剰に割り当てられた一日のノルマをこなすため、とりつかれた様にパソコンに向かっている。
 大斗は、この日のノルマを早く終わらせて帰りたかった。しかし、完了の目途など立っていない。ノルマは二つあった。一つ目は、五つのプログラムの単体テストをクリアすることだ。単体テストのツールを実行して、プログラムがすべて緑色にハイライトされれば完了なわけだが、どうしても赤色の部分が残ってしまう。この五つのプログラムは、他の人が作ったものであり、詳しい仕組みは分からない。その為、赤色になる原因をゼロから調査していると、永久に終わらない可能性がある。そこで、赤色の部分は気付かなかったことにして、進捗表に完了と書き込んだ。
 二つ目のノルマは、自分で帳票機能のプログラムを作成することだ。それらしくプログラムを書いてみたものの、これで正しく動作するか分からない。少なくとも、開発のエディタに赤色でバツと出ているエラー箇所があるから、これを無くさないと、完了にできない。一つ目のノルマと同じ様に、気付かなかった事にして、進捗表に完了と書き込もうかと、一瞬考えた。しかし、このプログラムの動作テストは、大斗が明日以降に担当するから、そのツケは、結局自分に返ってきてしまう。とはいえ、大斗にとっては難しく、どうすれば良いかさえ分からない。分かっている人に聞こうにも、彼らも忙しいので、「それどころじゃない」と怒られるのがオチなので、聞けない。
 意味がよく分からない状態の時に、設計書や過去の資料などを読んでいると、天から降ってきたように、突然ヒントが得られることがある。そういう事は、経験上知っている。だから、今回もそうなる事を頼りに、当てもなく、パソコンで共有サーバ上に保存してある資料を上から順番に読んでいた。
 午後十時五十分。リーダーの松橋(まつばし)が、全員に声をかけた。
「明日も頑張らないといけないから、今日はもう帰れ」
 この声を待っていたとばかりに、皆次々と部屋からいなくなった。
 松橋はこの時、ある決心を固めていた。

この木曜日の昼のことだが、リーダーの松橋は、プロジェクトマネージャーの柳本(やなぎもと)と二人で、パーティションで区切られた打ち合わせコーナーにいた。
同じプロジェクトに参画しているマネージャとリーダーといえども、柳本と松橋の所属する会社は違っていた。
柳本は、北東京システムサービスの社員だった。そこは、大手運送会社である北東京運送の子会社であったため、優先的に親会社から仕事の受注がされており、経営は安定していた。そして今回は、北東京運送のトラックを管理するための、運行管理システムの開発を受注していた。
一方、松橋は大手システム開発会社であるキリンソフトの社員だった。プロジェクトマネージャーの柳本は、北東京システムサービスの社員だけで運行管理システムの開発をするのではなく、キリンソフトを含めた各社からシステムエンジニアを集めて、混成チームで開発することにした。松橋はそこに呼ばれたのだ。
打ち合わせコーナーでは、柳本の罵声と怒鳴り声が聞こえる。これは、ここ二週間位、毎日のことだ。
「スケジュール通りに終わっていないのに、なぜ帰るんだ。仕事なのだから、徹夜してでもスケジュール通りに終わらせてもらわないと困る」
毎回、同じようなことを言っている。キリンソフトの社員で、松橋の下で働いている大斗も、言っていることは分かるし、出来ればスケジュール通りに終わらせたいのだ。
松橋は、反論する。
「徹夜したら、次の日はそのメンバーは使い物になりません。そんな状態で仕事したら、間違いだらけでやり直しになり、余計手間がかかります」
「そんな理屈は、スケジュール通りに終わらせてから言ってくれ。私は、あなたの意見を聞いているのでは無い。きちんと仕事して、きちんと終わらせる様にしろと、指示をしている」
「いつも申し上げているように、このスケジュールは破綻しています。普通にやれば数日かかる仕事が、一日で終わるものとして設定されています。終わらなくて当然です。やはり、スケジュールを現実的な線で、引き直させて頂けないでしょうか」
「三月二十一日の最終的なリリース日までに間に合うのであれば、好きにスケジュールを組んでくれてかまわんよ」
「三月二十一日には、現実的に間に合いません」
そう、松橋が言った後、柳本の表情が一変し、声がさらに乱暴になった。
「間に合わないじゃなくて、間に合わせるんだよ。あと一か月もあるだろう」
「スケジュールを見直して、主要機能以外のリリースを先送りにするみたいな事も、やはり無理ですか? 一か月あるというと、余裕があるように思えますが、三月二十一日までに必要な仕事を、洗い出して積み重ねたら、到底はるかに足りません」
柳本は少し考えた後、言った。
「あのね、松橋さん。北東京運送とは、これだけの開発を三月二十一日までにやりますと、いま約束しちゃっている訳。それをさ、やってみたら思うように進まないので、延期してくださいとか、一部省きますとか、そんなこと言えると思う? サービス業としてあり得ないよね? 仕事って、そんなに甘くないよね」
松橋は、反論を考えながら聞いている。
「いま、北東京運送さんでは、三月二十一日に向けて、色んな部署で準備とか、調整とかやっているの、知ってる? もしそれが全部やり直しになったら、大きな損害が出るよ。松橋さん、その責任とれる?」
松橋は反論した。
「今のまま進んで、三月二十一日にボロボロのものを提供するよりも、いま正直に話しておいて、状況に応じた判断を、お客様に頂くほうが、お客様とお互い利益があるように思います」
「お互いってさあ、あんたの会社が楽になるだけじゃん。うちも北東京運送さんも、期限通りにリリースされたほうが嬉しいよ。うちの決算の問題もあるしさ。これ以上、あなたと話しても無駄だから言うよ。三月二十一日に品質のしっかりしたものをリリースすること。これだけは、しっかり守って」
松橋はもう何も言わなかった。柳本に何を話しても通じないし、早くこの場から去ってくれたほうが、マシだと思ったのだ。

翌日の二月八日金曜日、大斗が出勤すると松橋はいなかった。昨日遅かったし、プロジェクトマネージャーの柳本との折衝も多いから、さすがに疲れて、寝坊しているのかもしれないと思った。しかし、昼になっても、そのまま松橋は来なかった。
柳本が、いつも通り昼にやってきて、松橋がいないことに気が付くと、血相を変えて、何も言わずに、作業部屋から出ていった。一時間くらいして、大斗の携帯に電話がかかってきた。大斗の上司の浅見(あさみ)信(しん)治(じ)からだった。浅見は、大斗が所属しているキリンソフト新宿営業所の所長である。「松橋と連絡が取れないが、行き先に心当たりはないか」と聞かれた。大斗は、全く心当たりが無かったので、「ありません」と答えた。確かに行き先には心当たりはないが、あれほど毎日怒鳴られていては、姿をくらましたくなりそうだとは、思っていたが、口には出さなかった。「今は大変だろうが頑張れ」と言われて、電話を切った。
大斗のこの日のノルマは、昨日作ったプログラムを動かして、最初の画面を正しく表示させる事だ。しかし、手順通りにやっても、画面は真っ白で、何も表示されない。手がかりすらない。プログラムに赤色のバツが付いたエラーは残っているので、これも影響しているかもしれない。しかし、それだけが原因なのか、手順の実施方法が間違っているのか、見当がつかない。
隣の席は、キリンソフトの同期である河野(かわの)だった。困り果てて、彼も忙しそうではあるが、尋ねてみる事にした。大学で情報工学を学んでいるので、大斗よりはるかに技術に詳しいはずだ。河野は言った。
「リクエストは飛んでる?」
「えっ、リクエスト? 飛んでいるかって、どうやって見ればいい?」
「……。あのさあ、俺だって忙しんだから、そのくらい自分で調べてよ」
大斗は、リクエストについて、インターネットで調べてみた。「データの送信や処理を要求する操作や処理」と書いてある。それが、今取り組んでいる仕事と、どう関係するか全くピンと来ない。もう一度、河野に尋ねてみたが、「これ以上時間取られると俺の分が終わらないから教えるのは無理」と断られた。
仕方がないので、パソコンで「リクエスト」に関するいろんなページを探して読んでいた。一時間以上かけても全く分からず、お手上げになりそうだと思っていた頃、柳本が大斗に声をかけてきた。
「松橋がいないので、俺が直接聞く。進捗はどうだ」
大斗は正直に状況を伝えた。分からないことが原因で先に進んでないので、誰か一緒に考えたり、教えてくれたりする人がいないと厳しいと伝えた。柳本は「みんな分からないことを調べて解決させて先に進んでいるのだ」という事を言った。そして「今日はちゃんとノルマ通り、画面を表示させてから帰るように」という事を言って、大斗のもとを去っていった。大斗はそれを聞いて、自分の心構えが、間違えていたのだと思った。自分で解決しないといけないのだ。仕事は甘くない。
柳本はいつも、進捗を昼に聞きに来るだけだった。けれど、その日は午後六時過ぎに作業部屋にやって来て、持ってきたパソコンで何やら黙々と作業をしていた。こっそり帰ることはで出来なさそうだ。午後十一時を過ぎても、誰も帰る人はいなかった。
十時頃に、一人帰ろうとしたが、柳本に呼び止められた。
「今日の分は終わったのか?」
「終わってないですが、今日は子供の誕生日ですので」
「ダメだ、終わるまで帰るなと言ってあるだろう」
強く言われて、その人はもう一度席について、パソコンの電源を入れた。
深夜零時を過ぎて、柳本は全員に言った。
「今日はもう帰っていい。その代わり、明日は朝の九時に全員ここに出勤しておくように」
今週ずっと帰りが遅かったから、明日の土曜日は、ゆっくりしたかったと思う。でも、仕事だから仕方ない。誰も何も言わず、帰っていった。

二月九日土曜日の朝、九時には全員がそろっていた。ただし、昨日来なかったリーダーの松橋はいなかった。柳本は、全員の前で新しいスケジュール表を提示した。大斗は「昨日黙々と作業していたのは、これだったのか」と思った。柳本は「今日からこのスケジュールで行く」と言った。
今までのスケジュール表と大きく違うのは、土日祝も各人にノルマが割り当てられていることだった。休みが全くない。
この状況を無難に乗り切るには、この多すぎる仕事を何とかこなすしかない。皆そう思っているのだろう。誰も異論を唱える事なく、一目散に自席のパソコンに向かって行き、作業を開始した。
大斗の今日の仕事は、一昨日作ったプログラムで、二番目の画面を出すことらしい。昨日、最初の画面を出すことも出来なかったのに、今日終わるのだろうか。
インターネットで検索して、ヒントを探したけれども、一向に前に進まない。あっという間に午前中が終わり、外に出ると、雨が降っていた。朝来るときは曇っていたが、まさか雨が降るとは。作業部屋には窓がないので、全く外の様子が分からない。傘を持っていなかったので、傘立てに残っている大量の忘れ物の傘から一本借りて、弁当を買いに行った。コンビニで、お腹に溜まりそうな「のり弁当」を購入して、部屋に戻り、パソコンの前に座った。
夜になったら、おなかが空いた。しかし、誰も夜ご飯を買いに行かない。少し抜け出すと怒られそうな雰囲気だ。昼には昼休みがあるけれど、夜は残業のような扱いであり、帰るまで休めない。
午後八時になると、柳本は次のように言い残して帰っていった。
「今日の分が終わったら帰っていいぞ。終わらなかったら帰るな。徹夜してでも終わらせるように。明日の朝、また確認するから」
客先でこんなひどい状況になっているから、所属しているキリンソフトの所長に口添えしてもらい、何とかしてもらおうかと、一瞬頭をよぎった。だが、以前冷たく対応されたことがあったので、全く頼りにならないと思い、あきらめた。
午後十一時になっても、最初に出る画面は真っ白のまま、全く進まない。十一時五十分になると、隣の河野が帰り支度を始めた。大斗は、耐えきれず言った。
「今日の分、全然終わってなくて。河野の分が終わったなら、教えてくれないか」
「毎日、夜遅くまで働いているんだから、これ以上無理よ」
河野は、疲れた顔で、さっさと帰っていった。「俺はこれから、もっと遅くまで帰れないのに」と思って、悲しくなった。
大斗は、夜じゅう頑張った。夜中の三時くらいに、机に顔を付けて、一時間くらいは寝たけれど、もう頭は働かない。最初の画面で、文字だけは出るようになった。
大斗と同じく、夜帰れなかった人が、他に三人いた。彼らも、途中疲れて、机に突っ伏したり、パイプ椅子をつなげて横になったりして、少し休んでいた。あまりに気分が悪いので、いったん帰らせてもらって、家で寝よう。
大斗がそう思っていた朝の八時過ぎ、柳本がやってきた。

二月十日日曜日。
「眠そうだな、昨日は帰れなかったか」
「はい」
大斗は答えた。
柳本は、それ以上何も言わず、作業部屋の奥のほうへ行き、パソコンを広げた。
朝の九時半に、柳本は部屋中に声をかけた。
「全員、スケジュール表に、現在までの進捗を入力しておくこと。十時からミーティングをする」
十時を二分過ぎたとき、柳本は部屋中に声をかけた。
「集合」
ミーティングでは、大斗以外の全員が、スケジュール通りに進んでいることが分かった。
柳本は「この調子で今日もがんばれ」と言った。そして、ミーティングはすぐに終わった。
大斗だけ、残るように言われたので、柳本と一対一で話をすることになった。
「今日できるところまで頑張って、夜にまた話そう」と言われた。
「徹夜明けだから帰らせてくれ」と言いにくい雰囲気になったので、そのまま席に戻って作業を始めた。
夜の八時頃になると、作業部屋には柳本と大斗以外、帰宅して誰もいなくなった。
柳本が近寄ってきて言った。
「あとは、牛山の部分だけ終われば、プロジェクトはうまくいく」
大斗は、二番目の画面が、何とか全体を表示できるようになる所まで、進んだことを伝えた。だが、三番目の画面まで正確に表示できなければ、今日までの仕事は終わらない。しかも、昨日寝ていないせいで、頭もまともに動かない。今日はもう帰って、明日からまた頑張るように言われることを期待したが、そうはならなかった。
「牛山の部分だけ終わらなければ、プロジェクトはつぶれる。お前の責任になるぞ。何時までかかってもいいから、明日の朝には終わったと報告出来るようにしろ」
そうはいっても、三番目の画面は、また真っ白で何一つ表示されず、手がかりもない。眠くて頭が痛い。ダメもとで一緒に考えてくれないかと柳本に頼んでみたら、怒鳴られた。
「なんでお前の仕事を俺がやらなくちゃいけないんだ」
怒鳴られても、本当に終わりそうにないから、食い下がった。誰か一緒に考えたり、教えてくれたりする人がいないと無理だと伝えた。
「今日の今からそんな事を言っても、誰もいないだろう。どうしてもっと早く言わないんだ」
前から伝えていたのに、何もしてくれなかったじゃないかと思ったが、もう疲れた。何か言ったら、よく分からない理屈で反論され、「はい」というまで、この説教は終わりそうにない。「明日の朝までに終わるな」と五回目くらいに言われたとき、大斗はついに「はい」と言った。柳本はやっと帰っていった。
「はい」と言った手前、大斗はパソコンに向かって、本気で頑張ってみた。作業部屋で、一人でそのまま取り組んでいたが、日付が変わって、夜の二時になっても全く無理だった。頭がぼんやりして何が何なのか、よく分からなくなった。
気が付くと、大斗は練馬駅にいた。北東京システムサービスから、徒歩十分くらいの場所だ。真夜中で夜の二時で電車が動いていないことで、我に返ったのだ。いつの間にか、作業部屋を抜け出して来たらしい。
先のことは考えず、とりあえず帰ろう。
そう思って、大斗はタクシーを捕まえて、運転手に自宅の場所を告げた。
大斗は、自分に根性が無いのだと思っていた。ここが、世間一般的に見て黒い、いわゆるブラックな職場だとは、思いもよらなかった。
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