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第5章 キリンソフト

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 大斗が姿を消した日の朝、北東京システムサービスの作業部屋は、殺伐としていた。プロジェクトマネージャーの柳本が、電話で怒鳴っていた。
「牛山はどこへ行ったんだ。あいつは今日の朝までにノルマを片付けると約束したぞ。いま、どういう状況かさっぱりわからん。何とかしてくれ」
 電話の先は、キリンソフトの新宿営業所だ。話の相手は所長の浅見だ。
「申し訳ございません。いま、担当を牛山の家へ向かわせております。状況は報告しますので、今しばらくお待ちください」
「待てるか、北東京運送との会議はあと三十分で始まるんだぞ。牛山の分は終わったと報告しておくから、もし実際終わってなかったら、お前らで何とかしろ」
 ガチャンという音で電話が切れた後の浅見の顔は、鬼の形相をしていた。すぐに営業の松田の携帯電話に連絡をした。彼が大斗の家に向かっていたのだ。松田はすぐに電話に出た。
「どうだ、いたか?」
「全くいません。チャイムを十回くらい鳴らしても、ドアを十回くらい叩いても反応がありません」
「分かった。逃げた可能性があるな。あとはこっちでやる。お前はあと一時間くらい、そこで見張っていろ。一時間くらい経ったら帰って来い」
「分かりました」
 浅見は、別の営業担当の金(かな)橋(はし)を呼んだ。
「今すぐ、非常時の緊急網を手配して、東京駅と羽田に十人位ずつ張り込ませろ。牛山を絶対見つけて、ここに連れてこい」
「分かりました」
 キリンソフトの支店の枠をこえた連携により、直ちに東京駅と羽田空港に、大斗の顔写真を持った男たちが張り込んだ。
しかし、浅見の元には、正午を過ぎても何の連絡もない。大斗のアパートの前で様子を見張っていた松田に聞いても何の動きも無いという。松田は結局三時間くらい、アパートの前で見張っていた。
 もう、東京を離れているのだろうか。浅見は知恵を巡らせた。あいつは、交友関係が狭いから、匿ってくれる友人はいないはずだ。妹のところかもしれない。以前、探偵に調べさせた情報では、離婚した母方に連れ添った妹が東京へ出て来ているはずだ。あるいは、実家のある佐賀に向かっているかもしれない。浅見は声を出した。
「金橋、福岡空港と佐賀空港にも張り込ませろ。実家へ向かっている可能性がある。そして、お前はこの住所の牛山の妹の所へ行き、連絡が無いか聞いて来い」
「分かりました。けど、北東京システムサービスの件は、あいつがやるって言ってやらなかったんだから、あいつの責任じゃないすか。うちの会社は関係無いんだから、こんなに人かけて探さなくても、放っておけばいいんじゃないすかね」
「北東京システムサービスと契約しているのはうちの会社だ。あいつがいない以上、うちが無関係という訳にはいかん。それよりも、逃げたやつは徹底的に探し出し、責任を取らせる。それが大事だ。そうしないと他の者に示しがつかん」
「なるほど、分かりました」
 金橋が出て行った午後二時を少し過ぎた頃、浅見は大斗の実家に電話をした。大斗の父親らしき男が出た。
「もしもし、私、お宅の大斗さんが勤務しているキリンソフトの浅見と申します」
「ああ、いつもお世話になっております。私は父親ですが、何かございましたか?」
「実は、今朝息子さんが会社に出勤して来なかったので、自宅の方へ伺ったのですが、留守のようでした。何かあったのではないかと心配になりまして、連絡致しました。何か聞いておられませんか」
「いや、うちには何も連絡がありませんが」
「そうですか、心当たりは探しているのですが。それでは、何か分かりましたら、またご連絡差し上げます」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。こちらも何か分かったら、連絡するように致します」
 電話を切って浅見は、牛山の父親が嘘をついている感じでは無かったと思った。牛山は、父親には連絡していないのだろう。部屋に手がかりを残しているかもしれないから、探ってみるか。
 浅見は、今もまだ、アパートの前で待たされていた松田に電話をした。
「そのアパートは、大家に連絡が取れるのか?」
「大家というか、管理人室があります」
「よし、そこに行って、牛山が出勤して来ず、部屋にも居ないから不安だと言って、部屋の中を確認したいと言ってみろ。多分、警察を呼んで、警察立ち合いで開けてくれるはずだ。部屋の中に何か手掛かりがあるかも知れん」
「分かりました」
 十分後、松田から電話があった。
「あいつは逃げました。しばらく留守にしますという手紙が、今朝管理人室のポストに入っていたそうです」
「あの野郎!」
 このまま牛山が見付からなければ、北東京システムサービスとのトラブルを決着させるために、うちの上の者が出てくるだろう。そうなると、「責任者を辞めさせ、別の者に交替させました。本当に申し訳ございません」とでも言って、収めることになるだろう。浅見はトカゲのしっぽのように切り捨てられる。牛山ごとき奴のために俺の人生を狂わされてたまるか。
 金橋から、夜の八時半頃に電話があった。牛山の妹と、なんとか話すことは出来たが、妹は何も知らないとのことだった。随分と警戒され、これ以上話を聞くと、大声で叫ばれそうだったと言う。
 その日は、それ以上の進展はなかった。

 翌日の朝、本店の役員から電話がかかってきた。「北東京システムサービスからクレームが来ているが、どうするつもりか?」と聞かれた。浅見は、いまの状況を伝えた。すると、「一週間で探し出せ。それまではこちらで何とかしておく」と言われた。
 何とか、一週間以内で探し出さねばならない。

 昨日の収穫はなかった。福岡空港で、到着ゲートの中に牛山に似た奴がいたらしいが、結局、牛山はゲートから出て来なかった。人違いだったらしい。スタッフに化けて出てくるようなドラマのストーリーのような手も考えられるが、あいつの頭じゃそんなことは出来ないだろう。
 お抱えの探偵にも、牛山の捜索を依頼したが、それ以降しばらく、手がかりは掴めなかった。
 一週間は、何も収穫が無く、過ぎてしまった。上の者が北東京システムサービスと何やら会議を設け、交渉していることは分かっている。自分が切られるのは時間の問題だ。

探偵から吉報が入ったのは、二週間ほど経過した日の昼だった。牛山の妹の家のポストに投函された手紙をチェックしていたら、牛山からの手紙があったとの事だった。消印の郵便局を調べたところ、長崎県の対馬という離島にある郵便局だったらしい。牛山はきっとそこにいる。いつの間にそんなところまで移動したのか。

 金橋に命じて、直ちに対馬に十名ほど送り込んだ。港や空港、ホテルなどで聞き込みを行ったところ、レンタカーを借りて出掛けた事が分かった。レンタカーを返す時は、港のロータリーで、レンタカーのスタッフが立ち会いのもと返す仕組みになっており、乗り捨てできないことも分かった。
一緒に乗り込んだ営業の松田が、レンタカーショップに「牛山が車を返しに来るときに教えてほしい」と頼んだが、素性を怪しまれて、協力を得られなくなったらしい。おそらく、複数人で待ち伏せするなどの行動を目撃され、様子がおかしいと思われたのだろう。そこで、港でレンタカーの営業時間中は、ずっと港で待ち伏せするように、松田に指示した。

 松田は、数人体制を組んで、翌日の昼まで、港で待ち伏せしていた。しかし、牛山が現れる気配は一向に無かった。そんな時、牛山が「ある民家に居候しているらしい」という情報が入って来た。松田は、数人を港に残し、その家を訪ねてみることにした。
 山城と表札のかかったその家は、インターホンは無かった。大声で「御免下さい」と呼びかけても返事はなかった。ドアを軽くトントンと叩くと、奥から足音がして、ドアのガラス越しに人影が見え、ドアが開いた。
 松田は名乗らずに、まず牛山がいるか聞いた。目の前の五十代くらいのオバさんは、戸惑った顔をして、「どなたですか?」と聞き返してきた。
「牛山君が働いているキリンソフトという会社の者です。牛山君はいらっしゃいませんか?」
 オバさんは、「うちにはいませんよ」と答えた。松田はそのまま「分かりました」と答えて引き返した。

松田は、牛山がこの家にいることを確信した。まず、名乗らずに牛山がいるかと聞いた時、本当にいなければ、「うちにはそんな方いませんが?」といった回答になるはずだ。しかし、「どなたですか?」と、聞き返してきた。それは、俺がまずどのような立場の人間であるかを確認して、それに応じて、どう答えるか決めようとしたということだ。牛山がいるのは間違いない。

 松田は、身を隠しやすそうな小屋の陰を見つけて、この民家の見張りをすることにした。警官に見つかったら、職務質問されそうだ。そのまま、夜まで待ったが、何も変化はない。この家の主人らしき人間が、仕事から帰ってきただけだ。さすがに腹が減って来た。
 簡単な夜食を買って戻ってきたとき、一台の車が近付いて庭に入ってきた。目を凝らして見ていると、車から一人の人間が降りてきた。
「牛山だ。やっと、見つけたぞ。」
 牛山が家に入ってから十分位して、松田はドアを叩いた。昼間と同じオバさんが出て来て、あっ、という顔をした。
「牛山君、いらっしゃいますね」
 松田は、有無を言わせぬ口調で、落ち着いて言った。すると、後ろから主人らしき人間が出てきて、「あんたは誰だ?」と言った。オバさんに小声で説明されて、主人は事情を呑み込めたようだ。主人は聞いた。
「あんたは牛山さんと話したいのか?」
 松田は答えた。
「もちろんです。」
 すると、主人はこう言った。
「今日はもう遅いから、また明日来なさい。明日は週末だから、私も家にいる」
 明日までに逃げられてしまうのではないかと思った。しかし、無理矢理に、家に上がるわけにはいかない。不法侵入になってしまう。
「それでは、明日の朝また来ます。その時に牛山君と話をさせて頂くという約束でお願いします」
 そう言って、松田は引き下がった。松田は、対馬に集まっている他のメンバーを集め、厳原港と対馬空港とこの家を、交代で見張るように指示した。その後、ホテルに戻り、明日に備えて考えを整理した後、少しだけ休むことにした。

 翌朝、目を覚ますと、松田はすぐに携帯の着信を確認した。どうやら、何も動きはなかったらしい。素早く準備を済ませ、たばこを一本吸って落ち着いた後、九時前に出発し、昨日の家に出かけた。出て来たのは、昨日の主人だ。家に上がるように言われたので上がると、牛山がいた。
「私は向こうの部屋へ行っているから、この部屋で二人だけで話しなさい」
 そう言って、主人は向こうの部屋へ消えていった。
 牛山と二人きりになった。牛山は、怯えているような、覚悟を決めたような、心境を量りきれない表情をしている。
「久しぶりだな、牛山」
「お久しぶりです」
「突然いなくなって、びっくりしたぞ。元気でやっていたか」
「はい」
「でも、突然消えるのは良くなかったな。社会人としてどうかと思うぞ」
「あの状況だと、どうしようもありませんでした」
「後任もいないし、ちゃんと引継ぎもしてない。あの後、会社は困って損失が出たぞ」
「単発の仕事ばかりだったので引継ぎすることは、ほとんどありませんでした」
「あの日、その日の分の仕事を終わらせると、北東京システムサービスの柳本さんに約束したよね?」
 追いつめて、無言になられても困るから、丁寧に柔らかく言った。
「心身耗弱でした。終わるはずもないものを終わらせると言うまで、怒鳴られ続けました」
「心身耗弱とか、難しい言葉を知っているね。でも、社会人としては、そんな言葉は関係ないのよ。退職代行のサービスを使ったみたいだけど、あんなのも関係ないから。うちの手続きはまだ済んでいない。一度会社に戻って手続きを済ませよう」
「いえ、もう会社にはいきません。退職は成立しています」
「仮にそうだとしても、そんな卑怯なやり方で退職して気持ち悪くないかな。職場の他の人にもお世話になりましたと伝えて、気持ち良く辞めた方が良いんじゃないかな」
「いま会社に行ったら、また損害を払えとか、そんな事を言われそうです。もう行きません」
「言わないと約束するから、行こうよ」
「いえ、行きません」
牛山の断固とした態度に、堪忍袋の緒が切れそうになり、ため息をついた。
「どうしても来ないというのなら仕方ないね。君を裁判で訴えることになる。引継ぎなしで、無断欠勤して、会社に損害を与えたという、君の行動でね」
「さっきも言った通り、ほとんど引継ぎすることは有りませんでした。そして退職代行の業者から、内容を書いた引継書は貰っているはずです」
「だから、ほとんど内容のない引継書を出しただけだろ。何も引き継いでないだろ。無断欠勤して、終わるといった仕事を放り出したせいで、北東京システムサービスさんに発生した損害は大きいぞ。全部お前のせいだぞ。浅見所長や私は、北東京システムサービスさんに責め立てられて、胃がキリキリ痛んでいる」
「私が、劣悪な環境で長時間働いていたのを知っていて、何もしてくれなかったじゃないですか。私も最悪、残業未払いで訴えたり、働いていた時の状況をインターネットで告白したりするなどの対抗策を考えています。今後、私を放っておいてくれるなら、私もこれ以上何もしません」
 しばらく見ない間に口達者になってやがる。だいぶ入れ知恵されたに違いない。松田は、自分の顔に、急速に赤みが差していくのを感じた。そして、近くの灰皿に手を延ばし、気が付いたら、牛山の腹のあたりに投げつけていた。
「ふざけんな、バカ野郎。こっそり逃げ出した奴が、偉そうなこと言ってんじゃねえよ。このまま、終わらせる事は無いからな。会社に来て、きっちりケジメ付けるまで、ずっと付きまとうからな。大事なお父さんやかわいい妹がどうなっても知らねえぞ。うちの会社の機動力なめんじゃねえぞ。警察の上の方ともつながっていて、多少の犯罪はもみ消せるんだぞ。反省して、今すぐ付いて来い」
 牛山の手を引っ張り、強制的に連れて行こうとした。牛山が抵抗して、もみ合いになっていたら、制服を着た男が出てきて、後ろから羽交い絞めにされた。
「暴言を吐いて、暴力をふるっちゃいかんね。現行犯で署まで来てもらおうか」
 松田はすぐに手を離し、悪いのは自分ではないと弁明した。しかし、外から追加で二人の警官が現れ、彼らに肩を掴まれ、そのまま警察署に連行されていった。
 
 松田は、対馬警察署で観念して、これまでの行動を告白した。最初は、何とか言い逃れようとしていたが、話の矛盾を突かれ、上手に話すことが出来なかった。
 松田が逮捕されたという情報を聞いたキリンソフトの新宿営業所では、所長の浅見と顧問弁護士の赤城(あかぎ)が向かい合って座っていた。浅見が言った。
「どこでも、こういうピンチの時はある。ここを乗り越えれば、またいい時代がやってくる。逃げた牛山に何としてでも制裁を加えないといけない」
「今までだと、突然失踪した従業員の方に非があったので、その非を突いて、裁判が出来た。そして、御社の利益にかなう様になってきた。しかし、今回は退職が法律上正式に成立している。しかも、こちら側が暴行と脅迫を行っており、分が悪い。今回は諦めた方が良いでしょう」
「ふざけるな。こんな時のために高い金を払っているんだぞ。逃げた奴は必ず憂き目にあう。例外なくそうしておけば、相当きつくても逃げないように、うちの従業員を心理的に縛っておけるんだ。ここで諦めたら、離職者が続出して、うちの会社は成り立たないんだよ」
 赤城は、ため息をつき、持っていたペンを机の上に置いた。
「私も弁護士のはしくれだ。そもそも最初は、弱い人の力になりたいと思って弁護士になったんだ。いくら金をもらっても、若い人の将来をつぶすようなことに手を貸したくはない。私は、御社の仕事から降りさせてもらう」
 予想外の言葉に唖然とした浅見を背に、赤城は部屋から出て行った。

それからしばらくして、どこから漏れたのか、雑誌にキリンソフトの記事が出た。「劣悪な労働環境、退職者への執拗な追い回し」という見出しだった。キリンソフトの評判は、全国で落ち続け、株価も暴落した。退職者も続出した。牛山を追うための人員の余裕も無くなった。
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