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羽ばたくためのパッチワーク

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 さびれたショッピングモールのゲームセンターは、村崎貴樹にある種の安らぎをもたらした。

 ほぼ無人のそこは半ば追いやられるようにショッピングモールの隅っこに配置されていて、おかげで稼働していないエスカレーターを登る以外ここへ辿り着く術がそもそも見当たらなかったのだが、そんなことはいい。
 当初はトイレを探して徘徊していたことも忘れ、空元気な騒音を浴びること数分。さすがに尿意のほうが警鐘を鳴らし、貴樹はさらに隅のほうにある手洗い場へ一旦失礼すると、また戻ってきた。左手の腕時計を見る。閉店は二十分先らしい。
 ……貴樹はこれまで、おおよそゲームセンターとは縁のない生活を送ってきた。そればかりか、意識的に避けてきた節すらあった。まず問題となったのが、頭蓋を揺らす雑多な騒音である。ただうるさいのではない、種類も雑多なビカビカの筐体が存在を主張しあった果てに生まれた不協和音が、貴樹に耐えがたい苦痛をこれまで与えてきた。
 だが、どうしたことだろう。いまや貴樹は滝や焚き火といったヒーリング効果狙いの音声動画を聴いたときよりも格段に心おだやかで、殺伐とした感情など一切湧いてこない。否、「おだやか」の域すら超越している。完全な安心ではなく、どことなく不穏であるからほっとするのだ。
 店員のすがたは目視では確認できなかった。バックヤードにでも引っこんでいるのか、観測範囲内には大きな袋を地面においてキャラクターグッズを乱獲する男性客のみが存在していた。それにしたって目立つ客だ。サンタクロースでも目指しているのだろうか。
 貴樹はひとまず、この狭い空間の壁ぎわまで行ってみることにした。一歩、二歩、三歩。前へ、もっと前へと身体を持っていくごとに、どこか浮かれている自分を知覚する。誘蛾灯に吸い寄せられる羽虫にでもなってみたい夜だったのだ。

「……やってみるか」

 貴樹はたかだか十数秒程度で行き止まりに到達し、そこに鎮座するUFOキャッチャーと対峙した。異様なまでにコミカルで賑々しい店内音声には負けるだろうと思ってつぶやいた独りごとが意外にしっかり自分の耳にかえってきて、一瞬、羞恥の念が過ぎる。
 ノーマル・レアな状況に酔うのは後にして、とりあえず「一回プレイ」の投入口に百円玉硬貨を差し込む。プリリンだかピロリンだかの軽快な起動音が鳴り響き、一番目のボタンが光った。そこでやっと、どのアイテムを狙うか決めていなかったことを思い出し、貴樹は人形がひしめきあう箱の中をまじまじと見つめた。
 ――「ぬいぐるみ」、と形容するほうが本来は正しいのだろうが、くまやうさぎといった類いのものではないので、何となくそれは避けた。キルトで作った衣装を身にまとう肌色面積の多いぬいぐるみは、知らないアニメのキャラクター……つまるところ、「人間」を模していたから。

「あ」

 そこでほとんど唐突に、貴樹の狙いは一点に定まった。

 青い髪、白いワンピース。

 つよい既視感を抱いて、一見ありきたりな見た目をした人形に釘付けになる。ありきたり。その事実こそが重要だった。盗作にはならないギリギリの、似通ったパーツの寄せ集めで成形されたキャラクター。
 貴樹はどうしても「それ」に惹かれ、獲って帰ろうと決意した。いくらかかってもいい、閉店時までにはどうにか手に入れたい。
 試しにこわごわと一番目のボタンを押せば、キャッチングマシーンは間の抜けた効果音と共に右側へスライドしていった。二番目のレバーで慎重に奥行きを測ったものの、結果は失敗、空を掴む。なるほど、そう簡単には獲らせてもらえないらしい。
 連続で挑戦しているうちに、「あのぅ」と声をかけられた。派手なデザインのベストとズボンを着た女性。十中八九、このゲームセンターの店員である。

「目当ての景品、良かったら動かしましょうか」
「え。え、いいんですか!」
「ええ、ハイ。こちらで合ってます? ……オッケーです、がんばってくださいねー」

 手早い位置調整が入り、ばつぐんに獲りやすくなった人形をしばし見つめる。店員のそぶりからして、この手のサービスは日常茶飯事みたいだ。
 閉店まで、あと五分。貴樹は両替えを済ますと、新たに小銭を投下した。ピロリン。百円玉硬貨は正しくせまい隙間をくぐり抜け、貴樹へ再びのチャンスをもたらす。


 §


 翌日、ちいさな一軒家の手狭な自室にて、貴樹はぼんやり目を覚ました。
 内容が思い出せない夢の名残りだけを引きずって起きた日特有の浮遊感があり、きちんと眠れた気がしない。まだまだぼんやり天井をながめていると、居間に続くふすまが開いてテレビの音声がワッとなだれこんできた。

「たーかーきー! 仕事じゃないの、起きないと!」
「おばあちゃん……起きるよ」

 この家の唯一の同居人である祖母の叱咤を受け、おっくうだが身体を起こす。まず顔を洗って、コーヒーを淹れて、それから冷蔵庫のなかのヨーグルトを手に取らなければ。脳内で朝食の席につくまでの順路をマッピングし、やっと立ち上がる。ああ、けだるい。

「うわっ」

 下手をすれば一歩で辿り着ける居間に出て早々、口の端が引きつった。和室空間にまぎれこんでいるレース柄ソファの上に、「青髪、白ワンピ」のちんまりとした人形が鎮座ましましていたからだ。

「……や、たしか俺が」
「なんか言ったー?」
「ソファの、これ。俺が持ってきたやつ?」
「あのお人形さん? 貴樹がおばあちゃんにくれたんじゃないの」

 昨晩のことを回想する。
 閉店直後に青髪人形をゲットしたこと。
 「蛍の光」を背に駐車場まで慌ただしく移動したこと。
 帰路の折、冷静になって……そうだ、それで、ほぼ投げやりに人形を祖母に託したのだった。

「なに、あそこに飾んの」
「そうよ。最近、レースのカバー掛けたでしょう。かわいらしいお人形さんに、ピッタリだったから」

 成りゆきでもプレゼントのていで押しつけたからか、祖母はあの人形がいたく気に入ったらしい。貴樹はそれ以上何も言えず、洗面所へ一時、退散した。


 出勤後、釈然としない気持ちを抱えてメール対応に従事する。入力ミスの量に比例して、「既視感の正体を露わにしないかぎり、百パーセント生活に支障が出る」という強迫観念がデカデカと脳を占拠。頭が痛かった。
 霞みがかった思考でキーボードの「A」を長押しし、「あああああ」と無駄にメール作成フォームを荒らしていると、通りがかった別部署の社員に怪訝そうな視線を差し向けられた。本格的にまずい、しゃんとしなければ。

「自宅PCのドライブ……いや、ノートか……」

 つつがない日常生活を送るため、この薄もやをほどく手掛かりを掴みたい。

 ……青い髪、白いワンピース。

 しかし、いささか面映ゆい。子ども向けも深夜帯もひっくるめて、アニメ系統のコンテンツには中学生以来一度として触れていない。ともすれば、さかのぼるのであればサブカルチャーに明るかった時代の遺産を掘る必要がある。いわゆる黒歴史だ、抵抗感と面倒くささから脳内の天秤が揺れる。ちなみに、天秤の片方が「過去」、片方が「現在」だ。もちろん貴樹はより軽いほうを選びたい。見ないふりはラクだから。
 昨晩、ゲームセンターに寄ったのは本当にただの偶然だ。
 帰り道でトイレに行きたくなって、目についたのが停め放題のガランとした駐車場。その目前には、塗装の剥げたショッピングモール。店内マップの指示に従った結果、動かないエスカレーターを登った先がトイレまでの最短距離になっていた。その偶然の連なりが、こんなにも心中をざわめかせる原因と引き合わせた。見ないふりはラクなのに、過去が貴樹を追い立てる。

「はは……マジか」

 そして、こういう時ほど定時に上がれる。
 これは偶然というより、昨日までの貴樹の努力に寄るものだが。
 とはいえ、別件で残業を強いられる機会も少なくないから、多少は運も絡んでいた。貴樹は嫌々という体面を取り繕うように後頭部をぐしゃぐしゃ片手でかき混ぜると、自宅の固定電話の番号を呼び出した。

「あー、もしもし。おばあちゃん? 俺。たかき。これから帰るんだけど……ごめん、ちょっと聞きたいことがあって」


§


 帰宅早々、ホコリっぽいノートの山を漁る。貴樹としては、昔の私物が捨てられずに残っているかどうかだけ確認したつもりだったのだが、祖母は押しいれから紙類の入った重い段ボール箱を出すところまでやってくれていた。これでは「やる気が出るまで放置」というわけにもいかず、隈なく落書きノートのページをめくっていく。全身がかゆい。

「これはフツーに自習用か……がんばってたな、俺。で、これが……」

 確認がてら、ぶつぶつと口も動かしていると、「設定ノート」なるものを見つけて比喩抜きで目眩がした。ドッと冷や汗が吹き出し、わけもなく周囲を見渡す。居間の方角から視線を感じる気がするのは、さすがに自意識過剰だろうか。
 ……ぱらり。
 ノートを開く。い、た。居た。
 つたない線で描かれた、青い髪をなびかせ、白いワンピースを着こなす、自分の生みだしたヒロインが。
 あの人形とは瞳の色や髪飾りの有無など、詳細な部分は異なるけれど、違いなんてそれくらいだ。バランスがおかしい二次元タッチの図画の横には、これまたどこかで見聞きしたことのある「設定」がびっちり書きこまれていた。口中にいやな苦味が広がる。

「ちょっと、夕飯どうすんの?」
「あ、ああああ……これ片づけたら食う、からっ」

 祖母に見られまいと在りし日の教科書やノート類を乱雑に段ボール箱へ詰め直し、再び封じる意図を込めて押しいれの奥のほうへ沈める。仕上げに隙間なく引き戸を閉めてから居間に踏み入ると、あの人形と目が合った。反射的に横倒しにする。動悸がひどい。

「んー?」

 ちょうど席を外していた祖母は、ソファの真向かいにある座椅子へ腰掛ける寸前、不思議そうに人形を見遣った。

「いつの間に倒れたのかしら。顔が見えなくてかわいそうだから、直してあげて」
「……」

 苦渋に満ちた表情で祖母に従う。変に怪しまれるのも癪だからだ。この人形自体には何の罪もないが、大人になって配られるタイプの「答案用紙」は、得てして痛みを伴うものなのだ。


§


 ――さらさらと、秋風に頬を撫でられて顔をあげた。

 背もたれに身を預けられることを確信して空を見上げているのだから、きっと何かしっかりしたつくりのイスに座っているのだろう。
 テラス席だ、と思った。そういう小洒落た場所にはぴったりの、一向にカドが見当たらない丸テーブルの側面を手持ち無沙汰に撫でさすりながら、貴樹はイチョウの木がさざめいているのをただ眺めている。

「それでね」

 やけにクリアな声が耳朶を打つ。焦点がぼやけたまま視線を正面に移すと、事故みたいにその微笑とぶつかった。そこでピントが合う。
 過去、幾度も目の裏に描いた青色の髪は空の色よりなお深く、袖口にレースがあしらわれたワンピースは噓みたいに純白で。
 本当はとてもうろたえていたのに、頭はしんと冴えていた。もう何年もずっと、黙って少女の声に耳を傾けてきたような、そんな錯覚の只なかにあったから。

「鳥かごを先に選ぶほうがいいと思うの。そうしたら、巡り逢いたい小鳥がどんな子なのか、見当がつくはずよ」

 無邪気で、それでいて湖面のように凪いだ瞳が貴樹を見つめる。ペットを飼う話をしていることは今しがたの発言で察しがついたが、貴樹はうなずくだけにとどめた。
 ウィッグでも、染めたわけでもない、天然の青い髪をなびかせる美少女。彼女はやがて手元のティーカップを持ちあげると、くゆる湯気の向こうで唇をとがらせた。

「もう。少しは意見してくれたっていいでしょう。これは命の問題なのよ? お父さん!」

 瞬きをする。
 その数回のまぶたの運動の後、貴樹はごく自然にその呼称を受け入れた。お父さん。父親。そうか、この子は村崎貴樹の娘なのか。道理で、無条件の親愛を向けられているわけだ。貴樹は流れのまま、愛娘の名前を口にするべく息を吸った。

「……ッ?」

 そこで、ふと思いとどまる。声が出ない。発声を見えない誰かに制限されているから……ではない。彼女を表すに足る符号が、一文字も浮かばなかったからだ。

「やっぱり」

 対面の少女は、ややさびしげに小首をかしげた。さらり。それに沿って、肩までの長さの髪が、重力に逆らうことなく斜めに落ちた。

「私のことを、思い出してはくれないのね」

 どこかなつかしいその表情を最後に、青くて痛くてあかるい風景は、泥濘のなかへ埋もれていった。


§


 ミルクティー缶を片手に、休憩室でため息を吐く。仕事に集中できない、夢見が悪い、自販機で買う飲み物をまちがえた。それもこれも、あの人形のせいだ。そこそこの金額をかけてまで必死になったのも、アレに取り憑かれての行動なんじゃないか……とまで考えて、乾いた笑いが出た。まさか。安価な素材で量産されたキャラクターグッズが、何の恨みをもって貴樹を呪うというのだろう。取り憑かれているのだとしたら、それは貴樹自身が消化不良のまま放置した過去の妄執に違いない。

「おつかれですか、村崎さん」
「うわっ」

 ひとりだと思っていた休憩室で他人の高めの声が響き、慌ててソファ横の自販機のほうを振りあおぐ。取りだしたばかりのほうじ茶のペットボトルを持ってこちらを窺っているのは、歳下ながら遥かに有能な先輩社員だ。実際、見るからに不審な男へ話しかけるメンタリティさえ持ち合わせている。

「あれ、もしかしてすごくお疲れですか」
「あーいや、疲れてる……っていうか、最近は夢のせいで集中力が続かなくて」
「ゆめ? どんな夢です」
「えー……や、しょうもない夢ですよ? こんな相談で美鳥さんの休憩を奪うのは、ちょっと」

 美鳥とは、彼女の下の名前だ。普段の貴樹は、敢えて馴れ馴れしく接することで相手と一定の距離を保つタイプのコミュニケーション術を得意としていた。今はたまたま、テンションの上げどころを見失っているだけだ。美鳥はそれを面白がってか、ぐんと食い下がってきた。

「集中力が切れるくらいの夢なんて、よっぽどの悩みじゃないですかっ。気になるので、聞かせてくださいよ」

 はずむような声色で言って小首をかしげるまでの淀みない一連の仕草に、苦笑いがこぼれる。退路を断つのがうまい。

「じゃあ、手短に。……俺を父親扱いしてくる、いないはずの娘が出てくる夢なんですよ。はは、変ですよね。現実じゃカノジョもいないってのに」

 早口で言い切って、ミルクティー缶をひと息にあおる。そうしながら、過剰な甘味が脳みそを活性化させてくれることを祈った。そんな貴樹を横目に、美鳥はあっさりと自身の見解を述べる。

「それって、単に結婚願望では?」
「は」
「え、いま私のこと鼻で笑いました?」
「違いますよ。盲点だったから」

 まったく別の角度から切りこまれ、歩行中に頭を鈍器で殴られたレベルのショックを受ける。
 結婚願望。
 人形のくだりを省いた影響か、確かにそういう風にも読み取れる。貴樹の反応が芳しくないことが不満だったのか、美鳥は話を続けた。

「いいじゃないですか、婚活。村崎さん、いくつですっけ」
「二十九です」

 しかも、未だに祖母と二人暮らしの。

「じゃあ、余計にです。これは受け売りですけど、歳は取れば取るほど自分に関心がなくなってくるらしいんですっ。村崎さんはお世話する対象を求めてるんですよ」
「そういうモン……?」
「あとあと、早く動かないと立場的にもしんどくなりますよ! 若くても無趣味なのがバレると仕事を押しつけられるのが恒常化して、深夜のオフィスとかで急に、あれ、私なんのために働いててなんのために生きてるんだっけ……って虚無感に襲われることもっ」

 美鳥の語りがヒートアップするにつれ、彼女の左手薬指に嵌められた指輪に目がいった。スマホケースには赤ん坊の写真が貼られていたはずだ。

「……美鳥さん、それが理由で結婚を?」

 この先の暴露話を聞いていていいものか悩んだすえ、真に迫った助言になんとか割りこんで質問を投げ込む。途端、美鳥はぴたりと動きを止め、水を打ったような静けさのなかで答えた。

「やだなー、例え話ですよ」

 平坦な声色に恐れをなし、貴樹の背中につめたい汗が伝う。要するに、と彼女は言い添える。

「潜在的な願望には耳をよくかたむけることをオススメします。夢のなかの娘が忘れられないなんて、よっぽどだと思いますよ」


§


 美鳥からの忠告に則り、貴樹は「娘」の名前を掘り起こすことに決めた。こうなれば意地だ。
 貴重な手がかりとなる例の「設定ノート」には、名前の候補がいくつも連なって書きこまれていたのだが、悲しいかなどれもピンとこないネーミングで捜査は難航の一途を辿っている。
 そこで、「かくなるうえは」と貴樹が漁り出したのは、携帯端末のアドレス帳だった。中学では狭いコミュニティに属していたことに加え、今ではその誰ともコンスタンスに連絡を取り合っていない。だが唯一、年賀状のやり取りだけは続いている友人がいた。過去に教えてもらったPC用メールアドレスが生きていることに賭けて、軽い挨拶と近いうちに連絡がほしい旨だけをつづった簡潔なメールを送信する。
 自分だったら……と考える。脈絡がなさ過ぎて、なにか危ないことに巻きこむつもりではないかと怪しみ、メールを破棄するだろう。このように、心情的な部分を加味しても返事の期待は望み薄だ。

「えっ、うそだろ」

 連絡が取れる確率を低く低く見積もっていたところで、速攻で新着メールが届く。件名には返信を意味する「Re:」の文字。

「『タカくん、久しぶり! 声かけてもらえてうれしいよ! 通話希望なら、以下の通話アプリから再度連絡ください。ていうか今からでも話せます』……」

 本文を読みあげながら、元クラスメイトのフットワークの軽さにおののく。ありがたいと言えばありがたいので、貴樹はさっそく端末に指定の通話アプリをダウンロードし、少々手こずりながら相手のIDを入力した。すぐに承認が降りたこともあり、間髪入れずに呼び出しボタンを押す。

「もっ、もしもし、タカくん?」
「久しぶり、あー……クロ。その、元気だった?」
「元気だよ! うわーうわー、本当にタカくんだ。信じられないなあ!」
「はは……それにしては、すごいはしゃぎ方してるけど」

 当時と同じあだ名で呼んだことが決め手だったのか、たちどころに相手の声に喜色がにじむ。「クロ」というのは確か、仲間内だけで用いられていた彼の本名をもじったあだ名だったはずだ。ふと気恥ずかしさやらなつかしさやらが胸に去来して、携帯を持っていないほうの爪をいじる。手持ち無沙汰なときのクセだった。

「いやあ、タカくんはもう僕みたいなタイプとは関わり合いになりたくないのかなって思ってたよ。だから、うれしくて」
「え! そんなことは……そんなことはマジで無いんだけど、連絡してなかったのは事実なわけで……ごめん、長いこと気ィつかわせて」

 ううん、とクロがすぐさま答える。端末越しに響く彼の声音が当時となにも変わっていないものだから、感覚まで十代のころに引き戻されそうだ。目を瞑れば彼の詰め襟とメガネ姿を寸分たがわず想起できた。クロはあのころから、とにかくレスポンスが早かった。

「それで、僕に聞きたいことって?」
「あー、それなんだけど。ちょっと言いにくくってさ……そのー、俺、の。さ」

 ええい、二十九歳を生きる現実に引き戻される前に言ってしまえ。貴樹はカラカラに乾いた唇を一度舐め、勢いこんで息を吸った。

「く、クロは覚えてたりしない? 俺が創作してた女の子……の、こと」

 中学生まで若返るイメージトレーニングは今さっき済ませたはずなのに、情けないくらいに顔が熱い。何故かって、二次元コンテンツをこよなく愛する友人たちへ誇らしげに「設定ノート」の話をしていた記憶までよみがえってきたからに他ならない。

「女の子……あ、ああー! もちろん覚えてるよ! あと、お互いの考えたキャラを登場させたリレー創作をしようって話も覚えてる!」
「あははははは、その話は広げなくていいかな」

 心のなかでは悲鳴をあげながらタンマをかける。クロがどうして嬉々として話せるのか貴樹からすれば不思議なくらいだ。

「それで、その……最近、自分の創作のことを思い出す機会がありまして。俺、その女の子の名前を言いふらしてたりしてましたっけ」

 ついには敬語になるほど恥じ入りながら、要件を最後まで述べる。だが、今まで歯切れの良かったクロの返事はそこで濁った。

「うーん……どうだったかな……ごめん、さすがに思い出せない。しばらく悩んでたことは知ってるよ。あ、けど、そのタイミングでアレが起こったから……」
「アレ?」
「ほら、あったでしょ。クラスの中心だった男女グループとゲーセンで鉢合わせしたときの、アレだよ」

 おかしなことに、まったく覚えがない。まるで、記憶の引き出しが開けられるのを拒むかのように、そこでガンと思考が停止する。ゲーセン。ゲーセンってそもそも、なんの略称だったか。こめかみがチリチリと痛む。

「なにかとオタクってだけで、昔はかなり風当たりが強かったよね。黙ってやり過ごすことに必死で、タカくんが好き放題言われてるときも、僕なんにも言い返せなかった……そのこと、実はずっと謝りた」
「俺が、どんな目に遭ったって」

 クロの言葉を無理にさえぎって訊ねる。知らないことを謝られても困るからだ。貴樹との食い違いに、今度はクロが瞠目する。

「えっ……? え、僕はてっきり、アレがきっかけで君は僕らと距離を取ったとばかり思ってたんだけど……ちがうの?」
「だから、そのアレっていうの、なに」

 端末を媒介に、クロの戸惑いを含んだ呼気が伝播する。それは、オトナがコトの重大さに気がついたときの厚ぼったい沈黙だった。

「ああ、ゲームセンターか」

 そのダンマリのなかで、貴樹は唐突に「ゲーセン」の正式名称が「ゲームセンター」であることを、思い出していた。


§


 それから、貴樹は元の日常に引き返す道を選んだ。クロがぽつぽつ語り出した「アレ」な出来事とやらのくだらない全貌を知り、再び日々の精彩を欠いてしまったからだ。

 貴樹やクロを含む、同じ趣味を持った男子生徒で構成されたグループは、遊び場としてよくゲームセンターを利用していたこと。
 そこへクラスでも存在感のある男女混合グループが突っかかってきて、主に貴樹を標的に罵詈雑言を浴びせてきたこと。
 その日を境に、貴樹が周りと壁を作るようになったこと。

 しかし、その話を聞いて、「くだらない」と、「そんなことか」と確かに感じたはずなのに、当事者としての実感がどうにもよみがえってこない点が引っかかる。脳みその自己防衛機能が過剰なレベルで働いているのか、唯一思い出せたのは、「嘲笑された」ショックだけだ。

「どうでもいいや」

 だから、そう思うことにした。どうせ、過去に置いてきた痛覚なのだ。
以降は夢なんて見ないくらい深く眠るように心がけ、仕事への集中力も徐々にだが取り戻していった。精神の安定こそがオトナの世界の幸せにつながるのだ。


§


「お人形さんがどこにもいないの」

 それなのに、あの人形はどこまでも貴樹の調子を狂わせる。
 帰宅するなり家じゅうをひっくり返して回っている祖母を目の当たりにした貴樹は、ただならぬ様子に眉をひそめた。冷静に事情を問えばこれである、ため息が止まらない。

「いつまで置いてあったか覚えてる?」
「えっと、昼間までは。お買い物に行って、帰ってきて、ご飯作って。それからよ、どこにもいないの」
「財布と通帳は」
「ある。貯金箱も動いてない」

 あの人形だけ盗み出す空き巣なぞ、果たして存在しうるのだろうか。そう思うからこそ、祖母は決して広くはない家であの人形を探し歩いているわけなのだが。

「貴樹も悲しいよね? せっかくのプレゼントなのに、失くしちゃって……」

 意気消沈する祖母のすがたは、ちいさな身体がよりちいさく見えるから苦手だ。貴樹が大学にあがったころ、両親が都心のマンションに引っ越すと言い出したときも祖母はこっそり背中を丸めてちいさくなっていた。

「……外、見てくる。もしかしたら飛ばされたのかもしれないし」
「何言ってるの。おばあちゃんが探すわよ」
「本当に空き巣だったら警察沙汰だろ。その場合でも……なんだ、なんかの痕跡探してみるから、戸締まりしてて」

 おざなりにサンダルを引っかけて、再び夜の暗やみへと繰り出す。誰かが故意に吹かしてるわけでもない木枯らしさえうっとうしく感じながら、家の周辺を練り歩いた。
 胸中が、ざわざわと不快にさざめく。目を背けた報いとして人形のほうから消えてしまうだなんて、ちょっとしたホラーだ。しかしまあ、いつも「既視感」というフィルターを通してまなざしていたのだから、恨まれても無理はないか。

「ふざけんな」

 縁側のほうへ回りこみ、うす暗い足元をつぶさに観察する。あの娘はどこにも転がっていない。貴樹へ二度と、無償の微笑みを注がない。

「……ちがう。無償なもんかよッ」

 パーテーション越しの人形を手に入れるため、それなりの代償は支払ったはずだ。
貴樹が勝ち獲ったものなのだ。
 ――ふと、低い生け垣から縁側に掛けて、不自然に荒れている箇所を見つけた。つま先立つくらいの工夫は凝らしているようだが、明らかに人為的だ。同時に、そこでハッとなる。逃走の跡が見当たらない。

「ばあちゃんッ!」

 祖母によって施錠された掃き出し窓を乱暴に叩く。何事かと駆けつける祖母の背後に、押し入れから這い出る黒々とした人影を見つける。

「このクソ……ッ」

 ギリギリのタイミングで鍵が開き、背後の影に飛びつく。祖母は短く悲鳴をあげ、バタバタと居間に引き返していった。掴んだ感じは成人男性だ。揉みくちゃになりながら肘で顎下を殴打され、プツンと感情の糸がはじける。

「……返せ! 俺の娘を返せよ! 返せッ!」
「はああ? キッモ、言われなくたっていらねえんだよこんなゴミ……ッ、あーもう!」

 聞いてもいないのに、黒服の男はどうにか貴樹の拘束を逃れようとのた打ちまわりながら、空き巣に入った理由を白状し始めた。
 曰く、男は、フリマアプリでキャラクターグッズを高額で売り捌くためにゲームセンターを転々としていたらしい。そんな折、へんぴなゲームセンターの、アイドルアニメのぬいぐるみが並ぶ筐体に、貴樹がかじりついている場面に遭遇。獲得してからは足早にその場を去っていったものだから、「とんでもないプレミアだったのでは」などと欲に目が眩んだ、と。

「ああいうのは縫製次第で顔かたちに差異ができるし、高ランクのキャラは高く売れんだよ! だから見張ってまで狙ったっつーのに……ゴミなんか大事そうに持つなまぎらわしいッ」
「うるせーよッ! 汗水垂らして働けクソガキが!」
「……あのー、失礼。空き巣というのはどちらで?」
「ごめんなさいねえ、お巡りさん。クソガキじゃないほうが私の孫です」


§


 ――凄まじい不協和音の只なかに身を投じながら、貴樹はそれに負けない熱量で、かたわらの仲間たちへ創作の設定を語り聞かせていた。

 貴樹の目の前には女児向けの着せ替えアーケードゲームの筐体があり、そこでは好きなように理想の女の子を創造することができた。お金はかかるが、この筐体専用のカードさえ揃えられれば、髪型、髪色、服装など、細部に至るまで自由自在だ。なかにはロボット対戦ゲームにしか興味がない友人もいたのに、みんな似たようなニコニコ笑顔で貴樹を取り囲んでいた。貴樹だって例外なく、鏡合わせのような笑顔を浮かべていたはずだ。
 そして、後からやって来たクラスメイトたちも笑っていた。その笑みは、残念なことながら、貴樹たちとは異なる種類のものだった。

「現実見ろよ、ブス」

 肩を殴られようが向こう脛を蹴られようが、じっとうつむいて嵐が去るのを耐えていた貴樹を気が済むまで罵ったのち、彼ら彼女らは退散していった。その人たちにとっては、ちょっとした憂さ晴らしだったのかもしれない。傷が残るほどのひどい暴力ではなかった。立ち直れないほどつよい憎しみをぶつけられたわけでは、なかった。
 しかし理不尽だと思った。仲間たちの笑顔まで奪うなんて。
 画面のなかでは、いつまでも新品みたいに光り輝く純白のコスチュームをニコニコ笑顔で身に纏う女の子が、依然とひたむきに貴樹を見つめていたのに、もうちっとも救われる気がしなかった。この場所もうるさくて安全じゃないから、はやくかえりたかった。


「こんにちは」
「……こんにちは」

 気がつくと、望み通りの静かで安全な場所に貴樹は立っていた。遠目にはカフェテラスとおぼしき建物が見える。風鳴りや鳥の声がするから、完全な静寂でもない。のどかだ。
 貴樹に挨拶をした女の子は、大きな銀色の鳥かごを両うでに抱えていた。そのまま地べたに座りこんでしまったから、うつくしく青い髪の毛が緞帳のように放射状に広がる。

「……なに、してるんだ」
「待ってるの」
「だれを」
「私を。私は鳥だから、ちょうど鳥かごが必要だったの。私が過ごすのにふさわしい鳥かごよ」

 少女は、どうも弱っているようだった。このままみすみす放置したら、ひっそりと死んでしまう予感がした。ひとりぼっち、誰も訪れることのない世界のすみで。

「鳥かごに棲む鳥だもの。名前があるはずだわ。ね、名前をつけてよ」
「あ……」

 そこでようやく、貴樹は我に帰った。
 他者に抑圧されてばかりの人生だった。しかし、そこからの解放を望むのであれば、剥き出しの魂でこの世に挑まねばならない。きっとまた、傷つくことになる。
 ――それでも。魂を削ったその先で、かたちのあるものを何ひとつ得られないのだとしても、いまはこの娘を生かしたいと願った。自分のなかに返り咲いた自由への欲求を押し殺すということは、目の前の彼女を犠牲にして生きるということだ。ここにいるのに。生きていてくれたのに。
 やがて、貴樹は決断した。

「ありがとう、お父さん」

 心に浮かんだ言葉をありのままに告げると、青い髪と、白いワンピースすがたの少女は、再びの微笑みを貴樹に差し向けた。その屈託のない表情は、貴樹のボロボロの全身に消毒液くらいつよく染みた。


§


「取っ組み合いなんて、金輪際やらないでちょうだいね。あんた、ケンカなんかしたことないんだから」

 殴打による昏倒から浮上すると、祖母は真っ先に貴樹を叱った。
 貴樹は、病院に運ばれるまでのあいだも握ったまま手放さなかったという青髪の人形を矯めつ眇めつ眺めることで、「らしくない」ことをした気まずさからしばらく逃避した。
 家に戻ってからは、まずクロに感謝と近況報告の連絡を入れた。その後、人形のそもそもの素体であるキャラクターが出演しているアイドルアニメを視聴していると、携帯が震えた。相変わらずの返信速度だ。

「この前言いそびれちゃいましたが、実は僕、イラストレーターをやっているんだ。もし良ければ、タカくんの創作した女の子を再現するお手伝いを僕にさせてもらえないかな?」

 加えて通話アプリのチャット欄には、驚くべき事実が列挙されていた。
 そういえば、クロは中学のころからひと一倍絵を描くことが上手で、一方の貴樹は。

「タカくんも、また小説書いてよ。リレー創作の続き、しよう」

 ……願ってもない申し出だ。虚構を追い求める行為は、なにも傷つくことばかりじゃないらしい。

「待ってろ、……アオイ」

 はじめて現実で、娘の名前を口にする。
 すぐにまた、夢じゃない場所でも逢えるから。
 脳裏に描いた鳥かごの内がわで、返事代わりの羽ばたきが聴こえた。


/了.

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