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第三章
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「……わたし、で、いいんですか……? だって、わたしは……」
その先の言葉は、すぐには口から出てこなかった。
「っあ、あんなはしたないことを……強請るような女、なんですよ……」
勢いを付けて言ったつもりが、結局蚊の鳴くような声になってしまった。
あの夜アシュリーはヴィルヘルムに「今夜だけ恋人にして欲しい」と強請った。あのときは一度だけでいいから想い出が欲しくて口にした言葉だったけれど、礼儀作法を叩き込まれた未婚の貴族令嬢が軽々口にしていい言葉ではない。
どこの世でも、醜聞が好まれるのは変わらない。
誰が耳にしたとしても、アシュリーがした行為がはしたない、と言われるのは目に見えて明らかだった。
思わずくちびるを噛むと、ヴィルヘルムの指先が口元に触れた。びくりと、アシュリーの肩が揺れる。
「アシュリー嬢がむやみやたらに男を誘う女性でないことは俺が一番知っている。あなたが純潔だったことが何よりの証拠だ」
ヴィルヘルムの言葉に、アシュリーの頬が熱くなる。
くちびるを撫でられて、噛み締めていた力が抜けていった。
「そんなあなたが俺に、一夜だけでいいから恋人にしてくれと強請ってきた。その言葉の重みを、考えなかったわけがない」
優しい眼差しが降り注ぐ。ヴィルヘルムの顔が近付いてきて、額同士が触れ合う。
そして、今にも口付けがされそうな位置で、ヴィルヘルムが甘さをたたえて、囁いた。
「先ほどの、《私でいいのか》という問いの答えを、俺はひとつしか持ち合わせていない。──俺はアシュリー嬢、あなたがいいんだ」
その言葉に、アシュリーの瞳からまた透明な雫が零れ落ちた。その涙を、頬を伝う前にヴィルヘルムが指先で拭ってくれる。
──彼はずっと、真っ直ぐに言葉をぶつけてくれていた。
言い訳をして自分の気持ちからも逃げようとしたアシュリーの頑なな気持ちを解くように、ひとつずつ、丁寧に。
涙が溢れて止まらない。けれどそれが嬉しさから来るものだということを、アシュリーはとうに気が付いていた。
「……っわたし、も、結婚するなら好きな人が……ラインフェルト副団長、が、いいです……っ」
紡いだ言葉は涙声で女子力だとか、そういうものとはかけ離れていたけれど、ヴィルヘルムは嬉しそうに頬を緩めた。
彼の美しい深紫色の瞳が、一瞬にして甘く溶ける。
その瞳にはぼろぼろと涙を流すアシュリーの姿が映っている。直視するのが恥ずかしく、彼女は瞼を伏せた。
しかし不意に目尻に柔らかいものが触れたかと思うと、それはヴィルヘルムのくちびるで、驚きのあまり涙もピタリと止まってしまう。
何度もくちびるが落とされて、そのたびに温もりが伝染する。
「ラインフェルト、ふくだん、ちょ……っ」
「ヴィルヘルムと。あの夜のように、呼んで欲しい」
「ッヴィ、ヴィルヘルム……さま」
動揺するアシュリーとは反対に、ヴィルヘルムは至って冷静に言葉を紡いでくる。
改めて口にした彼の名前に、頬が熱くなった。
あの夜は正体を気付かれないようにと、あえて彼のことを名前で呼んだ。けれどそのときと今では、場所も状況も、そして、姿も違う。
ただその中で変わらないのは、彼のことを想っているという事実だ。
「アシュリー嬢?」
ヴィルヘルムの団服の上着の裾を少し引っ張る。
気付いた彼が首を傾げた。
「ヴィルヘルム様も《アシュリー嬢》じゃなくて、アシュリーって呼んでください」
そう強請ると、ヴィルヘルムはぱちぱちと瞬きをした。
そして視線を泳がせてからしばらくして、ごほん、と咳払いをすると、見つめてきた。
「……アシュリー」
緊張の色を孕ませて、どこか甘さをたたえた静かな声で呼ばれた名前にアシュリーの胸がとくりと高鳴る。
「っはい」
名前を呼ばれただけなのに、それがひどく嬉しくて、アシュリーは自然と浮かんだ心からの笑みとともに返事をした。
その先の言葉は、すぐには口から出てこなかった。
「っあ、あんなはしたないことを……強請るような女、なんですよ……」
勢いを付けて言ったつもりが、結局蚊の鳴くような声になってしまった。
あの夜アシュリーはヴィルヘルムに「今夜だけ恋人にして欲しい」と強請った。あのときは一度だけでいいから想い出が欲しくて口にした言葉だったけれど、礼儀作法を叩き込まれた未婚の貴族令嬢が軽々口にしていい言葉ではない。
どこの世でも、醜聞が好まれるのは変わらない。
誰が耳にしたとしても、アシュリーがした行為がはしたない、と言われるのは目に見えて明らかだった。
思わずくちびるを噛むと、ヴィルヘルムの指先が口元に触れた。びくりと、アシュリーの肩が揺れる。
「アシュリー嬢がむやみやたらに男を誘う女性でないことは俺が一番知っている。あなたが純潔だったことが何よりの証拠だ」
ヴィルヘルムの言葉に、アシュリーの頬が熱くなる。
くちびるを撫でられて、噛み締めていた力が抜けていった。
「そんなあなたが俺に、一夜だけでいいから恋人にしてくれと強請ってきた。その言葉の重みを、考えなかったわけがない」
優しい眼差しが降り注ぐ。ヴィルヘルムの顔が近付いてきて、額同士が触れ合う。
そして、今にも口付けがされそうな位置で、ヴィルヘルムが甘さをたたえて、囁いた。
「先ほどの、《私でいいのか》という問いの答えを、俺はひとつしか持ち合わせていない。──俺はアシュリー嬢、あなたがいいんだ」
その言葉に、アシュリーの瞳からまた透明な雫が零れ落ちた。その涙を、頬を伝う前にヴィルヘルムが指先で拭ってくれる。
──彼はずっと、真っ直ぐに言葉をぶつけてくれていた。
言い訳をして自分の気持ちからも逃げようとしたアシュリーの頑なな気持ちを解くように、ひとつずつ、丁寧に。
涙が溢れて止まらない。けれどそれが嬉しさから来るものだということを、アシュリーはとうに気が付いていた。
「……っわたし、も、結婚するなら好きな人が……ラインフェルト副団長、が、いいです……っ」
紡いだ言葉は涙声で女子力だとか、そういうものとはかけ離れていたけれど、ヴィルヘルムは嬉しそうに頬を緩めた。
彼の美しい深紫色の瞳が、一瞬にして甘く溶ける。
その瞳にはぼろぼろと涙を流すアシュリーの姿が映っている。直視するのが恥ずかしく、彼女は瞼を伏せた。
しかし不意に目尻に柔らかいものが触れたかと思うと、それはヴィルヘルムのくちびるで、驚きのあまり涙もピタリと止まってしまう。
何度もくちびるが落とされて、そのたびに温もりが伝染する。
「ラインフェルト、ふくだん、ちょ……っ」
「ヴィルヘルムと。あの夜のように、呼んで欲しい」
「ッヴィ、ヴィルヘルム……さま」
動揺するアシュリーとは反対に、ヴィルヘルムは至って冷静に言葉を紡いでくる。
改めて口にした彼の名前に、頬が熱くなった。
あの夜は正体を気付かれないようにと、あえて彼のことを名前で呼んだ。けれどそのときと今では、場所も状況も、そして、姿も違う。
ただその中で変わらないのは、彼のことを想っているという事実だ。
「アシュリー嬢?」
ヴィルヘルムの団服の上着の裾を少し引っ張る。
気付いた彼が首を傾げた。
「ヴィルヘルム様も《アシュリー嬢》じゃなくて、アシュリーって呼んでください」
そう強請ると、ヴィルヘルムはぱちぱちと瞬きをした。
そして視線を泳がせてからしばらくして、ごほん、と咳払いをすると、見つめてきた。
「……アシュリー」
緊張の色を孕ませて、どこか甘さをたたえた静かな声で呼ばれた名前にアシュリーの胸がとくりと高鳴る。
「っはい」
名前を呼ばれただけなのに、それがひどく嬉しくて、アシュリーは自然と浮かんだ心からの笑みとともに返事をした。
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