標識上のユートピア

さとう

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二章

五十話

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 放課後。俺は、普段通り旧校舎に向かっていた。もちろん部活動を行うためである。
卒業までまだ時間はあるが、それでも長い訳ではない。そろそろ見納め時かと思うとなかなかに感慨深いものがある。反面、脳裏にはどうしてもパーカーがしがみついていて、到底離れてくれそうにない。朝礼の後から、焼けるような胸騒ぎは延々と続いていた。朝からどうにも調子が悪い。ストレスが溜まっているのかもしれなかった。
不安の素が多すぎる。板垣の心境、佐久間のメール、母親の容態、そして父親の不安定さ……。
そんな中、良くも悪くも岸本は相変わらずだった。旧校舎の扉を開くと、彼はなにやら平行して作業を行っていた。
「おお、柿市。早速だけど手伝ってほしいのだ」
「いいけど……なんでこんなたくさん作ってるんだ」
「お主、もう忘れたのか」
 呆れたようにため息をつかれる。
「『ワイルドな木箱』だぞ。今朝開封してみたら、依頼がたんまりと入っていたのだ。忙しくてかなわん」
 わざとらしく額を拭いながらも、彼は嬉しそうだった。「ワイルドな木箱」は、卒業製作を承るべく岸本が設置したリクエストボックスだ。まさか本当に依頼があるとは思わなかったが……。得意分野での頼みごとなら悪い気はしない。
「もちろん俺も手伝うよ。どんな依頼が来てるんだ?」 
「えーっと……」
 岸本は一旦作業する手を止め、散らかっている紙を見た。
「『髭を生やした岸本さんの自画像』『廃部になる美術部』『和式トイレ』『ゴミ箱に入った岸本さんのイラスト』『シークレットブーツ』……」 
 あれよという間に心地よさは吹き飛び、怒りがスープの如く煮えたぎる。
みんながみんな暇な輩ではないことは分かっているものの、この学校には失望した。わざわざこんなことをしてまで美術部を貶めたいのだろうか?
更に悪いことに、岸本はゴミ箱に入った自画像を描き始めていた。わざわざ傷まで描かれているあたりに工夫が感じられ、余計にイラつく。
「破いちまえ、そんな自画像」 
 怒号を発しながら、岸本が手掛けている作品を取り上げる。
「何をするんだ」
 驚いて目を見張る岸本の前で、自画像を引き裂いた。紙吹雪となった作品が、緩やかに宙を舞う。
唖然と口を開く岸本が腹立たしい。
「な、何てことを。依頼の品が」
「なにが依頼の品だ。こんなもん描くだけ時間の無駄だ」
「頼まれたのにつくらないなんて無責任ではないか」
 開いた口が塞がらない。
岸本が馬鹿なのは前から知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。もはや馬鹿を通り越して滑稽だ。いい道化だ。
責任? 頼まれた訳じゃない。紙を入れた連中はからかってるだけなのに。
「いいか、こいつらはな。俺たち美術部を馬鹿にしてるんだぞ。そんな連中のために作品をつくる必要などない」
 馬鹿でも分かりやすいように、ゆっくりと話して聞かせる。すると岸本は、珍しく神妙な表情になって紙を見つめた。
「そんなことはずっと前から分かってる」
 彼は意外なセリフを吐いた。
「腹も立っているし、ジョージ・グロスのように振る舞いたい。久しぶりにひどい気分だよ」
 勢いを削がれ、俺は黙って岸本の言葉に耳を傾けるしかなかった。自分の中に注がれたガソリンは、為す術もなくどこかへ吸収されていった。
岸本の膝が震えている。いや、正確には貧乏揺すりをしているのだろう。
口調からはいつもの調子が消え去り、代わりにこびりつくような怒りが滲み出ている。今にも目が充血しそうだ。
「しかし、いくら怒り狂おうと彼らには何も伝わらない。握りこぶしと握手はできない」 
 岸本は紛れもなく激昂していた。それでも彼は、粛々と理念を説き続ける。
「芸術家は作品をもって己を表現する生き物だろう? こっちの表現を見て、少しでも考えを改めてもらえれば儲けものだ」 
 そこでようやく、岸本は口をつぐんだ。俺の反応を窺っているようにも見える。
しかし、なかなか口を開く気持ちになれない。今の岸本が、普段の彼とは別人のように思えたからだろうか。
俺が言葉を発しないでいると、岸本はキャンバスを放置したまま立ち上がった。
「……外の空気を吸いに行ってくる」
 ドアを開ける前に振り向いた眼差しには、悔しさの入り交じった悲壮感が宿っていた。
俺が破ってしまった自画像に描かれていた無数の傷。あれが全てだったのだろうか。
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