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第4話 それぞれの答え
第4話・2 またふたりで
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──翌朝。
龍調査機関・中央棟前。
空はまだ薄青く、街の喧騒も始まっていない時間。
静けさに包まれた施設の前で、黒い輸送車のエンジン音だけが微かに響いている。
「……おはよ」
レイラは軽く息を吐きながら、車の前に立っていた。
フード付きの黒い上着をしっかりと着込み、その姿は前回の任務よりも、少しだけ頼もしく見える。
「……おは」
時間通りに現れたが眠たげなリルは、やはり今日も黒い装束に身を包んでいた。
長く引きずるようなマント。その端はボロボロのまま、黒地に赤のグラデーションが翼のように風に揺れている。
「……起きんのつらかった」
「夜更かしでもした? 何時まで起きてたの……」
「眠いから休みたいっつったらシエリ先生にめちゃくちゃ睨まれた。……お前は眠くねえの?」
「平気。ちゃんと支度したよ……。ほら、これ」
レイラが差し出したのは、携行食と簡易の防瘴フィルター。
「前回、リルの服、すぐ汚れてたから……ちょっと多めに持ってきた。使うかわかんないけど」
「……ふぅん……」
リルはそれを受け取り、言葉も無くただ、ポケットに入れる。
だがその仕草は、どこか優しかった。
「今回は、“抑制と調査”……だったよね」
「ま、どうせまた変なのが出るだろ。そんな空気だったし」
「……怖くないの?」
「お前は?」
問い返されたレイラは、少しだけ考えて──自分の胸元に手を置いた。
「怖くないって言ったら、嘘になるよ」
「だよな。オレも」
「……え? そうなの?」
その一言に、ふたりはふと目を合わせて──。
「あなた、意外と素直」
「オレは基本、正直者」
「それ初めて聞いた」
「初めて言った」
そして輸送車のドアが開く。
「搭乗確認完了。発進まで3分」
と、職員の声がかかった。
「……じゃあ、行こっか」
レイラが乗り込む。
そのあとを、リルが無言で追う。
静かなエンジン音が高まり、黒い車両は、ゆっくりと地を滑るように走り出した。
向かう先は、ここより少し離れた地、凪裂谷。
そこにはまだ見ぬ異常が、ふたりを待ち構えている。
だが今のふたりには。
前とは違う、ささやかな信頼があった。
◇
凪裂谷・外縁域。
黒い輸送車がゆっくりと停まった。
扉が開くと同時に、空気が変わる。
「……うわ……」
車外に降りたレイラが、思わず眉をひそめた。
谷から吹き上がってくる風が、生ぬるくて重たい。普通の風とは違う、湿気と圧が混じったような気配。
霧はまだ薄い。だが、足元の岩肌は微かに蒸気を帯びており、まるで大地そのものが呼吸しているようだった。
「瘴気くせえ。既に地層から出てるな」
リルは解析端末に視線を落としながら呟く。
「……温度、濃度、どれも異常じゃねえが……空気が変だ。深部から漏れてきてる。……本命は、この下だ」
レイラも頷く。
(地面が……動いてるみたい……)
ほんの少し足を踏み出しただけで、岩の上にぬるりとした感触。
苔でも、水気でもない。“生きているもの”に近い違和感。
「……観測班の報告だと、こっちの奥で小規模な崩落と咆哮音が確認されてる」
「ほ、咆哮音……?」
「空気振動だけが記録されてて、音声は取れてない。聞こえたはずの音が、ログに残ってねえんだと」
レイラの背筋がぞくりとした。
聞こえたはずなのに、残らない音。
それはどこか、夢の中で何かを聞いたときのような──不確かで、だが確実に何かが呼んでいたという記憶に近かった。
「今回は、ただの瘴気調査じゃなさそうだな」
リルは静かにマントの裾を整える。
レイラも、フードを深く被った。
風がまたひと吹き。
そして、谷の奥から──。
──ギィ…………ギィ…………ギィ…………
岩を引きずるような、不快な音が微かに聞こえてくる。
「……いたとしても、歓迎ムードじゃなさそうだね」
「上等だ。殴る理由ができた」
ふたりの影が、谷の奥へと歩み出す。
◇
凪裂谷・深層付近。
崩落箇所の奥。
緩やかに傾斜する通路の先に、洞窟のように口を開いた岩の裂け目があった。
「……ここ、かな?」
「観測班の位置ログだと、ここで最後にデータが途切れてる」
レイラは解析端末を構えながら、洞窟へ一歩足を踏み入れる。
その瞬間だった。
──ズン…………
体の奥底が震えるような、鈍い振動。
「……なに……?」
「…………」
鼓膜ではなく、骨に直接響いてくるような感覚。
中へ進むと、そこには“何かの脱け殻”のようなものが、岩壁に張り付いていた。
龍とも、獣ともつかない形。
だが確実に、かつて“そこにいた”ものの残滓だ。
「これは……」
レイラが近づこうとした、そのとき。
──たすけて……。
「っ……!?」
誰かの声が、耳の奥で響いた。
「今の、……聞こえた……!?」
「……ああ……」
振り返ると、リルの顔色も明らかに変わっている。
ふたりの視界に、一瞬だけ“知らない誰か”の姿が、残像のように揺らいだ。
男か女かもわからない。
ただ、痛みに歪んだ顔と、血で滲んだような眼だけが、はっきりと焼きついた。
「……ッ、これ……記憶干渉……?」
「やべぇ、引っかかってる……ッ」
岩壁の瘴気が再び濃くなる。
解析端末が警告音を鳴らした瞬間、一瞬、視界がチラついた。
「……え……?」
──リルが見たのは、昔の記憶。
飛び散る血。燃える家。
手を伸ばしてくれた、誰か。
そして──。
「……!?」
レイラが見たのは、見たことのないはずの、誰かの絶望。
「……なに……!?」
雨の中で立ち尽くす少女。
自分とよく似た姿。
だけど、その目は──何も映していなかった。
「ッく……!」
「おい、レイラ──!」
次の瞬間、視界が断ち切られる。
レイラは倒れた体勢から、ゆっくりと上体を起こした。
「……っ、頭……クラクラする……」
口の中が乾き、体の感覚がどこか遠い。
隣には、リルの姿があった。
「おい、大丈夫か」
「う、ん……ごめん。ちょっと、気持ち悪くて……」
リルのその声が、少し遠くに感じた。
視界の端に、揺らぎがある。
(……え?)
ほんの一瞬、リルの影が──大きく膨れ上がったように見えた。
背中に、黒い瘴気のような“なにか”が蠢いている──。
(あれ? ……リル……?)
「お前、変な顔してるぞ」
リルの視線は、レイラに向けられている。
しかしリルのその目には、明らかに違和感が映っていた。
「……あ……?」
(こいつ……、眼帯……してたよな?)
リルの視界の中で、レイラの左目が剥き出しになっていた。
真っ赤な虹彩に、爬虫類のように細く尖った瞳孔。
“それ”が、じっとリルを見ていた。
「……ッ!」
ほんの僅かに後退するリル。
「おい……お前……目……」
「……何?」
「左目……お前、いつ眼帯外した……?」
「……外してない、けど?」
視線がぶつかる。
──お互いに、見えているものが違う。
自分の感覚と、相手の言葉が食い違っている。
それが何より、不気味だった。
(なに、これ……感覚のズレ……? それとも現実のズレ……?)
レイラが思わず壁を手でなぞると、そこは確かに生き物のように脈打っている感じがした。
しかしリルの目には、それはただの岩壁にしか見えていない。
「……チッ、これ……“思念干渉”入ってるぞ」
「思念……?」
「自分と相手の記憶を混ぜてくるタイプの干渉だ。……お前の目、オレがそう見たんじゃなくて、そういう記憶が混じって、オレにもそう映ってるってことかもな……」
ふたりの頬を汗が伝う。
「そもそも、オレお前の左目見たことねえし」
「……じゃあ、私の目は……!」
「たぶん、いつも通りだ。お前が見てる“オレ”も、同じだろ? 何かが起きてるように見えてるかもしれねえが、実際にそれを見たことはねえだろ」
レイラはもう一度リルを見た。
──黒い瘴気が、やはりその背中に揺れていた。
見たことないものが見えている。
でも、それは目の錯覚なのかもしれない。
(わからない……)
(今、私は何を信じればいいの……?)
互いの視界が、違っている。
感じている現実が、ズレていく。
凪裂谷の奥。
ここは、ただの瘴気発生源ではない──記憶と存在を歪める、なにかが潜んでいる場所だった。
「……は、はぁ……っ」
レイラの呼吸が乱れ始める。
思念干渉の波が途切れず、視界の隅で“誰か”が何度も微笑む。
見知らぬ誰か──それが、自分の記憶からか、それとも他人の記憶か、もうわからない。
「レイラ……離れんな。声出せ。意識、こっちに戻せ」
リルの声が聞こえる。
だがその声にも、“何か別の音”が混ざっていた。
低い音。獣のような唸り声。それが、リルの喉の奥から漏れているように感じる。
「……っ、なんで……そんな龍みたいな声……!」
「してねぇよ」
「うそ……聞こえて……るのに……!」
レイラの視界が揺れる。
(わかってる、これは幻覚。幻聴……)
(……でも……)
体が言うことを聞かない。
リルもまた、焦りの色を滲ませていた。レイラの手が震え、足元がふらついている。
「……おい、やめろ。力、使うな」
「っ……!?」
言われて初めて気づいた。
自分の体の奥、なにか熱いものが蠢いている。
(龍の……力……?)
押さえつけてきた“なにか”が、この場の異常によって、僅かに目を覚まそうとしていた。
リルもまた、奥歯を食いしばっている。
爪の先が、少しずつ変化しかけていた。
(クソ……この意味わかんねえ瘴気、オレにまで……)
目を逸らす度、視界に“別の光景”がフラッシュする。
指先が震える度、体の“異質な力”が沸き立つ。
ふたりの中にある龍の力は、本来なら制御され、共存を目指すはずだった。
──だが今、それは確実に暴れようとしている。
◇
龍調査機関・モニター室──。
「……予想通りだな」
モニターを見つめながら、低く呟いたのはセセラ。
隣でデータを操作していた別の職員が緊張した声で応える。
「龍反応、両名とも閾値接近……制御状態、やや不安定です」
「……まだ成熟してねえ。心も、力も。全然な」
セセラはため息交じりに職員に指示を出した。
「あいつらの限界を測るには、ちょうどいい。……だが、深くなる前に引き戻す手段は残しておけよ」
「……承知しました」
セセラの瞳だけが、鋭く画面を見つめている。
(悪ぃな、ふたりとも……。この任務は、ただの調査じゃねえ。暴走しない限界を、測る実験でもある)
その事実を、当のふたりはまだ知らなかった。
◇
「──っ、……やだ……やめて……!」
レイラの声が上ずっていた。
岩壁に手をついたまま、レイラの体が震えている。
「おい……おい、レイラ」
「ちがう……私は、……私じゃない……っ」
何かにすがるように、頭を抱えて蹲る。
その異常な様子に、リルが僅かに息を呑んだ。
(……干渉、深く入りすぎてる)
「レイラ!! しっかりしろ!!」
叫びながら腕を伸ばすリル。
その手を、レイラは──弾いた。
「……あ゙?」
「──っ来ないでっ!!」
瞳が揺れていた。
見えていない。
レイラの視界の中でそこにいるのは、リルではなく、“知らない誰か”だった。
「……チッ……!」
リルは、その場で足を止める。
(ダメだ……イラつくな、動かすな、刺激すんな……!)
自分で自分を落ち着かせる。
しかし、その時だった。
──ギィ……
岩の奥から、重たく軋むような音。
ひとつ、またひとつ。
──ズ……ズズ……
鈍く、濡れた音を伴って、谷の奥から“なにか”が這い出してくる。
瘴気が濃くなる。
視界の端が、ぬるりと揺れ始める。
「……ッ」
リルの体にも、異変が起こり始めていた。
(まずい、……レイラが……崩れる)
(だったら……)
「レイラ!! オレだ! リルだ!!」
「……!」
その声は、確かに届いた。
蹲った少女の肩が、びくりと震える。
「──っ……リル……?」
「そうだ! お前はオレの声だけを聞け! 見てるもんがバラバラでも……オレの声だけを信じろ!」
その叫びと同時に。
──ズズズ……
その後ろから、“巨大な影”がぬるりと岩壁を滑りながら現れた。
異形の本体──。
四つ脚の胴体。
骨のように露出した外殻と、歪んだ人の顔のような、仮面にも見える頭部。
目は無い。
だが確かに、こちらを見ていた。
「レイラ……立て。来るぞ、本物が」
その言葉に、レイラの瞳に再び焦点が戻っていく。
ぐっと、歯を食いしばって顔を上げた。
「う、ありがとう……行こう、リル」
「……ん」
瘴気の中で、ふたりの影が再び重なった。
──敵は、これまでとは違う。
ふたりの精神を崩すために現れたような存在。
それが、今ここに姿を現した。
──ズズ……ズ……ッ……
本体が動く度、微かに震える地面。
レイラとリルの前に立ちはだかるそれは、目の無い仮面のような頭部を静かにこちらへ向ける。
そして──響いた。
『──おまえは……誰だ』
「っ……!?」
レイラが肩をすくめる。
『──おまえの“名前”は、本当にそれか……?』
それは声ではなかった。
耳で聞くものではなく、思考の中に直接落とされる音。
記憶と記憶の間に、水を垂らすように──。
『──……レイラ……。お前は普通の子になりたかったのか……?』
「……っ、やめろ……!」
『──でも、お前は普通と違う。お前の目が証明している』
レイラの左目がビリビリと疼いた。
まるで、抉られるような不快感。
(私の……目……っ)
『──お前の“人間の名前”など意味は無い。お前は“龍”でしかない』
「黙れッ!!」
レイラが叫ぶと同時に、その干渉がリルにも向かう。
『──そしてリル……。お前は、まだ気づいていない。お前が誰を殺したか……』
「……ッ!」
血が逆流するような感覚。
かつて、少年だった頃の記憶。
血にまみれた自分。
引き裂かれた叫び。
それが、鮮やかに脳裏を過る。
「……うぁ……ッ……」
(違う…………違う、……違うッ……!)
『──お前が死んだのではない。“お前が、自分を殺した”のだ』
「グルルルッ……」
リルの喉の奥から、獣のような低い唸り声。
「……ガル゙ル゙ルッッ…………!!」
龍の本能。
体の奥から、血のように滲み出す怒りが目覚めていく。
「ぐ、ッ、テメェ……オレの中、勝手に探りやがったな……!!」
牙が剥き出しになり、リルの瞳から赤い残光が走った。
「そのうるせえ口、黙らせてやる!!」
レイラも、リルの背中に並び立つ。
「私の名前はレイラだ!! それを否定するなッ!!」
『──……そうか。ならば、お前たちが“何者”か……』
『──見せてみろ』
瞬間。
仮面の頭部が、音を立てて裂けた。
裂け目の中から無数の触手が一斉に飛び出し、瘴気と共に襲いかかる。
「来るぞ……ッ!!」
「う……!!」
リルはそのひとつを素手で裂きながら、本能の唸りを深く響かせた。
レイラも解析用エネルギーブレードを起動。刃に龍因子に作用するエネルギーを展開させる。
(私が、自分が、何者か。その問いに……戦って、答えてやる!!)
異形との激突。
鞭のようにしなる触手がリルを目掛けて高速で放たれる。
「ッ……クソッ……!!」
その1本を素手で掴み、地面へと叩きつける。だが、それはすぐに形を変えて再び迫ってきた。
(実体が定まってねぇ……)
リルは即座に後方へ跳び、マントを翻す。
「……めんどくせえ……!!」
バキバキと音を出しながら右手を龍化させた。
現れた鋭利で大きな赤い爪が、獣のように閃く。
(斬っても、裂いても、感触が希薄だ……。オレらの精神への攻撃が混ざってやがる)
「レイラ、あんまり離れんなッ!! 見えなくなるぞ!!」
「わかってる……!」
レイラの手には、剣。
それで触手を弾きながら、距離を保つ。
(動きが……普通じゃない……!)
視界が一瞬揺らぎ、触手が“子供の腕”に見えた。
「ッ!! っ、違う……これは、偽物──!」
歯を食いしばり、刃を一閃。
それでも幻影は消えず、まるで記憶が形を取って襲いかかってくるようだった。
「……う……!!!」
(やられる……心を食われる──!!)
龍調査機関・中央棟前。
空はまだ薄青く、街の喧騒も始まっていない時間。
静けさに包まれた施設の前で、黒い輸送車のエンジン音だけが微かに響いている。
「……おはよ」
レイラは軽く息を吐きながら、車の前に立っていた。
フード付きの黒い上着をしっかりと着込み、その姿は前回の任務よりも、少しだけ頼もしく見える。
「……おは」
時間通りに現れたが眠たげなリルは、やはり今日も黒い装束に身を包んでいた。
長く引きずるようなマント。その端はボロボロのまま、黒地に赤のグラデーションが翼のように風に揺れている。
「……起きんのつらかった」
「夜更かしでもした? 何時まで起きてたの……」
「眠いから休みたいっつったらシエリ先生にめちゃくちゃ睨まれた。……お前は眠くねえの?」
「平気。ちゃんと支度したよ……。ほら、これ」
レイラが差し出したのは、携行食と簡易の防瘴フィルター。
「前回、リルの服、すぐ汚れてたから……ちょっと多めに持ってきた。使うかわかんないけど」
「……ふぅん……」
リルはそれを受け取り、言葉も無くただ、ポケットに入れる。
だがその仕草は、どこか優しかった。
「今回は、“抑制と調査”……だったよね」
「ま、どうせまた変なのが出るだろ。そんな空気だったし」
「……怖くないの?」
「お前は?」
問い返されたレイラは、少しだけ考えて──自分の胸元に手を置いた。
「怖くないって言ったら、嘘になるよ」
「だよな。オレも」
「……え? そうなの?」
その一言に、ふたりはふと目を合わせて──。
「あなた、意外と素直」
「オレは基本、正直者」
「それ初めて聞いた」
「初めて言った」
そして輸送車のドアが開く。
「搭乗確認完了。発進まで3分」
と、職員の声がかかった。
「……じゃあ、行こっか」
レイラが乗り込む。
そのあとを、リルが無言で追う。
静かなエンジン音が高まり、黒い車両は、ゆっくりと地を滑るように走り出した。
向かう先は、ここより少し離れた地、凪裂谷。
そこにはまだ見ぬ異常が、ふたりを待ち構えている。
だが今のふたりには。
前とは違う、ささやかな信頼があった。
◇
凪裂谷・外縁域。
黒い輸送車がゆっくりと停まった。
扉が開くと同時に、空気が変わる。
「……うわ……」
車外に降りたレイラが、思わず眉をひそめた。
谷から吹き上がってくる風が、生ぬるくて重たい。普通の風とは違う、湿気と圧が混じったような気配。
霧はまだ薄い。だが、足元の岩肌は微かに蒸気を帯びており、まるで大地そのものが呼吸しているようだった。
「瘴気くせえ。既に地層から出てるな」
リルは解析端末に視線を落としながら呟く。
「……温度、濃度、どれも異常じゃねえが……空気が変だ。深部から漏れてきてる。……本命は、この下だ」
レイラも頷く。
(地面が……動いてるみたい……)
ほんの少し足を踏み出しただけで、岩の上にぬるりとした感触。
苔でも、水気でもない。“生きているもの”に近い違和感。
「……観測班の報告だと、こっちの奥で小規模な崩落と咆哮音が確認されてる」
「ほ、咆哮音……?」
「空気振動だけが記録されてて、音声は取れてない。聞こえたはずの音が、ログに残ってねえんだと」
レイラの背筋がぞくりとした。
聞こえたはずなのに、残らない音。
それはどこか、夢の中で何かを聞いたときのような──不確かで、だが確実に何かが呼んでいたという記憶に近かった。
「今回は、ただの瘴気調査じゃなさそうだな」
リルは静かにマントの裾を整える。
レイラも、フードを深く被った。
風がまたひと吹き。
そして、谷の奥から──。
──ギィ…………ギィ…………ギィ…………
岩を引きずるような、不快な音が微かに聞こえてくる。
「……いたとしても、歓迎ムードじゃなさそうだね」
「上等だ。殴る理由ができた」
ふたりの影が、谷の奥へと歩み出す。
◇
凪裂谷・深層付近。
崩落箇所の奥。
緩やかに傾斜する通路の先に、洞窟のように口を開いた岩の裂け目があった。
「……ここ、かな?」
「観測班の位置ログだと、ここで最後にデータが途切れてる」
レイラは解析端末を構えながら、洞窟へ一歩足を踏み入れる。
その瞬間だった。
──ズン…………
体の奥底が震えるような、鈍い振動。
「……なに……?」
「…………」
鼓膜ではなく、骨に直接響いてくるような感覚。
中へ進むと、そこには“何かの脱け殻”のようなものが、岩壁に張り付いていた。
龍とも、獣ともつかない形。
だが確実に、かつて“そこにいた”ものの残滓だ。
「これは……」
レイラが近づこうとした、そのとき。
──たすけて……。
「っ……!?」
誰かの声が、耳の奥で響いた。
「今の、……聞こえた……!?」
「……ああ……」
振り返ると、リルの顔色も明らかに変わっている。
ふたりの視界に、一瞬だけ“知らない誰か”の姿が、残像のように揺らいだ。
男か女かもわからない。
ただ、痛みに歪んだ顔と、血で滲んだような眼だけが、はっきりと焼きついた。
「……ッ、これ……記憶干渉……?」
「やべぇ、引っかかってる……ッ」
岩壁の瘴気が再び濃くなる。
解析端末が警告音を鳴らした瞬間、一瞬、視界がチラついた。
「……え……?」
──リルが見たのは、昔の記憶。
飛び散る血。燃える家。
手を伸ばしてくれた、誰か。
そして──。
「……!?」
レイラが見たのは、見たことのないはずの、誰かの絶望。
「……なに……!?」
雨の中で立ち尽くす少女。
自分とよく似た姿。
だけど、その目は──何も映していなかった。
「ッく……!」
「おい、レイラ──!」
次の瞬間、視界が断ち切られる。
レイラは倒れた体勢から、ゆっくりと上体を起こした。
「……っ、頭……クラクラする……」
口の中が乾き、体の感覚がどこか遠い。
隣には、リルの姿があった。
「おい、大丈夫か」
「う、ん……ごめん。ちょっと、気持ち悪くて……」
リルのその声が、少し遠くに感じた。
視界の端に、揺らぎがある。
(……え?)
ほんの一瞬、リルの影が──大きく膨れ上がったように見えた。
背中に、黒い瘴気のような“なにか”が蠢いている──。
(あれ? ……リル……?)
「お前、変な顔してるぞ」
リルの視線は、レイラに向けられている。
しかしリルのその目には、明らかに違和感が映っていた。
「……あ……?」
(こいつ……、眼帯……してたよな?)
リルの視界の中で、レイラの左目が剥き出しになっていた。
真っ赤な虹彩に、爬虫類のように細く尖った瞳孔。
“それ”が、じっとリルを見ていた。
「……ッ!」
ほんの僅かに後退するリル。
「おい……お前……目……」
「……何?」
「左目……お前、いつ眼帯外した……?」
「……外してない、けど?」
視線がぶつかる。
──お互いに、見えているものが違う。
自分の感覚と、相手の言葉が食い違っている。
それが何より、不気味だった。
(なに、これ……感覚のズレ……? それとも現実のズレ……?)
レイラが思わず壁を手でなぞると、そこは確かに生き物のように脈打っている感じがした。
しかしリルの目には、それはただの岩壁にしか見えていない。
「……チッ、これ……“思念干渉”入ってるぞ」
「思念……?」
「自分と相手の記憶を混ぜてくるタイプの干渉だ。……お前の目、オレがそう見たんじゃなくて、そういう記憶が混じって、オレにもそう映ってるってことかもな……」
ふたりの頬を汗が伝う。
「そもそも、オレお前の左目見たことねえし」
「……じゃあ、私の目は……!」
「たぶん、いつも通りだ。お前が見てる“オレ”も、同じだろ? 何かが起きてるように見えてるかもしれねえが、実際にそれを見たことはねえだろ」
レイラはもう一度リルを見た。
──黒い瘴気が、やはりその背中に揺れていた。
見たことないものが見えている。
でも、それは目の錯覚なのかもしれない。
(わからない……)
(今、私は何を信じればいいの……?)
互いの視界が、違っている。
感じている現実が、ズレていく。
凪裂谷の奥。
ここは、ただの瘴気発生源ではない──記憶と存在を歪める、なにかが潜んでいる場所だった。
「……は、はぁ……っ」
レイラの呼吸が乱れ始める。
思念干渉の波が途切れず、視界の隅で“誰か”が何度も微笑む。
見知らぬ誰か──それが、自分の記憶からか、それとも他人の記憶か、もうわからない。
「レイラ……離れんな。声出せ。意識、こっちに戻せ」
リルの声が聞こえる。
だがその声にも、“何か別の音”が混ざっていた。
低い音。獣のような唸り声。それが、リルの喉の奥から漏れているように感じる。
「……っ、なんで……そんな龍みたいな声……!」
「してねぇよ」
「うそ……聞こえて……るのに……!」
レイラの視界が揺れる。
(わかってる、これは幻覚。幻聴……)
(……でも……)
体が言うことを聞かない。
リルもまた、焦りの色を滲ませていた。レイラの手が震え、足元がふらついている。
「……おい、やめろ。力、使うな」
「っ……!?」
言われて初めて気づいた。
自分の体の奥、なにか熱いものが蠢いている。
(龍の……力……?)
押さえつけてきた“なにか”が、この場の異常によって、僅かに目を覚まそうとしていた。
リルもまた、奥歯を食いしばっている。
爪の先が、少しずつ変化しかけていた。
(クソ……この意味わかんねえ瘴気、オレにまで……)
目を逸らす度、視界に“別の光景”がフラッシュする。
指先が震える度、体の“異質な力”が沸き立つ。
ふたりの中にある龍の力は、本来なら制御され、共存を目指すはずだった。
──だが今、それは確実に暴れようとしている。
◇
龍調査機関・モニター室──。
「……予想通りだな」
モニターを見つめながら、低く呟いたのはセセラ。
隣でデータを操作していた別の職員が緊張した声で応える。
「龍反応、両名とも閾値接近……制御状態、やや不安定です」
「……まだ成熟してねえ。心も、力も。全然な」
セセラはため息交じりに職員に指示を出した。
「あいつらの限界を測るには、ちょうどいい。……だが、深くなる前に引き戻す手段は残しておけよ」
「……承知しました」
セセラの瞳だけが、鋭く画面を見つめている。
(悪ぃな、ふたりとも……。この任務は、ただの調査じゃねえ。暴走しない限界を、測る実験でもある)
その事実を、当のふたりはまだ知らなかった。
◇
「──っ、……やだ……やめて……!」
レイラの声が上ずっていた。
岩壁に手をついたまま、レイラの体が震えている。
「おい……おい、レイラ」
「ちがう……私は、……私じゃない……っ」
何かにすがるように、頭を抱えて蹲る。
その異常な様子に、リルが僅かに息を呑んだ。
(……干渉、深く入りすぎてる)
「レイラ!! しっかりしろ!!」
叫びながら腕を伸ばすリル。
その手を、レイラは──弾いた。
「……あ゙?」
「──っ来ないでっ!!」
瞳が揺れていた。
見えていない。
レイラの視界の中でそこにいるのは、リルではなく、“知らない誰か”だった。
「……チッ……!」
リルは、その場で足を止める。
(ダメだ……イラつくな、動かすな、刺激すんな……!)
自分で自分を落ち着かせる。
しかし、その時だった。
──ギィ……
岩の奥から、重たく軋むような音。
ひとつ、またひとつ。
──ズ……ズズ……
鈍く、濡れた音を伴って、谷の奥から“なにか”が這い出してくる。
瘴気が濃くなる。
視界の端が、ぬるりと揺れ始める。
「……ッ」
リルの体にも、異変が起こり始めていた。
(まずい、……レイラが……崩れる)
(だったら……)
「レイラ!! オレだ! リルだ!!」
「……!」
その声は、確かに届いた。
蹲った少女の肩が、びくりと震える。
「──っ……リル……?」
「そうだ! お前はオレの声だけを聞け! 見てるもんがバラバラでも……オレの声だけを信じろ!」
その叫びと同時に。
──ズズズ……
その後ろから、“巨大な影”がぬるりと岩壁を滑りながら現れた。
異形の本体──。
四つ脚の胴体。
骨のように露出した外殻と、歪んだ人の顔のような、仮面にも見える頭部。
目は無い。
だが確かに、こちらを見ていた。
「レイラ……立て。来るぞ、本物が」
その言葉に、レイラの瞳に再び焦点が戻っていく。
ぐっと、歯を食いしばって顔を上げた。
「う、ありがとう……行こう、リル」
「……ん」
瘴気の中で、ふたりの影が再び重なった。
──敵は、これまでとは違う。
ふたりの精神を崩すために現れたような存在。
それが、今ここに姿を現した。
──ズズ……ズ……ッ……
本体が動く度、微かに震える地面。
レイラとリルの前に立ちはだかるそれは、目の無い仮面のような頭部を静かにこちらへ向ける。
そして──響いた。
『──おまえは……誰だ』
「っ……!?」
レイラが肩をすくめる。
『──おまえの“名前”は、本当にそれか……?』
それは声ではなかった。
耳で聞くものではなく、思考の中に直接落とされる音。
記憶と記憶の間に、水を垂らすように──。
『──……レイラ……。お前は普通の子になりたかったのか……?』
「……っ、やめろ……!」
『──でも、お前は普通と違う。お前の目が証明している』
レイラの左目がビリビリと疼いた。
まるで、抉られるような不快感。
(私の……目……っ)
『──お前の“人間の名前”など意味は無い。お前は“龍”でしかない』
「黙れッ!!」
レイラが叫ぶと同時に、その干渉がリルにも向かう。
『──そしてリル……。お前は、まだ気づいていない。お前が誰を殺したか……』
「……ッ!」
血が逆流するような感覚。
かつて、少年だった頃の記憶。
血にまみれた自分。
引き裂かれた叫び。
それが、鮮やかに脳裏を過る。
「……うぁ……ッ……」
(違う…………違う、……違うッ……!)
『──お前が死んだのではない。“お前が、自分を殺した”のだ』
「グルルルッ……」
リルの喉の奥から、獣のような低い唸り声。
「……ガル゙ル゙ルッッ…………!!」
龍の本能。
体の奥から、血のように滲み出す怒りが目覚めていく。
「ぐ、ッ、テメェ……オレの中、勝手に探りやがったな……!!」
牙が剥き出しになり、リルの瞳から赤い残光が走った。
「そのうるせえ口、黙らせてやる!!」
レイラも、リルの背中に並び立つ。
「私の名前はレイラだ!! それを否定するなッ!!」
『──……そうか。ならば、お前たちが“何者”か……』
『──見せてみろ』
瞬間。
仮面の頭部が、音を立てて裂けた。
裂け目の中から無数の触手が一斉に飛び出し、瘴気と共に襲いかかる。
「来るぞ……ッ!!」
「う……!!」
リルはそのひとつを素手で裂きながら、本能の唸りを深く響かせた。
レイラも解析用エネルギーブレードを起動。刃に龍因子に作用するエネルギーを展開させる。
(私が、自分が、何者か。その問いに……戦って、答えてやる!!)
異形との激突。
鞭のようにしなる触手がリルを目掛けて高速で放たれる。
「ッ……クソッ……!!」
その1本を素手で掴み、地面へと叩きつける。だが、それはすぐに形を変えて再び迫ってきた。
(実体が定まってねぇ……)
リルは即座に後方へ跳び、マントを翻す。
「……めんどくせえ……!!」
バキバキと音を出しながら右手を龍化させた。
現れた鋭利で大きな赤い爪が、獣のように閃く。
(斬っても、裂いても、感触が希薄だ……。オレらの精神への攻撃が混ざってやがる)
「レイラ、あんまり離れんなッ!! 見えなくなるぞ!!」
「わかってる……!」
レイラの手には、剣。
それで触手を弾きながら、距離を保つ。
(動きが……普通じゃない……!)
視界が一瞬揺らぎ、触手が“子供の腕”に見えた。
「ッ!! っ、違う……これは、偽物──!」
歯を食いしばり、刃を一閃。
それでも幻影は消えず、まるで記憶が形を取って襲いかかってくるようだった。
「……う……!!!」
(やられる……心を食われる──!!)
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