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第一章
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目の前の地面は白に染まっていた。
いや、正確に言うと幾多の白い羽によって覆われていた。
暫し、唖然と恍惚の表情でその様子を見ていた少年は不意に我に返り、その中央で倒れている ソレに歩み寄る。
ソレは白い髪をした少女の姿をしていた。
しかし。
少年は息を飲んだ。装飾品かオモチャかと思っていたソレの背中にある翼がひくひくと動いているのだ。
純白の翼は紅く、染まっている。
少年は独り、途方に暮れたように辺りを見回した後、何かを決意したのか、ぎこちない動きでリュックサックから簡易治療薬と包帯を取り出した。
そして、無駄の無い動きで緑色の簡易治療薬をその純白の翼にぶちまけ、手際よく翼に、ソレ……否、翼の生えた少女の腕に、包帯を巻く。
翼のようなモコモコとしたものに包帯を巻き付けるのは大変だった。
ひととおりの作業(治療)を終え、少年は黙って異形の少女を見下ろした。
見た目の年齢は10代後半といったところだろうか。少女が人ならざる者ならば、もっと歳を重ねているかもしれない。
どちらにせよ、13、14歳までしか生きられない宿命を背負った少年にとっては、遠い年月の話だ。
「・・・・・・」
少年は蒼い眼を細め、無意識の内に左頬を指先で掻いた。彼の左頬には、小さく、しかし、くっきりとNo.172と刻印されている。
それは少年が大陸戦争末期に造られた遺物……狂った天才(クレイジーニアス)であることの証だった。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
不意に少女はパタパタと羽をはためかせ、うめき声を出しながら目を明け、体を起こした。
優雅という形容詞がふさわしい動作で周囲を見渡した後、異形の少女はゆったりとした視線を少年に向けた。
透明な、碧色の、瞳。
美しい、と少年は思った。
この世には、存在しえない程の、整った美しいさだ。
少女は口を開いた。まるで鈴が鳴るような、それでいて凛とした、声。
「やあ、少年。私の手当てをした物好きは貴様か?」
透明な碧色の瞳に絡みとられてしまった少年は操り人形のように頷いた。
それを見た少女は効果音が流れてきそうなほどの満面の笑みを浮かべる。
「いやはや、どうやら神は私を見放したわけではないらしい。礼を言う」
麗しい見た目と柔らかい声の割に、妙に偉そうな言葉遣いだ。
しかし、それもまた、少女の美しさを加速させていた。
しばらく少女の存在そのものに圧倒されていた少年だったが、不意に我に帰り、少女に尋ねた。
「あんたは……何者なんだ?」
人間では、ないのだろう。だとすればなんなのだろうか。
もし、少年が幼い頃に童話や言い伝えを聞いていたならば、少年はすぐに彼女が何者かが分かった筈だ。だが、少年は施設育ち。そのような知識は持ち合わせていなかった。
「ん、私か?人間に名乗る名など無いと言いたいところだが……。そうだな、本名が長いから省略してハルとでも呼んでくれ」
「いや、そうじゃなくて」
「で、少年。貴様は何という名だ?他人に尋ねたら自分も名乗るべき……そうだろう?」
どうやら、この少女は他人の話を聞けない奴らしい。
それとも、話題をそらすためにあえて話を聞いていないふりをしているのだろうか。
少女にそう尋ねられた少年は声にならないうなり声をあげた。
名乗ろうにも名前がないのだ。
「No.172」
仕方なく少年は呼ばれていた番号を答える。……施設では、戦場では、番号さえあれば事足りたのだ。
「No.172?人間というものは暫く見ないうちに子に変な名をつけるようになったのだな」
少女はしげしげと少年を眺めた。その時、一瞬、ほんの一瞬だけ、少女が顔を歪ませたのを少年の鍛えられた動体視力は見逃さなかった。
「あんたは何者なんだ?人間ではなさそうだが」
少女の視線に耐えかねて、少年は先ほどと同じことを問う。
少女は少々面食らったように目を見開いた後、得意げに口を開く。
「見てわからないのか?人間の幼子よ。私は天界の住民、誇り高き神の僕(しもべ)……天使だ」
胸を張って、誇らしげに天使は言った。
「てん……し」
聞いたことはある。施設でも戦場でも、嫌というほど。
確か、兵士の士気を上げるために用いられていた旗にも、剣を持ち、屍の上に立つ、荒々しく、毒々しい天使が描かれていたはずだ。
しかし、実際に目の前にいる天使は、あの旗に描かれた天使とはかけ離れていた。
目の前の天使はもっと……そう、清らかだ。
赤が似合わなさそうな淡い少女。
今まで見聞きした天使とはかけ離れている。
否、それとも、こちらこそが正しい天使の姿なのだろうか。
突然、何かを思い出したのか、途端に天使の表情が曇り、「こうしちゃおれん」と勢いよく立ち上がったが、
「あ、いたたたた」
脚の痛みに耐えかねて、天使は再び座り込んだ。
「まだ、動かない方がいい。傷口も深いし、脚は強打しているようだから、痛み無しには歩けない」
少年は淡々と言った。天使は表情を暗くする。
「そんなことは言ってられないのだ。私は直ぐに戻らなければならないのだ、天界に」
天使は今度はゆっくりと立ち上がった。
「私は行かねばならぬ。……人間界には、天界へと続く場所が1ヶ所ある。少々、距離はあるが、大丈夫だろう。以前訪れた際、人間界は特に何事もなかった。突破することは容易いだろう」
独り言なのか、天使はぶつぶつと呟いた。
そして、天使は少年の方を向くと頭を下げた。
天使の白い髪が、彼女の頬にまとわりつく。
「介抱と心配してくれたことに改めて礼を言おう、ありがとう、少年」
天使はそう言って少年に背を向け……。
少年は唐突に天使の肩を掴み、ぐいっと後ろに追いやった。
「な、何をする!」
天使の言葉など無視して、少年はある一点を見つめたまま、腰に吊ってあった短剣を手にする。
「下がってて」
少年が天使に告げたのと同時に木々の合間から、人が出てきた。
しかし、それを人と呼ぶにはおぞましいかもしれない。
青白い顔、焦点の定まっていない白目。瞳は見えない。口は半開き。
大陸戦争の負の遺産、死なない兵士がそこにいた。
いや、正確に言うと幾多の白い羽によって覆われていた。
暫し、唖然と恍惚の表情でその様子を見ていた少年は不意に我に返り、その中央で倒れている ソレに歩み寄る。
ソレは白い髪をした少女の姿をしていた。
しかし。
少年は息を飲んだ。装飾品かオモチャかと思っていたソレの背中にある翼がひくひくと動いているのだ。
純白の翼は紅く、染まっている。
少年は独り、途方に暮れたように辺りを見回した後、何かを決意したのか、ぎこちない動きでリュックサックから簡易治療薬と包帯を取り出した。
そして、無駄の無い動きで緑色の簡易治療薬をその純白の翼にぶちまけ、手際よく翼に、ソレ……否、翼の生えた少女の腕に、包帯を巻く。
翼のようなモコモコとしたものに包帯を巻き付けるのは大変だった。
ひととおりの作業(治療)を終え、少年は黙って異形の少女を見下ろした。
見た目の年齢は10代後半といったところだろうか。少女が人ならざる者ならば、もっと歳を重ねているかもしれない。
どちらにせよ、13、14歳までしか生きられない宿命を背負った少年にとっては、遠い年月の話だ。
「・・・・・・」
少年は蒼い眼を細め、無意識の内に左頬を指先で掻いた。彼の左頬には、小さく、しかし、くっきりとNo.172と刻印されている。
それは少年が大陸戦争末期に造られた遺物……狂った天才(クレイジーニアス)であることの証だった。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
不意に少女はパタパタと羽をはためかせ、うめき声を出しながら目を明け、体を起こした。
優雅という形容詞がふさわしい動作で周囲を見渡した後、異形の少女はゆったりとした視線を少年に向けた。
透明な、碧色の、瞳。
美しい、と少年は思った。
この世には、存在しえない程の、整った美しいさだ。
少女は口を開いた。まるで鈴が鳴るような、それでいて凛とした、声。
「やあ、少年。私の手当てをした物好きは貴様か?」
透明な碧色の瞳に絡みとられてしまった少年は操り人形のように頷いた。
それを見た少女は効果音が流れてきそうなほどの満面の笑みを浮かべる。
「いやはや、どうやら神は私を見放したわけではないらしい。礼を言う」
麗しい見た目と柔らかい声の割に、妙に偉そうな言葉遣いだ。
しかし、それもまた、少女の美しさを加速させていた。
しばらく少女の存在そのものに圧倒されていた少年だったが、不意に我に帰り、少女に尋ねた。
「あんたは……何者なんだ?」
人間では、ないのだろう。だとすればなんなのだろうか。
もし、少年が幼い頃に童話や言い伝えを聞いていたならば、少年はすぐに彼女が何者かが分かった筈だ。だが、少年は施設育ち。そのような知識は持ち合わせていなかった。
「ん、私か?人間に名乗る名など無いと言いたいところだが……。そうだな、本名が長いから省略してハルとでも呼んでくれ」
「いや、そうじゃなくて」
「で、少年。貴様は何という名だ?他人に尋ねたら自分も名乗るべき……そうだろう?」
どうやら、この少女は他人の話を聞けない奴らしい。
それとも、話題をそらすためにあえて話を聞いていないふりをしているのだろうか。
少女にそう尋ねられた少年は声にならないうなり声をあげた。
名乗ろうにも名前がないのだ。
「No.172」
仕方なく少年は呼ばれていた番号を答える。……施設では、戦場では、番号さえあれば事足りたのだ。
「No.172?人間というものは暫く見ないうちに子に変な名をつけるようになったのだな」
少女はしげしげと少年を眺めた。その時、一瞬、ほんの一瞬だけ、少女が顔を歪ませたのを少年の鍛えられた動体視力は見逃さなかった。
「あんたは何者なんだ?人間ではなさそうだが」
少女の視線に耐えかねて、少年は先ほどと同じことを問う。
少女は少々面食らったように目を見開いた後、得意げに口を開く。
「見てわからないのか?人間の幼子よ。私は天界の住民、誇り高き神の僕(しもべ)……天使だ」
胸を張って、誇らしげに天使は言った。
「てん……し」
聞いたことはある。施設でも戦場でも、嫌というほど。
確か、兵士の士気を上げるために用いられていた旗にも、剣を持ち、屍の上に立つ、荒々しく、毒々しい天使が描かれていたはずだ。
しかし、実際に目の前にいる天使は、あの旗に描かれた天使とはかけ離れていた。
目の前の天使はもっと……そう、清らかだ。
赤が似合わなさそうな淡い少女。
今まで見聞きした天使とはかけ離れている。
否、それとも、こちらこそが正しい天使の姿なのだろうか。
突然、何かを思い出したのか、途端に天使の表情が曇り、「こうしちゃおれん」と勢いよく立ち上がったが、
「あ、いたたたた」
脚の痛みに耐えかねて、天使は再び座り込んだ。
「まだ、動かない方がいい。傷口も深いし、脚は強打しているようだから、痛み無しには歩けない」
少年は淡々と言った。天使は表情を暗くする。
「そんなことは言ってられないのだ。私は直ぐに戻らなければならないのだ、天界に」
天使は今度はゆっくりと立ち上がった。
「私は行かねばならぬ。……人間界には、天界へと続く場所が1ヶ所ある。少々、距離はあるが、大丈夫だろう。以前訪れた際、人間界は特に何事もなかった。突破することは容易いだろう」
独り言なのか、天使はぶつぶつと呟いた。
そして、天使は少年の方を向くと頭を下げた。
天使の白い髪が、彼女の頬にまとわりつく。
「介抱と心配してくれたことに改めて礼を言おう、ありがとう、少年」
天使はそう言って少年に背を向け……。
少年は唐突に天使の肩を掴み、ぐいっと後ろに追いやった。
「な、何をする!」
天使の言葉など無視して、少年はある一点を見つめたまま、腰に吊ってあった短剣を手にする。
「下がってて」
少年が天使に告げたのと同時に木々の合間から、人が出てきた。
しかし、それを人と呼ぶにはおぞましいかもしれない。
青白い顔、焦点の定まっていない白目。瞳は見えない。口は半開き。
大陸戦争の負の遺産、死なない兵士がそこにいた。
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