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三つ目がとおる その2

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 1976年、昭和51年4月15日木曜日。

 東京都豊島区千早の横山浩一宅が火事に見舞われた。

 出火原因は横山の寝煙草の不始末だった。

 家は全焼したのだが、二階が寝ていたはずの横山の死体は遂に見つからなかった。

 三人目の子供を妊娠していた妻の章子は、息子の正太郎と大作と共に産院に寝泊まりしていたため難を逃れた。

 

 雅人は横山の訃報を聞くとすぐに章子の元に駆け付けた。

 産院のベッドの上には臨月を迎えた章子が横たわり、その傍らには小学6年と2年の二人の息子たちが泣きじゃくっていた。

 息子たちの手前、いままで必死に涙をこらえていた章子は、懐かしい雅人の顔を見るなり顔を両手で覆って泣き出した。

「雅人さん!私、もうどうしていいのやら……!だからあれほど煙草はやめてって言っていたのに!!」

「章子さん、落ち着いて。横山さんは死んだとは限らないよ。金子さんや治美と同じだ。ただこの世界からいなくなったんだ」

「―――あの人は消えてしまったのですか?もう二度と会えないのなら死んだのと同じことです!」

「横山さんや治美たち未来人はそれぞれ自分の役目を終えて元の時代に戻っていったんだ。だからいつかまた遠い未来の世界で会えるさ。俺はそう考えることにした」

「だったら私もいつか突然この世界からいなくなるのですか?そんなことになったら子供たちはどうなります!?」

「章子さんはどうしたい?この先も漫画家を続けるのかい?」

「―――正太郎。大作を連れて少し外にでていなさい」

 章子は二人の息子に病室の外に出るように命じた。

 息子たちがいなくなると、ようやく章子は口を開いた。

「実は、私も横山もとうの昔に漫画家は引退していました」

「何だって!?」

「信頼のできるお弟子さんを選び、わたしたち夫婦が未来人だということを告げ、コミックグラスを譲り渡しました。漫画家本人が漫画を描かなくなって弟子が代わりに描くなんてよくあることです。周囲の者は誰も疑問をもちませんでした」

「そうだったのですか。横山光輝も赤塚不二夫も別の人間が漫画を描いていたのですか。知らなかった……」

「漫画を描いている人間が変わったところで世間の人たちは気づきはしませんよ」

「そんなものですか」

「手塚先生は違いますよ。あの方は別格です。ですから治美さんが失踪した時は横山もわたしも大ショックでした。後任の岡田さんでしたか、彼女はよくやっていますね」

「―――章子さん。あなたはこれからどうするおつもりですか?」

「もう東京にいる理由もなくなりました。生まれ故郷の出雲に帰ろうかと思います」

「わかりました。もし何かお困りのことがありましたら、遠慮なく俺に連絡してください」

 雅人は一枚名刺を取り出して章子に手渡した。

「ありがとうございます。もうあなたしか頼れる人がいません。私にもしものことがありましたら、どうかあの子たちをよろしくお願いします」

 章子は雅人の両手を強く握りしめて懇願した。

「承知しました」

「あのう、雅人さんの名刺をもう二枚、いえもう三枚いただけますか?」

「それは構いませんが、一体誰に渡すおつもりですか」

「玲奈さんと藤木さん。そして私と横山の後任者にお渡しします。雅人さんにはお話していませんでしたが、実は私たち未来から来た人間同士で一つ取り決めをしていたのです。もしも誰かにコミックグラスを譲る時が来たら、相手に一つだけ条件を付けろって」

「条件?」

「コミックグラスの所有者は必要がなくなった時には、必ずコミックグラスを雅人さんの元に送り届ける。そう約束させてから私たちはコミックグラスを譲り渡しました」

「コミックグラスの所有者が漫画家を引退した時、そのコミックグラスは俺のところに集まってくるのですか!?」

「ええ。雅人さんはそれをタイムスリップする直前の私たちに送り届けて欲しいのです。コミックグラスがないと、未来の私たちが困りますからね」

「ちょっと待って下さい!あなたたちから俺が受け取ったコミックグラスを未来のあなたたちが受け取るのなら、一番最初のコミックグラスはどこから現れたのですか!?」

 そんなことは章子に聞いても答えられるわけがなかった。

 章子はただ小首をかしげながら笑顔を取り繕った。





 1977年、昭和52年8月14日日曜日。

 この年、神戸市中央区の元町商店街にある海文堂という大型書店で手塚治虫のサイン会が開かれた。

 四十歳になった雅人は息子の雅之にせがまれてこのサイン会に連れて行った。

 海文堂は手塚フアンでひしめき合い、黒山の人だかりに隔てられ手塚治虫の姿も見れなかった。

 雅人はサインを求める人の長い列に並び、息子を抱き上げたまま小一時間程立ち続けた。

 次第に雅人の順番が近づくにつれ、懐かしい顔が見えてきた。

 トレードマークの赤いベレー帽を被り、黒縁の眼鏡をした岡田悦子は、微笑みながらマジックベンで色紙にサインを書いていた。

 彼女を見るのは十年ぶりだった。

 やがて雅人たちの順番が回ってきた。

 雅人は彼女の目線に合うように息子を背後から抱き上げてやった。

 岡田は雅人に気が付くと声をたてずににっこり笑い、マジックペンをテーブルの上に置いて息子に話しかけた。

「坊や、幾つ?」

「7歳!」

「お名前は?」

「雅之!手塚雅之!」

「あら!私と同じ苗字ね」

 岡田悦子は手を伸ばして雅之の頭を優しく撫でてくれた。

「エヘヘヘヘ!」

 雅之は照れ臭そうに身をよじらせた。

(こいつめ!雅之が熱烈な手塚治虫ファンになったのはこのサイン会が原因だったのか)

「雅之くんには特別にイラストを描いてあげるわ。なんのイラストがいいかしら?ブラックジャック?それとも写楽?」

 周囲の手塚ファンが羨望の眼差しで雅之を見ている。

 雅之は少し考えてから答えた。

「ボク、和登さんがいい!」

「あら、まあ!おませさんね」

 岡田はマジックペンを取ると、雅之のために特別丁寧にセーラー服姿の和登千代子の絵を描いてくれた。

「ありがとう!」

 雅之は色紙を抱きしめて有頂天である。

 雅人が息子を抱き上げて立ち去ろうとした時、岡田が呼び止めた。

「お父様はどうされますか?」

「俺ですか?俺はいいですよ」

「そうおっしゃらずに…」

 岡田はじっと雅人の顔を見つめて返事を待ち続けた。

「―――では、鉄腕アトムを描いていただけますか?」

「わかりました」

 岡田は空を飛んでいるアトムの姿を描くとサインをし、最後に「雅人さんへ」と文字を入れた。



 海文堂からの帰り道、父親と手をつなぎながら歩いていた雅之は首をかしげて雅人に尋ねた。

「ねぇ、パパ!どうして手塚先生はパパの名前を知ってたの?」

 雅人は何も答えなかった。

「ねぇ、パパ………………?どうして泣いてるの…………?」
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