派遣ソムリエ

嶋田美由

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第1話 AIに恐怖する男

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第1話 AIに恐怖する男

1.鋼の思考、玻璃の心臓

 初夏の柔らかな日差しが、街路樹の葉の隙間からキラキラと地上に降り注ぐ。そんな光の粒が、アンティーク調の木製看板に優しく踊っていた。「Cafe&Bar 木漏れ日」。それが、この物語の舞台となる店の名前だ。
 開店準備の喧騒とは無縁の、静かで落ち着いた時間が流れる店内。
 磨き上げられたカウンターの奥で、橘梓(たちばな あずさ)は、白いシャツに黒いベストとスラックスという出で立ちで、黙々とグラスを磨いていた。長い黒髪は一つに束ねられ、その真剣な横顔には、プロフェッショナルとしての矜持が滲む。四十六歳という年齢を感じさせない、凛とした佇まいだった。
 カウンターの背後には、彼女が厳選したリキュールのボトルが静かに並び、磨かれたシェイカーが鈍い光を放っている。派遣ソムリエとしての顔と、夜のバータイムに見せるバーテンダーとしての顔。二つの顔を持つ彼女にとって、この開店前の静寂は、心を整えるための貴重な時間だ。
 ふわりと、厨房よりのカウンターから香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。
 オーナーの四宮樹(しのみや いつき)が、今日の最初の一杯を淹れ始めたのだろう。やがて、樹が白いマグカップを二つ、トレイに乗せてカウンターにやってきた。彼の真っ白な髪が、店内に差し込む朝の光を受けて柔らかく輝いている。その手元から立ちのぼる湯気は、見ているだけで心が安らぐようだった。
「梓ちゃん、おはよう。まずは一杯どう?」
 樹の穏やかな中性的な声に、梓はグラスを置くと、ふっと息をついて微笑んだ。それは、プロの顔から、彼女の素が覗く瞬間だった。
「おはよう、お兄ちゃん。いただきます」
 カウンターに並んで腰掛け、湯気の立つコーヒーに口をつける。
 樹の淹れるコーヒーは、いつも梓の心を静かに落ち着かせてくれる。それは、彼女が派遣ソムリエとして、悩める人と向き合う前の、大切な儀式のようなものだった。
 一口飲むごとに、昨日の疲れが完全に溶け出し、今日という新しい一日への覚悟が静かに満ちてくるのを感じる。この一杯が、彼女の独自のサポートスタイルである「派遣ソムリエ」の原動力となっているのだ。
「今日の予約は、午後から一件だね」
 樹が梓の手元のタブレット端末に視線を落としながら言うと、梓は「うん」と頷き、マグカップを両手で包み込んだ。
「どんな方が見えるんだろうね。梓ちゃんのことだから、またその方にぴったりのカクテルを思いついちゃうんだろうなぁ」
 樹が悪戯っぽく笑う。
 彼は、梓が相談を終えた人に、その人をイメージしたカクテルと言葉を贈るという、彼女独自のスタイルを誰よりも理解し、応援してくれている。時には、梓がカクテルのアイデアに悩んでいると、さりげなくヒントになるような言葉をくれることもある。
「さあ、どうかな。その方次第」
 梓はそう言って肩をすくめたが、その瞳の奥には、未知の出会いへの静かな期待が揺れていた。
 派遣ソムリエの仕事は、人の心の奥深くに触れる、時に困難で、しかし何物にも代えがたいやりがいのある仕事だと彼女は思っている。そして、そのセッションの最後に捧げる一杯のカクテルが、相談者の新たな一歩を照らす小さな灯火になることを願っていた。
 二人がそれぞれの思いを胸に、最後の一口を味わい終えた、その時だった。
「おーい、朝めしできたぞー」
 厨房の奥から、少し掠れた声が響いた。有栖川譲二だ。
 普段、店内に顔を出すのは夜のバータイムからと決めている彼だが、朝食の時は別だ。こうして樹と梓のために準備をしてくれるのが日常だ。樹が店のオーナーになってからも、譲二はこの「 Cafe&Bar 木漏れ日」の、そして樹と梓にとっての、頼れる大黒柱のような存在なのだ。彼が作るシンプルだが滋味深い料理は、梓にとっても樹にとっても、一日の活力源だった。
「譲二さん、いつもありがとうございます」
 樹がカップを置きながら、柔らかな声で応える。
 梓は
「今日のメニューは何かな。譲二さんのだし巻き卵だと嬉しいんだけど」
と小さく呟き、空になったマグカップを手に立ち上がった。静かな朝の儀式が終わり、新しい一日が、いつものように温かい朝食の匂いと共に始まろうとしていた。
 窓の外では、街が少しずつ目覚め始めている。新聞配達のバイクの音、遠くで響く学校のチャイム。
 「Cafe&Bar 木漏れ日」の扉が、今日もまた、誰かの新たな一歩のために、静かに開かれようとしていた。



 昼下がりの日差しが、アスファルトの照り返しと共に容赦なく降り注ぐ頃。「Cafe&Bar 木漏れ日」のアンティークなドアが、ちりん、と控えめなベルの音を立てて開いた。
 現れたのは、五十代半ばと思しき一人の男性だった。
 きちんと着こなされたスーツは上質なものだとわかるが、どことなくくたびれた印象を与え、肩には見えない重圧がのしかかっているように見える。手にしたブリーフケースを固く握りしめ、店内を窺うその目には、期待よりも不安の色が濃く浮かんでいた。額にはうっすらと汗が滲み、ハンカチでそれを拭う仕草もどこか落ち着かない。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中から、梓が穏やかな声をかけた。
 男性は一瞬肩を揺らし、梓の姿を認めると、少しだけ強張っていた表情を緩めようと努めたが、その試みはあまりうまくいっていないようだった。
「あ、あの…予約をしていた、田中と申します」
 かろうじて絞り出したような声は、彼自身が思うよりも小さく、そして掠れていた。
「田中様ですね。お待ちしておりました。どうぞ、こちらのお席へ」
 梓はにこやかに応じ、カウンターから数歩離れた、窓際の落ち着いたテーブル席へと彼を案内した。そこは、柔らかな木漏れ日がレースのカーテン越しに差し込み、店の喧騒からも程よく距離のある、梓が派遣ソムリエの相談によく使う場所の一つだ。
 田中と名乗った男性は、ぎこちない動きで椅子に腰を下ろすと、テーブルの上に置かれたメニューに視線を落としたまま、再び口を閉ざしてしまった。その背中は丸まり、まるで何かから身を守るように縮こまっている。
 梓は、彼の正面に静かに腰を下ろすと、無理に会話を促すことはせず、彼が自ら口を開くのを待った。店内に流れるスロージャズの音色と、遠くで樹がコーヒーを淹れるかすかな音だけが、二人の間の沈黙を優しく埋めている。
 数分が永遠のように感じられた頃、田中がぽつりと呟いた。
「…本当に、こんなところで相談なんて、聞いてもらえるんでしょうかね」
 その声には、自嘲と、ほんのわずかな藁にもすがるような響きが混じっていた。
 彼の視線は、まだ手元のメニューから動かない。
「心配になっちゃいますよね。こんな小娘にわかるのかって」
 梓は、彼の言葉を遮るでもなく、かといって見過ごすでもなく、静かに、しかし真っすぐに彼を見つめて言った。その声には、不思議なほどの落ち着きと、そしてどこか彼の心を射抜くような強さがあった。
 田中は、梓のその言葉に、はっとしたように顔を上げた。
 店内に入って、初めてまともに梓の顔を見た。彼女の瞳は、ただ若いというだけではない、何か深いものを見つめてきたような色をしていた。
「いえ、そういうわけでは…ただ、その…」
 田中は狼狽し、慌てて言葉を濁す。まさか、自分の心の奥底を見透かされたような言葉が返ってくるとは思ってもみなかったのだろう。彼の額に、またじわりと汗が滲んだ。
「大丈夫ですよ、田中さん。ここは、そういう場所ですから」
 梓はふわりと微笑む。その笑顔は、まるで長年連れ添った友人のように、あるいは全てを理解してくれる家族のように、温かく彼を包み込むようだった。
「派遣ソムリエ、と聞いて、どんなイメージをお持ちかはわかりませんけれど。私は、田中さんのお話を、ただ聞くだけの人間ではありません。もちろん、田中さんの許可なく何かを無理強いすることもありませんよ」
 一旦言葉を切り、梓はテーブルの上に置かれた小さな花瓶にそっと指を触れた。淡いピンク色の小さな花が、控えめに咲いている。
「ここでは、田中さんが本当に話したいことを、話したいように話してくださればいいんです。それがどんな内容であっても、私は最後まで、ちゃんと聞きますから」
 その言葉には、嘘も飾りもなかった。
 ただ、そこにある真実だけが、静かに田中の心に染み込んでいくようだった。
 田中は、しばらく梓の顔をじっと見つめていたが、やがてふっと息を吐き、強張っていた肩の力が少しだけ抜けたように見えた。それでもまだ、彼の目には深い不安の色が残っている。
「…本当に、何から話せばいいのか…」
 か細い声で、彼が再び呟く。
「そうですね…」
 梓は少し考える素振りを見せ、
「では、まず何かお飲み物でもいかがですか? ここのコーヒーは、うちのオーナーが特別に淹れてくれるんです。とても美味しいですよ」
と言って、梓はカウンターの奥にいる樹に目で合図を送った。樹は心得たように小さく頷き、すぐにコーヒーの準備に取り掛かる。
 やがて、樹が二つのカップを乗せたトレイを手に、静かにテーブルに近づいてきた。湯気の立つコーヒーの香りが、田中の鼻孔をくすぐる。
「どうぞ。本日のコーヒーです」
 樹は、田中の前にそっとカップを置くと、梓にもう一つのカップを渡し、軽く会釈をしてカウンターへと戻っていった。その間、梓は田中に対して余計な言葉をかけることは一切なかったが、そこでただ寄り添っている事で、この空間の安心感を高めているように感じられた。
 田中は、目の前のカップから立ちのぼる香りを、ゆっくりと吸い込んだ。それは普段、彼が家やオフィスで飲むインスタントコーヒーとは全く違う、深く、そしてどこか懐かしいような香りだった。
「…いい香りですね」
 ぽつりと、彼が言った。それは、この店に来て初めて、彼自身の内側から自然に出てきた言葉のように梓には聞こえた。
「本当、いい香りですよね」
 梓は、彼の言葉に優しく相槌を打ち、カップに口をつけた。その所作は自然で、彼に余計な緊張感を与えない。
「うちのオーナー、コーヒーにうるさくて。でも、そのおかげで、私はいつも美味しいコーヒーが飲めるんですけどね」
 梓は小さく笑い、田中の表情を窺う。彼の強張っていた口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。気のせいかもしれない、微かな変化。だが、梓はその小さな兆候を見逃さなかった。
「田中さんも、コーヒーはお好きですか?」
 当たり障りのない、しかし相手の好みを探る質問。それは、バーテンダーとして長年培ってきた、相手との距離を縮めるための梓の技術でもあった。
 田中は梓の問いかけに、少しだけ間を置いてから、ゆっくりと頷いた。
「ええ…まあ、嫌いでは、ありません。ただ、こんなにちゃんとしたコーヒーを飲むのは、久しぶりです」
 そう言って、彼はカップを両手で包み込むように持ち、一口、静かに味わった。
 そして、ふうう、と長い息を吐く。その息と共に、彼の肩からまた一つ、重い何かが抜け落ちたように見えた。
「…美味しい、です」
 今度は、先ほどよりも少しだけはっきりとした声で、彼が言った。その目には、まだ不安の色は残っているものの、先ほどまでの硬さが取れ、どこか遠くを見つめるような、物思いに耽るような色が浮かんでいた。
 梓は、彼のその変化を静かに見守りながら、心の中でそっと頷いた。樹の淹れるコーヒーが、彼の心の扉を少しだけ開けてくれたのかもしれない。
「よかったです」
 梓は再び微笑み、彼が次の言葉を発するのを、急かすことなく待った。
 この静かで穏やかな空間と、美味しいコーヒーが、彼が抱えるものを少しでも吐き出す手助けになることを願いながら。
 お互いのコーヒーカップから立ちのぼる湯気が、テーブルの上でゆらゆらと揺れ、やがて静かに消えていく。カップの中身が半分ほどになった頃、それまで黙ってコーヒーを味わっていた田中が、ふと顔を上げた。
 その目には、先ほどまでの物思いに耽るような色とは違う、何か切実な光が宿っているように梓には見えた。
 カップをソーサーに戻した田中は、言いにくそうに口を開く。
「あの…」
 田中は、言葉を探すように一度視線をさまよわせ、そして意を決したように口を開いた。
「AIが…怖いんです」
 絞り出すような、しかしはっきりとした声だった。その一言に、彼が抱える問題の核心が凝縮されているように感じられた。
「怖い、ですか」
 梓は、彼の言葉を静かに繰り返す。彼の表情から、その「怖い」という感情の深さ、またはその裏にあるモノを読み取ろうとする。
「ええ…」
 田中はこくりと頷き、カップを持つ手に力が入ったのが分かった。
「もう、何年も前からなんです。きっかけは…昔、映画を観たことでした。別に、ホラー映画とか、そういう直接的なものではなかったんですが…AIが人間にとって代わる、というような内容で…その時は、ただ漠然とした不安を感じただけだったんですが…」
 彼は言葉を切り、再びコーヒーカップに視線を落とした。その横顔には、過去の記憶を辿るような、そして同時に、その記憶に再び囚われそうになっているような苦悶の色が浮かんでいた。
「それが…最近になって、どんどん現実味を帯びてきて…ニュースでも、会社でも、AI、AIと…まるで、あの映画で観た未来が、もうすぐそこまで来ているような気がして…」
 彼の声は、徐々に震えを帯びてくる。
「私の仕事も、いつかAIに奪われるんじゃないか…いや、もう既に奪われ始めているのかもしれない…そう思うと、夜も眠れなくなることがあるんです。あの映画で感じた恐怖が、何倍にもなって、毎日毎日、胸の中に積み重なっていくようで…もう、どうしたらいいのか…」
 最後の方は、ほとんど懇願するような響きだった。彼の目に、うっすらと涙の幕が張っているようにも見えた。長年、誰にも打ち明けられずに一人で抱え込んできた恐怖が、ようやく言葉となって溢れ出した瞬間だった。
 梓は、彼の言葉を一つ一つ、丁寧に受け止めるように静かに聞いていた。
 彼の声の震え、カップを持つ手の力み、そして瞳に浮かぶ涙。その全てが、彼が抱える恐怖の大きさを物語っている。 
「ああ、あの映画かぁ…」
と梓は誰言うでもなく呟いた。
 彼女の脳裏にも、彼が言及しているであろう、AIの進化と人間の未来を描いた作品が思い浮かんでいた。
 なるほど、と梓は顎に手を当て、視線を左上に向けわかりやすく思案する。
 数秒の沈黙の後、彼女の口から出てきた言葉は、意外なものだった。
 「田中さん、AIって使ったことあります?」
 その声は、先ほどまでの共感的なトーンとは少し異なり、どこか好奇心を帯びた響きを持っていた。
 田中は、梓のその唐突な質問に、一瞬言葉を失ったように彼女を見つめ返す。涙で潤んでいた目が、驚きに見開かれた。
 梓は、そんな彼の反応を意に介する様子もなく、テーブルの上に置きっぱなしのままだった自分のタブレット端末に手を伸ばすと、慣れた手つきでキーボードを装着した。そして立ち上がり彼の隣の椅子を少し引き寄せ、肩が触れ合うほどの距離に陣取ると、タブレットの画面を彼の方に向けながら、にっこりと微笑んだ。
「ちょっと、AIで遊んでみませんか?」
 田中は驚きで目を丸くすると、
「は? 遊ぶ?」
という想像よりも情けない自分の声が田中には聞こえた。
 彼の頭の中では、「AI=恐怖の対象、仕事を奪う存在」という図式が固まっており、梓の「遊ぶ」という言葉は、あまりにも場違いで、理解不能なものに感じられたのだ。
 長年勤めてきた会社での自分の立場、積み上げてきたキャリア、そして迫りくる未来への不安。それらが一瞬にして吹き飛ぶような、あまりにも軽やかな提案だった。
「田中さん、タイピング得意そうですよね」
 梓は、そんな彼の戸惑いをまるで気にする風もなく、タブレットの画面を指さしながら続けた。その指先が示したのは、シンプルなテキスト入力画面だった。 「え、あ、まあ…仕事でずっと使ってきましたから…人並みには…」
 田中は、梓の突然の話題転換に戸惑いつつも、反射的に答える。彼の指は、長年の事務作業でキーボードに馴染んでいる。ブラインドタッチも、若い頃に必死で覚えたものだ。
「じゃあ、ここに何か、AIに聞いてみたいこととか、作ってほしい文章とか、何でもいいので打ち込んでみてください。例えば…そうですね、『AIについての短い詩を書いて』とか、『今日の天気で一句詠んで』とか、本当に簡単なことでいいので」
 梓は、悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。その親しみやすい笑顔と、肩が触れ合うほどの距離感に、田中は知らず知らずのうちに少しだけ緊張が解けていくのを感じた。目の前の女性は、自分の抱える深刻な悩みを茶化しているわけではない。しかし、彼女の提案は、あまりにも突拍子がなく、そしてどこか楽しげだった。
「…詩、ですか…」
 田中は呟き、目の前のタブレットのキーボードに視線を落とした。
 AIに詩を書せる?
 そんな発想は、これまで一度も持ったことがなかった。AIとは、もっと無機質で、効率的で、そして人間の仕事を奪う冷徹な存在だとばかり思っていたからだ。
 田中が両手をキーボードに乗せたまま固まっていると、「もーっ」と梓は少しだけ子供っぽい、しかし有無を言わせない口調で言うと、彼の横からタブレットをひょいと奪い取った。そして、驚くほどの速さで何かを打ち込み始める。カタカタカタ、と軽快なタイピング音が静かな店内に響いた。
「え、あ、あの…橘さん?」
 田中は、梓の突然の行動にさらに戸惑い、声をかけるが、彼女は画面に集中したまま、人差し指を口の前に立てて「しーっ」というジェスチャーをするだけだ。その真剣な横顔は、先ほどまでの柔らかな雰囲気とは少し違い、何かに深く集中している職人のようだと、田中はぼんやりと思った。
 数秒後、梓は「よしっ」と小さく呟くと、タブレットの画面を再び田中に向けて差し出した。
「見てください、田中さん。これが、今のAIができることの一例です」
 梓を見つめていた田中は、恐る恐るタブレットに視線を移す。彼の指先が微かに震えているのに、梓は気づかないふりをした。画面に表示されていたのは、短い数行の文章だった。それは、梓が先ほど例に出した「AIについての短い詩」のようだった。
 そこには、こう書かれていた。
『鋼の思考、玻璃の心臓。
 夢を見るか、電子の羊。
 人の影追い、何を学ぶ。
 木漏れ日の下、共に在る未来(あす)を。』
 それは、確かにAIが作ったとは思えないほど、どこか情緒的で、そして最後の行には、この店の名前である「木漏れ日」という言葉まで入っていた。
 梓が入力していた内容が気になり、田中はタブレットにそっと手を伸ばし、画面を上にスクロールさせた。そこには、梓がAIに入力したであろう指示文が表示されていた。
『「Cafe&Bar 木漏れ日」という店で、AIについて不安を感じている五十代の男性に贈る短い詩を、希望を込めて作ってください。詩のどこかに「木漏れ日」という言葉を入れてください。』
 田中は、その指示文と、生成された詩を交互に見比べた。そして、ゆっくりと顔を上げ、隣に座る梓の顔を見た。彼女は、悪戯が成功した子供のような、それでいて全てを見通しているような、不思議な微笑みを浮かべていた。
 梓の笑みにつられて笑った田中は、そのまま独り言の様に「すごいですね」と言う。その声には、先ほどまでの恐怖や不安とは質の異なる、純粋な驚嘆と、ほんの少しの安堵が混じっていた。
「AIが…詩を…」
 彼は、もう一度タブレットの画面に視線を落とし、詩の言葉を一つ一つ、確かめるように目で追った。
 「鋼の思考、玻璃の心臓」というフレーズは、彼が抱いていたAIの冷徹なイメージと重なるようでいて、どこか違う。そして、「木漏れ日の下、共に在る未来(あす)を」という最後の言葉は、まるで梓が彼に語りかけているかのように、温かく響いた。
「そうなんです。今のAIは、ただ計算したり、データを処理したりするだけじゃないんですよ」
 梓は、田中の心の変化を感じ取り、優しく言葉を続けた。
「もちろん、田中さんが心配されているように、仕事のあり方が変わっていくことは避けられないかもしれません。でも、それはAIが一方的に人間から何かを奪う、ということではないと思うんです」
 梓は、タブレットの画面をそっと指でなぞった。
「例えば、こうやってAIに詩を作ってもらうこともできる。これは、AIが“道具”として、私たちの表現を手助けしてくれている、ということですよね? AIは、使い方次第で、私たちの可能性を広げてくれるパートナーにもなり得るってことです」
 その言葉は、田中の心にゆっくりと染み込んでいくようだった。恐怖の対象でしかなかったAIに、「パートナー」という新しい側面があるのかもしれない。そんな考えは、彼にとって目から鱗が落ちるような感覚だった。
「私、文章がものっすごく苦手で、最近はよく手伝ってもらってるんですよ」
 梓は、少し照れたように頭を掻きながら言った。
「派遣ソムリエって、色々な書類を作ったり、メールを書いたりすることも多いんですよ。そういう時、AIに『こういう内容で、丁寧な言葉遣いのメールを作って』とか、『この資料の要点をまとめて』とかお願いすると、あっという間に作ってくれるんですよ。もちろん、最後は自分でちゃんと確認して手直ししますけど、たたき台があるだけで、すごく助かるんです」
 彼女は、今度はタブレットの画面を操作し、いくつかの文章作成の例を田中に見せた。それは、ビジネスメールの文面だったり、会議の議事録の要約だったり、あるいは新しい企画のアイデア出しのようなものだったりした。どれも、田中が日常業務で目にしたり、作成したりする類の文章だ。
「へえ…こんなことも…」
 田中は、食い入るように画面を見つめる。AIが詩を作るというのも驚きだったが、自分の仕事に直結するような文章を、これほど自然に、かつ迅速に生成できるという事実は、彼にとってさらに大きな衝撃だった。それは、恐怖とは違う、純粋な驚きと、そしてほんの少しの興味だった。
「どうです? 田中さんも、何かAIに作ってもらいたい文章、ありますか? 例えば、そうですね…奥様に送る、ちょっと気の利いた感謝のメッセージとか?」
 梓は、再び悪戯っぽく笑いながら、キーボードを田中の方にそっと押しやった。
 田中は、梓のその言葉に、一瞬顔を赤らめたが、すぐに真剣な表情になり、キーボードに視線を落とした。そして、おもむろに指を動かし始めた。その動きは、最初はぎこちなかったが、次第に慣れたものへと変わっていく。カタカタ、という軽快な音が、再び店内に響き始めた。
 梓は、そんな彼の様子を、満足そうに、そして温かく見守っていた。
 彼の指が紡ぎ出す言葉が、AIという新しい道具を通じて、どのような形になって現れるのか。それは、彼自身の心の奥底にある、まだ彼自身も気づいていないかもしれない「何か」を引き出すきっかけになるかもしれない。そんな予感を、梓は感じていた。
 いつの間にか、窓の外の日差しはさらに傾き、店内に差し込む木漏れ日の形も変わってきている。二人の間には、先ほどまでの重苦しい沈黙ではなく、キーボードの音と、時折交わされる梓の優しい相槌、そして田中のかすかな呟きだけが響いていた。
 AIという未知の存在への恐怖は、まだ完全には消えていないかもしれない。しかし、田中の心の中には、それとは違う、新しい感情が芽生え始めているのは確かだった。
 それは、ほんの小さな好奇心と、もしかしたら、という淡い期待。
 梓は、その小さな変化を、まるで貴重な新芽を育むように、静かに、そして辛抱強く見守り続けるのだった。
 ことり、と梓と田中の目の前に、新しいコーヒーカップが置かれた。いつの間にか、最初のコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。顔を上げると、テーブルの傍らで、樹が柔らかく微笑んでいる。
 どの位こうして居たのだろうか、外はとっぷりと日が暮れ、街灯がそこここに灯り始めていた。窓の外の喧騒も、昼間とは違う、落ち着いた夜の音色に変わっている。
「あ…もう、こんな時間ですか」
 田中が、タブレットから顔を上げ、少し驚いたように呟いた。
 彼の顔には、来店時には見られなかった、ほんのりとした高揚感と、何かに夢中になった後のような心地よい疲労感が浮かんでいた。
「夢中になっちゃいましたね。奥さんへのラブレター作り」
 梓も微笑み返し、新しいコーヒーに口をつけた。その温かさが、心地よく身体に染み渡る。
「いや…その…橘さんのおかげで…その、AIというものが、少しだけ…怖くなくなった、ような気がします」
 田中は、まだ少し言葉を選びながらも、はっきりとした口調で言った。その目には、先ほどの詩を見た時とはまた違う、確かな手応えを感じているような光が宿っていた。
「それはよかったです」
 梓は心からそう言った。
 恐怖は、知らないことから生まれることが多い。AIという未知の存在に、実際に触れてみることで、田中さんの心の中にあった漠然とした恐怖が、具体的な理解へと変わり始めたのかもしれない。
 田中がコーヒーに口を付けたのを見て、梓はにっこりと微笑んだ。
「この後、具体的な提案に進むのがいつもの流れなんですが、今日はもう遅くなってしまいましたし、田中さんもお疲れでしょう。もしよろしければ、続きは別の日にしませんか?」
 それから、「ただ…」と少し言いにくそうに言葉を続けた。
「そろそろ、お店のバータイムの準備を始めないといけない時間でして。もし田中さんさえよろしければ、カウンター席にお移りいただいて、もう少しお話しするのはいかがでしょう? 私は、バーテンダーとしてカウンターに立ちますので」
 そう言って、梓はカウンターの方を指差した。そこでは、樹が静かにグラスを磨き始めており、店内の照明も心なしか少しだけ落ち着いた色合いに変わってきているように見える。
 田中は、梓の提案に一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに何かを察したように頷いた。
「バーテンダー…そうでしたか。橘さんは、派遣ソムリエ以外にも…」
 彼の声には、新たな発見に対する驚きと、そして納得が混じっていた。
 梓の落ち着いた物腰、鋭い観察眼、そして時に見せる大胆な発想。それらが、バーテンダーという職業と結びついた瞬間、彼の中で何かがすとんと腑に落ちたのだろう。
「ええ。実はそっちが本職でして」
 梓は悪戯っぽく笑う。
「なので、もしお時間がおありでしたら。もちろん、無理にとは申しません。日を改めて」
「じゃあ、一杯だけ頂きます」
 田中は、今度は迷うことなく、はっきりとした口調で答えた。彼の顔には、もう来店時の不安の色はなく、むしろ新しい世界への好奇心と、梓という人間への信頼感が浮かんでいた。
 カウンターに移動した田中は、梓が手際よくバーの準備を進めるのを、どこか興味深そうに眺めていた。
 テーブル席とはまた違う、カウンター越しの距離感が、彼に新たな心地よさを与えているのかもしれない。梓に半ば押し付けられるようにして使い始めたタブレットで、AIとの「遊び」の続きを楽しんでいる。時折、小さく「ほう」とか「なるほど」とか呟いているのは、AIの意外な応答に感心しているのだろう。
 梓は、白いシャツの袖を軽くまくり、黒いベストのボタンをしっかりと止め直し、髪を少し高い位置で結び直すとカウンターの内側に立った。昼間の柔らかな雰囲気とは少し異なり、そこにはプロのバーテンダーとしての凛とした空気が漂っている。
「お待たせいたしました、田中さん」
 梓の声は、先ほどよりも少しだけ低く、落ち着いたトーンに変わっていた。
「何をお作りしましょうか?」
 田中は、手元のタブレットを感謝の言葉を言って梓の方に押しやり、少し考えてから、「お任せで」と伝えた。
 その声には、先ほどまでの緊張感はなく、むしろ目の前のバーテンダー、橘梓への信頼と、ほんの少しの期待が込められているようだった。AIとの「遊び」で少しだけ心が軽くなった彼は、今度は梓が作り出す「何か」に触れてみたい、そんな気持ちになっているのかもしれない。
「かしこまりました。では、今の田中さんの心境に合うようなものを、お作り致します」
 梓は、彼の言葉に軽く頭を下げると、カウンターの向こうで、いくつかのボトルに視線を巡らせ始めた。その真剣な眼差しは、まさにこれから一つの作品を生み出そうとする職人の様だ。
 そこから田中は、梓の美しい所作に目を奪われた。
 磨き上げられたシェイカーを手に取り、氷を入れる音、リキュールをメジャーカップで正確に計量し、リズミカルにシェイクする一連の動き。そのどれもが無駄がなく、洗練されていて、まるで一つの舞踏を見ているかのようだった。
 昼間の彼女が見せた親しみやすさとはまた違う、プロフェッショナルとしての厳しさと美しさがそこにはあった。
 そして、なぜだろうか。その梓の姿に、年を取ってずいぶん口うるさくなったと感じている妻の若い頃の姿が、ふと重なって見えたのだ。
 結婚する前、彼女もまた、何か自分の仕事に真剣に打ち込んでいる時、こんな風に凛とした美しい横顔をしていたような気がする。いつの間にか忘れてしまっていた、大切な記憶の断片。それが、梓のシェイカーを振る音と共に、田中の心の奥底から静かに蘇ってくるようだった。
「ギムレットです」
 凛とした声と共に、淡い緑色の液体が満たされたカクテルグラスが、田中の目の前にそっと置かれた。グラスの縁には、ライムの薄切りが上品に飾られている。梓がシェイカーを置く音、そしてグラスがコースターに触れる微かな音だけが、静まり返ったバーカウンターに響いた。
 田中は、目の前のカクテルをしばらく見つめていた。
 ギムレット。
 若い頃、少し背伸びをして、バーでカッコつけて飲んでいたのを思い出した。当時は、そのドライな味わいの奥にある複雑さなど分かりもせず、ただ「大人の酒」という響きに酔っていただけだったような気がする。
「…ギムレット、ですか」
「はい。ジンとライムのシンプルなカクテルですが、それだけに奥が深いんです。今の田中さんには、何か感じていただけることがあるかと思いまして」
 梓は、静かにそう言うと、カウンタークロスで手元を拭い、田中の反応を待った。彼女の表情からは、先ほどまでの悪戯っぽい笑顔は消え、真摯なバーテンダーとしての顔が覗いている。
 梓は、カウンターの向こうから、穏やかな、しかし芯のある声で続けた。
「先ほど、AIと触れ合っていた時の田中さん、とても生き生きとした表情をされていました。そしてどうやら、このギムレットは、田中さんの若い頃の記憶を呼び覚ましたようですね。もしかしたら、田中さんが本当に怖いのは、AIそのものではなく、AIによって変わってしまうかもしれない未来の中で、ご自身がどう在りたいのか、その“いつわりのない心”と向き合うことなのかもしれませんね」
 梓の言葉は、静かに、しかし確かに田中の心に届いていた。
 彼女は、ただカクテルを作るだけではない。その一杯に、相手への深い洞察と、未来への希望を込めている。それが、派遣ソムリエであり、バーテンダーである橘梓のやり方なのだと、田中は思った。
 それから田中は、心の中を見透かされた事に気付いて恥ずかしくなった。顔が赤くなるのを感じ、それを誤魔化すように、目の前のギムレットに手を伸ばした。ひんやりとしたグラスの感触が、火照った手のひらに心地よい。
 美しい緑色を見つめながら口にした田中は、「うまい」と自然と口にした。
 それは、若い頃に背伸びして飲んでいた時とは全く違う、純粋な称賛の言葉だった。ジンのシャープな香りとライムの爽やかな酸味、そしてそれらをまとめ上げる確かな技術。その一杯は、彼の心の中にあった靄のような不安を、さらに晴らしてくれたような気がした。
 暫く不思議そうに持ち上げていたギムレットを見つめると、一気にあおる。カッと喉が熱くなり、ジンの強いアルコールが身体に染み渡っていくのを感じた。
 若い頃に感じた、ただ苦いだけ、強いだけという印象とは違う。キレのある爽快感と、その奥にある複雑な風味が、今の彼の心境に不思議とフィットした。まるで、心の奥底に溜まっていた澱のようなものが、この一杯で洗い流されていくような感覚だった。
「ギムレットのカクテル言葉は、『遠い人を想う』…そして、『いつわりのない心』とも言われています」
「…もう一杯、いただけますか」
 グラスをカウンターに置いた田中は、先ほどまでの彼とは別人のように、はっきりとした声で梓に言った。その目には、もう迷いの色はなく、何か新しい決意のようなものが宿っているように見えた。
「かしこまりました」
 そう答えて、梓は再びシェイカーを振るう。その音は、先ほどよりも力強く、そしてどこか楽しげに店内に響き渡った。彼女の瞳にも、田中の変化を喜ぶような、温かい光が灯っている。
 田中は、二杯目のギムレットが作られるのを、今度はリラックスした表情で見守っていた。
 AIへの恐怖は、完全には消え去ってはいない。しかし、この「Cafe&Bar 木漏れ日」という場所と、橘梓という不思議な女性、そして彼女が作る一杯のカクテルが、自分の中にあった何かを変え始めている。そんな確かな予感を、彼は感じていた。それは、新しい未来への、ほんの小さな、しかし確かな一歩なのかもしれない。
 再び目の前に置かれたギムレットを、今度はゆっくりと味わいながら、田中は梓に独り言のように零す。
「…若い頃はね、こういうの、よく飲んだんですよ。味なんて、分かりもしないくせにね。ただ、バーのカウンターでギムレットを頼む自分が、なんだか大人になれたような気がして…格好つけてただけなんですけどね」
 自嘲するでもなく、かといって自慢するでもなく、ただ淡々と、昔の自分を振り返るように田中は言った。その声は、もう来店時のような張り詰めたものはなく、肩の力が抜けた自然な響き。
「ふふ、そういうの、ありますよね」
 梓は、シェイカーを磨きながら、優しく相槌を打つ。彼女の表情も、バーテンダーとしての真剣さの中に、ほんの少しだけ親しみやすい柔和さが滲む。
「私も、カウンターに立ち始めた頃は、背伸びして難しいカクテルばかり作ろうとして、失敗ばかりしていましたよ」
 そんな梓の言葉に、田中は少し驚いたように彼女を見た。完璧に見える彼女にも、そんな時代があったのか、と。
「でも、それをずっと持ち続けられる人が一流になるのかなって、最近思うんです」
と梓は田中と目が合っているのに、どこか遠くを見つめるように言った。その言葉は、彼に言っているようでいて、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
 長年カウンターに立ち、多くの人生模様を見てきた彼女だからこそ言える、重みのある言葉だった。
 梓の言葉を吟味する様に見つめた後、田中はかろうじて残っている手元の緑色に視線を落とした。グラスの底に残ったギムレットの残滓が、バーの柔らかな照明を受けてきらりと光る。それはまるで、彼の心の中に灯った小さな希望の光のようにも見えた。
「…一流、ですか」
 田中は、梓の言葉を反芻するように呟いた。
 自分は、一流などという言葉とは無縁の、ただ日々の業務に追われるだけの平凡なサラリーマンだと思っていた。しかし、梓の言葉は、そんな彼の心の奥底に眠っていた、何か別の感情を呼び覚ますようだった。それは、諦めや無力感ではなく、もしかしたら自分にもまだ何かできるのではないか、という淡い、しかし確かな期待感だった。
「橘さんは…一流のバーテンダーですね」
 田中は、グラスに残った最後の一滴を惜しむようにゆっくりと飲み干すと、静かに、しかし確信を込めて言った。
「そして、だからこそ…一流の派遣ソムリエにも、なられるんでしょうね」
 暫く黙った田中は、ごちそうさまでしたと立ち上がり、スーツの内ポケットから財布を取り出すと、千円札を三枚、カウンターの上にそっと置いた。その所作には、来店時には見られなかった、どこか背筋の伸びた、落ち着きのようなものが感じられた。
 梓はその三千円を田中に押しやり、
「これは派遣ソムリエの代金に含まれておりますので」
と微笑んだ。その笑顔は、プロのバーテンダーとしてではなく、彼の心を少しでも軽くしようとする、一人の人間としての温かさに満ちていた。
 田中はそれをさらに押しやり、
「これは純粋に美味しいお酒へです」
と言った。その声には、先ほどまでの彼にはなかった、どこか頑固な、しかし心地よい響きがあった。
 梓は、田中の言葉と、その声に込められた決意のようなものを静かに受け止め、彼の瞳の奥にある感情を推し量るように、数秒間、じっと彼を見つめた。そして、彼の変化を嬉しく思いながら、
「…そうですか。では、お言葉に甘えさせていただきます」
と静かに三千円を受け取った。
 田中は、来た時よりも軽くなった足取りで、店の出口へと向かおうとして驚いた。今まで背にしていた店内のテーブル席が、いつの間にかほぼ満席になっていることに気づいたからだ。
 梓との会話に集中していたせいか、あるいはこの店の持つ静けさのせいか、これほどの客がいるとは思いもしなかったのだ。こんなに静かなのに。
 ドアを開ける直前、彼は一度だけ振り返り、カウンターの中に立つ梓に向かって、深々と頭を下げた。
「…少し、あがいてみます」
 その言葉は、誰に言うでもなく、しかし確かな決意を秘めて、静かなバーの空間に響いた。
 梓は、彼のその背中を、静かに、そして温かく見送った。



2.紫色の夜明け

 季節は初夏から梅雨へと移ろい、湿り気を帯びた夜風が街を包み込み始めた頃。 「Cafe&Bar 木漏れ日」の店内には、ジャズピアノの旋律が静かに、そして物憂げに流れていた。雨音とピアノの旋律が溶け合い、琥珀色の照明に照らされた空間は、外界から切り離されたシェルターのような安らぎを醸し出している。
 カウンターの奥で、橘梓は無心にグラスを磨いていた。クリスタルガラスの表面が照明を反射し、星のような煌めきを放つ。その手つきは一定のリズムを保ち、見ているだけで心が整うような静謐さがあった。
 カラン、とドアベルが鳴ったのは、時計の針が午後八時を回った頃だった。
 湿った空気と共に店に入ってきたのは、数週間前にこの店を訪れ、AIへの恐怖を吐露した男性、田中だった。
 以前のような、何かに追いつめられたような悲壮感はない。背筋は伸び、スーツの着こなしにも余裕が感じられる。しかし、その表情はどこか晴れない。眉間には深い皺が刻まれ、迷いを含んだ瞳が、カウンターの中の梓を捉えた。
「いらっしゃいませ、田中さん」 
 梓は磨いていたグラスを置き、柔らかい笑みを向けた。
 田中は安堵したような表情で、深く頭を下げた。 
「……ご無沙汰しております。その節は、お世話になりました」
「いいえ、こちらこそ。あの日、とても熱心にAIと“対話”されていたお姿、よく覚えていますよ」
 梓の言葉に、田中は照れくさそうに頬を掻きながら、カウンターの端の席に腰を下ろした。
 樹がすぐに温かいおしぼりと水を持ってくる。田中は丁寧に礼を言い、おしぼりで顔を拭うと、ふぅと長い息を吐いた。それは、一日の、いや、ここ数週間の緊張を解くような、重たい溜息だった。
「その後、お仕事はいかがですか?」
 梓が水を差し出しながら尋ねる。
 田中は水を一口飲み、コップを置くと、少しだけ誇らしげな顔をした。
「ええ、おかげさまで。あの日、ここで教えてもらったことをきっかけに、恐る恐るですが業務にAIを取り入れてみたんです。最初は部下たちも半信半疑でしたが、議事録の作成や資料の要約なんかを任せてみたら、これが驚くほど効率的でしてね」
 田中の口調が熱を帯びる。 
「空いた時間で、部下たちと直接話す時間を増やしました。そうしたら、今まで見えてこなかった現場の問題点や、彼らの新しいアイデアが出てきて……。先日、会議でその成果を発表したんですが、上層部の評価も上々でしたよ。『田中君、変わったな』なんて言われましてね」 
「それは素晴らしいですね」
 梓は心から称賛した。彼女の瞳には、相談者が自らの足で一歩を踏み出したことを喜ぶ、温かい光が宿っている。
 しかし、田中の笑顔は長くは続かなかった。ふと、視線をカウンターの木目に落とし、またしても深い沈黙が落ちる。
 成功体験を語った直後だというのに、彼が纏う空気は急速に重く、沈んでいくようだった。
 梓は何も言わず、ただ静かに彼の次の言葉を待った。バーテンダーとして、そして派遣ソムリエとして、沈黙もまた重要な会話の一部であることを彼女は知っている。
 やがて、田中は意を決したように、重い口を開いた。
「……橘さん。仕事は、順調なんです。数字という目に見える結果が出るし、効率化という明確なゴールもある。AIという新しい道具は、そのための強力な武器になってくれました。でも……」
 言葉が詰まる。田中は、まるで助けを求めるように梓を見た。
「家に帰ると、どうも上手くいかないんです」
「ご家庭の、ことですか?」
「はい。……実は、妻に、この変化を伝えたいんです。仕事が楽しくなったこと、新しいことに挑戦していること、そして、自分が少し変われたかもしれないということ。でも、いざ彼女を前にすると、言葉が出てこないんです」
 田中は苦しげに顔を歪めた。
「長年、私は家で仕事の愚痴ばかりこぼしていました。『疲れた』『時代についていけない』『会社は何も分かっていない』……そんなネガティブな言葉ばかりを、妻に浴びせ続けてきたんです。彼女はそれを、ただ黙って聞いてくれていました。いや、聞き流していたのかもしれません」
 彼は自嘲気味に笑った。
「そんな私が、今さら目を輝かせて『仕事が楽しい』だなんて……虫が良すぎるんじゃないかと思ってしまうんです。それに、AIを使って効率化したなんて話をしても、『また何か変なものに被れたんじゃないか』と呆れられるのが怖くて」
 仕事という論理の世界ではAIを使いこなせても、家庭という感情の世界では、どう振る舞えばいいのか分からない。効率化できない、最適解のない人間関係の迷路に、彼は迷い込んでいた。 
「先日も、夕食の時に話そうとしたんです。でも、妻が黙々と食事をしている姿を見たら、喉まで出かかった言葉が引っ込んでしまって……。結局、『おいしい』の一言さえ言えずに、逃げるように自室に籠ってしまいました」
 田中の肩が小さく震えている。
 それは、AIへの恐怖とはまた違う、より根源的で、人間らしい切実な悩みだった。大切な人に、自分の変化を伝えられないもどかしさ。長年積み重ねてしまった「諦め」や「惰性」という壁の厚さに、彼は打ちのめされていた。
「……奥様と、ゆっくりお話しする時間はありますか?」
 梓の静かな問いに、田中は力なく首を振った。 
「いや、最近は仕事が面白くて、ついつい帰りが遅くなることも多くて……休日は休日で、平日の疲れをとるために寝てばかりですし。妻も、地域の活動や習い事で忙しいようで、すれ違いばかりです」
「そうですか……」
 梓は顎に手を当て、少し考え込んだ。
 田中の抱える問題は、単なるコミュニケーション不足ではない。自分自身の変化を肯定しきれていない自信のなさと、妻に対する「今更」という気後れ、そして何より、言葉を超えた「心」の伝え方を見失っていることにあるように思えた。
 梓は、カウンターの奥からいくつかのボトルを取り出した。
 無色透明なウォッカ。
 鮮やかな青色のブルーキュラソー。
 そして、情熱的な赤色のクランベリージュース。
 それらをカウンターの上に並べると、梓は田中の目をまっすぐに見つめて言った。
「田中さん。今日は、既存のレシピではなく、今の田中さんのためだけの、特別な一杯をお作りさせてください」
 田中は顔を上げた。
「私だけの……一杯ですか?」
「はい。AIへの恐怖を乗り越え、仕事で新しい一歩を踏み出した、今の田中さん。そして、その変化を大切な人に伝えたいと願っている、その心にこそふさわしいカクテルです」
 梓は静かに頷くと、カクテルメイクに入った。
 まずは、ミキシンググラスに氷を入れる。カラン、という硬質な音が、静かな店内に響く。
 そこに、ウォッカを注ぐ。無味無臭、純粋なアルコール。それは、何色にも染まることのできる、田中の「可能性」の象徴。
 次に、ブルーキュラソー。鮮烈な青。それは、彼がかつて抱いていた不安や恐怖、そしてAIという冷徹な知性、論理の世界を表している。
 そして最後に、クランベリージュース。深紅の液体。それは、田中の中にある情熱、温かさ、そして奥様を想う切ないほどの愛。
 梓はバースプーンを手に取ると、静かに、しかし力強くステアを始めた。
 氷と液体が混ざり合い、回転する。青と赤が溶け合い、新しい色へと変化していく。
 梓の視線は、グラスの中の渦に吸い込まれるように真剣だ。田中の迷いを断ち切り、勇気を与えるための祈りを込めるように、彼女はステアを続ける。
 やがて、彼女はステアを止め、グラスにストレーナーを被せると、用意していたフルート型のシャンパングラスに、その液体を注ぎ込んだ。
 とろりとした液体が、グラスの底に溜まっていく。
 さらに梓は、最後に炭酸水を静かに満たし、軽くステアして、マドラーを添えた。
「お待たせいたしました」
 梓が差し出したグラスの中には、美しい紫色の液体が揺らめいていた。
 底の方から立ち上る無数の炭酸の泡が、店内の照明を受けてキラキラと輝き、まるで夜空に瞬く星々のようだ。
 田中は、その幻想的な色合いに息をのんだ。
「これは……綺麗な色ですね。紫、ですか」
「『夜明け』です」
 梓は、カクテルに名付けた名前を、静かに、しかしはっきりと告げた。
「夜明け……」
「はい。青は、田中さんが感じていた不安や、AIという冷徹な知性、そして孤独な夜。赤は、田中さんの中にある情熱や、奥様を想う温かい心、そして昇る太陽。その二つが混ざり合うことで、夜明け前の空のような、深く美しい紫色が生まれます」
 梓は、グラスを指先でそっと示した。
「AIと人間、仕事と家庭、論理と感情。それらは決して相反するものではありません。どちらか一つを選ばなければならないものでもありません。田中さんの中で、それらが混ざり合い、新しい調和が生まれる。このカクテルは、そんな“共生”と、暗い夜が明けていく“始まり”をイメージしました」
 田中は、グラスを見つめたまま、しばらく動かなかった。
 夜明け。
 それは、暗い夜が終わり、新しい一日が始まる瞬間。
 不安と希望が入り混じる、一日の中で最も美しく、厳かな時間。
 彼は、震える手でそっとグラスを手に取り、口元へ運んだ。
 一口、口にする。
 炭酸の爽快感が舌の上で弾け、その後にクランベリーの甘酸っぱさと、ブルーキュラソーのほろ苦さが広がる。ウォッカのアルコールが、冷たい液体のはずなのに、喉を通るとカッと熱くなり、胸の奥を温めていく。
「……美味しい」
 思わず漏れたその言葉は、心からのものだった。
 複雑で、それでいて調和のとれた味。甘いだけではない、酸っぱいだけでもない。大人の苦みも含んだ、深い味わい。
「混ざり合って……新しい色になる、か」
 田中は呟き、グラスの中の液体を揺らした。紫色の液体が、波紋を描く。
「私の心も、このカクテルのように、混ざり合ってもいいんでしょうか。仕事の効率を求める冷徹な自分と、妻との温かい時間を求める自分。AIに頼る自分と、人間らしい感情を大切にしたい自分……」
「もちろんです」
 梓は、優しく、しかし力強く頷いた。
「むしろ、混ざり合うからこそ美しいんです。田中さんがAIを受け入れたように、ご自身の中にある矛盾も、変化も、すべて受け入れてみてください。それはきっと、奥様にとっても、新しい田中さんの魅力として映るはずです」
 梓は、少し身を乗り出して、田中の目を見た。
「このカクテル、どう思われました?」
「とても……綺麗だと、思いました。味も、複雑で、でも優しくて……」
「では、その感想を、そのまま奥様に伝えてみてはいかがでしょう」
「え?」
「奥様も、この色を綺麗だと言ってくれるでしょうか」
 梓の問いかけに、田中はグラスを見つめ直し、少し考えてから、恥ずかしそうに、しかし微かな希望を込めて言った。
「……妻は、紫が好きなんです。昔、結婚したばかりの頃、紫陽花の名所にデートに行ったことがあって……『この色が一番落ち着くの』と、笑っていたのを思い出しました」
「素敵ですね」
 梓は満面の笑みを浮かべた。
「きっと、言ってくださいますよ。『綺麗ね』って」
「……そうですか。そう、ですよね」
 田中の表情が、ふわりと緩んだ。
「言葉で上手く説明しようとしなくていいんです。『仕事で成果が出た』とか『効率化した』なんて報告じゃなくていい。ただ、『君と一緒に、綺麗なものが見たい』『美味しいものを飲みたい』。そう伝えてみてください。言葉にならなくても、その表情だけで、きっと伝わります」
 梓の言葉は、凝り固まっていた田中の思考を、優しく解きほぐしていくようだった。
 理屈ではない。成果でもない。ただ、感情を共有すること。
 それは、AIにはできない、人間だけに許された特権なのだ。
 田中は、グラスの中身を最後の一滴まで飲み干すと、グラスをカウンターに置き、深く、長く息を吐いた。その吐息と共に、迷いも不安も、すべて体から抜け出ていったかのようだった。
 顔を上げると、そこには、店に入ってきた時のような迷いはもうなかった。あるのは、夜明けを迎えた空のような、清々しい決意だけだった。
「……そうですね。難しく考えすぎていたのかもしれません。プレゼンのように、妻を説得する必要なんてなかったんだ」
 彼は、スーツの内ポケットから財布を取り出しながら、独り言のように呟いた。
「……今度、妻を誘ってみます。この店に。『紫色の綺麗なカクテルがあったから、飲みに行こう』って」
「はい、ぜひ。お待ちしております」
 梓は、最高の笑顔で応えた。
 田中は会計を済ませると、席を立ち、梓と樹に一礼した。その背筋はピンと伸び、入店時よりも一回り大きく見えた。
 ドアを開け、夜の街へと踏み出す彼の足取りは力強い。
 カラン、とドアベルが鳴り、彼が去った後の店内には、静かなジャズと、カクテルの残り香、そして温かい余韻だけが残っていた。



~後日談~

 季節は巡り、初夏の熱気も和らいだ秋の夜。
 「Cafe&Bar 木漏れ日」のドアベルが、カラン、と心地よい音を立てた。時刻は平日の夜八時を少し回ったところ。店内は、仕事帰りの客や、静かにグラスを傾ける常連客でほどよく賑わい、カウンターの向こうでは橘梓がバーテンダーとしてシェイカーを振る音がリズミカルに響いている。オーナーの四宮樹は、時折客と談笑しながらも、店全体の雰囲気に気を配っている。
 ドアを開けて入ってきたのは、数ヶ月ぶりに見る田中だった。
 以前よりもさらに顔色も良く、スーツの着こなしにも自信が感じられる。そして、彼の隣には、少し緊張した面持ちながらも、優しそうな笑顔を浮かべた同年代の女性が寄り添っていた。彼女が、田中が今度連れてくると言っていた田中夫人なのだろう。
「いらっしゃいませ」
 梓は、シェイカーを置くと、カウンターの中から温かい笑顔で二人を迎えた。その声に気づいた樹も、すぐに二人の元へ歩み寄る。
「田中さん、奥様も、ようこそお越しくださいました」
 樹の穏やかな声に、田中夫妻は少しだけ緊張を解いたように微笑み返した。
「こんばんは、橘さん、四宮さん。プロジェクトが一段落したので、今日は、妻を連れてきました」
 田中が、少し照れくさそうに、しかしはっきりとした口調で言う。その隣で、田中夫人が会釈した。
「先日は主人がお世話になりました。田中です」
 丁寧な言葉遣いと、柔らかな物腰が印象的な女性だった。
「とんでもございません。こちらこそ、ありがとうございます」
 梓はカウンターから出て、二人を空いていたテーブル席へと案内した。
「どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください」
 そう言って、梓は軽く会釈をすると、カクテルの続きを作るためにカウンターの中へと戻っていった。
 テーブルに落ち着いた田中夫妻は、どこか感慨深げに店内を見回している。特に田中は、数ヶ月前、AIへの恐怖に怯え、この場所で橘梓という派遣ソムリエに救いを求めた日のことを思い出しているのかもしれない。あの時とは全く違う、穏やかで前向きな気持ちで、今、彼はここにいる。
「お待たせいたしました」
 ふわりと、四宮樹がテーブルの傍らに現れた。その手には、温かいおしぼりと小さなメニューが二組ずつ、そして水の入ったグラスが二つ、品よくトレイに乗せられている。
「ようこそ、奥様。初めてお越しいただきましたのに、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。オーナーの四宮と申します」
 樹は、田中夫人に向かって丁寧に会釈すると、まず彼女の前に、次いで田中の前におしぼりと水のグラス、そしてメニューをそっと置いた。その一連の所作は、まるで水が流れるように自然で、見ているだけで心地よい。
「まあ、ご丁寧にありがとうございます」
 田中夫人は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべ、樹に会釈を返した。初めて訪れた店の、この細やかで温かいもてなしに、彼女の緊張も少し解けたようだ。
 メニューに視線を落とした田中夫人が、少し遠慮がちに樹に顔を向けた。
「あの…四宮さん。この年齢でお恥ずかしいのですが、実は私、こういう落ち着いたお店に伺うのは本当に久しぶりでして…少し、勝手がわからなくて」
 そう言って、彼女ははにかむように微笑んだ。その言葉には、戸惑いと共に、この店の雰囲気を楽しみたいという純粋な気持ちが滲んでいるように樹には感じられた。
 樹は優しく微笑んだまま、「そうですか」と穏やかに応じた。
「では例えば、食前でしたら、季節のフルーツを使ったカクテルなどもご用意できますよ。アルコールが苦手でしたら、ノンアルコールもございますし」
 樹は、メニューのドリンクページをそっと開き、いくつかのカクテルの写真を指差しながら説明する。
「もちろん、お食事を先にというのでも。うちは、お酒だけでなく、お料理も美味しいと評判なんですよ。特に、譲二さん…厨房で調理をしている彼が作る煮込み料理は絶品でして」
 そう言って樹が厨房の方に視線を送ると、タイミングよく、有栖川譲二が出来立ての料理を手に出てきた。その手には、湯気の立つ小さなココット皿が二つ乗っている。彼は田中夫妻に軽く会釈をした。その無骨ながらも温かい雰囲気に、田中夫人の緊張もさらに解けたようだ。
「まあ、煮込み料理…美味しそうですね」
 田中夫人は、少しだけ乗り出すようにしてメニューを見つめた。彼女の瞳には、先ほどまでの緊張の色はもうなく、代わりに好奇心と食欲が宿っているように見える。
「主人からは、こちらのお店のことは伺っておりましたが、お料理のことは聞いておりませんでしたので…でも、本当に美味しそう」
 彼女はそう言うと、隣に座る田中に同意を求めるように視線を送った。田中もまた、穏やかな笑顔で頷いている。
「では、まずはお食事からにいたしましょうか。お食事ができるまで、軽めのカクテルでも作りますね」
 樹の優しい問いかけに、田中夫人は少し考えてから、嬉しそうに微笑んだ。
「苦手な食べ物はありますか?」
 樹のその言葉に、田中夫人は少し首を傾げ、それから言った。
「そうですねえ…特にこれといって苦手なものはありませんけれど…主人は、昔からキノコ類が少し苦手でして」
「おい、余計なことを」
 田中が慌てて口を挟むが、田中夫人は悪戯っぽく笑って受け流す。そのやり取りは、長年連れ添った夫婦ならではの、気兼ねない温かさに満ちていた。
「あら、本当のことでしょう? あなた、椎茸の煮物とか、いつも私にこっそり押し付けてくるじゃない」
「それは…その…」
 しどろもどろになる田中の様子に、樹は思わず笑みをこぼした。
「かしこまりました。では、キノコ類は控えめにして、何かお二人のお口に合いそうなお料理を、ウチのシェフと相談してご用意させていただきますね」
 樹はそう言うと、再び丁寧に会釈をし、厨房へと戻っていった。
 ちょうどその時、別のテーブルへのサーブを終えた梓が、軽やかな足取りで田中夫妻のテーブルへとやってきた。その手には、空のグラスが握られている。
「失礼します。お料理ができるまでのお飲み物は何にされますか、奥様? 例えば何かお好きなフルーツや、お酒の強さのご希望などはございますか? もちろん、ノンアルコールでもお好みのものをお作りできますよ」
 梓は、にこやかに言った。その言葉と表情には、田中夫妻への歓迎の気持ちが溢れている。
 梓の問いかけに、田中夫人は少し考えるそぶりを見せた後、はにかみながら答えた。
「そうですね…でしたら、あまり強くなくて、何かこう…すっきりとするようなものがいただけると嬉しいです。フルーツも好きですけれど…甘すぎるのは少し苦手でして」
「かしこまりました。すっきりとして、フルーティーなものですね」
 梓はにっこり笑うと、カウンターの中に戻り、手際よくカクテルの準備を始めた。
 いつの間にかカウンターに戻っていた樹と、梓が小声で何かを相談している。その親密な様子をテーブル席から見ていた田中夫妻。田中夫人は、ふと自分のことばかりで、夫の飲み物を頼み忘れていたことに気づいた。
「あら、あなたの分を頼み忘れていたわ。ごめんなさい、自分ばかりで。何かお飲みになる?」
 慌てて田中に尋ねる田中夫人に、田中は優しく微笑んで首を横に振った。
「いや、僕は大丈夫だよ。君が楽しんでくれれば、それでいい」
 それにと田中は続け、
「それに、僕の分は頼まなくても、橘さんが何かぴったりのを出してくれるだろうからね」
と、微笑んで梓の方に視線を送った。その言葉には、梓への絶対的な信頼と、そしてほんの少しの期待が込められているようだった。
 そんな夫の様子を不思議そうに見つめた田中夫人は、再び梓に視線を向けた。
 カウンターの中の梓は、田中夫人の好みに合うように、いくつかのボトルを手に取り、その香りや色合いを確かめている。その姿は、プロのバーテンダーとしての凛とした集中力に満ちていた。
 磨き上げられたシェイカーに氷を入れ、リキュールをメジャーカップで正確に計量し、リズミカルにシェイクする。一連の動きは淀みなく、まるで美しい舞踏を見ているかのようだ。
 田中夫人は、その無駄のない洗練された所作から目が離せなくなっていた。こんな風に何かに真剣に打ち込む人の姿を見るのは、本当に久しぶりかもしれない。そう思っているうちに、あっという間にカクテルは完成したようだった。
 梓が、繊細なカッティングの施されたグラスを手に、再びテーブルへとやってきた。
「お待たせいたしました」
 そう言って、彼女の目の前にそっと置かれたのは、淡いピンク色をした、見た目にも美しいカクテルだった。グラスの縁には、薄くスライスされたイチゴとミントの葉が上品に飾られている。
「旦那様には、特別な一杯を」
 梓がそう言ってカウンターの中の樹に目で合図を送ると、樹はにこやかに頷き、慣れた手つきで別のグラスに琥珀色の液体を注ぎ始めた。大きな丸い氷がカランと音を立てる。
 程なくして、樹がそのロックグラスを田中の前に静かに置いた。
「ギムレットです」
 樹は穏やかに微笑む。
「ギムレット…?」
 田中が、目の前に置かれた深い琥珀色の液体に、驚いて梓と樹に尋ねた。
 前回梓が作ってくれた、一般的に見る淡い緑色のギムレットとは似ても似つかない。これは本当にギムレットなのだろうか、と。
 樹は、田中のその驚いた表情に微笑み返し、ゆっくりと口を開いた。
「ええ、ギムレットです。これは、私が昔から好んで作っているスタイルなんです。今回はジンを少し熟成感のあるものに変えて、ライムもフレッシュなものと、少しだけコーディアルを加えて深みを出しています」
 田中は、改めて目の前のグラスを見つめる。深い琥珀色の液体は、確かに一般的なギムレットのイメージとは異なるが、樹の言葉を聞くと、なるほどと頷けるものがあった。そこには、樹の長年の経験と、そして彼自身の人生が溶け込んでいるかのようだった。
 田中夫人は、夫の前に置かれた琥珀色のギムレットと、自分が頼んだ淡いピンク色のカクテルを興味深そうに見比べながら、不思議そうに首を傾げた。
「ギムレットって、もっとこう…緑色じゃありませんでした? 昔、主人とバーに行っていただいた時、そういう色だったと思ったのだけれど…」
 彼女の言葉には、悪気はなく、純粋な疑問が込められている。
 樹は、その田中夫人の言葉に、にこやかに頷いた。
「よくご存知ですね、奥様。確かに、一般的にギムレットといえば、ライムの色が映える淡い緑色のものが多いですね。梓ちゃんが作るギムレットも、そちらのタイプです」
 樹は、いつの間にかカウンターの中に戻り作業を続ける梓にちらりと視線を送る。梓も、その視線に気づき、小さく微笑み返した。
「ですが、カクテルというのは、バーテンダーによって、あるいは時代によって、少しずつ解釈やレシピが変わっていくものなんです。私が若い頃に教わったギムレットは、こういう少し色の濃い、熟成感のあるジンを使い、ライムの酸味だけでなく、ほんの少しリキュールの甘みやハーブの香りを加えることで、より複雑で奥行きのある味わいを追求するものでした。まあ、少し古風な作り方かもしれませんね」
 樹は、どこか懐かしむような、それでいて誇らしげな表情で語った。
「へえ…そうなんですね。カクテルも、奥が深いのねえ」
 田中夫人は、感心したように頷きながら、改めて自分の目の前にある美しいピンク色のカクテルと、夫の琥珀色のギムレットを見比べた。同じ名前でも、作り手によってこんなにも違う表情を見せるのかと、新たな発見に純粋に驚いているようだ。
「冷たいうちにお飲みください。それでは、失礼します」
 樹はそう言うと、再び丁寧に会釈をし、今度こそ厨房の方へと姿を消した。
 樹を見送った田中夫妻は、それぞれのグラスを手に取り、軽く触れ合わせた。カチン、と澄んだ音が店内に小さく響く。
 田中夫人は、まずグラスの中で揺れる美しい淡いピンク色の液体をうっとりと眺めてから、静かに一口、口に含んだ。
「あら、おいしい! とてもすっきりしていて、フルーツの香りが華やかで…すごく好みの味だわ」
 彼女は、嬉しそうに目を細め、梓の方を見てにっこりと微笑んだ。梓もまた、カウンターの中から満足そうに頷き返す。
 そんな田中夫人の様子を見ていた田中は、目の前の琥珀色のギムレットに口をつけた。
 ジンの豊かな香りと、ライムのキレ、そして奥深くで微かに感じるハーブのような複雑な香り。それは、前回梓が作ってくれた、まるで夜明けの光のような『黎明のギムレット』とは全く違う、円熟した大人の味わいだった。
「どう、あなた? 美味しい?」
 田中夫人が、興味津々に夫の顔を覗き込む。
「ああ、うまい…」
 田中は、ゆっくりと頷いた。
「なんていうか…深い味だ。橘さんのとはまた違うが、これもいい。…いや、今の俺には、こっちの方がしっくりくるのかもしれないな」
 彼はそう言うと、グラス中で静かに揺れる琥珀色の液体をじっと見つめた。そこには、ただの酒の色ではない、長い年月をかけて熟成された何か、経験や時間だけが作り出せる深みが映っているように思えた。
 それは、今の自分がまさに手に入れようと「あがいている」ものと、どこか重なるようだった。
「あら、そんなに美味しいの? 一口いい?」
「ああ、もちろん」
 田中は、どこか照れたようにグラスを差し出した。
 田中夫人は、その琥珀色の液体をほんの少しだけ口に含むと、きゅっと目を瞑った。
「まあ、強いのね、これは。でも、確かに…なんだか複雑で、深い味がするわね。大人の味、って感じ」
 彼女はそう言うと、楽しそうに笑いながらグラスを田中に返した。
「だろう? 少し強いけれど、今の俺にはこれくらいがちょうどいい」
 田中は、そう言って、妻から返されたグラスをどこか誇らしげに傾けた。
 二人のその親密なやり取りを、梓はカウンターの中から静かに見守っていた。夫婦が共有する時間の温かさに、彼女の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
 やがて、樹が厨房から、湯気の立ついくつかの皿を運んできた。テーブルの上に並べられたのは、譲二特製の煮込み料理の他に、彩り豊かなサラダ、そしてガーリックの香ばしい香りが食欲をそそるパンだった。
「美味しそう!」
 田中夫人が、子供のようにはしゃいだ声を上げる。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。お二人とも、お腹が空いたでしょう」
 樹は、にこやかにそう言うと、再びその場を後にした。
 それからは、しばらく二人の間に会話はなかった。ただ、美味しい料理を味わう喜びと、心地よい沈黙だけが、テーブルの上を満たしていく。田中は譲二の煮込み料理の深い味わいに唸り、田中夫人は、一口ごとに幸せそうなため息をつく。
 その穏やかな光景を眺めながら、梓は、この「Cafe&Bar 木漏れ日」という場所が、ただ悩みを解決するだけの場所ではないことを改めて感じていた。それは、疲れた心を癒やし、忘れかけていた日常の喜びを思い出させ、そして大切な人とのかけがえのない時間を過ごすための、温かい止まり木のような場所なのだ。
 食事を楽しみながら、田中夫人は自分のカクテルグラスが空になっていることに気づいた。そして、カウンターの中で他の客の対応をしている梓に、少し遠慮がちに、しかし嬉しそうな表情で声をかけた。
「橘さん、すみません」
「はい、只今」
 梓がすぐにテーブルの傍らにやってくると、田中夫人は少し頬を赤らめながら言った。
「先ほどのカクテル、本当に美味しくて…もしよろしければ、もう一杯いただいてもよろしいかしら?」
「飲みすぎるなよ」
 隣で聞いていた田中が、苦笑しながらも心配そうに言うと、田中夫人は「いいじゃない、たまには」と悪戯っぽく笑う。
「あなただって、さっきからそのギムレット、大事そうに飲んでるくせに」
 その言葉に、田中は何も言い返せず、照れくさそうにグラスに口をつけた。
 梓は、そんな二人の温かいやり取りに微笑みながら頷いた。
「かしこまりました。次はなにになさいますか? 同じものでも、また気分を変えて別のものをお作りすることもできますが」
 梓がにこやかに尋ねた、その時だった。
「あの…橘さん」
 田中夫人が、今度は少し改まった口調で梓を呼ぶ。
「主人が、本当に、こちらにお伺いしてから変わったんです」
 その瞳には、梓への深い感謝と、そして何かを確かめたいというような真摯な光が宿っている。
 梓は、その真摯な眼差しをまっすぐに受け止めると、空いている近くの椅子を引き寄せ、田中夫人の目の高さに合わせるように、そっと腰を下ろした。
「はい」
 梓は、ただ一言、優しく相槌を打った。その表情は、バーテンダーのものではなく、一人の相談者の心に深く耳を傾けようとする、派遣ソムリエの顔になっていた。
 それは、先を促すためではなく、「あなたの言葉を、ちゃんと聞いていますよ」という、静かで温かい合図だった。
 田中夫人は、そんな梓に小さく頷き、意を決したように話し始めた。
「あの日、主人がこちらから帰ってきてから…何かが、少しずつ違っていったんです。以前は、家に帰ってきても、ずっと何かに怯えているような、疲弊しきった顔をしていて…会話もほとんどありませんでした。でも…」
 彼女は、隣に座る夫の顔をちらりと見上げる。田中は、少し照れくさそうに、しかし穏やかな表情で妻を見守っていた。
「あの日を境に、少しずつですが、話をしてくれるようになったんです。最初は、AIが詩を作ったとか、ラブレターの練習をしたとか、子供みたいなことばかりでしたけれど」
 そう言って、田中夫人はふふっと笑った。
「でも、そのうち、会社でのプロジェクトの話や、これからのことを、私に相談してくれるようになって…。あんなに楽しそうに仕事の話をする主人の顔を見るのは、本当に、何年ぶりだったかわかりません」
 彼女の声は、少しだけ震えていた。
「橘さんが、主人に何をしてくださったのかは、詳しくは存じません。でも、あなたが主人の心の中にあった、何か固く閉ざされた扉を開けてくださったことだけは、確かです。本当に…ありがとうございました」
 田中夫人は、そう言うと、テーブルの上で深々と頭を下げた。
 梓は、その言葉を静かに受け止めながら、首を横に振った。
「奥様、お顔を上げてください。私は、ほんの少し、きっかけを作っただけです。扉を開けたのは、田中さんご自身の力ですよ」
 その言葉は、梓の本心だった。
 梓の言葉を受けて、田中夫人は梓を不思議なものを見るようにきょとんとして見つめる。そして、どこか潤んだ目で尋ねた。
「橘さんは…どうして、そこまでしてくださるんですか? ただの、派遣の相談、だったのでしょう?」
「ただの、とはちょっと違うかもしれません」
 梓はじっと田中夫人の瞳を見つめたまま、淡々と言った。
「奥様は、派遣ソムリエと聞いてどんなことを想像しました?」
 梓の問いかけに、田中夫人は少し考え込むように視線を彷徨わせた。
「申し訳ないけれど、造語で人を集めている派遣会社だと思いました」
 彼女は、少し言いにくそうに、しかし素直に打ち明けた。
「テレビのニュースで、派遣社員の方々が苦労されている様子をよく目にしますし、正直なところ…派遣会社というもの自体に、あまり良い印象を持っていなかったんです。だから、主人がこちらに相談に伺うと聞いた時も、あまり期待はしていませんでした。どうせ、条件に合う仕事を紹介されるだけで、根本的な解決にはならないだろうって…」
 彼女は、そこで一度言葉を切り、梓の目をまっすぐに見つめ返した。
「でも、主人は変わった。仕事だけじゃなくて、顔つきも、話し方も、雰囲気も…。だから、橘さんのお仕事は、私が思っていたものとは全く違うのだろうな、と。一体、どんな魔法を使われたのかと、今日、お会いできるのを楽しみにしておりました」
「魔法、ですか。ふふ、そんな大したものではありませんよ」
 梓は、柔らかく微笑んだ。
「私がしているのは、その方の『本当の声』を聴くことだけです。スキルや経歴の裏にある、ご本人も忘れているかもしれない、本当は何がしたいのか、どう在りたいのか、という声です」
 彼女は、田中の方にちらりと視線を送った。田中は、梓の声を静かに耳を傾けながらグラスを傾けている。
「田中さんの場合、その声は『AIが怖い』という不安の奥に隠れていました。でも、よくよく聴いてみると、それはただの恐怖ではなくて、変わりゆく世界でどう生きていけばいいのか、という切実な問いかけだったんです。そして、奥様を想う優しさや、仕事に対する誠実さ、そういう田中さん本来の素晴らしい部分も、ちゃんと聴こえてきました」
 梓は、今度は田中夫人の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「お料理に合うワインを選ぶように、その方の『本当の声』に合うような『働き方』や『生き方』を一緒に探していく。それが、私の『派遣ソムリエ』の仕事なんです。ですから、私が何かをしたというより、田中さんご自身が、ご自分の声に気づいて、行動された。ただ、それだけのことですよ」
「…たった、一回で…ですか?」
田中夫人が、思わずつぶやいた。
「回数は関係ありませんよ」
 梓は静かに、しかしきっぱりと言った。
「大切なのは、回数ではなく、どれだけ深く、その方の声に耳を傾けられるか、ですから」
 すっと梓は立ち上がると、カウンターに戻り迷いのない手つきでカクテルを作り始めた。それは、先ほど田中夫人が頼んだ、二杯目のカクテルだった。
 シェイカーを振るリズミカルな音が、ジャズピアノと混ざりあい、静かに店内に響く。田中夫妻は、言葉もなく、ただその梓の姿に見入っていた。
 やがて、梓は再び二人の元へやってくると、新しいカクテルを田中夫人の前にそっと置いた。
「先ほどと同じものです。ですが、少しだけレシピを変えてみました。今度は、未来への期待を少しだけプラスして」
 梓は、悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔に、田中夫人もつられて微笑む。
「ありがとうございます。いただきます」
 彼女は、新しいカクテルを一口飲むと、幸せそうに目を細めた。
「…本当に、魔法みたい」
 ぽつりと呟かれたその言葉は、梓への最大の賛辞であった。



 その日の夜、バータイムの喧騒も落ち着き、最後の客を見送った後、梓はカウンターの中で静かにグラスを磨いていた。隣では、樹が梓が磨いたグラスを片付けながら、今日の出来事を思い返すように穏やかな表情を浮かべている。
「なんか、いいご夫婦だったなぁ」
 厨房からエプロンで手をふきながら出てきた有栖川譲二が、二人の様子を思い出しながら微笑ましそうに言った。
「本当ね」
 梓は、磨き上げたグラスの輝きを見つめながら答える。彼女の脳裏には、数ヶ月前の不安げな田中の姿と、今日の幸せそうな夫妻の笑顔が交互に浮かんでいた。 「旦那さんの方、最初に来た時とは別人のようだったじゃないか。梓、お前、また一つ、いい仕事をしたな」
 譲二の言葉の中に、父親のような温かさと、梓の成長を喜ぶ響きを感じ、梓は照れくさそうに笑った。
「ですかねぇ…あ、譲二さんの料理があったからですよ。あの煮込み料理、絶品だったもの」
 梓がそう言うと、譲二は「ふん」と鼻を鳴らしたが、その口元は微かに緩んでいる。
「俺たちもああなれてるかねえ…」
 ぽつりと呟かれた譲二の言葉に、樹がふふっと優しく笑った。
「もうとっくになれてるよ。僕の自慢のパートナーだからね」
 樹がそう言って譲二の肩に手を置くと、譲二は樹の頬にキスを送り、樹はくすぐったそうにそれを受け取る。
 そんな二人のやり取りに、梓は生ぬるい視線を向ける。
「……あの、お熱いところ悪いんだけど。お兄ちゃん、私の眼鏡知らない?」 
 梓がカウンターの下を手探りしながら言うと、樹が苦笑しながら譲二の元を離れ、レジの横に転がっていたケースを差し出した。 
「はいどうぞ。もー、お客様の前では意地でもかけないんだから」 
 樹から眼鏡を受け取り、かけながら伝票の整理を始める梓。その眉間には、ピントを合わせようとする皺が少しだけ寄っている。
「……美学よ、美学」
 梓はふんと鼻を鳴らし、数字を追い始めた。
 完璧に見える「派遣ソムリエ」の、そんな不器用な一面を知っているのは、譲二と樹の二人だけ。
 「Cafe&Bar 木漏れ日」の長い一日は、こうして温かい空気と共に、静かに幕を閉じた。そして、また明日、新たな悩みを抱えた誰かが、この木漏れ日のような場所に、小さな希望の光を求めて訪れるのだろう。



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