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第3話 人間関係に悩む公務員
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1.
大型連休の賑わいも落ち着きを取り戻した、五月のある金曜日。
空は高く澄み渡り、吹く風はまだ夏の熱を帯びていない、一年で最も過ごしやすい季節。
カフェタイムの終了まで残り三〇分ほどとなった「Cafe&Bar 木漏れ日」には、午後の穏やかな時間が流れていた。
カラン、とドアベルが、ためらうように小さく鳴った。
入り口に立っていたのは、一人の若い男性だった。着慣れない様子のジャケットに、少し緊張した面持ちで店内をうかがっている。その手は、何度もズボンの縫い目をなぞり、落ち着きなく動いていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中でコーヒー豆の選別をしていた梓が、その姿に気づき、柔らかい声をかける。
「あ…あの…」
男性は、梓の声にびくりと肩を震わせると、何かを言いかけたが、その言葉は声にならずに消えてしまう。
「橘、ですが…。ご予約の、奥寺様でいらっしゃいますか?」
梓のその言葉に、男性――奥寺健太は、少しだけ安堵したように、こくりと小さく頷いた。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
梓は、健太の緊張をほぐすようににっこりと微笑み、彼を奥のテーブル席へと案内した。向かいの席に腰を下ろした梓は、何も言わずに、彼が話し始めるのを待った。
しかし、健太は、テーブルの上に置かれた自分の手と、メニューの隅を、交互に視線を行き来させるだけで、一向に口を開こうとしない。その背中は固く、まるで石像のようになってしまっている。
(…無理もないか)
梓は、彼の様子をそれとなく観察しながら、心の中で呟いた。電話で予約を受けた時の、あの消え入りそうな声。今日、この店のドアを開けるまでに、彼はどれほどの勇気を振り絞ったのだろう。そう思うと、梓は、彼の沈黙さえもが、彼の心の叫びのように聞こえてくるのだった。
その時、ふわりと、店内に芳ばしいコーヒーの香りが広がった。健太が、その香りに誘われるように、ほんの少しだけ顔を上げる。
「お待たせいたしました」
いつの間にか、樹が二つのカップを乗せたトレイを手に、テーブルの傍らに立っていた。
しかし、彼が健太の前に置いたのは、コーヒーではなく、ミルクがたっぷりと入った、温かいカフェオレだった。
健太は、目の前に置かれたカップに視線を落とした。
白いミルクの泡の上には、少しだけ歪んだ、しかし一生懸命に描いたことが伝わってくる、猫のラテアートが施されていた。その場の緊張した空気には、あまりにも不釣り合いな、ほのぼのとした絵だった。
健太の口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。嬉しい、と思った。子供っぽいと思われたかもしれないが、純粋に嬉しかったのだ。
しかし、その微笑みは一瞬で消え去る。まるで、こんな真剣な場で気を緩めた自分を、誰かに見咎められたかのように。
健太は、はっとしたように顔を俯かせ、再びテーブルの上の自分の指先を、じっと見つめ始めた。
「へたくそでごめんね? 今、練習中なんだ」
樹の優しい声が、健太の頭上から降ってきた。
その声に、梓は呆れたように声を上げる。
「お兄ちゃん、それ、先月からずっと言ってない? 全然うまくならないじゃない」
「うっ…、い、一生懸命やってるんだけどな…」
梓の容赦ない指摘に、樹がたじたじになっている。そんな二人のやり取りに、俯いていた健太が、ぽつりと呟いた。
「…あの、味があって、いいと、思います」
「「え?」」
梓と樹が、同時に健太の方を向く。健太は、顔を真っ赤にしながらも、もう一度、今度は少しだけはっきりとした声で言った。
「その…なんていうか、温かい感じがして…いいなって…」
それは、この場で初めて、彼自身の意思で紡がれた言葉だった。
その言葉に、今度は樹の方が、少しだけ顔を赤らめた。そして、照れ隠しのように、ふわりと微笑む。
健太は、その笑顔を正面から見てしまい、心臓が大きく跳ねるのを感じた。白い髪、透き通るような肌、そして、中性的な顔立ち。改めてまじまじと見ると、その美しさは、現実離れしているようにさえ思えた。
(うわ…きれいな人だ…)
健太の頭の中は、混乱していた。そして、その混乱のまま、彼の口から、思ってもみなかった言葉が飛び出した。
「…男性、ですか…?」
健太の口から飛び出した言葉に、店の空気が一瞬、ぴしりと凍りついた。
(しまった…!)
健太は、自分の失言に、さっと血の気が引くのを感じた。目の前の美しい人の顔から、すっと表情が消えたように見えた。向かいに座る梓も、驚いたように目を見開いて固まっている。
(終わった…)
健太は、ぎゅっと目を閉じた。せっかく勇気を出して来たのに、なんて失礼なことを言ってしまったんだ。もう、ここにはいられない。
「…えっと」
数秒の沈黙の後、最初に口を開いたのは樹だった。
「うん、いちおう、男、かな」
その声は、怒っているでも、呆れているでもなく、ただ、少しだけ困ったような、それでいてどこか面白がっているような、不思議な響きを持っていた。
健太がおそるおそる目を開けると、樹は自分の真っ白な髪をくしゃりとかき混ぜながら、うーんと首を捻っていた。
「やっぱり、この髪型が悪いのかなあ。よく、間違えられるんだよね」
「お兄ちゃんは昔から分かりにくいところがあるからねぇ」
樹の言葉を引き継ぐように、梓がくすくすと笑いながら言った。その顔には、もう驚きの色はなく、いつもの表情が戻っている。
「髪型のせいだけじゃないと思うけど?」
「えー、そうかなあ」
梓の追い打ちに、樹は本気で困ったように眉を下げる。そのやり取りは、あまりにも自然で、温かくて、健太の心から、すうっと緊張が抜けていくのを感じた。
「いつも、こうなんです…」
ぽつりと、健太が呟いた。その声は、まだ蚊の鳴くようだったが、先ほどまでの沈黙を破る、確かな一歩だった。
「いつもこうって?」
梓が、優しい眼差しで聞き返す。
「いつも、こういうことになっちゃうんです…。何か、話さなきゃって思うと、頭が真っ白になって…変なことばっかり言っちゃうんです…」
彼は、自分の両手をぎゅっと握りしめた。その指先が、小さく震えている。
「今日も、こんなことを言いに来たんじゃないのに…」
そう言って、健太は再び顔を俯かせてしまった。そのなで肩の背中が、やけに小さく、頼りなく見えた。
「変なこと?」
樹が、純粋に不思議そうに、こてんと首をひねった。健太が何を「変なこと」だと思っているのか、全く分かっていない様子だ。
その無垢な反応に、梓は思わず苦笑いを浮かべた。
「わかりますよ、奥寺さん。私も、昔はよくやりましたから。良かれと思って言った一言が、後から考えると、とんでもない失言だったりするんですよね」
梓の優しいフォローに、健太は少しだけ、救われたような気持ちになった。
「ああ、そういうことか」
梓の言葉を聞いて、樹はようやく健太の言いたかったことを理解したように、ぽんと手を打った。
「なんだ、そんなことか。僕なんて、もっとひどかったよ?」
彼は、どこか懐かしむような目で、遠くを見つめた。
「バーテンダーの見習いだった頃、初めて一人でカウンターに立った日があったんだ。師匠に、『とにかくお客様を楽しませろ』って言われてね。それで、僕なりに一生懸命、面白い話をしようとしたんだけど…」
樹は、一度言葉を切り、くすりと笑った。
「緊張しすぎて、用意していたジョークは全部飛んじゃうし、お客様の質問にはしどろもどろだし。挙句の果てには、シェイカーを派手に落として、カクテルをお客様の目の前でぶちまけちゃったんだ」
「へぇ、そんなことあったんだ」
梓が、意外そうに相槌を打つ。
「あの時は、本当に死ぬかと思ったよ。もう、この仕事は向いてないって、本気で辞めようと思った。でも、その時、師匠がね…」
樹は、穏やかな表情で、健太の目をまっすぐに見つめた。
「『お前が一番楽しんでないじゃないか』って、頭をこつんとやられたんだ。『お客様を楽しませる前に、まずお前が楽しめ。失敗なんて、そのあといくらでも取り返せる』ってね」
その言葉は、健太の心に、じんわりと染み込んでいくようだった。失敗してもいい。楽しんでいい。そう、自分が言われたような気がして、固く握りしめていた拳の力が、少しだけ抜けた。
「だから、奥寺さんも、大丈夫。何も、変なことじゃないですよ」
樹のその言葉は、まるで魔法のように、健太の心を軽くしていった。
二人の温かい空気に背中を押されるように、健太は、ぽつり、ぽつりと、今日ここに来た本当の理由を話し始めた。
「あの…職場に、好きな人が、いるんです」
絞り出すような、しかし、覚悟を決めた声だった。
健太のその告白に、樹と梓は、驚いた顔を見せるでもなく、ただ、優しく微笑んだ。
「そうなんですね」
梓が、穏やかに相槌を打つ。
「素敵じゃないですか」
樹が、柔らかく言葉を添える。いつの間にか彼は、梓の隣の席に腰を下ろしていた。
二人のあまりにも肯定的な反応に、健太は少しだけ拍子抜けしたような、それでいて、心の底から安堵したような、不思議な気持ちになった。
「後輩なんです。いつも、明るくて、元気で…誰にでも優しくて…。僕みたいな、地味な人間にも、普通に話しかけてくれて…」
話し始めると、もう、言葉は止まらなかった。彼女の笑顔がどれだけ素敵か、彼女の気遣いがどれだけ嬉しいか、彼女の声を聞くだけで、一日が幸せな気持ちになること。健太は、今まで誰にも話したことのない想いを、夢中で二人に語っていた。
樹も梓も、一切茶化すことなく、ただ真剣に、そして時折、我がことのように嬉しそうに、彼の言葉に耳を傾けている。
健太は、話しているうちに、自分が今までどれだけ彼女のことを目で追い、そして、どれだけ彼女のことを想っていたのかを、改めて自覚させられていた。
ボーン、ボーン。
壁の古時計が、どこか物悲しい音を立てて現在に時間を告げる。しかし、三人は誰も、それに気づかない。健太の話は、まだ続いていた。
「おい、お前ら」
厨房のドアが、ぎぃ、と音を立てて開いた。エプロンを外した譲二が、呆れたような顔で立っている。
「とっくに閉店時間過ぎてんぞ。何やってんだ」
「あ…」
その声に、三人ははっと我に返り、顔を見合わせた。
「ご、ごめんなさい! すぐに…」
健太が慌てて立ち上がろうとするのを、譲二は手で制した。そして、樹の方に鋭い視線を向ける。
「樹、お前が時間に無頓着なところは昔から変わらないな」
「え…?」
譲二の言葉に、健太は、驚いて樹と譲二の顔を交互に見つめた。
健太の視線に気づいた樹は、少し照れくさそうに頬を掻いた。
「まあ…その…僕の師匠です」
その小さな声に、梓が「ぷっ」と吹き出す。健太も、厳格な師匠と、目の前でしどろもどろになっている弟子という、あまりにも意外な組み合わせに、思わず口元が緩んだ。
譲二は、そんな三人の様子を意に介するでもなく、樹の腕を掴んだ。
「ほら、お前はもういい。夜の部の準備があるだろうが」
「え、でも…」
「ここは梓に任せておけ。お前はさっさとこっちを手伝え」
譲二はそう言うと、名残惜しそうにする樹を、半ば引きずるようにして厨房へと連れて行った。
残されたテーブルには、しばしの沈黙が流れた。
健太は、先ほどの三人のやり取りを思い出し、ぽつりと呟いた。
「…パートナー、なんですね」
「え?」
突然の言葉に、梓はきょとんとした顔で健太を見つめた。
「いえ、師匠と弟子っていうよりは、なんだか…その、足りないところを補い合って、支え合ってる感じがして…。だから、パートナーみたいだなって」
健太は、俯き加減に、しかしはっきりとした口調で言った。
「よく気づきましたね」
梓は、彼の言葉に、一瞬だけ目を見開いた。そして、次の瞬間、まるで面白いものを見つけたかのように、楽しそうに、そして少しだけ感心したように、くすくすと笑い出した。
その笑い声につられるように、健太の表情も少しだけ和らぐ。梓は、手にしていた自分のカフェオレを一口飲むと、健太のカップを指し示した。
「あ、奥寺さんも、どうぞ。もう冷めてますけど」
健太は、促されるまま、目の前のカフェオレにそっと口をつけた。ミルクの優しい甘さと、コーヒーのほろ苦さが、まだ少しざわついている心を、ゆっくりと落ち着かせていく。
梓は、彼がカップをテーブルに置くのを待ってから、その目をまっすぐに見つめ、静かに、しかし確かな声で問いかけた。
「派遣ソムリエは、恋愛相談室ではありませんよ?」
その言葉に、健太はびくりと肩を震わせ、置いたばかりのカップを倒しそうになる。梓は、そんな彼の様子にも動じることなく、ただじっと健太の目を見つめ続けていた。
「奥寺さんが本当に相談したいのは、恋愛のこと、だけじゃないですよね?」
梓の静かな声が、健太の心の奥底に、真っ直ぐに突き刺さる。
「え…?」
健太は、言葉を失った。まるで、今まで誰にも見せたことのない、自分でも気づかないふりをしていた心の引き出しを、目の前の女性に、いとも簡単に見つけられてしまったかのような衝撃だった。
「今の仕事は、ご自身の性格に合っていないのではないかと、ずっと悩んでこられた。そして、転職も考えている。でも、その一歩を踏み出せない。もし、今の職場を辞めてしまったら…その、大切な後輩の方と、もう二度と会えなくなってしまうから」
梓は、一切の感情を排した、淡々とした口調で続けた。しかし、その瞳の奥には、健太の心の揺らぎを、全て見透かしているかのような、深い光が宿っている。
「…違いますか?」
その問いに、健太は、もはや頷くことも、首を横に振ることもできなかった。ただ、目の前の、底知れない瞳を持つ女性から、目が離せなくなっていた。
「す、すみません…あの、そう、なんですけど…」
健太が、やっとの思いで言葉を絞り出す。
「謝罪はいりません。私が欲しいのは、奥寺さんの取り繕わない、本当の言葉だけですから」
梓は、ぴしゃりと言い放った。その言葉は冷たく聞こえるかもしれないが、健太には、それが彼女なりの、最大限の誠意なのだということが、不思議と伝わってきた。
健太は、一度、ぎゅっと唇を噛み締めた。そして、数秒の逡巡の後、今度こそ、自分の心の奥底にある、本当の悩みを、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「今の仕事…自分に、向いてないんじゃないかって、ずっと思ってて…」
その声は、まだ震えていたが、そこには、先ほどまでの「好きな人」の話をしていた時とは違う、もっと切実な、痛みを伴う響きがあった。
「だから、辞めようかなって…転職、しようかなって、思ったんです。でも…」
そこで、健太の言葉が途切れる。
「でも、彼女が、入ってきた…」
その一言に、彼の全ての葛藤が凝縮されているようだった。
健太の視線が、テーブルの上のカフェオレに落ちる。カップの中の猫のラテアートは、もうすっかり形が崩れていた。
梓は、健太から視線を外さなかった。そして、何も言わずに、ただ静かに、彼の次の言葉を待った。その視線は、「大丈夫ですよ、ちゃんと聞いていますから」と、雄弁に語りかけている。
健太は、梓のその真っ直ぐな視線に、もう一度心を決め、しっかりと目を合わせる。
「それは、いつのことですか?」
梓の静かな問いかけが、健太の重い口を、そっと開かせた。
「…5年、前です…」
健太の絞り出すような声に、今度は梓の方が、息をのんだ。
5年。そのあまりにも長い年月に、梓は一瞬、言葉を失う。目の前の男性が、どれほどの間、この想いと葛藤を、一人で抱え続けてきたのだろう。
梓は、テーブルの下で、そっと自分の拳を握りしめた。
その、梓の小さな反応を見逃さず、健太はふっと自嘲気味に笑った。
「…やっぱり、長いですよね…」
その諦めたような呟きに、梓ははっと我に返る。そして、しまった、という気持ちを顔に出すことなく、すぐにいつもの悪戯っぽい笑顔に戻った。
「いえいえ、私は態度が失礼でしたね」
「え?」
きょとんとする健太に、梓は微笑みかける。
「私だったら、5年も耐えられないなぁ…と思いまして」
梓は少しだけわざとらしく首を傾げると、テーブルに両腕を乗せて、ぐっと健太に顔を近づけた。
その整った顔立ちが不意に目の前に現れ、健太の心臓が、どきりと音を立てて跳ねた。
しかし、そんな彼の動揺を知ってか知らずか、梓は内緒話でもするかのように、声を潜めて、しかし、彼の心のど真ん中を見透かすような、鋭い瞳で続けた。
「後輩さんがいたから耐えられたんじゃなくて、奥寺さんにとって、嫌なことが、たった一つだけだったから、じゃないですか?」
梓の言葉が、健太の心に深く突き刺さる。それは、彼自身も気づかないふりをしていた、核心だったからだ。
「…たった、一つ…?」
健太は、梓の言葉を、オウム返しに呟くことしかできない。思考が、完全に停止してしまっていた。彼女の言葉の意味を、頭では理解しようとしているのに、心が、追いつかない。
梓は、そんな健太の様子を見て、そっと体を起こした。そして、今度は、まるで壊れ物に触れるかのように、優しく、しかし確信を込めた声で、彼の背中をそっと押すように言った。
「奥寺さんが本当に嫌なのは、仕事の内容でも、ご自身の性格でもない。ただ、そこにいる『人』…それだけだったんじゃないですか?」
梓は、健太が何かを言い返す前に、言葉を続けた。
「いませんか? 人のちょっとした失敗を、いつまでも面白おかしく言いふらす人。本人に悪気はないのかもしれないけど、言われた方は、ずっと心に棘が刺さったままになる…そんな、無神経な人」
梓のその言葉に、健太の脳裏に、数人の同僚の顔が、次々と浮かび上がっては消えていった。
いつも大きな声で、人の噂話ばかりしている先輩。
ミスをすると、大げさにため息をついて、周りに聞こえるように嫌味を言う上司。
そして、自分が何かを話そうとするたびに、茶化したり、馬鹿にしたりしてくる、同期の男たち。
「…」
健太は、言葉を発することができない。ただ、梓の言葉が、自分の心の風景を、あまりにも正確に映し出していることに、驚きを隠せないでいた。
そんな健太の様子を見透かしたように、梓は、さらに言葉を重ねた。
「あなたは、その人たちが嫌で、その場所から逃げ出したかった。でも、彼女が現れた。彼女がいるから、その『嫌なこと』に耐えられた。そうでしょう?」
梓は、そこで初めて、ふっと表情を緩めた。
「その後輩さんが現れるまでの間も、ずっと耐えてこられた。そして、この5年間は、彼女の存在が、奥寺さんをその場所に縛り付けていた。…でも、それは裏を返せば、たった一つの『嫌なこと』以外の全てを、奥寺さんは受け入れて、きちんと仕事をこなしてこられた、ということでもあります。あなたは、ご自身が思っているよりも、ずっと、強い人なんだと思いますよ」
その言葉は、健太にとって、今まで誰からも言われたことのない、そして、自分自身でも気づいていなかった、真実だったのかもしれない。
「奥寺さんは、もっと、わがままになっていいんですよ」
梓は、静かに、しかし力強く言った。
「自分の人生なんですから。誰かに気を遣って、我慢して、すり減っていく必要なんて、どこにもないんです」
その日のバータイムが終わり、最後の客を見送った後、梓は一人、カウンターの中で静かにグラスを磨いていた。昼間の喧騒が嘘のように、店内は静寂に包まれている。
「お疲れ様、梓ちゃん」
バックヤードから出てきた樹が、優しい声をかける。その手には、温かいハーブティーのカップが二つ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
梓は、樹からカップを受け取ると、ほっと一息ついた。
「今日の、奥寺さん…どうだった?」
樹は、心配そうに、しかし梓の領域には踏み込まないように、慎重に言葉を選んで尋ねた。
梓は、受け取ったハーブティーのカップを両手で包み込み、その温かさを確かめるように、少しだけ、遠くを見るような目をした。
「…言いすぎ、ちゃったかな…」
ぽつりと、梓が呟いた。その声には、いつものような自信はなく、ほんの少しの不安と、後悔の色が滲んでいた。
「でも、土曜日に予約いれてくれたんでしょ?」
樹が、自分の持ってきたハーブティーを飲みながら、優しく言った。
「だったら、大丈夫でしょ」
「そう…だよね…」
梓は、なおも自信なさげに呟く。
「梓ちゃん」
樹は、そんな彼女の様子を見て、さらに言葉を続けた。
「梓ちゃんがいたから、奥寺さんも安心して、自分の本当の気持ちを話せたんだよ。すごいじゃないか」
「…」
「お前が、しっかり彼の心に寄り添ったからだろ」
いつの間にか、厨房の入り口に立っていた譲二が、静かに言った。
「それに、だ。あいつが本当に聞きたかったのは、そういう言葉だったんじゃねえのか」
「そうだよね。僕もそう思う」
譲二と樹の言葉に、梓は、はっと顔を上げた。
「そうだよ。じゃないと派遣ソムリエの意味をはき違えてる」
譲二は、腕を組んだまま、静かに、しかし力強く言った。
「…そうだよね…」
梓は、もう一度、今度は自分自身に言い聞かせるように、小さく呟いた。その手の中のハーブティーが、優しく湯気を立てていた。
2.
約束の土曜日、カフェタイムのピークが過ぎた午後の日差しが、店内に穏やかな縞模様を描いていた。
カラン、と軽やかなドアベルの音に、カウンターの中で作業をしていた梓と樹は、同時に顔を上げた。そこに立っていたのは、奥寺健太だった。しかし、彼は一人ではなかった。
彼の隣には、一人の若い女性が立っている。その姿を一目見て、梓と樹は、無言のまま視線を交わした。
(…この人が?)
健太が、あれほどまでに熱っぽく語っていた後輩。
いつも明るく元気で、誰にでも優しい、太陽のような女性。
しかし、目の前にいる女性の印象は、彼が語ったイメージとは、あまりにもかけ離れていた。
流行の最先端をいく、少しエッジの効いたファッション。完璧に計算された、クールな印象のメイク。そして、何よりも、その瞳。彼女は、店内を値踏みするように、鋭く、そしてどこか冷めたような視線で一瞥すると、興味を失ったように、すぐにスマートフォンに視線を落とした。
健太は、そんな彼女の隣で、借りてきた猫のように縮こまっている。その表情は、前回見せた深刻なものとは違い、好きな人と一緒にいることへの緊張と、少しばかりの気恥ずかしさが混じった、どこか初々しいものだった。
「い、いらっしゃいませ…」
梓は、どうにか言葉を絞り出し、二人を席へと案内する。健太が、感謝と謝罪が入り混じったような、意味不明な会釈を繰り返している。
「ここ? 奥寺さんが、そんなにすごいって言うから来てみたけど…思ったより、普通だね」
女性は、メニューに視線を落とすこともなく、つまらなそうに呟いた。その声には、健太が語っていたような、明るい響きは微塵も感じられなかった。
梓が「どうぞ、奥の席へ」と二人を案内しようとした、その時だった。
「え、うっそ、ちょーイケメンじゃん」
後輩の女性が、突然、大きな声を上げた。その指は、カウンターの奥で静かに作業を続ける樹を、まっすぐに指している。
健太の顔が、さっと青ざめる。
女性は、そんな健太の様子など気にも留めず、手にしていたスマートフォンを無遠慮に樹に向けた。カシャッというシャッター音が響く直前、健太の手が、レンズの前に滑り込んだ。
「何すんですか、先輩!」
甲高い非難の声が、健太の耳に突き刺さる。
「邪魔しないでくださいよ!」
後輩は、心底迷惑だという顔で、健太の手を振り払った。そのあからさまな侮蔑の視線に、健太の心は、また小さく縮こまる。
しかし、彼の胸の中には、今までにない、小さな怒りの炎が灯っていた。たった一度しか訪れたことがないにもかかわらず、この店と、この人たちの穏やかな時間を、土足で踏みにじられたことへの、正当な怒りだった。
「だ、だめだよ! 勝手に、人の写真なんか撮ったら…!」
声は、まだ震えている。それでも、健太は、生まれて初めて、自分よりも強い人間に対して、はっきりと「だめだ」と言った。
「はぁ? 別にいいじゃん、一枚くらい。ねぇ、そう思うでしょ?」
後輩は、まるで助けを求めるように、しかし明らかに二人を味方につけるつもりで樹と梓に同意を求めた。
樹は、困ったように、しかしきっぱりとした口調で言った。
「申し訳ありません、お客様。撮影は、ご遠慮いただいております」
その穏やかだが、有無を言わせぬ響きに、後輩は一瞬、不満そうな顔をしたが、すぐに梓の方に視線を移した。
「ささ、どうぞこちらへ」
梓は、その視線を笑顔で受け流すと、半ば強引に二人の背中を押すようにして、樹のいるカウンターからは死角になる、一番奥のテーブル席へと案内した。
「っていうか、お姉さんも美人だね」
遠慮という言葉を知らないのだろう。後輩は、梓の顔を上から下まで品定めするように見つめながら、悪びれる様子もなく言った。
「ありがとうございます。メニューはこちらです」
梓は、その言葉をにこやかに受け流し、二人にメニューを手渡した。その表情からは、内心の動揺など微塵も読み取れない。
「ねえ、どこのファンデ使ってるんですか? めっちゃ肌きれい」
後輩は、メニューには目もくれず、梓の顔を覗き込むようにして質問を続ける。
「秘密です」
梓が、悪戯っぽく人差し指を口に当てると、後輩は「ちぇー」とつまらなそうに口を尖らせた。
その時、梓はふと気づいた。
健太が、その後輩の女性を、羨望の眼差しで見つめていることに。
(ああ、そういうことか…)
梓の頭の中で、パズルのピースが、カチリと音を立ててはまった。
健太が語った彼女の姿と、目の前の現実は、まるで違う。しかし、本質は同じなのかもしれない。
思ったことを、何のてらいもなく口に出せる素直さ。他人の評価など気にしない、圧倒的な自己肯定感。周りの空気を読むことよりも、自分の「好き」を優先できる、自由さ。
それは、健太が持っていない、そして、心のどこかでずっと、憧れ続けてきたものなのではないか。
梓は、健太が彼女に惹かれる理由を、理解した気がした。
「ご注文は、お決まりですか?」
梓が、にこやかに尋ねる。
「ミルクティーで」
後輩は、スマートフォンから一度も顔を上げることなく答えた。
「あ、じゃあ、僕は…カフェオレで…」
健太は、慌ててそう答えるのが精一杯だった。
「かしこまりました。少々お待ちください」
梓は、静かに一礼すると、カウンターの中へと戻っていった。
しばらくして、梓が三つのカップを乗せたトレイを手に、再びテーブルへとやってきた。
「お待たせいたしました。ミルクティーと、カフェオレです」
後輩の前に置かれたミルクティーは、美しい二層を描いている。一方、健太の前に置かれたカフェオレには、またしても、あの少しだけ歪んだ猫のラテアートが描かれていた。樹が、健太のために、心を込めて淹れたものだろう。
健太は、その猫の顔を見て、思わず口元が緩むのを感じた。
「え、これがミルクティーなの? すごっ」
後輩がスマートフォンから顔を上げ、感心したように声を上げた。そして、健太の前のカフェオレを覗き込むと、今度は声を立てて笑った。
「え、先輩のラテアート、ぶさかわ~」
そう言うと、彼女は今度こそ、ためらいなくスマートフォンのカメラを向け、カシャ、カシャと軽い音を立てて何枚も写真を撮り始めた。
先ほどのいざこざなど、もう彼女の頭の中にはないのだろう。そのあまりにも天真爛漫な振る舞いに、健太は、怒る気力さえ失ってしまったようだった。ただ、困ったように、それでいてどこか嬉しそうに、彼女が写真を撮る様子を眺めている。
梓は、そんな健太と、無邪気に笑う後輩の姿を交互に見つめながら腰を下す。そして、苦笑いを浮かべた。二人の間には、梓や樹が立ち入ることのできない、独特の空気が流れている。それは、健太が五年間、大切に育んできた、いびつで、しかし愛おしい日常の一コマなのかもしれない。
「ねえ、この写真はSNSにアップしていいよね?」
一通り写真を撮り終えた後輩が、梓に尋ねる。先ほど樹に注意されたことをきちんと受け止め、今度は「物」なら良いのかと律儀に確認してくるその姿に、梓は内心で少し感心した。見た目の印象とは裏腹に、意外と素直なところもあるのかもしれない。
「ええ、どうぞ。たくさん『いいね』がつくといいですね」
「べつにいいねほしいわけじゃないし…ねえ、これ、お店の名前とか場所もタグ付けしていい感じ?」
後輩が、嬉しそうに尋ねる。
「ええ、どうぞ。宣伝していただけてうれしいです」
梓がにっこりと微笑むと、後輩は満足そうに頷き、早速スマートフォンの画面に集中する。慣れた手つきで写真を加工し、#隠れ家カフェ #ラテアートぶさかわ #ミルクティー映え、などとハッシュタグをつけながら、あっという間にSNSにアップしていく。その姿は、心から楽しそうだった。
「いっただきまーす」
投稿を終えた後輩は、満足げにそう言うと、ミルクティーに口をつけた。
「あつっ!」
思ったよりも熱かったのか、彼女は小さく舌を出す。その仕草は、先ほどまでのクールな印象とは違い、どこか子供っぽくて、健太が語っていた「太陽のような」という言葉の片鱗を、梓に感じさせた。
「あたしね、あたしがいいなと思ったこと、みんなと共有したいんだよね」
後輩は、ふーふーとミルクティーを冷ましながら、唐突に、しかし、とても真剣な目で梓に語り始めた。
「お友達、多そうですもんね」
梓が、後輩の向かいの席に腰を下ろしながら、相槌を打つように言った。
「全然いないよ。みんな、面倒そうな顔していなくなっちゃう」
後輩は、なんてことないように、しかし少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、先輩だけは、ちゃんと聞いてくれるんだよね。私が、どんなにわがまま言っても、どんなに変なことしても、絶対に、いなくならない」
その言葉は、健太の心に、温かく、そして少しだけ切なく響いた。
(あら? あらあらあらあら?)
梓は、内心で、まるで近所の井戸端会議に花を咲かせるおばさんのように、ポンと膝を打った。
健太が惹かれているのは、彼が語ったような、ただ「優しくて明るい後輩」ではない。この、周りの空気を一切読まず、自分の「好き」と「嫌い」に正直で、欲しいものは欲しいと、たとえそれが無遠慮に見えようとも、真っ直ぐに手を伸ばすことができる、この奔放さ。自分にはない、そのまばゆいばかりの自由さに、彼は焦がれているのだ。
そして、後輩の方も、そんな健太の不器用な優しさに、無意識のうちに救われている。
梓は、二人の間に流れる、歪で、しかし確かな絆の形を、はっきりと理解した。
「先輩って、いっつも私の話、うんうんって聞いてくれるし、私が美味しいって言ったお菓子、次の日には必ず買ってきてくれるし。優しいんだよね、意外と」
「そ、そんなことないよ…」
健太は、顔を真っ赤にして、ぶんぶんと首を横に振る。
「あるよ。私が仕事でミスした時も、自分のことみたいに落ち込んで、夜遅くまで手伝ってくれたじゃん。あの時、マジで神かと思った」
「いや、あれは、僕の確認不足も…」
「そういうとこ! すぐ自分のせいにするの、やめた方がいいよ。もっと、自信持てばいいのに」
後輩は、そう言うと、健太のカフェオレを指さした。
「ほら、その猫だって言ってるよ。『先輩、もっとシャキッとしなよ』って」
その言葉に、健太は、もう何も言えなくなってしまった。ただ、耳まで真っ赤にして、俯くだけだった。
(案外、いい組み合わせなのかも?)
梓は、そんな二人のやり取りを、興味深く見つめる。
後輩は、ミルクティーを一口飲むと、今度は自分の派手なネイルが施された指先を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「あたし、こんな見た目じゃん? だから、窓口にいると、よくお客さんから苦情もらうんだよね。『公務員のくせに派手だ』とか、『もっと真面目にやれ』とか」
その言葉には、普段の彼女からは想像もつかないような、ほんの少しの翳りがあった。
「でも、そういう時、いっつも先輩が庇ってくれる。『彼女の仕事は誰よりも丁寧で、正確です。見た目で判断しないでください』って。あたしがいないところで、そう言ってくれてるの、知ってるんだから」
「えっ…」
健太は、ますます顔を赤くして、何も言えなくなってしまう。
「それに、こういう爪ができるのも、先輩のお陰だし」
後輩は、自分の爪を梓に見せるように、ひらひらと手を振った。
「派手じゃなければネイルしていいって規則に修正してくれたし、先輩が、あたしの代わりに、細かい作業とか、汚れ仕事とか、全部引き受けてくれるから。だから、あたしは、好きなネイルができるんだよね」
「…そんなこと、ないよ」
健太は、かろうじてそれだけ言うのが精一杯だった。
「あるって。だから、先輩は、あたしにとって、スーパーマンなんだよね」
後輩は、悪戯っぽく笑うと、健太のカフェオレの猫を、スプーンの先でつん、とつついた。
梓は、その光景を、ただ黙って見つめていた。健太が語った「太陽のような後輩」の姿が、今、ようやく、彼女の中で、はっきりと輪郭を結んだ気がした。
(こんな後輩が居たら、5年も耐えられるかもしれないわね…)
いまだ目の前で続く後輩による健太褒めを見ながら、梓は派遣ソムリエとして自分に何ができるかを考えていた。
健太の問題は、彼自身の自己肯定感の低さと、それに起因するコミュニケーションへの恐怖。そして、それを補ってくれる後輩の存在が、彼を職場に縛り付ける鎖にも、彼を守る盾にもなっている。
(だとしたら、私がすべきことは…)
梓は、そっと自分のカフェオレのカップに手を伸ばした。
(彼自身が、自分の足で、自分の言葉で、彼女と対等に立てるようにすること。そして、彼女がいなくても、彼が自分の人生を肯定できるようになること)
そのための、最初の一歩。
「そういえば、この前先輩が教えてくれたラーメン屋、めっちゃ美味しかったですよ!今度行きましょ!」
「あ、うん。いつでも。君が好きそうな店、また探しとくよ」
「マジで? さすが先輩、わかってるー!」
後輩の屈託のない笑顔と、それに照れながらも嬉しそうに応える健太。そのやり取りは、傍から見れば、仲の良い先輩と後輩、そのものだ。
しかし、梓には、その二人の間に流れる、あまりにも完成された空気感が、少しだけ気になっていた。
5年間、ずっとこのままだったのだろうか。この、心地よくて、安全で、でも、一歩も前に進まない関係性のままで。
梓は、目の前の二人の笑顔を見つめながら、心の奥で、静かな不安を感じ始めていた。
「じゃ、あたし、この後用事あるんで!」
後輩は、ミルクティーを飲み干すと、満足そうに息をつき、軽い足取りで立ち上がった。
「え、あ、もう?」
健太が慌てて声をかけるが、彼女は気にも留めない。
「うん、じゃあね、先輩!ごちそうさまでーす!」
嵐のように現れ、そして嵐のように去っていく。健太は、そんな彼女の後ろ姿を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
「あ、あの…」
一人取り残された健太は、気まずそうに梓の方を向き、何かを言おうとするが、言葉にならない。
「少し、お話しませんか?」
梓は、それまでの柔らかな雰囲気をすっと消すと、真っ直ぐに健太を見つめて言った。
健太は、梓のその言葉に、息をのんだ。さっきまでの、どこか親しみやすいお姉さんのような雰囲気は消え、目の前にいるのは、全てを見透かすような、鋭い瞳を持つ一人のプロフェッショナルだった。
「あ…、えっと…」
何かを言わなければ、と焦る健太。しかし、梓は何も言わず、ただじっと彼を見つめている。その沈黙が、健太の心をじりじりと締め付けていく。まるで、値踏みされているような、試されているような、居心地の悪い時間。
健太は、耐えきれずに視線を落とし、テーブルの上の、すっかり冷めてしまったカフェオレのカップに目をやった。
樹が描いてくれた、あの少し不格好な猫のラテアートは、彼が何度か口をつけたことで、もはや見る影もない。泡は消え、歪んだ線だけが、茶色い水面の上で、かわいそうなくらいに揺れていた。
3.
その日のバータイムが終わり、最後の客を送り出した後、店のドアに「CLOSED」の札がかけられた。昼間の喧騒が嘘のように、店内は静寂に包まれている。
カウンターの中では、梓が一人、静かにグラスを磨いていた。しかし、その手はどこか上の空で、彼女の視線は、磨き上げられたグラスの向こう側、昼間の出来事を映し出しているようだった。
「…言いすぎ、ちゃったかな…」
ぽつりと、誰に言うでもなく、梓が呟いた。その声には、いつものような自信はなく、ほんの少しの不安と、後悔の色が滲んでいた。
『正直に言うわ。…あなたたち、一緒にいる意味ある?』
あの時、健太に投げかけた言葉。それは、彼の心をえぐるような、あまりにも鋭利な刃だったのではないか。彼のあの、傷ついたような、それでいて何かを求めるような瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
(でも、あれが、私の仕事…)
梓は、自分に言い聞かせるように、ぎゅっと唇を噛んだ。彼女の仕事は、ただ優しい言葉をかけることではない。時には、相手が目を背けてきた現実に、無理やりにでも向き合わせること。それが、本当の意味で、相手の人生を「調律」することに繋がると、信じているからだ。
「まだ、あの客のこと、考えてんのか」
不意に、低い声がして、梓ははっと我に返った。いつの間にか、厨房から出てきた譲二が、腕を組んでカウンターの隅に立っていた。その腰には、もうエプロンはない。
「…譲二さん」
「お前にしては、ちいとばかし踏み込みすぎだとは思ったけどな」
譲二は、梓の顔を見ることなく、静かに言った。
「あいつの悩みは、あいつ自身の問題だ。お前が背負い込むこたぁねえ」
「…わかってる」
「だがな…」
譲二は、そこで一度言葉を切り、ゆっくりと梓の方を向いた。その鋭い眼光が、梓の心の奥底まで見透かすように、まっすぐに彼女を射抜く。
「お前、あいつに昔の自分でも重ねてんのか?」
その言葉に、梓の肩が、びくりと震えた。図星だった。
「…」
何も言い返せない梓に、譲二は、ふう、と大きなため息をついた。
「派遣ソムリエがお節介焼きの身の上相談屋になったらおしまいだぞ」
その言葉は、厳しく、しかし、どこまでも優しかった。それは、師匠として、そして、父親代わりのような存在として、梓の身を案じているからこその、言葉だった。
「…樹もいねえんだ。さっさと片付けて、お前も休め」
譲二は、それだけ言って梓の頭を優しく一撫ですると、くるりと背を向け、店の奥へと消えていった。
一人残されたカウンターの中で、梓は、磨きかけのグラスを置いた。そして、自分を落ち着かせるように、一杯のハーブティーを淹れると、そのカップをそっと両手で包み込んだ。
湯気と共に立ちのぼるカモミールの優しい香りが、張り詰めていた彼女の心を、少しだけ、解きほぐしていくようだった。
4.
何の変哲もない水曜日の昼下がり。ランチタイムが落ち着き始めた「Cafe&Bar 木漏れ日」には、午後の穏やかな時間が流れ始めていた。
梓はカウンターの奥でグラスを磨き、樹は夜の部の仕込みの準備をしている。そんな、いつもと変わらない光景。
その静寂を破ったのは、店のドアが勢いよく開けられる、けたたましい音だった。
カラン、とドアベルが悲鳴のような音を立てる。
「いらっしゃいま…」
梓の言葉は、途中で途切れた。
息せき切って店に飛び込んできたのは、奥寺健太だったからだ。
いままで、存在を消すかのように静かに入ってきていた彼が、今は肩で大きく息をし、そのなで肩を必死に上下させている。整えられていたはずの髪は乱れ、その顔には、決意と、恐怖と、そしてほんの少しの狂気のようなものが入り混じった、見たこともない表情が浮かんでいた。
梓と樹が、驚いて固まっているのも構わず、健太は、大股でカウンターまで進んだ。遅めのランチを楽しんでいた数名のお客さんも、そのただならぬ様子に、フォークを持つ手を止め、驚いたように彼を見つめている。
健太は、そんな周囲の視線も気にせず、絞り出すような、しかし、今まで聞いた中で一番大きな声で叫んだ。
「僕を、ここで働かせてください!」
その悲痛な叫びに、厨房の奥から譲二が、何事かと顔を覗かせた。その声は、静まり返った店内に、いつまでも、いつまでも響き渡っているようだった。
「お前、ちょっとこっちこい」
健太が、今にもその場に土下座してしまいそうな勢いで体を折り曲げ始めた、その瞬間だった。いつの間にか健太の背後に回っていた譲二が、首根っこをひょいと掴む。
「え、あ、あの…!」
「いいから、こっちだ」
譲二は、有無を言わせぬ力で、健太を厨房の中へと引きずり込んでいった。そのあまりにも突然の出来事に、梓も、樹も、そして残っていた客も、ただ呆然と、二人の姿が厨房の奥に消えていくのを見送ることしかできなかった。
最初に我に返ったのは、樹だった。彼は、驚きに目を見開いていた梓の肩をポンと軽く叩くと、店内にいる客たちに向かって、穏やかに、しかしはっきりと通る声で言った。
「お騒がせいたしました。申し訳ありません」
そして、深々と頭を下げる。その落ち着いた対応に、梓もはっと我に返り、慌てて客たちに笑顔を向けた。
「大丈夫ですよ。少し、熱心なお客様なだけですから」
その言葉に、店内の張り詰めていた空気が、ふっと緩む。客たちは、顔を見合わせ、少しだけ笑みを浮かべると、またそれぞれの食事へと戻っていった。
梓は、店内の空気が落ち着いたのを確認すると、心配そうに厨房のドアを見つめ、そちらへ向かおうと一歩踏み出した。
「梓ちゃん。譲二さんに任せよう。いいね?」
樹は、梓の目をまっすぐに見つめて、静かに、しかし強く、そう言った。その瞳の奥には、譲二への絶対的な信頼の色が浮かんでいる。
梓は、一瞬だけ、ためらうように厨房のドアを見つめたが、やがて、小さく、しかし確かな頷きを返した。
厨房に引きずり込まれた健太は、スタッフが休憩に使うのであろう、壁際の簡素な椅子に座らされた。目の前には、仁王立ちする譲二。そのいかつい顔と鋭い眼光に、健太は完全に蛇に睨まれた蛙状態だった。
「昼飯は食ったのか?」
低い、しかし不思議と落ち着く声で、譲二が尋ねる。
健太は、声を発することもできず、ただ小さく、首を横に振った。
すると譲二は、くるりと健太に背を向けた。そして、慣れた手つきで冷蔵庫からいくつかの食材を取り出すと、まな板の上で、小気味よいリズムを刻み始めた。
健太は、訳も分からないまま、ただその背中を見つめていた。トントントン、とリズミカルに野菜を刻む音、ジュワッとフライパンの上で何かが焼ける音、そして、食欲をそそる香ばしい香り。その一つ一つが、健太の張り詰めていた心を、少しずつ解きほぐしていくようだった。
しばらくして、譲二がくるりと振り返った。その手には、ほかほかと湯気の立つ、一皿の料理が乗っている。
「ちょうど休憩回すところだったんだ。食え」
そう言って、譲二は健太の目の前の小さなテーブルに、ドン、と皿を置いた。それは、店のメニューにはない、完全に譲二の気まぐれで作られた、賄い飯だった。
健太が、目の前の料理と譲二の顔を交互に見ていると、譲二はもう一皿、同じものを持ってくると、健太の隣に無造作に置いた。
そして、近くにあった椅子を一つ引き寄せ、健太の隣に腰を下ろし、「いただきます」と短く呟くと、食べ始めた。
健太は、そのあまりにもマイペースな光景に、もはや思考が追いつかない。ただ、目の前で繰り広げられる状況を、夢でも見ているかのように、ぼんやりと眺めているだけだった。
「遠慮しないで食え」
譲二のぶっきらぼうな言葉に、健太はびくりと肩を震わせた。
「は、はい!」
慌ててスプーンを手に取り、恐る恐る、目の前の料理を一口、口に運んだ。
(…おいしい)
名前も知らない、ただの賄い飯。しかし、その温かい、優しい味は、健太の空っぽだった胃袋と、そしてささくれ立っていた心を、じんわりと満たしていく。
一口、また一口と、スプーンを運ぶ手が止まらない。夢中で料理をかき込む健太の横で、譲二は、何も言わず、ただ静かに、自分の分の賄い飯を食べ進めていた。
あっという間に皿を空にした健太が、はっと我に返ったように顔を上げる。譲二は、そんな健太の様子を、まるで全てお見通しだというように、静かに見つめていた。
「どうだ、落ち着いたか」
譲二が、低い声で尋ねる。
「人間ってのはな、腹が減ってると、ろくなことを考えねえもんだ」
健太は譲二の言葉に、何も言い返すことができない。
譲二はそんな健太を気にすることなく、自分の食事を進めつつ、独り言のように呟いた。
「そういう時はよお、自分の食いてえものを腹いっぱい食うんだ。つまんねえ悩みだったら、それでどっかにいっちまう」
譲二は、自分の皿も綺麗に平らげると、カチャン、と音を立ててスプーンを置いた。そして、ようやく健太の方に、その鋭い視線を向けた。
「で、まだそいつはいるか?」
その問いに、健太は自分の心の中を探るように、静かに内省した。
さっきまで胸のあたりに渦巻いていた、黒くて、どろどろした塊。焦り、不安、自己嫌悪、そして、ほんの少しの希望。それらがごちゃ混ぜになった、名前のない感情。
それが綺麗さっぱり消え去っていることに、健太は気づいた。
温かい食事と、この無骨な男の、不思議な優しさ。それが、彼の心を支配していた得体の知れない「そいつ」を、どこかへ追いやってしまったようだった。
「…居なく、なりました…」
「そうか。ついでに話すだけ話してみねえか?」
譲二のその言葉に、健太は、もう考えることをやめた。ただ、目の前の男に、全てを委ねてみよう。そう思った。
そして、彼は、ぽつり、ぽつりと、今日この店に駆け込んできた理由を、話し始めた。
「…辞表を、出してきたんです…」
健太のその言葉を、譲二は、ただ黙って、静かに聞いていた。相槌を打つでもなく、質問をするでもなく、ただ、健太の言葉を聞いている。
「あんなに僕に色々言ってきた人たちが、熱心に引き留めてくるのに、あの子はなんてことない顔で、そうなんだって言って…。いつもみたいに、どうしてって、わがまま言ってくれると思ってたんです。先輩がいないと困るって、言ってくれると思ってた…。でも、彼女は、ただ、そっかって…。僕が、いなくなっても、別に、どうでもいいんだって…そう思ったら、なんだか、もう、どうしていいか分からなくなって…」
健太の声は、最後の方は、ほとんど嗚咽に近くなっていた。
「いつもと真逆すぎて、困惑しました…それで、今日一日、仕事をして、ちゃんと家に帰ろうと思ってたんです。でも、昼休みになった途端、もう、居てもたってもいられなくなって…。気づいたら、ここに向かって、走ってました…」
健太の話が途切れても、譲二はしばらくの間、何も言わずに、ただじっと健太の顔を見つめていた。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がると、二つの空になった皿を静かに重ねた。そして、健太の肩を大きな手で、ぽん、と叩いた。
「お疲れさん」
その一言だけを残して、譲二は洗い場の方へと向かっていった。
譲二のその一言は、健太の中に残っていた、最後の壁を、いともたやすく壊してしまった。
「う…、うわああああああ…」
健太は、子供のように、声を上げて泣き始めた。今までずっと、誰にも見せることができなかった、弱くて、情けなくて、どうしようもない、本当の自分。それが、涙と一緒に、堰を切ったように溢れ出してくる。
もう、何も考えられない。ただ、涙が枯れるまで、泣き続けた。
どれくらいそうしていただろうか。泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまっていた健太が、ふと目を覚ます。
厨房の中は、いつの間にかきれいに片付けられており、人の気配はない。窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
(しまった…!)
健太は、慌てて立ち上がると、恐る恐る、厨房のドアからホールを覗き込んだ。
すると、店の奥のテーブル席で、梓と樹、そして譲二の三人が、テーブルを囲んで和やかに食事をしているのが見えた。
健太は、その光景を、まるで別世界の出来事のように、ただぼんやりと眺めていた。
譲二がこちらに気づき、健太と目が合った。
譲二は、何も言わずに、くいっと顎でテーブルの方を指し示す。こっちに来い、という合図だ。
健太は、まるで何かに引かれるように、ふらふらとした足取りで、三人がいるテーブルへと近づいていった。
譲二に促されるまま、健太は空いていた席に、おそるおそる腰を下ろした。
「あの…本当に、すみませんでした…」
健太は、三人の顔を順番に見つめ、小さな声で謝罪の言葉を口にした。
「で、本当にここで働きてえのか?」
譲二は、健太の謝罪には一切触れず、ただ、まっすぐに彼の目を見て尋ねた。その声には、からかいの色も、呆れの色もない。ただ、事実を確認するかのような、真摯な響きだけがあった。
「はい」
健太は、迷いなく、はっきりと答えた。その瞳には、もう先ほどまでの怯えや混乱の色はない。ただ、まっすぐな、強い意志の光が宿っていた。
譲二は、そんな健太の目をじっと見つめ返し、まるでその覚悟の重さを測るかのように、数秒間、黙り込んだ。そして、ふいと視線を外すと、まだ事態が飲み込めていない様子の樹と梓に向かって、ぶっきらぼうに言った。
「…てえわけだ」
譲二のその言葉に、一番に反応したのは梓だった。
「ええっ!? て、てえわけだって…譲二さん、本気で言ってるんですか!?」
梓は、持っていたフォークをカチャンと皿の上に落とし、信じられないという顔で譲二と健太を交互に見つめた。
一方、樹は、その隣で静かにスープを口に運んでいた。彼は、譲二の言葉にも、梓の反応にも、特に驚いた様子を見せない。ただ、健太の方をちらりと見ると、ふっと、穏やかに微笑んだだけだった。
「そっか」
その呟きは、まるで、最初からこうなることが分かっていたかのような、静かな響きを持っていた。
「そっか、じゃないでしょ、お兄ちゃん!」
梓は、あまりにも落ち着いている樹に、思わず食ってかかった。
「なんでそんなに落ち着いてられるの!? いきなり雇うなんて…正気なの!?」
「うーん…でも、譲二さんがいいって言ったし」
「そういう問題じゃないでしょ!」
梓は、はあ、と大きなため息をつくと、頭を抱えた。
「大げさだな」
譲二が、呆れたように言った。
「とはいえ、明日は出勤して、今日突発したこと謝ってくるんだな。職場がどう変わったかきっちり見てこい。それから最終判断だ」
「わかりました」
健太が、力強く頷く。
「でも、譲二さん!」
梓は、まだ納得がいかない様子で、何かを言おうと口を開きかけた。
「梓」
譲二は、その言葉を、静かに有無を言わせぬ響きで遮った。
「こいつも、お前も、いい大人だ。あとは、こいつが自分で決めることだ」
その言葉に、梓はぐっと言葉を飲み込んだ。
5.
翌朝、健太は重い足取りで職場へと向かっていた。
昨日、譲二の温かい賄い飯を食べ、あれだけ泣いて、一度は軽くなったはずの心は、朝になるとまた鉛のように重くなっていた。辞表は受理されたわけではない。今日一日、一体どんな顔をして過ごせばいいのか。
恐る恐る職場のドアを開けると、真っ先に声をかけてきたのは、いつも嫌味ばかり言ってくる先輩だった。
「おい奥寺! 昨日はどうしたんだよ!」
ドアを開けるなり、先輩が血相を変えて詰め寄ってきた。心配しているのではない。苛立っているのだ。
「お前がいないせいで、昨日のデータ入力、俺がやる羽目になったんだぞ! 残業になったじゃないか!」
「そうだよ、奥寺くん」
上司までもが、迷惑そうに眉を寄せて言った。
「君が管理していたファイル、どこにあるんだ? 君しか分からない整理の仕方をされると困るんだよ。急にいなくなられると、課全体の効率が落ちる」
同期たちも、口々に文句を言ってくる。
「お前さぁ、責任感なさすぎない?」
「雑用係がいなくなると困るんだよ、マジで」
健太は、その場に立ち尽くした。
彼らは、健太を心配していたわけではなかった。
ただ、「便利な道具」がなくなって、不便だと騒いでいるだけだったのだ。
その事実に気づいた時、健太の心の中で、何かが音を立てて冷えていった。未練や情が、急速に消え失せていくのを感じた。
(…なんだ、これ)
健太は、あまりの状況の変化に、ただただ困惑するしかなかった。
そんな彼の元に、一人の女性が、つかつかと足早に近づいてくる。彼の、想い人。
「先輩!」
しかし、彼女の口から飛び出したのは、いつものような明るい声ではなかった。
「昨日、急にいなくなって、どれだけ迷惑かけたと思ってるんですか! 私の仕事まで増えたんですよ!」
その剣幕は、健太が今まで一度も見たことのない、本気の怒りに満ちていた。
「ご、ごめん…」
「謝って済む問題じゃないです! もう、本当に、信じられない…!」
彼女は、それだけ言うと、ぷいと顔をそむけ、自分のデスクへと戻ってしまった。
健太は、その場に立ち尽くす。
いつも自分を馬鹿にしていた人たちが、手のひらを返したように優しくなり、いつも自分に優しかった彼女が、今までにないくらい、自分をなじっている。
まるで、世界が反転してしまったかのようだった。
「あら、奥寺さん。昨日はいなかったのね。あなたじゃないと、話が通じなくて困ったわよ」
窓口業務に戻ると、今度は常連の住民から、そんな声をかけられた。
健太は、自分がいなくなったことで初めて見えた職場の風景と、自分自身の本当の価値に、ただ呆然とするしかなかった。
昼休みが近づき、山のようにあった業務にも、ようやく終わりが見えてきた頃だった。
「奥寺くん、ちょっといいか」
不意に声を掛けられて、健太はびくりと顔を上げた。そこには、いつもはミスの指摘しかしない上司が、腕を組んで立っていた。
「は、はい…」
「…屋上、行くぞ」
上司は、健太の顔をまともに見ずにそう言うと、先に立って歩き出した。
屋上のフェンスに背を預け、上司はしばらくの間、黙って遠くの空を眺めていた。健太は、その沈黙に耐えきれず、自分から口を開いた。
「…あの、すみません、昨日は…」
「いや…」
上司は、健太の言葉を遮るように、短く言った。
「悪いのは、お前じゃない。…俺たち、だ」
その言葉には、健太が今まで聞いたことのない、深い後悔の色が滲んでいた。
「お前が、あいつらに色々言われてたのは、知ってた。だが、見て見ぬふりをしてた。…すまん」
突然の謝罪に、健太は言葉を失う。
「お前は、自分が思っている以上に、この職場で必要とされているんだ。お前が辞めたら、あの子も…心配なんだ」
上司の言葉に、健太ははっと顔を上げた。
「彼女は、君がいるから、なんとかやっていけているんだろう。だがな、奥寺。あの子の面倒を見ることが、君の仕事のすべてじゃない」
上司は、少しだけ言い淀むように言葉を切ると、健太に背を向け、ドアの方へと歩き出した。
「…しかしあまり、深入りしすぎるな。君自身の人生を、見失うんじゃないぞ。…私たちみたいに、後悔だけはするな」
その言葉を残し、上司は屋上から去っていった。
一人残された健太は、しばらくの間、ぼんやりと空を眺めていた。そして、ゆっくりと、自分の席へと戻っていく。
その足取りは、まだ少しだけ、頼りなかったが、その瞳には、もう迷いの色はなかった。
6.
自席に戻った健太は、目の前の書類の山に、ゆっくりと視線を落とした。
昨日まで、ただ無機質な文字の羅列にしか見えなかったそれらが、今は、自分の仕事の確かな軌跡として、彼の目に映っていた。
(…そうか。俺は、ちゃんと、やってこられたんだ)
上司の言葉、そして梓の言葉が、健太の心の中で、ゆっくりと反芻される。
自分は、弱い人間だと思っていた。何もできない、つまらない人間だと。
でも、違ったのかもしれない。
嫌なことから目を背け、好きな子の存在を言い訳にして、ただ停滞していただけ。本当は、この場所から一歩踏み出す勇気がなかっただけなのだ。
健太は、そっと引き出しから、昨日叩きつけるように提出した辞表を取り出した。彼は、その白い紙をじっと見つめ、そして、決意を固めるように、丁寧に折りたたむと、再び引き出しの奥へとしまった。
しかし、それは、この場所に留まるという決意ではなかった。
全てにきちんと片を付けてから、自分の足で、ここを出ていく。
そのための、最初の儀式だった。
数日後の夜。
バータイムの喧騒が、心地よいジャズの音色と共に、店内に満ちていた。
梓が、カウンターの中でシェイカーを振っていると、カラン、とドアベルが鳴った。
入り口に立っていたのは、奥寺健太だった。
スーツ姿ではない。洗いざらしのシャツに、チノパンという、ラフな、しかし清潔感のある服装。その表情には、もう以前のような怯えや混乱の色はなく、ただ、静かな決意だけが宿っていた。
「いらっしゃいませ、奥寺さん」
梓は、少しだけ驚きながらも、すぐにいつもの笑顔で彼を迎えた。
「あちらの席へどうぞ」
梓がカウンター席を指し示すと、健太は、こくりと頷き、静かにその席に腰を下ろした。
「ご注文は?」
「…その前に、少しだけ、お話してもいいですか」
健太の声は、まだ少し小さいが、その響きには、確かな芯が通っていた。
梓は、黙って頷くと、彼の次の言葉を待った。
「僕、来週、会社辞めます」
その言葉は、あまりにも、あっさりと、彼の口から紡がれた。
「でも、その前に、橘さんにお願いがあります」
健太は、一度、ごくりと唾を飲み込むと、梓の目をまっすぐに見つめて言った。
「僕の人生の、次の行き先を、一緒に探してください。派遣ソムリエとして」
健太の真摯な瞳を受け止め、梓は静かに微笑んだ。
「…もちろん、お受けいたします。ですが、私のコンサル料は、決して安くはありませんよ?」
彼女は、あえて、少し意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「はい、存じております。なので…」
健太は、そこで一度、言葉を切った。そして、深々と、頭を下げた。
「僕を、ここで働かせてください。あなたのコンサル料を、この店で働きながら、支払わせてください。…もちろん、譲二さんの、許可がいただければ、ですが」
それは、先日、彼が絶望の淵で叫んだ言葉と同じだった。
しかし、その言葉に込められた意味は、もう、全く違うものになっていた。
健太の、静かだが、覚悟の決まった声が、店の喧騒の中に、確かに響いた。
その声に、厨房の奥から、譲二が顔を出す。そして、健太の姿を認めると、何も言わずに、指先でくい、くい、と「こっちへ来い」と合図を送った。
健太は、その合図に、一度だけ、梓の方を向いた。梓は、ただ、静かに微笑み、小さく頷き返す。
その微笑みに背中を押されるように、健太は、決意を固めた足取りで、厨房の中へと入っていった。
週が明けた月曜日。
昼休み、健太は、休憩室で一人、弁当を広げている後輩の元へ、ゆっくりと歩み寄った。
「佐藤さん」
健太の声に、彼女はきょとんとした顔で顔を上げる。
「先輩? どうかしたんですか?」
「…少しだけ、いいかな」
健太は、彼女の向かいの席に腰を下ろすと、一度、ぎゅっと目を閉じた。そして、ゆっくりと息を吐き出すと、覚悟を決めたように、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「この間のこと、それと…今まで、ありがとう」
「は? 何がですか?」
後輩は、心底不思議そうな顔をしている。
「君が、いたから…僕は、この職場にいられたんだ。君の、その…まっすぐなところが、ずっと、羨ましくて、眩しくて…」
健太は、言葉を選びながら、ゆっくりと、しかし、はっきりと続けた。
「好きでした。君のことが」
その言葉に、後輩の目が、驚きに見開かれる。
「でも、僕は、ここを辞める。君を理由に、この職場に居続けるのは、もうやめるんだ。君にも、僕自身にも、失礼だから」
健太は、そう言い切ると、ふっと、憑き物が落ちたように、穏やかな笑みを浮かべた。
後輩は、しばらくの間、何も言えずに、ただ健太の顔をじっと見つめていたが、やがて、ぷいと顔をそむけ、小さな声で呟いた。
「…ばかじゃないですか、先輩」
その声は、震えていた。彼女は、派手なネイルが施された指先を、痛いくらいに強く握りしめていた。
「先輩がいなくなったら、誰が私を守ってくれるんですか。あの窓口で、あのお客さんたちに怒鳴られて……私一人で、どうやって笑っていればいいんですか」
彼女の目から、ポロリと涙がこぼれた。その涙は、派手なメイクの下に隠していた、彼女の等身大の弱さそのものだった。
「派手な格好してないと舐められるし、強気でいないと潰されちゃうし……。先輩がいたから、私はここで息ができてたんですよ」
健太は、そんな彼女の告白を、静かに受け止めた。
「うん。ごめんね。でも、君なら大丈夫だ」
健太は優しく、しかし突き放すように言った。
「君は、君が思っているよりずっと強いから。僕なんていなくても、きっと、自分の足で立てるよ」
それから、一ヶ月後。
「Cafe&Bar 木漏れ日」の厨房では、二人の男が、黙々と仕込み作業を進めていた。
一人は、この店の料理を一人で取り仕切る、いかつい顔のシェフ、譲二。
そしてもう一人は、少しぎこちない手つきで、しかし真剣な眼差しで野菜の皮をむいている、奥寺健太だった。
「おい、健太。まだ終わんねえのか」
譲二の、いつものようにぶっきらぼうな声が飛ぶ。
「す、すみません! もう少しで…」
健太は、慌ててじゃがいもの皮をむくスピードを上げる。しかし、その手つきは、一ヶ月前とは比べ物にならないほど、滑らかになっていた。
公務員を辞め、この店で働き始めて一ヶ月。健太の生活は、一変した。
朝は、譲二の指導のもと、厨房で仕込みを手伝い、昼は、樹や梓と一緒にホールに出る。夜は、バーテンダー見習いとして、梓からカクテルの基礎を学ぶ。毎日が、新しいことの連続で、目まぐるしく過ぎていく。
しかし、彼の表情には、以前のような疲労の色はない。むしろ、その瞳は、新しいことを学ぶ喜びに、キラキラと輝いていた。
「奥寺くん、ちょっといい?」
ランチタイムのピークが過ぎ、客足が落ち着いた頃。梓が、健太に声をかけた。それは、彼らの「面談」の始まりの合図だった。
二人は、店の奥のテーブル席に向かい合って座る。梓は、手元のタブレットに表示された求人リストを見ながら、しかしそれを指すことはなく、健太の目をじっと見つめた。
「一ヶ月働いてみて、どうだった?」
「はい。大変でしたけど…でも、楽しかったです。お客様が、『ありがとう』って言ってくれるのが、こんなに嬉しいなんて知らなくて」
健太は、照れくさそうに、しかし充実した表情で答えた。
梓は満足そうに頷くと、タブレットの画面を消してテーブルに置いた。
「奥寺くん。当初は『静かな環境でできる仕事』として図書館司書などを候補に挙げていたけれど…考えを変えましょう」
「え?」
「あなたは、人と接する仕事をするべきよ」
梓のきっぱりとした言葉に、健太は驚いて目を見開く。
「む、無理ですよ! 僕、口下手だし、気の利いたことなんて言えないし…」
「ううん、違うの」
梓は身を乗り出し、真剣な眼差しで言った。
「この一ヶ月、あなたの働きを見ていて気づいたわ。あなたは、お客様が言葉にする前の『小さな要望』に気づくのがとても上手。お冷が欲しいタイミング、空調が寒そうな様子、そういうのを誰よりも早く察知して動いていたわ」
「それは…ただ、気になるだけで…」
「それが才能なのよ」
梓は優しく微笑んだ。
「饒舌に商品を売り込む営業マンではなく、お客様の言葉にならない想いを汲み取るコンシェルジュのような仕事。それが、あなたの天職だと思うわ」
健太は呆然とした。そんな風に自分を評価されたことなど、一度もなかったからだ。
「…『言葉にならない想いを汲み取る』、か」
不意に、低い声が響いた。仕込みの手を休めた譲二が、カウンター越しに二人を見ていたのだ。
「だったら梓、あそこはどうだ?」
「え?」
「駅裏の、古いブティックだ。オーナーが嘆いてたぞ。『最近の若い販売員は自分の売りたい服ばかり勧めてくる』ってな。あそこの頑固親父が探してたのは、まさにそういう『客の心に寄り添える』男なんじゃねえか?」
その言葉に、梓はポンと手を打った。
「あのお店! 確かに…あそこのオーナーなら、奥寺くんの誠実さを一番に評価してくれるかも!」
梓は興奮気味に健太に向き直った。
「奥寺くん、すごくいい話かもしれない。流行を追うのではなく、その人に本当に似合うものを一緒に探すお店なの。あなたの性格にぴったりよ」
梓の分析と、譲二の提案。二人の言葉が、パズルのピースのようにカチリとはまった。
健太は、二人を交互に見つめ、そしてゆっくりと、しかし力強く頷いた。
「…ありがとうございます。ぜひ、挑戦させてください」
「おう。話しておくよ」
7.
数日後、健太は、譲二に教えられた住所のブティックの前に立っていた。ガラス張りのドアの向こうには、派手さはないが、上質で、丁寧に作られたであろう洋服が、ゆったりと並べられている。健太は、一度、ごくりと唾を飲み込むと、意を決してドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声に迎えられ、健太は、カウンターの奥に立つ、白髪の紳士と目が合った。
「あの、譲二さんの、紹介で…」
「ああ、君が健太くんか。話は聞いているよ。さあ、こちらへ」
紳士は、にこやかにそう言うと、店の奥にある、小さな応接セットへと健太を案内した。
「うちは、見ての通り、今時珍しい、古臭い店でね」
紳士は、自分で淹れたらしいコーヒーを健太の前に置きながら、少しだけ自嘲気味に笑った。
「流行を追いかけるわけでもなく、ただ、本当に良いものを、長く着てくれる人に届けたい。それだけなんだ」
健太は、その言葉に、なぜか、譲二の作る料理を思い出した。
「だから、うちに必要なのは、口がうまい販売員じゃない。ただ、静かに、お客様の話を聞いて、その人に本当に似合う一着を、一緒に探してくれるような、そんな人間なんだ」
紳士のその言葉は、健太の心の奥底に、すっと染み込んでいくようだった。
「譲二から聞いたよ。君は、真面目で、誠実で、そして、人の心の機微が分かる男だってな」
「い、いえ、そんな…」
健太は、慌てて首を横に振る。しかし、紳士は、そんな健太の様子を、楽しそうに見つめていた。
「どうだい? こんな店だが、君さえよければ、一度、試してみないか」
その問いに、健太は、もう迷わなかった。
「…はい。よろしくお願いします」
とんとん拍子に話は進み、健太の新しい人生の歯車が、静かに、しかし確かに、回り始めた。
それからさらに半年が過ぎ、街がクリスマスのイルミネーションで輝き始める頃。
健太の生活は、新しいリズムを刻んでいた。週に三日は、紳士のブティックで。そして、週に二日は、「Cafe&Bar 木漏れ日」で。二つの職場を行き来する毎日は、忙しくも、充実していた。
ブティックでは、彼は持ち前の真面目さと、木漏れ日で培った観察眼を活かしていた。無理に商品を勧めることはしない。ただ、お客様の話に静かに耳を傾け、その人の持つ雰囲気や、言葉の端々から、本当に求めているものを探り出す。
「奥寺さん、あなたに選んでもらうと、不思議と自分でも知らなかった自分に出会える気がするわ」
常連の婦人にそう言われた時は、耳まで真っ赤になったが、その心は、確かな喜びで満たされていた。
そして、木漏れ日での時間は、彼にとって、心を調律する大切な時間だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターに立ち、自然な笑顔で客を迎える。常連客とは、天気の話や、最近読んだ本の話など、他愛もない会話を交わす。半年前には考えられなかった光景だ。
「健太くん、板についてきたじゃない」
梓が、からかうように言うと、健太は、少し照れながらも、はっきりと返す。
「梓さんのおかげです。いつも、ありがとうございます」
そのやり取りを、樹が、そして譲二が、温かい眼差しで見守っている。
ここには、彼を受け入れ、彼の成長を心から喜んでくれる人たちがいる。
健太は、もう、誰かの顔色をうかがって、自分を押し殺すことはない。
自分の足で立ち、自分の言葉で話し、そして、自分の人生を、自分の力で歩んでいる。
その事実が、彼に、何物にも代えがたい、自信と安らぎを与えてくれていた。
年内の営業最終日。
最後の客を見送り、店のドアに「CLOSED」の札をかけた後、四人は、いつものようにテーブルを囲んでいた。
「…あの」
健太が、少しだけ緊張した面持ちで口を開いた。
「ブティックの方、正式に採用していただけることになりました。来年から、正社員として、働かせてもらうことになります」
その報告に、三人は、温かい笑顔を咲かせた。
「おめでとう、健太くん!」
樹が、心から嬉しそうに言う。
「おう、そうか。そりゃあ、よかったじゃねえか」
譲二の目元も優しく細められている。
「…では」
梓は、静かに立ち上がると、カウンターの中へと入っていった。
「派遣ソムリエとして、最後の仕事です」
彼女は、そう言うと、磨き上げられたシェイカーを手に取り、健太のためだけの一杯を、作り始めた。
梓が手に取ったのは、意外にも、華やかなリキュールのボトルではなかった。香ばしい香りを放つ、ほうじ茶のリキュール。そして、コーヒーリキュールと、少量の生クリーム。
それらを静かに、しかし正確な動きでシェイカーに注ぎ込むと、梓は健太の目をまっすぐに見つめながら、リズミカルにシェイクを始めた。シャカ、シャカ、という心地よい音が、静かな店内に響き渡る。
やがて彼女はシェイクを止めると、温かみのある陶器のカップに、とろりとした液体を注いだ。それは、一見すると、ただのカフェオレのようにも見えるカクテルだった。
しかし梓は、最後に小さなケースから、ほんの少しだけ金粉を取り出すと、そっとカクテルの表面に振りかけた。ささやかな金色の粉が、茶色い液体の上で、星のように静かに輝く。
「お待たせいたしました。『The Ordinary』…ありふれた、しかし特別な一杯です」
梓は、そのカクテルを、健太の前にそっと置いた。
「ありふれた毎日の中にこそ、宝物は隠れているものです。奥寺さんは、もうその見つけ方を、ご存知のはずですよ」
健太は、目の前のカップと、梓の顔を交互に見つめた。そして、ゆっくりとカップを手に取り、その香ばしい香りを吸い込むと、静かに一口、口に含んだ。
ほうじ茶の香ばしさと、コーヒーのほろ苦さ、そしてクリームの優しい甘さ。その全てが、完璧な調和をもって、彼の心と体に染み渡っていくようだった。
「…おいしい、です」
健太は、心の底から、そう呟いた。
その顔には、もう、かつての彼がまとっていた、頼りなさや、自信のなさといった影は、どこにもなかった。
~後日談~
梓が健太に派遣ソムリエのセッション終了の一杯を捧げてから、三ヶ月が過ぎた土曜日の午後三時。
厳しい冬の寒さも和らぎ、店先の街路樹の枝には、小さな新芽が顔を出し始めていた。
カラン、とドアベルがいつものように来店を告げた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中でグラスを磨いていた梓が顔を上げると、そこに立っていたのは、奥寺健太だった。その隣には、一人の女性が、少しだけ緊張した面持ちで立っている。
「健太くん!」
バックヤードから顔を出した樹が、嬉しそうに声を上げる。
「いらっしゃい。久しぶりだね」
「ご無沙してます、樹さん、梓さん」
健太は以前とは比べ物にならないほど自然で、穏やかな笑顔を浮かべていた。その立ち姿からは、もうかつての頼りなさは感じられない。
しかし、梓と樹の視線は、健太の隣にいる女性に釘付けになっていた。
顔立ちは変わらないが、その雰囲気はまるで別人のようだった。流行の服に身を包み、派手なネイルをしていた以前の彼女とは違い、今はシンプルなワンピースに、ナチュラルなメイク。長く伸ばしていた髪は、肩のあたりで切りそろえられ、その表情は、どこかおとなしく、はにかむような優しい光を宿している。
それは、健太が最初に語った、太陽のようなという言葉とは少し違うが、確かに、彼の言葉の中にあった、彼女の優しさを体現しているかのようだった。
「こんにちは…」
後輩は梓と樹の視線に気づくと、恥ずかしそうに、しかし丁寧に、ぺこりと頭を下げた。その仕草は、以前の彼女からは、到底考えられないものだった。
梓と樹は、顔を見合わせる。
その時、厨房を仕切るカーテンが内側からわずかに揺れ、その中央の切れ目から、譲二が姿を現した。
「おう、来たか」
譲二は、嬉しそうな声で言った。カフェタイムには、よほどのことがなければホールに出てこない彼の登場に、店内にいた常連客たちが、ざわめき立つ。
常連客たちは、昼間に譲二がホールに出てくるのはよほどのトラブルがあった時だけだと知っている。彼らは一斉に口をつぐみ、固唾をのんで、不安そうな目を譲二に向けた。譲二は、そんな客たちの視線に気づくと、安心しろ、とでもいうように片手をひらりと上げてみせ、まっすぐに健太の方へと歩いていった。
譲二は、二人に奥のテーブル席に誘導した。
「こっちだ」
健太と後輩が促されるままに席に着くと、譲二は二人の前に立ったまま、腕を組んだ。その表情は、いつものように厳めしいが、その目には、温かい光が宿っている。
残された樹と梓に、常連客たちの好奇の視線が一斉に突き刺さる。「一体何事だ」「何か特別なことでもあるのか」と、声なき声が店内に満ちているようだ。
しかし、当の梓と樹も何が何だかさっぱり分からない。ただ、困ったように顔を見合わせ、常連客たちと無言で視線を交わすことしかできない。
その奇妙な沈黙を破ったのは、譲二の鋭い声だった。
「おい、注文」
「は、はい!」
梓は、はっと我に返ると、慌ててお冷のピッチャーを手に取り、健太たちのテーブルへと向かった。その背中に、常連客たちの好奇心に満ちた視線が突き刺さる。
梓は、背中に突き刺さる視線を感じながらも表情を崩さず、二人の前にそっとお冷を置いた。
「ご注文は、お決まりですか?」
腕を組んだまま立っていた譲二が、後輩の顔をじっと見つめて言った。
「シフォンケーキ、まだ好きか?」
その、あまりにも唐突な、そして親しげな問いかけに、梓は驚いて目を見開いた。
後輩は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに、ぱあっと顔を輝かせた。
「え、覚えててくれたの? うん、食べる!」
「おう。今日は特別に、お前の好きなフルーツも乗せてやる」
「ほんと!? やったー!」
まるで、祖父と孫のような、自然で、温かいやり取り。その光景に、梓は完全に思考が停止する。
(え…? なに…? どういうこと…?)
梓が混乱して二人を交互に見ていると、健太がその様子に気付き、くすりと小さく笑った。その表情は、まるで「驚きましたか?」とでも言っているかのようだ。
「…では、お二人ともシフォンケーキのセットでよろしいですか?」
梓は、なんとか平静を装って尋ねた。
「はい、お願いします」
健太は、にこやかに答えた。
梓が伝票に注文を書き終えた、その瞬間だった。譲二が、ひょいと、梓の手から伝票を奪い取った。
「えっ」
「飲み物は、健太はいつものカフェオレで、お嬢ちゃんはミルクティーでいいんだな?」
譲二は、健太と後輩に確認するように尋ねる。二人は、こくりと頷いた。
「樹、飲み物は頼む」
譲二は、カウンターの中にいる樹にそう伝えると、再び厨房のカーテンの奥へと消えていった。デザート作りは普段は樹や梓に任せている譲二だが、今日のシフォンケーキは、自ら腕を振るうつもりらしい。
梓は、伝票を奪われた格好のまま、呆然と、譲二が消えていった厨房のカーテンを見つめていた。
その、時が止まったかのような梓の姿に、健太と後輩は、どちらからともなく、ぷっと吹き出した。そして、一度笑い出すと、もう止まらない。
「あはははは!」
「ふふっ…すみません…」
健太は、心から楽しそうに笑い、後輩は口元を手で押さえながらも、その肩をくすくすと震わせている。
その笑い声は、店内の空気を一気に和ませ、常連客たちも、つられて微笑み始めていた。
梓は、自分が笑いの中心になっていることに気付き、はっと我に返った。どれくらい、こうしていたのだろう。
顔に、カッと熱が集まるのを感じる。いつも冷静沈着な彼女が、客の前で、こんなにも分かりやすく動揺を見せるのは、非常に珍しいことだった。
「あ、あの…」
今度は健太が、困ったように、しかしどこか楽しそうに口を開いた。
「実は譲二さん、お店が休みの日にちょこちょこ僕の様子を見に来てくれていまして…その足で事務手続きをしに彼女のいる窓口にも顔を出して、親睦を深めていたみたいなんです」
「えっ!?」
梓は、今度こそ素で驚きの声を上げた。
健太の隣では、後輩がその言葉を肯定するように、こくりと頷いた。
「えー?」
梓は、まだ状況が飲み込めず、混乱した声を漏らした。
「お待たせ」
そこへ、樹が二人の飲み物を乗せたトレイを持って、にこやかにやってきた。驚いた様子のない樹に、梓が思わず詰め寄る。
「知ってたの?」
梓が、信じられないという顔で樹を見つめる。
「ううん、知らなかった」
樹は、まるで何もかも知っていたかのように、楽しそうに笑うと、健太と後輩の前に、そっとカップを置いた。
健太の前に置かれたカフェオレには、やはり、あの少し歪んだ猫のラテアートが施されている。
「あ、またこの猫!」
後輩が、懐かしいものを見るように、嬉しそうに声を上げた。
「相変わらずですね、樹さん」
健太も、穏やかに笑っている。
「失礼だなあ。これでも、少しは上達したと思うんだけど?」
樹は、少しだけむくれたように言うが、その口元は笑っていた。
三人が和やかに笑い合う中、梓だけがその輪に入れずに、ただ呆然と立ち尽くしていた。
そこに、厨房のカーテンが揺れ、譲二が姿を現した。その左手には、フルーツがたっぷりと乗ったシフォンケーキの皿が二枚。そして右手には、メープル、チョコレート、ベリーの三種類のシロップのボトルが握られている。
「ほらよ、お待ちどうさん」
譲二が、テーブルに皿とシロップを並べると、後輩は目をキラキラと輝かせた。
「うわー! すごい!」
「お好きなだけかけろ」
その言葉に、後輩は嬉しそうに頷き、健太もまた、幸せそうに微笑んでいる。
「梓ちゃん、戻るよ」
樹が、まだ固まっていた梓の腕をそっと引き、カウンターの中へと連れ戻した。
「…私、今日、何にもしてない…」
梓は、カウンターにもたれかかりながら、力なく呟いた。その声には、派遣ソムリエとしてのプライドが、少しだけ傷つけられたような響きがあった。
「今回は、譲二さんのターンだね」
樹は、ただ優しく微笑みながら、そう言った。
時間が経過するにつれて、常連客たちが一人、また一人と席を立つ。
「梓ちゃん、今日は面白いものが見られたよ」
「たまには、あんたのそういう顔も悪くないねえ」
「また来るよ」
誰もが梓の肩をぽんと叩いたり、くすくすと笑いながら、温かい言葉を残して帰っていく。その視線は、もう好奇のものではなく、ただただ、この店の日常を愛おしむような、優しい色をしていた。
「今日は少し早めに閉めちゃおうか」
樹が、店内の様子と外の人通りが少なくなってきたのを確認して、梓に声をかけた。
「じゃあ、僕たちも…」
その言葉を聞いて、健太と後輩が立ち上がり、レジの方へと向かおうとする。しかし、自分たちのテーブルに伝票がないことに気づいた。
「あの、伝票が…」
健太が戸惑っていると、譲二が口を挟む。
「ああ、そいつはいらねえ」
「え?」
健太と後輩が、驚いて譲二の顔を見る。
「今日は、珍しいもんが見れたからな。梓のあんな顔、めったに見られるもんじゃねえ。今日の代金は、それで十分だ」
譲二は、そう言うと、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「じょ、譲二さん!」
梓の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。その様子を見て、健太と後輩は、どちらからともなく、また笑い出した。
つられて樹も笑い出す。
「もう! みんなして!」
「あはは、ごめんごめん、梓ちゃん」
しかし、本気でへそを曲げている梓の様子に気づくと、慌ててフォローを入れた。
「でも、今日の梓ちゃん、可愛かったよ。あんなに慌ててるの、初めて見た」
「うるさい! お兄ちゃんのせいでもあるんだからね!」
店内に、もう健太たちしかいないからか、梓は子供のように頬を膨らませて、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「えー? 僕も悪いのー?」
樹は、心底不思議そうに、しかし楽しそうに笑った。
その屈託のない笑顔に、梓の怒りも、いつの間にかどこかへ消えてしまう。
健太と後輩も、そんな二人の様子を見て、また声を上げて笑った。
温かい笑い声が、春の午後の日差しが差し込む店内に、いつまでも、いつまでも響いていた。
大型連休の賑わいも落ち着きを取り戻した、五月のある金曜日。
空は高く澄み渡り、吹く風はまだ夏の熱を帯びていない、一年で最も過ごしやすい季節。
カフェタイムの終了まで残り三〇分ほどとなった「Cafe&Bar 木漏れ日」には、午後の穏やかな時間が流れていた。
カラン、とドアベルが、ためらうように小さく鳴った。
入り口に立っていたのは、一人の若い男性だった。着慣れない様子のジャケットに、少し緊張した面持ちで店内をうかがっている。その手は、何度もズボンの縫い目をなぞり、落ち着きなく動いていた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中でコーヒー豆の選別をしていた梓が、その姿に気づき、柔らかい声をかける。
「あ…あの…」
男性は、梓の声にびくりと肩を震わせると、何かを言いかけたが、その言葉は声にならずに消えてしまう。
「橘、ですが…。ご予約の、奥寺様でいらっしゃいますか?」
梓のその言葉に、男性――奥寺健太は、少しだけ安堵したように、こくりと小さく頷いた。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
梓は、健太の緊張をほぐすようににっこりと微笑み、彼を奥のテーブル席へと案内した。向かいの席に腰を下ろした梓は、何も言わずに、彼が話し始めるのを待った。
しかし、健太は、テーブルの上に置かれた自分の手と、メニューの隅を、交互に視線を行き来させるだけで、一向に口を開こうとしない。その背中は固く、まるで石像のようになってしまっている。
(…無理もないか)
梓は、彼の様子をそれとなく観察しながら、心の中で呟いた。電話で予約を受けた時の、あの消え入りそうな声。今日、この店のドアを開けるまでに、彼はどれほどの勇気を振り絞ったのだろう。そう思うと、梓は、彼の沈黙さえもが、彼の心の叫びのように聞こえてくるのだった。
その時、ふわりと、店内に芳ばしいコーヒーの香りが広がった。健太が、その香りに誘われるように、ほんの少しだけ顔を上げる。
「お待たせいたしました」
いつの間にか、樹が二つのカップを乗せたトレイを手に、テーブルの傍らに立っていた。
しかし、彼が健太の前に置いたのは、コーヒーではなく、ミルクがたっぷりと入った、温かいカフェオレだった。
健太は、目の前に置かれたカップに視線を落とした。
白いミルクの泡の上には、少しだけ歪んだ、しかし一生懸命に描いたことが伝わってくる、猫のラテアートが施されていた。その場の緊張した空気には、あまりにも不釣り合いな、ほのぼのとした絵だった。
健太の口元が、ほんの少しだけ、緩んだ。嬉しい、と思った。子供っぽいと思われたかもしれないが、純粋に嬉しかったのだ。
しかし、その微笑みは一瞬で消え去る。まるで、こんな真剣な場で気を緩めた自分を、誰かに見咎められたかのように。
健太は、はっとしたように顔を俯かせ、再びテーブルの上の自分の指先を、じっと見つめ始めた。
「へたくそでごめんね? 今、練習中なんだ」
樹の優しい声が、健太の頭上から降ってきた。
その声に、梓は呆れたように声を上げる。
「お兄ちゃん、それ、先月からずっと言ってない? 全然うまくならないじゃない」
「うっ…、い、一生懸命やってるんだけどな…」
梓の容赦ない指摘に、樹がたじたじになっている。そんな二人のやり取りに、俯いていた健太が、ぽつりと呟いた。
「…あの、味があって、いいと、思います」
「「え?」」
梓と樹が、同時に健太の方を向く。健太は、顔を真っ赤にしながらも、もう一度、今度は少しだけはっきりとした声で言った。
「その…なんていうか、温かい感じがして…いいなって…」
それは、この場で初めて、彼自身の意思で紡がれた言葉だった。
その言葉に、今度は樹の方が、少しだけ顔を赤らめた。そして、照れ隠しのように、ふわりと微笑む。
健太は、その笑顔を正面から見てしまい、心臓が大きく跳ねるのを感じた。白い髪、透き通るような肌、そして、中性的な顔立ち。改めてまじまじと見ると、その美しさは、現実離れしているようにさえ思えた。
(うわ…きれいな人だ…)
健太の頭の中は、混乱していた。そして、その混乱のまま、彼の口から、思ってもみなかった言葉が飛び出した。
「…男性、ですか…?」
健太の口から飛び出した言葉に、店の空気が一瞬、ぴしりと凍りついた。
(しまった…!)
健太は、自分の失言に、さっと血の気が引くのを感じた。目の前の美しい人の顔から、すっと表情が消えたように見えた。向かいに座る梓も、驚いたように目を見開いて固まっている。
(終わった…)
健太は、ぎゅっと目を閉じた。せっかく勇気を出して来たのに、なんて失礼なことを言ってしまったんだ。もう、ここにはいられない。
「…えっと」
数秒の沈黙の後、最初に口を開いたのは樹だった。
「うん、いちおう、男、かな」
その声は、怒っているでも、呆れているでもなく、ただ、少しだけ困ったような、それでいてどこか面白がっているような、不思議な響きを持っていた。
健太がおそるおそる目を開けると、樹は自分の真っ白な髪をくしゃりとかき混ぜながら、うーんと首を捻っていた。
「やっぱり、この髪型が悪いのかなあ。よく、間違えられるんだよね」
「お兄ちゃんは昔から分かりにくいところがあるからねぇ」
樹の言葉を引き継ぐように、梓がくすくすと笑いながら言った。その顔には、もう驚きの色はなく、いつもの表情が戻っている。
「髪型のせいだけじゃないと思うけど?」
「えー、そうかなあ」
梓の追い打ちに、樹は本気で困ったように眉を下げる。そのやり取りは、あまりにも自然で、温かくて、健太の心から、すうっと緊張が抜けていくのを感じた。
「いつも、こうなんです…」
ぽつりと、健太が呟いた。その声は、まだ蚊の鳴くようだったが、先ほどまでの沈黙を破る、確かな一歩だった。
「いつもこうって?」
梓が、優しい眼差しで聞き返す。
「いつも、こういうことになっちゃうんです…。何か、話さなきゃって思うと、頭が真っ白になって…変なことばっかり言っちゃうんです…」
彼は、自分の両手をぎゅっと握りしめた。その指先が、小さく震えている。
「今日も、こんなことを言いに来たんじゃないのに…」
そう言って、健太は再び顔を俯かせてしまった。そのなで肩の背中が、やけに小さく、頼りなく見えた。
「変なこと?」
樹が、純粋に不思議そうに、こてんと首をひねった。健太が何を「変なこと」だと思っているのか、全く分かっていない様子だ。
その無垢な反応に、梓は思わず苦笑いを浮かべた。
「わかりますよ、奥寺さん。私も、昔はよくやりましたから。良かれと思って言った一言が、後から考えると、とんでもない失言だったりするんですよね」
梓の優しいフォローに、健太は少しだけ、救われたような気持ちになった。
「ああ、そういうことか」
梓の言葉を聞いて、樹はようやく健太の言いたかったことを理解したように、ぽんと手を打った。
「なんだ、そんなことか。僕なんて、もっとひどかったよ?」
彼は、どこか懐かしむような目で、遠くを見つめた。
「バーテンダーの見習いだった頃、初めて一人でカウンターに立った日があったんだ。師匠に、『とにかくお客様を楽しませろ』って言われてね。それで、僕なりに一生懸命、面白い話をしようとしたんだけど…」
樹は、一度言葉を切り、くすりと笑った。
「緊張しすぎて、用意していたジョークは全部飛んじゃうし、お客様の質問にはしどろもどろだし。挙句の果てには、シェイカーを派手に落として、カクテルをお客様の目の前でぶちまけちゃったんだ」
「へぇ、そんなことあったんだ」
梓が、意外そうに相槌を打つ。
「あの時は、本当に死ぬかと思ったよ。もう、この仕事は向いてないって、本気で辞めようと思った。でも、その時、師匠がね…」
樹は、穏やかな表情で、健太の目をまっすぐに見つめた。
「『お前が一番楽しんでないじゃないか』って、頭をこつんとやられたんだ。『お客様を楽しませる前に、まずお前が楽しめ。失敗なんて、そのあといくらでも取り返せる』ってね」
その言葉は、健太の心に、じんわりと染み込んでいくようだった。失敗してもいい。楽しんでいい。そう、自分が言われたような気がして、固く握りしめていた拳の力が、少しだけ抜けた。
「だから、奥寺さんも、大丈夫。何も、変なことじゃないですよ」
樹のその言葉は、まるで魔法のように、健太の心を軽くしていった。
二人の温かい空気に背中を押されるように、健太は、ぽつり、ぽつりと、今日ここに来た本当の理由を話し始めた。
「あの…職場に、好きな人が、いるんです」
絞り出すような、しかし、覚悟を決めた声だった。
健太のその告白に、樹と梓は、驚いた顔を見せるでもなく、ただ、優しく微笑んだ。
「そうなんですね」
梓が、穏やかに相槌を打つ。
「素敵じゃないですか」
樹が、柔らかく言葉を添える。いつの間にか彼は、梓の隣の席に腰を下ろしていた。
二人のあまりにも肯定的な反応に、健太は少しだけ拍子抜けしたような、それでいて、心の底から安堵したような、不思議な気持ちになった。
「後輩なんです。いつも、明るくて、元気で…誰にでも優しくて…。僕みたいな、地味な人間にも、普通に話しかけてくれて…」
話し始めると、もう、言葉は止まらなかった。彼女の笑顔がどれだけ素敵か、彼女の気遣いがどれだけ嬉しいか、彼女の声を聞くだけで、一日が幸せな気持ちになること。健太は、今まで誰にも話したことのない想いを、夢中で二人に語っていた。
樹も梓も、一切茶化すことなく、ただ真剣に、そして時折、我がことのように嬉しそうに、彼の言葉に耳を傾けている。
健太は、話しているうちに、自分が今までどれだけ彼女のことを目で追い、そして、どれだけ彼女のことを想っていたのかを、改めて自覚させられていた。
ボーン、ボーン。
壁の古時計が、どこか物悲しい音を立てて現在に時間を告げる。しかし、三人は誰も、それに気づかない。健太の話は、まだ続いていた。
「おい、お前ら」
厨房のドアが、ぎぃ、と音を立てて開いた。エプロンを外した譲二が、呆れたような顔で立っている。
「とっくに閉店時間過ぎてんぞ。何やってんだ」
「あ…」
その声に、三人ははっと我に返り、顔を見合わせた。
「ご、ごめんなさい! すぐに…」
健太が慌てて立ち上がろうとするのを、譲二は手で制した。そして、樹の方に鋭い視線を向ける。
「樹、お前が時間に無頓着なところは昔から変わらないな」
「え…?」
譲二の言葉に、健太は、驚いて樹と譲二の顔を交互に見つめた。
健太の視線に気づいた樹は、少し照れくさそうに頬を掻いた。
「まあ…その…僕の師匠です」
その小さな声に、梓が「ぷっ」と吹き出す。健太も、厳格な師匠と、目の前でしどろもどろになっている弟子という、あまりにも意外な組み合わせに、思わず口元が緩んだ。
譲二は、そんな三人の様子を意に介するでもなく、樹の腕を掴んだ。
「ほら、お前はもういい。夜の部の準備があるだろうが」
「え、でも…」
「ここは梓に任せておけ。お前はさっさとこっちを手伝え」
譲二はそう言うと、名残惜しそうにする樹を、半ば引きずるようにして厨房へと連れて行った。
残されたテーブルには、しばしの沈黙が流れた。
健太は、先ほどの三人のやり取りを思い出し、ぽつりと呟いた。
「…パートナー、なんですね」
「え?」
突然の言葉に、梓はきょとんとした顔で健太を見つめた。
「いえ、師匠と弟子っていうよりは、なんだか…その、足りないところを補い合って、支え合ってる感じがして…。だから、パートナーみたいだなって」
健太は、俯き加減に、しかしはっきりとした口調で言った。
「よく気づきましたね」
梓は、彼の言葉に、一瞬だけ目を見開いた。そして、次の瞬間、まるで面白いものを見つけたかのように、楽しそうに、そして少しだけ感心したように、くすくすと笑い出した。
その笑い声につられるように、健太の表情も少しだけ和らぐ。梓は、手にしていた自分のカフェオレを一口飲むと、健太のカップを指し示した。
「あ、奥寺さんも、どうぞ。もう冷めてますけど」
健太は、促されるまま、目の前のカフェオレにそっと口をつけた。ミルクの優しい甘さと、コーヒーのほろ苦さが、まだ少しざわついている心を、ゆっくりと落ち着かせていく。
梓は、彼がカップをテーブルに置くのを待ってから、その目をまっすぐに見つめ、静かに、しかし確かな声で問いかけた。
「派遣ソムリエは、恋愛相談室ではありませんよ?」
その言葉に、健太はびくりと肩を震わせ、置いたばかりのカップを倒しそうになる。梓は、そんな彼の様子にも動じることなく、ただじっと健太の目を見つめ続けていた。
「奥寺さんが本当に相談したいのは、恋愛のこと、だけじゃないですよね?」
梓の静かな声が、健太の心の奥底に、真っ直ぐに突き刺さる。
「え…?」
健太は、言葉を失った。まるで、今まで誰にも見せたことのない、自分でも気づかないふりをしていた心の引き出しを、目の前の女性に、いとも簡単に見つけられてしまったかのような衝撃だった。
「今の仕事は、ご自身の性格に合っていないのではないかと、ずっと悩んでこられた。そして、転職も考えている。でも、その一歩を踏み出せない。もし、今の職場を辞めてしまったら…その、大切な後輩の方と、もう二度と会えなくなってしまうから」
梓は、一切の感情を排した、淡々とした口調で続けた。しかし、その瞳の奥には、健太の心の揺らぎを、全て見透かしているかのような、深い光が宿っている。
「…違いますか?」
その問いに、健太は、もはや頷くことも、首を横に振ることもできなかった。ただ、目の前の、底知れない瞳を持つ女性から、目が離せなくなっていた。
「す、すみません…あの、そう、なんですけど…」
健太が、やっとの思いで言葉を絞り出す。
「謝罪はいりません。私が欲しいのは、奥寺さんの取り繕わない、本当の言葉だけですから」
梓は、ぴしゃりと言い放った。その言葉は冷たく聞こえるかもしれないが、健太には、それが彼女なりの、最大限の誠意なのだということが、不思議と伝わってきた。
健太は、一度、ぎゅっと唇を噛み締めた。そして、数秒の逡巡の後、今度こそ、自分の心の奥底にある、本当の悩みを、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「今の仕事…自分に、向いてないんじゃないかって、ずっと思ってて…」
その声は、まだ震えていたが、そこには、先ほどまでの「好きな人」の話をしていた時とは違う、もっと切実な、痛みを伴う響きがあった。
「だから、辞めようかなって…転職、しようかなって、思ったんです。でも…」
そこで、健太の言葉が途切れる。
「でも、彼女が、入ってきた…」
その一言に、彼の全ての葛藤が凝縮されているようだった。
健太の視線が、テーブルの上のカフェオレに落ちる。カップの中の猫のラテアートは、もうすっかり形が崩れていた。
梓は、健太から視線を外さなかった。そして、何も言わずに、ただ静かに、彼の次の言葉を待った。その視線は、「大丈夫ですよ、ちゃんと聞いていますから」と、雄弁に語りかけている。
健太は、梓のその真っ直ぐな視線に、もう一度心を決め、しっかりと目を合わせる。
「それは、いつのことですか?」
梓の静かな問いかけが、健太の重い口を、そっと開かせた。
「…5年、前です…」
健太の絞り出すような声に、今度は梓の方が、息をのんだ。
5年。そのあまりにも長い年月に、梓は一瞬、言葉を失う。目の前の男性が、どれほどの間、この想いと葛藤を、一人で抱え続けてきたのだろう。
梓は、テーブルの下で、そっと自分の拳を握りしめた。
その、梓の小さな反応を見逃さず、健太はふっと自嘲気味に笑った。
「…やっぱり、長いですよね…」
その諦めたような呟きに、梓ははっと我に返る。そして、しまった、という気持ちを顔に出すことなく、すぐにいつもの悪戯っぽい笑顔に戻った。
「いえいえ、私は態度が失礼でしたね」
「え?」
きょとんとする健太に、梓は微笑みかける。
「私だったら、5年も耐えられないなぁ…と思いまして」
梓は少しだけわざとらしく首を傾げると、テーブルに両腕を乗せて、ぐっと健太に顔を近づけた。
その整った顔立ちが不意に目の前に現れ、健太の心臓が、どきりと音を立てて跳ねた。
しかし、そんな彼の動揺を知ってか知らずか、梓は内緒話でもするかのように、声を潜めて、しかし、彼の心のど真ん中を見透かすような、鋭い瞳で続けた。
「後輩さんがいたから耐えられたんじゃなくて、奥寺さんにとって、嫌なことが、たった一つだけだったから、じゃないですか?」
梓の言葉が、健太の心に深く突き刺さる。それは、彼自身も気づかないふりをしていた、核心だったからだ。
「…たった、一つ…?」
健太は、梓の言葉を、オウム返しに呟くことしかできない。思考が、完全に停止してしまっていた。彼女の言葉の意味を、頭では理解しようとしているのに、心が、追いつかない。
梓は、そんな健太の様子を見て、そっと体を起こした。そして、今度は、まるで壊れ物に触れるかのように、優しく、しかし確信を込めた声で、彼の背中をそっと押すように言った。
「奥寺さんが本当に嫌なのは、仕事の内容でも、ご自身の性格でもない。ただ、そこにいる『人』…それだけだったんじゃないですか?」
梓は、健太が何かを言い返す前に、言葉を続けた。
「いませんか? 人のちょっとした失敗を、いつまでも面白おかしく言いふらす人。本人に悪気はないのかもしれないけど、言われた方は、ずっと心に棘が刺さったままになる…そんな、無神経な人」
梓のその言葉に、健太の脳裏に、数人の同僚の顔が、次々と浮かび上がっては消えていった。
いつも大きな声で、人の噂話ばかりしている先輩。
ミスをすると、大げさにため息をついて、周りに聞こえるように嫌味を言う上司。
そして、自分が何かを話そうとするたびに、茶化したり、馬鹿にしたりしてくる、同期の男たち。
「…」
健太は、言葉を発することができない。ただ、梓の言葉が、自分の心の風景を、あまりにも正確に映し出していることに、驚きを隠せないでいた。
そんな健太の様子を見透かしたように、梓は、さらに言葉を重ねた。
「あなたは、その人たちが嫌で、その場所から逃げ出したかった。でも、彼女が現れた。彼女がいるから、その『嫌なこと』に耐えられた。そうでしょう?」
梓は、そこで初めて、ふっと表情を緩めた。
「その後輩さんが現れるまでの間も、ずっと耐えてこられた。そして、この5年間は、彼女の存在が、奥寺さんをその場所に縛り付けていた。…でも、それは裏を返せば、たった一つの『嫌なこと』以外の全てを、奥寺さんは受け入れて、きちんと仕事をこなしてこられた、ということでもあります。あなたは、ご自身が思っているよりも、ずっと、強い人なんだと思いますよ」
その言葉は、健太にとって、今まで誰からも言われたことのない、そして、自分自身でも気づいていなかった、真実だったのかもしれない。
「奥寺さんは、もっと、わがままになっていいんですよ」
梓は、静かに、しかし力強く言った。
「自分の人生なんですから。誰かに気を遣って、我慢して、すり減っていく必要なんて、どこにもないんです」
その日のバータイムが終わり、最後の客を見送った後、梓は一人、カウンターの中で静かにグラスを磨いていた。昼間の喧騒が嘘のように、店内は静寂に包まれている。
「お疲れ様、梓ちゃん」
バックヤードから出てきた樹が、優しい声をかける。その手には、温かいハーブティーのカップが二つ。
「ありがとう、お兄ちゃん」
梓は、樹からカップを受け取ると、ほっと一息ついた。
「今日の、奥寺さん…どうだった?」
樹は、心配そうに、しかし梓の領域には踏み込まないように、慎重に言葉を選んで尋ねた。
梓は、受け取ったハーブティーのカップを両手で包み込み、その温かさを確かめるように、少しだけ、遠くを見るような目をした。
「…言いすぎ、ちゃったかな…」
ぽつりと、梓が呟いた。その声には、いつものような自信はなく、ほんの少しの不安と、後悔の色が滲んでいた。
「でも、土曜日に予約いれてくれたんでしょ?」
樹が、自分の持ってきたハーブティーを飲みながら、優しく言った。
「だったら、大丈夫でしょ」
「そう…だよね…」
梓は、なおも自信なさげに呟く。
「梓ちゃん」
樹は、そんな彼女の様子を見て、さらに言葉を続けた。
「梓ちゃんがいたから、奥寺さんも安心して、自分の本当の気持ちを話せたんだよ。すごいじゃないか」
「…」
「お前が、しっかり彼の心に寄り添ったからだろ」
いつの間にか、厨房の入り口に立っていた譲二が、静かに言った。
「それに、だ。あいつが本当に聞きたかったのは、そういう言葉だったんじゃねえのか」
「そうだよね。僕もそう思う」
譲二と樹の言葉に、梓は、はっと顔を上げた。
「そうだよ。じゃないと派遣ソムリエの意味をはき違えてる」
譲二は、腕を組んだまま、静かに、しかし力強く言った。
「…そうだよね…」
梓は、もう一度、今度は自分自身に言い聞かせるように、小さく呟いた。その手の中のハーブティーが、優しく湯気を立てていた。
2.
約束の土曜日、カフェタイムのピークが過ぎた午後の日差しが、店内に穏やかな縞模様を描いていた。
カラン、と軽やかなドアベルの音に、カウンターの中で作業をしていた梓と樹は、同時に顔を上げた。そこに立っていたのは、奥寺健太だった。しかし、彼は一人ではなかった。
彼の隣には、一人の若い女性が立っている。その姿を一目見て、梓と樹は、無言のまま視線を交わした。
(…この人が?)
健太が、あれほどまでに熱っぽく語っていた後輩。
いつも明るく元気で、誰にでも優しい、太陽のような女性。
しかし、目の前にいる女性の印象は、彼が語ったイメージとは、あまりにもかけ離れていた。
流行の最先端をいく、少しエッジの効いたファッション。完璧に計算された、クールな印象のメイク。そして、何よりも、その瞳。彼女は、店内を値踏みするように、鋭く、そしてどこか冷めたような視線で一瞥すると、興味を失ったように、すぐにスマートフォンに視線を落とした。
健太は、そんな彼女の隣で、借りてきた猫のように縮こまっている。その表情は、前回見せた深刻なものとは違い、好きな人と一緒にいることへの緊張と、少しばかりの気恥ずかしさが混じった、どこか初々しいものだった。
「い、いらっしゃいませ…」
梓は、どうにか言葉を絞り出し、二人を席へと案内する。健太が、感謝と謝罪が入り混じったような、意味不明な会釈を繰り返している。
「ここ? 奥寺さんが、そんなにすごいって言うから来てみたけど…思ったより、普通だね」
女性は、メニューに視線を落とすこともなく、つまらなそうに呟いた。その声には、健太が語っていたような、明るい響きは微塵も感じられなかった。
梓が「どうぞ、奥の席へ」と二人を案内しようとした、その時だった。
「え、うっそ、ちょーイケメンじゃん」
後輩の女性が、突然、大きな声を上げた。その指は、カウンターの奥で静かに作業を続ける樹を、まっすぐに指している。
健太の顔が、さっと青ざめる。
女性は、そんな健太の様子など気にも留めず、手にしていたスマートフォンを無遠慮に樹に向けた。カシャッというシャッター音が響く直前、健太の手が、レンズの前に滑り込んだ。
「何すんですか、先輩!」
甲高い非難の声が、健太の耳に突き刺さる。
「邪魔しないでくださいよ!」
後輩は、心底迷惑だという顔で、健太の手を振り払った。そのあからさまな侮蔑の視線に、健太の心は、また小さく縮こまる。
しかし、彼の胸の中には、今までにない、小さな怒りの炎が灯っていた。たった一度しか訪れたことがないにもかかわらず、この店と、この人たちの穏やかな時間を、土足で踏みにじられたことへの、正当な怒りだった。
「だ、だめだよ! 勝手に、人の写真なんか撮ったら…!」
声は、まだ震えている。それでも、健太は、生まれて初めて、自分よりも強い人間に対して、はっきりと「だめだ」と言った。
「はぁ? 別にいいじゃん、一枚くらい。ねぇ、そう思うでしょ?」
後輩は、まるで助けを求めるように、しかし明らかに二人を味方につけるつもりで樹と梓に同意を求めた。
樹は、困ったように、しかしきっぱりとした口調で言った。
「申し訳ありません、お客様。撮影は、ご遠慮いただいております」
その穏やかだが、有無を言わせぬ響きに、後輩は一瞬、不満そうな顔をしたが、すぐに梓の方に視線を移した。
「ささ、どうぞこちらへ」
梓は、その視線を笑顔で受け流すと、半ば強引に二人の背中を押すようにして、樹のいるカウンターからは死角になる、一番奥のテーブル席へと案内した。
「っていうか、お姉さんも美人だね」
遠慮という言葉を知らないのだろう。後輩は、梓の顔を上から下まで品定めするように見つめながら、悪びれる様子もなく言った。
「ありがとうございます。メニューはこちらです」
梓は、その言葉をにこやかに受け流し、二人にメニューを手渡した。その表情からは、内心の動揺など微塵も読み取れない。
「ねえ、どこのファンデ使ってるんですか? めっちゃ肌きれい」
後輩は、メニューには目もくれず、梓の顔を覗き込むようにして質問を続ける。
「秘密です」
梓が、悪戯っぽく人差し指を口に当てると、後輩は「ちぇー」とつまらなそうに口を尖らせた。
その時、梓はふと気づいた。
健太が、その後輩の女性を、羨望の眼差しで見つめていることに。
(ああ、そういうことか…)
梓の頭の中で、パズルのピースが、カチリと音を立ててはまった。
健太が語った彼女の姿と、目の前の現実は、まるで違う。しかし、本質は同じなのかもしれない。
思ったことを、何のてらいもなく口に出せる素直さ。他人の評価など気にしない、圧倒的な自己肯定感。周りの空気を読むことよりも、自分の「好き」を優先できる、自由さ。
それは、健太が持っていない、そして、心のどこかでずっと、憧れ続けてきたものなのではないか。
梓は、健太が彼女に惹かれる理由を、理解した気がした。
「ご注文は、お決まりですか?」
梓が、にこやかに尋ねる。
「ミルクティーで」
後輩は、スマートフォンから一度も顔を上げることなく答えた。
「あ、じゃあ、僕は…カフェオレで…」
健太は、慌ててそう答えるのが精一杯だった。
「かしこまりました。少々お待ちください」
梓は、静かに一礼すると、カウンターの中へと戻っていった。
しばらくして、梓が三つのカップを乗せたトレイを手に、再びテーブルへとやってきた。
「お待たせいたしました。ミルクティーと、カフェオレです」
後輩の前に置かれたミルクティーは、美しい二層を描いている。一方、健太の前に置かれたカフェオレには、またしても、あの少しだけ歪んだ猫のラテアートが描かれていた。樹が、健太のために、心を込めて淹れたものだろう。
健太は、その猫の顔を見て、思わず口元が緩むのを感じた。
「え、これがミルクティーなの? すごっ」
後輩がスマートフォンから顔を上げ、感心したように声を上げた。そして、健太の前のカフェオレを覗き込むと、今度は声を立てて笑った。
「え、先輩のラテアート、ぶさかわ~」
そう言うと、彼女は今度こそ、ためらいなくスマートフォンのカメラを向け、カシャ、カシャと軽い音を立てて何枚も写真を撮り始めた。
先ほどのいざこざなど、もう彼女の頭の中にはないのだろう。そのあまりにも天真爛漫な振る舞いに、健太は、怒る気力さえ失ってしまったようだった。ただ、困ったように、それでいてどこか嬉しそうに、彼女が写真を撮る様子を眺めている。
梓は、そんな健太と、無邪気に笑う後輩の姿を交互に見つめながら腰を下す。そして、苦笑いを浮かべた。二人の間には、梓や樹が立ち入ることのできない、独特の空気が流れている。それは、健太が五年間、大切に育んできた、いびつで、しかし愛おしい日常の一コマなのかもしれない。
「ねえ、この写真はSNSにアップしていいよね?」
一通り写真を撮り終えた後輩が、梓に尋ねる。先ほど樹に注意されたことをきちんと受け止め、今度は「物」なら良いのかと律儀に確認してくるその姿に、梓は内心で少し感心した。見た目の印象とは裏腹に、意外と素直なところもあるのかもしれない。
「ええ、どうぞ。たくさん『いいね』がつくといいですね」
「べつにいいねほしいわけじゃないし…ねえ、これ、お店の名前とか場所もタグ付けしていい感じ?」
後輩が、嬉しそうに尋ねる。
「ええ、どうぞ。宣伝していただけてうれしいです」
梓がにっこりと微笑むと、後輩は満足そうに頷き、早速スマートフォンの画面に集中する。慣れた手つきで写真を加工し、#隠れ家カフェ #ラテアートぶさかわ #ミルクティー映え、などとハッシュタグをつけながら、あっという間にSNSにアップしていく。その姿は、心から楽しそうだった。
「いっただきまーす」
投稿を終えた後輩は、満足げにそう言うと、ミルクティーに口をつけた。
「あつっ!」
思ったよりも熱かったのか、彼女は小さく舌を出す。その仕草は、先ほどまでのクールな印象とは違い、どこか子供っぽくて、健太が語っていた「太陽のような」という言葉の片鱗を、梓に感じさせた。
「あたしね、あたしがいいなと思ったこと、みんなと共有したいんだよね」
後輩は、ふーふーとミルクティーを冷ましながら、唐突に、しかし、とても真剣な目で梓に語り始めた。
「お友達、多そうですもんね」
梓が、後輩の向かいの席に腰を下ろしながら、相槌を打つように言った。
「全然いないよ。みんな、面倒そうな顔していなくなっちゃう」
後輩は、なんてことないように、しかし少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、先輩だけは、ちゃんと聞いてくれるんだよね。私が、どんなにわがまま言っても、どんなに変なことしても、絶対に、いなくならない」
その言葉は、健太の心に、温かく、そして少しだけ切なく響いた。
(あら? あらあらあらあら?)
梓は、内心で、まるで近所の井戸端会議に花を咲かせるおばさんのように、ポンと膝を打った。
健太が惹かれているのは、彼が語ったような、ただ「優しくて明るい後輩」ではない。この、周りの空気を一切読まず、自分の「好き」と「嫌い」に正直で、欲しいものは欲しいと、たとえそれが無遠慮に見えようとも、真っ直ぐに手を伸ばすことができる、この奔放さ。自分にはない、そのまばゆいばかりの自由さに、彼は焦がれているのだ。
そして、後輩の方も、そんな健太の不器用な優しさに、無意識のうちに救われている。
梓は、二人の間に流れる、歪で、しかし確かな絆の形を、はっきりと理解した。
「先輩って、いっつも私の話、うんうんって聞いてくれるし、私が美味しいって言ったお菓子、次の日には必ず買ってきてくれるし。優しいんだよね、意外と」
「そ、そんなことないよ…」
健太は、顔を真っ赤にして、ぶんぶんと首を横に振る。
「あるよ。私が仕事でミスした時も、自分のことみたいに落ち込んで、夜遅くまで手伝ってくれたじゃん。あの時、マジで神かと思った」
「いや、あれは、僕の確認不足も…」
「そういうとこ! すぐ自分のせいにするの、やめた方がいいよ。もっと、自信持てばいいのに」
後輩は、そう言うと、健太のカフェオレを指さした。
「ほら、その猫だって言ってるよ。『先輩、もっとシャキッとしなよ』って」
その言葉に、健太は、もう何も言えなくなってしまった。ただ、耳まで真っ赤にして、俯くだけだった。
(案外、いい組み合わせなのかも?)
梓は、そんな二人のやり取りを、興味深く見つめる。
後輩は、ミルクティーを一口飲むと、今度は自分の派手なネイルが施された指先を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「あたし、こんな見た目じゃん? だから、窓口にいると、よくお客さんから苦情もらうんだよね。『公務員のくせに派手だ』とか、『もっと真面目にやれ』とか」
その言葉には、普段の彼女からは想像もつかないような、ほんの少しの翳りがあった。
「でも、そういう時、いっつも先輩が庇ってくれる。『彼女の仕事は誰よりも丁寧で、正確です。見た目で判断しないでください』って。あたしがいないところで、そう言ってくれてるの、知ってるんだから」
「えっ…」
健太は、ますます顔を赤くして、何も言えなくなってしまう。
「それに、こういう爪ができるのも、先輩のお陰だし」
後輩は、自分の爪を梓に見せるように、ひらひらと手を振った。
「派手じゃなければネイルしていいって規則に修正してくれたし、先輩が、あたしの代わりに、細かい作業とか、汚れ仕事とか、全部引き受けてくれるから。だから、あたしは、好きなネイルができるんだよね」
「…そんなこと、ないよ」
健太は、かろうじてそれだけ言うのが精一杯だった。
「あるって。だから、先輩は、あたしにとって、スーパーマンなんだよね」
後輩は、悪戯っぽく笑うと、健太のカフェオレの猫を、スプーンの先でつん、とつついた。
梓は、その光景を、ただ黙って見つめていた。健太が語った「太陽のような後輩」の姿が、今、ようやく、彼女の中で、はっきりと輪郭を結んだ気がした。
(こんな後輩が居たら、5年も耐えられるかもしれないわね…)
いまだ目の前で続く後輩による健太褒めを見ながら、梓は派遣ソムリエとして自分に何ができるかを考えていた。
健太の問題は、彼自身の自己肯定感の低さと、それに起因するコミュニケーションへの恐怖。そして、それを補ってくれる後輩の存在が、彼を職場に縛り付ける鎖にも、彼を守る盾にもなっている。
(だとしたら、私がすべきことは…)
梓は、そっと自分のカフェオレのカップに手を伸ばした。
(彼自身が、自分の足で、自分の言葉で、彼女と対等に立てるようにすること。そして、彼女がいなくても、彼が自分の人生を肯定できるようになること)
そのための、最初の一歩。
「そういえば、この前先輩が教えてくれたラーメン屋、めっちゃ美味しかったですよ!今度行きましょ!」
「あ、うん。いつでも。君が好きそうな店、また探しとくよ」
「マジで? さすが先輩、わかってるー!」
後輩の屈託のない笑顔と、それに照れながらも嬉しそうに応える健太。そのやり取りは、傍から見れば、仲の良い先輩と後輩、そのものだ。
しかし、梓には、その二人の間に流れる、あまりにも完成された空気感が、少しだけ気になっていた。
5年間、ずっとこのままだったのだろうか。この、心地よくて、安全で、でも、一歩も前に進まない関係性のままで。
梓は、目の前の二人の笑顔を見つめながら、心の奥で、静かな不安を感じ始めていた。
「じゃ、あたし、この後用事あるんで!」
後輩は、ミルクティーを飲み干すと、満足そうに息をつき、軽い足取りで立ち上がった。
「え、あ、もう?」
健太が慌てて声をかけるが、彼女は気にも留めない。
「うん、じゃあね、先輩!ごちそうさまでーす!」
嵐のように現れ、そして嵐のように去っていく。健太は、そんな彼女の後ろ姿を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
「あ、あの…」
一人取り残された健太は、気まずそうに梓の方を向き、何かを言おうとするが、言葉にならない。
「少し、お話しませんか?」
梓は、それまでの柔らかな雰囲気をすっと消すと、真っ直ぐに健太を見つめて言った。
健太は、梓のその言葉に、息をのんだ。さっきまでの、どこか親しみやすいお姉さんのような雰囲気は消え、目の前にいるのは、全てを見透かすような、鋭い瞳を持つ一人のプロフェッショナルだった。
「あ…、えっと…」
何かを言わなければ、と焦る健太。しかし、梓は何も言わず、ただじっと彼を見つめている。その沈黙が、健太の心をじりじりと締め付けていく。まるで、値踏みされているような、試されているような、居心地の悪い時間。
健太は、耐えきれずに視線を落とし、テーブルの上の、すっかり冷めてしまったカフェオレのカップに目をやった。
樹が描いてくれた、あの少し不格好な猫のラテアートは、彼が何度か口をつけたことで、もはや見る影もない。泡は消え、歪んだ線だけが、茶色い水面の上で、かわいそうなくらいに揺れていた。
3.
その日のバータイムが終わり、最後の客を送り出した後、店のドアに「CLOSED」の札がかけられた。昼間の喧騒が嘘のように、店内は静寂に包まれている。
カウンターの中では、梓が一人、静かにグラスを磨いていた。しかし、その手はどこか上の空で、彼女の視線は、磨き上げられたグラスの向こう側、昼間の出来事を映し出しているようだった。
「…言いすぎ、ちゃったかな…」
ぽつりと、誰に言うでもなく、梓が呟いた。その声には、いつものような自信はなく、ほんの少しの不安と、後悔の色が滲んでいた。
『正直に言うわ。…あなたたち、一緒にいる意味ある?』
あの時、健太に投げかけた言葉。それは、彼の心をえぐるような、あまりにも鋭利な刃だったのではないか。彼のあの、傷ついたような、それでいて何かを求めるような瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
(でも、あれが、私の仕事…)
梓は、自分に言い聞かせるように、ぎゅっと唇を噛んだ。彼女の仕事は、ただ優しい言葉をかけることではない。時には、相手が目を背けてきた現実に、無理やりにでも向き合わせること。それが、本当の意味で、相手の人生を「調律」することに繋がると、信じているからだ。
「まだ、あの客のこと、考えてんのか」
不意に、低い声がして、梓ははっと我に返った。いつの間にか、厨房から出てきた譲二が、腕を組んでカウンターの隅に立っていた。その腰には、もうエプロンはない。
「…譲二さん」
「お前にしては、ちいとばかし踏み込みすぎだとは思ったけどな」
譲二は、梓の顔を見ることなく、静かに言った。
「あいつの悩みは、あいつ自身の問題だ。お前が背負い込むこたぁねえ」
「…わかってる」
「だがな…」
譲二は、そこで一度言葉を切り、ゆっくりと梓の方を向いた。その鋭い眼光が、梓の心の奥底まで見透かすように、まっすぐに彼女を射抜く。
「お前、あいつに昔の自分でも重ねてんのか?」
その言葉に、梓の肩が、びくりと震えた。図星だった。
「…」
何も言い返せない梓に、譲二は、ふう、と大きなため息をついた。
「派遣ソムリエがお節介焼きの身の上相談屋になったらおしまいだぞ」
その言葉は、厳しく、しかし、どこまでも優しかった。それは、師匠として、そして、父親代わりのような存在として、梓の身を案じているからこその、言葉だった。
「…樹もいねえんだ。さっさと片付けて、お前も休め」
譲二は、それだけ言って梓の頭を優しく一撫ですると、くるりと背を向け、店の奥へと消えていった。
一人残されたカウンターの中で、梓は、磨きかけのグラスを置いた。そして、自分を落ち着かせるように、一杯のハーブティーを淹れると、そのカップをそっと両手で包み込んだ。
湯気と共に立ちのぼるカモミールの優しい香りが、張り詰めていた彼女の心を、少しだけ、解きほぐしていくようだった。
4.
何の変哲もない水曜日の昼下がり。ランチタイムが落ち着き始めた「Cafe&Bar 木漏れ日」には、午後の穏やかな時間が流れ始めていた。
梓はカウンターの奥でグラスを磨き、樹は夜の部の仕込みの準備をしている。そんな、いつもと変わらない光景。
その静寂を破ったのは、店のドアが勢いよく開けられる、けたたましい音だった。
カラン、とドアベルが悲鳴のような音を立てる。
「いらっしゃいま…」
梓の言葉は、途中で途切れた。
息せき切って店に飛び込んできたのは、奥寺健太だったからだ。
いままで、存在を消すかのように静かに入ってきていた彼が、今は肩で大きく息をし、そのなで肩を必死に上下させている。整えられていたはずの髪は乱れ、その顔には、決意と、恐怖と、そしてほんの少しの狂気のようなものが入り混じった、見たこともない表情が浮かんでいた。
梓と樹が、驚いて固まっているのも構わず、健太は、大股でカウンターまで進んだ。遅めのランチを楽しんでいた数名のお客さんも、そのただならぬ様子に、フォークを持つ手を止め、驚いたように彼を見つめている。
健太は、そんな周囲の視線も気にせず、絞り出すような、しかし、今まで聞いた中で一番大きな声で叫んだ。
「僕を、ここで働かせてください!」
その悲痛な叫びに、厨房の奥から譲二が、何事かと顔を覗かせた。その声は、静まり返った店内に、いつまでも、いつまでも響き渡っているようだった。
「お前、ちょっとこっちこい」
健太が、今にもその場に土下座してしまいそうな勢いで体を折り曲げ始めた、その瞬間だった。いつの間にか健太の背後に回っていた譲二が、首根っこをひょいと掴む。
「え、あ、あの…!」
「いいから、こっちだ」
譲二は、有無を言わせぬ力で、健太を厨房の中へと引きずり込んでいった。そのあまりにも突然の出来事に、梓も、樹も、そして残っていた客も、ただ呆然と、二人の姿が厨房の奥に消えていくのを見送ることしかできなかった。
最初に我に返ったのは、樹だった。彼は、驚きに目を見開いていた梓の肩をポンと軽く叩くと、店内にいる客たちに向かって、穏やかに、しかしはっきりと通る声で言った。
「お騒がせいたしました。申し訳ありません」
そして、深々と頭を下げる。その落ち着いた対応に、梓もはっと我に返り、慌てて客たちに笑顔を向けた。
「大丈夫ですよ。少し、熱心なお客様なだけですから」
その言葉に、店内の張り詰めていた空気が、ふっと緩む。客たちは、顔を見合わせ、少しだけ笑みを浮かべると、またそれぞれの食事へと戻っていった。
梓は、店内の空気が落ち着いたのを確認すると、心配そうに厨房のドアを見つめ、そちらへ向かおうと一歩踏み出した。
「梓ちゃん。譲二さんに任せよう。いいね?」
樹は、梓の目をまっすぐに見つめて、静かに、しかし強く、そう言った。その瞳の奥には、譲二への絶対的な信頼の色が浮かんでいる。
梓は、一瞬だけ、ためらうように厨房のドアを見つめたが、やがて、小さく、しかし確かな頷きを返した。
厨房に引きずり込まれた健太は、スタッフが休憩に使うのであろう、壁際の簡素な椅子に座らされた。目の前には、仁王立ちする譲二。そのいかつい顔と鋭い眼光に、健太は完全に蛇に睨まれた蛙状態だった。
「昼飯は食ったのか?」
低い、しかし不思議と落ち着く声で、譲二が尋ねる。
健太は、声を発することもできず、ただ小さく、首を横に振った。
すると譲二は、くるりと健太に背を向けた。そして、慣れた手つきで冷蔵庫からいくつかの食材を取り出すと、まな板の上で、小気味よいリズムを刻み始めた。
健太は、訳も分からないまま、ただその背中を見つめていた。トントントン、とリズミカルに野菜を刻む音、ジュワッとフライパンの上で何かが焼ける音、そして、食欲をそそる香ばしい香り。その一つ一つが、健太の張り詰めていた心を、少しずつ解きほぐしていくようだった。
しばらくして、譲二がくるりと振り返った。その手には、ほかほかと湯気の立つ、一皿の料理が乗っている。
「ちょうど休憩回すところだったんだ。食え」
そう言って、譲二は健太の目の前の小さなテーブルに、ドン、と皿を置いた。それは、店のメニューにはない、完全に譲二の気まぐれで作られた、賄い飯だった。
健太が、目の前の料理と譲二の顔を交互に見ていると、譲二はもう一皿、同じものを持ってくると、健太の隣に無造作に置いた。
そして、近くにあった椅子を一つ引き寄せ、健太の隣に腰を下ろし、「いただきます」と短く呟くと、食べ始めた。
健太は、そのあまりにもマイペースな光景に、もはや思考が追いつかない。ただ、目の前で繰り広げられる状況を、夢でも見ているかのように、ぼんやりと眺めているだけだった。
「遠慮しないで食え」
譲二のぶっきらぼうな言葉に、健太はびくりと肩を震わせた。
「は、はい!」
慌ててスプーンを手に取り、恐る恐る、目の前の料理を一口、口に運んだ。
(…おいしい)
名前も知らない、ただの賄い飯。しかし、その温かい、優しい味は、健太の空っぽだった胃袋と、そしてささくれ立っていた心を、じんわりと満たしていく。
一口、また一口と、スプーンを運ぶ手が止まらない。夢中で料理をかき込む健太の横で、譲二は、何も言わず、ただ静かに、自分の分の賄い飯を食べ進めていた。
あっという間に皿を空にした健太が、はっと我に返ったように顔を上げる。譲二は、そんな健太の様子を、まるで全てお見通しだというように、静かに見つめていた。
「どうだ、落ち着いたか」
譲二が、低い声で尋ねる。
「人間ってのはな、腹が減ってると、ろくなことを考えねえもんだ」
健太は譲二の言葉に、何も言い返すことができない。
譲二はそんな健太を気にすることなく、自分の食事を進めつつ、独り言のように呟いた。
「そういう時はよお、自分の食いてえものを腹いっぱい食うんだ。つまんねえ悩みだったら、それでどっかにいっちまう」
譲二は、自分の皿も綺麗に平らげると、カチャン、と音を立ててスプーンを置いた。そして、ようやく健太の方に、その鋭い視線を向けた。
「で、まだそいつはいるか?」
その問いに、健太は自分の心の中を探るように、静かに内省した。
さっきまで胸のあたりに渦巻いていた、黒くて、どろどろした塊。焦り、不安、自己嫌悪、そして、ほんの少しの希望。それらがごちゃ混ぜになった、名前のない感情。
それが綺麗さっぱり消え去っていることに、健太は気づいた。
温かい食事と、この無骨な男の、不思議な優しさ。それが、彼の心を支配していた得体の知れない「そいつ」を、どこかへ追いやってしまったようだった。
「…居なく、なりました…」
「そうか。ついでに話すだけ話してみねえか?」
譲二のその言葉に、健太は、もう考えることをやめた。ただ、目の前の男に、全てを委ねてみよう。そう思った。
そして、彼は、ぽつり、ぽつりと、今日この店に駆け込んできた理由を、話し始めた。
「…辞表を、出してきたんです…」
健太のその言葉を、譲二は、ただ黙って、静かに聞いていた。相槌を打つでもなく、質問をするでもなく、ただ、健太の言葉を聞いている。
「あんなに僕に色々言ってきた人たちが、熱心に引き留めてくるのに、あの子はなんてことない顔で、そうなんだって言って…。いつもみたいに、どうしてって、わがまま言ってくれると思ってたんです。先輩がいないと困るって、言ってくれると思ってた…。でも、彼女は、ただ、そっかって…。僕が、いなくなっても、別に、どうでもいいんだって…そう思ったら、なんだか、もう、どうしていいか分からなくなって…」
健太の声は、最後の方は、ほとんど嗚咽に近くなっていた。
「いつもと真逆すぎて、困惑しました…それで、今日一日、仕事をして、ちゃんと家に帰ろうと思ってたんです。でも、昼休みになった途端、もう、居てもたってもいられなくなって…。気づいたら、ここに向かって、走ってました…」
健太の話が途切れても、譲二はしばらくの間、何も言わずに、ただじっと健太の顔を見つめていた。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がると、二つの空になった皿を静かに重ねた。そして、健太の肩を大きな手で、ぽん、と叩いた。
「お疲れさん」
その一言だけを残して、譲二は洗い場の方へと向かっていった。
譲二のその一言は、健太の中に残っていた、最後の壁を、いともたやすく壊してしまった。
「う…、うわああああああ…」
健太は、子供のように、声を上げて泣き始めた。今までずっと、誰にも見せることができなかった、弱くて、情けなくて、どうしようもない、本当の自分。それが、涙と一緒に、堰を切ったように溢れ出してくる。
もう、何も考えられない。ただ、涙が枯れるまで、泣き続けた。
どれくらいそうしていただろうか。泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまっていた健太が、ふと目を覚ます。
厨房の中は、いつの間にかきれいに片付けられており、人の気配はない。窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
(しまった…!)
健太は、慌てて立ち上がると、恐る恐る、厨房のドアからホールを覗き込んだ。
すると、店の奥のテーブル席で、梓と樹、そして譲二の三人が、テーブルを囲んで和やかに食事をしているのが見えた。
健太は、その光景を、まるで別世界の出来事のように、ただぼんやりと眺めていた。
譲二がこちらに気づき、健太と目が合った。
譲二は、何も言わずに、くいっと顎でテーブルの方を指し示す。こっちに来い、という合図だ。
健太は、まるで何かに引かれるように、ふらふらとした足取りで、三人がいるテーブルへと近づいていった。
譲二に促されるまま、健太は空いていた席に、おそるおそる腰を下ろした。
「あの…本当に、すみませんでした…」
健太は、三人の顔を順番に見つめ、小さな声で謝罪の言葉を口にした。
「で、本当にここで働きてえのか?」
譲二は、健太の謝罪には一切触れず、ただ、まっすぐに彼の目を見て尋ねた。その声には、からかいの色も、呆れの色もない。ただ、事実を確認するかのような、真摯な響きだけがあった。
「はい」
健太は、迷いなく、はっきりと答えた。その瞳には、もう先ほどまでの怯えや混乱の色はない。ただ、まっすぐな、強い意志の光が宿っていた。
譲二は、そんな健太の目をじっと見つめ返し、まるでその覚悟の重さを測るかのように、数秒間、黙り込んだ。そして、ふいと視線を外すと、まだ事態が飲み込めていない様子の樹と梓に向かって、ぶっきらぼうに言った。
「…てえわけだ」
譲二のその言葉に、一番に反応したのは梓だった。
「ええっ!? て、てえわけだって…譲二さん、本気で言ってるんですか!?」
梓は、持っていたフォークをカチャンと皿の上に落とし、信じられないという顔で譲二と健太を交互に見つめた。
一方、樹は、その隣で静かにスープを口に運んでいた。彼は、譲二の言葉にも、梓の反応にも、特に驚いた様子を見せない。ただ、健太の方をちらりと見ると、ふっと、穏やかに微笑んだだけだった。
「そっか」
その呟きは、まるで、最初からこうなることが分かっていたかのような、静かな響きを持っていた。
「そっか、じゃないでしょ、お兄ちゃん!」
梓は、あまりにも落ち着いている樹に、思わず食ってかかった。
「なんでそんなに落ち着いてられるの!? いきなり雇うなんて…正気なの!?」
「うーん…でも、譲二さんがいいって言ったし」
「そういう問題じゃないでしょ!」
梓は、はあ、と大きなため息をつくと、頭を抱えた。
「大げさだな」
譲二が、呆れたように言った。
「とはいえ、明日は出勤して、今日突発したこと謝ってくるんだな。職場がどう変わったかきっちり見てこい。それから最終判断だ」
「わかりました」
健太が、力強く頷く。
「でも、譲二さん!」
梓は、まだ納得がいかない様子で、何かを言おうと口を開きかけた。
「梓」
譲二は、その言葉を、静かに有無を言わせぬ響きで遮った。
「こいつも、お前も、いい大人だ。あとは、こいつが自分で決めることだ」
その言葉に、梓はぐっと言葉を飲み込んだ。
5.
翌朝、健太は重い足取りで職場へと向かっていた。
昨日、譲二の温かい賄い飯を食べ、あれだけ泣いて、一度は軽くなったはずの心は、朝になるとまた鉛のように重くなっていた。辞表は受理されたわけではない。今日一日、一体どんな顔をして過ごせばいいのか。
恐る恐る職場のドアを開けると、真っ先に声をかけてきたのは、いつも嫌味ばかり言ってくる先輩だった。
「おい奥寺! 昨日はどうしたんだよ!」
ドアを開けるなり、先輩が血相を変えて詰め寄ってきた。心配しているのではない。苛立っているのだ。
「お前がいないせいで、昨日のデータ入力、俺がやる羽目になったんだぞ! 残業になったじゃないか!」
「そうだよ、奥寺くん」
上司までもが、迷惑そうに眉を寄せて言った。
「君が管理していたファイル、どこにあるんだ? 君しか分からない整理の仕方をされると困るんだよ。急にいなくなられると、課全体の効率が落ちる」
同期たちも、口々に文句を言ってくる。
「お前さぁ、責任感なさすぎない?」
「雑用係がいなくなると困るんだよ、マジで」
健太は、その場に立ち尽くした。
彼らは、健太を心配していたわけではなかった。
ただ、「便利な道具」がなくなって、不便だと騒いでいるだけだったのだ。
その事実に気づいた時、健太の心の中で、何かが音を立てて冷えていった。未練や情が、急速に消え失せていくのを感じた。
(…なんだ、これ)
健太は、あまりの状況の変化に、ただただ困惑するしかなかった。
そんな彼の元に、一人の女性が、つかつかと足早に近づいてくる。彼の、想い人。
「先輩!」
しかし、彼女の口から飛び出したのは、いつものような明るい声ではなかった。
「昨日、急にいなくなって、どれだけ迷惑かけたと思ってるんですか! 私の仕事まで増えたんですよ!」
その剣幕は、健太が今まで一度も見たことのない、本気の怒りに満ちていた。
「ご、ごめん…」
「謝って済む問題じゃないです! もう、本当に、信じられない…!」
彼女は、それだけ言うと、ぷいと顔をそむけ、自分のデスクへと戻ってしまった。
健太は、その場に立ち尽くす。
いつも自分を馬鹿にしていた人たちが、手のひらを返したように優しくなり、いつも自分に優しかった彼女が、今までにないくらい、自分をなじっている。
まるで、世界が反転してしまったかのようだった。
「あら、奥寺さん。昨日はいなかったのね。あなたじゃないと、話が通じなくて困ったわよ」
窓口業務に戻ると、今度は常連の住民から、そんな声をかけられた。
健太は、自分がいなくなったことで初めて見えた職場の風景と、自分自身の本当の価値に、ただ呆然とするしかなかった。
昼休みが近づき、山のようにあった業務にも、ようやく終わりが見えてきた頃だった。
「奥寺くん、ちょっといいか」
不意に声を掛けられて、健太はびくりと顔を上げた。そこには、いつもはミスの指摘しかしない上司が、腕を組んで立っていた。
「は、はい…」
「…屋上、行くぞ」
上司は、健太の顔をまともに見ずにそう言うと、先に立って歩き出した。
屋上のフェンスに背を預け、上司はしばらくの間、黙って遠くの空を眺めていた。健太は、その沈黙に耐えきれず、自分から口を開いた。
「…あの、すみません、昨日は…」
「いや…」
上司は、健太の言葉を遮るように、短く言った。
「悪いのは、お前じゃない。…俺たち、だ」
その言葉には、健太が今まで聞いたことのない、深い後悔の色が滲んでいた。
「お前が、あいつらに色々言われてたのは、知ってた。だが、見て見ぬふりをしてた。…すまん」
突然の謝罪に、健太は言葉を失う。
「お前は、自分が思っている以上に、この職場で必要とされているんだ。お前が辞めたら、あの子も…心配なんだ」
上司の言葉に、健太ははっと顔を上げた。
「彼女は、君がいるから、なんとかやっていけているんだろう。だがな、奥寺。あの子の面倒を見ることが、君の仕事のすべてじゃない」
上司は、少しだけ言い淀むように言葉を切ると、健太に背を向け、ドアの方へと歩き出した。
「…しかしあまり、深入りしすぎるな。君自身の人生を、見失うんじゃないぞ。…私たちみたいに、後悔だけはするな」
その言葉を残し、上司は屋上から去っていった。
一人残された健太は、しばらくの間、ぼんやりと空を眺めていた。そして、ゆっくりと、自分の席へと戻っていく。
その足取りは、まだ少しだけ、頼りなかったが、その瞳には、もう迷いの色はなかった。
6.
自席に戻った健太は、目の前の書類の山に、ゆっくりと視線を落とした。
昨日まで、ただ無機質な文字の羅列にしか見えなかったそれらが、今は、自分の仕事の確かな軌跡として、彼の目に映っていた。
(…そうか。俺は、ちゃんと、やってこられたんだ)
上司の言葉、そして梓の言葉が、健太の心の中で、ゆっくりと反芻される。
自分は、弱い人間だと思っていた。何もできない、つまらない人間だと。
でも、違ったのかもしれない。
嫌なことから目を背け、好きな子の存在を言い訳にして、ただ停滞していただけ。本当は、この場所から一歩踏み出す勇気がなかっただけなのだ。
健太は、そっと引き出しから、昨日叩きつけるように提出した辞表を取り出した。彼は、その白い紙をじっと見つめ、そして、決意を固めるように、丁寧に折りたたむと、再び引き出しの奥へとしまった。
しかし、それは、この場所に留まるという決意ではなかった。
全てにきちんと片を付けてから、自分の足で、ここを出ていく。
そのための、最初の儀式だった。
数日後の夜。
バータイムの喧騒が、心地よいジャズの音色と共に、店内に満ちていた。
梓が、カウンターの中でシェイカーを振っていると、カラン、とドアベルが鳴った。
入り口に立っていたのは、奥寺健太だった。
スーツ姿ではない。洗いざらしのシャツに、チノパンという、ラフな、しかし清潔感のある服装。その表情には、もう以前のような怯えや混乱の色はなく、ただ、静かな決意だけが宿っていた。
「いらっしゃいませ、奥寺さん」
梓は、少しだけ驚きながらも、すぐにいつもの笑顔で彼を迎えた。
「あちらの席へどうぞ」
梓がカウンター席を指し示すと、健太は、こくりと頷き、静かにその席に腰を下ろした。
「ご注文は?」
「…その前に、少しだけ、お話してもいいですか」
健太の声は、まだ少し小さいが、その響きには、確かな芯が通っていた。
梓は、黙って頷くと、彼の次の言葉を待った。
「僕、来週、会社辞めます」
その言葉は、あまりにも、あっさりと、彼の口から紡がれた。
「でも、その前に、橘さんにお願いがあります」
健太は、一度、ごくりと唾を飲み込むと、梓の目をまっすぐに見つめて言った。
「僕の人生の、次の行き先を、一緒に探してください。派遣ソムリエとして」
健太の真摯な瞳を受け止め、梓は静かに微笑んだ。
「…もちろん、お受けいたします。ですが、私のコンサル料は、決して安くはありませんよ?」
彼女は、あえて、少し意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「はい、存じております。なので…」
健太は、そこで一度、言葉を切った。そして、深々と、頭を下げた。
「僕を、ここで働かせてください。あなたのコンサル料を、この店で働きながら、支払わせてください。…もちろん、譲二さんの、許可がいただければ、ですが」
それは、先日、彼が絶望の淵で叫んだ言葉と同じだった。
しかし、その言葉に込められた意味は、もう、全く違うものになっていた。
健太の、静かだが、覚悟の決まった声が、店の喧騒の中に、確かに響いた。
その声に、厨房の奥から、譲二が顔を出す。そして、健太の姿を認めると、何も言わずに、指先でくい、くい、と「こっちへ来い」と合図を送った。
健太は、その合図に、一度だけ、梓の方を向いた。梓は、ただ、静かに微笑み、小さく頷き返す。
その微笑みに背中を押されるように、健太は、決意を固めた足取りで、厨房の中へと入っていった。
週が明けた月曜日。
昼休み、健太は、休憩室で一人、弁当を広げている後輩の元へ、ゆっくりと歩み寄った。
「佐藤さん」
健太の声に、彼女はきょとんとした顔で顔を上げる。
「先輩? どうかしたんですか?」
「…少しだけ、いいかな」
健太は、彼女の向かいの席に腰を下ろすと、一度、ぎゅっと目を閉じた。そして、ゆっくりと息を吐き出すと、覚悟を決めたように、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「この間のこと、それと…今まで、ありがとう」
「は? 何がですか?」
後輩は、心底不思議そうな顔をしている。
「君が、いたから…僕は、この職場にいられたんだ。君の、その…まっすぐなところが、ずっと、羨ましくて、眩しくて…」
健太は、言葉を選びながら、ゆっくりと、しかし、はっきりと続けた。
「好きでした。君のことが」
その言葉に、後輩の目が、驚きに見開かれる。
「でも、僕は、ここを辞める。君を理由に、この職場に居続けるのは、もうやめるんだ。君にも、僕自身にも、失礼だから」
健太は、そう言い切ると、ふっと、憑き物が落ちたように、穏やかな笑みを浮かべた。
後輩は、しばらくの間、何も言えずに、ただ健太の顔をじっと見つめていたが、やがて、ぷいと顔をそむけ、小さな声で呟いた。
「…ばかじゃないですか、先輩」
その声は、震えていた。彼女は、派手なネイルが施された指先を、痛いくらいに強く握りしめていた。
「先輩がいなくなったら、誰が私を守ってくれるんですか。あの窓口で、あのお客さんたちに怒鳴られて……私一人で、どうやって笑っていればいいんですか」
彼女の目から、ポロリと涙がこぼれた。その涙は、派手なメイクの下に隠していた、彼女の等身大の弱さそのものだった。
「派手な格好してないと舐められるし、強気でいないと潰されちゃうし……。先輩がいたから、私はここで息ができてたんですよ」
健太は、そんな彼女の告白を、静かに受け止めた。
「うん。ごめんね。でも、君なら大丈夫だ」
健太は優しく、しかし突き放すように言った。
「君は、君が思っているよりずっと強いから。僕なんていなくても、きっと、自分の足で立てるよ」
それから、一ヶ月後。
「Cafe&Bar 木漏れ日」の厨房では、二人の男が、黙々と仕込み作業を進めていた。
一人は、この店の料理を一人で取り仕切る、いかつい顔のシェフ、譲二。
そしてもう一人は、少しぎこちない手つきで、しかし真剣な眼差しで野菜の皮をむいている、奥寺健太だった。
「おい、健太。まだ終わんねえのか」
譲二の、いつものようにぶっきらぼうな声が飛ぶ。
「す、すみません! もう少しで…」
健太は、慌ててじゃがいもの皮をむくスピードを上げる。しかし、その手つきは、一ヶ月前とは比べ物にならないほど、滑らかになっていた。
公務員を辞め、この店で働き始めて一ヶ月。健太の生活は、一変した。
朝は、譲二の指導のもと、厨房で仕込みを手伝い、昼は、樹や梓と一緒にホールに出る。夜は、バーテンダー見習いとして、梓からカクテルの基礎を学ぶ。毎日が、新しいことの連続で、目まぐるしく過ぎていく。
しかし、彼の表情には、以前のような疲労の色はない。むしろ、その瞳は、新しいことを学ぶ喜びに、キラキラと輝いていた。
「奥寺くん、ちょっといい?」
ランチタイムのピークが過ぎ、客足が落ち着いた頃。梓が、健太に声をかけた。それは、彼らの「面談」の始まりの合図だった。
二人は、店の奥のテーブル席に向かい合って座る。梓は、手元のタブレットに表示された求人リストを見ながら、しかしそれを指すことはなく、健太の目をじっと見つめた。
「一ヶ月働いてみて、どうだった?」
「はい。大変でしたけど…でも、楽しかったです。お客様が、『ありがとう』って言ってくれるのが、こんなに嬉しいなんて知らなくて」
健太は、照れくさそうに、しかし充実した表情で答えた。
梓は満足そうに頷くと、タブレットの画面を消してテーブルに置いた。
「奥寺くん。当初は『静かな環境でできる仕事』として図書館司書などを候補に挙げていたけれど…考えを変えましょう」
「え?」
「あなたは、人と接する仕事をするべきよ」
梓のきっぱりとした言葉に、健太は驚いて目を見開く。
「む、無理ですよ! 僕、口下手だし、気の利いたことなんて言えないし…」
「ううん、違うの」
梓は身を乗り出し、真剣な眼差しで言った。
「この一ヶ月、あなたの働きを見ていて気づいたわ。あなたは、お客様が言葉にする前の『小さな要望』に気づくのがとても上手。お冷が欲しいタイミング、空調が寒そうな様子、そういうのを誰よりも早く察知して動いていたわ」
「それは…ただ、気になるだけで…」
「それが才能なのよ」
梓は優しく微笑んだ。
「饒舌に商品を売り込む営業マンではなく、お客様の言葉にならない想いを汲み取るコンシェルジュのような仕事。それが、あなたの天職だと思うわ」
健太は呆然とした。そんな風に自分を評価されたことなど、一度もなかったからだ。
「…『言葉にならない想いを汲み取る』、か」
不意に、低い声が響いた。仕込みの手を休めた譲二が、カウンター越しに二人を見ていたのだ。
「だったら梓、あそこはどうだ?」
「え?」
「駅裏の、古いブティックだ。オーナーが嘆いてたぞ。『最近の若い販売員は自分の売りたい服ばかり勧めてくる』ってな。あそこの頑固親父が探してたのは、まさにそういう『客の心に寄り添える』男なんじゃねえか?」
その言葉に、梓はポンと手を打った。
「あのお店! 確かに…あそこのオーナーなら、奥寺くんの誠実さを一番に評価してくれるかも!」
梓は興奮気味に健太に向き直った。
「奥寺くん、すごくいい話かもしれない。流行を追うのではなく、その人に本当に似合うものを一緒に探すお店なの。あなたの性格にぴったりよ」
梓の分析と、譲二の提案。二人の言葉が、パズルのピースのようにカチリとはまった。
健太は、二人を交互に見つめ、そしてゆっくりと、しかし力強く頷いた。
「…ありがとうございます。ぜひ、挑戦させてください」
「おう。話しておくよ」
7.
数日後、健太は、譲二に教えられた住所のブティックの前に立っていた。ガラス張りのドアの向こうには、派手さはないが、上質で、丁寧に作られたであろう洋服が、ゆったりと並べられている。健太は、一度、ごくりと唾を飲み込むと、意を決してドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声に迎えられ、健太は、カウンターの奥に立つ、白髪の紳士と目が合った。
「あの、譲二さんの、紹介で…」
「ああ、君が健太くんか。話は聞いているよ。さあ、こちらへ」
紳士は、にこやかにそう言うと、店の奥にある、小さな応接セットへと健太を案内した。
「うちは、見ての通り、今時珍しい、古臭い店でね」
紳士は、自分で淹れたらしいコーヒーを健太の前に置きながら、少しだけ自嘲気味に笑った。
「流行を追いかけるわけでもなく、ただ、本当に良いものを、長く着てくれる人に届けたい。それだけなんだ」
健太は、その言葉に、なぜか、譲二の作る料理を思い出した。
「だから、うちに必要なのは、口がうまい販売員じゃない。ただ、静かに、お客様の話を聞いて、その人に本当に似合う一着を、一緒に探してくれるような、そんな人間なんだ」
紳士のその言葉は、健太の心の奥底に、すっと染み込んでいくようだった。
「譲二から聞いたよ。君は、真面目で、誠実で、そして、人の心の機微が分かる男だってな」
「い、いえ、そんな…」
健太は、慌てて首を横に振る。しかし、紳士は、そんな健太の様子を、楽しそうに見つめていた。
「どうだい? こんな店だが、君さえよければ、一度、試してみないか」
その問いに、健太は、もう迷わなかった。
「…はい。よろしくお願いします」
とんとん拍子に話は進み、健太の新しい人生の歯車が、静かに、しかし確かに、回り始めた。
それからさらに半年が過ぎ、街がクリスマスのイルミネーションで輝き始める頃。
健太の生活は、新しいリズムを刻んでいた。週に三日は、紳士のブティックで。そして、週に二日は、「Cafe&Bar 木漏れ日」で。二つの職場を行き来する毎日は、忙しくも、充実していた。
ブティックでは、彼は持ち前の真面目さと、木漏れ日で培った観察眼を活かしていた。無理に商品を勧めることはしない。ただ、お客様の話に静かに耳を傾け、その人の持つ雰囲気や、言葉の端々から、本当に求めているものを探り出す。
「奥寺さん、あなたに選んでもらうと、不思議と自分でも知らなかった自分に出会える気がするわ」
常連の婦人にそう言われた時は、耳まで真っ赤になったが、その心は、確かな喜びで満たされていた。
そして、木漏れ日での時間は、彼にとって、心を調律する大切な時間だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターに立ち、自然な笑顔で客を迎える。常連客とは、天気の話や、最近読んだ本の話など、他愛もない会話を交わす。半年前には考えられなかった光景だ。
「健太くん、板についてきたじゃない」
梓が、からかうように言うと、健太は、少し照れながらも、はっきりと返す。
「梓さんのおかげです。いつも、ありがとうございます」
そのやり取りを、樹が、そして譲二が、温かい眼差しで見守っている。
ここには、彼を受け入れ、彼の成長を心から喜んでくれる人たちがいる。
健太は、もう、誰かの顔色をうかがって、自分を押し殺すことはない。
自分の足で立ち、自分の言葉で話し、そして、自分の人生を、自分の力で歩んでいる。
その事実が、彼に、何物にも代えがたい、自信と安らぎを与えてくれていた。
年内の営業最終日。
最後の客を見送り、店のドアに「CLOSED」の札をかけた後、四人は、いつものようにテーブルを囲んでいた。
「…あの」
健太が、少しだけ緊張した面持ちで口を開いた。
「ブティックの方、正式に採用していただけることになりました。来年から、正社員として、働かせてもらうことになります」
その報告に、三人は、温かい笑顔を咲かせた。
「おめでとう、健太くん!」
樹が、心から嬉しそうに言う。
「おう、そうか。そりゃあ、よかったじゃねえか」
譲二の目元も優しく細められている。
「…では」
梓は、静かに立ち上がると、カウンターの中へと入っていった。
「派遣ソムリエとして、最後の仕事です」
彼女は、そう言うと、磨き上げられたシェイカーを手に取り、健太のためだけの一杯を、作り始めた。
梓が手に取ったのは、意外にも、華やかなリキュールのボトルではなかった。香ばしい香りを放つ、ほうじ茶のリキュール。そして、コーヒーリキュールと、少量の生クリーム。
それらを静かに、しかし正確な動きでシェイカーに注ぎ込むと、梓は健太の目をまっすぐに見つめながら、リズミカルにシェイクを始めた。シャカ、シャカ、という心地よい音が、静かな店内に響き渡る。
やがて彼女はシェイクを止めると、温かみのある陶器のカップに、とろりとした液体を注いだ。それは、一見すると、ただのカフェオレのようにも見えるカクテルだった。
しかし梓は、最後に小さなケースから、ほんの少しだけ金粉を取り出すと、そっとカクテルの表面に振りかけた。ささやかな金色の粉が、茶色い液体の上で、星のように静かに輝く。
「お待たせいたしました。『The Ordinary』…ありふれた、しかし特別な一杯です」
梓は、そのカクテルを、健太の前にそっと置いた。
「ありふれた毎日の中にこそ、宝物は隠れているものです。奥寺さんは、もうその見つけ方を、ご存知のはずですよ」
健太は、目の前のカップと、梓の顔を交互に見つめた。そして、ゆっくりとカップを手に取り、その香ばしい香りを吸い込むと、静かに一口、口に含んだ。
ほうじ茶の香ばしさと、コーヒーのほろ苦さ、そしてクリームの優しい甘さ。その全てが、完璧な調和をもって、彼の心と体に染み渡っていくようだった。
「…おいしい、です」
健太は、心の底から、そう呟いた。
その顔には、もう、かつての彼がまとっていた、頼りなさや、自信のなさといった影は、どこにもなかった。
~後日談~
梓が健太に派遣ソムリエのセッション終了の一杯を捧げてから、三ヶ月が過ぎた土曜日の午後三時。
厳しい冬の寒さも和らぎ、店先の街路樹の枝には、小さな新芽が顔を出し始めていた。
カラン、とドアベルがいつものように来店を告げた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中でグラスを磨いていた梓が顔を上げると、そこに立っていたのは、奥寺健太だった。その隣には、一人の女性が、少しだけ緊張した面持ちで立っている。
「健太くん!」
バックヤードから顔を出した樹が、嬉しそうに声を上げる。
「いらっしゃい。久しぶりだね」
「ご無沙してます、樹さん、梓さん」
健太は以前とは比べ物にならないほど自然で、穏やかな笑顔を浮かべていた。その立ち姿からは、もうかつての頼りなさは感じられない。
しかし、梓と樹の視線は、健太の隣にいる女性に釘付けになっていた。
顔立ちは変わらないが、その雰囲気はまるで別人のようだった。流行の服に身を包み、派手なネイルをしていた以前の彼女とは違い、今はシンプルなワンピースに、ナチュラルなメイク。長く伸ばしていた髪は、肩のあたりで切りそろえられ、その表情は、どこかおとなしく、はにかむような優しい光を宿している。
それは、健太が最初に語った、太陽のようなという言葉とは少し違うが、確かに、彼の言葉の中にあった、彼女の優しさを体現しているかのようだった。
「こんにちは…」
後輩は梓と樹の視線に気づくと、恥ずかしそうに、しかし丁寧に、ぺこりと頭を下げた。その仕草は、以前の彼女からは、到底考えられないものだった。
梓と樹は、顔を見合わせる。
その時、厨房を仕切るカーテンが内側からわずかに揺れ、その中央の切れ目から、譲二が姿を現した。
「おう、来たか」
譲二は、嬉しそうな声で言った。カフェタイムには、よほどのことがなければホールに出てこない彼の登場に、店内にいた常連客たちが、ざわめき立つ。
常連客たちは、昼間に譲二がホールに出てくるのはよほどのトラブルがあった時だけだと知っている。彼らは一斉に口をつぐみ、固唾をのんで、不安そうな目を譲二に向けた。譲二は、そんな客たちの視線に気づくと、安心しろ、とでもいうように片手をひらりと上げてみせ、まっすぐに健太の方へと歩いていった。
譲二は、二人に奥のテーブル席に誘導した。
「こっちだ」
健太と後輩が促されるままに席に着くと、譲二は二人の前に立ったまま、腕を組んだ。その表情は、いつものように厳めしいが、その目には、温かい光が宿っている。
残された樹と梓に、常連客たちの好奇の視線が一斉に突き刺さる。「一体何事だ」「何か特別なことでもあるのか」と、声なき声が店内に満ちているようだ。
しかし、当の梓と樹も何が何だかさっぱり分からない。ただ、困ったように顔を見合わせ、常連客たちと無言で視線を交わすことしかできない。
その奇妙な沈黙を破ったのは、譲二の鋭い声だった。
「おい、注文」
「は、はい!」
梓は、はっと我に返ると、慌ててお冷のピッチャーを手に取り、健太たちのテーブルへと向かった。その背中に、常連客たちの好奇心に満ちた視線が突き刺さる。
梓は、背中に突き刺さる視線を感じながらも表情を崩さず、二人の前にそっとお冷を置いた。
「ご注文は、お決まりですか?」
腕を組んだまま立っていた譲二が、後輩の顔をじっと見つめて言った。
「シフォンケーキ、まだ好きか?」
その、あまりにも唐突な、そして親しげな問いかけに、梓は驚いて目を見開いた。
後輩は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに、ぱあっと顔を輝かせた。
「え、覚えててくれたの? うん、食べる!」
「おう。今日は特別に、お前の好きなフルーツも乗せてやる」
「ほんと!? やったー!」
まるで、祖父と孫のような、自然で、温かいやり取り。その光景に、梓は完全に思考が停止する。
(え…? なに…? どういうこと…?)
梓が混乱して二人を交互に見ていると、健太がその様子に気付き、くすりと小さく笑った。その表情は、まるで「驚きましたか?」とでも言っているかのようだ。
「…では、お二人ともシフォンケーキのセットでよろしいですか?」
梓は、なんとか平静を装って尋ねた。
「はい、お願いします」
健太は、にこやかに答えた。
梓が伝票に注文を書き終えた、その瞬間だった。譲二が、ひょいと、梓の手から伝票を奪い取った。
「えっ」
「飲み物は、健太はいつものカフェオレで、お嬢ちゃんはミルクティーでいいんだな?」
譲二は、健太と後輩に確認するように尋ねる。二人は、こくりと頷いた。
「樹、飲み物は頼む」
譲二は、カウンターの中にいる樹にそう伝えると、再び厨房のカーテンの奥へと消えていった。デザート作りは普段は樹や梓に任せている譲二だが、今日のシフォンケーキは、自ら腕を振るうつもりらしい。
梓は、伝票を奪われた格好のまま、呆然と、譲二が消えていった厨房のカーテンを見つめていた。
その、時が止まったかのような梓の姿に、健太と後輩は、どちらからともなく、ぷっと吹き出した。そして、一度笑い出すと、もう止まらない。
「あはははは!」
「ふふっ…すみません…」
健太は、心から楽しそうに笑い、後輩は口元を手で押さえながらも、その肩をくすくすと震わせている。
その笑い声は、店内の空気を一気に和ませ、常連客たちも、つられて微笑み始めていた。
梓は、自分が笑いの中心になっていることに気付き、はっと我に返った。どれくらい、こうしていたのだろう。
顔に、カッと熱が集まるのを感じる。いつも冷静沈着な彼女が、客の前で、こんなにも分かりやすく動揺を見せるのは、非常に珍しいことだった。
「あ、あの…」
今度は健太が、困ったように、しかしどこか楽しそうに口を開いた。
「実は譲二さん、お店が休みの日にちょこちょこ僕の様子を見に来てくれていまして…その足で事務手続きをしに彼女のいる窓口にも顔を出して、親睦を深めていたみたいなんです」
「えっ!?」
梓は、今度こそ素で驚きの声を上げた。
健太の隣では、後輩がその言葉を肯定するように、こくりと頷いた。
「えー?」
梓は、まだ状況が飲み込めず、混乱した声を漏らした。
「お待たせ」
そこへ、樹が二人の飲み物を乗せたトレイを持って、にこやかにやってきた。驚いた様子のない樹に、梓が思わず詰め寄る。
「知ってたの?」
梓が、信じられないという顔で樹を見つめる。
「ううん、知らなかった」
樹は、まるで何もかも知っていたかのように、楽しそうに笑うと、健太と後輩の前に、そっとカップを置いた。
健太の前に置かれたカフェオレには、やはり、あの少し歪んだ猫のラテアートが施されている。
「あ、またこの猫!」
後輩が、懐かしいものを見るように、嬉しそうに声を上げた。
「相変わらずですね、樹さん」
健太も、穏やかに笑っている。
「失礼だなあ。これでも、少しは上達したと思うんだけど?」
樹は、少しだけむくれたように言うが、その口元は笑っていた。
三人が和やかに笑い合う中、梓だけがその輪に入れずに、ただ呆然と立ち尽くしていた。
そこに、厨房のカーテンが揺れ、譲二が姿を現した。その左手には、フルーツがたっぷりと乗ったシフォンケーキの皿が二枚。そして右手には、メープル、チョコレート、ベリーの三種類のシロップのボトルが握られている。
「ほらよ、お待ちどうさん」
譲二が、テーブルに皿とシロップを並べると、後輩は目をキラキラと輝かせた。
「うわー! すごい!」
「お好きなだけかけろ」
その言葉に、後輩は嬉しそうに頷き、健太もまた、幸せそうに微笑んでいる。
「梓ちゃん、戻るよ」
樹が、まだ固まっていた梓の腕をそっと引き、カウンターの中へと連れ戻した。
「…私、今日、何にもしてない…」
梓は、カウンターにもたれかかりながら、力なく呟いた。その声には、派遣ソムリエとしてのプライドが、少しだけ傷つけられたような響きがあった。
「今回は、譲二さんのターンだね」
樹は、ただ優しく微笑みながら、そう言った。
時間が経過するにつれて、常連客たちが一人、また一人と席を立つ。
「梓ちゃん、今日は面白いものが見られたよ」
「たまには、あんたのそういう顔も悪くないねえ」
「また来るよ」
誰もが梓の肩をぽんと叩いたり、くすくすと笑いながら、温かい言葉を残して帰っていく。その視線は、もう好奇のものではなく、ただただ、この店の日常を愛おしむような、優しい色をしていた。
「今日は少し早めに閉めちゃおうか」
樹が、店内の様子と外の人通りが少なくなってきたのを確認して、梓に声をかけた。
「じゃあ、僕たちも…」
その言葉を聞いて、健太と後輩が立ち上がり、レジの方へと向かおうとする。しかし、自分たちのテーブルに伝票がないことに気づいた。
「あの、伝票が…」
健太が戸惑っていると、譲二が口を挟む。
「ああ、そいつはいらねえ」
「え?」
健太と後輩が、驚いて譲二の顔を見る。
「今日は、珍しいもんが見れたからな。梓のあんな顔、めったに見られるもんじゃねえ。今日の代金は、それで十分だ」
譲二は、そう言うと、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「じょ、譲二さん!」
梓の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。その様子を見て、健太と後輩は、どちらからともなく、また笑い出した。
つられて樹も笑い出す。
「もう! みんなして!」
「あはは、ごめんごめん、梓ちゃん」
しかし、本気でへそを曲げている梓の様子に気づくと、慌ててフォローを入れた。
「でも、今日の梓ちゃん、可愛かったよ。あんなに慌ててるの、初めて見た」
「うるさい! お兄ちゃんのせいでもあるんだからね!」
店内に、もう健太たちしかいないからか、梓は子供のように頬を膨らませて、ぷいとそっぽを向いてしまった。
「えー? 僕も悪いのー?」
樹は、心底不思議そうに、しかし楽しそうに笑った。
その屈託のない笑顔に、梓の怒りも、いつの間にかどこかへ消えてしまう。
健太と後輩も、そんな二人の様子を見て、また声を上げて笑った。
温かい笑い声が、春の午後の日差しが差し込む店内に、いつまでも、いつまでも響いていた。
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