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代赭

0.39 のべつまくない灼熱と

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 ふと肩に微かな重みを感じた。

 そして、その重みが首を伝ってオレの頭の後ろに回る。

 それが、かすみ先生の手だったと気が付いた時には、オレの額は先生の肩口に引き寄せられていて。

 鼻先に先生の白衣が掠めて、洗剤のいい匂いがした。

 先生がそっとオレの頭を撫でるのを感じる。

 その手付きが、とても母さんに似ていて。

 オレは、息が止まった。

「辛いことが、たくさんありましたね」

 オレの耳元で囁くかすみ先生の声は、とても優しかった。

「悲しいことも、たくさんありましたね」

「…………」

「我慢ばかり、してきましたよね」

「…………ううっ、う」

「不安ばかりなのに、よく耐えてきましたね」

「……ふ、うぅっ…………く、うぅ……」

 オレは鼻をすすって首を横に振った。

 なんでだろう。こんなにも、涙が止まらないのは。

 これ以上甘えてはダメだ。そう、心の奥底では先生を拒絶しているのに。

 同情なんて要らないと心で叫んでいるのに。それでも、オレはこの手に縋っていたいと、それ以上の強さで願ってしまう。

 今だけは。そう、今だけだから。

 オレに一瞬でも安心できると錯覚させて。

 そうやって誰とも知らない何かに言い訳をしながら。

「……ひとつ、謝らせてくださいね」

 先生がオレの頭を撫でながら呟く。

「業務上、一也さんの経歴書を隈無く暗記するまで読ませていただきました。ですので、どういった経緯で一也さんがここにやってきたのかを全て知っています。ですから……知ったかぶりで、こうして言葉をかけること、許してください」

 オレが黙って小さく首を縦に振ると、先生がふふっと笑った。

「大丈夫です。一也さんは十分頑張っていらっしゃいます。私、植月も存じ上げておりますし、結姫先生も、委員会の皆さんも……もちろん委員長だって、重々承知してらっしゃいますよ」

「…………うん」

「一也さんのお母様の代わりにはなれませんが……私はいつもここにおりますし、見守っていますよ。それが衛生救護を司る第四研究室の仕事だから、というのも、もちろんあります。でもそれ以上に、私は皆さんのことが大好きですから。一也さんも含めて。私の拙い力で皆さんを少しでも守れるなら、それが私の生き甲斐です。ですので……何かあったら、いつでも、ここに帰ってきてください。おやつも用意して待っていますから」

 かすみ先生の優しい言葉に頷いて、オレは相変わらず鼻をすすりながらだけれど体を起こした。

 これ以上先生にくっついていたら、本格的に自分が崩れてしまいそうだったからだ。

 先生から離れて、傍にあったティッシュ箱から2、3枚ティッシュを取り出して、涙を拭いて鼻をかむ。

 ふと先生の白衣にオレの涙がシミになっているのを見つけて、ものすごく申し訳ない気持ちになった。

 それでも、先生なら許してくれるかな、と。

 不思議と気持ちが凪いで、オレは一つ小さく息を吐いた。

「っ……ありがとう、ございます」

 オレが言うと、先生は「いいえ」と言って首を振った。

「思っていることを申し上げたまでです。少し、落ち着きましたか?」

 オレが頷くと、先生は「それは良かった」とほっとした笑顔で頷いた。

「そういえば、今日は委員長はどちらに?」

「シュンさんは、上層部と会議があるって言ってました」

「そうでしたか」

「どうして?」

「この間はお二人でいらしていたなぁ、と思いまして」

「……あぁ」

 オレは言ってため息を吐く。

 シュンさんは、カフェを開いていた一昨日までも、随分と忙しそうだった。

 それどころかカフェを閉めた昨日だって、結局顔を見たのは屯所の廊下で、一瞬すれ違った時だけだった。

 その時に「今日丸一日会議ばっかりなんだ」とか言って去っていったのを、オレは返事もできずに見送ることしかできなかった。

 少佐だし、色んな仕事があるんだろうな、とは思う。

 それは分かってる。けれど。

 “相棒” として充てがわれたはずなのに、シュンさんはんだ。

 だから、この距離こそがなんだと、そう心に予防線を張りたくなる。

 それでも。どうしても。

 その遠さを感じる度。ふと、まるで突き放すように距離をはかられる度。反比例してシュンさんの存在を強く感じてしまう。

 同じ気持ちを共有しているんじゃないかと感じたその感覚を思い出す。そして、それが錯覚じゃなかったと、確かめたくなる。

 会えなくなると、そのまま会えなくなるんじゃないかと不安になる。

 そうして無性に、物理的に、会いたくなるから。

 ひどく苦しい。

 それに ————

「 ———— オレは、何にもできないから」

「何を仰いますか。まだ来て半年も経ってらっしゃらないじゃないですか」

「……会いたいって、思ったって……どうせオレなんか……」

「もう……一也さん、そんなことを仰らないでください」

 どうぞ、と先生が涙目のオレにティッシュを差し出してくれる。

「だって」オレは鼻水を受け取ったティッシュで拭きながら呟いた。

「……シュンさんは……とっても、から」

?」

 先生に尋ねられて、オレは黙って頷いた。そして、椅子の上に片足を上げて膝を抱えて、そこに額をくっつけて下を向いた。

「何もかも。存在も、立場も、力の差も、経験も。聲だって……」

「聲、ですか?」かすみ先生の声に、オレは頷く。

「この間、初めてシュンさんと琉央さんが共鳴してるのを見て。その聲が……オレの知らない聲だったんです。どういつもと違うのかは、なんというか、言葉にできないんだけれど。共鳴深度も二人の方が上だし、そもそも、シュンさんときちんと実践に出たこともないし。オレは来たばっかりで知らないことも多くて。全部、しょうがないというか、分かってはいるんですけど」

「ええ」

「なんで、オレに聴かせてくれないんだろうって。何回か一緒に訓練してるし、その……片鱗というか、端っこでもいいから。オレに聴かせてくれたらいいのに。シュンさんに何もできないオレが、唯一できることって、それしかないのに。それを…………知らない聲を聞くと、拒絶されてるような気がして、悲しくて。それさえ、させてもらえないなら、オレの存在意義ってなんなんだろうって、考えて……」

「……そうですか」

「だから、思うんです、いつも」

「いつも?」

「もっと深く共鳴して……って ———————— 」




「 ———————— それって、僕に言ってくれてるの?」
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