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過日

0.47 続くその先の僕たちに喚びかける

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 血の気が引いた。思わず出そうになった声を押し殺して、その光景を凝視する。

 男は歯で肉を引きちぎって、大きな音を立てて咀嚼していた。その光景が、あまりにもリアリティが無くて、段々、それが本当に目の前の出来事なのか分からなくなる。

 それだから。つい。男の食べる、その様子を凝視して、腕の輪郭を追ってしまう。それが本物の手の形をしているのか、確認して————

 グチッ、と音を立てて肉が千切られる音が響く。自分の腕が食べられている感覚に犯されて、思わず自分の腕を摩った。

———— ダメだ。

 怖い。

 不可解なことが恐ろしい。ダメだ。またあの聲が、オレの芯を引っ張って引きずり下ろそうとする。

 息が詰まる。いやだ。同じ失敗は二度としたくない。オレは咄嗟に首から掛けていた音叉を手に取って、膝に叩いて歯で強く噛んだ。

 ツンッと、音が響いて、揺さぶられていた意識が脳内に留まるのを感じる。同時に、シノさんが音叉を叩いて噛んだのが視界の端に映った。

『一也』

 聲がした。

 思わずシノさんの方を見る。少し額に汗をかいたシノさんと視線がかち合った。

 さっきまで平気そうにしていたのに、必死なその視線の理由が一瞬分からなくて、オレは狼狽えながら、それでもシノさんと目を合わせる。

 眉間に力が入って、微かに苦しそうに見える。どうしたんだろう。様子がおかしい。そう頭の端に過った。

 その時。

「ぐっ……!!」

 男が大きな呻き声を発した。見ると、男は膝立ちで、ピタッと動きを止めていた。力を無くしたらしい男の手から、齧られた腕がゴロっと転げ落ちる。

 そして。びちゃっ、と、音を立てながら、食べたものを男が口から吐き戻しはじめる。同時に、男の体が小刻みに震え始めた。背中の服が不自然に突き上げられる。男が激しく喉を掻きむしり始めた。

「あ゛ーーあ゛ーーーーー!!!!!!」

「不味い! レン! 後ろに来い!」

 叫ぶ男の声に混じってシノさんの叫び声が聞こえた。シノさんに強く腕を引っ張られて、よろけながらシノさんの背中の後ろに回り込んだ。

 男の身体が、みるみるうちに変化していくのがシノさんの背中越しに見えた。スローモーションのように。その様子が脳裏に焼き付いて、オレは体が固まった。

形態変化トランスフォームだ。何が起きてるんだ!?

 もしかして、あのは丹電子障害に侵された死体。自分から丹電子障害になった?

 男の背中から何かが羽化する様に皮を突き破って飛び出してくる。人の腕の成り損ねみたいな、くねくねと動く何か。そして、その変化に呼応するみたいに。下に落ちていた腕や、死体が男の方に移動していく。

 ヒルがのたうち回る様な動きで、死体が男に吸い寄せられて、それが粘土のように男の身体にくっついていく。

 一人の人間が、瞬く間に怪物になっていく。あれが ————


 丹化第一形態ヒトガタ。都市伝説名『蜘蛛人間』。


「レン」

 呼ばれてオレはシノさんの方を見る。横目でオレの方を見ながら、シノさんがオレの肩をぐっと掴んだ。

「ハクに応援を要請しろ。二人が来るまで、僕がヤツを外に出ないよう引き止める」

 シノさんの向こう側で、グジュグチュグチュッ、っと、男だったものがどんどん音を立てて変形していく。足がすくむ。

「レン」

 静かに、けれど力強くシノさんに呼ばれる。オレは奥歯を噛み締めて、もう一度シノさんを見た。朱鷺色の瞳が揺れていた。

 もしかしたら、オレが動揺してそう見えただけかもと思った。けれど、オレの肩を強く掴んだシノさんの手が脈打つように揺れているのを感じて。

 ああ、この人は赤い遺伝子を持つ人だ、と。頭の端の冷静な自分が、いや、奥底の自分が、それを

「連絡がついたら、レンは、ここで待機していて」

「はい」

 震えた声が出ると思ったのに、裏腹に冷静な声が自分の喉から漏れた。

 シノさんがオレの持ってきたリュックからいくつか道具を取り出し始める。車を足止めするために開発された折り畳み式の大型スパイクと、伸び縮みするワイヤーだ。

 あっという間に準備を整えたシノさんが、音叉を膝に叩く。そして、それを咥える寸前。動作を一瞬、戸惑うように止める。そして「レン」と呟いた。

「僕が死にそうな時は、その聲で、僕をんでくれ」



———————— ドンッ



「ああああああああああ」

 大きな音を立てて、は何本もある腕で床を叩き付けた。それを合図にしたみたいに、シノさんが踵を返して荷物の陰から勢いよく飛び出した。

 奴が腕の衝撃で自分の体を持ち上がらせる。シノさんが奴の足元に素早くスパイクを投げ入れた。折り畳まれていたスパイクが、ガサッと引き摺る音を立てて四角から変形して長く伸びる。

 あれが奴の肉に刺さって、撒菱まきびしみたいに動きを鈍らせる。奴がそれを踏み付けて、どんどん動きが鈍くなっていく。

「『あああああ』」

 聴こえる。奴の聲だ。

 強い。けれど遠い。それだから油断していた。


『ここだよ』


 そのシノさんの聲が、本当の奴の聲の切っ掛けだったんだ。
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